天津条約


前回同様、東学党の乱はちょっとお休み。
今回も、1月30日のエントリーで出てきたように、東学党の乱とは無関係ではない条約、天津条約の話。
最も、こっちは何件かWEB上に条文が転がってるし、わざわざこのブログで取り上げる必要も無いんだけど、もう1日楽したいので。(笑)

で、これもまたきままに歴史資料集さんのとこの「日清戦争前夜の日本と朝鮮(9)」で、「伊藤全権大使清国全権大臣李鴻章ト朝鮮駐防営兵撤回并清国官兵戒飭等談判約書訂結ノ件」を元に、それこそ条約文のテキスト化が行われています。
そのままコピペするのも何なので、こっちは『公文別録・朝鮮事変始末・明治十七年・第三巻・明治十七年/清国ト締約ノ条約書ヘ御批准ノ件(レファレンスコード:A03023661100)』から。
いや、内容同じなんだけどね。(笑)

大日本国特派全権大使参議兼宮内卿勲一等伯爵伊藤
大清国特派全権大臣太子太伝文華殿大学士北洋通商大臣 兵部尚書直隷総督一等粛毅伯爵李

各々奉ずる所の諭旨に遵び公同会議し専条を訂立し以て和誼を敦くす有る所の約款左に臚列す。

一.議定す。
中国、朝鮮に駐紮するの兵を撤し、日本国、朝鮮に在りて使館を護衛するの兵弁を撤す。
画押蓋印の日より起り4箇月を以て期とし、 限内に各々数を尽して撤回するを行い、以て両国滋端の虞あることを免る。
中国の兵は馬山浦より撤去し、日本国の兵は仁川港より撤去す。

一.両国均しく允す。
朝鮮国王に勧め兵士を教練し、以て自ら治安を護するに足らしむ。
又朝鮮国王に由り他の外国の武弁1人或いは数人を選傭し、委ぬるに教演の事を以てす。
嗣後日中両国均しく員を派し、朝鮮に在りて教練する事勿らん。

一.将来、朝鮮国若し変乱重大の事件ありて、日中両国或いは一国兵を派するを要するときは、応に先ず互いに行文知照すべし。
其の事定まるに及んでは、仍即ち撤回し再び留防せず。

大日本国明治18年4月18日
大日本国特派全権大使参議兼宮内卿勲一等伯爵伊藤

大清国光緒11年3月初4日
大清国特派全権大臣太子太伝文華殿大学士北洋通商大臣 兵部尚書直隷総督一等粛毅伯爵李
んと、そのまま。(笑)
1条は、日中両国が天津条約の締結後4ヶ月以内に撤兵する事、と。
2条は、高宗に勧めて兵士を教練させ、自分で治安を守れるようにし、その教練には外国武官1人~数人に委任。
で、この後、日中両国は共に官員を派遣して朝鮮で教練を行うのを止めようじゃないか、と。
3条は、朝鮮で何かあって出兵するときは、連絡してからにして、終わったら撤兵してまた留まったりしないようにしよう、と。

で、今回も、ついでなので漢文の方もテキスト化。

大清国特派全権大臣太子太伝文華殿大学士北洋通商大臣 兵部尚書直隷総督一等粛毅伯爵李
大日本国特派全権大使参議兼宮内卿勲一等伯爵伊藤

各遵所奉諭旨公同会議訂専條以敦和誼所有約款臚列於左br>
一.議定中国撤駐紮之兵日本国撤在朝鮮護衛使館之兵弁自畫押蓋印之日起以四箇月為期限内各行盡数撤回以免両国有滋端虞中国兵由馬山浦撤去日本国兵由仁川港撤去

一.両国均允朝鮮国王教練兵士足以自護治安又由朝鮮国王選傭他外国武弁一人或数人委以教演之事嗣後日中両国勿派員在朝鮮教練

一.将来朝鮮国若有變亂重大事件中日両国或一国要派兵應先互行文知照及其事定仍即撤回不再留防

大清国光緒11年3月初4日
大清国特派全権大臣太子太伝文華殿大学士北洋通商大臣 兵部尚書直隷総督一等粛毅伯爵李

大日本国明治18年4月18日
大日本国特派全権大使参議兼宮内卿勲一等伯爵伊藤
うん。
満足。(笑)


今日はこれでお終い。


(了)



AD

今日は、ちょっと東学党の乱をお休みして、目先を変えてみます。
尤も、1月30日のエントリーでも出てきた通り、全く無関係なわけではないわけで。
というか日本が朝鮮に出兵した理由が済物浦条約というのは、割とポピュラーな話だと思うわけです。

でもまぁ、ちょっとググって見れば分かるとおり、割と全条文が載ってるところってまず無い。
ってわけで、載せておこう、と。
決して東学党の乱に飽きてきたとか、ちょっと楽してこっから先の連載を纏める時間を作ろうとか、そういう意図ではありませんよ。
ええ。
決して。(笑)

さて、それでは史料を。
とは言っても、そのままズバリの史料をアジ歴では見つける事が出来なかったので、今回は国立国会図書館の近代デジタルライブラリーから、韓国統監府が1906年(明治39年)に出した『韓国ニ関スル条約及法令』によってテキスト化したいと思います。

済物浦条約(明治15年8月30日済物浦に於て調印)

日本暦7月23日、朝鮮暦6月9日の変は、朝鮮の兇徒日本公使館を侵襲し、職員多く難に罹り、朝鮮国聘する所の陸軍教師又惨害せらる。
日本国は和好を重ずる為め妥当議弁して、下記の6款及別訂続約2款を実行することを約し、以て懲前善後の意を表す。
是に於て両国全権大臣は記名捺印して、以て信憑を昭にす。

第一
今より20日を期し、朝鮮国は兇徒を捕獲し巨魁を厳究し、重きに従て懲弁する事。
日本国は員を派して立会処断せしむ。
若期日内に捕獲する能はざるときは、応に日本国より弁理すべし。

第二
日本官吏にして害に遭ひたる者は、優礼を以て瘞葬し、以て其の終を厚ふする事。

第三
朝鮮国は5万円を支給し、日本官吏の遭害者の遺族竝に負傷者に給与し、以て体■(血+おおざと)を加ふる事。

第四
兇徒の暴挙に因り日本国が受くる所の損害、公使を護衛する海陸兵費の内50万円は、朝鮮国から填補する事。
毎年10万円を支払ひ、5箇年にして完済す。

第五
日本公使館は兵員若干を置き警衛する事。
兵営を設置修繕するは、朝鮮国之に任ず。
若朝鮮国の兵民律を守る1年の後、日本公使に於て警備を要せずと認むるときは、撤兵するも差支なし。

第六
朝鮮国は特に大官を派し国書を修し以て日本国に謝する事。

大日本国弁理公使 花房義質 印
朝鮮国全権大臣   李裕元   印
朝鮮国全権副官   金宏集   印
まぁ、締結過程とか、そもそもの壬午事変なんかは、気が向いたらやりたいとは思うんですが、今のところやる気無し。(笑)
きままに歴史資料集さんのとこで、かなりの部分理解できますしね。
(ちなみに、済物浦条約の調印に関しては、「明治開化期の日本と朝鮮(23)」から。)

ちなみに前文の部分は、「及別訂続約2款」とあるとおり、後に書き換えられた部分ではないかと思われます。

で、ついでなんで、参考までに漢文の方も。(一部字体変更)

濟物浦条約(明治十五年八月三十日於済物浦署名蓋印)

日本暦七月二十三日朝鮮暦六月九日之変朝鮮兇徒侵襲日本公使館職事人員致多罹難朝鮮国所聘日本陸軍教官亦被惨害日本國為重和好妥当議弁即約朝鮮國實行下開六款及別訂續約二款以表懲前善後之意是両國全権大臣記名蓋印以昭信憑

第一
自今二十日朝鮮國捕獲兇徒厳究巨魁従重懲弁事
日本国派員眼同究治
若期内未能捕獲応由日本國弁理

第二
日本官胥遭害者由朝鮮國優禮瘞葬以厚其終事

第三
朝鮮國撥支五萬圓給與日本官胥遭害者遺族竝負傷者以加體■(血+おおざと)事

第四
因兇徒暴擧日本國所受損害及護衛公使水陸兵費内五拾萬圓由朝鮮填補事
毎年支十萬圓待五箇年濟完

第五
日本公使館置兵員若干備警事
設置修繕兵営朝鮮國任之
若朝鮮國兵民守律一年後日本公使視做不要警備不妨撤兵

第六
朝鮮國特派大官修國書以謝日本國事

大日本國辨理公使 花房義質 印
朝鮮國全権大臣   李裕元   印
朝鮮國全権副官   金宏集   印
さて、見て貰えば分かるんですが、1月30日のエントリーで話に出てきた、1885年(明治18年)7月18日高平臨時代理公使の知照についても掲載されていますので、そちらも見てみましょう。

護衛兵派遣の権利留保に関する往柬

以書翰致啓上候。
陳者当7月21日我護衛兵全数を撤回するは、是我明治十五年済物浦に於て訂結せし條約に照遵し、其の警備を要せざるを認め暫く撤回するものなれば、将来若事ありて再護衛を要するときは、仍随時兵を派して護衛せしむべければ、今回護衛を撤するに因り、誤て前約を廃滅したりと謂ふを得ず。
宜く此の意を以て、一併に朝鮮政府に声明知照し、且其の各兵営は何れも暫く之を返還すべき旨、今般本国政府より檄文を以て訓令有之候に就き、早速右撤回方取計候條、此段御紹介得貴意候。
敬具

