穴と橋とあれやらこれやら -20ページ目

穴と橋とあれやらこれやら

初めまして。ヤフーブログ出身、隧道や橋といった土木構造物などを訪ねた記録を、時系列無視で記事にしています。古い情報にご注意を。その他、雑多なネタを展開中。

相変わらずの酷暑続きに、ちょっと涼んでもらえるような写真を思い出したので、どうぞ。

 

 

記録を紐解くと、これはわたくしが乗り鉄時代の1986(昭和61)年3月23日朝、奥羽本線峠駅(山形県米沢市)にて撮影した「峠の力餅」売り子さん。

 

同じく当時の記録を見返すと、この天候(吹雪)で、しかも早朝(福島発6時30分の列車だったから7時過ぎ頃か)だったから、売り子さんはいないかと危惧してたようだが、こうしてちゃんと来てくれていて感動した、的なことを書いてた。

当然購入しており、500円だったようだが現物の写真はなし(散逸してるので見つけられてないだけかも)。お味の感想もなし。どないやねん。

 

 

これを書くにあたって調べてみたら、なんと山形新幹線開通時にスイッチバックがなくなって列車本数もダダ減りした現在も、駅での立ち売りをつづけてらっしゃるようで、これには感激した。峠の茶屋さんホームぺージも、とても充実していて楽しい。

 

HP内にリンクのある「ひとりでもお客さんが来てくれる限り-JR東日本唯一の立ち売り駅に響く、1回30秒の餅売りの声-」という取材記事は、大変読みごたえがあった。ご興味あればぜひご一読を。

 

 

今年2025年は、峠駅開業126周年、「峠の力餅」立売り124周年とか。凄いことですな。少しでも長く、立ち売りが続けられることを願ってやまない。

 

 

【3】より続く。

 

 

…の前に、前回の補足。特に触れなかったが、獣害除けフェンスに小さなカードのようなものが付いていた。自分からは裏返しだったので、カメラを前面に回して撮ってみたら、

「出入口」と。んんん???

 

これはどういう意味だ?向こうから来る人だけに読める位置に取り付けられていて、しかも「開けたら閉める」系の文言じゃなくて「出入口」。これは…誰から誰に向けての案内なんだ??ここはもしかして、私有地なのか?クエスチョンマーク多すぎ警報発出ですわ(意味不明)。

 

 

 

さて、改めて隧道方向へ引き返し。

これが実際「旧道」なのかというと、これまたわからない。けど、おそらく違うと思う。昭和初期、隧道が求められるほどの難所だったこの場所に、こんな「安易」な旧道が存在する余地があったとは、ちょっと考えづらいのかと…。

 

なにしろ、だいぶ地形が変わっているような気がする。

 

 

 

 

隧道横をスルーして、もうしばらく先へ進んでみた。

が、すぐに激藪に行き当たり、終了。ちょっと進む気にはなれなかった。

 

 

 

 

そのあたりで路外を見ると、

きれいな…でもいささか生活感に乏しい家屋?が近くに見えていた。たとえていうなら、別荘とか、アトリエとか、そういう類の。

 

ちなみに、すぐそばには見えるものの、一切道などはつながっておらず行き来はできない。

 

 

 

 

そして、隧道を抜けて戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 

この戻りで動画を撮ったので、ぜひご覧いただきたい。全体の位置関係やら周囲の雰囲気とか、よくわかると思うので。

実は冒頭に書いた「出入口」のこと、この動画を見返して思い出したのだった(笑)。

 

 

 

 

さて、残るは、

「旧道?(たぶん違う)」を反対側から辿って見ることだ。

 

 

 

 

入ってすぐに、

もういっちょ門。うーーん、違和感あるなあ…反対側の「出入口」表記も含め、以前は家でも建ってたのだろうか?

