「トゥー・ヤング(Too Young)」は1951(昭和26)年のナット・キング・コールの全米No.1ヒット。私もさすがにリアルタイムでは知らないが、この曲を歌うとお兄さま姉さま達が「懐かしい!」と目を輝かせるから日本でも相当ヒットしたようだ。例によって原詞は歌詞サイトを参照いただくとして、ナンチャッテ和訳するとこうなる。

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トゥーヤング(S.Lippman&S.Dee)

皆は「君達は本当の愛を知るにはまだ若過ぎる」と言う。

「愛という言葉を知っているだけで意味は分からない」と。

でも私達は決して愛を知るのに若過ぎることなどない。
この愛はずっと続くだろう。そしていつの日か、皆は私達

が愛を知るのに若過ぎなかったと気付くことだろう。

(translated by Saigottimo)

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ローマ時代の壁の落書きに「まったく最近の若いもんは…」という常套句があったという。古今東西を問わず、オトナ(年長者)は常に若者を「やっぱりコイツら分かってないなぁ」とバカにする。確かに経験が浅い分だけ“過去のこと”は知らない。でも、逆に若者は“未来のこと”はオトナ(年長者)達より知っているのだ。

 

今から40年以上前、私ら大学生には「映像制作」の仕事が人気だった。それを当時の有識者達は「だから学生は社会を知らない。映像制作の仕事などはTVのキー局とサブキー局くらいしかないのに」と嘆いた。でも竹村健一氏だけは「若者は未来から来ているから本能的に未来社会を知っているはず」と言った。

 

果たしてその結果は?TV局どころか当時の全ての企業の印刷物は、その後ことごとくビデオパック化し、Webコンテンツ化し、映像制作業界が出現した。そして今や全ビジネスマンがパワポで資料を作るのが当たり前となった。竹村氏の予言通り、当時の若者は未来の社会の有様を本能的に察知していたのである。

 

また、当時まだパソコンが趣味か玩具だった頃、ビジネス界の有識者達は「キーボードが付いている機械はオフィスに普及しない。タイピングを習った人しか使えないから」と言った。でも今やオフィス中にキーボードのあるパソコンが普及している。当時キーボードに見向きもしなかった世代は皆とっくに引退している。

 

上記の例は笑い話ではない。コロナ禍で新人の集合研修が出来ず「ビジネス・コミュニケーションが教えられない」と嘆いていないだろうか。彼らは見知らぬ者同士がネット上でチームを組んでドラゴン退治が出来るのだ。だから、むしろwithコロナ時代のビジネス・コミュニケーションは彼等に教えてもらうべきなのだ。

 

また我々昭和の男子は貧しい給料でも無理してクルマを買いたがったのに、今の若い男子はクルマを買おうとしないばかりか運転免許さえ持とうとしない事を知って私はショックを受けた。でも、これも上記と同じで、彼らが活躍する時代はカーシェアが当たり前になりクルマも自動運転が普通になるとその後気付いた。

 

勿論、自分でハンドルを握るクルマは無くなりはしない。でもそれはちょうど今でも趣味として「乗馬」が残っているのと同じだ。限られたサーキットやオフロードを手動運転で走る事は道楽としては残るだろう。やれやれ、つまりトゥー・ヤング(Too young)等と思っている人こそ、実はトゥー・オールド(Too old)なのかも知れない。

 

♪Too Young …2002年1月17日、高田馬場・GateOneでのヴォーカルセッションにて♪

 

上記の録音は想い出深い。ママの梶原まり子(vo)さんが間奏で「スイマセンね、何か変なドラム入っちゃって」と笑ったのは、遊びに来ていたミッキー・カーチスがハウスバンドのドラマーと入れ代わったからだ。振り向いた私も吃驚した。だって、あの「ロカビリー3人男」として一世を風靡した大スターが私のバックだなんて…。

 

Saigottimo

日本は以前からの「核家族化」傾向に「少子高齢化」が加わり独居世帯が増え、この層をターゲットにした「お一人様」マーケティングも盛んだった。そしてここにきてコロナ禍が追い風となって、「ソロキャンプ」用品が売れたり、温浴施設等でも(客同士が会話をしないので)「お一人様歓迎」という風潮が加速している。

 

【某温浴施設のWebより】

 

