韓国軍解散(七)

テーマ:

今回の連載は、今日でおしまい。
元気よく行ってみましょう。(笑)

1909年の『軍部廃止、親衛府新設及之ニ附帯スル件』で解散となってしまった武官学校。
その様子は、アジア歴史資料センターの『統監府 武官学校生徒解放の状况に関する件(レファレンスコード:C03022970600)』に記されている。(2画像目3画像目より)


武官学校生徒解散の件

今2日午前9時、校長陸軍参将李凞斗は生徒を同校内に召集し、職員立会の上、今回武官学校廃止の結果、生徒を解散する旨を宣言し、且つ来9月10日迄には更に何分の通知を為す筈に付、其間自宅に在り待命すべしと指示し、一同異状なく解散せり。
生徒の総数は45名にして、其半数は前途の方向に付遅疑せる旨報告する処ありしが、其後44名迄は日本に留学を希望するに至れりと。
右及報告候也



この解散後、それら学生は日本の陸軍中央幼年学校へ留学したようである。
まずは、『旧韓国武官学校生徒教育方(レファレンスコード:A01200074200)』より。(2画像目より)


上奏写

曩に允裁を経て、旧韓国武官学校生徒を陸軍中央幼年学校に入学せしめ教育中に有之候処、同校卒業し得たる上は、士官候補生に準じ、引続き軍隊及陸軍士官学校に於て教育せしめ候。
右謹で奏す。



この件に関して、もう一件史料がある。
『旧韓国武官学校生徒教育の件(レファレンスコード:C02031421000)』である。(2画像目4画像目3画像目の順により)


教育総監へ御照会案

曩に允裁を経て、陸軍中央幼年学校に於て教育中の朝鮮人、同校卒業心得たるの上は、士官候補生に準じ、引続き軍隊及陸軍士官学校に於て教育致度、異存無之候■上聞に達し置くべく候也

右異議なき回答ありたる後

上奏案

曩に允裁を経て、旧韓国武官学校生徒を陸軍中央幼年学校に入学せしめ教育中に有之候処、同校卒業心得たるの上は、士官候補生に凖じ、引続き軍隊及陸軍士官学校に於て教育せしめ候。
右謹で奏す。


幼年学校在学朝鮮学生左の如し
本科1年 15名(45年5月卒業)
予科3年 33名(46年5月卒業)



陸軍中央幼年学校を卒業した後は、陸軍士官学校に進んだものも居るのだろう。
名簿を見ていないため確たる事は不明だが、恐らくこの45年5月卒業予定の本科1年15名の中には洪思翊が居たのではないだろうか。
尚、46年(現実には大正2年)5月卒業予定であった予科3年33名の中に、金錫源が居たのかどうかは定かではない。
増して、士官学校の卒業名簿にすら載っていない李青天(池青天)がこの中に居たのかどうかは、尚更定かではない。(笑)
【参考記事】

さて、上記2つの史料の作成された1911年(明治44年)には、大韓民国の軍人に関する史料も存在する。
『御署名原本・明治四十四年・勅令第三十六号・朝鮮軍人ニ関スル件(レファレンスコード:A03020891900)』である。
これによって、『朝鮮軍人ニ関スル件(明治44年勅令第36号)』が公布される事となった。
以降、数度の改正が行われていくのことになるのである。

さて、これまでの経緯を見るに、最も重要な点はやはり予算であるように感じられる。
以上、皆さんも少し考えてみてもらいたい、「韓国軍解散」でした。


(完)


韓国軍解散(一)
韓国軍解散(二)
韓国軍解散(三)
韓国軍解散(四)
韓国軍解散(五)
韓国軍解散(六)


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韓国軍解散(六)

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韓国軍解散に当たっての概略は、これまでの連載で既に述べてきた。
一方で、7月12日のエントリーで記した様に、残された者もいたのである。

アジア歴史資料センターの『韓国駐箚軍 韓国軍隊解散に関する件(レファレンスコード:C03022884200)より、3画像目4画像目5画像目を見てみよう。


韓国軍隊解散要領

解散すべき軍隊・学校左の如し
第一次(戦闘力を有するもの)
歩兵五個連隊(京城)騎、砲、工兵隊、教成大隊、地方隊
第二次
憲兵隊、旅団司令部、研成学校、輜重隊、洪陵守衛隊

