強制退位?

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今回紹介する史料が収載されているのは、アジア歴史資料センター『韓国二於テ第二回万国平和会議へ密使派遣並二同国皇帝ノ譲位及日韓協約締結一件 第一巻/分割1(レファレンスコード:B06150550500)』。
以前、高宗の譲位に関して、全12回で「皇帝譲位」という連載を書きました。 → 【参考:連載最終回】
その際の使用史料は、「統監府史料」からの引用だったわけですが、ようやくアジア歴史資料センターでもアップされたわけです。

今回取り上げる『韓国二於テ第二回万国平和会議へ密使派遣並二同国皇帝ノ譲位及日韓協約締結一件 第一巻/分割1(レファレンスコード:B06150550500)』中、ハーグ等からの英文電報以外は殆ど掲載済みであったわけですが、一部取り上げていない史料を見つけました。
日本政府側の廟議の内容についてです。
統監である伊藤の元には、その検討結果は昨年の6月26日のエントリーで取り上げた1907年(明治40年)7月12日付『来電第141号』で伝えられ、さらに詳細については、現地に向かった当時外務大臣の林薫から伝達されたと思われます。

さて史料ですが、86画像目から88画像目がその1907年(明治40年)7月12日付『来電第141号』になっています。
一応、再掲します。

西園寺総理大臣より。

外務大臣宛第57号貴電の件に関しては、元老諸公及閣僚とも愼重熟議の末、左の方針を決定し、本日御裁可を受けたり。
即ち帝国政府は現下の機会を逸せず、韓国内政に関する全権を掌握せんことを希望す。
其の実行に就きては、実地の状況を参酌するの必要あるに依り、之を統監に一任すること。

若、前記の希望を完全に逹すること能はざる事情あるに於ては、少くとも内閣大臣以下重要官憲の任命は、統監の同意を以て之を行ひ、且統監の推薦に懸う本邦人を内閣大臣以下重要官憲に任命すべきこと。

前記の趣旨に基き、我が地位を確立するの方法は韓国皇帝の勅諚に依らず、両国政府間の協約を以てすること。

本件は、極めて重要なる問題なるが故に、外務大臣韓国に赴き親しく統監に説明すること。

本件に就きては、陛下より閣下に対し特に優渥なる御言葉あり。
委細外務大臣より御伝逹致すべく、同大臣は来る15日出発。
貴地へ直行の筈。
で、89画像目が外務省による書き起こし、90画像目がその校正原稿となっているようです。
勿論、明記はされていませんので、不確実ですが。

続いての91画像目及び92画像目が、これまた明記はされていないものの、廟議で話し合われた案だと思われます。

第一案
韓国皇帝をして其大権に属する内治政務の実行を、統監に委任せしむること。

第二案
韓国政府をして、内政に関する重要事項は、総て統監の同意を得て之を施行し、且施政改善に付統監の指導を受くべきことを約せしむること。

第三案
軍部大臣、度支部大臣は、日本人を以て之に任ずること。

韓皇をして皇太子に譲位せしむること。
将来の禍根を杜絶せしむるには、斯の手段に出るも止むを得ざるべし。
但し、本件の実行は韓国政府をして実行せしむるを得策と為すべし。

国王并に政府は、統監の副署なくして政務を実行し得ず。(統監は、副王若くは摂政の権を有すること)

各省の中、主要の部は日本政府の派遣したる官僚をして、大臣若くは次官の職務を実行せしむること。
悪辣な日帝の陰謀です。
で、次が今回紹介したかった史料ですね。
93画像目です。
ただ、94画像目が87画像目と同一、95~96画像目が91~92画像目と同一、97画像目が93画像目と同一であり、前者の方が見やすいので、下に掲げる画像は97画像目の物を使用します。

強制譲位? (クリックで拡大)

山縣 寺内 多数
一.韓皇日本皇帝に譲位 今日は否 今日は否
二.韓皇皇太子に譲位 今日は否 今日実行
三.関白設置(統監)
四.各省に大臣又は次官を入れる
五.顧問を廃す
六.統監府は幕僚に限り、他は韓政府に合併
七.実行は統監に一任す
八.外務省より高官派出、統監と打合(外相)
九.勅諚説
十.協約説
十一.協約に国王同意せざるときは、合併の決心
(即ち(一)を実行す)
さて、この決定事項に関しては、1907年(明治40年)7月12日付『来電第141号』のとおり、結局統監伊藤博文に全く一任され、昨年7月3日のエントリーでの1907年(明治40年)7月22日付『来電第164号』で、「韓国政府との協商は、如何なる程度に於てせらるべき統監の御腹案なりや。其の辺の事、至急承知致したし。」と協約内容の照会があります。
そして、昨年7月4日のエントリーの1907年(明治40年)7月24日付『往電第86号(極秘)』のとおり回答され、ほぼ伊藤の意向どおりに第三次日韓協約が締結されています。。
先ほどの、悪辣な日帝の陰謀は伊藤に一任され、最も穏和な線で協約が妥結された事になります。

一方で、昨年7月7日のエントリーで伊藤が述べていた、

尚、今日に於て韓国の合併云々の議論あり。
此の如きは、第一に非常の負担を日本に増加するものなること言を俟たず、廟議に於ても諸般の考量は、充分之を盡くし其意見を決定したるものにして、此議論の如き、今更論議の余地なしと考ふ。
勿論韓国に於て、我提議を拒絶したる場合には、無論強制的の処置を執ること言ふ迄もなきも、幸に承諾せしを以て、此等の処置も亦之を執るの必要を見るに及ばざりしなり。
乍然、政府部内に於ては今後異論なかりしとの所も、今後国民の側に於て、多少の擾乱を生ずることは予め期せざるべからずと考へ、之に対しては本国より軍隊を招き、充分鎭圧の手段を講ずる覚悟なり。
は、将に上記可否表の「十一.協約に国王同意せざるときは、合併の決心」を指していると考えれば、総ての辻褄が合います。

さて、この史料。
併合と日韓協約の内容は上記の通りなわけです。
で、今日の本題。
高宗の純宗への譲位に同意しているのは、寺内のみであり、山縣も多数も「否」としております。

寺内以外皆、譲位を否定していますが。

勿論、寺内とは寺内正毅であり、廟議であるとすれば山縣とは恐らく山縣有朋ではなく、山縣伊三郎でしょうね。
尤も、名前が寺内の上にあるってことは、有朋の可能性も無いわけでは無いですが。

これに対して、韓国統監の伊藤博文も昨年6月26日のエントリーで譲位を示唆する李完用の言に対し、「之に対し本官は、尚熟慮すべしと答へ置けり。」なわけで。
で、同じ電文で廟議と訓示を請い、その結果が寺内以外皆「否」なわけで。


良く言われる強制退位って、誰に強制されたの?( ´H`)y-~~



【 参考 】
皇帝譲位(一)
皇帝譲位(二)
皇帝譲位(三)
皇帝譲位(四)
皇帝譲位(五)
皇帝譲位(六)
皇帝譲位(七)
皇帝譲位(八)
皇帝譲位(九)
皇帝譲位(十)
皇帝譲位(十一)
皇帝譲位(十二)


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純宗の施政改善の詔勅

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体調が戻って9月3日のエントリーの続きを書く筈だったのだが、気付かない内にアジア歴史資料センターの史料が大幅に増えてる・・・。_| ̄|○
現状保持している史資料と併せ、少々再検討しなければならない状態になったため、もう暫くお待ちを。

ということで、今回送るのは純宗の詔勅について。
これに関しては、7月9日のエントリー等で取り上げた際、非常に疑問に思っていたものであるのだが、今般見つけることが出来たらしいので発表。
先に言ってしまえば、前回取り上げた詔勅とは、全く別のものであった。
史料は、1907年(明治40年)11月25日『機密統発第490号』である。


今般当国皇太子殿下日本に留学相成候に付ては、何人か之れが監督輔導の任膺けしむる必要上、宮中府中合議の上、専ら本官に依嘱せんとの意図に出で、且つ之れを一般臣民に周知せしむる為、清国の歴史上人臣にして最も高貴の地位を占め、且つ古来稀に見る所の太師尊称の例を接し(韓国は清国に藩属の関係上曾て其の実例なし)、此任を本官に嘱せんとの希望ある旨、総理大臣等より相談有之候得共、他国の官職を承くることに我皇帝陛下の勅許を経るに非ざれば、本官限り承諾し難き筋に候間、過般其の旨貴大臣を経て奏請仰裁可を蒙りたるを以て先方に承諾を与へ候処、去る19日官報に別紙甲号の詔勅を発表し、嗣て又一昨23日、昌徳宮に於て皇帝陛下本官に対し、親ら別紙乙号の辞令書を交付せられ、又昨24日皇太子自ら官邸に臨み、総理大臣始め各大臣、侍従院卿、中樞院議長、修学院長及東宮職等侍立し、太師に対する子弟の礼式を行はせられ、且つ其の節、皇太子は自ら硯石青玉環犀帯の三品を携へ来りて本官に贈られたり。
右の中硯は太師に対する古例に基き、青玉・環犀帯の二品は孰れも親王着用の衣冠に付属するものにして、即ち本官に対する親王の待遇上、特に之を贈られたる次第なり。
本官は、殿下還宮後直に東宮の御殿に伺候し、携ふる所の字典・歴史・地誌及銀製花瓶を献上し御答礼申上げたり。
右大要及報告候也。