ただ私はもともと一人での行動が苦にならないというか好きだ。体質的に下戸でお酒は全く飲めないが「飲み会は大好き」でウーロン茶で最後まで付き合うので「人嫌い」ではないし、周囲の人は、私が広報や人事の仕事を長くしていたので「社交好き」だと思っているようだが、実は本質的に一人は好きなのだ

 

妹はいるものの11年離れているので11歳までは一人っ子だったこともあり「一人遊び」に慣れているという環境要因もある。だが逆に「私は一人っ子だったので一人はダメ」という人もいるから、きっとこれは性分なのだろう。一人で散歩し公園でランチを食べたりハーモニカを吹いたりシャボン玉を飛ばして遊んでいる

 

【公園でのソロピクニック】

 

よく「お一人でも楽しめるんですね」と言われるが、それはちょっとニュアンスが違う。一人というと「孤独」という寂しいイメージがあり、飲食店の「おひとり様」もいま流行りのソロキャンプ等も、本来は家族や仲間とワイワイ楽しみたいのに、コロナ禍で仕方なく「独り楽しむ」んでしょ?という消極的な選択だと思われている。

 

私の場合はそうではなく、人と一緒だと楽しい反面で制約もされるが独りなら自分の好きなように自由に振る舞えるので、敢えて「独り楽しむ」という積極的な選択なのだ。つまり「独り」には家族や仲間とワイワイやる楽しさとは「別モノの楽しさ」がある。ここを分かってもらえない人には単なる「やせ我慢」だと思われてしまう。

 

NHK「100分de名著」で、哲学者・池田晶子の「14歳からの哲学」を採り上げた際(3/22)、指南役の批評家・若松英輔氏の「(会食などで)我々はよく人と会いますよね。でも自分とはあまり会ってないんじゃないでしょうか」との発言にドキッとした。確かにそうかも知れないが、何故ドキッとしたのか、自分なりに考えてみた。

 

我々は誰か人と一緒に居る時間は少なからずその人に意識を向けるが、独りで居ると全ての意識を自分で引き受けなければならない。だから、もしかしたら我々はそれ(自分と向き合うこと)が怖くて人と会ったり、忙しく何かの作業に没頭したり、目的なくTV番組を観続けたりしているのかも知れない、と思ったのだ。

 

例えば読書は、著作を鑑賞し著者と対話している事には違いないが、昔読んだ本を今読んで違う事を感じたり発見があるように、実は「自分との対話」でもある。これは岡本太郎が「今日の芸術」で指摘したように、絵画等の芸術作品を鑑賞することが「自己を創りあげることだ」という考え方にも通じるかも知れない。

 

だから、食事でも温泉でもキャンプでも「独り楽しむ」場合は、楽しむ対象は食事や温泉やキャンプだが、「独り楽しむ」というのは、楽しむ対象が「独り」つまり自分自身という事でもある。言い換えれば、食事や温泉やキャンプ等を媒介として「自分を楽しむ」という、全く違う目的になってくる。

 

「自分を楽しむ」なんて言うと「ナルシストだ」「自分大好きでしょ」等と冷やかされそうだが、自分と対峙する(向き合う)事は、けっして楽しい事ばかりではない。自分自身が今抱えている課題や問題から目を背け逃げている事や言い訳や欺瞞も見えてくる。むしろ、嫌な事や辛い事も含めて引受ける覚悟が必要になるのだ。

 

Saigottimo

よく「誰でも生涯で一編だけは小説が書ける」と言われる。それは自分の半生について書くことだそうだ。確かに“事実は小説より奇なり”で、一人ひとりの人生はみな違うし、とてもドラマチックだ。これはNHKの「ファミリーヒストリー」を観るとよく分かる。有名人のご先祖は一般人だがその生涯や経歴はドラマのように面白い。

 

小説一編は書けるとしても作曲は難しそうだ。多くの名曲を残したチャップリンや偉大なミュージカルメーカーのアーヴィング・バーリンなども譜面の読み書きは出来なかったというから音楽の素養は必須では無さそうだが、私の身近でもJoejiiやSEABIRD二金バンドの岩井バンマスなどオリジナル曲を持つ人はそう多くない

 

実は、私にもたった1つだけ作詞作曲したオリジナル曲がある。若い時分に何となく口ずさんでいた稚拙な歌詞の他愛もないワルツだが、ある時、譜面に起こして「風よ」というタイトルを付けた。さすがにコードは分からないので音楽の達人に付けてもらい、2005年に大塚・GRECO、2007年に渋谷・SEABIRDでも歌ってみた。