明治18年7月18日
大日本国代理公使高平小五郎
大朝鮮国督辨交渉通商事務金貴下
要するに、今回撤兵するけど、また何か起これば随時派兵して護衛するからね。
済物浦条約が無くなったわけじゃないので、ヨロ、と。
で、次がこれに対する朝鮮政府の返事となります。

同上の来柬

以書翰致啓上候。
陳者当7月21日我護衛兵全数を撤回するは、是我明治十五年済物浦に於て訂結せし條約に照遵し、其の警備を要せざるを認め暫く撤回するものなれば、将来若事ありて再護衛を要するときは、仍随時兵を派して護衛せしむべければ、今回護衛を撤するに因り、誤て前約を廃滅したりと謂ふを得ず。
宜く此の意を以て、一併に朝鮮政府に声明知照し、且其の各兵営は何れも暫く之を返還すべき旨、今般本国政府より檄文を以て訓令有之候に就き、早速右撤回方取計候旨御照会の趣、謹で致閲悉候。
右御照会の趣は、記録に存し置候條、此段御回答得貴意候。
敬具

乙酉6月初8日
大朝鮮国督辨交渉通商事務金
大日本国代理公使高平小五郎貴下
これについては、漢文の方は省略。


ってことで、済物浦条約と1885年(明治18年)7月18日高平臨時代理公使の知照でした。


(了)



AD

文仁親王妃紀子様の男子御出産を心よりお祝い申し上げます。
新たに皇位継承資格者が御誕生された事により、皇室典範の改正は先送りされると思われますが、まぁいずれ必要になる事は間違い無いでしょうから、じっくりと議論を尽くしてもらいたいと思います。

というわけで、今日も軽いネタ。
偶然、御誕生に関連しているかのようなタイトルですが、勿論何の関係もございません。(笑)
まぁ、軽いネタと言っても、今回も実は裏は色々と複雑なので、気が向いたら一通り取り扱うかも知れませんが、取りあえずはネタとしてお読み下さい

さて、今日ネタとして紹介するのは、アジア歴史資料センター『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第一巻/5 明治28年7月12日から明治28年8月12日(レファレンスコード:B03050002000)』の史料。
時期的には閔妃殺害事件の2ヶ月前、朴泳孝事件の後ということになります。
で、その朴泳孝事件直前の政況を説明している史料、1895年(明治28年)7月13日付『機密発第72号』から、一部を抜粋してお届けします。

明治28年6月下旬、宮中と内閣の間に興りたる衝突に付取調書
(此報告は、本月7日朴泳孝逃亡前に起草したる者なれば、聊か旧套に属すと雖ども、後日の参考に供ぜんが為め之を送呈す)

衝突の遠因
朝鮮国の旧慣は素より無限の君主専制にて、王室の外に幾んど政府なく、百事親裁に出て、近代に至ては殊に其甚きを極め、小吏の進退、寡額の出納に至るまで君主之を親裁し、若くは世道なる者君意を承けて之を処裁し来りし由の処、昨年7月已後は政権一たび大院君の手に帰し、再び転じて内閣に移り、官制を定めて王室事務と国家政務とを区別し、国内百般の政務は之を内閣に統率し、国王の裁可を経て之を行ふの制度と為りしに因り、国王及王妃には全く政権を内閣に奪去られて王室は孤立したる如き心地せられ、窃に之を王室に収復せんと希望せられたるは、盖し一日にあらざるが如し。
前総理大臣金宏集氏は、初め国家柱石の臣として信重を蒙りしが、氏は一たび総理の椅子を占め、新制実施の主任と為り、王室の専横を抑制せんことを務めたるに因り、漸次其信用を失ひたりし。
途端に君権収復の説を容れて国王王妃に阿諛する輩あり、遂に本年5月に至りて金宏集其職を辞するの不得己に迫れり。
当時国王が金宏集等を叱責せられたる御辞に、「朕は王位を退くべし。汝等共和政府を立てて国政を行はば満足ならん」と云はれたるも、国王の意中必ず斯る疑団を懐抱せらるるに相違なくを推量し得可し。
この後も史料は、金宏集派に反対して君権説を唱える話など、思わずニヤニヤしてしまう記述があるものの、これは別途取り扱った方が良いと思い、割愛。

朝鮮の場合、専制君主というか小役人の人事や少額の出納にいたるまで国王自らが裁決する制度。
そこに立憲君主的な制度を持ち込めば、当然君権は制限されるわけで、高宗も閔妃も大いに不満。
で、1895年(明治28年)5月。

<#`Д´>
何なの!何なの!退位するからお前や共和制しなさい.馬鹿やつ!


という事で、金宏集が辞職する事になるんですね。
つうか、お言葉に甘えて共和政府にしちゃえば良かったのに。(笑)

まぁ、真面目な話、王室廃止など誰も考えてないわけですがね。
その後も何度か立憲君主的な制度の導入については話が出てくるものの、結局は後の大韓国国制でも「万世不変の専制政治」であり、「無限の君権を享有」してるわけです。

さて。
毎度おなじみの、イザベラおばさんの『朝鮮紀行』に、このような記述があります。

三度にわたる謁見での話題は、役に立つ情報を求めての知的な切望があらわれているばかりでなく、日本人が国王に強要している国政改革を反映していた。
わたしは清とシベリアで見聞したこと、シベリアと日本の鉄道とその建設費、戦争に対する日本の一般大衆の反応などについてくわしい質問を受けた。
またイギリス人はどのようにして官職に就くか、『貴族ではない階級』が政府高官の地位まで昇りつめうことは可能か、『特権』という点でイギリス貴族の置かれた立場と目下の者に対する彼らの態度はいかなるものかについてもきかれた。
ある日など国王と王妃の関心はイギリス女王と内閣との関係、とくに王室費についての関係に集中し、国王の質問があまりに多くてとめどがないのでこちらが当惑するほどだった。
国王は<大蔵大臣>(財務長官のことだと思う)は女王陛下の個人的な支出にも管理権を行使できるのかどうか、女王の個人的な勘定を支払うのは女王自身かそれとも国庫かをとくに知りたいようだった。
さらには各大臣の権限について一連の質問がつづいた。
質問の多くは内務大臣の職務、首相の地位、首相と他の大臣および女王との関係についてのものだった。
大臣が女王の意向を実現できなければ、女王はその大臣を罷免できるのかどうかについて国王は興味津々でだったが、概念そのものになじみのない国王を相手に、通訳を介して立憲君主制を説明したり、君主は大臣を選ぶ権利を名目の上でしか持たないことを伝えるのは不可能だった。
朝鮮が、立憲君主国に移行できなかったのは、イザベラおばさんの怠慢のせいニダ!(笑)


なんちゃって。
・・・。
・・。


( ´H`)y-~~



AD

つくづく思うんですが、高宗って何考えてたんでしょうねぇ。
いや、今連載してる頃に限らず。
とりあえず、お金を勝手に使えなくなる事を非常に嫌がる人だってのは、これまで1年半ブログ書いてきて理解してますけどね。
なんというか、将軍様と盧武鉉を足した感じ?(笑)

ってことで、ミサイル関連での北朝鮮・韓国・中国の、所謂特定アジアにも言いたことは色々あるのだが、時事を取り扱うブログの方にその辺はお任せしたいと思う。

さて、今回の連載も今日でお終い。
早速、アジア歴史資料センター『公文雑纂・明治三十年・第十四巻・外務省五・外務省五/韓国王陛下称号御変更ノ顛末ニ関シ京城駐剳弁理公使加藤増雄報告ノ件(レファレンスコード:A04010035900)』の続きを見ていきましょう。

然るに、国王は既に黙諒し居られたるに拘はらず、「昨莚已に朕が意を悉す。
又此に相率て庭籲す。
実に未だ暁るべからざるなり。
此れは是れ、必ず勉めて従ふべからざるのこと。
而一直に煩請するは、未だ其穏当を知らざるなり」との批旨を下し、暗に儀式的の秩序を履まんことを望まるる如くなるに依り、沈議政以下百僚均しく其着手準備の一端として、斯る重典に正任大臣の欠員あるは古典にあらずとの名を以て、閣臣の大更迭を行ひ(別項に詳記す)、翌2日、又々前日の如く5回迄懇請し、続て其翌3日、又再度奏請し、前後10回を累するに至りたり。
其最終の疏文は左の如し

伏して以みるに、臣等謹んで公法を按ずるに曰く、欧州各国の皇帝君主位は平行に居ると云ふ。
然れ共、東西洋有国の位号爰に異なり、習尚の同からざる古より然り。
況んや、彼西欧の書は文を同ふせず、其皇帝の号、君主の称、皆な是れ譁伝して音に擬準するものなり。
意義は則ち同じと雖も而字音は則ち異なり、又■そ必ず我が東亜の美号を舎てて而彼西欧の慣習を援かんや、近日巷議に外国或は尊奉の後に承認せずと疑ふものあれ共、此れ万国通行の公法を知らざるものなり。
臣等謹んで按ずるに、万国公法に曰ふあり。
各国自主なる者、随意尊号を自立すべしと。
故に、在昔俄羅斯彼得第一の初めて帝号を称するや、普魯士荷蘭先づ之を認て而他国後ちに之れを認む。
其後、法蘭西の那波崙第一奥地利の富蘭斯第二の帝と称する人の、之れを沮むなし。
此れ皆自主の権を以て任意号を建て、他国従って之を認む。
寔に公法に遵ぶものなり。
今、陛下自主の権を以て亦随意に行ふと云はば、則ち諦盟各国以て永く和好の誼を敦ふし、孰れか後先して之を認めざらんや。
况んや、東亜の大清国と日本と、皆な此号あり。
但我が邦は、則ち今に迄未だ挙らざるもの、多くは局面に関するあるなり。
此れ挙国の臣民誠を弾じ、力を竭し、惟だ勧進の知って而已むべからざるものあり。
伏して願くは、陛下亟かに允兪の旨を降じ、克く天心に協ひ、以て人の願に従んことを云々。
「斯る重典に正任大臣の欠員あるは古典にあらずとの名を以て、閣臣の大更迭を行ひ」が「翌2日」って事は、10月1日に行われた更迭なわけで、7月2日のエントリーの『電受第386号』で多数の閣僚が任命されたのって、もしかして大事な時に署理とかじゃなく正規の大臣が居ないと駄目だから・・・か?
7月3日のエントリーでは、ロシア公使の交替を更迭の一因として挙げましたが、今回の理由の方が朝鮮っぽくて納得しやすいですね。(笑)
まぁ、別項に詳記と書いていながら、更迭の話には以降この史料では触れられていないので、本当の所はどうなのか不明。
ただ、7月3日のエントリーで朴泳孝を呼び寄せようとしたのも権在衡と兪箕煥であり、今回の上疏運動の内命を受けたのも権在衡と兪箕煥となっているのがポイントな気がします。