残存すべき部隊、官衙、学校左の如し
軍部、衛生院、侍従武官、親王附武官、陸軍法院、陸軍監獄、軍器廠、陸軍武官学校、陸軍幼年学校、軍楽隊、歩兵一大隊(第1連隊第二大隊の予定)

将校下士卒の処分
一.軍事教育ある優秀の将校は、軍隊、官衙、学校等に採用し、猶残余あるときは日本軍隊に於て教育す。
二.軍事教育ある優秀な下士は、軍隊、官衙、学校等に採用す。
三.将校にして軍事額の素養なきも、普通の学識を備へ技倆あるものは、文官に採用す。
四.武官に採用せざる将校、准士官、下士卒(下士卒は■部)に一時賜金を給す。
下士卒一時賜金の額、左の如し。
但し将校、准士官の賜金額は、追て之を定む。

下士 80円(地方隊は60■)
兵卒 50円(地方隊は30■)

在営期1年未満の下士卒は、半額を給す。(青北大隊には1年未満の下士在隊す)
但し有罪者にして現に服役中のもの及解隊の際逃亡者には、一時賜金を給せざるものとす。

 (以下略)



こうして残存すべき部隊、官衙、学校がそれぞれ残された。
そしてそれらに採用されなかった者には、恩賜金が給付されたのである。
一方で、優秀な者は残存する各機関に採用された。

その約2年後。
まずは、アジア歴史資料センターの『軍部廃止ニ付電訓ヲ乞フノ件(レファレンスコード:A03023677600)』を見てみよう。(1画像目2画像目


寺内陸軍大臣と協議せし、軍部を廃し侍従武官長の下に親衛局を置き、現在の歩兵一大隊と騎兵を監理せしめ、士官学校を廃し、生徒は東京に於て我陸軍にて教育を引受け、卒業の者は之を我軍隊に就属し、実地に練せしむることに取定めて御異存なきや、陸軍大臣と御協議の上電訓を乞ふ。


という事で、軍部及び士官学校が廃止される事となってしまうのである。
1909年(明治42年)7月31日付『憲機第1522号』より。


韓国軍部廃止の件は、7月31日官報を以て7月30日附左の詔勅を発せられたり。
詔曰、朕将来臣民の発達の程度を視て増兵を要する時に至る迄、軍部及武官学校を廃止し、現在兵は宮中に親衛府を置き之を管掌せしめ、士官養成は、之を日本政府に委托し其軍事に練達せしむるにより、爾衆庶は朕の意を克く体せよ。



1909年(明治42年)7月31日公布『軍部廃止、親衛府新設及之ニ附帯スル件(隆熙3年韓国勅令第68号)』によって、2年前に残された軍部及び武官学校が廃止されたのである。
最も、これに続いて『親衛府官制(隆熙3年韓国布達第3号)』『侍従武官府官制(隆熙3年韓国布達第4号)』『東宮武官府官制(隆熙3年韓国布達第5号)』『近衛騎兵隊編制ノ件(隆熙3年韓国布達第6号)』『近衛歩兵隊編制ノ件(隆熙3年韓国布達第7号)』が出されており、実質的に所管が軍部から宮中に移っただけであるという見方も可能であろう。
ちなみに、親衛府の初代にして最後の長官は、李秉武であった。

一方、武官学校の廃止について。
それは次回の連載最終回のお楽しみ。(笑)


今日はここまで。


韓国軍解散(一)
韓国軍解散(二)
韓国軍解散(三)
韓国軍解散(四)
韓国軍解散(五)


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韓国軍解散(五)

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前フリ無しで、さっさと前回の続きにいきましょう。
前回同様、1907年(明治40年)8月3日付『衛発第14号 別紙』を基本に。