これは、伊藤博文がこの時の皇太子、つまり純宗の異母弟李垠の太師(王の養育の責任を負うもの)となった時の報告である。
kimuraお兄さんの9月1日のエントリーに王世子(世子)教育の話が出ていたが、清国の藩属となってからは実例が無いようである。

話が逸れた。
これに関する詔勅が、別紙1として添付されている。


詔勅

朕惟ふに国は儲嗣を以て本と為す。
儲嗣を養育するは、早教を以て本と為す。
而して教は古今の異有り。
現今世界交通の日に当て、知識を開発し文武を兼備せんと欲せば、但だ春坊胄筵に師伝と相対して講学するを以て教と為す可からざる也。
必ず遠遊博学之功を得。
然る後、以て才徳成就し治道を明錬す可きなり。
故に泰西諸国の太子も、多くは幼年に於て外国に遊歴し、軍籍に仕入する者有るに至れり。
惟ふに我が皇太子は英睿夙就にして実に元良の徳あり。
政に宜しく旱きに及んで遊学し、深く東宮に居らしむ可からず。
故に太子の太師たる統監公爵伊藤博文に命じて日本に扈往して輔導誨諭し、凡て教育之道に係るものは専ら大日本大皇帝に頼りて其成就を期す。
此れ固より我が韓国初めて有るる盛挙にして、亦韓国無疆惟休之権輿なり。
異日我が国家を勃興し、我が邦命を維新し、我奎運を開発するの望が今日の此挙よりして始まると謂ふ可きは、朕が心に疑なくなり。
惟ふに爾臣民は咸な此意を知悉せよ。

隆熙元年11月19日
御名  御璽



元良については6月28日のエントリーにも出てきたが、皇太子の事である。
という事で、李垠を留学させる旨の詔勅。


 伊藤博文と李垠


続いて、太師とする辞令である別紙2。


大勳位統監公爵伊藤博文

朕以文明教育施之於儲君簡卿為太子大師委以輔導之任

李 坧

隆熙元年11月19日



李坧は、勿論純宗の本名である。
そして別紙3が、冒頭に述べた庶政刷新の為の維新宣布詔勅である。


皇帝、下の如く曰ふ。
天地の万物を覆載す四時の変遷あるに非ずんば、以て其の生成を遂ぐるの功なきなり。
故に三王礼を同ふせず、五帝楽を同ふせず、若し窮して変ずることを知らざれば、則ち人の類絶へん。
我朝聖列相承け、重熙累洽文治を崇尚し、関を閉ぢて自ら守り五百年来民昇平を楽めるもの、此れ五洲未だ通せずして独り一隅を保つの時なりし為なり。
然るに、今は則ち梯航相望み天涯咫尺なり。
交際の殷事物を繁復た昔時の如くあらざれば、其の旧規を墨守して、能く性命を保ち国家を守るを得んや。
况や積弊痼を成し、文学は只糟粕を啜り、法度は但に皮毛を余し、百の文具あり一の実事なし。
此の如くにして、其れ能く世界の中に自立せんや。
民生の塗炭邦命の綴旒亶に是に由るなり。
之を念ふて此に及べば、寧そ寒心痛骨せざらんや。
朕斯の時に於て、適々禅授の命に膺り、遽かに九五の位に臨めり。
時局板蕩瘡痍満目大更張大変通の挙あるにあらずんば、決して我民生を極ひ、我邦国を保つなきを以て、故に維新の二字を以て定めて国是となし、宗社に誓告し、一心奮励治安を鋭図すべし。
惟ふに爾大小人民咸な朕の意を躰して、亦乃心を新にし、迷滞誤解の見を開き、積久固陋の習を袪き時艱を慨念し、風気を丕変し、孜々汲々として惟に正徳利用厚生の三事を是れ務めば、民以て阜なるべく、国以て強むべし。
而して邦命を以て維新すべきなり。
倘し猶ほ孚はず悟らずして旧を戀ひ、新を厭ふが如くんば、是れ冬霓を望み夏氷を思ふ如きなり。
其れ能く淪胥を免れんや。
茲に庸て誕誥すべし。
爾等尚之を恭聴すべきなり。
所有の応に行ふべき條目は、左に開列すべし。

一.上下一心を一にし、君臣相合し大に開国進取の大計を定む
一.農桑を勧め、商工を奨め、国富を開発し、立国の基礎を鞏固ならしむ
一.紀綱を振肅し、積弊を■■救し、以て中興の偉業を昌んならしめ、開国の宏謨に副ふこと
一.内政を改善し、以て臣民の幸福を進め、司法制度を確定し、以て寃枉なからしむ
一.広く人材を求め、適地に登庸せしむ
一.教育は、華を捨て実を取ることを務め、以て国家緊要の需用に応ずる途を開かしむ

隆熙元年11月18日
御名  御璽

内閣総理大臣 大勳 李完用
内務大臣 勳一等 任善準
度支部大臣 勳一等 高永喜
軍部大臣陸軍副将 勳一等 李秉武
法部大臣 勳一等 趙重應
学部大臣 勳一等 李載崑
農商工部大臣 勳一等 宋秉畯



んー、古典なんかの引用もあるっぽく、私如きの能力では詔勅の中身は解読不能。(笑)
以下、社稷に掲げる誓文に続くが、内容はほぼ同じため省略。

ということで、以前伊藤がやたらと拘っていた詔勅は、どうやらこれであるらしいというお話しでした。
では。


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皇帝譲位(十二)

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今日でこの連載も終了。
でもこの後は、新連載の「軍隊解散」が待っている・・・。
間にネタを取り混ぜて、気分転換すると思うのでよろしく。
また、完結編とは言っても、従来の連載同様に、今回の連載も私の現在当たれる範囲での史料による紹介であり、新たな史料が見つかればその都度書き足すことはあるだろう。
では本編。

純宗即位に当たっての詔勅発布を、頑ななまでに拒む伊藤博文。
何故だろうか。
その理由の書かれた電文、1907年(明治40年)9月6日付『来電第28号』より。


貴電第47号に関し、今回の詔勅は新帝即位の初に当り国是の大綱を示すものにして、例へば我が維新の際に於ける五ケ條の御誓文の如く、之に依て新政の基礎確定するものなり。
是れ本官が此の詔勅の、文体及内容に頗る重を措く所以にして、此の際は決して責任を云々し、既に一度承認を与えたるが故に変更する能はずと云ふが如き、体面論を唱ふべき場合に非ず。
須らく審議熟慮して、長へに韓国統治の大方針を示し、万般の施設、之に則ることを得る詔勅を公布せしむべきなり。
而して本官は、未だ所謂改正詔勅案なるものを見ざるが故に、之を熟読翫味したる上にて本官意見の在る所を開陳すべきに付、至急御送付あるべし。



嗚呼。
返す返すも昨日のニュースが・・・。(笑)

新帝即位の詔勅は、五箇条の御誓文のように新政の基礎となるものにしたい。
これが為に、伊藤は頑ななまでに従来の詔勅案を拒否していたのである。

五箇条の御誓文のような、新政の基礎となる詔勅。
立憲君主制の確立。
近代憲法の制定。
裁判制度と監獄制度改善。
教育普及。
土地制度の確立と戸籍整備。
排水、灌漑、殖林及び農地改良。
税制改革。
鉄道網整備と道路修築。
旧式軍隊の解体と徴兵制による新式軍隊(実現せず)。
そして何より政情の改善。
こうして並べてみると、伊藤が何を目指していたかが分かるのではないだろうか。

しかし、出来の悪い生徒に頭ごなしに勉強させようとしても、却って恨みを買うだけである。(笑)
「無駄な努力」というものは、世の中に確かに存在するのだ。
福沢諭吉の『脱亜論』は伊達ではない。

