オーディオドラマ「桃太郎たちの焚火を囲む会」に参加させて戴いた。これは、桃太郎や赤鬼、雪女などが焚火を囲んで海辺でBBQをする石貫慎太郎さんのオリジナル作品で、このご時世にピッタリの設定だ。かぐや姫や一寸法師も登場するから、まるで通信会社のCMの打上げを連想してしまいそうだ。

 

今回、私は赤鬼(&かぐや姫のお迎えの人)役を頂戴した。鬼は今まさに「鬼滅の刃」の大ヒットで注目されているが、石貫ワールドの鬼は恐ろしい存在ではなく、穏やかなやさしいおじさん(お爺さん?)として描かれている。宿敵であったはずの桃太郎とも旧知の仲で、そのホノボノとした交流がほほえましい

 

オーディオドラマ「桃太郎たちの焚火を囲む会」【16分間】

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■スタッフ
原作・制作:石貫慎太郎

■キャスト

桃太郎:能登洋宇

赤鬼:Saigottimo

かぐや姫:​山木梨花
雪女:中田真由美
一寸法師:南春奈


一般的に、朗読というのは読者が目で読む活字作品(小説や詩やエッセーなど)を1人または複数の朗読家が読み、耳で聴かせるもの。一方、ラジオドラマはTVや映画なら配役された役者達が演じるところを声優達が声だけで演じるドラマ。そして紙芝居や絵本読み聴かせは絵(静止画)を見せながら演者が声で演じるものだ。

 

今回の作品は「オーディオドラマ」、つまり基本は耳で聴かせるのでラジオドラマに近い。でもドラマというからには物語として何か出来事が起きて起承転結などのストーリーがあるものだが、ここでは何も起きない。登場人物が現れてボソボソ話して帰るだけ。そして、その間ずーっと「焚火」の動画が映っているのだ。

 

なんと登場人物は桃太郎も赤鬼も一切出てこないまま、映像は延々と「焚火」を映し続けている。そしてその焚火を一緒に囲んでいるであろう登場人物たちの会話だけが聞こえてくるのだが、そうなると何故かもう七面倒臭い物語など展開してくれない方が良くて、むしろどーでもいい話をダラダラと聴き続けたくなる

 

話の内容自体は「鬼ヶ島は自給自足で宝物など不要」とか「月には海がないので宇宙船は作れても海上移動は手漕ぎ」など、言われてみれば成程!と膝を叩くような石貫理論も展開されているのだが、なにせ焚火の前では、まったりした時間の中で流れていくだけだし、それがまた妙な快感でクセになりそうなのだ。

 

焚火といえば、私は昨年亡くなった漫画家のジョージ秋山の代表作「浮浪雲」を思い出す。幕末を舞台に、雲助の元締で居合の達人でもある主人公、通称・浮浪雲は、いつも女物の着物を羽織って「おねえちゃん、あちきと遊ばない?」とフラフラしている得体の知れない人物なのだが、確か彼の趣味は「焚火」だっだ

 

テレビでも「魂のタキ火」(NHK)という番組があり、各界から異色の3人が集まって焚火をしながら身の上話などをするのだが、これが不思議に面白い。視聴者である我々も何となく一緒に焚火を囲んで話を聴いているような気分になって、時間を忘れてずーっと焚火の炎を眺めてしまうのだ。まるで魔法にかかったようだ。

 

石貫作品への参加は「キューピッドは雪女」「海沿いの夜行列車」に続き今回が3回目だが、最初に台本だけ見た時は「これでドラマになるのかな?」と疑問にも思った(自分の担当台詞はとても自然で読み易かった)が、焚火の動画があれば逆にそれが心地良くて、これは是非ともシリーズ化してもらいたいと思っている。

 

Saigottimo

米国MLBエンゼルスの大谷翔平選手が大活躍している。打者として14本塁打は両リーグ単独トップ(5/20日時点)、投手でも防御率2.37(同)はチームの先発投手陣の中で断トツだ。走者としても俊足を生かして6盗塁、外野守備でもレーザービームで走者を刺す。2刀流どころか投げて打って走って守る4刀流の超人ぶりだ。

 

彼は日本でも2桁勝利と2桁本塁打を記録(2016年)した唯一の選手であり、「本塁打トップの選手が先発投手を務めるのはメジャーの歴史上でも100年前のルース以来2人目」など球聖ベーブ・ルースとよく比較され「今はルースの時代とは違うよ」と言っていた日米の野球マニアの鼻をへし折り続けていて、痛快この上ない。