九.先づ、侍衛第1連隊第一大隊正門に向ひたる。
第十中隊は、正門附近に散開せる韓兵約二中隊の猛烈なる射撃を受けたるも、豪も屈せず、先づ哨兵を駆逐して、漸次正門に迫る。
午前10時、敵は益々増加の模様あり。
其射撃頗る盛にして、暴露して狭隘なる道路を前進する事困難となれり。
此に於て中隊長は、第2連隊第一大隊方面の情況に伴ひて、一挙に之を奪取するを有利なりと判断し、一時地物を利用して正門外に敵と接近して停止す。
午前10時50分、侍衛第2連隊第一大隊の占領せらるるや、正門前の韓兵は動搖して退散の状あり。
中隊長は、直に攻撃に移り、前進を督励す。
此時、新に増加せられたる第七中隊并工兵一分隊も到着したるを以て、猛烈に兵営に突入し、午前11時40分、確実に該兵営を占領せり。



1907年(明治40年)8月30日付『来電 別紙 番外 三』ではこの時間帯、呼子警視が純宗に、「銃声が聞こえるが遠からず終息するでしょう」と人を介して奏上した所、純宗は身辺近くでの警護を希望し、呼子警視と飯田警視が身辺警護することになったと記されている。

『来電 別紙 番外 四』では、国分秘書官の注意により、宮内大臣李允用邸の群衆を制するため騎馬巡査を派遣したが、人民群集の状況を認めなかったとされている。
さすがに情報も錯綜していたらしい。

また、反乱を起こした侍衛第1連隊第一大隊、第2連隊第一大隊の二大隊を除く他の大隊は、普通に集合して解散式を終え、恩賜金も貰って3時30分には解散終了していたのであった。


十.敗竄したる韓兵は、四方に散乱し、殊に多数の者は太平洞畜洞附近(大觀亭と兵営の中間地区)に逃走し、直に軍服を脱して民家に匿る。
又一部は、城壁を越へて昭義門外に走り、耶蘇教会堂の高地附近に拠り、我南大門停車場衛兵に向て射撃す。
我停車場衛兵は、直に鉄道線路に沿ふて散開し、交戦30分の後、之を撃退せり。
昭義門衛兵も亦、敗走する韓兵を射撃し、多大の損害を与へ、西大門外にある我砲兵営の歩兵衛兵及砲兵も小銃を以て追撃し、敗兵を潰乱せしめたり。
敗兵の中、約30名は武器を携へ、平壌街路を北走せり。



この辺り、正確に状況を掴むには、当時の京城の地図が要るなぁ・・・。


十一.第三大隊は、直に占領せる兵営内に隊伍を整理し、整頓後兵営近傍の市街に散乱せし敗兵を捜査し、且つ死傷者遺棄せる兵器等を収集せしむ。

十二.此戦闘に於て、我死傷者左の如し

戦死 大  尉 梶原 義久
同  特務曹長 熊本 爲次郎
同  曹  長 平野 正次郎

軽傷 少  尉 藤江 伊三太郎
同  特務曹長 藤田 耕作

負傷
第三大隊 下士官以下 15名(内傷死1)
第二大隊 下士 1名
第一大隊 卒 2名
工兵第十三大隊第一中隊 卒 2名


十三.敵の死傷概ね左の如し

戦死 将校 11名
同  准士官下士卒 57名
負傷 将校以下 100名



前回自らの負傷を顧みず営内に突入し、韓国将校二人を斬ったという第九中隊長梶原大尉が戦死ですか・・・。
mythの匂いがしますなぁ。

まぁそれは兎も角として、『憲兵司令部 韓国軍隊解散に関する報告の件(レファレンスコード:C03022880600)』の5画像目にある死傷者数とは若干の違いがあるようである。


十四.捕虜は左の如し

将校以下 516名
尚増加の見込あり

十五.射耗弾左の如し

小銃弾 7,215発(歩兵)
同 8発(砲兵は騎銃を使用す)
同 350発(工兵)
機関銃弾 1,038号
黄色薬  1瓩600瓦

右及報告候也



この後は京城市内の報告となるが、南大門近辺は皇帝の譲位以降ほとんどの店が閉店していた事を除いては、ほとんどの商店が通常通り営業していたようである。
但し人通りはほとんど無く、売買が成立しなかったため、金融不安を招いた事が報告されている。


