私はアマチュアヴォーカリスト&朗読家として、ささやかながら活動をしているが、このブログで何度も書いているように「ナンチャッテ」ヴォーカリスト「なんちゃって」朗読家だ。つまり本格的にヴォーカルや朗読を基礎から学んだり先生について習う「ちゃんとした」ヴォーカリストや朗読家ではないし、そうなるつもりもない

 

小説を書くことが好きな人が居たら、それを生業にしていなくても本として出版していなくても「小説家」と名乗ればいい。普通の人より文章を書いたり物語を創ったりすることが上手くなくても、その人が好きで小説を書くなら問題ないと思う。しかし私のこのような考え方はどうやら日本では少数派のようだ。

 

何故そんな事をいうかといえば、それは多くの人から理解されないばかりか誤解されて困るからである。どう誤解されるかというと「きっと歌(朗読)が普通の人より上手いからなんですよね?」とか「歌(朗読)を続けているということは、当然、上手くなりたい(上達したい)んですよね?」などと聞かれたりするのである。

 

何故そう聞かれる事が誤解で困るのかというと、私自身はそんな価値観で動いていないからだ。価値観として有してはいても重要な価値基準ではないからだ。単に自分が好きだから歌ったり朗読しているのであって上手いからでも上手くなりたいからでもない。勿論「下手より上手い方がいい」が、所詮その程度である。

 

こう言うと同じ音楽仲間から「上手くなりたい訳じゃない?じゃあ一体何を目指して歌ってるわけ?」と聞かれるが私の答えは「歌いたい歌を歌いたい時に歌いたいように歌いたいだけ」である。「いやいや『歌いたいように』と言うけど憧れのアーチスト、例えば『シナトラのように歌いたい』とか思うでしょ?」などとも言われる。

 

誰しも憧れのアーチストは居る。私も特定の曲を「サッチモやプレスリーのように歌いたい」と思う事はある。憧れのアーチストは当然上手いから、そのように歌いたいなら、それは結局「上手くなりたい」つまり“上達意欲”だろうと言われる。でも自分がサッチモやプレスリーになりたい訳でも同じ様に歌いたい訳でもない

 

もしそうなら理想はサッチモやプレスリーのデッドコピーになってしまうが、そうではないのだ。より正確に表現するなら「あんな風に自分の個性を生かして歌いたい」と思うのだ。上手いから憧れるのではなく、オリジナリティがあってカッコいいから憧れる、言うならば“上達意欲”ではなく“オリジナリティ向上意欲”なのだ。

 

私がサッチモの名唱で知られる「What A Wonderful World(この素晴らしき世界)」をデビュー曲として歌えるようになったのは、実はナディア・ギフォードのCDでこの曲を聴いてからである。そうでなかったら、無理してサッチモの様に太いダミ声で歌おうとしたか、少なくともサッチモの歌い方を意識してしまっただろう

 

しかし66歳の男性(サッチモ)と6歳の少女(レコーディング当時のナディア・ギフォード)、この真逆の歌い手による両極端な歌唱を聴くことで、私はスッとサッチモの歌い方から解放され「ああ、自分なりに歌えばいいんだな」と、私は初めてこの曲を自分らしく(オリジナリティを以て)自由に歌えるようになったのである。

 

先日の弘田三枝子の追悼記事でも書いたが彼女が戦後最高の女声ヴォーカリストと言われる所以は上手いからではなくて(勿論滅茶苦茶上手いけど)彼女のオリジナリティが高かったからである。加山雄三坂本九も同様にオリジナリティが高いのだ。だから私は声を大にして言いたい。上手いかどうかじゃないんだなと。

 

Saigottimo