さて、この改正詔勅は、返電に当たる9月7日付の『機密統発第234号』に記載がある。


今般、韓国皇帝に於て宣布せられむとしたる詔勅の儀に関し、鶴原総務長官へ御電訓の趣、敬承致候。
抑々韓国政府に於て、一日も速に該詔勅を公布せむことを熱心に希望したる趣意は、一面に於ては新帝即位の初に当り、従来の弊政を釐革し、善政を施行するの聖意を臣僚及一般人民に宣言し、以テ国民の信頼を得むとしたる意味も有之候得共、又一面に於ては、先頃解隊したる将校・士卒が各所に徘徊し、兇類を煽動して暴挙に加担せしめ、人を殺し、財を掠め、良民を傷害するに拘らず、地方人民は却て之に同情を表するの傾あり。
是れ、畢竟軍隊解散の真意を了解せざるに依る次第に付、速に之が説明を与ふるの急務なるを認めたるが故に有之候。
先頃、李総理大臣は本官を統監府に訪問し、閣議の結果を報告し、詔勅宣布の一日も猶豫し難き理由を陳述致尋て、8月26日公文を以て詔勅案を提出し同意を求め来候に付、本官は之を閲読し、其の趣旨閣下方針と何等相違する所なく、別段不都合の廉なしと認め、且急速公布の必要なる次第をも諒察致候に付、同日公文を以て同意を与へたる次第に有之候。
然るに、其の後閣下御趣旨の在る所を略々推察致候得共、既に同意を与へたる後のことにして如何とも致難く存居候折柄、韓国政府に於ては更に熟考の上、詔勅の文字及体裁を修正し、本日別紙訳文の通り詔勅案を提出して同意を求め来候に付、玆に閣下に送達致候間、之に對し何分の御回示を煩し度候。

敬具

明治四十年九月七日
韓国駐箚軍司令官 男爵 長谷川 好道

追て韓国政府に於ては、已に宣諭使をも任命し、其々派遣を急居候次第に付、可成速に御意見拜承致度候


○ 別紙

上件 修正詔勅案 日訳文

朕、寡昧を以て洪基を丕承し、才踈く、力薄くして、我太皇帝付託の重きを負はん事を恐れ、夙夜憂懼の暇息に遑あらず。
夫れ治国の道は、惟時制の宜しきに因るにあり。
故に朕即位以来、大朝処分を奉承して旧■を痛革し新制を亟布するは、断々一念寔に国に益し民に便ならしむるに外ならざるなり。
更張の際は事■見多く以て愚民の誤解を致し、浮言を□動し、兵を潢池に弄し、左々騒擾し、禍無辜に延び害隣商に及ぶ。
其流離奔竄の苦号呼顚連の状想起するに忍びざる者あり。
故に静思するに、実に朕が臨御日浅く、徳■民に加はらず、情志未だ孚ねからず寃苦上に達せざるに由り、咎実に朕に在り。
汝百姓に何ぞ誅せんや。
玆に命じて使臣を分遣し、各道に宣諭す。
惟爾万民は朕が意を洞悉し、其迷見をし祛し、兵を釈き、家に帰り、王法に触るる勿く、父母妻子と倶に太平の福を共享せよ。
今禾■を野に見、収穫前に在り。
棲屑定まらざれば、其勢ひ鋒鏑に罹らざる時は凍餒の患を免がれず、言念此に及べば曷そ惻然として如傷の情無からんや。
玆に心腹腎■をき、万民に誕告す。
朕が言は再せず。
想ふに宜しく知悉すべし。



不明部分があるのでイマイチ詳細が分からないが、メインは軍隊解散に伴う暴徒に関する事である。
とても五箇条の御誓文とはいかないだろう。
ともかくこの修正詔勅案は、即日伊藤の元へ送られた。
鶴原総務長官から伊藤に宛ての1907年9月7日付『往電第50号』より。


貴電第28号に関し、本日統監代理より詔勅案発送せられたり。


統監代理から送られたという事は、『機密統発第234号』が送られたという事か。

この詔勅を受け取った伊藤は、随分悩んだようである。
返電は、4日後の9月11日であった。
1907年9月11日付『来電第34号』より。


修正の詔勅案に対しては、同意を表す。
速に御発布あるべし。



結局伊藤は、五箇条の御誓文とはかけ離れているように見えるこの修正詔勅案に同意したのであった。
この時の伊藤が、満足して同意したのか、それ以外の理由により同意したのか。
残念ながら、現在の私には知る術がない。


 (とりあえず完)


皇帝譲位(一)
皇帝譲位(二)
皇帝譲位(三)
皇帝譲位(四)
皇帝譲位(五)
皇帝譲位(六)
皇帝譲位(七)
皇帝譲位(八)
皇帝譲位(九)
皇帝譲位(十)
皇帝譲位(十一)


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皇帝譲位(十一)

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最早「譲位」の話では無い気もする、連載「皇帝譲位」。(笑)
どうにも上手く分ける事が出来ない、私の手腕の無さを嗤っておいて欲しい。
本編に入る前に、ニュースを一つ。


「五箇条の御誓文」の直筆草稿、オークションに出品

「廣(ひろ)ク會議(かいぎ)ヲ興(おこ)シ萬機(ばんき)公論ニ決スベシ」――。
明治政府の基本方針を示した「五箇条(ごかじょう)の御誓文(ごせいもん)」の直筆草稿が、8日から10日まで東京都千代田区の東京古書会館で開かれる入札会に出品される。

御誓文は、新政府参与の由利公正(ゆり・きみまさ)の起草文に、やはり参与だった福岡孝弟(たかちか)、木戸孝允が修正を加えた。

出品されるのは、福岡が加筆、修正した後のもので、縦16・5センチ、横45・5センチの和紙に墨で書かれている。所蔵していた個人が出品した。

入札金額は2000万円から。入札は古書の専門業者が対象だが、8、9日には一般も入場できる下見会が行われ、業者を通じて入札への参加もできる。
問い合わせは、東京古書会館内の明治古典会(03・3293・0161)。


(古書オークションで公開される「五箇条の御誓文」の直筆草稿)


No---------------------!!!(笑)

と叫んだが、オークションにかかる事自体が嫌なのではなくてね、今日じゃなく明日ニュースになってくれたら、もの凄いタイムリーなニュースになったのよ。
いや、詳しくは明日のエントリーを見てくださいとしか言えないけど・・・。
書く順番、変えようかと思うくらい残念。(笑)

それでは気を取り直して、前回の即位に当たっての純宗の詔勅発布の件から。

前回の記載通り、伊藤はこの時半島に居なかった。
時期的には、閔妃暗殺事件史料(一)~(四)で扱った李斗璜・李範来等亡命者帰国問題の頃と同時期である。
まずは、古谷秘書官(恐らくは、枢密院議長秘書官として伊藤暗殺事件の現場にも居合わせた古谷久綱)から木内重四郎農商工務長官への、1907年(明治40年)8月29日付『来電第15号』を見てみよう。


詔勅案の文体及内容に関し、統監は大に意見あるに付、帰任迄発布を控ありたしとのことなり。
銃砲及火藥類取締法案に関しては、統監より直接統監代理に電報せられたり。



これに対する返電が、1907年8月30日付『往電第30号』である。


詔勅の発布は、韓国政府の熱心に希望する所にして、先日差上げたる草案に基き内部大臣自ら筆を執りて之を簡単にし、数日前既に上奏裁可を得たりと云ふ。
数名の宣諭使は既に任命せられ、其の叙任は官報に掲載せられたり。
韓国政府は即位式挙行の際を機とし、宣言したき希望を抱き、宋農相最熱心に之を主張す。
統監の承認せられたる詔勅草案を、至急御送付を願ふ事を得ば、韓国政府は大に満足する事を信ず。



この時に電信でやりとりされた詔勅案がどのような内容なのか、残念ながら探すことが出来なかった。
伊藤は、その詔勅に大いに意見があると言う。
草案を簡単にしたという内部大臣は、任善準である。

続いて、再び古谷から木内への1907年9月2日付『来電第19号』。


貴電第30号に接し、統監は更に詔勅案を熟読せられたるが、今日斯かる詔勅案を発布するは、却て事端を滋くするの虞あるを以て、断じて同意を表することを得ずとの御意見にして、是非共統監の帰任迄発布を御控ある様、貴官に伝達すべしと命ぜられたり。


伊藤、詔勅案を激しく拒絶。(笑)
益々中身が知りたい。
話を先に進めよう。
鶴原定吉総務長官から伊藤への、1907年(明治40年)9月4日付『往電第42号』より。