さて、捕虜となった将校以下については、前述の『憲兵司令部 韓国軍隊解散に関する報告の件』の10画像目によれば、取調べの済んだ8月13日に将校55人中34名、下士以下516名全員が釈放されている。
将校の内残りの21名は、叛抗を煽動した疑いで引き続き取調べが行われた。
また、下士以下のうち146名は、8月16日に恩賜金を受け取る事となったようである。
随分とまぁ甘い処置で・・・。


尚、京城以外での解散時の叛乱は報告されていないようであるが、興味深い報告があるので紹介。
1907年(明治40年)8月12日付『機密発第35号の12』より。


 (前略)

一.蔚山駐隊韓兵は、両三日中大邱大隊本部に出頭する筈に有之候。
又6月以降経費送付なきより、日本人及韓人より百余円の負債を為し維持し来れる為め、今回解散に付、債務の督促を受け困難の状態に有之候。



6月以降、経費の送付が無いって何だよ・・・。
それだけ財政が切迫していたのか、他に理由があったのかは不明である。

こうして解散された軍人が身を投じる事によって、その後の第三次義兵運動の活発化に繋がっていくのである。


今日はこれまで。


韓国軍解散(一)
韓国軍解散(二)
韓国軍解散(三)
韓国軍解散(四)


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韓国軍解散(四)

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解散に伴う京城の紛擾。
その詳細については色々な報告があるものの、ここでは第13師団参謀長若見虎治による1907年(明治40年)8月3日付『衛発第14号 別紙』を基本にして書いていく事とする。


南大門附近戦闘詳報

一.7月31日夜10時40分、韓国軍隊解散の詔勅発せられ、翌8月1日午前7時、軍部大臣は各隊長を大觀亭(軍司令官官邸)に集め詔勅を伝ふ。
此時、侍衛第1連隊第一大隊長は病を以て参列せず。



『憲兵司令部 韓国軍隊解散に関する報告の件(レファレンスコード:C03022880600)』によれば、解散の詔勅が上奏裁可されたのが午後8時頃。
集合した隊長の内歩兵は大隊長以上が、病欠した第一大隊長の代わりには古参の中隊長が出席。
各隊長の大部分が、この時に初めて解散の事を知ったようである。
この時には普通に解散。


午前8時過、韓国軍隊教官栗原大尉は、侍衛第1連隊第一大隊長整列せしめ訓練院の解隊式場に誘導せんとするや、大隊長自殺し悲鳴を挙げ、之と同時に整列したる兵卒は、突然沸騰離散し、教官に向て害を加へんとするを以て、教官は直ちに退営せり。


同上の史料によれば、整列の際は徒手。
自殺の方法は、刃物で咽喉部を斬るというものだったらしい。
その大隊長とは、1907年(明治40年)8月30日付『来電 別紙 番外 三』によれば、侍衛大隊長歩兵参領の朴昇煥であった。
それで「突然沸騰」。(笑)
俗に言う「火病」ですね。


此時隣兵営なる侍衛第2連隊第一大隊に於ては、教官池大尉の指導を以て訓練院に向ひ、将に営門を発せんとするや、端なく隣営の暴動に誘発せられ、是又俄に沸騰し、教官に暴行を加へんとするを以て、教官は退営の止むなきに至れり。


これまた先の史料によれば、第2連隊第一大隊は、銃声を聞いて多くは脱走し、一部が営内に戻って銃器を携帯し、射撃を始めたようである。


両兵営の叛兵は、直に弾薬庫の弾薬を奪ひ、武器を携へ営外に逸出し、営外周圍に哨兵を配置し、大部は営内にありて猥りに発砲し、且つ哨兵も乱射を始めたり。
此時一部の兵は脱走したるが如し。

二.南大門内にある歩兵第51連隊第三大隊は、訓練院に向て出発する。
両大隊の空営を受領、警戒する為め第九第十中隊の各一小隊を営内に整列し、今や営門を出んとするに際し、両兵営の叛兵営門に逸出し射撃を始めたるを以て、急速第九中隊の一小隊は、第2連隊第一大隊に向て前進したるに、哨兵并に営内の叛兵は、我に向て乱射し、且つ南大門衛兵に向て猛射せり。
我小隊は、一時兵営に接近して停止し、之を監視し未だ射撃を開始せず。
第三大隊長坂部少佐は危険を顧慮し、更に第十中隊全部を挙げ赴援せしめ、叛兵の鎭撫に勉めしめ、一方に於ては、逃走兵の捜査に従事せしめたり。
時は午前9時30分なり。

