唐古・鍵から天竜川へ❗東海に勢力を伸ばすヤマト王権~欠史八代④孝安天皇(四) | 縄文家族|天竜楽市

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天竜川流域に岩宿、縄文の昔から連綿と続く山暮らし。

大祖先から受け継いだ五万年持続する森と共生するサスティナブルライフを未来の子供たちへ伝えましょう‼️



( ・`ω・´)💡
第六代孝安天皇の年譜を、『日本書紀』『先代旧事本紀』『ホツマツタヱ』を基にまとめると、以下のようになります❗

⬇️

孝昭49年【上鈴291】1月1日、内宮(皇后)がヤマトタリヒコクニ皇子(斎名オシヒト=孝安天皇)を産んだ時、朝日が輝いた。
(ホツマツタヱ)

觀松彥香殖稻天皇(孝昭天皇)68年【皇紀253=BC408癸酉】1月14日、日本足彦国押人尊(孝安天皇)を皇太子に立てた。年は20歳。
(兄の)天足彦国押人命、は和珥臣等の始祖である。
(日本書紀)

兄の天足彦国押人命は大春日臣らの祖。
(先代旧事本紀)

孝昭68年【上鈴310】1月14日、オシヒトを若宮(皇太子)とした。年齢は20歳。
兄のオシキネを御君(親王)とし、春日を賜った。
(ホツマツタヱ)

孝昭天皇は83年【皇紀268=BC393戊子】秋、8月5日に崩御された。
(日本書紀)

孝昭83年【上鈴325】秋8月5日に君罷る。113歳。
臣、妃は四十八夜を過ぎても喪に服した。

皇子は神を祀り、親を継いで民を治めた。35歳。

兄御君オシキネ、その子、大宅、粟田、小野、柿本、壹比韋(櫟井)ら十臣は忠節を誓った。

毎年8月5日(孝昭天皇の命日)に八夜の喪祭を行った。
(ホツマツタヱ)

翌年8月、(孝昭天皇は)掖上博多山上陵へ葬られた。
(先代旧事本紀)

孝安天皇元年【皇紀269=BC392己丑】春1月27日に即位。
(日本書紀)

上鈴326年1月7日、天つ日嗣を引き継ぎ、日本足彦国押人命が天つ君に即位し、正装して民に拝ませた。

磯城縣主長葉江の娘、長媛を、大典侍后とした。

十市縣主五十坂彦の娘五十坂媛を内后とし、長橋に住まわせヲシテ守とした。

妃は全部で12人。
(ホツマツタヱ)

秋8月、先代の皇后(世襲足媛)を尊び、皇太后とされた。
この年は太歲己丑にあたる。
(日本書紀・先代旧事本紀)

2年【皇紀270=BC391庚寅】冬10月、室に遷都、これを秋津嶋宮と謂う。
(日本書紀・先代旧事本紀・ホツマツタヱ)

3年8月、宇摩志麻治命の裔孫の六見命と三見命を足尼とし、次に宿禰とした。
(先代旧事本紀)

11年【上鈴336】
叢雲が稲虫の発生を知らせると、君は自ら嘉祥のまつりを行った。

稲は蘇り、穂積のまつりを行った。
(ホツマツタヱ)

26年【皇紀294=BC367甲寅】春2月14日。姪の押媛を皇后にされた。
皇后は大日本根子彦太瓊命を産んだ。
(日本書紀・先代旧事本紀)

一説に、磯城縣主葉江の娘、長媛。
一説に、十市縣主五十坂彦の娘五十坂媛。
(日本書紀)

26年【上鈴352】春2月14日、春日御君(兄オシキネ=天足彦国押人命)の娘、押媛を内宮とした。この時(押媛は)13歳。
(ホツマツタヱ)

32年【上鈴358】8月14日、孝昭天皇崩御から33年後に骸を博多の洞に治めた。
臣、侍女の骸も殉葬され、生きていた三人は殉死した。
(ホツマツタヱ)

38年【皇紀306=BC355丙寅】秋8月14日。
觀松彦香殖稻天皇(孝昭天皇)を掖上博多山上陵に葬られた。
(日本書紀)

51年(377年)9月初日、后のオシヒメが斎名ネコヒコを生む。オオヤマトフトニノミコ(大日本根子彦太瓊皇子)である。
(ホツマツタヱ)

76年【皇紀344=BC317甲辰】の春1月5日。
大日本根子彦太瓊天皇(=孝靈天皇)を立てて皇太子とした。
このとき(皇太子の)年齢は26歳。
(日本書紀・先代旧事本紀・ホツマツタヱ)