韓国政府に於ては、新帝即任の初に当り詔勅を公布して、新政の綱領を臣僚及一般人民に宣諭せんことを希望し、曩に李総理は統監代理を訪ひ、其の主旨を詳陳し、更に公文を以て詔勅案を送付し来り。
統監代理は之を以て閣下の御方針に背戻する所なく、至極適当なりと認め、閣下の御意見を伺ふ迄も無しと思考し、公文を以て同意を与へられたり。
(8月26日)韓国政府は、即日上奏裁可を得、且宣諭使4名を任命し、其の叙任は8月30日の官報に掲載せられたり。
然るに木内・古谷の電報往復に依れば、右詔勅の公布は閣下の御帰任迄差控へよとの御趣意なれども、木内の送りたる草案と詔勅とは文体も異り字句も簡単なり。
只主意は大同小異なり。
元来此の詔勅宣布の首唱者は韓国内閣にして、閣臣一同は即位式挙行の際に之を公布したき旨熱望し、此の上更に猶予し難しと申居れり。
統監代理は既に一旦同意を与へたる以上、今に至り中止し難きに付き、此の上は閣下に対しては責任を帯びて公布を承認する決心なりと申居らる。
右の事情に付き、特に御承認あらんことを希望す。
折返し御電訓を請ふ。



伊藤が激しく拒絶した詔勅を、長谷川は「伊藤の方針に背くわけでもなく、問題無いと思い公文で同意した」と。
さらに8月30日の官報で公表したとの事である。
一度同意を与えた以上、長谷川自らが責任をとって公布を承認する心づもりである、と。
長谷川は、ここまで強硬な反対にあうとは思っていなかったのであろう。

これに対する伊藤の返電が、1907年9月5日付『来電第25号』である。


貴電第42号に関し、新に起草せられたる詔勅案を閲読したる上は兎も角、従来の詔勅案の趣旨にて之を発布することは、断然不承知なり。





再び激しく拒絶。
つうか、「断然不承知」って・・・。

これに、更に鶴原が返電したものが、1907年9月5日付『往電第47号』である。


貴電第25号に関し、其御趣旨、統監代理に申述べたるも、往電第42号の通り既に詔勅案に承認を与へ、且つ昨朝更に李総理に対し之を公布することをも承認しあるるに付き、誠に致し方なし。
此の上は、統監閣下に対し相済まざれども、自ら責任を負ふ外無しとのことにて、甚だ困却し、依て李完用・趙重應・宋秉畯の三名と熟議の末、既に承認を受けある詔勅案を韓国政府に於て添削し、更に此の変更したる詔勅案に付き承認を求むべきに付き、其際は既に統監閣下の御趣意を承知し居らるる場合に付き、統監代理より之を閣下に通知し、閣下思召の通り添削御回付の上、統監代理の承認を受けて公布することに一同同意したるに付き、統監代理にも此の手続にて是非承諾あらんことを申入れ漸く許諾を得たり。
就ては、甚だ申訳なく且つ甚だ窮策の次第なれども、事情御洞察の上、此際速に詔勅公布の運びに至る様御裁決を仰ぎたし。
右御内諾を受けたる上は、李総理より変更案提出の事に取計ふべし。
折返し御電訓を乞ふ。



最早、伊藤のワガママとしか思えない状況になってきた。
しかしながら、彼には確たる考えがあったのである。


ひっぱりながら、今日はここまで。
次回、冒頭の残念な話も含めて、連載完結予定。
では。


皇帝譲位(一)
皇帝譲位(二)
皇帝譲位(三)
皇帝譲位(四)
皇帝譲位(五)
皇帝譲位(六)
皇帝譲位(七)
皇帝譲位(八)
皇帝譲位(九)
皇帝譲位(十)


皇帝譲位(十)

テーマ:

これまで記載したとおりの経緯を辿り、皇帝は高宗から純宗に代わり、第三次日韓協約が調印された。
今日は、その調印に関する報告と、恐らくは7月3日のエントリーで紹介した、1907年7月22日付『来電第164号』に関する返答の意味もあると思われる、伊藤博文の『対韓政策報告』を見てみよう。
当該秘文書は、前文を見ることが出来ないため、その前提の詳細を知ることはできないのが残念である。


 (前文欠)

今回協約の調印は主要の新聞紙にも記載せられたるが、日韓の関係は此協約により従来とは大に其面目を改むるものなり。
尤も其の実行に至りては、従来の状態を急激に変更することは之をなさず、漸を以て其の実効を収めんと期するなり。
何分一方には彼の如き混雑あり。
今や漸く其締結を見たるに過ぎたるが故に、其実行上の細節に関しては、尚ほ漸く追ふて副示する所あるべし。
大体に於て今回は、日本人に韓国政府内適当の地位を獲せしめ、当国の政治に本邦人に於て自ら行ふに至らしめたるものなり。
其位地の如何、并に其他詳細の点に就きては、尚ほ考量を要すべきものあり。
此等は次第に其決定をなさんと期す。
尚ほ此実行に対し、韓国側は、今更大体に於て畢論反対あるべき余地なきは論を俟たずと雖も、細節に就て彼等にも各其の意見・苦情あるべきが故に、此等は斟酌を加ふるも必要と考ふ。
要するに目下に於ては、漸を以て之が実行を計るの方針なり将、又此協約締結に関し、林外務大臣は本国に於て考慮を盡したる結果、決定したる廟議を本官に説明せんが為め来韓せり。
之より先き、本官も本件に就き種々考案を試み、実行し得べき最良の方策に就き、篤と考量する所あり。
而て林外務大臣の斎らせし考案と、本官の考案とは符合したり。
尤も其廟議は、今回の処置は統監に一任すと云ふにありて、所謂其考案なるものも、本官の参考として送られたるに止り、只可成其意見は符合せしことを望むに止まりしも、右の如く其意見は此方のものと符合。
当方の分は、多少前に進めたる点なきにされしも、要するに略一致したるは事実にして、之れ即ち今回の協約となりたる次第なり。
尚ほ此協約は、其條目は極めて簡単なるも、之が効用及之より生ずる権限は、甚だ重大なるものにして、従て其実行の順序方法は殊に容易ならざるものありと信ず。
而して、其実行の順序方法も一応は考量を盡し、協約の附属書として大体之を取極め置きたり。
此取極は、追ては之を発表することの要あるべきも、実行前に議論を惹起すことは面白からず。
依て夫れ迄公表を見合すことと決意せり。
協約締結の顛末は、大要上に述べるが如き。
協約書は、昨夜本国に電報し、同時に速に発表せられんことを申出し置きたり。
依て不日其公表を見るに至るべし。
其間之を新聞に掲載するは、強て差止めざることとせり。

終りに、韓国人の行動に就き一言し置くの必要あり。
抑も当国の事体は、日本政府の決断により其行動により決定確立を見ること勿論なりと雖も、何れの国人と雖も、進んで其国の存立に反する約束をなす筈なし。
幸に今回は、我提議に反対する暴論も政府部内に起らず、元老大臣の間にも亦之を生せずして其締結を見たるが故に、従来の状体に在りて、政情の改善は遂に之を行ふの由なかりしものの、此條約により本邦人其内部にあり、直に其実行の任に当るが為め、漸次其効果を挙げ、韓国人に此日本に反対する行動なきに於ては、着々其利益を蒙ること疑なしと信ず。

尚、今日に於て韓国の合併云々の議論あり。
此の如きは、第一に非常の負担を日本に増加するものなること言を俟たず、廟議に於ても諸般の考量は、充分之を盡くし其意見を決定したるものにして、此議論の如き、今更論議の余地なしと考ふ。
勿論韓国に於て、我提議を拒絶したる場合には、無論強制的の処置を執ること言ふ迄もなきも、幸に承諾せしを以て、此等の処置も亦之を執るの必要を見るに及ばざりしなり。
乍然、政府部内に於ては今後異論なかりしとの所も、今後国民の側に於て、多少の擾乱を生ずることは予め期せざるべからずと考へ、之に対しては本国より軍隊を招き、充分鎭圧の手段を講ずる覚悟なり。



途中で突っ込む部分も少ないので、一気に引用させて頂いた。
頑張って読破して欲しい。(笑)
この文を読んで、人それぞれ考えるところがあるだろう。


但し、「従来の状態では韓国の政情改善は遂に出来なかったが、今回の協約により日本人が行う事によって、その効果をあげ、韓国人が日本に反対するような行動が無ければ、その利益を受けることは疑いがない。」
そして、「韓国合併は日本には負担であり、今更論議の余地なし。」
前者は、この第三次日韓協約について、伊藤が目指しているもの。
後者は、伊藤が併合反対派であった証拠のうちの一つであろう。
伊藤がこの時何を考えていたのか。
それを理解する助けになる報告ではないだろうか。


