孝安天皇玉手丘上陵と金比羅宮~海を渡り財宝を持ち帰った大倭、秋津洲の大王 | 縄文家族|天竜楽市

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大祖先から受け継いだ五万年持続する森と共生するサスティナブルライフを未来の子供たちへ伝えましょう‼️



孝安天皇社

玉手丘上陵【たまてのおかのえのみささぎ】
(奈良県御所市大字玉手)




( ・`ω・´)💡
浄土宗萬願寺の右手にある鳥居をくぐり、丘陵を登っていくと、孝安天皇社が祀られています。

社と向かい合う階段を登っていくと、金比羅宮が鎮座しています。




( ・`ω・´)💡
金比羅宮の祭神は、三輪明神でもある大物主大神。

大物主大神は、母系を辿れば大王家にとって祖先にあたりますから、天皇陵の守神として祀られていても不思議ではありませんが…

(o´・∀・)o
金比羅さんといえば、
海上交通の神❗

( ・`ω・´)💡
そうしたところも、孝安天皇=海を渡った大王、倭国王帥升という口伝が存在していたことを示しているのではないかと感じました。

(o´・∀・)o
玉手、というのも、海から宝箱を持って帰って来たイメージに繋がる地名だね❗

( ・`ω・´)💡
孝安天皇陵は、中世には所在不明となっており、
江戸時代に再度、特定されました。

その時はまだ、あえて金比羅宮を祀るような、
海を渡った大王の伝承が残っていたのでしょうか❓

( ・`ω・´)💡
もともと金比羅宮がそこにあっただけの可能性もありますが…

(o´・∀・)o
海を渡った大王というイメージは、膨らんでいくね❗



( ・∇・)
ヤマトタリクニオシヒト大王=孝安天皇は、後漢に生口160人を献じ、孝安皇帝から賜った財物を持ち帰り、皆に配ったと伝えられています❗

( ・`ω・´)💡
⬇️『日本書紀』『先代旧事本紀』『ホツマツタヱ』を総合して、孝安天皇の年譜をまとめてみました❗

(o´・∀・)o
欠史八代といいながら、こうして見ると、様々なことがわかってくるね❗

( ・`ω・´)💡

孝昭49年【上鈴291】1月1日、内宮(皇后)がヤマトタリヒコクニ皇子(斎名オシヒト=孝安天皇)を産んだ時、朝日が輝いた。
(ホツマツタヱ)

觀松彥香殖稻天皇(孝昭天皇)68年【皇紀253=BC408癸酉】1月14日、日本足彦国押人尊(孝安天皇)を皇太子に立てた。年は20歳。
(兄の)天足彦国押人命、は和珥臣等の始祖である。
(日本書紀)

兄の天足彦国押人命は大春日臣らの祖。
(先代旧事本紀)

孝昭68年【上鈴310】1月14日、オシヒトを若宮(皇太子)とした。年齢は20歳。
兄のオシキネを御君(親王)とし、春日を賜った。
(ホツマツタヱ)

孝昭天皇は83年【皇紀268=BC393戊子】秋、8月5日に崩御された。
(日本書紀)

孝昭83年【上鈴325】秋8月5日に君罷る。113歳。
臣、妃は四十八夜を過ぎても喪に服した。

皇子は神を祀り、親を継いで民を治めた。35歳。

兄御君オシキネ、その子、大宅、粟田、小野、柿本、壹比韋(櫟井)ら十臣は忠節を誓った。

毎年8月5日(孝昭天皇の命日)に八夜の喪祭を行った。
(ホツマツタヱ)

翌年8月、(孝昭天皇は)掖上博多山上陵へ葬られた。
(先代旧事本紀)

孝安天皇元年【皇紀269=BC392己丑】春1月27日に即位。
(日本書紀)

上鈴326年1月7日、天つ日嗣を引き継ぎ、日本足彦国押人命が天つ君に即位し、正装して民に拝ませた。

磯城縣主長葉江の娘、長媛を、大典侍后とした。

十市縣主五十坂彦の娘五十坂媛を内后とし、長橋に住まわせヲシテ守とした。

妃は全部で12人。
(ホツマツタヱ)