で、高宗も一回では受けない。
こういう場合すぐには引き受けない話、どっかで書いた記憶もあるんですが、どこだったか忘れた。(笑)
兎も角、前後10回ほども奏請が行われるわけです。
ここでは、最後の上奏の内容が記されているわけですが、「東亜の大清国と日本と、皆な此号あり。」に、何となく「何でウリナラがG8やBRICsに入ってないニダ!<#`Д´>」と叫ぶ韓国人の面影を見て、一人でニヤついてしまうわけですが。(笑)

既に此の如く、実に14の上疏を累るに至りたりければ、国王は是に於て下民の輿情止むべからずとの姿体を以て、始て左の批旨を下し、以て之を嘉納せらるるに至りたり。
其詔に曰く

朕が否徳を以て臨御する34載時の多難に遭ひ、終に萬古未だ有らざる所の変あり。
且つ治は志と径たず、憂慮日に溢る。
自ら思惟する毎に槐汗背に浹し、今莫大の典を以諸れを称はざるの地に擬す。
縉紳牘を具て而請ひ、大臣莚に登って請ひ、六軍萬民閤に伏して請ふ。
上下相持し、歇泊期なし。
大同の情、終に孤くべからず、商量を積費し、茲に已むを得ず勉て此大事に従ふ。
宜しく其礼儀を斟酌して、而行ふべきなり。
まぁ、言いたい事は「已むを得ず」に集約されてるわけで。(笑)
万国公法の「各国自主なる者、随意尊号を自立すべし」という文言を上疏で使っておきながら、随分と回りくどいことですなぁ。

之より先き宮内府は、早く皇帝受命壇を南別宮に建設しつつあり。
去月末より、俄かに人夫数百名を増し昼夜工後を董じ、其速成を促がされ、陰暦12日(明7日)を期して竣工せしむべしとのことなり。
而陰暦9月17日(陽暦10月12日)に■■同宮に於て■■称号式を挙行せらるることに仰出されたり。
其当日に於ける儀式なりとて伝ふる所に拠れば、
一.称号式の当日は、百官悉く金冠朝服を着くべきこと。
二.士庶人の衣制を変更し、長袖周衣鶴■革帯を採用し、一に明制に摸擬すべきこと。
三.各部の衣制を変更し、尚書、侍郎、中書、舎人を設け、協弁、参書官、局長等を廃止すること。
四.律暦を改定し、服色を変更すること。
等なりと云ふ。
右の儀其筋に起りたることは、強ち虚説に非る如くなれ共、其内或は1、2件の外は此の短期日内に之れを実行し得るやは、甚だ疑しき事実なり。
恐くは、礼服として旧制の衣冠を用ゆる位に過ぎざるべし。
国王既に皇帝号を宣揚す。
後宮東宮豈に之れに伴はずして可ならんや。
是に於て、掌礼院卿金永壽は奏請して、同17日(陽暦12日)を以て故閔后を冊して皇后に、王太子を冊して皇太子に。
同19日(陽暦14日)を以て王大后に位号を追奉じ、王太子妃を皇太子妃に冊せられんことを以てし、其裁可を得たり。
而、右の宣揚後に於ける人民一般の意向に関しては、未何等の変象を来せしことなし。
皇帝号を断ってはいるものの、それを受ける前から準備は進んでるわけで。(笑)
お金無いのに、こんなセレモニーにばっかり金使ってるんですな。

で、衣制は明制に摸擬するそうで。
前回の上疏中にも「漢唐宋明」ということで、しっかり隋・元・清が抜けており、そういう意味合いで「明制」なんでしょう。(笑)

さて、こうして大韓帝国が成立し、高宗は皇帝となるわけです。
しかし、万国公法で自称するのは自由だと言ったところで、内実は全く変わってないわけで。
というか、どうも「皇帝」の位についた事を、他国に公式に通知した形跡が無いんですよねぇ・・・。
謁見で各国公使に言っただけ。
マジで自称。(笑)

ってことで、一言で言えばこんな感じ。

「だから、何?」


(了)



帝国への道(一)  帝国への道(十一)
帝国への道(二)  帝国への道(十二)
帝国への道(三)  帝国への道(十三)
帝国への道(四)  帝国への道(十四)
帝国への道(五)  帝国への道(十五)
帝国への道(六)  帝国への道(十六)
帝国への道(七)  帝国への道(十七)
帝国への道(八)  帝国への道(十八)
帝国への道(九)
帝国への道(十)



さて、絶影島の話を忘れていたために、随分寄り道をした感じになってしまいましたが、今日から高宗が皇帝を称する話に戻します。
まぁ、話を戻すと言っても、今回と次回で取り上げる史料で、連載はお終いなんですけどね。(笑)

それでは、最後の史料に入りましょう。
皇帝号への改称に関する加藤辨理公使からの詳報。
アジア歴史資料センター『公文雑纂・明治三十年・第十四巻・外務省五・外務省五/韓国王陛下称号御変更ノ顛末ニ関シ京城駐剳弁理公使加藤増雄報告ノ件(レファレンスコード:A04010035900)』より。
長いので、分割しながら。

宮廷録事

一.当国王が今回大君主の称号を廃し、皇帝号を宣揚することに相成たる顛末を審かにするに、原来国王は、皇帝なる称号を無上の栄となし、内心之れを享けんことに眷々せられたること久。
而其意を迎ひ、数年前より進号の上奏をなせしもの、亦た一人にして止らざりき。
唯、其都度常に種々の故障あって、未だ之れを果すに及ばざりしのみ。
近頃に至り其熱再燃して、窃かに嬖臣宮内府特進官趙秉式、農商工部協弁権在衡、外部協弁兪箕煥等に内命を銜せ運動せしめられたる処ありたるより、趙秉式等は主として進号上奏者の勧誘に勉め、其結果として去月21日に於て、前監察李教弼、内部主事張志淵等、及前侍御宋秀晩并に前注書安衡鎮等を嚆矢とし、慶尚南北道幼学姜懋馨等を其次とし、踵て24日に於て農商工部協弁権在衡、25日に於て外部協弁兪箕煥及忠清道幼学沈魯文等、28日に於て前侍読金斗秉、致仕奉賀金在顕等の廷臣及儒生等の応援上疏となり、29日に於て引て成均館学生に及び、館学儒生李秀丙等同館学士の代表上疏となり、文蔭武の3班均しく中枢院に会合して夫々約する所あり。
本月2日に於ては、前様旨金善柱等慶尚道幼学郭善坤等の縉紳上疏及立廛市民前知事丁載昇等の市民上疏となり、就中各廛の市民に至っては、其数幾百人、午後に於て手に藁席を抱き、頭に素帽を戴き、慶運宮前に趨跪して狂呼懇請する所ありたり。
6月24日のエントリーで取り上げた1897年(明治30年)6月23日付『機密第39号』の頃から、対外的にも皇帝称号の話が漏れてきてるわけで、もう「皇帝」になりたくてなりたくてしょうがないわけですね。
この高宗の意を汲んで、「皇帝になって下さい」という上奏は、ちょくちょく為されてたけど、その都度都合の悪い事が起きて、まだ実行されてないような状況だ、と。
それこそ、6月24日のエントリーでイギリス・フランス・ドイツの公使や領事の意見を聞いて、難色を示されて立ち消えになってたりしましたしねぇ。

で、最近「皇帝」になりたい病が再発。
趙秉式、権在衡、兪箕煥の3人に内命を下して、上疏運動をさせた、と。
(・∀・)ジサクジエーン(笑)

然るに国王は故意に謙譲を粧ひ、毎上疏に対し允可の批旨を下されざりしも、大勢此に至って既に定りたれば、沈議政は去月30日に於て稟請のことありと称し、参政、賛政、参賛、掌礼院卿を率て閤外に詣り、奏請して尊号を享けられんことを以てし、茲に国王と稟請者との間に種々の魂胆あり、機軸頓に成熟したるを以て、其翌1日に於て沈議政、趙特進官等百官を率ひ、公然進号の上奏を呈し廷請すること左の如し。
其文に曰く