92年【上鈴418】春、
駿河宮の祝主が富士山の絵を奉り、大日本根子彦太瓊皇子は欲しいと言ったが、君は受け取らなかった。
(ホツマツタヱ)

102年【皇紀370=BC291庚午】の春1月9日に孝安天皇は崩御された
(日本書紀・先代旧事本紀・ホツマツタヱ)

(君は)137歳、
皇子は四十八夜喪に服したのち、若宮で政事を執った。
(ホツマツタヱ)

秋9月13日に日本足彦国押人天皇(孝安天皇)を玉手丘上陵に葬られた。
(日本書紀・先代旧事本紀)

9月3日に骸を玉手に送り、五人が殉死し、共に納められた。
(孝安天皇を)秋津神と贈り名した。
(ホツマツタヱ)

⬆️

( ・∇・)こちらの記事の続きになります❗⬇️








( ・`ω・´)💡
欠史八代と言われますが、『ホツマツタヱ』を加えると、なかなか充実した内容になってきます。

『ホツマツタヱ』では、1月1日、孝安天皇(ヤマトタリヒコクニ“オシヒト”大王)が生まれた時、朝日が輝いたと記しています❗

( ・`ω・´)💡
これは、『ホツマツタヱ』ではアマテル神と同様な誕生説話ですから、クニオシヒト大王が特別な大王であることを示唆しているとも言えます❗

⬇️

『ハツヒホノホノ
イツルトキ 
トモニアレマス』
(ホツマツタヱ 第四綾 日の神【アマテルカミ】の瑞御名の綾)

初日がほのぼの昇るとき、
日の出と同時に(アマテル神)はお生まれになりました。

( ・`ω・´)💡
『ホツマツタヱ』では、アマテル神(天照大神)を男神としていますが、
アマテル神もクニオシヒト大王も、元旦の初日の出とともに誕生したことになっています。

( ・`ω・´)💡
他にも、ホツマツタヱでは、

ニニキネの皇后、コノハナサクヤヒメが三つ子

【ホノアカリ】ホツマツタヱではニギハヤヒの父としている。
【ホノススミ】海幸彦
【ヒコホオテミ】山幸彦、炎尊。ウガヤの父、神武天皇の祖父。

を産んだ説話と、

クニオシヒト大王の子、ネコヒコフトニ大王(孝靈天皇)の内侍のヤマトクニカが三つ子

ヤマトモモソヒメ、
ヰサセリヒコ、
ワカヤヒメ、

を産んだ説話を対応させています。

(o´・∀・)o
ホツマツタヱでは、孝安天皇~孝靈天皇~倭迹迹日百襲姫命(卑弥呼❓)を、特別だ❗と伝えたい思惑が見え隠れしているね❗

( ・`ω・´)💡
孝安天皇の出自について、合わせて古事記も見ていきましょう❗

『此天皇(御真津日子訶恵志泥命【みまつひこかえしねのみこと】=孝昭天皇)、娶尾張連之祖奧津余曾之妹・名余曾多本毘賣命、生御子、天押帶日子命、次大倭帶日子國押人命。二柱。故、弟帶日子國忍人命者、治天下也。兄天押帶日子命者、春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壹比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢飯高君、壹師君、近淡海國造之祖也。天皇御年、玖拾參歲、御陵在掖上博多山上也。』
(古事記 考昭天皇条)

( ・`ω・´)💡
『古事記』にて孝安天皇の母は、

尾張連之祖
奧津余曾の妹
余曾多本毘賣命

『日本書紀』では、

尾張連遠祖
瀛津世襲の妹
世襲足媛

一云、磯城縣主葉江女渟名城津媛。
一云、倭国豊秋狹太媛女大井媛。

『先代旧事本紀』には、

瀛津世襲命の妹、
世襲足姫命

孝昭三十一年春正月、
瀛津世襲命を大臣とした、との記載があります。

『ホツマツタヱ』では、

ワカハヱの娘のヌナギヒメを典侍とした
サタヒコの娘のオオヰヒメは、長橋にてヲシテを扱う仮典侍とした

孝昭29年【上鈴271キシヱ(甲午)】
1月3日にヨソタリ姫を内宮に立てた、この時に姫は15歳であった

ヨソタリ姫は、高倉下(『旧事本紀』では、天香語山の別名とする。尾張・熊野氏祖)の子孫。

孝昭31年【上鈴273】
内宮の兄のオキツヨソがケクニヲミ【供国臣、供国の大臣】になった。

( ・`ω・´)💡
孝昭天皇の皇后の兄、オキツヨソが、
古事記では奧津余曾
日本書紀では瀛津世襲
となっていますが、
おそらく元の資料では、
オキツヨソと、漢字以外の神代文字で書かれていて、それぞれの著者が異なる漢字をあてたのでしょう。