さて、実は行われたのは譲位式だけではない。
純宗の即位式も行われているのである。

 純宗の即位式会場

即位式は、1907年(明治40年)8月27日に行われた。
尚、この際も前回の譲位に関する親書同様明治帝より親書が送られているが、内容はここでは省略する。
長谷川統監代理から伊藤博文に宛てられた、8月27日付けの『往電第21号』より。


韓国皇帝陛下即位の大典に就き、御送付あらせられたる御親書は、昨夜正に拝受。
今27日午前9時、特派大使として参内謁見の上、親しく之を韓国皇帝陛下へ捧呈せり。
其節本使は、「本日の佳辰を以て、即位式を挙行せらるるに当り、我が皇帝陛下は特に外臣を特派大使として、此の大典に参列せしめらる。茲に御親書を捧呈し、謹んで御即位を祝し奉り、併せて将来貴皇室の隆盛にして、益々御繁栄ならんことを祈り奉る。」旨、奏上せしに、韓国皇帝陛下は、「貴国皇帝陛下は、特に大使を本日の即位式に参列せしめられ、且つ懇篤なる親書を贈られしは誠に感激に堪えず、より両国皇室の交誼、益々敦厚ならんことを期す。」と勅答あらせられたり。
然して、本使御手づから大勳金尺章を賜りたり。
尚、鍋島外務総長、内藤大尉、立花通訳官、伊藤外務属を隨員として帯同せしに、之にも夫々叙勳の御沙汰ありたり。
右は、宮内大臣へも電報せり。



そしてさらに即位式の様子が、鶴原定吉総務長官から伊藤博文に宛てられた、8月28日付けの『往電』に記載されている。


韓国皇帝陛下即位式は、予定の通り惇徳殿に於て本日(dreamtale注:この電文は午前2時55分発であるため、文案は前日の27日に書かれたと思われる)午前9時半より挙行せられ、陛下は先づ、朝鮮服にて式上に出御。
総理大臣、賀表を捧読し、右終って入御。
新に大元帥の制服に更められて出御せらる。
長谷川大将は統監代理として、又白耳義総領事は各国総領事総代として、各々賀詞を朗読したる後、万歳を三唱して式終れり。
式上狭隘に付、参列の各国官憲は、京城駐在の日本文武高等官五等以上、及び各国総領事に限られたり。



この時叫ばれたのが「マンセー」であるかどうかは、知る術が無い。(笑)

さて、この即位式には伊藤は出て居らず、長谷川が統監代理として出席していたことから察する事ができるように、この即位式前後、伊藤は京城にはおらず日本にいた。
その間に電文でやりとりされた事がある。
即位に当たっての純宗の詔勅発布の件である。


今日はこれまで。


皇帝譲位(一)
皇帝譲位(二)
皇帝譲位(三)
皇帝譲位(四)
皇帝譲位(五)
皇帝譲位(六)
皇帝譲位(七)
皇帝譲位(八)
皇帝譲位(九)


皇帝譲位(九)

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前回は結局皇帝の譲位にも、第三次日韓協約調印にも間に合わなかった派遣軍の話をした。
今回は詔勅関係の話を中心に。
一応、史料として掲載しようと思っただけで、全く面白くないので、読み飛ばしても可。(笑)
まぁ、備忘録を兼ねた史料編ってことで。

いや、読み飛ばされる前に、知っている人だけ知っているお知らせ。
NAVER総督府の公式HPが、7月9日にオープン予定です。
現在、zeong、jpn1_rok0、polalis、yonaki11111、hitkot各氏を中心に、結構な量の情報を蓄積済み。
でも、当初公開する情報は絞られるのかな?
ってことでお知らせ終わり。

では本編。
まずは、「譲位式」に当たっての話。
1907年(明治40年)7月20日付、『往電第75号』。


西園寺首相へ

今朝8時、譲位式全く終る。
新皇帝は、本日午後統監及文武官、各国総領事に謁見を賜はる。
我が皇上陛下より、左の意味の御親展を発せられんことを奏請有之たし。

朕は、朕が統監の公報に依り、陛下先帝の譲を受け、既に皇帝の位に就かれたることを知るに、謹で朕が衷心より慶賀の意を表し、併せて日韓両国間の交誼及貴我両皇室の親睦の一層敦厚ならんことを望む。

本件は、林外務大臣とは既に協議済なり。
御親書は、可成速に到着する程有なり。



伊藤から珍田外務次官へ、進展の奏請の話である。
これに基づいて、親電が発せられた。
1907年7月21日付『来電第157号』より。


西園寺総理大臣より

貴電第75号の通り、陛下より韓国皇帝へ御親電あらせられたり。



そしてそれに対する純宗からの答電が、1907年7月23日付の『往電第84号』である。


西園寺総理大臣へ
我が天皇陛下の祝電に対し、当国皇帝陛下は昨日午後6時半頃左の通、答電を発せらる。

日本国皇帝陛下
朕不徳を以て、此艱棘の会に際し父皇陛下の朋命を欽奉し、宝位を承受し兢懼に堪へず、今陛下の懇篤なる賀電を承り、深く庸て感謝す。
併に貴我両国間の厚誼、及貴我両皇室親睦の益々敦からんことを祈る。



ここまでが、譲位にあたっての祝電のやりとりである。

続いて、7月4日のエントリーで紹介した史料のうち、1907年7月22日付『往電第81号』で「該詔勅の訳文」とされた、同日付『往電第82号』を掲載。


詔して曰く、既に大朝処分を承けたり。
太皇帝尊奉の節は、宮内府掌礼院をして都監を設け挙行せしむ。



そして「三.人心鎭撫の為め」の詔勅の訳文が、1907年7月22日付『往電第83号』である。


林大臣より

新皇帝は人心鎭撫の為、本日左の詔勅を発せられたり。

「詔曰く、咨爾大小人民は明に朕が誥ぐるを聴け。朕は大朝の明命を敬奉し度政を代理せり。此の維新に時に値ひ国是を定めず時勢を誤解せば、毫厘の差に忠逆判焉たるのみならず、害を宗国に貽す。亦、尋常ならざるが故に寧ロ愼まざる」可けんや挽近以来、或は憤慨を称へ、或は忠義に藉り、処々騷訛在々駭聴する所なり。
屡々勅諭を降され衷曲を敷示せらるるも、頑として止戢せず、一向執迷するもの憫惻に勝へず、嗟呼爾有衆は鎖国独処せし旧習を膠守することなく、其の天時を考へ、其人事を稽へ、宇内万国時措の義に適合せしめ、中興の鴻業を肇開せしめざるべからず。
爾有衆は朕にあらざれば誰に事へ、又朕は爾有衆にあらざれば誰を使はんや。
爾有衆は此の国是を定め、此道理を識り、更に妄動するなくして各己の業に安んじ、継て今より朝廷の上には便民利国の政を実行し、閭巷の間には殖産興業教育の事を研究し、我が赤子を文明の域に共済し、永く升平の福を享けざるべからず。
咨爾有衆は克く朕の意を体し、大業を協賛せるべからず嗟爾有衆よ。



最後に官報号外に載せられた、皇帝代理の話及び年号改正の上奏文より。


謹んで奏す。
伏して本月18日、太皇帝の詔旨を奉ず。
我陛下は、軍国の庶政を代理し、已に朕と称し詔と称し玉ひ、太皇帝尊奉の儀節は已に準備を了せられたり。
惟ふに大徳は必ず其名を得る自。
今詔勅と奏御の文字に代理の称号は、皇帝の大号を以て進称すること允に天意民情に合ず、臣等辞を合せ仰籲、謹て上奏す。

光武11年(1907年)7月22日大朝の処分を承けて旨を奉ず。
内閣総理大臣勳二等臣李完用

謹奏す。
年号今当さに改定すべし。
宮内府をして已例を溯考せしめ、内閣と館閣に諸臣と会議撰進して可なるや、謹て上奏す。

光武11年(1907年)7月23日奏に依るべしとの旨を奉ず。



これに基づいて、年号は光武から隆凞へと変わる。
1907年8月3日付『往電第112号』より。


昨夜、宮中に於て改元式を行ひ、年号を隆凞(隆はさかんなる、凞はかがやく)と改称する旨を発表せり。


まとめると1907年=明治40年=高宗44年=光武11年=隆凞元年=檀紀4240年(笑)となる。


今日はこれまで。


皇帝譲位(一)
皇帝譲位(二)
皇帝譲位(三)
皇帝譲位(四)
皇帝譲位(五)
皇帝譲位(六)
皇帝譲位(七)
皇帝譲位(八)


皇帝譲位(八)

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本日は、前回の予定通り、「混成旅団」の派遣について。
前回紹介した『往電第86号(極秘)』は24日の午前1時55分に送られているのだが、伊藤はこの他にも1907年(明治43年)8月24日付で、さらに三つ電文を出している。
まず一つ目が、『往電第86号(極秘)』の約1時間前、午前0時40分に出された『往電第85号』である。