 

 

 

 

坂を登り詰めると(といっても距離は全然短いけど)、

やはりフェンスで塞がれていて、今度は「開けたら閉めて」系の掲示がちゃんと取り付けられていた。

 

 

 

 

左方向がおなじみの「村国山(ほ山)登山道」の看板で示され、

こんなふうにヘアピン線形で登っていってた。

 

 

 

 

さて、入ろうと思ったんだけど。ほんとにそう思ってたんだけど、

なんか藪に入るのがめんどくさくて、もういいか、ってなってしまった。おそらくもう上の写真真ん中奥あたりが反対側の到達点(「出入口」地点ね)だろうし、わざわざ入ったとて、って話でね…。

 

 

 

 

って感じで、尻切れトンボ的に撤収。

ほんと、この隧道周辺には、謎しかなかった。明瞭にわかったことは、最初に出会った隧道の説明看板に書いてあった内容、それのみだった。

 

とはいえ、隧道そのものは期待に違わずで、非常に楽しめた。同業の方は足を運ぶ価値があると思う。

 

 

 

 

コトを終え、隧道のあるあたりを遠望。

右に見切れてるのは公衆トイレ。このように、ここは場所さえわかればアプローチは非常にお手軽なので、スタミナ不足のキミだって安心だ!(誰やねん

 

 

 

 

以上。

 

 

【2】より続く。

 

 

第二の祠(跡?)から、来た方を振り返り。

洞内に存在した、2ヶ所の祠。状況は一切不明だが、もしかしたらそこにいらした仏様が、隧道外の現祠に遷されたのかもしれない。

 

 

 

 

さて、残りはこんだけ。

足元の水も引き、そして…断面が四角い。

 

あのサイズ感ときたら…とても「隧道」坑口には見えないし、これまで見たこともない。

 

 

 

 

最後のあたりで、

掘り残しのような岩の出っ張りがあった。よっぽど硬かったのか、あるいは周囲が崩落した状態なのか。

 

 

 

 

そして、最後はこれだ。

遠目にボックスカルバートなのかと思ってたら、違う。コンクリ側壁に、後付けで蓋をしたみたいな。なんだこれ?

 

 

 

 

その施工は、

決して緻密な仕事ではなかったみたいだ。

 

 

 

 

ほれ、このとおり。

おそらくだが、本来の坑口はここだったと思う。もしくは、この上の土被りが浅すぎて崩落したのかも。

 

一見して坑口が低すぎなのは、ここまでの写真で見えているとおり、上からの土砂が洞内に流入しているためだと思われる。洞内の水が引いたというのも、洞床が上がったことによるものだろう。

 

 

 

 

で、この天井部分も、

なんか、橋を下から見た時に酷似しているんだな。鉄筋が露出している様子から、保守されている感じは薄い。

 

 

 

 

いや~、なんて変なんだ。

やっぱ橋感あるよなあ。「隧道」の坑口でこんな感じ、見たことないよ。

 

 

 

 

改めて正対してみて…

隧道趣味者以外には伝わりづらいかもしれないけど、これは見たことないわ~。隧道ではなく違う用途の穴に見える。それこそ、隧道という言葉のもともとの意味、陵墓への入り口のような。

 

昭和22年完成ということで、じゅうぶんにコンクリート時代に入ってからの隧道ではあるが、この坑口がオリジナルなのか後年の改修なのか、これももちろん不明だ。コンクリの経年感からは、オリジナルではなさそうに思えるけど。どうかな。

 

 

 

 

少し引きで。

うん、だいぶ土砂が流れ込んでるみたいだ。そして、向かって左に…旧道?なのかどうか?ちょっと行ってみよう。

 

 

 

 

その通りすがりに…おや?

なんかある。

 

 

 

 

こんなところに

なんかの蝶番が残っていた。鉄扉でも付いてたのか?