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      風よ(words and music by Saigottimo)

 

風風風よ、お前はいま生まれ、緑の星の広い大地の下、

ほのかに香り流れるその身体、風風お前はいま生まれる

 

のどかな春の花の香りの中、真夏に注ぐ強い日差しの下、

ポプラ並木の枯葉を乗せ、風風お前は、いま流れる

 

風風お前は悪戯好きさ、あの娘の帽子を僕の手元に

風風風よ、二人のなかを、風風ぼくらは今お前を抱く

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これは私のオリジナル曲だから当然初見になるのだが、ジャズの伴奏者は初見でもちゃんと演奏してくれる事に毎回驚く。本邦初演のGRECOでは藤野さん(pf)がサラリと弾いて「こんな感じで良かったでしょうか」と仰り、SEABIRDでは小松さん(pf)が「こんな綺麗な曲はないですね」と褒めてくれたので、とてもうれしかった。

 

でも、記録を見ると、まだこの2回しか演っていない。何故だろうと考えたが、やはりジャズスポットで歌う以上は英語でないと格好がつかないんだろうなあ、きっと。となると、英詞も創る必要がありそうなので、この際エイヤッと作ってみた。そもそも原詞の日本語が稚拙なので英詞もそうなってしまうのは、ま、仕方ないよね。

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“Blowing Wind” (translated by Saigottimo)

Blowing, blowing, blowing wind, 

you were born under the green planet.

Dance and flow in spring flowers 

like summer breeze with autumn leaves on it.


Blowing, blowing, blowing wind, 

you brought that girl's hat to me.
Blowing wind flows between us, we'll now hold you tight.

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今年中の再演は難しいだろうから15年以上ぶりになってしまうが来年以降にでも、いずれまたどこかのセッションで歌わせてもらうことにしよう。ということで、上記の英詞での本邦初演は下記のアカペラで聴いて戴くしかないですね。

♪風よ…2021年4月11日、自宅にてアカペラ♪

 

Saigottimo

「サンデー毎日」といっても大正11年に創刊した日本初の週刊誌のことではない。「毎日が日曜日(休日)」という意味だ。私は新卒で就職した会社に43年間勤務し、この3月末に満65歳で退職した。翌月からすぐ別の仕事に就く人は違うが、私のように普通に退職しただけのサラリーマンは急にサンデー毎日になる。

 

 

この数年は一足先にリタイアした先達に様々なアドバイスを求めた。曰く「キョウイクとキョウヨウが大事だよ」「ああ、やっぱり教育と教養ですか?」「いや、そうじゃない。“今日行く(毎日通う)”場所を作らないとヒッキーになるし、毎日図書館や公園に通っても“今日(する)用(事)”が無いと張り合いが無いんだ」「あ、なるほど!」

 

やはりこういう事は経験者に聴いてみなければ分からない。「サンデー毎日は今日行くと今日用!」とまあ、ここまでは分かっていたのだが、実際に毎日通勤していた週5日間の平日に通勤もしないと自分がどうなってしまうのか不安だった。ところが昨年4月からのコロナ禍で「原則在宅勤務」となり、図らずも予行演習ができた。

 

その結果、業務上の連絡・報告・相談は殆どメールで済むし、会議や打合せや勉強会も、むしろネットの方が効果的かつ効率的であることも確認できた。そして余計な対人コミュニケーションからも解放されるので、むしろ私自身は全くオフィスに行かなくても何の不都合も問題もないばかりか、むしろ非常に快適だった

 

そうはいっても退職して仕事が無くなるとどう感じるのか心配ではあったが、実際にそうなってみると「よくまあ、これまで40年以上も勤務し続けたもんだなあ…」と我ながら感心するくらい、肩から重荷を下ろしたような「解放感」と、ようやく年季奉公が明けた奉公人のような「清々しい気分」で退職後一週間が経過した。

 

ただ、まだ住宅ローンも少し残ってるし、毎日通勤しているカミさんからは「足腰が立つうちは働け!」と無言の圧が来る。だから会社から離職票が送られてきたらハローワークに行って就活はするつもりだし、それで決まらなければ中小企業診断士として開業届でも出そうかと思っている(そうすれば開店休業でも「自営業」)。

 