三.午前9時30分、師団長は右の情報を得、兵力を以て鎮圧するの外手段なきを察し、第三大隊長に次の要旨の命令を下す。
貴官は南大門兵営にある二中隊并機関銃三門を以て、南大門衛兵并昭義門衛兵と協力し、侍衛第1連隊第一大隊、同第2連隊第一大隊の叛兵を急速に鎮圧すべし。
工兵将校以下11名及伝騎二を属す。

四.鍾路にある歩兵第51連隊第二大隊長は昭義門方面の銃声を聞き、午前9時40分、将校斥候1、下士斥候1を昭義門方向に差遣せり。

五.午前9時50分、布德門にある第一大隊長は、昭義門方向に銃声の盛なるを聞き、約一小隊の将校斥候を該方向に派遣せり。
此斥候は、中和殿西方道路に出るや、中和殿西方約300米突の壁にある約一小隊の韓兵より射撃を受く。
依て直ちに之と対戦し、之を西北方及西南方に撃退せり。
其西南方に逃走せるものは、昭義門内の兵営に竄入せるが如し。
米澤小隊は之に追尾して、第十中隊と協力し、兵営攻撃に参与す。
布德門にある第一大隊長は、米澤小隊の銃声盛なるを聞き、更に第三中隊(米澤小隊欠)を増加追及せしめしも、到着する頃には韓兵は已に退却せり。

六.午前10時徴上第2連隊第三大隊は、訓練院に向て出発したるの報に接し、大觀亭、前兵営にある歩兵隊は他に使用するも差支なきに至れるを以て、其歩兵一中隊を坂部少佐の指揮に属す。

七.午前10時15分、韓国各大隊は、目下暴動中のものを除き他は悉く訓練院に集合したるの報を得、更に鍾路にある歩兵一中隊(第七中隊)を坂部少佐の指揮に属し、速に暴動を鎮圧せしむ。

八.午前10時20分、坂部少佐は第九中隊及工兵隊を以て営外の哨兵を駆逐し、直ちに侍衛第2連隊第一大隊の裏門に向て攻撃す。
此時韓兵は、兵営の壁上及窓牖より猛烈なる射撃をなし、狭隘なる道路を前進する我兵を阻止し、之が為め負傷者少からず。
然れども、第九中隊に跟隨する機関銃一門并び南大門壁上の機関銃二門と協力して、激烈なる応射をなし前進を準備す。
然るに韓兵は、窓壁等に掩蔽せられ、我が前進を見るや直ちに起て射撃するを以て、容易に退散せしむることを得ず。
午前10時40分、増加せられたる第十二中隊到着せるを以て、第三大隊長は直ちに之を第九中隊に増加す。
第九中隊長梶原大尉は、此時已に負傷せるに拘らず、勇を奮って衆に先ち兵営に突入し、部下は驀進之に従ふ。
梶原大尉は、韓国将校二名を斬り営内に突入す。

 (続く)



朴昇煥が自殺しなければ、どうなっていたのかなぁ・・・。
って、長い報告なので、途中で切れてしまった。
次回はこの続きより。

今日はこれまで。


韓国軍解散(一)
韓国軍解散(二)
韓国軍解散(三)


韓国軍解散(三)

テーマ:

冗費の節略、上下一致国家完全の防衛に足りないとの判断で解散される事となった韓国軍。
その経費は如何ほどのものだったのか、という続きより。
解散の約一年前、1906年(明治39年)7月12日の『韓国施設改善に関する協議会 第八回 会議録』にそれを見る事が出来る。


 (前略)