 

 

 

 

旧道?的なスペースは変なフェンスで画されて、

その外側には…なんだこれ?なんか見るもの見るもの、謎しかないなこの一帯。

 

 

 

 

で、すぐに、

その変なフェンスで行き止まりになった。

 

 

 


獣害除けの柵っぽく(ていうかきっとそれだろう)開閉できるようになっていたが、

それ以上は進まず引き返した。

 

反対側からも辿ってみたかったので、思惑通りであれば向こう側から同じ場所に出てくるだろう。

 

 

 

【4】に続く。

 

 

 

【1】より続く。

 

 

では、さっそくにお邪魔いたします。

ごく簡易な封鎖には「通行止め」とあるが…

 

はい、一見して貫通してるし、了解して通行するぶんにはよろしいですよね。

 

 

 

 

それにしてもなかなかに硬そうな岩。

これを15年かけて単独で掘り抜いた小山五郎助、まさに仕事人ですな。

 

でもまあ、あの先の見え方は…もう展開が見えてるけどね。

 

 

 

 

その予想どおり、

だいたい真ん中あたりで、洞床は水びたしに。まあこんなこともあろうかと隧道突入時は長靴オンがデフォルトなので問題なしだ。

 

 

 

 

そこから数m。

だしぬけに、横穴が現れた。洞内分岐!?

 

 

 

 

いや、それは分岐ではなく、

ごく浅い横穴…というか窪みか。

 

 

 


なにかが載っていたらしき石板と、香炉や花立てとおぼしき散乱した仏具の破片。

ここにはきっと、石仏かなにかがおられたのだと思う。

 

どういった理由で姿を消したのかは不明ながら、「神仏の不在」はいいイメージではない。

 

 

 

 

振り返って、「祠跡」を見た景。

こういった祠(跡)のある隧道、決してありふれてはいない。

 

 

 

 

謎に、内壁に打ち付けられた木。

こういうの、いくつかあったように思う。たぶん…照明が取り付けられていた跡かも。

 

 

 

 

そしてその先すぐで…

まさかの、第二の祠…跡!?

 

 

 

 

しかし今度のは、

先ほどのとは違い、掘りっぱなしではなかった。

 

 

 

 

ガッツリ手が入った、

まさに祠だ。

 

 

 

 

そして「跡」ではなく、

一体だけだが石仏がおられた。このお姿は…不動明王?

 

 

 

 

取り急ぎ、我が慣例にのっとり、

ささやかながらお供えを…。ささやかすぎ?(笑)

 

 

 

 

でもこちらの祠もまた、全体的には打ち棄てられた雰囲気が漂っていた。

先ほどのが初代で、こちらが二代目?それとも同時期に併存していたのか?何もわからない。

 

…ていうか、アレなんだ?

 

 

 

 

祠の最奥部…

さらに穴ぁ開いとるぞ!?こ、これは、なかなか…。

 

 

 

 

もっと見える角度から観察。

断面のサイズからして、思いっきり腰をかがめるか、四つん這いにならないと入れないレベル。意外と奥行きありそうではあるものの、よもやどこかに抜けていることはないと思うが、確証は持てない…。

 

 

もちろん気になったが、結論をいえば入らなかった。というか、これ以上接近しなかった。現役かどうかはわからないが、仮にも不動明王さんのおられる祠内部に踏み込む気になれなかったからだ。

 

これがわたくしの限界であり、いいトコでもあるのかな…(謎に自己分析

 

 

 

 

改めて、祠(跡?)の全景を。

不動明王さんの奥に見えるビニールシートのさらに奥が、謎の穴開口部である。

 

どうでしょ。同業の方、これ入っていきますか?わたくしは怖いというよりも抵抗あるなあ…。ビビったといわれるならそれでもいい。

 

 

 

 

延長60mとは思えないアトラクション。

残りにもさらにまだなんかあるのか?