しかし先達からのアドバイスに従って、家には引き籠らず毎日自分なりの用事をルーティーン化している。人間は(少なくとも自分は)怠惰で弱いから、朝起きなくてもいいならダラダラ寝てるし出掛ける必要なければ家でゴロゴロし用事がなければTVを付けてジャンクフードを食べ続けて健康を損なうのは自明だからだ。

 

同時に人間は習慣の動物でもある。凡人である我々も歯磨きのように「習慣(ルーティーン)化」という手段を上手く使えば天才を凌ぐような偉業も成し遂げられるはず。ここ43年は会社が「5勤2休」「通勤&業務」という生活リズムとルーティーンを与えてくれたが、それを改めて自分で設計し直して自分に与えれば良い

 

そこで私は、毎日「体温・血圧・体重測定」「腸活の朝白湯&蜂蜜バナナヨーグルト朝食」「8千歩の散歩」「5分の体操&筋トレ」「10分のスピードラーニング(英会話)」「ハーモニカ&ウクレレ演奏」「手帳に1行日記執筆」、週1回「テニス」「プール」、月2回「銭湯(60歳以上無料Day)」というルーティーンを組みキチンと履行している

 

「君は趣味や交友範囲が広いから退職しても困らないだろう」等と言われてきたが、コロナ禍でヴォーカルも交友もままならないものの確かに困ってはいない。ただ、まだ1週間しか経ってない。3週間で飽きるかも知れないし3か月が限界で仕事したくなるのかも知れないが、今は誰にも雇われない「無重力状態」を楽しんでいる。

 

Saigottimo

岡本太郎といえば、1970年の大阪万博(EXPO'70)のシンボルタワー「太陽の塔」や、メキシコで発見され渋谷のスクランブル交差点近くの屋内コンコースに復元移設された壁画「明日の神話」で知られる。また、ある程度年配の方なら「芸術は爆発だ!」のテレビCMも印象深いであろう日本を代表する前衛芸術家だ(1996年没)。

 

【渋谷駅の「明日の神話」~岡本太郎記念館Webより~】

 

私は大阪万博には行けなかったが、渋谷のIT企業に3月末まで勤務していたので大迫力の壁画は馴染み深いし、件のCMも忘れられない。とはいえその程度の関わりしかなかった私だが、ヴォーカル活動の拠点としている渋谷・SEABIRD第一金曜バンドの岩渕泰治氏(dr.)から岡本太郎の著書「今日の芸術」を紹介された

 

会社役員ドラマー絵本も描く岩渕氏が「岡本太郎は人間の生命の根本を問いただしてくれる感じがして、安牌を狙おうとふと頭をよぎる自分を蹴飛ばしてくれます。音楽でも何でも自分を表現しようとする人はそれを忘れたらアカンなと思いその度にまた読み返す…」というくらいだから、そりゃ読まない手はないでしょう。

 

彼は私の「自由に振る舞うことは結構難しい」という記事に対し「自由というテーマはホント奥が深く、つい何かに囚われそうになる度に私は岡本太郎の名著『今日の芸術』を読み直してます」と返信をくれたので、早速、図書館で借りて読んでみた。そしてそのあまりに素晴らしい内容に感動し、先日文庫版を購入してしまった。

 

【光文社文庫/560円+税】

 

何が素晴らしいかと言えば、この本には私がこれまで当ブログで試行錯誤してきた答えが全て書いてある。「上手いかどうかじゃないんだな」「習わないからできること?」「奇跡のレッスンで分かったこと」等、私が今まで世間に対して疑問に感じてきた「創造性」や「オリジナリティ」や「教育」に関する「答え」がここにあった。

 

芸術はうまくあってはならない」と喝破し、セザンヌ、ゴーギャン、ゴッホ、ルソーらが当時いかに下手な絵描きだったか立証し、芸術教育の大間違いを指摘している。しかもそれらを、私が生まれる前(1954年)に、彼は堂々と著作として出版しベストセラーにしていたというから、最早知らなかった自分がお恥ずかしい限り

 

岡本太郎は、現代は「芸術」が貴族やセレブの占有物から我々庶民のものになったのだから貴族のお抱え芸術家のような上手さを求めず、自らの魂の感動を自由に表現すべきだと述べる。「上手く描く必要なんかみじんもない。どんどん下手に描きなさい」そして芸術は自身の人間形成であり自らを創造することだと述べる。

