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水田稲作はBC1050頃に北九州に到達。
日本書紀の神武東遷の時期にあたるBC650頃に近畿に到達。
BC500頃に愛知県東部まで伝播しましたが、刻目突帯文土器【きざみめとったいもんどき】、遠賀川式土器【おんががわしきどき】と共に、愛知県と静岡県境付近で東進が止まってしまいます。
関東を飛び越え、BC300頃、おそらく日本海側の交易ネットワークを介して青森へ水田稲作、さらに遠賀川様式の土器が伝わります。
青森では気候条件などから稲作は定着しなかったと思われ、縄文文化へと回帰が見られました。
静岡県~関東への稲作、弥生文化の伝播は紀元前後(BC200頃とする説もある)と考えられており、
弥生文化を享受せず、縄文の流れを汲んだ独自の文化が継続していたようです。
浜松市からは亀ヶ岡様式の縄文晩期土器も出土しており、
西日本の弥生文化圏と
東日本の縄文文化圏の
境界となっていたと考えられます。
川根本町上長尾遺跡からは縄文晩期の遮光器土偶も出土しています。
一方、浜松市天竜区春野町では、BC300頃に遠賀川式土器と稲作の伝播とする報告(『春野町史』)もあります。
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浜松市の山間部は、東三河山間部と独自の交流があった可能性がありますね❗
浜松市天竜区水窪町では、この時期(縄文晩期終末)に古代フェニキア文字、或いは未知の神代文字と推定される線刻が刻まれた水窪石が出土しています。
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水窪町、春野町、川根本町上長尾は、中世には同じ山香庄に属しており、山岳ネットワークを通じた交流があった地域です。
三河(愛知県東部)に弥生文化が到達したBC500頃から紀元前後辺りの約500年程の間、縄文と弥生のせめぎあいが、この地域に起きていた可能性もあります。
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水窪石に刻まれた文言は、
『ノヌユヌイクムノテソカミカミツキイル』
“我らの理想郷であるこの平地を占領している敵、我らのきずいた豊かな村や町を奪っている畜生めらを何年かかっても襲え、神々は我らをお守りくださっているぞ”
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という、かなり強硬な内容の“怒りの呪文”が刻まれているとする解釈もなされています。
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自然と共生し、無用な争いを避け、一万年続いた文化を守ろうとする決意も感じられるね❗
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海外の研究者の中には、
海洋交易ネットワークを通じて、
大陸の都市文明が争いが絶えないのを知っていた縄文人は、
あえて生産性が高い水田稲作や都市文明(余剰が出る為、身分の格差が生じ、軍隊を養う余力が生まれ、土地の奪い合いになる)の導入を避け、
旧石器時代から四万年続く、ムラとムラの交易ネットワーク、分かち合う文化を継続しようとしていたのではないか❓
そう考える研究者もいるようです。
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大陸の文明は、拙い争いを繰り返す、未成熟な文化だと、東日本の縄文人は考えていたかもしれないね❗
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ホツマツタヱでは、
東北(仙台辺り)のヒタカミ国でアマテル神が学び、
のち、オシホミミはヒタカミを治め、
ニニキネは、富士山周辺のホツマ国に宮を置き、近畿や北九州を往き来し、
ホノアカリ、ニギハヤヒが飛鳥を治め、
出雲を譲ったオオクニヌシは青森付近を治め、
ヒコホホデミが筑紫、
最後にウガヤが日向に宮を置き、
神武天皇が東征して奈良橿原へ入ります。
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記紀の日向三代とは違い、最新は東からだんだん西へ勢力を広げていくというのが、ホツマツタヱの特徴だね❗
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旧石器時代文化の中心は、長野県から北関東、
縄文文明は、草創期の土器は青森が最古、
九州の草創期~早期文化が東にも影響を与え、
温暖化が進んだ早期後半から東日本のサケ漁に代表される漁労が文化の中心になり、
鬼界カルデラ噴火で西日本は衰退、
前期後半の三内丸山や千葉から、
中期の中部日本へと中心が移っていきます。
高原での焼畑農耕が人口増加を支えた可能性があり、植物食が主体となってきます。
後~晩期から亀ヶ岡に縄文土器の究極の進化が見られ、南は沖縄まで列島各地に伝播します。
そして、
東日本の縄文晩期と
西日本の弥生早期~中期が並行し、
その境界が静岡県と愛知県の県境付近となっていたようです。
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ホツマツタヱの、列島各地にある宮は、縄文時代の文化圏に対応しているのかもしれないね❗
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記紀のように、日向から始まる歴史ではなく、アマテル~ニニキネの時代に東に文化の中心があったとするのは、考古学的な知見と相反しません。