食堂に於て統監は、来る陰暦8月28日皇太子殿下御結婚に付、政府より相当の経費を支出せらるること、固より差支なしと雖、我が皇太子殿下御結婚の際は、僅かに35万円を要したるのみ。
而も之を国庫に負担せしめず、全く帝室より支出せられたり。
而して、我が日本の歳入と韓国の歳入とは、其の額に於て非常なる相違あるにも拘らず斯の如き次第なれば、貴国に於ても充分注意を加へ、力めて冗費を省かるべしと度支部大臣に注意せり。
之に対して度支部大臣は、未だ宮内府大臣より何等の交渉も受けず、若交渉あらば統監訓戒に基づき、充分冗費を節減すべしと答へ、次て李内相は、今回の御結婚に付、自分は都監として万事を総裁するの責任を有するが故に、統監の訓戒は之を■膺すべしと述べ、且つ御結婚経費予算は、約125万円に上れる旨を語れり。
統監は、韓国の陸軍の経費一ケ年分と畧ぼ同額の経費を皇太子の御結婚に消費するは、其の当を得たるものにあらざることを説明し、李内相の如き皇帝の信用最も深き人は、皇帝をして過なからしむるの義務を有することも亦、最重しと警告せり。

 (後略)



という事で、韓国陸軍の一年間の経費は約125万円であった。
『韓国財政概況(明治42.2 韓国度支部発行)』の9画像目によれば、光武10年、つまりこの協議会のあった1906年の大韓帝国の歳入予算額は749万円。
歳入の約17%を旧式軍隊にとられていた計算である。

ついでに言えば、翌年1907年の歳入予算であれば臨時歳入を含めて1,646万円となり、約8%にはなる。
国債報償運動までおきた日本からの借款額も1,300万円で、その約10%。
京仁鉄道の売渡額が180万円。
京城電気会社であれば、売渡額はほぼ同じ120万。

というか、そんな額を結婚式に注ぎ込もうとするような国家だから、財政破綻するんだよ!(笑)

この続きも結構面白いのだが、それは又の機会を得るとして先に進もう。
1907年(明治40年)8月1日付、『往電第110号』より。


西園寺総理大臣へ

往電第107号に関し、今朝来解兵に着手し、大隊長以上を軍司令官々舍に召集し、韓国軍部大臣をして詔勅を捧読せしめ、軍司令官よりも穏便に解隊を実行すべきことを説諭し、各隊は武器を携帯することなく午前10時を期し練兵場に集合し、士卒に対して解隊の趣意を申聞かせ、同時に恩賜の金員を分配することに決し、其れ其れ着手したるに、歩兵六大隊の内一大隊は宮城営衛に充つるを以て之を除き、歩兵三大隊及特科隊は命の如く練兵場に集合したるも、二大隊は大隊長一人自殺したる為め立所に紛擾を起し、隣接の一大隊に波及し、我兵と戦闘を開始し、午前中我兵確実に両兵営を占領し、直に逃走の歩兵及市中に潜伏せるものを捜索に着手せり。
彼我死傷等は、軍事情報に譲る。
皇帝も争擾の為めに、頗る不安の念を懷かるる趣に付、本官は是より参朝宸襟を安んぜらるべき旨奏上すべし。



解散通告したら大隊長自殺。
そして紛擾。
でも給料支払い遅滞したら、多分壬午軍乱の二の舞。
どうしろと?(笑)

次回は、この京城における紛擾の詳細について取り上げてみよう。


今日はこれまで。


韓国軍解散(一)
韓国軍解散(二)


韓国軍解散(二)

テーマ:

今日は、昨日述べた軍政改革は突発的なものでは無いというお話し。
久しぶりの、『韓国施設改善に関する協議会』。
1906年(明治39年)3月13日、つまり第一回目の協議会より。


 (前略)

伊藤統監
自分は、韓国人の位置に立ちて説を述ぶべし。
決して貴国の事物を、殊更に悪口せんと欲するにあらず。
各大臣も此の意を諒せられて聞かれたし。
今、貴国兵を見るに軍人たるの能力なく、訓練亦疑する所あり。
聞くが如くんば、兵卒中には、一朝有事の日に依て以て国家を守るべき、弾薬刀剣の如きを質入するものある由。
徴兵制度の如き、皇帝陛下より実施せられたき御希望を承りたれども、徴兵を実施するには先づ戸籍の制を定めざるべからず。
教育を布及して、学問上の素要を作らざるべからず。
故に徴兵は、容易に行ふを得ず。
然るに警察に至りては之れに非ず。
其の趣を異にするものあり。
勿論警察とても、今日の儘にては決して満足すべきにあらず。
危険なる場合に警察たるもの今日の如く、或は逍遙し、或は傍観するが如きことあらば、安んじて人民の保護を托し能はざるに非ずや。
然れども韓国の警察官を補助するは、日本警察官を以てせば、容易に警察力を増進するを得るの望あり。