 

MLB Angels の公式サイトから】

 

100マイル超の速球を投げ、400フィート超の大飛球を打ち、打席から一塁まで3.8秒台で走るという、メジャーでも類のない規格外の身体能力、しかも某メジャーリーガーがツイッターで呟いていたらしいが「俺より野球が出来るのは認めるが、あんなにgood lookingでなくてもいいよね」とボヤくほど、容貌まで麗しい。

 

カミさんに「大谷、今度は先発だよ」なんていうと「投手と打者でフル稼働ならお給料2人分もらわないとねぇ」と言う。なるほど、彼の仕事は野球だから、投手で先発したら翌日は休んでいいし上司(監督)も休ませたいだろう。仕事の成績になる勝ち投手の権利まであと1アウトなら交代する事を拒んでもプロならおかしくない。

 

でも彼を見ていると、そういうプロ根性とは違うものを感じる。自分の年俸や評価に繋がる記録など全く気にしている様子がない。3試合連続本塁打中の強打者なら三塁手も後方に守る、と見るや彼はすかさず3塁線にセーフティバントを決めるのだ。こんなことは本塁打数の記録を意識していたらやるはずがない

 

解説者の武田一浩氏が「どんな過酷な状況でも彼はいつも楽しそうですよね。きっと世界一野球が好きなんでしょう」とコメントしていたが、実はこれが大谷翔平の本質的な部分ではないかと思う。降板後も外野守備につき登板翌日も打者で出場するのも彼は「野球をするのが楽しくて楽しくて仕方ない」からなのだろう。

 

メジャーへの挑戦も2刀流に拘ったのも、最高の舞台で投げて打って野球を目一杯楽しみたかったからであり、本人にとっては記録などどうでもいいのかも知れない。彼の日本での年俸は5年目で2.7億円だったのにメジャー初年度の年俸は0.5億円台と大幅ダウンした仕事と考えたら“年俸8割減の転職”なんてあり得ない

 

実は私は国家資格2級キャリアコンサルティング技能士でもあり、現役時代は多くの人のキャリア相談に乗った。「キャリア」というと一般の人はどうしても仕事のことだと思ってしまうが、それは「ワークキャリア」であり「ライフキャリア」の一部に過ぎない事は下記の図(キャリア・レインボー)を見れば一目瞭然だろう。

 

この図で説明すると、大谷翔平にとって「野球をすること」は「ワークキャリア」であることは間違いないが、単に「生活の糧を得るため」であれば仕事は「手段」の一つだ。でも彼にとって「野球をすること」は子ども時代からの「ライフキャリア」全体を通しての「ライフワーク」ともいうべき人生の「目的」なのではないか。

 

彼の様に突出した才能や能力は発揮できなくても自分なりの「ライフワーク」を見つけて従事することは誰でも出来るはず。プロ野球で結果が出ず別の道でそれを見つけた選手もいるし、ドラフト1位入団で大成せず「それでもグラウンドに居たい」と生涯マスコットの着ぐるみで大活躍した島野修氏もその1人である。

 

ありし日の島野修氏

【左:ブレービー、右:ネッピー】

 

コロナ禍の現在(2021年5月)、大谷翔平選手の活躍が日本で明るいニュースとなる事は嬉しいし、彼の人並み外れた能力については「凄い」という言葉しかない。でも単に彼の能力や成績を賞賛し、応援するだけではなく、我々のような凡夫でも彼の「自分が好きな事を徹底的に貫く」という姿勢だけは学べそうである。

 

Saigottimo

岡本太郎によれば芸術とは人間の生まれながら持っている情熱であり欲求」なので「人は誰でも芸術家」だという。さらに「芸術は技能ではないので決して教えたり教わったりできない」し、生き方に専門家が居ないように芸術には本来、専門家も玄人もなく、むしろ「モーレツに素人たれ」と主張している

 

我々がこの「芸術」とよく混同しがちなものとして「芸能」先の記事で挙げた。能や歌舞伎のような伝統芸能や陶器や漆器のような工芸などは専門職人(匠)の熟練を要する素晴らしい技(技能)だが、これは「芸術」とは別物だという。であれば同様に我々が「アート(芸術)」と混同しそうな「デザイン」はどうか?