 

また、工芸などの職人技や芸能・芸事なら教えられるとしても「芸術」は本質的に教えたり教わったりするものではなく、人生に専門家がいないように、全ての市民が創造者として参加すべきだとさえ主張している。特に、芸術は自己実現のためであって「誰かに評価されるためではない」という点は耳が痛い

 

さらに私が驚いたのは、よくジャズはコール・アンド・レスポンスなどと言って演奏者は聴衆(オーディエンス)と“一緒に音楽を創る”等と言うが、彼は絵画鑑賞においても「鑑賞する、味わうということは価値を創造すること」「作品に触れ自身の精神に無限の広がりと豊かな彩りを持たせることは立派な創造」と述べている。

 

この著作はとても語りつくせないので、ご興味を持った方は図書館や書店で是非、手に取って戴きたい。絵画に限らず芸術に限らず自己表現や自己実現、人間教育全般にわたって実に本質的かつ根源的な問題提起と明快かつダイナミックな主張が展開されている。改めて紹介して下さった岩渕さんに感謝である!

 

Saigottimo

「この世の果てまで」という邦題のポップス・スタンダードがある。1962年に女性カントリー歌手のスキータ・デイビスが歌って全米チャート2位の大ヒットになったドラマチックな曲だ。「この世の果て」とはものものしい表現だが、原題は「The End Of The World」歌詞は「この世の(空間ではなく時間の)終わり」という意味だ

 

作詞は「トゥー・ヤング」のシルビア・ディー。原詞は専門Webに譲るとして、ナンチャッテ意訳を試みたらこうなった。

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この世の果てまで(The End Of The World)

 

太陽はなぜ輝き続けられるの?

海はなぜ岸辺に打ち寄せているの?

私はもう貴方に愛してもらえないから

この世は終わったというのに

 

鳥たちはなぜ啼き続けるの?

星たちはなぜ夜空で瞬けるの?

私が貴方の愛を失ったことで

この世は終わったというのに

 

朝、目が覚めるたび私は不思議でならない

何故、全てが今まで通りなのかと

私は分からない、本当に分からない

これからどうやって生きていけばよいのか

 

私の胸はなぜ鳴り続けるの?

私の眼はなぜ涙を流せるの?

貴方が別れを告げたとき

この世は終わったというのに

(Translated by Saigottimo)

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ハイハイ、恋人にフラれて「ああ、もうこの世の終わりだ~」という失恋の歌だねと思ってしまうが、実はそうではないらしい。作詞者のディーは父親を亡くした思いを綴ったという。父親が亡くなることで「もう愛してもらえない」し、父親からの「愛を失った」訳だし、父が亡くなるときに「別れを告げた」ということなのだろう。

 

作詞時点で40代だった彼女が如何に父親に愛され、また人生の指針を得てきたのかが分かる内容だ。数千曲あるというスタンダードの8~9割が恋愛に関する歌だというが、この曲は「バーモントの月(Moonlight In Vermont)」等と同様、男女の色恋とは関係ない数少ないスタンダードである事は余り知られていないだろう。

 

プロデューサーはカントリー界の大御所チェット・アトキンス(g)というから、まさにカントリーソングなのだが、デイビスはこの曲で白人女性歌手としては珍しくR&Bチャートでも5位を記録。彼女はグラミー賞も獲得している。でも私はポップス界のミス・ダイナマイト、ブレンダ・リー盤の方がオールディーズとして印象に残っている。

 

もとはカントリーでもスタンダードだから多数のカバーがありブレンダ・リー盤の他にポップス界からカーペンターズ盤、ジャズ界からジュリー・ロンドン盤、J-POP界から竹内まりや盤、歌謡界から伊東ゆかり盤もご紹介したい。テンポは違えど、リズムはいずれもロカ・バラード(三連符×4拍)で、この時代の雰囲気タップリだ。

 

 
 
 

 

♪The End Of The World with Rumiko…2026年3月21日、渋谷・SEABIRDでのセッションにて♪

 

♪The End Of The World…2021年4月6日、S.K(rec.)Quartetとの合成録音によるバーチャルセッション♪

 

♪The End Of The World…マッキー(牧かおる)との合成録音によるバーチャルDuet♪

 

