安重根とハングル

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ちょいと別件で安重根について調べていましたら、8月8日のエントリーで疑問を呈した、安重根がハングルを書いた事があるかどうかについて裏付けが取れましたので、ご報告を。


問題の書


もう一度整理しておくと、陸軍少将明石元二郎から統監府総務長官の石塚英蔵に宛てられた1909年(明治42年)11月16日付『発第5号』より。


別紙は本日電報せしが、為念及御送付候也。


○ 別紙(書翰 日訳文)

(犯行前に、安重根から浦鹽大東共報社の李剛に宛てたものを、劉東夏が送附前に押収されたもの。今回は省略)


○ 別紙

丈夫處世兮 其志大矣
時造英雄兮 英雄造時
雄視天下兮 何日成業
東風漸寒兮 壮士義熱
念慨一却兮 必成目的
巤竊伊藤兮 豈肯比命
豈度至此兮 事勢固然
同胞同胞兮 速成大業
萬歳萬歳兮 大韓獨立
萬歳萬々歳 大韓同胞



そして、冒頭の画像のように「伊藤」の部分が「○○」になっている話は、1909年(明治42年)11月15日付『情報第3 安応七供述要旨』より。


(前略)

又歌及李剛宛の手紙は(昨日の情報)自分の認めたるものに相違なし。
歌の文句中○○は、伊藤を意味するものなり。
李剛は、大東共報の雑報掛なり。
歌の方は、自分が携帯せり。
手紙の方は、自分が意思を明かにするため、新聞に掲載せしむる積りにて(應七は前李桂と云へり。而して、通常人呼んで李書房と云ふと云へり)李剛宛となしたるなり。

(後略)



さて、次からが今回の本題。
1909年(明治42年)11月16日付『情報第4 禹連俊供述要旨』より。


(前略)

自分と安とは、椅子に腰を掛けて差し向ひになりて、手紙及歌を書きたり。
其の時曹は、少し離れて下に坐し橫に為り居たり。
安は、李剛に宛てたる手紙を先きに書きたり。
自分は漢文を分らざる故、安は其の意味を小声にて曹に聞こえぬ様に自分に聞かせ、印を押せと云ひたるゆへ、自分の印を出して押したり。
其の印は、今回押収せられたる印なり。
安は又歌を書き、朝鮮諺文の飜訳の方を自分に見せたり。
自分にも何か書けと云ひたるに付、自分も歌(情報第3)を書き、其2、3行を書き余まし居る頃、柳東夏が帰り来りたるに依り、急ぎて認め無封の儘懐中せり。



まず、禹連俊の歌が前述の情報第3とされているが、どこを指しているのか分からない。
しかし、本人が漢文が分からないと言っており、この供述要旨に禹連俊の歌自体が別途添付されているため、今回の漢詩及び韓字翻訳には関係無い。

また、以前記したとおり冒頭の漢詩は『安応七歴史』にも残されている。

【1画像目】 【2画像目】


という事で、恐らく冒頭の画像は押収品と推察され、もしそうであるならば安重根の真筆という事になろう。
尤も、真筆かどうかの判断には、当該文書のより大きな画像が必要である。
いづれにしても、冒頭の書のように安重根はハングルも記載していたのである。


巷間、安重根が両班の家系であったこと等を理由に、安重根がハングルを書いた事が無いとする話は、どうやら訂正が必要なようである。


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調書に見る安重根(十二)

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昨日、史料は最後と書いた。
では今日は何を書くか。
連載もかなり長くなり、また調書を引用しながらであったため、内容が飛びまくって、安重根の生い立ちとしての流れが見えずらかったように思う。
そこで、今までの内容を纏めて記載しておこうと思ったのである。
言わば、『日編・安応七歴史』である。(笑)
あくまで日本側の調査を纏めただけなので、その辺よろしく。
では。


1879年9月2日、李氏朝鮮黄海道海州府首陽山下に一人の男子が生まれた。
姓は安、名は重根、字子任。
二人の弟が居り、それぞれ定根、恭根と言った。
この他に姉が居たようであるが、その名前は伝わっていない。

祖父名は仁寿。
鎭海郡守となった事があるという。
黄海道海州において米穀商を営んで資産を造り、性質は貪欲で、常に奸計を廻らして他人の財貨を手中に収めようとした事から、安億乏(億乏は無理又は無法の意)の異名をとっていた。

父は安泰勳。
20余年前に京城に行き、判書(大臣)金鍾煥の家人となり、科挙に応試し、登第して進士の称号を得、更に名誉鎭海郡守に任ぜられて、そこから安鎭海と呼ばれるようになったそうである。

その後一家は、1884年頃に住居を黄海道信川郡昇邏面清溪洞に移す。
安泰勳がローマカトリック教徒となったのは、これに前後する頃であるらしい。
また、同時期安重根は、自宅に招かれた漢学教師から勉強を習っていたという。
但し、四書五経すら読了せずに、通鑑を9巻迄修読したに過ぎなかったそうである。
始めから物事に飽き易く、一定した方針を持った男ではなかった。

1894年頃、安重根はフランス人宣教師洪神父(韓名洪錫九、本名「ウイル、ヘルム」)より洗礼を受け、「多默」という洗礼名を受けた。
この頃から安は勉強をしなくなり、信川は山国であったため、山間を駆け回り銃も扱うようになった。
射撃術は得意であったと言う。
そんな1895年、父安泰勳は、当時各郡に蜂起した東学党鎮撫の名称の下に部下数千名を招集し、信川義旅長と称して暴動を起こした。
これは、東学党(暗殺事件当時の天道及侍天教であり、一進会員の殆んど全部は此教徒に属する)が勢力を振い、カトリックの勢力が日々衰頽していくのを憂慮したためであったと言われている。
当時の黄海道は、韓国全道に於けるローマカトリック教の根拠地であり、同道における宗教的勢力の衰退は、直ちに他道の勢力に影響を及ぼすと考えられていたのである。
そこで、洪神父の後援も得て暴動を起こし、従わない者及び東学党員を妄りに殺害し、或いは金穀を奪い、或いは信川郡守を放逐して暴戻を極め、被害惨状は列挙するまでもない有様であった。

大院君はこの討伐を海州観察使閔泳喆に命じ、閔泳喆は査覈使李応翼と共に之を逮捕しようとしたが、却って泰勳の勢力に圧倒されて逮捕する事が出来なかった。
暴動が収まった後、ようやく逮捕に成功したものの、官憲はフランス宣教師の干渉や信徒の反抗を恐れて、厳罰に処する事が出来ず、少しの間牢獄に収監し、僅かに笞刑に処して放還せざるを得なかったという。
この際、安泰勳は20余日程度捕らえられていたようである。

1904年春、安重根は黄海道載寧で清国人と争いの末、携帯していた短銃で清国人を射殺。
清国領事と大韓帝国外部が交渉するような重大事件となり、安重根は上海に逃亡。
父泰勳は、安が上海に逃亡している間に時の外部大臣李夏栄に哀願し、ようやく事なきを得た。

1905年、安一家は平安南道三和郡鎭南浦億両機に引っ越す。
間もなく平安南道三和郡鎭南浦龍井洞三十六統五戸へ転居し、自宅に三高英学校を設立。
そんな引っ越しに、育英事業にと慌ただしい中、父親安泰勳が飲酒による病気にて死亡してしまう。
重根は上海に逃亡していたため、死に目には会えなかった。
彼自身酒豪であったが、父が飲酒によって死亡したため、禁酒を決意したのであった。

翌年頃から重根は、平壌や京城にちょくちょく出かけるようになった。
鄭大鎬と仲良くなったり、西北学会の会員となったり、安昌浩と共に排日演説を為したり、保安会という儒生らの創設した反日団体の首領に会い、その保安会の主義方針に文句を付け摘み出されたり、妻の兄金能権と合同米商を始めるて直ぐに罷めたり、韓相鎬と共同開業するもこれまた直ぐに罷めたりしたのは、この頃であったと思われる。

1907年春頃、重根は平壌に行き、韓在鎬・宋秉雲と共に平壌無烟炭売買業を始めた。
この会社を「三合義」という。
出資者は韓在鎬が1,000円、重根も少々出したが、宋は警戒して金を出さなかった。
重根は大いに腹を立て、抜刀し威喝して2,000円の違約金を徴収しようと手形迄認めさせたが、他に仲裁する者おり、ようやく事なきを得た。
宋は、今尚彼の乱暴を憎んでいるという。
このようにしてようやく「三合義」を開業したが、商売経験が無かったため結局7月頃には失敗。
重根はこの後軍部の経理局長李康夏方へ行き、商業に失敗して面白くないためウラジオストックへ向かうと述べたとされている。
弟定根も、重根が「三合義」の発起人であったため組合の人々に対し面目が無くなり、平壌を引上げたと思っていたようである。

ウラジオストック方面へ赴く途中、重根は元山に立ち寄って洪神父の処に一時寄食し、金東億という者と同行することになった。
この時重根は、洪神父から北間島の白神父への書信を受け取り、北間島へと向かう。
北間島では龍井村を根拠地とし、この頃から安応七の変名を用いるようになったようである。
その後10月には、定根に向けてウラジオ到着の手紙を出している。
重根は、浦塩・烟秋・水青を徘徊するようになっていた。