 

 

カセットテープ全盛期に日本の某メーカーが若者ウケする製品を出そうとイタリアの有名カーデザインスタジオにデザインを依頼した。すると彼等が手始めに要求したのはカセットテープ本体の技術的な機能の説明だった。果たして出来上がった製品は、回転が滑らかで消費電力性能まで向上していたという。

 

伝説的なデザイナーレイモンド・ロ-ウィ、日本のタバコ「ピース」箱の(ハトが枝葉を加えた紺地の印象深い)デザインで売上アップに貢献したことで知られるが、実は旧デザインでの色数や色階を減らすことで印刷コストの削減も果たしたデザイナーは、対象物の機能効率も考慮する“設計者”なのである。

 

【デザイン論の古典となったローウィの著作】

 

デザイン(de-sign)とは文字通り不要な印し(sign)を排除(de)して、本当に必要な機能を残すことだ。「これは単なるデザインで何の意味もないんです」など笑止千万!デザインとデコレーション(decoration:装飾)を混同している人の発言である。だから良いデザインがシンプルなのは当たり前なのだ。

 

つまり、デザインとアート(芸術)は違う。デザインは機能設計であり、アートは生命の迸りだ。ある部分が「赤い」のは、デザインなら赤くする意味(設計意図)があり意味がないのはダメなデザインだが、逆にアートなら「私のハートが赤くしたかったから」であるべきで計算された意味があるのはダメ(不純)なアートだ。

 

但し、違うとはいっても両者には「美」という共通価値基準はあるし100%純粋にどちらかのみということはないはず。画家は自ずとキャンパス内に収めるデザイン(機能設計)をしているし、岡本太郎氏の「太陽の塔」だって建築構造物としてのデザインをしっかり果たしているはず。両者は隣接し一部重複もしている。

 

注文婦人服デザイナーだった私の母も、クライアントだった某交響楽団ピアノ奏者にステージ衣装を頼まれた際、実際にコンサートを観てそのピアニストの動きを観察してデザインしたと話していた。服飾デザイナーなら装いの美しさだけでなく立ち居振る舞いにおける衣装の機能設計が要求されるという事である。

 

絵画自体は純粋なアート(芸術)作品だったとしても、どの絵をどんなフレーム(額縁)に入れてどこに飾るかと考えた時点で、来訪者のカテゴリや来訪目的やその空間で狙いたい効果などを計算して設計するだろう。だとしたら、それはアートを利用したデザインとして、空間デザイナーの領域になってくる。

 

程度の差こそあれ「アーティスト(芸術家)はデザイナー(の要素も求められる)」だし、冒頭の岡本太郎氏の言「人は誰でも芸術家」によれば、当然「デザイナーもまたアーティスト(芸術家)」ということになる。但し「デザインとアートは(どちらが上でも下でもなく)全く別物」という点はしっかり認識しておくべきだろう。

 

Saigottimo

今年2021年の「立夏」は5月5日、一年を四季で4等分したら今はもう春ではなく夏なのだ。今年のGWはコロナ禍で原則ステイホームとなったが、気候的にも初夏に向かっていて海辺が恋しい。こんな時、オールディーズ・ファンならパット・ブーンの「砂に書いたラブレター」がピッタリの気分ではないだろうか。

 

 

「砂に書いたラブレター(Love Letters In The Sand)」といえば1957年に5週連続全米No.1に輝いたパット・ブーン最大のヒット曲である。この曲がヒットした時代背景は既に別の記事で書いた通り、アレンジとバックを担当したビリー・ヴォーンの会心作でもあるので彼の楽団によるインスツルメンツ(歌無し)盤も聴いて欲しい。

 

【At Itoshima City, Fukuoka Pref.】

 

さて、家族連れなら浜辺で潮干狩りや貝殻探し、カップルなら砂の城を作ったりして遊ぶのだろうか(あ、そうそう、ミレイユ・マチューの「砂の城」という曲も素晴らしいですよ)。あるいは、この歌のように「砂の上にラブレター(恋文)を書くなんてのも結構ロマンチックだなぁ…」などと思うでしょう?