Saigottimo

コロナ禍でも地球は公転しているから、春はやって来る。春の到来を告げる復活祭(イースター)は、“春分の日以降で最初の満月の直後の日曜”なので、今年2021年は4/4(日)になる。イースターの日本での認知度はまだ低いが、クリスマス、バレンタイン、ハロウィンに続いていずれ日本でもイベントとして定着するだろう。

 

冒頭の定義で分かるようにイースターは季節的には春を祝う行事、キリスト教的にはイエスの復活のお祝いでもある。名称の由来は太陽が昇る東(East)から来ていて、卵やウサギがフィーチャーされるのは繁栄の象徴とのこと。でも日本において人々が関心を示すのはHow toであって、WhatやWhyは殆ど重視されない

 

だからイースターが何の祭りで何故お祝いするかはどうでもよく「何をすればいいか?」が分かり易く提示され、それが楽しくて誰でも出来れば人々は受入れるし定着していくことだろう。クリスマスでケーキを食べ、バレンタインでチョコレートを贈り、ハロウィンで仮装をする様に。てことはイースターの定着は卵業界次第か。

 

最近では恵方巻がそうだ。「節分の日に(今年は)〇〇の方角を向いて無言で食べると福が来る」というHow toが受入れられ普及し食物廃棄問題まで起こした。こんな訳の分からない風習がなんで急に普及したのかと不思議に思っていたら、カミさんが「主婦はこれで一食分の献立を考える手間が省けるからよ」成程ね…。

ジャズスタンダードとして知られる「イースターパレード(Easter Parade)」は、あのライザ・ミネリの母親、ジュディ・ガーランドと踊りの達人、フレッド・アステアが主演する同名ミュージカル映画(1948年)の主題歌でアービング・バーリン作。いかにも古き時代が薫るオールドソング。私は笈田敏夫さんのバージョンが好きだ。

 

 

原詞は例によって専門の歌詞Webに譲るが、ナンチャッテ意訳を試みるとこんな感じだ。

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目一杯フリルが付いているイースター帽を被る君は

イースターパレードのなかで“最高のレディ”になるだろう
私は何不自由ない暮らしをしているが、皆が君を眺めると
もうイースターパレード中で“最も誇らしい仲間”になれる


(ニューヨークの)五番街ではカメラマン達が僕らを撮る

そして君は朝刊のグラビアに自分を見付けることだろう


ああ、私はイースター帽と、私がこのパレードに連れて

った女の子について、定型詩だって書くことができるさ

(Translated by Saigottimo)

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イースター・パレードに連れて行った女の子が派手な帽子を被ってパレードで一番目立つレディとなり、新聞のグラビアに載ったことが誇らしくて仕方ない、というオジサン心理が描写されている。だから同じ女性を「レディ(lady)」と「女の子(girl)」として書き分けているのだろう。公開当時アステアは49歳でガーランドは26歳だった。

 

bonnetは婦人用の飾り帽子なのでeaster bonnetを“イースター帽”とし、the grandest ladyを“最高のレディ”、the proudest fellowを“最も誇らしい仲間”としてみた。また、[be] in cloverは贅沢(安楽)に暮らす(*1)という意味があるらしい。sonnetは14行構成のヨーロッパの定型詩、さしずめ日本なら短歌か?爺臭い感じだね

 

♪Easter Parade…2003年8月30日・大塚「GRECO」のヴォーカルセッションにて♪

※間奏の頭で「珍しい選曲ね。ジュディ・ガーランドとフレッド・アステアの映画の主題歌よ」と囁いているのはベテラン・女性ヴォーカリストの志保澤さんの声だ、懐かしい…。

 

(*1)研究社新英和中辞典より

 

Saigottimo

先日「免疫力を向上させる簡単な方法」として「笑い」を推奨する記事を書いたところ、早速「私も年に何回か寄席に行きます」との反応を頂戴した。その彼がジャズミュージシャン(ドラマー)だったので、以前から「ジャズまたはクラシック音楽の愛好家には落語好きが多いなぁ」と思っていた私は「やっぱりそうか」と思った。

 

私の同級生にも高校生にして「ジャズ人名鑑」に名前が載っていた田中邦男というドラマーが居て落語好きだったし、特に彼の場合は奇しくも私と同じく春風亭柳昇師匠の大ファンだったことを思い出した。そこで「どうも落語とジャズやクラシック等の音楽にはどこかに共通点があるに違いない」と思い至り考えてみた。

 

 