伏して以ふに、記に曰く徳天地に侔きを皇帝と称し、盖し三皇五帝の功徳與に皇天に合す。
故に尊んで以て之れを称するなり。
徳の尊き無上にして、而位号與に尊く、功の大尚ふるなくして、而礼敬を大となす。
至大莫敬の礼を以て無上極尊の号を闡く。
寔に聖帝明王の同く由る所なり。
天理人事の咈らざる所なり。
臣等、前席に於て誠を積み、罄陳して聖心概せられず、靳旨乃ち降る。
誠に徊徘鬱を齎らすの至りに勝へざる所以なり。
猗たる我が邦國を開く五百年聖神相継ぎ、重凞累りに洽し、礼楽典章、衣冠制度漢唐に損益す。
宋帝一たび明代を以て準となせば、則ち郁文醇礼、直接一統となせり。
惟ふに、我が邦是れ耳我聖上聞叡智勇百王に卓冠し、天姿両儀に合し玄徳神明に通ず。
三皇の道を述べ、五帝の心を伝へ、臨御する三紀功化は則ち郅隆の由て尚ふ所なり。
治法は則ち典謨の紀載する所なり。
曩きに艱会多難に値ひ、以て邦國の殷憂を固め、以て聖明の乾断廊奮を啓き、百度惟れ貞に宋社頼を安く綴流れを転じて磐泰を措き、方隅砥平氛祲を銷して絪縕を凝らし、弘業を重恢して治化興隆に独立の基を建て自主の権を行ふ。
是れ天眷宥密景命迓續の会なり。
按ずるに、万国公法に云へるあり。
各国自主なるもの、随意に尊号を自立し、己れの民をして推戴せしむべし。
但し、権の他国をして之れを認めしむるなきのみ。
下文に某国の王と称し皇と称するの時、某国先づ之を認め、他国後ちに之れを認むるの語あり。
夫れ、尊号我れにあり。
故に自主と曰ふ。
之を認む、人にあり。
故に権なしと曰ふ。
未だ人に権なきの故を以て、我が自立の権を廃するを聞かざるなり。
是を以て王と称し、皇と称するの国、他国の承認を待たずして自ら尊号を立つ。
某国先づ之れを認めて、他国後ちに之を認むの例ある所以なり。
其の先づ認むと言ふ所以のものは、立号の先きにあらずして他国に先ずるの謂なり。
則ち、自ら尊号を立てずして、而先づ他国の認を求むる者あらんや。
今、陛下巍蕩の徳天と大を同ふし、通天の道天と諦を同ふす。
大を以てして言へば皇なり。
諦を以てして言へば帝なり。
羲農尭舜の聖を以て、漢唐宋明の統に接す。
惟ふに今日大皇帝の位号を尊び、古に準じ今に合す。
其時を考ふれば、則ち可なり。
礼に拠るも亦當さに然るべし。
天に応じ人に順ふの義にあって、維新の命を眷顧せられ、容さに仰で答へざるべからざるなり。
挙国大同の義、勉めて循はざるべからざるなり。
乃ち造化の跡歛て、而無が如く冲牧の喪聖自居らず固より欽仰すと雖ども、而古昔帝王肹蛮の治挹遜の規、未だ曾て咈而譲を受けず居らざるの文あらず、用て敢て齋沐相率い、齋聲仰ぎ籲ふ伏て願くは、亟かに兪音を賜ひ、賁章を挙ぐるを獲んことを千万顒祝す。
惶恐敢て奏す。

夫れ、此の如し。
さて、上疏運動にもかかわらず、高宗はわざと謙譲をよそおって承諾しない、と。
しかし、大勢が既に定まったものとして、議政の沈舜澤が百官を率いて上奏。
この上奏の件と内容に関しては、官報にも残っています。

皇帝号上奏1皇帝号上奏2 (クリックで拡大)

内容は、「中華」による面と「万国公法」による面の両面から書かれてますね。
「中華」な方は、その道に詳しい人でないと中々面白い解説は無理そう。(笑)
まぁ、簡単に言えば「李朝は500年も礼をまもった素敵な国だし、高宗は皇帝と名乗るべき徳があるニダ」っつう修辞ですね。

一方、万国公法による方については、肝心の万国公法が見つかんねー。(笑)
国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで、万国公法蠡管(Wheaton=Henry著)中には、「第3章 論諸国平行之権」中「第6節 君国之尊号」があり、そこではここに書かれているような事項が記されている。
尤も、万国公法上において正しい解釈or訳出なのかどうかは不明。

んー、今回は私、ほとんど役に立ってませんねぇ。(笑)


ってことで、今日はこれまで。
次回で今回の連載はお終い。



帝国への道(一)  帝国への道(十一)
帝国への道(二)  帝国への道(十二)
帝国への道(三)  帝国への道(十三)
帝国への道(四)  帝国への道(十四)
帝国への道(五)  帝国への道(十五)
帝国への道(六)  帝国への道(十六)
帝国への道(七)  帝国への道(十七)
帝国への道(八)
帝国への道(九)
帝国への道(十)



ちょいと脱線が長くなっておりますが、もう暫くお付き合い下さい。
ってことで、今日も早速アジア歴史資料センターの『露国ノ韓国土地租借関係雑件/3.絶影島/1 明治30年8月18日から明治30年10月14日(レファレンスコード:B03041171700)』を見てみましょう。
前回、絶影島の石炭庫借り入れに関してまとめ、1897年(明治30年)9月24日付『機密第60号』を見たわけですが、今日はその別紙から見ていきたいと思います。
まずは、加藤弁理公使から伊集院領事への、1897年(明治30年)8月26日発の『別紙甲号』から。

露国政府は今般、絶影島に於て我石炭庫の西手に当り、其石炭置場を得んことを朝鮮政府へ申入れ、既に其承諾を得たり。
右は、公然故障申入るべき筋には之なきも、我政府は甚だ之を好まざるを以て、成るべく承諾を与へざらしめんと欲し盡力したれども、遺憾ながら其甲斐なかりし。
就ては、責めて実地に就き妨害を与へ、成るべく之を成り立たしめざるや■致度に付、貴官は税関長ハント氏と内密協議を尽し、十分に妨害の手段を施されんことを望む。
此儀は、当地英総領事とも内談を遂げ同意を得、ハント氏へは同総領事より通信することを約束し置けり。
而して、露公使館書記官ケルベルグは、敷地選定の為め本日当地出発。
其地へ向ひたるに付、其御含を以て至急御尽力ありたし。
んー、ケルベルグが行くことは、もう分かってたんですねぇ。
で、ハントと協議して妨害せよ、と。

続いては、伊集院から加藤への返電。
1897年(明治30年)8月27日発の『別紙甲1』

露国が絶影島に石炭置場を借入の件に付、御電示の趣敬承。
然るに、妨害の成効甚だ期し難きも、出来得る限りの事は致す積に付、左の■御配慮且つ御電示ありたし。

税関長ハントは、兼て露国海軍士官等と親交あり。
且つ、斯様の事に慣れざれば、英総領事より早く且つ強く内訓すること必要なり。
朝鮮政府は、此度の事は好まざるも、露国政府の強■に由り止を得ず承諾したるものなるや。
露国が欲する敷地は、我石炭庫の西手若くは其附近に限るものなるや。
場合によりては、我政府は妨害の手段として、万以上の金を出すことを承諾せらるべきか、時宜により朴淇淙に金を握らして監理署辺の処で働しては如何なるや。
おー、裏工作な雰囲気バリバリ。(笑)
まぁ、状況が分からなければ工作しづらいのは事実でしょうしねぇ。

次は再び加藤からの、1897年(明治30年)8月27日発『別紙甲2』

ハント氏の露国士官と親交の程度は、本件を打明け内議し難き程のことなるや。
同人は、英国プロコンスルの如きものなれば、特に英総領事へも注意を与へ置くの必要あるに付、尚再報を乞ふ。
第二項、強■にあらざるも、義理に由り止むを得ず承諾したるなり。
第三項、他に好位置なきを以て、已を得ず我炭庫の西手を望むものの如し。
金を出すことは、我政府に於て承諾せざるべし。
ハントがどれだけロシア士官と親しいかは、重要な問題ですな。
場合によっては日本の工作、ばらされちゃいますし。
つか、プロコンスル(proconsul)って、イギリスでどんくらいの地位と権限を持ってるんだろう?

で、義理で承諾したことと、他に場所がないため日本海軍石炭置場の西手になりそうだという事、お金使うのは日本政府が承諾しないだろうと回答する。
予算、少なそうだもんねぇ・・・。(笑)

で、これに対する返電が、1897年(明治30年)8月27日発『別紙甲3』

ハントには、余り機密を打明かすは得策ならず。
小官も、私交に付ては可なり親密に致すも、少しく秘密のことは嘗て打明さず。
同人は、当港に於ける我勢力を喜ばざるの形跡あり。
曩に我兵営を居留地内に建つる為め、樹木を倒し山を開くを見て喜ばず、監理に向ひ故障を云ふべきを勧めたるも、監理は我居留地内の事なれば致方なしと答へしに、「ハント」は日本は余り勝手なり。
自分よりは京城に意見を通ずるなりとて引取りたりと内聞せしことあり。
右の次第なれば、英総領事より注意位にては働くこと覚束なし。
又、訓令あるも同人には妨害の妙案あらざるべく、左れば妨害の道は我炭庫附近の土地を密かに買取る外なかるべきも、我政府は金を出さずば之も致方なし。
たとへ金ありても、時日切迫致し居る故へ成効は期し難し。
露国が石炭置場を有するは、誠に好まざることなれど、已に朝鮮政府に於て承諾したる上は、一国の少しの妨害位にては手を引くまじ。
なまじいに妨害の小細工なして成効せざるときは、却て不都合なれば、此上は我は痛痒感ぜざる風を粧ふては如何なるや、至急指揮を乞ふ。
ハントは、日本の勢力拡大は喜んで居ないようだ、と。
つうか、日本の居留地内で木を切って山を開くのを、あまりに勝手だとか言われてもねぇ・・・。
兎も角、伊集院はハントは頼りにならん、と。