 

でも、ちょっと待った!“Love Letter”じゃなくて“Love Letters”と複数形になってるんだよね。えぇ~っ、いくらなんでも砂の上に手紙を何通も書けますか、書けないでしょ、ね?つまり、この“Letter”は「手紙」じゃなくて「文字」のこと。だから“Love Letters”は愛の文字列(例えば「I LOVE YOU」とか)でしょうね。

 

例によって、原詞は歌詞専門サイトを参照戴くとして、ナンチャッテ和訳を試みると、こんな感じだろうか。

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砂に書いたラブレター

(words by Kenny Charles F, Kenny Nick A)

 

ちょうど今日みたいな、あの日
私達は時間も忘れ、砂に愛の文字を綴っていた

でも波が砂から文字を奪っていくたびに
私が泣くと、貴方は笑っていた

永遠の真実(まこと)を誓ったはずなのに

どういうわけか、それは貴方にとって

何の意味もなかったみたい

あの日、砂に書いた愛の文字を

奪っていった時のように、波が崩れるたびに、

いま、私の傷ついた心は痛む

(translated by Saigottimo)
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もとは古いポップソングだが、ロカ・バラード(三連符×4拍)にして口笛を入れるという“50's洋楽の王道”にアレンジした、私が大好きなビリー・ヴォーンの手腕とパット・ブーンの甘い歌唱がハマった。これほどの大ヒットなら多くのカバーがあるはずだが、ここまでハマると、もう誰もカバーする気にもならないようだ。

 

下記の音源は茅ケ崎「Hi-Hat」にてHi-Hatカルテット・ライブに客演させてもらって6年目の録音だが、この曲はリハでも様々なアレンジを試みた結果、「やっぱりオリジナルのロカ・バラードにしかなり得ないね」という結論に至って、頭にゆみりーのアルトを2小節入れ、間奏に私の下手な口笛を入れた思い出がある。

 

♪Love Letters In The Sand ・・・2012年3月24日、茅ケ崎「Hi-Hat」にて♪

 

Saigottimo

5月9日は母の日。43年前に他界した私の母はファッション・デザイナーだったこともあり、私は他の科目は全て「3」だったが図画工作だけはいつも「5」だった。クルマ好きだったので小学生の頃は将来カーデザイナーになろうと思っていたが、母の「工業デザイナーは数学が出来ないとダメ!」の一言であっさり諦めた。

 

それでも「いつか歳を取ったら絵でも習おう」と漠然と思っていたが、気づいたらもうしっかり歳を取っており、そしてまさにリタイアした「今でしょ」になってる。「じゃ近くの社教館でデッサンでも習うか」と思った矢先、「モーレツに素人たれ」と説く岡本太郎氏の本を読み、そもそも歌も朗読も習ってない自分に気づいた。

 

そうだ、自分は歌も朗読もウクレレもハーモニカも「何事も本格的にやらない」がモットーだった。絵だけは小学生時代の思い込みのまま習おうとしていたが、習う必要なんてないじゃん。数年前の誕生祝に妹から豪華な水性色鉛筆セットをもらって殆ど使ってなかったことを思い出し「まず何でも描いてやろう」と考えた。

 

【左:新生Saigottimo画伯の処女作】

 

画用紙製のハガキに何か色鉛筆で描こうとしたが、急にクレパスで思いっ切り大胆に描きたくなり、昨年就職した次男の小学時代のクレパスを引っ張り出して描き、切手を貼っていま仕事で福岡に住む妹に送った。投函する前にカミさんに見せたら「何か悩みでもあるの?」と心配された。妹からも何も返事が来ない。

 

因みに、5年前に描いた水彩色鉛筆画がハガキ画用紙に残っていた。え、これの方が上手いって?いやいや、こんなもんはね、単なるテクニックで誰でも描けるんですよ。だって水彩色鉛筆のテキストに付いていたDVDを観ながら描いたんだもん。だから自分では「やっぱ俺って器用だな」くらいで、何の感動も無い。

 

 

岡本太郎氏も著したように「芸術はここちよくあってはならない/きれいであってはならない/うまくあってはいけない」ってね。この絵なんて、典型的に“綺麗だし心地良いし上手い”じゃないの。全然ダメだよね。だって、テキスト29ページの右下のお手本通りで何も面白くない。そうだそうだ、こんな絵はもう描かないぞ!

 

次に川崎駅から観たMUZAホールを油性ボールペンと色鉛筆で描いて知人に送った。こっちも反応がない。そんなに酷いか?いや、ホンモノのゲイジュツは同時代人には理解されないしそもそも他人の評価なぞ気にすべきではない。そーだ、返事が来ないがどうした。俺は描きたい絵を描くのだ、それでいいのだ!