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記紀が作られた頃には、蝦夷征討が日本政府の目標となっていたよね❓
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最初は東日本の方が栄えていた、という縄文時代からの伝承を、記紀はあえて消した可能性もあります。
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ホツマツタヱは、ヤマトタケの東国遠征、日本の“再統一”で幕を下ろすね❗
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最初は日本の中心であった東国が乱れ、九州制圧を終えたばかりのヤマトタケが渋々東日本制圧に出掛け、最後は死んでしまうんだけど…
本当は、自分達の故地でもあり、文化の中心地であった東国を攻めたことの罪滅ぼしをヤマトタケに託したようなストーリーにも思えます。
(o´・∀・)o
記紀の日向スタートというのは、何だかしっくり来ない。
神聖なる常世の地を攻める正当な理由付けをするために、東国は最初から未開の地だったとしたかったから、
天下りの地を西へ移動させたのかもしれないね❗
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確かに、九州や出雲は、鉄器の先進地でもあり、稲作導入も早いのだけれど…
奈良盆地の生産性の高さ、そして…
初期の鉄より強力な、石の兵器を持っていた東国やヤマトは、
出雲を制し、北九州も支配下に治めていったと考えられます。
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少なくとも、かつて考えられていたように、九州に上陸した渡来の弥生人が、瞬く間に縄文人を駆逐してるいったと考えられるような状況では無さそうだね❗
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天竜川~大井川の間に、弥生中期中葉BC200~100頃に現れた嶺田式土器は、
赤彩とオリエンタルな造形が特徴的です。
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徐福が来た❓
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明確な中国の影響で、窯焼きの土器が造られるのは古墳時代以降のようです。
弥生土器には、大陸や半島の東夷族の技術の影響は見られますが、それは縄文時代を通じてあったことです。
大陸の文化も吸収しながら、縄文人が発展させていった文化のように見えます。
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丹朱やベンガラによる赤彩は、縄文時代を通じて見られるようだね❗
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縄文カラーを明確にする意図があったかもしれませんね❗
嶺田式土器と同時期の、天竜川上流、伊奈谷の阿島式土器にも、嶺田式と類似した赤彩土器が見られます。
嶺田式土器が造られた天竜川東域の菊川~川根、春野町~水窪~伊奈谷という、天竜川と秋葉古道で繋がった地域に縄文文化を継続する文化圏が見えてきます。
菊川では、これに続く中期後葉(BC100~紀元前後)の白岩式土器、
弥生後期(AD50頃~)の菊川式土器には赤彩は見られなくなり、
伊奈谷でも中期後葉からは遠州(静岡県西部)地域と類似した土器や赤彩土器はほとんど見られなくなるようです。
一方、長野県北部の千曲川流域では中期後葉から赤彩土器の比率が増し、
後期になると赤彩土器の比率が更に高くなります。
そして、赤彩土器は群馬、埼玉、東京湾西部にも広がりを見せていきます。
静岡県中部の登呂遺跡には、菊川式土器の搬入も見られますが、
後期の登呂式土器の壷には赤彩が施されるようになります。
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東へ移動していく赤彩土器は、縄文の防衛ラインかもしれないね❗
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弥生後期には、天竜川西部まで、近畿と同じ大型の銅鐸祭祀文化圏にも入っていきます。
一方、中部高地、天竜川東岸の静岡県、東京湾岸の関東には、
銅釧【どうくしろ】文化圏が見られます。
釧は、金属製の腕輪です。
赤彩土器と銅釧文化圏は、完全に合致するわけではないですが、ある程度の重なりを見せているようです。
この辺りは異国情緒に溢れていて、中部高地の赤彩土器とは、趣が異なります。
渡来人が来たというより、伊勢湾岸の海人族が大陸風文化を旺盛に吸収し始めた、といった感じもあります。
このパレススタイル式土器と、東国の赤彩土器の緩衝地帯が、赤彩を止めた菊川式土器文化圏と伊奈谷というのも興味深いところです。
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銅矛、銅剣、銅鐸、銅釧といった独自の文化圏は、最終的に重なり合いを見せながら、やがて銅鏡祭祀に収束しヤマト王権が確立していきます。
統一に向けた一連の動きは、ホツマツタヱの孝安天皇の記事辺りから東へ向かった動きが見えてきます。
(伝応神天皇陵)と同形の光明山古墳が築かれ、完全にヤマト王権の勢力下となるのです。