(o´・∀・)o
『ホツマツタヱ』のヲシテ文字のような古代文字で書かれた元の資料が存在したことは、間違いなさそうだね❗

( ・`ω・´)💡
そして、瀛津世襲は、
旧事本紀では、
孝昭31年に大臣に、
ホツマツタヱでも、
孝昭31年に供国臣に就任したことを記載しています。
日本書紀に、この記載はありません。

(o´・∀・)o
内容的にホツマが一番具体的で、旧事本紀の年代とも整合性が取れているね❗

( ・`ω・´)💡
孝昭天皇が、高倉下の子孫である尾張氏から皇后を迎えいれ、
瀛津世襲が外戚として重要なポストに就いたという日本書紀には書かれていない事実が、ホツマ、旧事本紀から見えてきます❗

また、日本書紀の
一云…とあるのが、皇后の異伝ではなく、格下の典侍、仮典侍であったことがホツマツタヱから読み取れます。

( ・`ω・´)💡
日本書紀の一云には、

安寧天皇の皇后『一書云、磯城縣主“葉江”女川津媛』
懿徳天皇の皇后『一云、磯城縣主“葉江”男弟猪手女泉媛』
孝昭天皇の皇后『一云、磯城縣主“葉江”女渟名城津媛』
孝安天皇の皇后『一云、磯城縣主“葉江”女長媛』

と、四代の天皇に渡って、磯城縣主の葉江が后妃を差し入れたことになっており、

( ・`ω・´)💡
さらに、

古事記では、
綏靖天皇(の皇后は)
娶師木縣主之祖
河俣毘賣

安寧天皇(の皇后は)
河俣毘賣之兄、
縣主波延之女
阿久斗比賣

となっていて、
磯城【しき=師木】縣主葉江【はえ=波延】は、

五代の天皇に渡って后妃を差し入れていることになっています❗

(o´・∀・)o
どんだけ長生きなんだろう❓

( ・`ω・´)💡
が、ホツマツタヱを見れば、

孝昭天皇の典侍
渟名城津媛【ヌナギヒメ】は、
若葉江【ワカハエ】の娘。

孝安天皇の大典侍后
長媛【ナガヒメ】は、
長葉江【ナガハエ】の娘であることがわかります。

( ・`ω・´)💡
ホツマツタヱから磯城縣主の系図を再現すると、

黒速(弟磯城)➡️河俣毘賣
⬇️
葉江➡️川津媛
⬇️
若葉江➡️渟名城津媛
⬇️
長葉江➡️長媛
⬇️
大目➡️細媛(孝靈皇后)

となり、世代的にさほど無理がなくなります。

( ・`ω・´)💡
記紀だけを見ている研究者の中には、
二~六代に渡って同じ人物が后妃を入れているところから、
綏靖、安寧、懿徳を兄弟とする説もあるようですが、

ホツマツタヱを見れば、そのように曲解する必要が無いことがわかります。

(o´・∀・)o
記紀だけではわからないことが、ホツマツタヱや先代旧事本紀には、ちゃんと書いてある❗

( ・`ω・´)💡
ホツマや旧事を、ろくに見もしないで偽書と決めつけ、
日本書紀の記事さえも曲解するようでは、
空論、妄論にしか、なり得ません。

( ・`ω・´)💡
そして、磯城縣主=三輪氏族が、ほぼ独占してきた皇后の座を、
五代孝安天皇の代に
尾張氏が手に入れたこと。

皇后世襲足媛【よそたらしひめ】の兄、
瀛津世襲命が、孝安31年に大臣になったと、旧事、ホツマが揃って特記していることは、見逃してはなりません❗

また、孝安天皇の兄である天足彦国押人命は、和珥臣の祖であり、
和邇氏の系統から
春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壹比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢飯高君、壹師君、近淡海國造
といった有力氏族が出ていることは見逃せません❗