 

 

あ、あの、何か問題ありますかね?(え、描いてもいいけど人に送るなって?そっか…やっぱ、どこかで他人に認めてもらいたいという下心があるんでしょうかねぇ…ゲイジュツの道は険しいっすね、岡本先生!)

 

Saigottimo

コロナ禍で各種イベントも中止や無観客開催を余儀なくされ、リモート配信等に切り替わっている。私自身もヴォーカリストとしてはリモートセッションは試しに参加させてもらったが、やはりジャズはオーディエンス(聴衆)を含めたリアルライブでないとね。但しジャズスポットでのライブ出演は自粛して1年超になる。

 

一方、朗読に関してはリモート絵本読み聞かせ」をリアルライブで一度だけ体験したがその後機会はなく、録音を送っての編集では「きつねのでんわボックス」「キューピッドは雪女」「海沿いの夜行列車」に参加した。視聴回数を見ると(「きつね~」は公開期間終了したが他は公開中)、朗読のネットニーズはありそうだ

 

そこで今回、私が所属する朗読集団「5Thanks(サンク・サンクス)」ではリモートで新たに動画コンテンツを制作した。といっても企画から制作に関しては専らリーダーの前尾さん頼みだが、彼女のセンスとパワーは流石だ!演目は宮沢賢治作「やまなし」で、5Thanksとして旗揚げした2015年の美術館公演の再演である。

●朗読動画「やまなし」【12分間】 ←クリック!

原作:宮沢賢治
企画・制作:朗読ユニット「5Thanks(サンク・サンクス)」

語り:前尾津也子

兄さんのカニ:大幡(おおばん)かおり

弟のカニ:久木崎なお江

お父さんのカニ:Saigottimo

音楽:ななえ

 

6年も前の公演だったが、メンバーは皆、当時の台本を持っていたし、一度リモートで読み合わせをしたら、間合いもバッチリだった。当時はキーボードで巧みに音色を変えて瞬時に対応していたななえさんの音楽も、いっそう磨きがかかったように思う。波や泡の効果音も情景動画とよく合っているのではないだろうか。

 

今回、カニやお魚などを制作したのはプロのナレーターである大幡ちゃんだし、音声や音楽の編集から動画制作~合成まで担当した前尾さんはもともと朗読では「プロフェッサー」の称号を持つものの本業は博物ジャーナリスト(?)だからズブの素人のはずなのに.…「何をさせても出来る人は出来る」という事だろう。

 

これまで5Thanksは旗揚げ公演以降も、詩の朗読カフェでの朗読&音楽エッセイの朗読オカリナ&歌と朗読夏休みお話BOX池袋と湘南でニューヨークの魔法古楽器リュートとグリム童話屋外での絵本読み聞かせ教科書展での朗読&歌等々、2019年まで実に様々な活動をしてきた。

 

昨年(2020年)も、春に高円寺でのイベントを企画していたし、秋にはプラネタリウムで宮沢賢治作「双子の星」を朗読しようと構想まで練っていたのだが、コロナ禍で断念!そして今年の「きつねのでんわボックス」&今回となるが、高円寺イベントもプラネタリウム企画も機が満ちればいつか必ず実現したいと思っている。

 

Saigottimo

岡本太郎の「今日の芸術」(1954年)に感銘を受け、続編「日本の伝統」(1956年)も読んだが、これも凄かった。「パリ暮らしが長い前衛芸術家が日本の伝統を語れるのか?」とも思ったが、彼の伝統文化に対する卓見と芸術への確固たる信念と情熱に圧倒された。ご紹介戴いた岩渕さん(dr.)に改めて感謝である。

 

主に「縄文土器」「日本画」「日本庭園」と全く異なる3分野について、時代背景から社会構造、生活様式や行動原理をベースに地に足の着いた本質的な芸術論であり日本文化論だ。そして何より我々の“間違った日本主義、伝統主義”を糾弾、「伝統は現在我々が新しく創り出さなければならない」と主張している。

 

【どちらも光文社知恵の森文庫】

 

興味ある方は是非お読み戴きたいので要約は避け、私が感じた事を中心に書く。私が最も感銘を受けたのは「伝統芸能などの芸事や工芸品の素晴らしさ」と「芸術」は別モノという点だ。匠の職人技の凄さは認めても神秘化するのはナンセンスだし、そもそもそれは「芸術」と混同してはいけないと岡本氏は戒める。