1908年7月、重根は崔都憲の部下として図們江附近での戦闘に参加。
しかし敗走。
この年の12月か1909年1月に薬指を切断し、12人の仲間と所謂弾指同盟を結成した。
同時期、崔都憲と争論となり、その他の事情もあって袂を分かち、李範允の部下となっている。

1909年2月に、阿片禁止と会員互助を目的とする組織、一心会の会員となる。
同時期、弟定根に向けて手紙を出した。
内容は、元山津田口商会内朴応相に宛てて返信すれば、自分に届くというものであった。
4月、金文奎には「自分は欧州を見物しているが、これからローマへ行こうと思う」と、安定根には「自分は元から外国に住むつもりなので、金1,000円ばかりを作って家族と共に来い。若し金策が出来なけれれば、妻子のみ送れ。」との手紙を出している。

そして10月26日。
伊藤博文(69歳)をハルピン駅にて射殺。

1910年3月26日に旅順監獄で死刑が執行され、安重根はその人生に幕を下ろしたのであった。


以上、今回の連載の総まとめ『日編 安応七歴史』(dreamtale監修)をお送り致しました。(笑)
伊藤暗殺事件の詳細な状況については、また気が向いたらということで。
では。


(調書に見る安重根・了)


安重根(一)
安重根(二)
安重根(三)
安重根(四)
安重根(五)
安重根(六)
安重根(七)
安重根(八)
安重根(九)
安重根(十)
断指同盟
調書に見る安重根(一)
調書に見る安重根(二)
調書に見る安重根(三)
調書に見る安重根(四)
調書に見る安重根(五)
調書に見る安重根(六)
調書に見る安重根(七)
調書に見る安重根(八)
調書に見る安重根(九)
調書に見る安重根(十)
調書に見る安重根(十一)


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調書に見る安重根(十一)

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今日取り上げる史料が、安重根の経歴関連の史料としては最後となる。
勿論、これまでに取り上げた史料以外にも、安の生い立ち等を記している史料はあるのだが、殆どがこれまでに紹介した史料と重複していたり、ごく短い記述であることから割愛したい。

ということで、最後の史料、『極秘 兇行者及嫌疑者調査書』である。


兇変発生当日、即ち10月26日より11月7日に至る13日間の調査事項は、「兇行者及嫌疑者調査書」と題し、既に其顛末を蒐録せりと雖も、事匆卒に出で、各事実に亘り多少疎漏の点あるを免れず。
以て、以下之を併補し、備せて11月27日迄の調査経過を記述せんとす。



ここで言う、10月26日より11月7日迄の「兇行者及嫌疑者調査書」については、残念ながら探し出すことが出来なかった。
しかしながら、これまで取り上げてきた各史料と、ほとんど変わる事は無いであろう事から、このまま話を進める。


第一 兇漢安重根

一.性行

重根は、明治37年春、黄海道載寧に於て清国人と争闘の末、其携帯せる短銃を以て清国人を射殺したるより、清国領事より外部と交渉する処となり、事件重大とならんとせしより、重根は上海に逃走し、父泰勳は其間に於て時の外部大臣李夏栄に哀願し、漸く事なきを得たりと。
重根の11月14日供述中「5、6年前上海芝罘に渡航したり」とあるは、思ふに此行を指すものなるべきか。

又重根は、5年前即ち西北学会設立当時、同会に加盟し、其浦汐渡航前、安昌鎬等と排日演説を為したること数回ありと云ふ。



前段の話は、8月9日のエントリーで指摘済み。
「安応七歴史」においては、父親と韓国の行く末を案じた話し合いから出立したことになっている。
後段の話は、安定根の供述にもあった話である。
その為、安昌洪を安昌鎬のまま記載されているのだろう。


一.父母兄弟

父泰勳が、明治28年信川義旅長と称して暴動を企たるは、東学党(現今の天道及侍天教にして、現一進会員の殆んど全部は此教徒に属す)が勢力を振ひ、自己の主宰する羅馬加特力教の勢力、日に衰頽に傾くを憂ひ、信徒を引率して暴動を起したるものなり。

盖し当時の黄海道は、韓国全道に於ける羅馬加特力教の根拠地にして、同道教勢の衰退は、直に他道の教勢に影響を及ぼすものありしより、仏国人宣教師洪神父(韓名洪錫九、本名「ウイル、ヘルム」今尚ほ信川郡清溪洞に住し、布教に従事せり)の後援を得て暴動したるものにして、其従はざる者及東学党員を妄りに殺害し、或は金穀を強募し、或は信川郡守を放逐して暴戻を極め、被害惨状挙げて云ふべからざるものあり。



まずは、洪神父こと「ウイルヘルム」のスペルが分かったので、とりあえず書いておこう。
洪錫九(ホンソーク)ことJ.Wilhelmである。
アジア歴史資料センター『2.雑報/3 明治四十二年九月末現在 在韓国欧米各国人々名表(レファレンスコード:B03041514900)』の【29画像目】より)

さて、本文に関してだが、8月6日のエントリーのキリスト教の布教の様子を見る限り、この様な状態もあり得ないわけではない。

しかし、内容については8月9日のエントリーでも述べたとおり、安一族側と官側とでは、同様の事象であっても書き方は違うだろう。
これも、「歴史認識の違い」の一種だろうか。(笑)


査覈使として派遣せられたる李応翼は、之を捕縛せんとし、却て泰勳の勢力に圧倒せられ、其措置を為す能はず。

暴動沈静の後就捕せしも、官憲は仏国宣教師の干渉及信徒の反抗を虞れて、能く厳罰するを得ず。
暫時牢獄に投じ、僅に笞に処し、放還したりと云ふ。



んー、討伐のために派遣されたのは、8月9日のエントリーでは観察使閔泳喆だったな・・・。
どちらかが間違いなのか、或いは両方派遣されたのか。

また、「暴動沈静の後就捕せしも」以下の部分は、8月12日のエントリー中、安定根の証言「20余日捕はれたる事」の事だと思われる。


泰勳は宣教師として民望を収め、殆んど一郡を支配し、人民間の訴訟の如きも之を裁判し、郡守は全く虚位を充たすに過ぎざりしが、一度暴動を起し、多数民を殺害したるより信川に居るも快からざるものありしより、止むなく5年前、一家を挙げて平安南道億両機(鎭南浦)に移り、独力三高英学校を起して育英事業に従事せしが、翌年病を得て死し、学校は五星学校と改称し、遂に今より5、6ケ月前廃校せり。


8月9日のエントリーの「妻子を携へ漂然家を出て上海に至らんとし、途次平安道三和郡鎭南浦に出づ。」だと、一家移住の理由としては少しおかしい気がしていたが、この話であっても暴動を起こしてから10年近く経ってから都合が悪くて移住した事となり、それもまたおかしいよなぁ・・・。
時期的には、安重根が清国人を殺害した頃であり、その事で都合が悪くなったとするのが一番しっくり来るのだが。

三高英学校については、日本側の調査においては、全て父の安泰勳が設立したことになっているようである。
安の自伝「安応七歴史」では、三興学校及び敦義学校を父親の死後に建てた事になっているが・・・。


重根も当時其学校にありて勉学し、末弟恭根は実に該校出身にして、京城に出て師範学校速成科の業を卒へ、鎭南浦公立普通学校の教師に任ぜられたるものとす。(前調査書に、初め公立普通学校に在り、後五星学校教師となりし如くせしを訂正す)


昨日の報告書によれば、安重根は自宅に漢学教師を招いて勉強して以降、修学したことが無いという本人の言があり、年齢的にも彼が三高英学校で勉学したとは考えづらい。


泰勳は20余年前京城に出て、判書(大臣)金鍾煥の家人となり、科挙に応試し、登第して進士の称号を得、更に名誉鎭海郡守に任ぜられ、之より一名を安鎭海と称するに至りたるものなり。


安重根の父、安泰勳とされる写真


鎭海郡守の話は、安定根の供述によれば祖父の話だったはずだが、父親の泰勳もそうであったのだろうか。
もし父親がそうであれば、連載初回において、「安鎭海」の名が出てくる事と合致する。

ちなみに『安応七歴史』によれば、弟定根の供述同様に、祖父仁寿が鎮海県監であったとしており、父親に関しては官職の記載は無い。

そもそも先日ハエが海を覆ったとニュースになった鎭海って、安一族の住んでいた黄海道海州とは、遠く離れているんだがなぁ。
郡守って、任地に赴任しなくても良いのだろうか?
眉に唾つけておいた方が良いのかもしれない。

歴代鎭海郡守一覧のようなものがあれば、非常に明確なんだけどなぁ。(笑)


重根の幼時其家豊なりしは、祖父が黄海道海州に於て米穀商を営み資産を造りたる為にして、性貪慾飽くを知らず、常に奸計を回らして他人の財貨を手中に収めんとせしより、時人安億乏(億乏は無理又は無法の意)と異名せりと云ふ。
由是観之父泰勳が、早くより仏国人と交際し、重根は其間に生長して文明的思想を養成し、其父祖伝来の凶悪と相竢って今次の兇行を為すに至りたるものと云ふべきか。