しかし、日本政府は金出さない。
金あったとしても、もう時間もないし、どうしようも無いだろ。
おまけに、ロシアは朝鮮政府の承諾を得てるんだし、少しくらい妨害したところで何になるの?
小細工したのバレればかえって不都合だし、仕方ないから「何ともないよ。(口笛ピュ~ピュ~」ってのでどうよ?って・・・。
伊集院、諦めきってるじゃん。(笑)

この後上手くいくのは、たまたまだったんでしょうなぁ・・・。

次は、ケルベルグが釜山来航した後ということになる、1897年(明治30年)8月30日発『別紙甲4』。

日英政府とも、公然反対の手段を取り得べき性質の事件にあらざれば、勢ひ小細工たるを免がれず、又其成否は予め問ふ処にあらず。
兎も角も、貴官の出来得べき範囲内に於て、余り宏大なる地茎を貸与せしめざる丈にても、内密に臨機の手段を施し、其模様は時々電報ありたし。
又、英総領事へは貴官の意見もあるに付其旨申入れ、何等ハントへは申遣はさざることに致し置たり。
但し、総税務司より、監理と立合に地所を選定すべき旨を訓令しありたる筈。
何か、加藤もかなりトーンダウンしてるような・・・。(笑)
おまけに、ハントとの連携は絶望的になったわけで。
まぁ、暴露されるよりはマシですからねぇ・・・。

次が別紙甲号の最後に当たる、1897年(明治30年)8月30日発『別紙甲5』。

御電示敬承。
本日監理を伴ひ、露国書記官及び艦長は地所選定の為め絶影島に至り、我炭庫の西手税関避病院より西海岸を沿って200間余山手に同様印るしを建てたり。
之は、先年税務司が各国居留地に予定したる地所に係り居るやに認めたるに付、好き■よりと思ひ本日ハントに面会して、暗に反対の意を示し意見を問ひたるに、彼も此地所は反対なり。
意見を京城に申送ることに話せり。
依て、英国総領事より此際ハントに注意は必要ならん。
宜しく御配慮ありたし。
又、監理も此地所は韓人の所有且つ家屋も建ち居る故、他の地所を撰定せる様話せしに、露国士官聞入れざるより不満なりとの事を聞込みたるに付、直に川上書記生を遣はし、右の地所は釜山港に必要なるに付、反対の意見を政府に電報して上申すべきを勧めしに、承諾したり。
右の次第に付、撰定の地所は今后各国も不便を感ずるものと認められ、又た、釜山港の拡張に関係あるを以て、此旨を以て朝鮮政府に御注意ありたし。
事態、一気に好転。(笑)
当然、ブラウンが居留地の予定した場所だったってのもあるんでしょうけど、そもそもロシアの選んだ土地が広すぎたんでしょうねぇ。

続いての画像が、閔種默が躊躇して釜山監理へ出した訓令の乙号。
その次が、ジョルダンに言質とられた証拠の丙号と丁号になっています。
まぁ、これらは今までの史料で見てきた通りなので、テキスト化は省略します。

さて、外国人租界予定地である事を理由として、イギリス総領事ジョルダンが朝鮮政府から言質だけではなく文書も取得し、その場所を他国に貸さない事を決定したわけですから、このロシアの絶影島石炭置き場借入の一件は終了したかに見えますが、実はこれでは終わらないんですね。
しかしこの話は、日付の関係もあるので次の連載で。(笑)

今日はこれまで。



帝国への道(一)  帝国への道(十一)
帝国への道(二)  帝国への道(十二)
帝国への道(三)  帝国への道(十三)
帝国への道(四)  帝国への道(十四)
帝国への道(五)  帝国への道(十五)
帝国への道(六)  帝国への道(十六)
帝国への道(七)
帝国への道(八)
帝国への道(九)
帝国への道(十)



んー、絶影島の話、面白くなるんだろうか?(笑)
自分で疑問を感じながら、今日もアジア歴史資料センターの『露国ノ韓国土地租借関係雑件/3.絶影島/1 明治30年8月18日から明治30年10月14日(レファレンスコード:B03041171700)』を読み進めてみたいと思います。

今日最初の史料は、1897年(明治30年)9月6日付『機密第31号』。

絶影嶌に於ける露国石炭置場借入に関する件

客月31日付機密第28号を以て及具報候絶影嶌露国石炭置場撰定の件に就ては、其後出張露国書記官取極を急ぎ、脅迫其他の手段を以て迫りしも、当港監理は之に応ぜず、且つ撰定地は当釜山港に於て必要の場所に付、炭庫敷地として貸与する能はざる旨を主張し京城へも屡ば往復之末、露国書記官も遂に当地に於て取極の要領を得ず、本日露国軍艦シユウイッチ号にて発程帰任致候。
尤も露国書記官は、最初撰定したる地所の外には更に撰定する処なく、飽くまで右地所を借入ん決心の趣にて、何れ京城にて朝鮮政府に迫まることならんと存じ候。
本件に就ては、当港監理は京城の訓令等をも示し何等の事も打明け内話致候に付、本官に於ても大に便宜を得て、必要の注意は時々監理に内話致置候。
又、今日に於ては露国撰定地の不可なるを監理も充分認め、公私信を以て京城へ意見申遣候趣なれば、此際朝鮮政府に於て動かざれば、露国は遂に他の地基を撰まざるを得ざるに至らんかと存じ候。
右露国撰定地の位置及面積略図、当港守備隊に於て竊かに調整したるもの有之候に付、右相添へ此段申進候。
敬具
おお。
結局ロシア書記官の強迫その他の手段に屈せず、ロシアの選んだ場所は釜山港に必要だから貸与できないと主張し、結局ロシア書記官もそのまま帰る他なかったって・・・。
なんか、中央政府より釜山監理の方が立派じゃないか。(笑)

しかし、ロシア書記官も最初に選定した場所に固執。
帰った後、中央政府に圧力をかけるだろう、と。
まぁ、そうだろうね。
っていうか、監理も前回言ってる他の場所にしてくれっていう話を、何故受けられないのかなぁ~♪

で、監理は伊集院に中央政府の訓令まで見せて相談し、伊集院は大いに便宜を得て、必要な注意は監理にちょくちょく与える、と。
また、監理はロシアの選んだ場所が不可である事を十分に認めて、中央へも意見してるので、朝鮮政府が動かなければロシアも他の場所にするしかないだろう、と。
まぁ、高宗自身が「何事も渾て之を排斥し不快の感を抱かしむるは、従来の関係に於て忍びざる所なり。」なんて言っちゃってる以上、無理だとは思いますが。(笑)

最後の、露国撰定地の位置及面積略図が、これ(↓)になります。

絶影島map (クリックで拡大)

んー、前回「先年総税務司ブラヲン氏が各国居留地に予定し置きたる地区に、多少掛り居るやに聞込み候」という話があったんですが、多少じゃねーし。(笑)
つうか、広いねぇ。
日本の海軍石炭庫が、この地図の右側の見えない部分にどれくらい広がってるのかは分からないけど、これを見た限りでは、石炭置き場にするという話を信用するのは、確かに無理っぽいですな。

さて、次の史料から、ようやく7月2日のエントリーの時期に入ります。
政府大臣の入替が行われたり、閔妃の国葬が延期してた頃ですね。
辨理公使加藤増雄から外務大臣大隈重信への、1897年(明治30年)9月24日付『機密第60号』。