 (後略)



実際問題として、朝鮮軍或いは大韓帝国軍は1866年のジェネラル・シャーマン号事件、丙寅洋擾、1871年の辛未洋擾以来役に立っていない。
最も、この時も役に立ったのか?と聞かれれば、非常に疑問なわけではあるが・・・。

弾薬刀剣を質入れする話は、「由」ではあっても、あり得ると思ってしまうのは恐らく私の偏見。(笑)

そして徴兵制度の実施は皇帝の希望であったとの事である。
勿論この時の皇帝は高宗。
しかし、徴兵制度を実施するには、戸籍制度を定め、教育を普及しなければならない。
当然の話である。

話を元に戻そう。

将来の徴兵制度への移行だけが、韓国軍解散の理由では当然無い。
最も重要な要素は、解散の詔勅に記されている。
1907年(明治40年)8月1日付『往電第107号』を見てみよう。


西園寺総理大臣へ
往電第105号に関し、昨31日夜半、皇帝は別電第108号軍隊解散の詔勅を裁可せらるると共に、韓国政府は公文を以て各隊解散の際、人心動擾すれば之を予防し、或は勅に違ひ暴動する者は、之を鎮圧するの勅旨を奉承したる旨を照会し来れり。
仍て本官は、之を軍官憲に移牒し、本日を以て在京城各隊の解散を断行せしむる筈。
又各地方隊も、漸次便宜に解散を施行する筈。
委細後報。
詔勅は、今日の官報号外にて発布する筈。


○ 別紙

韓国軍解散詔勅

朕惟ふに、国事多難なる時に値り、極めて冗費を節略し、利用厚生の業に応用するは今日の急務なり。
窃に惟ふに、我現在軍隊は傭兵を以て組織せるが故に、未だ以て上下一致、国家完全の防衛と為すに足らず。
朕は今より軍制の刷新を商り、士官養成に力を專らにし、他日徴兵法を発布し、鞏固なる兵力を具備せむとす。
朕茲に有司に命じ、皇室侍衛に必要なるものを選置し、其の他は一時解隊せしむ。
朕は汝等将卒の宿積の労を顧念し、特に其の階級に隨ひ恩金を頒与す。
汝等将校下士卒克く朕が意を体し、各々其の業に就き愆ることなきを期せよ。



そう。金の問題。
役に立たない旧式軍隊に金を払うより、それを節約し近代化を行う。
日本においては、廃藩置県・徴兵令・廃刀令・秩禄処分等の一連の動きに当たるであろう。
それでは、韓国陸軍を養うのに一体どの程度の資金が必要であったのだろうか。


昨日に引き続き引っ張って、今日はこれまで。(笑)


韓国軍解散(一)


韓国軍解散(一)

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さて、いよいよ韓国軍解散の話。
巷では、ハーグ密使と高宗の強制退位とセットになって、深く語られる事なく批判の対象となっている事件である。
まずは、第三次日韓協約に関する電文から見てみよう。
1907年(明治40年)7月24日付『往電第89号』より。


西園寺総理大臣へ

只今本官と総理大臣李完用の間に、左の日韓條約に記名調印せり。

日韓協約
日本国政府及韓国政府は速に韓国の富強を図り、韓国民の幸福を増進せむとするの目的を以て、左の條款を約定せり。

第一條 韓国政府は施政改善に関し統監の指導を受くること
第二條 韓国政府の法令の制定及重要なる行政上の処分は予め統監の承認を経ること
第三條 韓国の司法事務は普通行政事務と之を区別すること
第四條 韓国高等官吏の任命は統監の同意を以て之を行ふこと
第五條 韓国政府は統監の推薦する日本人を韓国官吏に任命すること
第六條 韓国政府は統監の同意なくして外国人を傭聘せざること
第七條 明治三十七年八月二十二日調印日韓協約第一項は之を廃止すること

右証拠として下名は各本国政府より相当の委任を受け、本協約に記名調印するものなり。

韓国政府は、至急本協約を発布すること希望せるに付、承諾を与えたり。
本邦に於ても、片時も速に発布の手続を取られんことを望む。



んー、日本側なら兎も角、何で韓国側が急ぐ必要があるのだろう?