安定根の供述中「祖父の時代より両班にあらざる」は、良く読めば信川に転居してからなのですね。
黄海道海州で米穀商を営んだという事は、それ以前の話か。


其一族は現に黄海道海州及信川に居住し、又重根の妻の兄金能権は、現に鎭南浦に居住して商業を営み、傍ら私立学校を経営し、中弟定根の妻の兄李承祚は信川郡清溪洞に住居し、村内の有力者たり。
然れども調査するに、此一族及妻家は重根との数年来通信なきものの如し。


(以下、「第二 共犯者」、「第三 調査の経過」、「第四 断定」、「第五 在外韓字新紙の傾向」と続くが、生い立ちとは関係ない為、省略)



昨日関係ないという事で省略した1909年(明治42年)11月18日付、『機密統発第1982号』の別紙『日記親第97号』の付属書一『平安南道警察部長報告』に、この私立学校の話が載っていた・・・。_| ̄|○


一.安重根の妻の実家は載寧郡西湖面明惠村にして、其実弟金能権(27年)は、目下管三和府元塘面龍井洞五星学校主任となり、兼て客主業を営み居れり。

(以下省略)



ということで、「傍ら私立学校を経営」というのは、五星学校のことであろう。
但し、五星学校については数回出ている通り、4、5月前に廃校となっているようである。


今日はこれまで。
次回最終回。


調書に見る安重根(一)
調書に見る安重根(二)
調書に見る安重根(三)
調書に見る安重根(四)
調書に見る安重根(五)
調書に見る安重根(六)
調書に見る安重根(七)
調書に見る安重根(八)
調書に見る安重根(九)
調書に見る安重根(十)


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調書に見る安重根(十)

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えーっと、どこまで行ったっけ?(笑)
そうそう、母親にも見捨てられてる所までだ。
今日は、境喜明警視の1909年(明治43年・隆熙3年)11月5日付『復命書』の最後を飾る、金文奎の供述より。
基本的にあまり安重根の生い立ちと関係ないので、スパスパいきます。


九.金文奎の口供
一.予は金文奎と申し、仁川華島の産にして当23歳なり。
税関主事に勤め居れり。
御尋ねに対しては正確に答へん。

二.鄭大鎬とは、7、8年以前より共に当税関に奉職したるより、親近となりたる所以なり。

三.鄭は私々の先輩として交際したり。
彼は当時判任二等にて55円の収入あり。
官舍に住ひたる人にして、酒を好むも、女色博奕はなさず。
又鄭の懇意とする安重根を知れり。
其の然る所以は、友人の友人たる上に、天主教徒と宗旨を同じくする関係より知合となれり。



む。
女好きではなかったのか。>鄭大鎬(笑)
まぁ、ねえちゃんと一緒に、陽気に酒を飲みたいタイプくらいにしておいてやろう。


四.鄭大鎬が綏芬河の税関にて安重根と邂逅し、吾の許へ手紙を寄せたるは、本年4月3日なりき。
其の文通の内容は、自分は欧州を見物したるが、是より羅馬に往かんとす。
聞けば令閨を失ひたる由。
気の毒の至りなりと記せり。



欧州見物で、これからローマに行く???
虚言癖なのか、見栄っ張りなのか、実は本当に行っていたのか。
本当に行ってたら、独立運動どころじゃねーよな・・・。


五.鄭大鎬が綏芬河の税関に雇はれたる次第は、元当海関に居りたる、此地にて知合になる洋人「ビリマフ」及日本人綱島某が同地に奉職せるより、其の手蔓を求めて同地に就任するに至りたるなり。

六.50円宛2度、100円1度、計200円、鄭大鎬より家族に渡し様、送金の取次方頼み来たりたる事ありやとの御尋ねなるが、夫れは事実なり。

七.鄭大鎬の許には婦女子計りにて、責任を以て為替を取扱ふこと能はず。
又鄭方には、親戚の者にて鄭致雨(鄭瑞雨)と云ふ者ありたるも、如此手数に慣れざる故、自分に依頼し来れるなり。

八.天主教の教義として、仮令他人に殺されるも、自ら他人を殺すことは禁ずる所なり。
同時に今度の事件は本人の性格に反す故に、今回の兇行を聞き、同人が腹中に箇様な可畏の害心を抱き居れりとは、想像する能はず。
且つ斯る行為を予知せば、妻子を呼び寄せたるは不可思議にして、解する能はざる処なり。



確かに、武力行使に訴えたカトリック系の独立運動家は、安重根を除いて見あたらない。
李承晩にしても安昌浩にしても、著名な独立運動家はプロテスタント系である。


九.安重根の性格として余の見る所にては、同人は彼此と手を出し、何物も成就し能はず。
物事に飽き易き性質なるに、今回の如き事件を成し遂げたるは、合点が行かず。



これ、8月16日のエントリーで、実弟の安定根が供述した内容とほぼ同じだね。
相当飽きっぽかったのだろう。
「東洋平和論」が未完だったのは、飽きたから・・・ではないよなぁ・・・。(笑)


十.国家百年の長計を慮らず一個人の偏見を遂げたるは、国家のため不利益の次第なり。
仮りに伊藤公を殺害して利益あるなれば、皆同人を賞讃せんも、伊藤公を殺害せば、国家の前途に厄災の橫へり来るを誰も分り得べきことなるに、之を顧り見ずして斯る事件を惹起したるは、其の狂寓測り知るべからず。
痛嘆に堪へざる感を抱くは、独吾1人のみに止まざるべし。



当たり前の話。
尤も、現代韓国人の方が退化したのか、理解出来ない者も多い。


十一.鄭致雨は一人前の男にあらず。
極めて小男なり。
人并の学問あれば、親戚たる大鎬の厄介者として寄食し居る訳もなき筈なり。



現代韓国人も何故か身長を非常に気にするわけだが、背が小さいからといって、さすがに一人前の男扱いされないことはあるまい。

さて、やっとこれで境喜明警視の1909年(明治43年・隆熙3年)11月5日付の『復命書』は終了。
長かったねぇ。(笑)
まぁ、得るところも多かったわけだけれど。


それでは次の史料。
『平安南道警察部長報告』。
これは、1909年(明治42年)11月18日付、『機密統発第1982号』の別紙『日記親第97号』の付属書一として添付されているものである。
『機密統発第1982号』も『日記親第97号』も、ほぼ送付状なので、中身は省略。


兇行者安重根に対し、鎭南浦警察署に於て取調べたる事項、左の如し。

一.安重根ノ経歴
同人は本は慶尚北道順興にして、海州郡邑内東門外に生れ、23、4年前信川郡昇邏面清溪洞に一家移住。
4年前、再び当鎭南浦億両機に移転後、間もなく現住鎭南浦龍井洞に移り、其後は自宅に三高英学校を起し、元当税関幇弁、現今京城住(居所不明)呉日換を教師に聘し、後現五星学校の建物を校舍としたるも、5、6ケ月にして廃校す。

一.安重根は、信川在住中漢学教師を自宅に聘し習学。
15、6歳に至り、其後更に修学せしことなしと云ふ。
同人は当地には約1年間在住し、平壌に往復して石炭商を営みしも失敗し、其後独り京城に至りし以来、約3年間全く音信なく、行衛不明なりしに、本年2月弟安恭根に対し書信ありて、元山津田口商会内朴応相に宛て返信ありたき旨記載あり。
当時自己の住所は明記しあらざりしも、弟恭根の語る処に依れば、重根は浦鹽にありて、書信は浦鹽元山間航海汽船俊昌号に托し、朴より伝達する手筈をなし居りしものには無之哉と察する旨語れり。

重根の一家は皆天主教徒にして、重根は今より15、6年前、黄海道信川郡に在住せる際、同徒の洗礼を受け、宣教師より多默と命ぜられたる趣なり。

一.(鄭大鎬の話につき省略)

一.安重根は、現今其行動を明にする能はざるも、信川郡居住中は大酒家なりしが、父親飲酒の結果病を起し、死亡後は禁酒し、又同人は極めて(グズ)の質にて決断力に乏しかりし趣なり。
然れども、本人は常に諸方を徘徊し、一定の職を有せず、都会を見物せんとて常に出歩きしものにして、3年間は全く如何なる土地に、如何なる事をなし居りしやは不明なり。

一.本人の家族及兄弟は左記の通り。
当鎭南浦龍井洞に在留の者は、実母趙召史48年、重根の長女8年、及弟安恭根21年、黄海道信川郡昇邏面清溪洞重根の叔父安泰賢50年、同安泰健40年、同安泰政40年位の3人在留し、農業を為せり。

(以下、安重根の妻が清国領へ行く話、及び安重根に友人が居ないという話のため省略)



ほぼ既出の内容である。
三高英学校の教師、呉日換の話と、一家の年齢くらいが目新しい所だろうか。


次ぎの史料は、久しぶりにアジア歴史資料センターから『韓国駐箚軍 図們江対岸の賊情に関する件(レファレンスコード:C03022993300)』。
【7画像目】 【8画像目】 【9画像目】