絶影島借地に関する露公使の申込

去月18日頃、露公使より当国外部大臣に対し、絶影島に石炭庫用敷地借入の件照会有之由にて、右は先例に由り承諾する外なかるべしとの趣を以て、閔外部大臣より本官へ内々相談有之。
即其当時及電稟候処、同21日貴電第70号を以て、右は固より表面故障申入るべき筋に無之も、成るべくは朝鮮政府をして承諾せしめざる様、内密の手段を執るべき旨御来訓に接候。
然るに先是本官は、閔外部の内相談に対し強て先例に拘泥するに及ばずと雖も、事情止を得ざれば、同所は国力の発達と共に将来海防上枢要の地なるを以て、已に日本政府に貸与せる地区をすら、折もあらば撤回を求めたしとの希望を有する位なれば、這■の御相談には何分応じ難しと答へ、謝絶する方可然と勧告致置候得共、尚又御訓電に基き同23日、本官閔外部を訪ひ、露公使との交渉に関し其後の模様相尋候処、意外にも同官の答辞は、露公使去に臨み何事も総て之を排斥し不快の感を抱かしむるは、従来の関係に於て忍びざる所なりと、国王絶っての希望に出で、已に昨日承諾を為したれば今更致方無之。
唯だ此上は、時機見計ひ海防上必要との辞抦を以て、日露共に撤回を求むる外方法なかるべしとの事に有之。
事情已に如此なる上は、本件は最早同官との内談は無益なるのみならず、当時閔外部は已に全く露公使の為め籠絡せられ、何事も打明け相談難致景況有之に付、縦令事私交上に出づるにせよ、事情を打明し相談するは得策にあらざれば、寧ろ実地に就き、能ふ丈けの妨害運動を試むるに如かずと思料致候間、同25日英国総領事ジヨルダン氏を訪ひ、事情を打明け内々商議を試候処、同官も本官同様の意見に有之、且現に釜山税関長ハントは、英国「プロコンシユル」を兼任し居るを幸ひ、之に内訓を与へ、日本領事と協同以て妨害策を執らしむべしと相約したるに付、猶又本官は、其帰路総税務司ブラヲン氏を訪ひ、同氏より「ハント」に予め注意を与へしめんと欲し、内話致候処、同氏も之を承諾し、兎も角もジヨルダン氏と協議の上、相当の盡力可致旨約言致候に付、帰館の上別紙甲号の通り伊集院領事に電報致し、能ふ丈の妨害手段を執らしむることとせり(次て同領事と別紙甲の1、2、3、4、5号の通り電報往復を為す)。
将又露国公使館書記官ケルベルグ氏は、絶影島に於ける同敷地踏査の任務を帯び、軍艦シウイチ号に乗組み釜山に赴き、我石炭庫の西側に於て約30,000方米突の地所を撰定したり。
然るに右地所内には、先年総税務司ブラヲン同所に出張し、各国租界予備地として撰定したる地区及び、我居留民の所有地をも包含せる旨、伊集院領事より来電に接候間、本官は9月1日、国分通訳官を外部に遣し、閔外部に向って我居留人の所有に関する地所は、右敷地区域内より取除かれたき旨、併し単に炭庫建造を目的とするには、左迄広大なる地区を要せざるべく、随て我借用炭庫地位の面積にて事足るべしとの勧告を与へ、且之に同意なるに於ては早速釜山港監理へ訓電すべき旨をも併せて申込ましめ候処、同官は之に同意し、即日別紙乙号の通り監理事務に訓電を発したり(右の訓電を発するに当り、閔外部は稍躊躇の色ありたるも、同協弁以下各局長等の強する所となり、終に同意したるやに相聞へ候)。
釜山監理は之を以て、出張書記官に反覆説明したるにも拘はらず、書記官ケルベルグ氏は固く自説を執り、変更は勿論少しの譲歩をも肯せざるしとの事に有之候。
然るに、斯く専断にも、露国書記官に於て各国租界予備地を敷地内に取込みたるは不当なりとの議論、使臣間の問題と為り、偶然之れが反対者に好辞抦を与へたる結果、即ち英総領事は、外部大臣に向って論議の末、右租界予備地を他に貸与せざる事に同意せしめ、尚又之れが言質を収むる為め、別紙丙丁号の通り文書を往復するに至れり。
而して書記官ケルベルグ氏は、本月上旬帰京の上、撰定地の図面を携へ、一昨22日外部に出頭し、協弁高永喜氏と談論長時間に亘りたるも、高協弁は各国租界予備地なるの故を以て、始終之に抗議し同意せざるを以て、終に其結局を見るに至らずして、一と先づ引取りたる由に有之候。
此段別紙相添へ、及具報候。
敬具
要するに、今回の件に関する纏めですね。
ただ、これまでの史料には無い部分があります。
まずは、8月25日。
つまりロシア書記官ケルベルグが絶影島視察に行く前に、すでにイギリス総領事ジョルダン及び総税務司ブラウンに話をつけ、釜山税関長のハントに内訓して、日本領事と協同して妨害するようにする事を約束したんですね。
尤も、別紙を見るに、ハントに関する話はそう簡単でも無いようですが。

で、前回はケルベルグの選定地を40,000坪(約13万平米)と書きましたが、ここでは3万平米だねぇ・・・。
先ほどの地図でを見るに概算で10万平米くらいと思われ、「拾」が抜けたと考えるのが妥当かな?

そして、先ほど「中央政府より釜山監理の方が立派じゃないか。(笑)」と褒めたわけですが、実は政府側からも訓令が出た、と。
まぁ、外部大臣の閔種默は躊躇していたようですが、外部協弁高永喜以下局長にも強いられて出したようですがね。(笑)
それにも拘わらず、前回のとおりケルベルグは固執して、変更にも譲歩にも応じない。

一方、外国使臣間で、租界予備地を石炭庫用地に含むって何様のつもり?という議論が起き、結果イギリス総領事ジョルダンが外部大臣閔種默と論議し、租界予備地は他国に貸さない事を同意させるんですね。
ここでケルベルグが釜山から帰ってくるんですが、時已に遅しという事になった、と。

丁度、ロシア公使入れ替わりの時期だった事が大きいんでしょうねぇ。


今日はこれまで。



帝国への道(一)
帝国への道(二)
帝国への道(三)
帝国への道(四)
帝国への道(五)
帝国への道(六)
帝国への道(七)
帝国への道(八)
帝国への道(九)
帝国への道(十)
帝国への道(十一)
帝国への道(十二)
帝国への道(十三)
帝国への道(十四)
帝国への道(十五)



今回も半月越え・・・。
まぁ、しょうがないんですけどね。
より簡単に纏めてくれる人が居ると、有難いですよねぇ。
商業利用は困りますけど。(笑)

それでは今日もロシアの絶影島借入れの話。
アジア歴史資料センターの『露国ノ韓国土地租借関係雑件/3.絶影島/1 明治30年8月18日から明治30年10月14日(レファレンスコード:B03041171700)』から、再び釜山領事伊集院彦吉の報告。
1897年(明治30年)8月31日付『機密第28号』を分割しながら。

露国政府当港絶影島に石炭貯蔵所借地の件に付具申

露国政府に於て、当港絶影島に石炭貯蔵所借地の件に付ては、駐京加藤辨理公使より電示の廉も有之候に付兼て注意致居候処、去29日午後、同国軍艦シユウイチ号仁川より入港し、駐京露国公使館書記官ケルベルク(副領事と称し居候由)乗組来釜し、同人は直ちに上陸。
当港税関長ハント氏を訪問せり。
翌30日、当国監理と同伴、右借地選択の為め同島赴きたるに付、直に監理に就き事情相探り候処、同書記官の京城より携帯し来りたる朝鮮政府の公文には、単に吾石炭庫に準じ、同様石炭庫敷地用として絶影島の土地を丈量貸し渡すべしとのみありて、其間数及場処等も明示無之由に有之。
然るに同書記官は、同島にある我海軍石炭庫の西方(炭庫を距る凡10町斗■)、我居留地の対岸なる処に於て、四方凡200間程の土地を選択したる趣に有之候。
然る処、右地所は同島中第一の平坦なる畑地にして韓人家屋も有之、将来当港貿易旺盛に赴き候暁には、商売地として実に枢要の場処に属するを以て、監理は之を貸与することを好まず、他処を選択せんことを申談したるも、同書記官は是非共其地に決定せんことを主張し、遂に双方熟議相纏らず、監理は、一応政府へ経伺の上にあらざれば決定し難き旨相答へたりとの事を聞込みたるに付、即日川上書記生を監理署に遣はし、右露国の選定地は後日当釜山港拡張の妨害となるは必然にして、且つ区域は石炭置場として広過ぎ、何れにして不利益なれば、十分反対の意見を京城に具報すべきを勧めたるに、監理も容易に承諾し、前文の意見を附して政府へ電報することに内話致置候。
前回の在京城のロシア公使館書記官が釜山に来たという、1897年(明治30年)8月31日発『電受第353号』の詳報ですね。
で、釜山の税関長はハント氏、と。
恐らくはイギリス人でしょうね。

で、書記官は京城から朝鮮政府の公文を持ってくるわけです。
ところが、その公文には場所も広さも明示が無い。

白紙小切手かよ!(笑)

前回は、殆ど突っ込む所が無かったわけですが、さすがに朝鮮政府や朝鮮王宮は笑いを提供してくれます。

書記官ケルベルクは、絶影島の日本海軍石炭庫の西側、日本人居留地の対岸の場所を選定。
四方200間ってのは、200間×200間の40,000坪かな?
東京ドーム3個分に少し足りないくらいですな。

しかし、選んだ場所は絶影島で一番平坦な場所であり、韓国人の家もあり、釜山での貿易が盛んになれば商売上重要な場所になってくるという理由で、朝鮮の監理は「ここはちょっとぉ・・・。別の場所でどうですか?」と申し出るが、ケルベルクは「いや、ここに決めた」と。
双方平行線のまま、監理は一応政府に聞いてからでないと決定できませんと答えたんですね。

これを聞いた伊集院は、書記生を監理署に派遣して、今回ロシアが選定した場所は、将来釜山港拡張の妨害になるのは分かりきっており、さらに石炭置き場にしては広すぎ、何にしても不利益であるので、十分反対の意見を朝鮮政府に報告すべきだと勧めると、監理も簡単に承諾してそのように政府へ電報する事になった、と。

又、同日午後に至り同書記官、監理を訪問し、本日丈量したる土地中の所有者を取調べ、明日中に通知あり度旨請求したるに、監理は土地所有主中或は不在の者も可有之、又日本人に関係ある土地も可有之に付、明日中には取調の道なき旨答へたる由に候処、同書記官は監理に対し殆ど強迫箇間敷挙動を示し、是非共明日中に調査すべき旨相迫り、特に日本人に関係云々と云ひしときの如き一層権幕を示し、其場にある薼を取り膝に乗せ、日本に擬したるものの如くして指頭を以て之を弾落し、日本人に加担すかと脅喝せし趣にして、監理は素より朝鮮政府の命により撰定に立会ふことなれば、彼是争ふことにあらざるを以て、本日更に実地取調の為め同道。
同島へ赴き候。
右に付、同夜監理より該選択区域内の土地に於て、我人民関係の有無を取調べ、至急通知あり度旨申来り候に付早速取調候処、右撰択区域内、我人民が予て韓人より買収したる土地幾部分有之候を以て、直に其趣監理へ通知致置候。
右日本人は3名にして、内2人は未だ韓人より土地売■証文をも取り居らざるを以て、直に日付を溯り、該証書を取り置かしめたり。
他1名は、証書を有するのみならず、当港監理署の公認をも所有し居るに付、右露国借入れ撰定の地に故障を申込むには屈強に付、監理署にも此事を通じ置き、同時加藤辨理公使に電報致置候。
右の外、加藤辨理公使より妨害の手段を尽すべき旨電示も有之候に付、我炭庫の西方に接近し、地稍平坦にして谿水■流出し、之を狹で海岸に少しく畑地有之。
此辺、炭庫敷地には格好の場所なれば、或は此地域を選択することも可有之かと思考候に付、後日故障の一助とも相成べきやと存じ、右海岸の畑地を日本人に買入れしめ置候処、露国書記官来釜し撰定したるは全く意外の場所にて、水源もなく、只平坦なる畑地且つ其区域も広大に選択したるを以て、或は露国の意は石炭置場のみを目的とするものなるや、疑はしく候。
将又右選択区域は、先年総税務司ブラヲン氏が各国居留地に予定し置きたる地区に、多少掛り居るやに聞込み候に付、直に当港税関長を訪ね、露国の借用せんとする地所は、釜山港則ち各国の利害に関係を及ぼすものなるが其意見如何を訪ねたるに、同氏も不同意なるに付、其趣京城其筋へ陳情すべき旨内話有之候に付、尚ほ其事を勧め置候。
尚ほ、本件に関し見聞の次第は、時々加藤辨理公使に及電報候。
此段具申及候。
敬具