結果「古典落語とスタンダードは同じ」という結論に辿り着いた。「寿限無」や「時そば」などの古典落語は噺のストーリーやオチは決まっているが、噺家の個性によって登場人物のキャラやディティールが変わって面白い。ジャズスタンダードもメロディやコード進行は同じだが演奏者によってリズムもテンポも味わいも異なる。

 

クラシック音楽の世界も同じで、かつて山本直純氏が講演でベートーベン交響曲第5番「運命」冒頭の「ジャジャジャジャーン」という4音のフレーズが時代や指揮者によってこんなに違う、と聴き比べさせてくれた。古典落語もスタンダードもクラシックも、演者がどう解釈しどう表現するかで全く違ったものになる点が面白い。

 

 

先日、休暇を取って新宿「末廣亭」に行った際、「夜の部」主任(トリ)の三遊亭遊雀師匠が「初天神」を演った。何度も聴いた古典だが、縁日で子供がグズる様子の余りのリアルさと迫力に、もう腹がよじれるほど笑ってしまった。あそこまでリアルに演じるには自らの幼少時代の記憶だけでなく相当の観察機会が必要だろう。

 

また数年前には同じく「夜の部」トリで柳家さん喬師匠が、有名な古典「芝浜」を演った。この噺は私は柳家小三治師匠(今や人間国宝)のカセットテープ(古い!)を持っていて何度も聴いてたのに、図らずも号泣させれられてしまった。ストーリーは変えてないのに主人公のおカミさん目線で語られて意表を突かれたのだ。

 

遊雀師匠の「初天神」、さん喬師匠の「芝浜」は演じ方や着目点の妙だが、ストーリーのアレンジという点では、立川談笑師匠の「壺算」転じて「薄型テレビ算」が凄い。古典の「壺算」は小さい壺の予算で倍の大きい壺を買うというトンチ噺だが、これを10万円の予算で50インチTVを買うという今風アレンジをして唸らせるのだ。

 

私もナンチャッテではあるが、一応“スタンダード・ヴォーカリスト”を名乗る以上は、これら一流プロのマイスター(師匠)方を見習って、スタンダードを自分流に解釈し、演じ、表現していきたいと思っている。これはこのブログでも常々申し上げているように「上手いかどうか」という価値基準とは全く違う次元の話である。

 

Saigottimo

一昨年ミシェル・ルグラン、昨年エンニオ・モリコーネと、相次いで映画音楽界の巨匠が亡くなった。昔の映画は、ビジネス面でも文化面でも時代への影響力は飛び抜けていた。“娯楽の王様”の座をTVそしてネットに譲った今でも“映画は総合芸術”と呼ばれるだけあって、音楽界における映画音楽の存在感は依然大きい

 

映画音楽で私が真っ先に思い浮かぶのはヘンリー・マンシーニだ。彼は1961年「ムーン・リバー」1962年「酒とバラの日々」と2年連続でアカデミー歌曲賞を受賞しているが、実は1963年「シャレード」、1964年「ディア・ハート」、1965年「スウィート・ハート・ツリー」と、5年連続して同賞にノミネートされているのだ。

 

映画音楽界にはジョン・バリー、ジョン・ウィリアムズなど数多の巨匠がいる中で、アカデミー歌曲賞を2年連続で受賞したのは1991~1992年のアラン・メンケン(「美女と野獣」「アラジン」)と彼しかいない。特に映画産業がエンターテイメント界の王座に君臨していた1960年代前半は、まさにマンシーニの絶頂期だったと言えよう。

 

 

ムーン・リバー」も「酒とバラの日々」も今やスタンダードとしてよく演奏されており私もレパートリーにしているので、ここでは敢えてスウィート・ハート・ツリー(The Sweet Heart Tree)」をご紹介したい。この曲は1965年のコメディ映画「グレートレース」の中でナタリー・ウッドがギターを抱えながら歌った美しい曲である。

 

 

映画「グレートレース」はトニー・カーチス、ジャック・レモンと一流俳優が主演しているものの、内容はアニメ「チキチキマシン猛レース」の実写版といったドタバタ喜劇。刑事コロンボで当たる前のピーター・フォークも出ている。その中でナタリー・ウッドがほぼアカペラで歌ったこの曲は無駄に美しく、どこか浮いていた印象だった。

 