(前略)

4.安応七(当年31才何ヶ月)は平壌出身のものにして、昨年6月頃北韓に暴徒蜂起したる際に於ては、新阿山附近に侵入したるものの一部の指揮官として、我軍に害を及ぼしたることあり。
而て彼は其後「ノウキスコヱ」にありて、浦汐韓語新聞の伝達方を職業として生活し居りたりしが、性質温順にして常に人に愛せられたりと云う。



おお、初めて少し詳しい図們江侵入時の戦闘の事が。
しかも、性質温順にして常に人に愛されている、と。


5.同人は昨年夏頃、金35留にて拳銃を購入し、伊藤統監、曾祢副統監、長谷川軍司令官を暗殺する目的を以て拳銃射撃を研究しありしが、其初めは命中不確実なりしも、本年に至り大に熟達しありと云ふ。


性質温順な人が、殺る気満々じゃん。(笑)
猟銃とはやはり勝手が違うのか、それとも元から上手くは無かったのか、必死に練習してますな・・・。

ちなみに「留」というのは、勿論「ルーブル」の事である。


6.同人は、10月22日「ノウキスコヱ」より浦汐を経て、哈尓賓に向て出発したりと云ふ。
而て彼は出発に際し旅金に困し、2、3の紳士に相談し、寄附集金を得たり。
尚、此際崔都憲は彼に金5留を寄贈せしに、彼は大に立腹し、出発に際し崔都憲に対し罵詈悪口したりと云ふ。
尚、同人は未だ露国に帰化しあらざりしと云ふ。



性質温順な人が、5ルーブルを貰ったのに、激怒して罵詈悪口。
うーん。
ちなみに、安重根はこれが切っ掛けで崔都憲と袂を分かち、その後李範允の部下となるのである。

というかアジ歴って、油断してると次々に新しい史料が上がってるのよね・・・。トホホ


とりあえず、今日はこれまで。


調書に見る安重根(一)
調書に見る安重根(二)
調書に見る安重根(三)
調書に見る安重根(四)
調書に見る安重根(五)
調書に見る安重根(六)
調書に見る安重根(七)
調書に見る安重根(八)
調書に見る安重根(九)


調書に見る安重根(九)

テーマ:

あまりに安定根の証言が長いので、最早何かを見失いそうなdreamtaleです。(笑)
それでも実弟の証言というのは、安の人生や性格を追う上では、かなり重要だと思うのですよね。
などと言い訳しつつ、前回の続きから。(笑)


二五.前統監伊藤公爵が、「ハルビン」にて兇徒の為め狙撃せられたるを知れりやとの問なるが、其事実は知れり。
去月30日、信川にて知人の愛読せる26、7日頃の大韓毎日申報に、加害者は「ウンチアン」なりと記しありたり。
然るに、加害者「ウンチアン」は実兄重根のことにて、伊藤公を狙撃したりとは只今承知したるが、実に驚き入る次第なり。

鄭大鎬が、兄の妻を連れ往くとき予に語るに、汝の兄も欧州まで飛廻はり、腰が据らず、一向身持が定まらざるが、今度妻子を送りなば身持も直るべしと。
又た母も、夫婦は兄弟とは違ひ若内に長く分れ居るは不可なれば、向ふから呼べば幸に此際行くが可なりと勧め、嫁も始終心配し居りたる故、一刻も早く往く可く決心し、予も亦斯る兇行を企て居ることとは夢にも想像し能はざるより、往くことを勧めたる訳なり。
実に案外なる話を承り恐入るが、手紙も前に申す如く両3回接手したし、ご覧の如く、其内容も周囲の状況のみを通信し来り。

彼自身の身辺のことは、一向不明なる故、兼て之を心配し居りたる故、鄭大鎬の今回来るを幸ひとして、兄の近状を詳しく聞きたるに、実を言へば不相変素行修まらず、昨冬以来浦塩方面にて一進会員又は日本人に向け、始終戦争をして廻って居る故、彼の儘にして放置するときは、今に生命をも亡ぼすならん。
早く心を改めざるべからず。
如何にしても身持が改まらざる故、妻子を遣るが可なりとのことにて、実は鄭大鎬が勧誘したりと聞きたり。
是予の常に憂慮し居りたる処なり。

乍然、豈夫伊藤公暗殺を予想したるにあらず。
暴徒に関することを案じたるなり。
鄭大鎬も之を憂ひ、予も其気に成り、遂に妻子を遣はしたり。

兄が浦塩に居る中は、同地新聞の事務員、又た学校の教師を為し居りたりとのことなるも、一定の収入ある仕事にはあらずと鄭大鎬は語れり。
伊藤公殺害云々の事は、鄭大鎬も口にしたることなし。

信川は山国故、兄は15歳位のときより山間を馳駆し、銃を取扱ひ、洋銃も射撃に巧みなり。

兄は5尺4寸位にして、頑大なる骨柄なり。
決死の覚悟を為すことなれば、我等に何等か通知あるべしとの事なるも、斯る事は絶てなし。
若し之を予に知らせんが、妻子も始めより送る筈なし。
今に至り、始めて兇行を知る。
安の家系も、茲に滅亡するならんことを思へば、悲みに禁へざるなり。

今日迄の生活費は、金能権、即ち重根の妻の兄と共同して買ひたる水田の収穫を基礎とし、尚恭根の月給毎月20円あり。
予の学費は、恭根の月給より幾分、妻の里より幾分を合せて支へ居れり。
這回の家族の出発旅費は、当地の林君甫より恭根の名にて50円を、重根の妻の弟金能権より50円借入り計80円となるも、他に能権より20円、餞別として贈与せられたるを以て、都合100円を鄭大鎬に渡し、浦塩まで同行を依頼したる次第にて、1人の旅費30円の入費を要するに付、途中の雑用又は発病の用意等を見込み、以上の金額を用意したる訳なり云々。



「ウンチアン」とは、事件当初「応七安」と姓と名が逆転したまま伝わった事に起因している。
「欧州まで飛廻はり」は、ロシアの極東地域の事だろう。
地理的な意味での「欧州」に、安重根が赴いた史料は存在しない。

しかし、「安の家系も、茲に滅亡するならん」って・・・。
李朝時代と違って、連座制ではないだろうに。

旅費に関して、50円と50円で何故計80円なのかは、誤記なのか定根が間違えているのかは不明である。


二六.重根は、党類を30人も集め居るとの噂故、多数向ふに渉りたることを知らず哉との御尋なるが、金東億なる者と安重根と、2人元山地方へ赴きたることは、元山の白神父より洪神父へ通知ありたりとの事を承知せり。

二七.今は隠す所なし。
重根が書面には、啓東学校前李致権内安応七宛にて、手紙を元山田口会社気付朴応相を経由せば、自分の許へ必ず到着すとの手紙来ることあり。
其の手紙は如何にせんや記憶せず。

二八.又「小指」とは、幼年の折普通より小柄なりし故斯く呼びしが、「応七」は彼地にての呼名なり。
又「子任」とは、父が命じたる字なり。
重根は実の名にして、「多默」とは、信川に居る洪神父の命名したるものなり。



んー、昨日の最後に出てきた、字に関する件の駄目押しですなぁ。
「重根」、「応七」、「多默」、「子任」、そして「小指」。

胸腹部の黒子の話は、やっぱり嘘なのだろうか?


さて、以上で次男定根の供述は、やっとこさお終い。
しかし、これで境喜明警視の1909年(明治43年・隆熙3年)11月5日付の『復命書』が終わりなわけではない。
続いて、三男恭根の供述である。


七.安恭根の口供
一.予は安重根の末弟にして、安恭根21年。
鎭南浦普通学校の教師なり。
予等3人兄弟にして、長兄重根は久しく外国に在りしが、曾て来信中予は無事なるが、家族は皆達者なりや。
其の手紙には封皮なく、仲兄手紙の内に在りたる故、何処から発送したるかは不明なるを、前に浦塩港より来信ありたることあれば、之れも浦塩からの来信なるべしと想像したり。

二.隆熙3年10月28日の日誌に、長兄の事が心配でならんとの記事あり。
之れは、暴徒となりて一進会員又は日本人を殺して居る故、心配なる意味ならんとのことならんも、右にあらず。
外国にある故、盗賊等に遭ひたるならん。
暫く手紙もない故、心配なりとの意味なり。

三.崔鳳俊は城津に巨万の富を積み、俊昌号と云ふ船舶を有する人と懇意かとの御尋なるも、予は知らず。
唯新聞に広告ありて、元山浦塩間の航海することを知るのみにして、面識あるにあらず。
又韓人にて航海業をするは珍しと思ふ故、其の名を記憶し居りたり云々。



恭根の供述は、以上で終わり。
21歳という若さもあるのだろうが、どうも嘘臭さの漂う供述である。(笑)