追て、本件の大要は、昨30日付露国陸軍大佐ヤンジウルに関する挙動注意の件御電訓に対する伺の、本日付■■電信の序を以て、申進置候。
此段申添候也
書記官ケルベルクが30日午後に再び監理を訪問して、今日測量した土地の所有者を調べて明日中に知らせろと言って来た。
之に対して監理は、「いや、明日中には無理。」と。
土地台帳とか登記簿があるわけじゃないですからねぇ。(笑)

しかしながらケルベルクはこれを聞いて、強迫がましく31日中の調査終了を迫り、特に日本人関係の話が出ると、「日本人に加担すんのか!」と恫喝。
まぁ、朝鮮政府の命令は現に存在し、また争うのが目的ではないわけで、31日に更に実地調査のため監理はケルベルクと共に絶影島に向かった、と。

一方で監理からは、選定地区内での日本人が関係する物件の有無を調べて、至急通知して欲しいという申し出があり、伊集院が調査すると、3人ほど買収により土地を所有。
うち2名は証文を取ってなかったので、日付を溯って取得させ、もう1名は証文どころか監理署の公認も保持している、と。

その他加藤からの訓示もあって、さらに異議申し立ての材料となるように、石炭庫とするのに適当だと思われる場所を日本人に買い入れさせていたのだが、ロシア書記官の選んだ場所は全く意外な場所で、水源も無いただの平地で、区域も広大に選んだ事から、伊集院は、もしかしたらロシアは石炭置き場にする事だけが目的じゃないかもよ、と。
確かに、東京ドーム約3個分の石炭置き場って、かなり無駄ですわな。

また、ロシアが選定した場所は、総税務司ブラウンが各国居留地として予定していた地区に、多少ひっかかるとの話を聞き、伊集院自身が税関長ハントを訪ねて意見を求め、ハントも不同意であるということで、京城のその筋(恐らくは総領事館かブラウン)へ陳情するべきだとして運動中、と。

んー。
日本とロシア、地味ですが結構やりあってるんですなぁ。

さて、今日最後の史料は、1897年(明治30年)9月3日付『機密第30号』。

客月30日付第75号御電示に対し、同31日第9号電報を以て及御報置候通、30日入港の玄海丸に就き取調候へども、一向御電示の露国陸軍大佐らしきもの乗込居らず候に付、探聞の便宜上同人日本出発の日及御伺候次第に有之候。
其後、当港出入舩舶に対し不怠注意致居、特に去る1日入港の浦潮行大連丸に就ては充分に取調候処、長崎より乗船したる露国海軍大尉「アラレ・ミヤローフ」と称するものあり。
年齢30位にして、朝鮮人1名を通辨として伴ひ居り、元山碇泊の露国軍艦クレゼル号に乗込むために、同港まで便乗するものの趣にて、大連丸は昨2日まで当港に滞泊候により、其間右露国人の挙動注意致居候処、同人は上陸は致さざりしも、8月31日付機密第28号を以て申進候、絶影島内石炭置場撰定の為め在京城露国公使館書記官を載せ来航したる同国軍艦シユウイツチ号へは、右海軍士官屡々往来し、多少絶影島石炭置場借入の相談にも与かりたるの形跡ありて、大連丸出帆当時まで同艦にあり帰り来らず、大連丸より乗船を促がされ、漸く帰舩。
元山へ赴き候由。
此外に露国軍人らしきもの無之候。
右為御参考申進候。
敬具
要するに、ガセでした。(笑)


今日はこれまで。



帝国への道(一)
帝国への道(二)
帝国への道(三)
帝国への道(四)
帝国への道(五)
帝国への道(六)
帝国への道(七)
帝国への道(八)
帝国への道(九)
帝国への道(十)
帝国への道(十一)
帝国への道(十二)
帝国への道(十三)
帝国への道(十四)



ああー!
大事な一連の史料を落としてた・・・。
丁度へこたれそうになってた時だったんで、メモってたのをすっかり忘れて話を進めてしまいました。_| ̄|○

ってことで、今回の史料は、アジア歴史資料センターの『露国ノ韓国土地租借関係雑件/3.絶影島/1 明治30年8月18日から明治30年10月14日(レファレンスコード:B03041171700)』。
表題の期間からでも分かるとおり、史料丸ごと大韓帝国の成立する前です。
別途連載しようかとも思ったんですが、それだとちょっとうまくない所があり、今回の連載中にやっちゃおうと思いますので、よろしくお願いします。

まずは、6月30日のエントリーでのイギリスの下院とロシアの新聞のやりとりの約1ヶ月後の話。
1897年(明治30年)8月18日発『電受第332号』より。

第106号

釜山絶影島石炭庫用地(我石炭庫の西側)借入方、露公使より申入れたる由。
右は先例あるに付承諾するの外なかるべしとて、閔外部大臣より内々本官へ相談ありたり。
絶影島。
現在で言う、釜山広域市影島区ですね。
ここに、石炭庫用地を借り入れたいとの申し出があり、外部大臣の閔種默が「前例があるから承諾するしかないよね?」と加藤に相談に来た、と。
っていうか、我石炭庫の西側ってことは、日本も既に借りてるんですねぇ。

で、この返信が1897年(明治30年)8月21日発『第70号』。

貴電第106号の件は、素より表面故障申入るべき筋に無之も、可成は朝鮮政府にて承認せざる様致度に付、其御含を以て内密に相当の手順を執られたし。
まぁ、朝鮮政府の判断することですから表向きは反対できないけども、なるべく承認しないような方向で手をうってね、と。

更にこれへの加藤からの返事。
1897年(明治30年)8月27日発『電受第350号』。

第113号

70号電訓の件、過日閔外務大臣より内相談ありし際、之が拒絶手段を取らしめたるも、如何せん露公使去るに臨み、何事も渾て之を排斥し不快の感を抱かしむるは、従来の関係に於て忍びざる所なりと、国王断て希望に出で、強て承諾を与ふるに至れり。
事情已に此の如くなるを以て、英総領事とも談合したる結果、此上は釜山税関長に旨を含み、我領事と協力し実地に就き内々妨害を試むる様手段を取れり。
ロシアを不快にさせるのは、これまで築いてきた関係上忍びないという事で、高宗たっての願いで承諾を与える事になった、と。
北朝鮮を不快にさせるのは、これまで築いてきた関係上忍びないという事で、盧武鉉たっての願いで・・・。(笑)

まぁ、真面目な話、当時の情勢としてロシアの申し出を断れる筈が無いわけで、加藤はイギリス総領事と相談の結果、釜山税関長と日本の釜山領事と協力して、内々に妨害を試みる方法をとる事にしたんですな。
この辺の、今までほぼ無関心と言っても良かったイギリスとの連携は、それこそ6月30日のエントリー等でのイギリス本土の下院での話の影響が大きいのかもしれませんね。

続いて、どこから情報が来たのかは不明ながら、大隈重信外務大臣から釜山領事伊集院彦吉への、1897年(明治30年)8月30日発『電送第300号』。

第19号

当地露国公使館附陸軍大佐ヤンジュール、此程当地を発し貴港へ赴きたり。
右は、絶影島に於ける同国借入地所検分の為なりと云ふ。
就ては、同人到着の上は其挙動に注意し、且つ其地より他に赴くときは、其行先等探知の上電報ありたし。
在日ロシア公使館付きの陸軍大佐が、絶影島の借り入れ場所の検分に行くという情報が入ったから見張れ、と。
これに対する返電。
1897年(明治30年)8月31日発『電受第353号』より。

第9号

19号御電示の露国公使館附陸軍大佐は、昨日入港の玄海丸に乗込み居らず。
同人は、何時日本を出発したるものなるや。
又、絶影島に於て露国が石炭置場借入のことに就ては、予て加藤弁理公使より注意ありたるに依り、露国の挙動注意し居たるに、29日露国軍艦シユウツチ仁川より来り、其れに在京城露国公使館書記官乗込居り、昨30日当港官吏を伴ひ絶影島に赴き、我石炭庫の右にして凡そ300間四方の地所を選定せり。
此地所は、我居留地の対岸までかかり居り、且つ日本人が韓人より密かに買入たるものを含み居るを以て、直ちに加藤弁理公使に電報し、又当港官吏及び税関長も、右の地所を貸与するは反対にて、各々京城に意見を送ることに話し置けり。
委細郵便。
大隈からの電報にあった、ロシア陸軍大佐は来ていないものの、京城のロシア公使館書記官が来て場所選定。
しかし、日本人居留地の対岸までかかっていて、日本人が韓国人から密かに買った土地も含まれてる、と。
さらに、釜山港の官吏も税関長もその場所を貸すのは反対だということで、それぞれ上司に連絡する事にしたんですね。

