// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:220808
// NOTE:ここでいう「キミ」とはオマエのことではないと思うから安心しろ。
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TITLE:
キミと楽しむ才能を。
SUBTITLE:
~ Enchanted device.
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
220808
 
 モデルケースがない。
 何のことかというと、僕の人生のことだ。
 こういうナレッジがあるよ、とか、こういう規範があるよ、とか、こんな風にするとこんな風に過ごせるよ、という知見が僕の中に存在していない。
 
 いや、これまでだって少なからずそうだった。
 一人暮らしを始めるときも、唐突に、かつ短期間にそれを決定し、実行する必要があった。
 いつもどおり僕は誰にも相談せず、それらを計画し、決定した。
 初期費用を無理矢理捻出し、保証人が必要だったので唐突に父親にそれを申し出て、引っ越しの準備をそそくさと始め、友人1名の手を借りて実行した。
 
 インターネットは当時 ── 23年前なので1999年前後である ── もあったと思うが、アクセスしている人は今よりずっと少数で、携帯電話は電話としての機能以外を持たない機体がほとんどで、人間はIRLを基盤に暮らし、コミュニケーションをしていた。
 
 もちろん(今から考えると)僕は当時から社会性および社会適応能力が低かったので、何事も自分で考えて自分で決定し、可能な限り独りで実行するという規範(経験則)に従っていた。
 幸か不幸か、残念か有意義かは分からないが、僕は子供の頃からずっと、選択不能だと判断できる環境の変動 ── 両親の離婚であるとか、親の体調不良や経営していた会社の倒産であるとか、それにともなう引っ越しであるとか、学校に通学することそのものであるとか、進学先の決定であるとか ── について何らの意志や意見を持たないようにし、持たないようになっていた。
 両親の離婚に限っては最初のそれであったため、只一度だけ拒否の意志を示したが、それ以降は自分に選択権などないものと思い、そのように振る舞い、そのように生きた。もちろんそれを正しく「生きている」と定義するかどうかは人によるだろう。
 とにかく選択可能な範囲は非常に限られていて、何も選択しないことによって、環境に流されることが可能だったし、むしろそれが求められていると思える場面は非常に多かった。
 僕が無力な子供だったからだろう。
 
>>>
 
 子供に人権はないと僕は自身に対して思っていたし、そう認識していた。
 正直に言えば、今でも「子供」という存在は親に対して絶対的に権利を委譲せざるを得ないものと思っている。
 文字通り、生かすも殺すも親次第というわけだ。
 
 僕が自分の子供を持つことに忌避感を持っているのは、その認識がおかしな作用(たとえば幼児虐待など)を起こすかもしれない(可能性を否定できない)と自覚しているからである。
 
 価値観の上書きは可能だろう(得意でもある)けれど、過去の記憶を書き換えることはおそらく不可能だ。
 捏造すべき記憶を持たない以上、忘れておくより他にない。にもかかわらず、どんな拍子に元の価値観が現れるかは予測できない。
 自分とは異なる肉体にパッケージされた子供という人格は、自身の持つ(あるいはかつて持っていた)それとは異なるわけで、予測も制御もできるものではない。権利を認めるというのは、予測も制御もできない独立した存在を、自分の所有物などではないと認め、尊重し、可能な限りその意向に寄り添うことだ。
 しかしもし、その意向とやらが攻撃的で破滅的だったら、僕はそれに対してどのように寄り添い、何を伝え、教えることができるだろう。それを埋め合わせるだけの豊かな、あるいは優しさに満ちた情景など持っていないというのに。
(実際、自身の過去のそれに対してすら、今はまだ手を焼くことがあるのだ)
 
 当時、ただ1人になった親が死んでしまえば自分の生きる道はおそらくないか、あるいは想像を超えて辛辣なものになるだろうとは想像した。
 だから早く大人になって、お金を稼げるようになって、自立しなくては、とは思っていた。
 親を殺している場合ではなかった。殺すなら自立してからである。
 だから僕は親に対する殺意を持つのをやめた。現実的に不可能だと判断したのだ。
 それに父上は「大人」の「男」ではあるが、僕に危害を加えたことは一度としてなかった。
 例外処理を作るのは(今でも)基本的に好まないが、例外処理を必要とすることもあるのだとそのとき学んだように思う。
 
 着る服も、文房具さえ、自分で選択する余地を当時は持たなかった。
 親切心を発揮した人(たとえば叔母など)に連れられて、買い物に行ったこともあるが、結局のところ何につけ、その人の意向に沿うようなモノを選ばなければ当然に却下される。
 つまり二重の意志決定によって機能するという点において、完全なる選択権が自分にあると感じたことは、一人暮らしを始めるまで一度もなかった。
 