西園寺総理大臣へ

要求したる軍隊派遣は之を実行せらるや否や。
果して実行の場合には、何日京城に到着見込なるや。
至急返電を請ふ。



督促ですな。
次が午後3時20分発の『往電第88号』。


林外相より西園寺首相へ

協商談判は往電第86号の條件を以て、今24日開始せられたり。
閣臣中には有力なる反対説ある趣なれば、遂には我に於て極端手段を採るの已むなきに至るやも計られず。
京城の事態は、昨今少しく平穏の外観を有すれども、

第一.地方の儒生は、両班(韓国の貴族にして文武官)の招集に応じて追々京城に入り込むもの多き模様あれば、内情最も虞るべきものあり。
朝廷に在りては、先帝は黒幕に在りて新帝を掣肘し、且つ韓国軍隊及び一般人民を使嗾し、現政府に対し陰謀を逞ふせらるること益々増長するを以て、此際新旧両帝は強制的にも之を別居することを要し、
第二.目下京城には約6,000人の韓国兵ありて、何時蜂起するやも計られざるに付、其武器を取上ぐるを要す。
尤も右の手段を実行し、且つ実行に伴ひて起り得べき騒乱を可成防止し、併せて外国領事館を始め内外居留民を保護するが為めには、多数優勢の兵力を以て内地より速かに出兵せらるることを緊要なりと認む。
若し此出兵を行ふに於て時機を失するときは、或は無益の血を流し、外間の批難を招くに至るなきやを。



一見平穏だが、不穏な動きは多々ある、と。
ちなみに「別居」は、「多数優勢の兵力」の抑止力による心理的圧迫があったかどうかは別にして、後日混乱無く行われた。

最後に、午後11時30分に発せられた『往電第90号』。


西園寺総理大臣へ

往電第89号の如く協約の調印は無事之を了したるも、善後策として、林大臣の往電第88号に陳述せる強制手段を取るの必要あるが故に、出兵は成るべく速に実行せられんことを切望す。



この時点で、第三次日韓協約は締結を終了した。
都合4回の派兵要求が為された事から見ても、伊藤は、混成部隊に関する連絡が無い事を相当気にしていたのだろう。
秘書課も伊藤に気を使ってか(笑)、外務省電信技手宛に24日24時付で電文を発している。


至急
小西秘書官より

先刻伊藤統監より珍田次官宛発送の電信第89及90号は至急を要するに付、明早朝幣原課長へ配達ありたし。



秘書課も大変だなぁ。(笑)
まぁ、現代でも大変な部署ですがね。
ちなみに『往電第89号』は、第三次日韓協約調印の報告であり、午後11時30分に日本へ発せられた電信であるが、これは次の連載に譲ろう。

と言うわけで、これら24日付の電文を受けて、ようやく日本政府は協議を始めるのである。
これについては、久方ぶりのアジア歴史資料センターより『伊藤統監ヨリ韓国事件ニ関シ出兵ノ要求アリ手続方陸軍大臣ヘ照会ノ件(レファレンスコード:A03023063400)』に見ることが出来る。


陸軍大臣へ照会案

本日伊藤統監より韓国事件に関し出兵の要求有之。
右は目下の事情に照らし不得止儀と認め、之が要求に応ずることに決定致候間、至急相当の手続相成度此段及照会候也。



これに基づいて、7月24日付『来電第166号』が午後3時29分に京城に届いた。


西園寺首相より

貴電第85号に関し、軍隊は至急派遣することに決せり。
其の京城到着の時期は、海軍大臣と長谷川大将と打合の上決定すべきに付、同大将より御聞取ありたし。



この来電の後、『往電第90号』が発せられているということは、恐らくこの時には、伊藤はまだ協約の交渉中だったのであろう。

さて、最終的にこの派遣はどうなったのであろう。
アジア歴史資料センターから『韓国派遣部隊に関する経費予算積算方の件(レファレンスコード:C03027590000)』を見てみよう。
【6画像目】 【7画像目】 【8画像目】に派遣軍の編成について記載がある。
それによれば、派遣された総勢は2,569人。

【9画像目】 【10画像目】では、7月25日に小倉から門司に輸送し、乗船。
その日の内に釜山に着いたようである。
最も、それぞれの配置場所である竜山(現在はソウル市内)、平壌、太田、大邱に着いたのが何時かは、不明である。


今日はこれまで。


皇帝譲位(一)
皇帝譲位(二)
皇帝譲位(三)
皇帝譲位(四)
皇帝譲位(五)
皇帝譲位(六)
皇帝譲位(七)


皇帝譲位(七)

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昨日紹介した、日本政府から伊藤の真意を伺う『来電第164号』。
これに対する回答が、1907年(明治40年)7月24日付『往電第86号(極秘)』である。
次に連載の方で扱おうか迷ったが、折角なので今回紹介しておく。


林外務大臣より西園寺総理大臣へ

貴電第164号に関し到着後統監と熟談を遂げたるに、統監の意見は左の如し。

(一)韓国皇帝陛下の詔勅は、予め統監に諮詢すること
(二)韓国政府は、施政改善に関し統監の指導を受くること
(三)韓国政府の法令の制定、及重要なる行政上の処分は、予め統監の承認を経ること
(四)韓国の司法事務は、普通行政事務と之を区別すること
(五)韓国官吏の任免は、統監の同意を以て之を行ふこと
(六)韓国政府は、統監の推薦する日本人を韓国官吏に任命すること
(七)韓国政府は、統監の同意なくして外国人を傭聘せざること
(八)明治三十七年八月二十二日調印日韓協約第一項は、之を廃止すること

商議は直に開始せらるる筈。
但し、協商を纏めんと欲せば、多少の修正を予期せざるべからず
形勢は、昨日と別に変化なし。
出兵に関する統監の意見は、速に之を決行せられざれば、凡ての点に於て頗る不便なり。
一日後るれば、一日我に損ありとせらるるものと思考す。



この内容は、ほとんど第三次日韓協約のそれと変わり無い。
この草案から大きく変わるのは、(一)が無くなることである。
その他には、(五)において「韓国官吏」が「韓国高等官吏」へと変更された事しかない。
正に第三次日韓協約は、伊藤博文の腹案そのままと言っても過言ではあるまい。

というか、22日付けの『来電164号』を受けてから熟談・・・。
さっぱり状況が分からないはずである。(笑)

この関係電文を追っていくと、自然と次の連載の話に突入してしまうため、一旦ここで高宗の「陰険手段」(笑)とされる事項が記載された、『往電第80号 電信案』まで話を戻そう。
当然、そのような状況で推移させておくわけにはいかない李完用らは、その対策を行う。
それについて報告されているのが、1907年(明治40年)7月22日付『往電第81号』である。


先帝が陰謀術数を逞ふすること前電の如くなるに鑑み、内閣大臣等は協議の上、
一.新帝をして旧帝に「太上(ふときうえ)皇帝」の称号を呈せしめ、其旨詔勅を発せしむること
二.態度曖昧なる2、3軍人の免官並に旧皇と共に陰謀を企てつつある新任宮内大臣朴泳孝、及侍從院卿李道宰の免官並びに逮捕を行ふこと
三.人心鎭撫の為め、新帝の名を以て詔勅を発することを奏請せんが為め、先づ李総理大臣、趙法部大臣、李学部大臣の3人は、昨21日午後5時半参内したるに、朴泳孝等妨害により同9時過に至る迄、謁見を得ず。

9時半頃漸く前記條件を奏請中、旧帝は新帝の傍にあって、前記第2、第3の件は採納せられたるも、第1、即ち「太上皇帝」の称号を奉ることは旧帝固く執て肯ぜず、三大臣亦頗る強硬に争ひしも、夜半に至り更に要領を得ざるの報あり。



朴泳孝と李道宰の免官及び逮捕は認めちゃうのか・・・。
・・・まぁ、「太上皇帝」の称号は絶対嫌だと。
では、この後どうなったのか続きを見てみよう。


茲に於て、高度支部、宋農商工部、李軍部及任内部の4大臣も今22日午前0時30分、相継で参内せんとし王城門に達する頃、前3大臣は目的を達せずして退出するに遇ひ、此処に大に論議する所あり。
其要旨は、「二君を戴くが如き状態は、之を忍ぶべきに非らず。速かに明確なる断案を下すこと必要なれば、共に入って陛下に諫争すべし」と云ふに在り。
前の3大臣は此態度に励まされ、更に宮中に引返し、再応奏請する所あり。
(後の4大臣は、此間控所に在りたり)
其結果、旧帝の意漸く和らぎ、「太上皇帝」「上」字を除き、即ち「太皇帝」の称号を奉ずることに同意せられ、直ちに其旨新帝より詔勅を発することとなれり。
時に午前5時なりき。
該詔勅の訳文は、別電第82号の通り。