 

現在の古典は往時のアバンギャルド(前衛的)で、その手法等が確立して「型」になったらもう芸術としての価値ではない。以前、クラシック音楽やスタンダードは「その時代の優れた音楽が後世に残った」という定義をブログに書いたが、確かにバッハもモーツァルトもベートーベンも往時の革新的前衛だったはず。

 

往時の絵画の“常道”は、パトロンである貴族らが立派な装束で描かれている人物画や、神話や聖書の名場面を描いた宗教画だった。なのに庶民の日常や寛ぐ裸婦や卓上の果実等を描いたミレー、ルノワール、セザンヌ、ゴーギャン等の絵は、まさに生活に根差した、往時の「革命的前衛芸術」だった

 

それが後世の日本では西洋油絵における静物画や裸婦画の“型”になっている馬鹿馬鹿しさに我々は何の疑問も感じないどころか歌舞伎や日本舞踊など伝統芸能のような“型”として有難く受け容れていることが大間違いだと岡本氏は指摘する。「芸能」と「芸術」は言葉は似ているが全く異なるようだ。

 

日本でも西洋でも伝統芸能や職人技は長年かかって修得できる素晴らしい「技術」ではあるが「芸術」ではない。岡本氏が主張する芸術とは、自由に自分の個性や感性を表現することで自らの生き様を創造する営みであって、師匠の指示通りに意味も分からず何十年も修行して獲得するアプローチとは真逆だ。

 

岡本氏は「芸術はここちよくあってはならない/きれいであってはならない/うまくあってはいけない」と断言する。この意味は、「心地よくきれいで上手いもの」は、既に万人が価値を認めている手慣れた芸事(伝統芸能)や巧みな技ではあったとしても、決して人の心を揺さぶる「芸術」ではないという意味である。

 

過日、ジャズ喫茶「SEABIRD」でベテラン男性ヴォーカリストが来訪しスタンダード曲をスキャットを交えて小粋に歌い上げ拍手喝采を浴びた。私はマスターに「いやぁ、流石ですねぇ…」と感心半分、自虐半分で話しかけたら、「まあ、あれは一種の芸みたいなもんだからね…」と、マスターが私に微笑みながら答えた。

 

その時、私は自分もあの域に達しなければならないがとても出来ないと半ば落ち込んでいたのだが、マスターの言葉を聞いて何故かホッとした。「君は君のやりたい事を目指せばいいんだよ」と、優しく背中を押されたような、慰められたような気がしたのだ。でもこの本を読んで、その意味が少し分かった気がした。

 

私自身はMCで小噺もやるし、同じコード進行の2曲をテレコに歌う“ジャズの遊び”(下記参照↓)も、語りや口笛も含めて定番の芸として確立させたい一方で、下手でも失敗してもいいから新しい何かに挑戦し創造したい時もある。芸能(エンタテイメント)も芸術(アート)も価値は違うが上下貴賤はないのだから。

 

♪I'm Gonna Sit Right Down And Write Myself A Letter (手紙でも書こう) ~ It's A Sin To Tell A Lie (嘘は罪)…2011年9月13日、本郷三丁目「Gout」でのジョイントライブにて♪

 

※上記2曲はほぼ同じコード進行なので、同じ伴奏でどちらのメロディ&歌詞でも歌える。そこで3コーラス目を8小節ずつ交互に歌うという“ジャズの遊び”を某先輩Vo.の持ちネタから頂戴した。

 

Saigottimo

退職してほぼひと月が経過した。私はもう「会社員」ではないから「何をされている方ですか?」と問われれば「無職」だし、質問の意図が「どうやって生活しているか?」つまり生業なら「年金生活者」だろうか。でも質問の真意が「あなたは何者ですか?」なら、職業とも生業とも関係なく、もっと自由な回答をしていいはず。

 

もし敬虔なクリスチャンだったら「キリスト者」と名乗ってもいいだろうし、特定の主義や思想に傾倒しているなら「○○主義者」もアリだ。思想や宗教じゃ重いというなら「○○愛好家」「○○研究家」もある。小説を書く事がライフワークなら、何も出版されてなくても、生業ではなくても、「小説家」と答えても問題なかろう

 