それでは続いて母趙氏の供述に入ろう。


安重根の母とされる写真


八.母趙氏(48歳)口供
一.伊藤公を、去月26日「ハルビン」に於て長男重根が殺害したる事実は、余の知らざる所なり。
実際なれば、実に悪事を遂げたるものなり。

二.1人は学校の教師となり、1人は法律学校に在り。
皆好き児なるも、独り重根のみが悪人なるは如何なる訳か、幼少時代性質を述べよとの御尋なるも、重根とても他の子と異りたることなかりしも、家を出たるのが如斯悪人となりたる原因なり。

三.豆満江地方まで安応七と呼び、暴徒の大将として同人及一進会員を殺害したる者を知り居るやとの御尋なるも、之れは知らざるなり。

四.重根は幼名「応七」と呼びたることあるやとのことなるが、祖父が幼時「小指」(小さい奴と云ふ意味にして、重根は他の兄弟より小なりし為なり)と称へたることありし。



あー、母親から見捨てられてしまった・・・。
まぁ、次男が法律学校で勉強中、三男が学校教師である中で、長男が放蕩息子なのだから仕方ないのかなぁ。

この母親について、連載初回で触れるのを忘れていたが、「三弟恭根は、母趙召史、重根の妻及其長女と共に鎭南浦に現住」という事で、母親として趙召史という名前が見える。
併合前のこの時期、半島の女性の名前が出てくるというのは、ちょっと珍しいのではないだろうか。


(2005.8.19 召史は女性の尊称であったとのnanshu氏の指摘に基づき、調査の結果修正)


今日はこれまで。


調書に見る安重根(一)
調書に見る安重根(二)
調書に見る安重根(三)
調書に見る安重根(四)
調書に見る安重根(五)
調書に見る安重根(六)
調書に見る安重根(七)
調書に見る安重根(八)


調書に見る安重根(八)

テーマ:

良く、伊藤博文殺害犯が2004年の時空警察で日本の併合推進派だったとされたり、ロシア関係者或いは安重根と連携行動をとった別の韓国人であるという、所謂二重狙撃説がありますが、その重要な論拠となっている『室田義文翁譚』以外に、ハルピンで室田義文が伊藤に随行していたという史料自体見たことが無いdreamtaleです。
どなたか知っていたら教えてください。

ということで、前回に引き続き安定根の供述から。


十一.其後生活状態に付来信なく、昨年12月か今年2月か判明せざるも、大韓毎日新聞の林雖正と云ふものの許へ一度来信ありたり。
其手紙は、大韓毎日社にあることは予も知らざりしに、同郷人たる金瀅柱が汝に宛てたる手紙が来て居る故往て貰へと告げたる故、受け取りたり。
大韓毎日社へ来信後、本年4月一度来信ありたり。
内容は欧州より此方へ廻遊したりと云ふに過ぎず、方々を気狂の様に廻り歩いて居る故、俺の事は思はず勉強せよと記しありたるが如し。
約1ケ月前の来信が最後にて、此手紙には、自分は元より外国に住む積りなれば、金1,000円許りを作り家族と共に来れ。
若し金策出来ざれば妻子のみ送れよと申来れり。
之は、予と恭根とに宛てて来れり。
此の手紙は、綏芬河に重根が鄭大鎬を尋ねたるとき認めたるものらしく、鄭が当地に来るときには手紙は與へざりし。



いやー、昨日に続いてもの凄い勝手な兄貴だなぁ・・・。(笑)
普通は、自分が成功して呼び寄せるものだと思うのだが。


安重根の家族とされる写真


十二.其後、老母其他我々に家計困難ならずやを見舞にて、金品の送付なきかとの問なるも、其様の事なく単に書信による消息なりしのみなり。

十三.出発後に於ける妻子の生活は、来信なき故不明なるも、重根妻及4歳と2歳との男子と共に往きたるが、其外に鄭の母妻男児2人と同行したり。



8月13日のエントリーで既に書いたとおり、安重根の子供が4歳と2歳である事が、実弟の証言からも得られた。


十四.妻子等の生計は如何にするやとの問なるも、何等の話なし。
鄭に聞きたる消息には、浦港又は綏芬河に往くことは別段困難の事なき様なりし。
併し、当時鄭は一定の職業なかりし如し。

十五.予と鄭大鎬とは、義兄弟の契なしたるにあらずやとの問なるも、大鎬の云ふには、重根とは彼の地にて義兄弟となり、兄とか弟とか称し居る故、其関係より自然他人に向ふて余と鄭大鎬は義兄弟なりと云ひたるならん。

十六.鄭大鎬の生立は知らざるも、聞く処にては官立英語学校卒業生にて一定の素養あり。
当地には、税関幇弁として初め一家を挙げて来り居りたるが、京城に於ける模様は判明せず。



これらは、8月12日のエントリーで記載した、安重根の妻子をウラジオストックへ連れて行った鄭大鎬に関する証言である。
安の妻子の他、自らの妻子も連れていながら、妓生を買って遊楽に耽り到着が遅れる程の女好きではあったわけだが、放免後直ぐに税関に復職できるということは、官吏としては優秀な人物だったのであろう。


十七.吾家は父が天主教を崇信し始めたるは10年以前にして、之を引継ぎ、現に冠婚葬祭とも此の宗教の儀式によれり。


1890年代に、両班がキリスト教を信仰する例はなかなか珍しい気もするが、8月5日のエントリーを見る限りそうでもないのかも知れない。
先祖への祭祀(チェサ)はどうしていたのだろうと、要らぬ疑問も湧いたりする。


十八.兄は、仏語を習ひたることあるも未熟なり。
其他外国語として取り止めた勉強したとは思ひません。



フランス語は未熟で、他の外国語を勉強したとは思わない。
これは馬鹿にされているのだろうか・・・。


十九.鄭大鎬が妻子を置く鎭南浦は第二の故郷なる故、人情として先づ当地に来るべし。
平壌に滞留したるは奇怪なりとの御尋なるも、鄭は当地にて借財多き故、債主に窮追せらるべきを慮り来らざりしと語れり。
鄭は、到着後直に家族と共に出立する積りなりしも、旧借財や家族の生計費未払多かりし故、出発を2日間延引したりと語り居れり。

二○.鄭の平壌に於ける知人としては、予の知れる限りにては、当地に居れるとき平壌水商組合支所李承泰と懇意なることを知れり。
予も又李承泰を知り、其他鄭の懇意なる人を知らず。
兄は、前に云ふ如く「三合義」とて石炭商を始めたるときの関係者の外に知合なし。
兄は平壌には外に知人なきも、前に云ふ如く安昌鎬とは平壌にての知合にて、安昌鎬と共に演説したることあり。
好くは判然せざるも、浦塩港に渡航する年の春頃と思ふ。



ここでの安昌鎬は、安昌浩の誤記であると思われる。
安昌浩は、安昌鎬とも呼ばれていたようである。
本人がどちらの名称も使用していたのか、日本側の表記において錯誤したのかは不明である。
(2005.9.25 訂正)


二一.今回鄭と予と出会した動機は、一進会員との訴訟事件の為め平壌の玉弁護士方に滞在中、恭根の手紙に、鄭が近き内に平壌に来る筈に付、会っては如何にと通知し来れり。
予も恭根も、鄭が来るを知りたるは、鄭の家族より電報にて事実を聞きたるものなり。



この、一進会員との訴訟事件とは何を指すのか、残念ながら不明である。


二二.鄭は、17日来壌後、出発迄1週間朝鮮の地に居る訳です。
而して私は、19日初め会見のとき水商組合に尋ねたるに、今宿屋金允浩方に往きしとの事故、同所に行き、共に1泊したるに、京城の和平堂と曰ふ薬舖主人李應善も居れり。
何れも初対面なりしが、共に挨拶の後寝に就きたり。
20日も水商組合の人3、4人来りて、暎月と云ふ妓生方飲酒に赴きたり。
夜明に帰り宿屋に眠りたり。
21日は、正琦(妓生)宅に李承恭・李応善の外に他の韓人居りたるも、身分ある人にあらざる故、姓名を知らず。
22日は午後4時半頃、兄の妻子及鄭大鎬の家族着壌したるも、鄭の母老年に就き、停車場附近の宿屋に投宿せしめたり。
鄭大鎬は相当の旅費を懐中せるより、万一の賊難を慮り、水商組合に鄭致雨(従弟にて家族の送り来れるもの)と共に赴き、寝に就きたるなり。
23日午後4時30分の汽車にて、兄の家族及鄭の家族は新義州迄切符を買ひ、出発したり。
致雨は、新義州着のとき無人なれば、万事困るべしとて同行したり。
故に一行は9人なり。
致雨は28、9歳にして、同行して先方に赴きたるや、又は引返したるかは知らざるなり。

二三.重根の妻の兄の金■権は34年、妻の弟金能権は自分と同宿したり。
重根の妻は32歳にして、兄より1年年長なり。



姐さん女房だったのね。
というか、昨日の話だと娣2人弟2人だった筈なのだが、いつの間に兄さんが・・・?