秋8月、先代の皇后(世襲足媛)を尊び、皇太后とされた。
この年は太歲己丑にあたる。
(日本書紀・先代旧事本紀)

2年【皇紀270=BC391庚寅】冬10月、室に遷都、これを秋津嶋宮と謂う。
(日本書紀・先代旧事本紀・ホツマツタヱ)

3年8月、宇摩志麻治命の裔孫の六見命と三見命を足尼とし、次に宿禰とした。
(先代旧事本紀)

11年【上鈴336】
叢雲が稲虫の発生を知らせると、君は自ら嘉祥のまつりを行った。

稲は蘇り、穂積のまつりを行った。
(ホツマツタヱ)

26年【皇紀294=BC367甲寅】春2月14日。姪の押媛を皇后にされた。
皇后は大日本根子彦太瓊命を産んだ。
(日本書紀・先代旧事本紀)

一説に、磯城縣主葉江の娘、長媛。
一説に、十市縣主五十坂彦の娘五十坂媛。
(日本書紀)

26年【上鈴352】春2月14日、春日御君(兄オシキネ=天足彦国押人命)の娘、押媛を内宮とした。この時(押媛は)13歳。
(ホツマツタヱ)

32年【上鈴358】8月14日、孝昭天皇崩御から33年後に骸を博多の洞に治めた。
臣、侍女の骸も殉葬され、生きていた三人は殉死した。
(ホツマツタヱ)

38年【皇紀306=BC355丙寅】秋8月14日。
觀松彦香殖稻天皇(孝昭天皇)を掖上博多山上陵に葬られた。
(日本書紀)

51年(377年)9月初日、后のオシヒメが斎名ネコヒコを生む。オオヤマトフトニノミコ(大日本根子彦太瓊皇子)である。
(ホツマツタヱ)

76年【皇紀344=BC317甲辰】の春1月5日。
大日本根子彦太瓊天皇(=孝靈天皇)を立てて皇太子とした。
このとき(皇太子の)年齢は26歳。
(日本書紀・先代旧事本紀・ホツマツタヱ)

92年【上鈴418】春、
駿河宮の祝主が富士山の絵を奉り、大日本根子彦太瓊皇子は欲しいと言ったが、君は受け取らなかった。
(ホツマツタヱ)

102年【皇紀370=BC291庚午】の春1月9日に孝安天皇は崩御された
(日本書紀・先代旧事本紀・ホツマツタヱ)

(君は)137歳、
皇子は四十八夜喪に服したのち、若宮で政事を執った。
(ホツマツタヱ)

秋9月13日に日本足彦国押人天皇(孝安天皇)を玉手丘上陵に葬られた。
(日本書紀・先代旧事本紀)

9月3日に骸を玉手に送り、五人が殉死し、共に納められた。
(孝安天皇を)秋津神と贈り名した。
(ホツマツタヱ)

( ・`ω・´)💡

以上の事績から、孝安天皇のイメージは大きく膨らんできます❗

初級ヤマト王権において、重要な役割を果たした大王だったのでしょう。

様々な角度から検証していきたいと思います❗




孝安天皇社、金比羅宮は、非常に優しい御陵威【みいつ】に包まれた場所でした❗

(o´・∀・)o
優しいオーラに満ちたオススメのパワースポットだよ❗

宝船が財宝を運んで来てくれるかも❓




同じく御所市内にある
孝安天皇室秋津島宮【むろのあきつしまのみや】跡には八幡神社が鎮座し、そこにはのちに巨大な前方後円墳が築造されています。

( ・`ω・´)💡
記紀では、本州の異称として「秋津洲」が用いられますが、
それは、この孝安天皇の宮の名に由来するとも云われています。

日本足彦国押人天皇(日本書紀)、
大倭帯日子国押人命(古事記)と、

日本、大倭を冠された大王は、この国の礎を築いた偉大な大王に違いないのです❗