尾張氏は、その名の通り、尾張、美濃といった東海地方に勢力を持っています。

( ・`ω・´)💡
そして、淡海國玉神社祠官家の大久保氏(孝昭天皇子孫、駿河国和邇部)のように、和邇部もまた、東海地方に進出しています❗

一世紀末から二世紀は、銅鐸祭祀の時代です。

その銅鐸には、
近畿から北陸辺りまでに多い近畿式と、
東海地方の天竜川以西(東限は天竜川東岸に近い磐田市敷地)に多く見られる三遠式があり、

倭国大乱の180年前後に三遠式が作られなくなり、
卑弥呼共立の200年前後に近畿式も作られなくなります。

( ・`ω・´)💡
近畿式、三遠式銅鐸祭祀が盛んになるのは、
107年、倭国王帥升等(倭のクニオシヒト❓)が後漢の孝安皇帝に生口160人を献ずる少し前あたりですから、

孝昭天皇の時代に、東海地方と銅鐸祭祀という形で接点が強まった可能性を、旧事本紀とホツマツタヱの、
孝安31年、瀛津世襲命の大臣就任が示唆しているのかもしれません❗


( ・`ω・´)💡
近畿式銅鐸を、まさに作成していた現場が、
奈良県田原本町…つまり磯城にあった唐古・鍵遺跡です❗



そして、唐古・鍵考古学ミュージアムには、
天竜川西岸から運び込まれたと考えられる土器が出土しています❗



そして、こちらは浜松市博物館にある縄文時代とされる現地(天竜川西岸)出土の土器❗

天竜川西岸の縄文時代と弥生時代がシームレスに繋がっていることがわかる、土器の形状です。

倭国の海洋交易によって、移民事業は行われていたものの、縄文➡️弥生は、渡来人が縄文人を駆逐した結果ではなく、縄文人が交易を通じて大陸から輸入した文化を受容しながらライフスタイルを変化させていったというところです。

江戸➡️明治、戦前➡️戦後も、劇的な文化、ライフスタイルの変化がありましたが、民族が入れ換わったわけではありません。

ヤマト民族の遺伝子に大きな影響を及ぼすような渡来人の移入は、古墳~飛鳥時代に、五胡が華北に進出して中国が乱れ、倭国による移民事業がピークに達していた時期が顕著であり、

彼らはボートピープルとしてバラバラと無法にやって来たわけではなく、ヤマト王権によって新たに郡評を与えられ、整然とまとまって移住しています。


唐古・鍵遺跡から出土した弥生土器には、倭国の交易船が描かれています。

櫂の数から、多くの漕ぎ手が乗り込む船であったことがわかります。

( ・`ω・´)💡
海上交通の神でもあった秋津神=孝安天皇の室秋津島宮【むろのあきつしまのみや】は、御所市室にあったと比定されていますが、



孝靈天皇の代になると、唐古・鍵遺跡に近い、田原本町黒田の黒田廬戸宮【くろだのいおどのみや】に遷ってきます。



唐古・鍵から三輪山方面へ向かうと、纒向遺跡、そして箸墓古墳があります。

まさに、ここが邪馬台国の舞台です。




室秋津島宮跡には、のちに応神天皇を祀る八幡神社が造営されますが、その社の裏は、巨大な前方後円墳の前方部になっています。

その古墳は、武内宿禰の墓所であると云われています。

海を制した秋津洲の大王、ヤマトタリクニオシヒト大王の御陵威にあやかりたい思いが、三韓を制圧した神功天皇、応神天皇、武内宿禰の時代にあったのでしょうか。

( ・`ω・´)💡
記紀の記述を、先代旧事本紀、ホツマツタヱで補完し、
考古学の成果、
磯城の地元に伝わる伝承などを総合的に判断していくと、
そこに書いてあることが、嘘であるとは思えなくなります。

倭国王帥升から邪馬台国、卑弥呼に連なる後漢書、三國志の記録と、

奈良県磯城郡に刻まれたストーリーが、リアルに蘇ってきます❗



( ・`ω・´)💡
孝安天皇、孝靈天皇、
海人族である東海の豪族、尾張氏、和邇氏、
そして、
倭迹迹日百襲姫命❗

偉大なヤマト王権の指導者達が、この場所で、
この国の未来を、大いに語り合い、
子孫の私達に、美しく豊かな国を遺してくれた、

その事実に、感謝しないわけにはいかないのです❗

( ・∇・)
欠史八代なんてウソウソ❗
ヴォリーム盛り盛りのクニオシヒト大王の足跡は、まだまだ続くよ❗

( `・∀・´)ノ ィヨロシクー