二四.重根の幼名は応七かとの問ひなるが、能く分らざるも、家出後応七と呼びたる時代名は重根、字は子任と号したり。


以下、『安応七歴史』の冒頭より引用。 【画像】


姓は安、名は重根、字應七。(性質軽急に近く、故に名けて重根と曰ふ。胸腹七介の黒子あり。故に應七と字す。)


北斗の拳の七つの傷ならぬ、七つの黒子を理由に應七とされたと書いてるのですが、弟が言うには子任。
ま、弟はよく分からないとは言ってますがね。(笑)


今日はここまで。


調書に見る安重根(一)
調書に見る安重根(二)
調書に見る安重根(三)
調書に見る安重根(四)
調書に見る安重根(五)
調書に見る安重根(六)
調書に見る安重根(七)


調書に見る安重根(七)

テーマ:

ウリナラチラシは私を寝かせないつもりか!
ということで、まずはニュースから。


「あの蛮行は国権強奪前に行われた」 朝鮮人銃殺写真の関連資料を発見



今回のような真偽不明の週刊誌の記事に関する史料は、ちょっと探せなかった。
ということで軽いツッコミだけにして、記事の引用も省略。
しかし、この古書店「アートバンク」の尹亨源って、良く働くねぇ。(笑)

それではツッコミ第一点。
今更指摘するまでもないけれど、「学界にはこの写真が1919年3.1独立運動関連者の処刑場面だと伝えられていた。」とあるとおり、韓国の学会では、写真の出典も調べずに、妄想で場面を決めつけているということで良いですね?

第二点。
この時期の鉄道としては、京仁線・京釜線・京義線及び馬山三浪津間に代表される軍用鉄道が考えられますが、残念ながらこの当時の全羅南道の潭陽附近には、好奇心で近づけるような鉄路はありません。

第三点。
既に実践投入されている三十八年式小銃の殺傷能力など、1907年にテストする必要がありません。

そもそも1900年代初頭のマスメディアの、しかも週刊誌を鵜呑みにするなど、正気の沙汰とも思えないわけですが。
まぁ、記事を正確に引用しているとは限らないんですけどね。(笑)


さて、ようやく本題。
小休止したのは良いけれど、どこまでやったか忘れかけてますね・・・。(笑)
えーと、安定根の父親と祖父に関する供述まででした。
ということで、小休止前の8月12日のエントリーに引き続き、境喜明警視の1909年(明治43年・隆熙3年)11月5日付の『復命書』中、安重根の実弟である安定根の供述から。


二.父は泰勳、母は趙氏、重根・定根・恭根の3人兄弟なり。
外に姉1人ありて、鎭南浦の権承福に嫁し、目下同居せり。

三.重根の妻は金氏、其父は金鴻燮にして已に故人なり。
母あるも姓は不詳。
妻の兄弟は5人にして、娣2人弟2人現に載寧の明惠村に居住す。

四.重根は青年の時より外出を好む気質にて、24、5歳の頃上海に行きたることあり。
其動機は、上海は暮し好き趣なるに付、視察の為なりと称して渡航せり。
芝罘に行きたるは其後にて、普通の遊覧なりしが如し。
如此外出を好みたるが、其当時は相当の金ありし為め諸所に遊びたりと云ふ。



取りあえず弟の視点から見ると、兄はただ遊び回っていただけ、と。(笑)
勿論、上海等での安重根の行動を知っており、それを秘匿し庇っている可能性が無いわけではないが、次の項目を見ても、本当に呆れている可能性の方が高い。


五.教育は四書五経をも読了せず、通鑑を9巻迄修読したるに過ぎず。
始めより心多き方にて、一定したる方針を有したる男にあらず。



んー、ぼろくそに貶されてますなぁ・・・。

通鑑とは『資治通鑑』のことであろうか。
もしそうであるなら、漢紀の一番最初までしか読んでいない、と。

朝鮮においては、四書三経であって四書五経では無いと以前記載した。
抜けているのは『礼記』と『春秋』である。
四書五経を読んでいなくとも、四書三経は読みましたというならそれなりに評価できるだろうが、いずれにしても『安応七歴史』に書かれた、神童と呼ばれ、進士まで進んだ父泰勳には、遠く及ばなかったようである。


六.兄重根は今年31年なるが、5歳の時迄海州の邑内に同居し、信川に転居して25、6歳迄居り、其後鎭南浦に来れり。

七.兄の心は急激にして一定せず物に飽き易き性質にして、従って意思投合の人も少なく、予は兄と別懇の人を知らず。
兄は種々の事を企て、或は止め、妻の兄金能権と合同米商を為したるも幾もなくして止め、次に韓在鎬の弟相鎬(有力なる米穀商)とも共同開業せしも、亦幾もなく罷業せり。
仏国天主教牧師洪(仏人)とは、信川にて若き時より交際せるが、洪は今も尚信川に居れり。
京城に主人と称し、大官の許に出入したることなきやの問なる、多くは天主教徒の許へ無料にて宿泊したるのみ。
京城に至るときは、大官の許に出入する如きは、兄の性質として忌む所なり。



この性格って結構ウリナラスタンダードではないだろうか・・・。

金能権との合同米商も失敗、韓相鎬との共同開業も失敗。
少なくとも、商売のセンスは皆無だったようである。


八.重根と昵近なる鄭大鎬は京城の人にて、元は知らざりしものなるが、同人が鎭南浦海関の幇弁奉職中、雙方の家屋が接近するより心易くし、兄のみならず一族交際せり。
兄は英語を習はざりしも、自分は鄭より英語を習ひたり。
唯普通の友人と云ふに過ぎず、系統的の関係なし。

九.兄は西北学会に入りたるは、海外に出る1年前にて4年前と思ふ。
始めは会費も納めたるが、海外に出でてから会費も納めず、総務評議員等の任員を勤めたる事なし。
西北学会の重なる李甲・柳東説・安昌浩・李鍾浩等とは親近なるべしと御話なるも、予には分らず。
予の考には、安昌浩とは知合なるべきも、他の人とは談話を交へたることなかるべしと思ふ。
予は李甲には一度面会したるも、同人は兄重根を知らざる口吻なりし。
予も近しくはなきも、安昌浩は知れり。



「西北学会」については、史料未調査な状態なのだが、一般に1908年1月に、「西友学会」と「漢北興学会」が統合して成立したものとされているようだが、時期が全く合わんな・・・。
「西友学会」でも1906年10月。
「新民会」なら1907年か。
さて、1905年に、どこに対して会費を払ったのだろうか。


十.兄は前に云ふ如く性急にして、浦港に往く前、「三合義」と云ふ会社様のものを平壌に組織したり。
其人々は韓在鎬、平壌人宋秉雲の兄と3人にて平壌無烟炭売買業を始め、右3名の共同を意味し、斯く名づけたり。
出資者は、韓は1,000円、兄も少々出し、宋も出資することになりしも現金は出さず。
如此開業せしも、無経験の者故失敗に帰したり。
而して其発企人たるは兄なりし故、組合の人々に対し面目なきより平壌を引上げたりと思ふ。
其話は、予が京城に居る内、軍部の経理局長李康夏方に来り、自分に直接失敗の話をなし、其時商業には失敗し面白くなき故浦港に行くと話したり。
予は、家長たる兄が外出しては、老母1人故困ると制止し、雙方意見衝突し争ひたる上別れたるが、兄は其儘釜山・元山を経、浦港に往きたるが如し。
如此にして予と別れたるは一昨年7月にて、其年10月愈浦塩港に到着したる手紙、予の許に到着したり。
浦港に到着の手紙の中には、同地には同胞も増加し、新聞、学校等出来、追々は斯る事業に関係して見よふと記せるも、其生計方法は明記せず。
如此7月より10月迄も音信を欠きたる理由は、元山にて白神父の許に滞在したりと云ふより見れば、其間同人の許に放浪したるなるべし。



さて「三合義」。
8月11日のエントリーで触れた部分ですね。
ご覧の通り、弟の供述によれば、『安応七歴史』の記載のような「日本人の邪魔」など一言も出て来ない。

商売無経験で失敗。
組合の人に面目が立たないので平壌から逃亡。
失敗して面白くないのでウラジオストックへ行く、と。
何か、漫画に出てくるボンボンというか、どら息子というか、穀潰しのような人生にも見えるわけで・・・。

そりゃあ弟も怒るから!(笑)


今日はこれまで。


調書に見る安重根(一)
調書に見る安重根(二)
調書に見る安重根(三)
調書に見る安重根(四)
調書に見る安重根(五)
調書に見る安重根(六)


調書に見る安重根(六)

テーマ:

今日は迎え盆。
あんまりお客さんも来ないだろう&忙しくて長文読む気もしないだろうと勝手に推察。(笑)
現在、境喜明警視の1909年(明治43年・隆熙3年)11月5日付の『復命書』中、安重根の実弟である安定根の供述について掲載途中ですが、一回小休止しましょう。

しかし、全くお休みにするのも来ていただく読者の方に申し訳ないので、知っている方も多そうだけれど、意外と知らないお話しをば。
史料は、明石少将から石塚長官への1909年(明治42年)11月28日付『来電第40号』。