_| ̄|○
えーっと、「太上皇帝」を「太皇帝」にすることで同意、と・・・。
もしかして、眠くなって面倒臭くなったのか?
それとも「上」に何か問題があるのだろうか。
「3大臣が無理矢理に行い、高宗は同意していない」という話を作っても、「上」を除いた事により同意とは、いささか稚拙に過ぎる言い訳ではないだろうか。
最も、高宗ならあり得ない話ではないと思わせるのが、彼の凄さ(?)なのだろうが。(笑)


尚、右奏請の結果として朴泳孝、李道宰其他2、3の軍人は、免官の上逮捕せられ、警務使金在豊は免官せられ、閔丙漢は宮内大臣署理に、李允用は宮内大臣兼侍従卿に、具然書は警務使に任命せられたり。
右の全閣臣等は今回譲位に当り年号を改むること必要とし、是亦昨夜奏請し、主義上既に裁可を経、目下適当の文字撰定中なり。



結局朴泳孝と李道宰ほか数人は逮捕されたのであった。

朴泳孝はこの譲位の前月に日本亡命から帰国し、特赦を得たばかりである。
最も、この帰国に関して高宗は半信半疑だったようであり、韓国政府においても在韓の日本官吏においても、政治的野心による貴国という見方が強かったようである。
しかし、伊藤博文は「帰国の真意は政治上の動機に在らずして、寧ろ憐憫ずべきの情状あるを信じ」、1907年6月21日付『機統秘発 第12号』で、高宗に朴泳孝の「帰国の顛末を稟奏し且つ特赦の典を施されしことを求め」たのである。
まぁ、当然の如く裏切られたのだが。

 朴泳孝


この翌月、1907年8月22日付けの往電に、朴泳孝らのその後の処分についての記載がある。


朴泳孝、李道宰、南廷哲、昨日平理院に於て苔80に処するの宣告あり。


苔罰のイメージ図は、今回は省略。(笑)
このうち朴泳孝は、さらに治安の妨害をしたとされ、さらに裁判を受けたようである。
この治安の妨害については、1907年7月20日の東京帝国通信社外電に、このような記載がある。


 (略)

暴徒の黒幕には、朴泳孝ありとの説多し。
彼は今日先帝に謁見。
何事か奏上。
彼は、昨日暴徒の首魁と目せらるる李某と、数回密談せりと。



確証は未だ見つけることが出来ていないが、恐らくこれに類する話が元になっていると考えられる。
そして、1907年8月27日付の往電より。


朴泳孝は裁判宣告の後一旦家に帰りたるも、治安妨害の虞あるを以て、再び本人を警視庁に拘束し、治安法第5條に依り、済州島以外に住居することを禁じたり。
不日同島へ押収の筈。



上の平理院による裁判宣告後、すぐに拘束。
こうして朴泳孝は、済州島へ一年間の流罪とされたのであった。
ちなみに、苔罰80回が執行されたのかどうかについては不明である。

さて、本日最初に上げた24日付『往電86号』の「出兵に関する統監の意見は、速に之を決行せられざれば」から分かるとおり、「太皇帝」として譲位を明確にした22日の時点で、「混成旅団の派遣要求」は未だ実行されていない事が分かった。
つまりこの「混成旅団」は、譲位には直接関係無い。
しかしながら、次回はその経緯について少しだけ触れておきたいと思う。


今日はこれまで。


皇帝譲位(一)
皇帝譲位(二)
皇帝譲位(三)
皇帝譲位(四)
皇帝譲位(五)
皇帝譲位(六)


皇帝譲位(六)

テーマ:

前回は、李完用邸焼き討ちまでを記述した。
ここまで治安が乱れてくると、流石に治安維持部隊の不足を来す。
故に、1907年(明治40年)7月21日付『往電第79号』で、混成旅団の派遣要求が為されるのである。


極秘
西園寺首相へ

京城目下下の情況は錯雑にして、将来其の波及する所を予知し難きも、一面には韓国軍隊の状況不穏にして、如何なる事変を生ずるや図り知り難く、一面には在留外国人は総て我が保護に信頼するの状況なるを以て、此際、最近の兵営より混成一旅団を至急当地に送らるるは、必要の措置なりと思考す。
地方は京城の報知未だ達せざるが故に、目下差したることもなしと雖、数日の後に多少の擾乱の起るは、今日より予期し置かざるべからず。



邦人、在留外国人、宮中、大韓帝国大臣等々、警護の必要がある場所は多数ある。
当然、6月29日のエントリーで記載した、各国領事の回答に基づいて領事館警備も必要となってくる。
まして京城の騒乱が他に波及する事が容易に予測できるのは、電文中にあるとおり当然であろう。
明治天皇も伊藤の身を案じていたようで、1907年7月23日付『来電第165号』では、次の通り述べられている。


西園寺総理大臣より

陛下より「目下京城の動揺に付き、統監の身上に対し何なる狂人の暴行なしとも限らず、夫々充分に注意を致すならんも尚懸念に付、公望
(注:西園寺公望総理大臣)より統監へ、此の上十二分に警戒を加ふべし」と御沙汰あらせられたり。


さて、次に紹介する史料あたりから、第三次日韓協約の話が出てくる。
1907年7月22日付『往電第80号 電信案』である。


林外相より西園寺首相へ

目下京城の形勢を見るに、元来先帝は、閣臣の勧告に依り其本心に非る譲位をなしたる者なるが故、爾来種々の陰険手段を以て、君主権を回復せんと企図するものの如し。
左の事実は、即之れを証明するものなり。



・・・。
何か、高宗の枕言葉のように「陰険手段」が出てくる気がするが、気のせいかなぁ・・・。


第一.閣員の云ふ処に依れば、18日の詔勅に於て、譲位の意味を明かにせんとの閣臣の要求に対し、先帝は之を拒け、強て皇太子をして代理せしむ云々の文字を存せしめたりと云ふ。
此事は、先例を引ひて日本に於て用ゆる代理の字と、異なる意義ありと説明すれども、必要攝政の意義にて、実は先帝が、他日君権を回復せんが為めには、予め地歩を作り置かんとの内心を有するに依ることは疑を容れず、又朴泳孝等既に此説を主張すると云ふ。



成る程。
「陰険手段」ね。(笑)
こういう真似ばかりをしているから、諸外国から所謂文明国と認められず、ひいては保護国容認に繋がっていると思うのだが。
まぁ、李完用あたりに「終に最後に陛下の性格を充分了解せられ、終局救済すべからざるものと認められたるに相違なし」と言わせるだけの事はあるという事か。


第二.譲位詔勅公布の夜、先帝が侍衛隊(韓国近衛兵)を宮中に召されたるは、其真意が兵力を以て閣員を圧押し、時宜に依りては之を殺戮せんと謀るに在りたるの証跡顕著なり。
唯此挙は、統監の命に依り韓兵出動予定時刻の約30分間前に、我兵を宮中に入れたるを以て、僅に之を防止するを得たり。



これは恐らく、前回のエントリーで紹介した『往電第73号』の話であると考えられる。
とすれば、韓兵出動予定時刻とは20日0時頃だったのだろう。


第三.朴泳孝は去る18日、先帝に依り宮内大臣に任ぜられしに、病を以て閣臣は之を処罰せしことを請ひしに、此際不吉なりとの故を以て処罰を免じ、単に辞職聴届に止むる旨、総理大臣に明言せられしに拘はらず、併も昨20日夜、即ち讓位後2日に於て、同先帝は朴泳孝を宮内大臣に親任するの式を挙げ、閣臣は毫も之を預り知らず。


段々いつもの党争に見えてきた私は病気でしょうか?(笑)
と思ったら、林外務大臣の見解も同じなようで。


右の外、軍隊の動揺乱民の暴挙等は、先帝の使嗾に出るか、或は先帝の意を迎へて起る者にて、間接直接に内閣大臣の事業を阻止妨害せんと謀るものなることは明白なり。
要するに目下の形勢は、一方に於て先帝は、陰険手段を以て君主権を回復せんとし、他方に於ては閣臣は新帝を擁して政府を維持せんとし、未だ戦争はなきも事実君位争奪の内乱の情態に在り。