だとすれば自分は何と名乗ろうかと想像してみた。このブログのように「ヴォーカリスト」「朗読家」「音楽療法カウンセラー」?あ、そうだ、既にプライベートな名刺があるぞ。でもヴォーカルや朗読くらいでしか使わないので下記のようなフザケた内容だ。裏面には比較的スタンダードな曲目(でもない?)の自分のキーを付した。

 

【左:表面、右:裏面】

 

譜面を持って無いときに「ヴォーカリストなら何か歌ってよ」と言われ楽器奏者に「○○なら歌えるでしょ。キーは何ですか?」と聞かれたら分からないとカッコ悪いのでキーも()内に記した。また、これを渡せば、この中からバンドが演奏可能な曲をこのキーで伴奏してくれれば歌えると考えたが、そんな機会はまだ一度もない。

 

ただ、この名刺(特に裏面)自体はともかく、よく「では名刺代わりに~」等と言うように、石川さゆりなら「天城越え」、森進一なら「おふくろさん」のような、自分の代表曲(いわゆるテッパン十八番)はあった方が都合が良いだろう。初めての場所などで誰も自分を知らない時に便利だし、自分もひとまず落ち着けるからだ。

 

私の場合は、1999年にヴォーカルデビューをした曲でもある「この素晴らしき世界(What A Wonderful World)」が最も多く歌っているので“名刺代わりの一曲”である。ディープな曲は余り得意ではない私が何故、サッチモことルイ・アームストロングのこの曲を歌えるようになったかは既に別の記事に書いた通りである。

 

♪この素晴らしき世界(What A Wonderful World)…2002年1月17日、高田馬場・Gate Oneでのヴォーカル・セッションにて♪

 

Saigottimo

音楽と認知機能の関係は「音楽療法カウンセラー」資格試験の勉強でも学んだが、音楽の記憶は一瞬にして人をその時点に戻すようだ。高齢者施設で一緒に童謡を歌った際、眼前の70歳超と思しき女性が幼女にしか見えなかったことがあるが、恐らく彼女は童謡を歌った幼少時代の自分に戻っていたのではないだろうか。

 

80年代前半、SE(システムエンジニア)だった私は某官庁のシステムトラブルで夜中の2時過ぎに呼び出されクルマで客先に向かった寝起きで寒いのと障害対応の不安から脚が震えていた。その時ラジオから流れた曲がマドンナの「ライク•ア•バージン」、今もこの曲を聴くと夜中の風景と逆流した胃液の味が込み上げる。

 

それからほぼ不眠不休の障害対応が続き、大量の紙束(メモリダンプリスト)を抱えて郊外の開発拠点を往復し、問題が解決して帰宅できたのは3日後だった。幸い深刻な状況には至らなかったものの、最近の某銀行のシステムトラブルのニュース等はとても他人事とは思えず、舞台裏で奮闘するSE達の姿を想像してしまう。

 

1992年1月、上司から翌月の異動を内示された。異動先は株式上場の社内整備をする新設部署。栄転でも左遷でもないが、余りの突然さに呆然自失となった。夜になっても気持ちの整理がつかず眠れないのでクルマで首都高環状線を何周も回った頃、ラジオから流れてきたある曲を聴いて少し落ち着き、帰宅して寝た。

 

歌声からすぐにリンダ•ロンシュタットだと分かったが曲名が不明だった。ネットもない時代なので、翌日FM局に電話で「昨晩0時半頃」と問合せて判明し、CDを購入した。その曲は彼女のジャズスタンダードアルバムの表題曲"(I Love You) For Sentimental Reasons"だった。以来この曲を聴くと、この時の心境が蘇る。

 

 

「for sentimental reasons」は直訳すれば「感傷的な理由のために」となるが、要するに「理屈抜き損得抜きで(あなたを愛している)」ということだろう。私が首都高を周回したのも理屈ではなく、極めて感傷的な理由からだった。例によって原詞は歌詞サイトをご参照戴くとして、ナンチャッテ和訳を試みると、こんな感じだろうか。

 

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I love you for sentimental reasons (words by Deek Watson)

 

理屈じゃなく愛してる
どうか信じて欲しい
私のハートは貴方に捧げるから

愛してる

貴方は私だけのもの
その愛しいハートを私に下さい
そして決して別れないと言って欲しい

毎朝、貴方のことを考え
毎晩、貴方の夢を見ている
愛する人よ、私はもう独りじゃない
貴方がいる限りは

理屈じゃなく愛してる
どうか信じて欲しい
私のハートはもう貴方に捧げたから

(translated by Saigottimo)