さて、この話がどのように発展していくんでしょうか。


ちょっと早めだけど、今日はこれまで。



帝国への道(一)
帝国への道(二)
帝国への道(三)
帝国への道(四)
帝国への道(五)
帝国への道(六)
帝国への道(七)
帝国への道(八)
帝国への道(九)
帝国への道(十)
帝国への道(十一)
帝国への道(十二)
帝国への道(十三)



世間の話題は北朝鮮のミサイルと韓国の竹島周辺海域調査一色。
マジで、あいつらが何考えてるのか分かりません・・・。

さて、前回の連載で大韓帝国が成立したわけですが、もう少しだけお付き合いいただきたいと思います。
今日はまず、『公文雑纂・明治三十年・第十四巻・外務省五・外務省五/韓国ニ於テ皇帝称号式挙行済ノ公報アリタルニ付各国ノ意嚮如何ニ拘ハラス自今我帝国ニ於テハ新称号相用井随テ故王后ヲ皇后ト改称スルコトニ取極メタル件(レファレンスコード:A04010035700)』から見ていきましょう。

送第342号

客月19日附機密第16号を以て、朝鮮国に於ける皇帝称号式挙行済之件に関し執奏方申進置候処、右は各国に於て新称号を用ゆると否とに不拘、我帝国に於ては自今新称号相用ひ、随て故王后には皇后の称相用候事に取究め、既に本日其旨致上奏候間、此段御通知申進候也。
6月24日のエントリーでは、イギリス・フランス・ドイツの公使や領事はEmperorやEmpireには否定的でした。
一方で、日本としては「日本語にて大君主を皇帝と改むるは差支なし」だったわけで、ここでも各国がどうしようと日本は皇帝号使うよ、と。
まぁ、現代韓国では天皇陛下ですら日王と呼ぶわけですがね。(笑)

さて、皇帝号となりましたので、当然アノ話も出てくるわけです。
『公文雑纂・明治三十年・第十四巻・外務省五・外務省五/弁理公使加藤増雄韓国皇后陛下葬儀ノ節特派公使トシテ会葬被仰付タルニ付御信任状御下付ノ件(レファレンスコード:A04010035600)』から。

辨理公使加藤増雄、韓国皇后陛下葬儀の節、特派大使として会葬被仰候に付、御信任状別紙の通り立案奏供 欽閲候間、本書御下付相成候様支度、此段謹で奏す。
はい。
天皇への奏上にも閔妃を皇后、と。
ついでですんで、先に信任状案も見てみましょう。

天佑を保有し、萬世一系の帝祚を踐みたる大日本国大皇帝、敬で威徳隆盛なる良友大韓国大皇帝陛下に白す。
今般、皇后陛下の葬儀を執行せらるるに際し、特に貴国に駐紮する辨理公使正五位勳五等加藤増雄を特派大使として其葬儀に會せしむ。
抑も増雄をして特派大使と為すや、陛下に対し朕が哀悼の切なるを表するものなり。
冀くは陛下此意を領せられんことを、朕は此機に臨み併せて陛下の康寧を祈る。
神武天皇即位紀元2557年 明治30年11月8日東京宮城に於て親ら名を署し璽を鈐せしむ。

御名 国璽
このタイミングで閔妃の葬儀って事は、やはり7月2日のエントリーにおける、皇帝を名乗って閔妃も皇后として追封したいからだろという加藤の予想が、BINGOだったって事でしょうね。
つうか、分かりやすいですなぁ。(笑)

で、これは京城の加藤にも伝えられます。
アジア歴史資料センターの『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第二巻/2 明治30年9月27日から明治31年7月23日(レファレンスコード:B03050002900)』より、1897年(明治30年)11月6日発『電送第368号』。

第93号 電信案

加藤弁理公使   大隈重信外務大臣

自今我政府に於ては皇帝称号を用ゆる事を取極め、今般故王后の葬儀に際し、貴官を特派公使として会葬被仰付其信任状に初めて皇帝・皇后の新称号を用ひたり。

原書は、朝鮮国皇帝称号之部に在り。
原書があるとされる朝鮮国皇帝称号之部、アジ歴ではまだ公開されてないけど見てみたいなぁ。
多分、他の列強の話とかもあるんだろうねぇ。

今日最後の史料は、一部で有名なメルレンドルフ(P.G.Mellendorff:モルレンドルフ、モーレンドルフ)に関する話。
1897年(明治30年)11月8日付『機密送第1993号』。

清国寧波税務司「モーレンドルフ」氏の朝鮮政府招聘に関する談話

謹啓本月5日、小官■州より紹興府を経て当港へ到着致し、当港税関長「モルレンドルーフ」氏は前年朝鮮政府の顧問たりし人物にて、小官上海に於て知友に有之候為、訪問の上親密の談話を致候次第を以下に陳述■候。

10月30日、「モルレンドルーフ」氏は用務を以て上海に至りたるとき、今地に於て朝鮮王より在上海閔泳翊の所へ差遣はされたる2使に会晤せり。
朝鮮王は、此回閔泳煥が露国に於て、独断を以て財政顧問として露人を招聘せしを嘉納せず。
然れども、一方に於て露国公使は露人を以て財政顧問に任用するを主張し、一方に於ては現任財政顧問并に総税務司「マキーホルン」氏の■■して辞職せんとするに遇ひ、頗る紛紜を極るを以て、朝鮮王は2使を在上海の閔泳翊の■に差遣はし、同氏をして閔泳煥に代て駐露公使として露国に赴任し、善後策を運らすを諭示し、并に差遣2使をして、「モルレンドルーフ」氏に「マキーホルン」氏に代て、総税務司并に政務顧問として朝鮮政府の招聘に応ぜんことを勧誘せしめたり。
「モルレンドルフ」氏は、前年朝鮮在留の際、頗る朝鮮王の信任を博し、退去後も朝鮮王及び閔泳翊とは絶へず交通し、朝鮮王は国務に付■に同氏に下問せしことありたれば、此回招聘のことも決して突然のことにあらずと云へり。
「モルレンドルフ」氏、朝鮮政府の招聘に対しては、充分之に応ずる意嚮あるも、朝鮮政府の招聘にては位地安固ならず、一朝韓廷風雲不穏なるときは、前年の如く忽ち解任の■運に遭遇するを免がれざるを以て、同氏は朝鮮政府をして公然在北京総税務使「ローハート・ハート」氏に照会し、「ハート」氏の許可を得て一時支那税関休職となりて朝鮮に赴任するを希望せり。
然るときは、万一朝鮮に於て蹉跌あるも、支那税務司に復任すること容易なればなり。
次に同氏は、朝鮮に対する日露両国均勢の「アンデルスタンデーンク」を確知するを希望し、果して「ハート」氏の許可を得て、朝鮮に傭入るる際には、我帝国外務省及東部■州に於ける露国総督を訪ひて、両国の意嚮及両国の韓土に於ける均勢政略を聴きて後、赴任すべしと云へり。

上述■氏の口述に拠れば、同氏の朝鮮の招聘に応ずる希望あれば、朝鮮政府より「ロバート・ハート」氏に照会を経て、朝鮮顧問并に総税務司に任用せらるるも測られずと存候。
又、「モルレンドルフ」氏の説に曰く、同氏が上海に於て会晤せし朝鮮王の差遣せし2氏の口気に藉りて観察するに、閔泳煥は露国に於て独断を以て財政顧問官を招聘せしのみならず、此外に露国と秘密條約を訂結せし如し。
秘密條約は、盖し多数の露人を以て朝鮮政府の顧問に充るにあるべし。
此秘密條約取消のため、閔泳翊を駐露公使に任命するに至りしものならん。
又、小官の視察に拠れば、「モルレンドルフ」氏は権略家とは見做し難し。
又、其敏捷なる外交家とも認めず。
縦令彼が朝鮮招聘に応ずるも、我国に於ては別段顧慮するを要せずと存候。
而して、彼を利用するに於ては、却て我国の益を収むる処多かるべしと存候。
右、同氏談話の概略、御報申上仕候。
閔泳煥が、ロシアで独断で財政顧問をロシア人にしたことを、高宗が喜ばなかったって・・・。
んー、最早何を信じて良いのか分からん。(笑)
ただ、この後度支部顧問イギリス人ブラウンの解任と、ロシア人アレキセーエフの就任を巡ってゴタゴタがあるのは、事実である。
多分、ロシア公使がウェベルからスペールに代わった事がこういう話になった大きな原因であり、閔泳煥が独断で締結したというのは、これまでの経緯を見ても嘘ではないかと思うんだけどなぁ。
つまり、単なる変節じゃないかな、と。
まぁ、この辺は保留しておくしかないんだろうね。

で、「マキーホルン」がイマイチ良く分からないが、ブラウンは"J.M.ブラウン"であり、話の内容から彼しか該当人物がいないため、ブラウンのミドルネームがマキーホルンなのかも知れない。
「マキーホルン」が誰をさすのかは、不明。
(2006年9月7日、elseorand氏の指摘により修正)

総税務司及び政務顧問にロシア人がなる事を高宗が嫌がり、モルレンドルフにブラウンに代わって総税務司及び政務顧問になってくれないか、と。
いや、なんかすげぇ場当たりなんですけど。(笑)
先ほど、最早何を信じて良いか分からんと述べましたが、高宗自身がいつも場当たり又は周りの空気に流されるため、定見を持っていないというのが、その最大の理由なんだろうなぁ。(笑)


今日はこれまで。



帝国への道(一)
帝国への道(二)
帝国への道(三)
帝国への道(四)
帝国への道(五)
帝国への道(六)
帝国への道(七)
帝国への道(八)
帝国への道(九)
帝国への道(十)
帝国への道(十一)
帝国への道(十二)