この翌日出された公文が『往電第91号』となる。


西園寺総理大臣へ

七月二十四日、日韓協約の調印と共に其の規定の実行に関し、本官と李完用の間に一の覚書に調印せり。
此の覚書は、暫く秘密に付すべきものにして、其の寫は林大臣携帯帰朝すべし。



この覚書にこそ、韓国軍の解散の話が書かれているのである。
第三次日韓協約の覚書の軍事に関する部分を抜粋してみよう。


第三 左記の方法に依りて軍備を整理す

一.陸軍一大隊を存して皇宮守衛の任に当らしめ其の他は之を解隊すること
一.教育ある士官は韓国軍隊に留まるの必要あるものを除き他は日本軍隊に附属せしめて実地練習を為さしむること
一.日本に於て韓国士官養成の為相当の設備を為すこと



 旧韓軍とされる写真(撮影年月日不詳)


当ブログの読者諸氏なら既知の事であろうが、韓国軍の解散と言っても、その総てを解散させたわけではない。
皇宮の護衛の為の一大隊と、将来の士官候補生は残されるのである。
これに関する手順の記された公文がある。
同日、1907年7月28日付『往電第105号』を見てみよう。


西園寺総理大臣へ
此ノ際韓国軍隊は、皇宮警衛の為一大隊を残し他は全部之を解散する筈にて、協約成立の時に当り、韓国政府をして之を承諾せしめ、覚書中の一條件を為し置きたり。
尤、将来徴兵法を布き、有力なる軍隊を組織するを要件とし、士官養成は継続せしむる積なり。
詳細は外務大臣報告致すべきも、或は同大臣帰京以前に解隊を実行するの都合に至るやも図り難きに付、予め此段申進す。
但し、解隊の実行前漏泄すれば、危険の虞あるを以て、本件は一切秘密に付せられたし。


○ 別紙 一

韓国軍隊解散の順序
第一.軍隊解散理由の詔勅を発す
第二.詔勅と同時に、政府は解散後の軍人処分に関し布告を発す。
 此の布告中には次の事項を含ましむ。
  一.侍衛歩兵一大隊を置く
  二.侍從武官若干名を置く
  三.武官学校及幼年学校を置く
  四.解散の際、将校以下に一時金を給与す
    其金額、将校に在ては俸給の概ね一ケ年半に相当するもの
    下士以下に在ては概ね一ケ年に相当するもの
    但し一ケ年以上兵役に服したるもの
  五.将校及下士にして軍事学に素養ありて、体格強健、将来有望のものは、一.二.三.号の職員又は日本軍隊に附属せしむ
    但し下士は日本軍隊に附する事なし
  六.将校及下士にして軍事学素養なしと雖も、普通の学識を有するものは採用す
  七.兵器弾薬の返納をなさしむ


○ 別紙 二

軍隊解散の方法
第一.軍部大臣は、軍部の主なる職員及憲兵司令官・旅団長・歩兵連帯長・歩兵大隊長・騎砲工兵隊長を集め、詔勅を伝へ、且つ解散順序第二項の布告を示す
第二.前項諸官は、直に各々其部下に対し、大臣より伝へられたる詔勅及布告を達す
 此際、各隊長と共に、日本兵約二中隊を各兵営に同行せしめ、要すれば兵力を使用す

備考 第一項歩兵大隊長中には地方のものを含む



上記のような解散手順によって、韓国軍の解散が実施される事が決定された。
将来は徴兵制に移行し、その士官候補生の育成の為武官学校と幼年学校を置く。
一方で、解散に当たっては一ケ年又はそれ以上の一時金が給付されることとなったのである。

ところで、徴兵制度への移行等の軍政改革の考え方は、実は第三次日韓協約に伴って急に講じられたものでは無い。


今日はここまで。