昨日境の訊問に対し、安の供述要領左の如し。

安は17、8歳の頃、信川に於て神父洪錫九より洗礼を受け、「トヲマス」と名付らる。
即ち多默なり。

金明濬は知れるも意見を交換したることなし。
断指同盟をなしたるは、本年1月頃なりし。
烟秋琿春間にある寒村の宿屋、金成方にての事にて、国家の為盡す決心を同志に示す為、自分一人切りたるのみ。
其時会したる11名の内姓名を記憶するは、朴昌錫・ケウギシユン・テイゲンチウにて何れも煙秋・水青・浦鹽方面を徘徊する憂国の士なり。



安重根の洗礼名は「トーマス」でした、と。
ウィキペディアの安重根の項目にも載っているので、知ってる人も多いかも知れない。

ということで、映画「多黙 安重根」は「トーマス 安重根」と同義。
尤も、韓国語で読むと「トマ アンジュングン」で、かなりトーマスに近いらしいが。

勿論、「コリア、ウラー」は基本。(笑)


2004年最悪の韓国映画に選ばれた「多黙 安重根」


しかし、死刑の数日後に9歳の子供を毒殺って・・・。

1909年(明治42年)11月7日付『憲機第2159号』によれば、安重根の長男安丕篤は事件当時4歳、次男の安瑪寶は事件当時2歳。
死刑の数日後であれば、いくら頑張っても5歳が上限ですなぁ。
って、ウリナラファンタジーに突っ込んでもしょうが無いけどね。(笑)


今日はこんな感じで。


調書に見る安重根(一)
調書に見る安重根(二)
調書に見る安重根(三)
調書に見る安重根(四)
調書に見る安重根(五)


調書に見る安重根(五)

テーマ:

今回も、前回に引き続き、境喜明警視の1909年(明治43年・隆熙3年)11月5日付の『復命書』を掲載していこう。


二.重根の妻子の連れ行きたる鄭大鎬
大鎬は、安定根・金文奎等の口供に在るが如く、目下吉林省綏芬河税関に奉職中の者なるが、伊藤公満州行の発表せられたる11月13、4日頃任地を発し、同17日平壌に来り自己の家族及重根の妻子を引連れ、23日同地出発。
安奉鉄道に依り浦塩方面に向ひたり。
而して同28日、長春局同人発、鎭南浦金文奎宛て、「ツイタ、イマタツ」との電報を発し居る等の事実より推考するに、大鎬は今回の兇行の内容を知り、重根の妻子を引纏むるの任務を帯びたるものの如し。
然れども、殺害の遂行せられたる26日の翌々日、即ち28日の打電は、或は彼が何等干知せざる体裁を装ふ為めの行為にあらざるかを疑う。

三.大鎬の友人李承泰外関係人
平壌水商組合の総務たる李承泰が、昨年鎭南浦にて安弁護士の事務員たりし時、大鎬は同地税関主事を勤め居りて、互に知合と為り、今回大鎬の来壌に際し、屡次往来したる事実あり。
又李承泰と共同事業に従事する李秉喆、大鎬の宿泊せし宿屋主人金允灝、滞在中遊興の席に侍したる妓生春桃·瑛月等に付厳密取調を為したるも、何等本件の事実を知りしと認むべき端緖を得ず。



安重根の犯行二週間前、鄭大鎬という者が安重根の妻子を連れてウラジオストック方面へと向かった。
当然、鄭大鎬自身が事件の謀議に参加し、そのような役割分担を負ったのではないかと疑われ、上記のような報告が為されたのであるが、結局は事件の共犯者として罰せられる事は無かったのである。
死刑執行の前日に行われた、安重根と安定根、恭根の面会の記録から、当該部分を引用してみよう。


(前略)

更に鄭大鎬は如何せしやとの問に対し、二弟は鄭より端書到来せしが、鄭は復職して無事に税関に勤務せるとの事なりと応へ、且つ鄭が平壌に帰りたるときは始終酒色に耽り、妓生など買ひて殆んど1週間許りも遊び居りたりと告げたるに、安は、「彼は実に愚な奴なり。併しながら彼が斯く遊楽に耽りて、嫂等を連れ来ること遅延せしが為め、却て自他の幸となれり。若し嫂等早々に引き連れ来りしならば、自分も之に面会したるべく、且つ兇行に関し、鄭大鎬も大に疑を受くることとなりしならん。幸に遅延せしが為め、却て自他の幸福となりしなり。」と述べたり。



このように女好きのおかげ(?)で、安重根の死刑執行前に税関に復職していたようである。


死刑執行前日の面会の様子


四.重根家族の口供
前述の如く、平壌地方に於ては到底事件の真相に近づくこと能はざるを以て、重根の家族取調べの為め、其住所たる鎭南浦に向ひ、同地警察署に抑留中の重根の母趙氏、第一の弟定根、第二の弟恭根、鄭大鎬と懇意なる金文奎の4名に付き取調べたるも、是亦兇行と直接の関係については何等得るとことなく、只犯人の平素の行動に於て、右等4名の口供に徴し、這間の兇行も敢て為すべき人物なること推想し得らるるものとす。

五.内地関係の推定
以上関係者の取調べより推考するに、今回の兇行は直接韓内地との関繁ありと認むること能はず。
乍去、由来陰謀に巧みなる当国人の事とて、深く裡面に於て虞るべき暗流の潜むものなきや、多少の疑なき能はず。

重根は、地方にて多少門地ある家に生れ生計又富裕なるより、韓国普通の教育を受け、壮年に及んで上海・芝罘等に遊び、稍や海外の状況に通じ居るものにして、而して彼が浦汐行を思立ちし、直接の動機とも見るべきは、隆熙元年7月頃、平壌に於ける「三合義」の失敗に帰したるより発意したるものの如し。

又遡って彼が行跡を視るに、先代より天主教徒として郷里信川郡の宣教師、仏人白神父(白は漢字訳)の教化を受け幾分新智識を養ひつつ、一方には現時の日韓関係上不平を懐く可き萌芽を造りたるが如く、彼が浦汐行の途次元山に立寄り、洪神父(洪も白と同義漢字訳)の許に一時寄食し、金東億なる者と同行浦汐に渡りたる趣き、洪より白に通知し来りたるより、弟定根は兄重根の浦汐に在るを知りたる事実ありて、彼と天主教の白・洪とは浅からざる関係あるべきを知るに足る。
浦汐渡航後の彼は安応七と変名し、暴徒の一部将として日本人、一進会員を豆満江岸に於て殺害し、暴威を振ひたることあり。

又元山・田口商会気付朴応相を経由せば、通信の途あるべき旨記したる書翰を、大韓毎日申報社の会計たる林雖正を経て弟定根が受取りたる事実あり。

是等の点より視るときは、浦汐方面の暴徒、仏人宣教師、大韓毎日申報及彼が会員たる西北学会間に、一縷の脈絡を通じ在ること疑ふ可からず。

果して然らば、今回の兇行は如上危険分子の予ての計画にして、伊藤公の旅行は偶然にも彼等の非望を遂げしめたるものと推定する外なし。
故に、本件と韓内地直接の関係として認むべき材料を得ざるも、陰謀的根帯の此地に彌蔓せるは疑を容るるの余地なきものとす。



事件を起こすに至る環境面での調査報告である。
特別突っ込む場所も無いのだが、洪神父から白神父に、安重根の動向が連絡されていた事には少し注目しておきたい。
この復命書にあるとおり、「彼と天主教の白・洪とは浅からざる関係あるべきを知るに足る。」である。
まぁ、事件に直接関係する事項ではないが、個人的に面白いので記載しておく。(笑)

さて、次からが非常に面白い、実弟安定根の供述である。
実弟の供述ということで、信憑性はかなり高いのではないかと思う。


六.安定根の口述

一.家は代々海州邑内に住ひ、25年前信川に転し5年前更に鎭南浦に来れり。
信川に在住中は祖父の時代より両班にあらざるも、相当の資産ありし為め無職業にて暮せり。
祖父は鎭海郡守、父は進士迄進みたり。
然るに父は5年前死亡せり。
其の死する9年前、天主教の信徒として観察道20余日捕はれたる事あるも、獄死等為したるにあらず。



祖父(自伝によれば安仁寿)の代から両班では無い、と。
代々海州邑内に住んでいたという事は、在京両班から在地両班(郷班)になったという事でもあるまい。
官職を失った事を指して、祖父の代から両班ではないと述べたと考えるのが筋なのだろう。

ここで少し寄り道をして、安重根の祖父について触れている史料を見てみよう。
内部警務局長松井茂から陸軍少将明石元二郎への、1909年(明治43年・隆熙3年)11月12日付、『高秘収第6488号の1』である。


安重根及亡父安泰勳の経歴は、既報の如く性行暴悪を極めたり。
而して泰勳の亡父即ち重根の祖父は、黄海道海州郡邑に於て米商を営み、常に米穀買入代金を支払はざる等種々奸悪手段を為したる為め、世人其本名を呼ばず、安億乏と異名せり。(億乏とは日語の無理を意味すと)
斯きて財を起し巨富を致したりと。

惟ふに重根の粗暴は、系統より出るものにあらざるなき乎。
尚其親属に対する経歴、左の如し。

(以後、安重根の親族の経歴により省略)