私はこの曲を根市タカオさん(wb)に教えて戴いたと言ってもいい。根市さんのジャズのCDに収録されていたこの曲を聴いた途端、中高時代の親友と一緒に映画館で観た上記のシーンを鮮明に想い出した。以来、私はレパートリーとして歌わせて戴いているが、もっともっと知られてよい“隠れた名曲”ではないだろうか。

 

とはいえ、アカデミー賞ノミネート曲なので様々なカバーも存在している。TV番組でヘンリー・マンシーニとトークをして彼のピアノでこの歌を歌うパティ・ペイジ盤、軽快なボビー・ダーリン盤、重厚なジョニー・マティス盤、そして男性コーラスのフォー・トップス盤をご紹介しておこう。

 

 

因みに「刑事コロンボ」のテーマ曲も、「ピンク・パンサー」のテーマ曲も、あのヘンリー・マンシーニの作曲だ。また、歌詞がないので歌うことは出来ないが、「ピーター・ガン」のテーマ曲は最高にカッコイイ!きっと誰もがどこかで聞いたことがあるだろう。この曲はいつかビッグバンドのナマ演奏で聴いてみたいと思う1曲である。

 

♪The Sweet Heart Tree …2021年3月12日自宅にてハーモニカとアカペラ♪

 

Saigottimo

ジャズは自由にプレイするもの」等と言われると一瞬、「自由は何でもアリだから好き勝手すればいいんだ、楽勝!」と思うのだが実際にやろうとすると「自由に振る舞う」ことは意外と難しい。逆に手本があって「この通りにやって」と言われた方が、(その通りに上手くできるかどうかだけで)選択肢が無い分だけ楽である。

 

よくパンフレットなどが置いてある場所に「ご自由にお取りください」等と書いてあるが、これは自由といっても単に「無料です(It's a free)」という意味だから、選択肢は「もらう/もらわない」の2択しかない。しかし「自由に歌って(演奏して/書いて/描いて)ごらん」等と言われると選択肢が多い分だけ難しくなる

 

それに「自由に振る舞う」とは、様々な制約や周囲の状況や人に拠らない、何かに囚われない、縛られないことを指す。これらは全て「~ない」と否定的な表現だが、肯定的に表現すると「自分の思いのままに振舞う」ことであろう。まさに読んで字の如く」らに根差す理「」によって行動することと言えるかも知れない。


他の人ではなく「自らの理由によって行動する」なら簡単に出来そうなのに難しい原因は再び否定的な表現に変換すると分かる。つまり「自分以外の理由で行動しないこと」だから「何をやってもOK」ではないのだ。つまり無数にある選択肢の中から、本当に分以外の理ではない行動を選択しなければならないからだ。

 

こう考えると、団体旅行の中の「自由行動」の過ごし方のように我々が自らの意思によって自由に振る舞っていると思っていることも、実は何らかの制約や習性等によって縛られているのではないか、本当の意味で分に根差す理によって選択していることではないのではないか、とも思えてくる。

 

つい最近気付いた事がある。私はドライサウナと水風呂を「○回の表/裏」と野球に模して「9回裏で完投」、それがシンドイ時は先発投手の責任回数である5回裏まで、と頑張ってきた。しかしある時、4回で上がりたくなって「いや、もう1回!」と頑張ろうとする自分にふと「え、何のために頑張るの?」と疑問を覚えた

 

誰でもない自分の自由になる時間に好きでサウナに入って気持ち良くなったのに、そこからわざわざ辛い思いをして頑張る理由はどこにもない。その時の気分と体調によって4回でも6回でも上がればいいし、それが自由というものではないか。結局のところ、私は自分で決めたルールに囚われ自由ではなかったのだ。

 

 

上の絵は今年小学校に入った甥っ子が2年程前に私の顔を描いたものだ。似ているかどうかではなく、5歳児が何の囚われもなく自由に描いたこの絵は本当に凄いと思う。しかし彼は間もなく学校でお絵描きを習うから、こんな凄い絵はもう描けなくなるだろう。この「自由さ」も習わないから出来る事の一つかも知れない。

 

子供に必要なのは間違いなく教育だが、我々大人に必要なのはもしかしたら脱・教育(de-education)ではないだろうか。もし「1日中自由に過ごして」「1万円自由に使って」となったら、皆さんならどうします?一切の囚われなく、真に分の理で自分らしい時間やお金の使い方をしようとしたら、ホンの少しでも難しいよね?

 

Saigottimo