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先の記事でも触れたが、リンダ•ロンシュタットはフォーク&カントリーからスタートし、ロックンロール、ハードロックを経由して最後にジャズスタンダードに辿り着いた。この最終地点はアン•マレーロッド•スチュアート等と同じで何れも大衆の支持を得た。但し私は「やっぱり最後はジャズスタンダードでしょ」と言いたい訳ではない

 

【ネルソン•リドルの遺作となった三部作】

 

彼女がジャズスタンダードに挑戦したのは「What's New」(1983年)、「Lush Life」(1984年)、「For Sentimental Reasons」(1986年)のアルバム三部作だが、これらについて某ジャズ評論家が雑誌に「これはジャズではない」と書いていた。ジャズ屋のリンダファンなら憤慨しただろうが、私はジャズ屋ではないので逆にうれしかった

 

シナトラやエラのアレンジやバックを務めた、あのネルソン•リドルのオーケストラで歌っても、ジャズ通をして「ジャズではない」と言わしめる。これはリンダの個性(オリジナリティ)がジャズという枠をも超えたからだろう。まさに"Good music is good no matter what kind of music it is."(マイルス•デイヴィスの名言)である。

 

♪(I Love You) For Sentimental Reasons…2014年4月4日、渋谷・SEABIRD第一金曜ライブにて♪

 

Saigottimo

先日、Too Youngという曲を紹介した際、その逆にToo Oldというスタンダードもある事を思い出した。正確には“When I Grow Too Old To Dream”だから、直訳すると「夢を見るには歳をとり過ぎた頃」となるが、邦題は「夢見る頃を過ぎても」。なんとまあ、美しい和訳だろうか。1934年の作品で翌年の映画に使われたようだ

 

 

単に「歳を取った」「老いぼれた」と考えると「When I would be too old to dream」となりそうなところだが「Grow(成長)」と捉えているところがポジティブでイイ感じだ。いつものように原詞は歌詞サイトを見て戴くとして、ナンチャッテ和訳を試みるとこんな感じである。

 

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夢見る頃を過ぎても (words by Oscar Hammerstein Ⅱ)

【Verse:前歌】

私達は私達のやり方で楽しんだ
人生は美しく、そして私達は若かった
貴方が去ったあとも、人生は続いていく
ちょうど私達が口ずさんでいた古い歌のように

【Corus:本編】

夢を見るには歳をとり過ぎた頃、私は貴方を想い出す

夢を見るには歳をとり過ぎても、貴方の愛は私のなか

で生き続けるだろう

愛しい人よ、キスをして!そして、お別れをしよう

夢を見るには歳をとり過ぎても、貴方のキスは私のなか

で生き続けるだろう

(translated by Saigottimo)

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スタンダードなので、ドリス・デイ盤ナット・キング・コール盤ダイアナ・クラール盤など、数多くのカバーがあるが、私が最も好きで聴くたびに感銘を受けるのはカナダの歌姫、リンダ・ロンシュタット盤。ナットやダイアナは2ビートで歌っているが、彼女は原曲通り3拍子のままで、しかもヴァース(前歌)から歌っている。

 

 

リンダは14歳でキャリアをスタート。フォーク&カントリー分野においてイーグルスのヴォーカル等でも名を上げ、ロック色を強めた1978年の全米No.1アルバム「LIVING IN THE USA」でこの曲を歌っている。私はこのアルバムで「ラブ・ミー・テンダー」と共に最も印象に残っているのだが両曲ともシングルカットされていない。

 

シングルカットはされなかったがこの曲は注目はされていたようだ。下記の動画では「セサミ・ストリート」のメインキャラクター、カーミット達と一緒にこの曲を歌っている。エンディングでこんなに声を張り上げても全然騒々しくならず、まるで讃美歌のような静かなバラッドに聴こえるという点が彼女の凄いところだと思う。

 

【可愛いマペット達と一緒に歌うリンダ】

 

♪ When I Grow Too Old To Dream...2018年11月2日、渋谷•SEABIRD第一金曜ライブにて♪

 

ヴァースは大抵ルバート(自由なテンポ)で歌うのだが、この曲だけはリンダ盤に倣って3拍子のインテンポでそのままコーラスに入ることにしている。ま、当然ながら、リンダのようには歌えませんけどね。

 

Saigottimo