つまり、従来まつり上げられる対象は大院君や閔妃であったが、それが純宗に変わっただけ、と。


而して先帝は、多年国君たりし威福に依り、多くの方面に向て多大の勢力を有すれども、内閣大臣は唯日本の後援を頼み得るのみにて、他に信頼すべき実力なし。
故に我保護なきときは、現内閣員は終には先帝の陰険手段の為に、滅亡する外なかるべし。
事若し茲に至らば、韓国は無秩序無政府の状態に陥るべく、日本は之を看過する能はず。
兵力を以て干渉するの必要を見るに至るべし。
故に今の為めに計るに、我の援助に依て立つ処の現内閣を保護し、新帝を擁立せしめ、先帝が陰険手段を行ふの途なき政府位置を堅固にし、我勢力を拡張するの筈なりと認む。



あぁ、この辺りがもしかして「日本に強制的に迫られて退位」の話になるのか?
ただ、ここでは方針が決定されているだけで、実際に何か行ったのかは別途検証が必要であろう。
最も、譲位の詔勅に基づいて新旧皇帝に各国領事が謁見しているわけで、「日本に強制的に迫られて退位」という主張はかなり苦しいと思うのだが。


事情右の如くなるを以て、今回の事件に関する協商談判は未だ之を開始するの運に至らず。
事成行を観望しつつ時機の至るを待て、兎に角今両三日を経過せば、形勢の発展も稍々明なるべきに付、其上の模様により本官の進退に関し更に廟議を煩すことあるべし。



この「協商談判」が、第三次日韓協約を指していると思われる。
それが失敗するような形勢になれば、林の進退伺いもあり得る、と。
この「事成行を観望しつつ」というような書き方からすると、やはり積極介入ではなく、現内閣の後援或いは保護を行うに過ぎないようにも感じるのだが・・・。

この種の疑問は、当時の日本政府そのものにもあったらしい。
1907年7月22日付『来電第164号』より。


総理大臣より林外務大臣へ

第80号貴電の趣了承。
然るに、閣下の使命に関し統監と御談合の結果は如何にや。
一方、統監よりは出兵の御意見もあり、韓国政府との協商は、如何なる程度に於てせらるべき統監の御腹案なりや。
其の辺の事、至急承知致したし。
陛下に於ても、深く御軫念遊ばさるるに付、実際の情勢は日日御電報あらんことを請ふ。



6月26日のエントリーの『来電第141号』において統監に一任し、日本政府の立場の説明を含めて林大臣を渡韓させたのに、さっぱり状況が分からない、と。
第三次日韓協約の細部の話は、この時点で日本政府も知らなかったようである。


今日はここまで。


皇帝譲位(一)
皇帝譲位(二)
皇帝譲位(三)
皇帝譲位(四)
皇帝譲位(五)


皇帝譲位(五)

テーマ:

盧大統領「長官問責は王朝時代の習慣」

 (前略)

また、その原因を「君王は責任を口にしながらも、実際には臣下を犠牲にし、自分自身は儀式的に責任を負うジェスチャーを見せるのみだった王朝時代の慣習に一部由来しているのではないか」とも述べた。

 (後略)


初めて私と「歴史認識」が一致しましたね。(笑)


では本編。


前回、暴動についての史料を一つ提示したが、もちろんそれだけでは収まらない。
1907年(明治40年)7月20日付、『往電第73号』では大臣危機一髪とされている。(笑)


林大臣より

昨19日午後、韓国々務大臣に対する京城の人心、一層の激動を加へ、特に鎭衛隊(近衛隊)は甚しく激昻し、同日夜半を期して宮中に乱入し、宮中に在る各国務大臣を殺害せんとするの計画を立て、形勢極めて不穏なりき。
軍部・法部両大臣は宮中を脱し、同夜11時頃、辛ふじて統監官邸に至り右の急報を伝え、併せて往電第68号韓帝の御委任により、我兵力を以て前記各大臣の保護を請求せり。
其の結果、長谷川司令官は直に我が駐剳軍に命令するに、王宮の各処所に進み、臨機の行動を取るべき旨を以てせり。
其の後、我軍隊は同11時58分を以て、夫々に配置に就きたり。
右不取敢電報す。



宮中から脱出してきた軍部大臣は李秉武、法部大臣は趙重應である。
そして韓国政府の保護請求に基づき、19日深夜11時58分に韓国駐剳軍が王宮の各所に配置に就いたと。

ますます「日本に強制的に迫られて退位」とは、何の史料に拠っているのか非常に気になりますねぇ。(笑)
もしかして、上の史料と次に紹介する史料の話でしょうか?
ということで、1907年7月20日付『往電第74号』。


林大臣より

昨夜来無事市中静穏。
旧皇帝の譲位式は、今朝8時行はれたり。
新皇帝は、本日午後4時半、我が文武官の重なるもの及領事団に謁見仰付らる旨、公然通知ありたり。



ここでもう一つ、「譲位式」に関係する公文『往電第76号』より。


西園寺総理大臣へ

昨夜宮中より勅使を宗廟に遣はし、譲位の事を奉告し、嗣て今朝7時、宮中中和殿に於て権停礼を施行(権は権利の権停と云ふ。即譲位式)し終へて各大臣を御前に召し、誠実に皇太子を輔弼せんことを依頼する旨の勅語を賜はれり。



確かに「譲位式」は、日本の韓国駐剳軍の警備態勢の中、7月20日午前7~8時に行われた。
しかし、譲位詔勅は7月18日付けで19日には既に出ており、宗廟への奉告も終えている。
そして、高宗が皇太子(純宗)を誠実に補佐しろという勅語を発したのである。


この後、前述の『往電第74号』にあるように新皇帝の謁見が行われる。

謁見についての史料の一つは、総務長官から各理事庁及び支庁、京城を除く各理事官及副理事官への1907年7月21日付の往電(付番無し)である。


昨20日午後5時半、統監閣下は我が官僚を率ひ参内の上、新皇帝陛下に謁見相済みたり。
又同時に、外国領事官(官吏の官)も統監閣下の紹介に依て謁見を遂げたり。

 (以下、謁見者の名簿の為省略)



もう一つが、1907年7月20日付けの『往電第78号』である。


内閣総理大臣へ

前電第74号の通、本日午後5時半、本官始め白、清、英、仏、独、米、伊等の総領事は新帝に拝謁し、孰れも本日譲位式を挙行せられたるに対し祝詞を言上し、又旧帝の御希望に由て一同別室に於て旧帝に拝謁せり。



統監府の官僚のみならず、各国の総領事も純宗に謁見し、且つ各国総領事は高宗にまで謁見したと。
そんな中で、李完用邸が焼き討ちされる。
1907年7月20日付『往電第77号』より。


林大臣より

今20日午後、総理大臣李完用の邸宅は、暴民の為焼払はれたり。
同大臣自身は、当時議政府に在りしを以て安全たるを得たり。
而して其家族は、附近なる「スチーブンス」氏の邸宅に避難せり。
「スチーブンス」氏及其の邸宅も無事なり。
暴民は、我兵の現場に臨むと共に鎮静せり。



「スチーブンス」とは、無論第一次日韓協約によって大韓帝国の外交顧問となった、「ダラム・ホワイト・スチーブンス(漢文上:須集雲)」である。
当然、既に第二次日韓協約に基づいて外部が廃止されたこの時、「スチーブンス」は議政府顧問と統監府事務を兼掌していたようである。(1906年(明治39年)3月24日付『統発第13号』ほか)

実は「スチーブンス」は、1907年7月11日付けの来電で、当時通商局長であった石井菊次郎の訪米に同行するため、7月17日までに東京へ来るよう依頼されてたのだが、これらハーグ密使事件から続く騒動の中、1907年7月14日付『来電63号』の伊藤博文の判断によって、京城に留め置かれていたのである。


 石井菊次郎


石井菊次郎といえば、4月6日のエントリーで記載したとおり、後に林権助、目賀田種太郎と共に、国際連盟総会第一回会議代表となる人物である。
ちなみにこの時渡米した石井菊次郎は、『外交余禄』によればカナダのバンクーバーで反日暴動に遭ったらしい。

この伊藤の判断が無ければ、李完用の家族はどうなっていただろう。
一方で、石井に「スチーブンス」が同行していれば、バンクーバーでの反日暴動は起きたであろうか。
まさか、京城での暴動とバンクーバーでの暴動。
スチーブンスはどちらかの暴動に遭う運命だった、ってことは無いよなぁ・・・。(笑)


ここでお知らせ。
先日、サーバメンテナンスの告知しておきながら、それが延びたわけですが、どうもその延びた分を7月2日から始めるようです。
予定では7月4日まで。
早く終われば3日中だそうで。
この際何日であっても、22時までに復旧していれば更新するし、そうでなければ更新しないってことで。(笑)


今日はここまで。


皇帝譲位(一)
皇帝譲位(二)
皇帝譲位(三)
皇帝譲位(四)