 

 

 

【3】に続く。

 

 

 

2024年5月9日に敢行した、福井県宿題回収ツアー第二弾。この日のネタで記事にしているのは阿曽隧道春日野道の具谷暗渠

 

今宵から何回かに分けてご紹介するこのネタは、フォローさせていただいているアバラボブさんのインスタで4年ほど前に知った物件で、当日のターゲットの中でも特に楽しみにしていたやつ。

 

当時はほとんど情報がなかったと記憶してるんだが、今改めて見たら、けっこう情報出てきてる?なので、やりそびれていたウチもここらでやっとこうかと。

 

 

 

さて、こんなとこに車を停めたんだが、

今回、この場所、および物件の地図は載せないでおく。越前市某所ってことで。

 

わたくしもこの物件の具体的な位置はわりかし苦労して探り当てたし、そういう楽しみも残しておいた方がいいよね…とか言いつつ、実は今なら調べたらすぐわかると思う。先述のように、知らん間にけっこう検索したらヒットするようになってるんでね。

 

 

 

 

で、そうしたおおかたの記事とは違い、わたくしはここから始める。

ほぼ平行に3本に分かれた道路、わたくしが進むのは…真ん中。

ちなみにここからレポ始めてる人、見たことない(笑)。

 

 

 

 

まっすぐ進むと、

すぐに突き当たりが見えてきた…が、

 

 

 

 

実は突き当たりではない。

石垣に沿って、まだ道が続いており、その先に何かの看板が立っているのが見えた。

 

 

 

 

その手前には、

「村国山(ほ山)登山道 入口まで40m」。

 

 

 

 

そしてその先、先ほどから見えていた看板に…

キターーー!! 

 

そこに書かれていた内容は、

帆山トンネル

昭和7年に林一治病院長が、採掘技術者小山五郎助に依頼したトンネルです。奥越の中竜鉱山で働いていた経験豊富な小山は、一人でコツコツと掘り進んで、昭和22年に完成させました。

高さは約2.5m、延長は約60mあります。

おかげで、帆山や矢放方面から村国に容易に行き来できるようになりました。

北日野地区自治振興会

 

 

異色の出自。これから訪ねる隧道は、個人の依頼で掘られた私設のものだったということだ。にもかかわらず行き来が容易になった云々というくだりからは、一般に開放して供用されたことをうかがわせる。財力のある人物が地域に貢献した、というストーリーだろうか。

 

この病院長の名前で検索してみたら、なんと現在も武生駅前にある、その名も「林病院」を大正2年(!)に設立したのが、この林一治氏その人だった。公立または公的な病院の存在しない越前市において、100年以上もの長きにわたり地域医療を支えてきた、その礎を作った人物が掘らせた隧道か…。

同病院ホームページ内の沿革によれば、隧道が完成した昭和22年当時も変わらず、病院長という立場にあった同氏、これは意外と…自宅から病院への行き来が大変なのにうんざりして…みたいなことだったりとか?

 

 

 

 

ちなみに、その「行き来が容易になった云々」という最後の記述は、現在のこの場所周辺を見てもピンとこない。とてもそんな厳しい場所には思えないのだ。

 

かつてはかなり地形が違っていたということだろう、と今昔マップを見てみたら…

これは1930(昭和5)年の地図であり、隧道はまだ掘られていない時期だが、日野川の流れは今よりもはるかに村国山に迫っていたんだろう。確かに「あそこを隧道で抜けば…」ってポイントがありますな。

 

ほぼわかったかな?位置(笑)。

 

 

 

 

看板の先で、

道はにわかに雰囲気を醸し出し始める。そして正面にはまたも看板。

 

 

 

 

それはまたも村国山登山道入口を示すもので、

鉄の門扉に取り付けてある。右手はお堂か。

 

 

 

 

コンクリブロックで組まれたお堂には、

なにやら不可思議なものを含め、何体かの石仏?が。

 

…え?何スルーしてんだよって?

 

 

 

 

もちろんスルーなどしない。

今からじっくりと対峙させてもらうんだから。

 

 

 

【2】に続く。