・・・。
この『高秘収第6488号の1』の内容の真偽については、両班が実業を為すという点に於いて、いささかの疑念はある。
逆に定根の供述通り、両班ではなくなったから米商・・・ってのはやっぱり無理があるだろうなぁ・・・。(笑)
これに類似する状況が『韓国誌』等にも見られるとおり、李朝末期の両班層としてはあり得る話なので始末に悪いのである。

黄海道信川郡青溪洞に居を移したのは、他の史料と照らし合わせても1884~5年というのが正解だろう。
8月9日のエントリーで取り上げた、『憲機第2116号』の明治27年(1894年)という時期は誤りであるようだ。
とすれば、自伝に書かれているとおり、その転居の原因は甲申政変の可能性が高い。
祖父が米商をしていたのがバレて転居及び泰勳も進士止まり・・・ってしつこいか。(笑)


次に、父安泰勳が1895年前後に天主教の信徒として捕らわれたとの定根の証言。
時期的に、キリスト教を理由として捕縛されたとは考えづらい。
であるならば、8月9日のエントリーで扱った、『安応七歴史』中の魚允中及び閔泳俊との国庫米に関する争い、若しくは『憲機第2116号』における年貢米略奪の話に関連しての逮捕の事であろう。
尚、どちらの史料についても、逮捕されたという記述は無い。


今日はこれまで。


調書に見る安重根(一)
調書に見る安重根(二)
調書に見る安重根(三)
調書に見る安重根(四)


調書に見る安重根(四)

テーマ:

今日は昨日の予告どおり、1909年(明治42年)3月24日付『憲機第626号』の引用から。


煙秋方面に於て偵察せしめたる情報、左の如し。

一.李範允は、目下煙秋の自宅に在り。
而して1月14日浦鹽に至りし件は、彼の部下31名煙秋西方約1里「バアツウノヱ」に於て、商人の金20円を奪取せしに因り、全部煙秋裁判所に於て判決を受け浦鹽に護送せられたるを以て、之を免罪せしめん運動の為なりしも、不成効に終りたりと。
李の現今の情態は、部下31名を犯罪人とし、之が所置に苦み、所持金なく、殆んど袖手無策の有様なりと。
而して或時は、愚民に対し甘言利説を以て募金せんとするも、一般人民は彼を犬吠と称して聞く者なし。
1月下旬(日不詳)夜12時頃、住所氏名不明の男一人李範允の家に到り、李の在否及管理事務の主宰者等を尋ねたり。
此時李は不在にして、部下柳允菴、朴善生、李の親戚者1名房内に在りて、李の不在なる旨答へたるに、彼は忽然として侵入し、前記3名を乱打降伏せしめ、遂に金50円と若干の衣類とを奪取し立去りたると。
此時柳允菴は僅に負傷したりと云ふ。



前回の図們江での戦闘以降、李範允も振るわなくなってしまったようである。
部下31人が強盗で捕まり、且つ李範允も金が無く、助ける術も無く、募金を募っても犬吠と呼ばれ、馬鹿にされ、自宅には押し込み強盗が現れて金を奪われる。
嗚呼・・・。


二.崔都憲の態度及彼れ銃殺云々の件
1月24日、崔が露人「アルボウス」の店より夜間帰途に於て、一銃声ありしを以て、暫時状況を窺ひつつありしに、再び一発彼の近傍路側に着弾せり。
故に崔は驚き、急駈帰宅し、家族に右状況を話したり。
依て負傷又は銃殺等の風説起りしならんと。
崔は現今浦鹽にあり。
其の要件とする処は、夫の大東共報が、財政困難の為め停刊せざるを得ざるに至りたるを以て、之が救済策協議の為め赴きたるものにして、未だ帰宅せず。
崔の部下たりし者、煙秋「シヤチーザ」(煙秋北方1里)に30名、又「シヤンペリ」(煙秋北方約1里半)30名在りしに、崔は此等に対し、衣食住共に関係せざるに至りたるを以て彼等は労働者となり、或は乞食同様となり居るものありと。
故に早晩四散は免がれざるべしと。



崔都憲は、本名を崔才亨と言い、烟秋では屈指の富豪だった事が、別の報告書において報告されている。
また、彼はどうやらロシア国籍を取得していたようであるが、5月12日のエントリー及び5月13日のエントリーのとおり、大韓帝国人であることに変わりは無い。

尚、この報告の少し前に、崔都憲の持ち家である同義会の附属家屋が延焼。
従って彼等の部下はあちこちに点在する事となったようである。


三.洪範道が煙秋へ到りたる理由は、昨年12月以前、洪が甲山に在りしとき、有為の部下たりし金忠烈に金1,600円を渡し、銃器弾薬購買の為め煙秋へ遣はしたるに、金は該金全部を酒肆青楼に費消したりと。
依て洪は、金忠烈を捕ふべく煙秋に到りたるものにして、目下金忠烈を告訴せんとしつつあり。



しかし、しょっちゅうこんな話を見かけるなぁ。
第三次義兵運動とやらが、竜頭蛇尾で終わる理由も分かるというもの。
ちなみに洪範道は、金を持ち逃げされた影響かどうかは不明だが、糧食にも困る有様となり、12人の部下全員が彼の元から逃亡している。


四.2月15日、煙秋に於て一心会なる会を組織したり。
会員中には賊の頭目金起龍、安応七等あり。
依て諜者は其日傍聴せしに、会規は阿片禁止と会員の災難に際しては互に扶助す可きこと等にして、別に暴徒に関する件は非らざりしと。
因に入会費金は、1人1円なりと云ふ。



はい。
これが前回記載のあった一心会の報告です。
禁止するための会が出来るほど、煙秋で阿片が流行っていたのかどうかは不明。


五.暴徒駆逐の計画
浦鹽在住の崔鳳俊、金学万及煙秋の金国甫等協力し、各村有志者に事を計り、身元不審の輩及無職の雜輩を駆逐す可く運動中なりと。

六.煙秋附近一般の賊情
前記の如くにして、水青より来煙せしもの30余名あり。
内16名は嶺間(煙秋北方約2里)に在り。
又李京化の宅に4、5名あり。
崔行倫の宅に朴春成あり。
崔五衛将方に安応七あり。
而して10名位は居処定まらず。
朴春成、安応七、韓起洙は、目下活動の主唱者なるも、崔鳳俊、金学万の為めに妨害せられ、尚ほ人民の反対を受けつつありと。

七.水青附近の頭目朴春成(水青人)の語る処に依れば、水青の「シユテウホ」に於て暴徒が人民の牛馬金銭を奪取せし為め、昨年12月24日、人民と暴徒争闘を起し其際富豪朱哥なる者は死せり。
爾来、水青附近の人民は全部暴徒に反対するの状態となり、為に暴徒は、将来最も頼寄るべき部落、即ち根拠地を全く失ふに至りたると。



朴春成らは、例の『日帝強制占領下親日反民族行為の真相糾明に関する特別法』には該当しないのかな?(笑)
まぁ、このように内実が内実なので、ロシア領内であってもどんどん協力者は減少し、反対者が増えるわけです。


安重根


それでは次に、安重根の素行や犯行動機などの調査に当たった、境喜明警視の1909年(明治43年・隆熙3年)11月5日付の『復命書』を見てみよう。
これも、かなりの分量なので、数日に分けて掲載していく。


復命書

隆熙3年10月28日伊藤公爵殺害事件に付、加害者安重根の内地に於ける罪状系統及平素の行動等調査の為め、平壌地方へ出張を命ぜられ、同日出発31日迄同処滞在。
11月1日鎭南浦に至り、翌2日帰京。
此間両地に於ける取調の概要及重根の母趙氏・弟定根・同恭根・金文奎の口供を添へ、左に及報告候也

隆熙3年11月5日
警視 境 喜明
警務局長 松井 茂 殿


○ 別紙

一.平壌に於ける安重根
重根は、弟定根の口供にも在るが如く、平壌に於て「三合義」なる組合様のものを組織したるも、其中の一人たる宋秉雲は、重根の人物猛悪にして、共同事業を経営するの危険なるを慮り、遂に出資せずして中止したるより、重根は大に立腹し、抜刀威喝を加へて2,000円の違約金を徴求せんとして手形迄認めさせたるも、他に仲裁する者ありて漸く無事なるを得たりと。
宋は今尚彼の乱暴なりしを悪み居れり。

又彼は、西北学会の一人として安昌浩等と提携し、演説を試みたることある等の事跡に徴すれば、彼の性格は虞るべき人物にして、一方には日韓国の現状に不平を抱く一味の徒たるが如く認めらる。



西北学会については8月2日のエントリーで若干触れているものの、未だ調査をしていない団体である。
今後関連の史料が出てくれば、紹介する事もあるだろう。

「三合義」は、連載初回で既に言及している「平壌に出で石炭商を営みしも失敗し」の話であり、『安応七歴史』においては、「平壌に往き石炭鉱を開採す。日本人の阻礙に因って損害すること数千元。」の件である。 【画像】
この後に出てくる安重根の弟安定根の供述によれば、この復命書の方が、断然信憑性が高いようだが・・・。


今日はこれまで。


調書に見る安重根(一)
調書に見る安重根(二)
調書に見る安重根(三)