「奇跡のレッスン」というNHKの番組がある。様々な分野で世界から“最強コーチ”を招き、1週間にわたって普通の学校のクラブ活動の指導をさせ、その指導法や成果を紹介するドキュメンタリー番組だ。対象分野は野球、サッカーのようなスポーツから書道、ダンス、料理、ブラスバンドなどの文科系の活動まで幅広い。

“最強コーチ”はその分野では現役時代や指導者として世界的に通用する実績ある人なので一番勉強になるのは部活の指導者である顧問の先生方だろうと思う。そして“最強コーチ”は必ずしも外国人ではないが、分野を問わず共通している点が図らずも“日本の教育のアンチテーゼ”にもなっていて興味深い

 

共通点の一つは「(強制的ではなく)自主的に学ばせる」という点だ。自主的とは、自らが「好きだから」「自分に必要だと思うから」進んで行うのだ。「四の五の言うな!意味が分からなくてもいいから、歯を食いしばって言われた通りやれ!」と強制的にシゴくのが指導だと思っている日本の教育とは真逆だ。

 

いつだったか北欧から来たハンドボールの“最強コーチ”が部員達の日常の姿も見たい、と授業を参観した。終了後に先生にお礼を言ったコーチは首を傾げながら「ひとつ質問したいのですが」「どうぞ」「あのぅ…生徒達は、何故今日これを学ぶのか分かっていたのでしょうか?」と聞き、想定外の質問に先生は当惑していた

【デンマークの最強コーチ、ソーレン・シモンセン氏】

 

先生は学習指導要領に従って授業をしているだけだし、生徒だって試験に出るから学んでいるだけであって「何故(why)今これを学ぶのか?」など考えたことも無いだろう。でも本来なら「自分は今、何故これを学ぶ必要があるのか」を自分に問い、自分の頭で考えて納得せずして自主的に学ぶ動機は得られないはずだ。

 

「意味も分からず師匠に言われた通りに修行を積んだ事が今思えば良かった」というケースは確かにあるだろう。しかしそれが指導の全てではなかろうし、(仮に日本ではそれが普通でも)少なくとも世界的に見てそれは“指導のデファクトスタンダード(基本)ではない”という事を私は教えられた気がした。

 

共通点のもう一つは「一人ひとりを見て個別に指導する」という点である。そう書くと当たり前のようだが実際の日本の教育はそうなっていない。「新入り(初心者)は、まず~をすべし」という集団的で画一的な課題やハードルを与えるのが一般的で、個々人の特性や事情を配慮するのは一定レベルに達してからではないか。

 

「君は~だから強く~」「君は~だから柔らかく~」と、“最強コーチ”は初心者でも個々の特性に応じて全く異なる指導をする。「入門者だから一律にまずは基本の~を課す」ではない。「○道」などは日本人を前提に基本の「型」を学ばせるが、身体的精神的前提が異なる外国人には適応できない事もあるだろう。

 

そして「まず技術面を磨く」というのも日本独特の指導法だということが分かった。弦楽クラブを指導した“最強コーチ”は、(譜面通りに)上手に弾こうとしている部員達に「この課題曲はどういう曲か知ってますか?」と問うた。皆ポカンとしていたが「これは舞踏曲だから踊りながら弾いてみようか」と提案しで生徒達を驚かせた。

【弦楽の最強コーチ、ダニエル・ゲーデ氏】

 

「曲調等を理解し気持ちを込めて弾く」という感情面は「機械の様に譜面通りに正確に弾く」という技術面が出来てから、というのが日本的な指導法だが“最強コーチ”元ウィーンフィルのコンマス、ダニエル・ゲーデ氏「いや、どんな技術レベルであっても感情面は同時に取り組めるし、そうすべきなんです」と喝破した。

 

日本では数多くのピアノ教室があるが、そこに通った子供達が生涯を通じてピアノや音楽に親しめるようになるどころか、逆に「多くの子供達をピアノ嫌い音楽嫌いにしている」と揶揄される。私はその理由は、殆どがプロにならないのに「全員にプロのピアニストになるための基礎訓練をさせるから」だと思った。

 

ピアノ教室の先生の多くはプロのピアニストを目指して訓練をしてきただろうから、プロになりたい生徒への指導は自分がしてきた通りで良いとしても、そうでない子供達に何を教えて指導すればいいのか。ピアノに限らず日本の英語教育はプロの英文学者になるための基礎教育、国語も算数も体育も全て同じでは…?

 

Saigottimo