 僕が他人とのコミュニケーションにおいてプレゼントする行為を忌避するのは、その価値観による。
 誰かに何かを強制し、あるいは選択権を奪うことをしていないかと思うと恐ろしいことだし、無益な気がするし、エゴの発露のように思えてどうしていいか分からなくなる。
 貰う側であっても、何らかの枷のように感じてしまう部分があって、どうにも困る。
 
 サプライズを受けて喜べる人の気持ちも、だからよく分からない。
 眼鏡美人に愛のコクハクとかされたら、ちょっとは嬉しいのだろうか。むしろ警戒するのではないだろうか。
 え、何この人ストーカーなの? 美人局なの? ちょっと待ってやめてコワい。と思うのではないか。いや、思うまい(反語?)。
 
>>>
 
 とにかくそのようなわけで、友人たちの多くが進学先を自発的に選ぶ様子を見て、何というか、とても不思議な気持ちになったものだ。
「何でこの人たちは、生き生きとして、楽しそうに、それも迷いながらも自身で決定をしているのだろうか」と。
 実に僕も奨学金を使って高校に進学したわけであり、その限りにおいてはある程度自分で進学先を選択する権利を持ち、その権利を行使することは可能だったはずなのだが。
 
 就職の際にもずいぶんと困った。
 自発的意志による選択というのは、ずっとしないと、できなくなるのだ。
 子供の頃の僕はそれを知らなかった。
 
 僕は就職先を自発的に選ぶことができなかった。
 だからといって、誰かが指示してくれることもなかった。当たり前か。
 無職で1年ほど「のほほん」と過ごしているワタクシを見るに見かねた父上が、知り合いの会社を紹介してくれたおかげで、僕の社会人生活はスタートしたわけである。特に何の選択をするでもなく。
 
 自分の意志で選んだ結果、それが手に入らない苦痛にばかり目が行ってしまい、それを避けるために選択することそのものを放棄したのは過ちだった(と7歳の僕に言って聞かせている)。
 どんなに選択の結果が苦痛に満ちていても。
 求めるものが手に入らないと諭されても。そして現実問題としてそれを手に入れることが困難だとしても。
 自分の意志を手放すことだけは、してはいけなかったのだ。
 
 その時点ですでに、僕は僕自身を手放していたのだろう。
 それによって苦痛はずっと少なくなったが、何の実感も、何の喜びもない日々だった。
 自分という肉体と、自分という感覚器があるだけで、自分という存在を実感したことはずいぶんとなかった。
 それに慣れているから、僕は仕事でも、あるいはプライベートでも、自分というものをけっこう簡単に捨ててしまうのだ(もちろん捨てられない部分もあるが、多くの人と比較して、驚くほど譲れない部分は少ない)。
 
 例えば環境に合わせて、僕は仕事を簡単に変えてしまった。
 父上から懇願されれば、したくない仕事でもしまいにはしてしまう。
「保証のない仕事は辞めて、転職してしまえば」と言われれば「そうかもしれない」と納得してしまう。
 介護が必要になればそれに合わせて転職してしまう。
 僕の意志だって多少は作用していると思うが、環境に合わせている割合が大きいようにも思う。
 まぁ、努力や根性の占める割合がほぼゼロだから仕方ないか。
 
 環境が与える障害の中で、もっとも抵抗の少ない場所を行こうとする。
 水が低きに流れるのと同じである。意志がなくてもそれなら容易だし、周囲の摩擦も最低限で済む。
 繰り返すが、しかし意志を手放してはいけない。
 環境が与える障害や摩擦に抵抗して、意志による力を利用して、逆らうべきなのだ。
 思う場所を思い、イメージのとおりに自身を運ぶだけの技術と能力と知恵を発揮するべきなのだ。するべきだったのだ。
 
>>>
 
 しかしどういうわけか、僕は、摩擦抵抗の少ない道を選ぶうちに、意志のない(少なくとも熱意がまったくない、しかしそれなりに本能的に強い)願いを叶えてしまうスキルを身に付けてしまった。何を言っているのか日本語の意味が自分でも分からないのだけれど。
 
 願いに意志はあるだろうか。
 たとえば「戦争がなくなってほしい」という願いは、意志だろうか。それとも摩擦抵抗を避ける本能だろうか。
「明日、肉が食べたい」という願いは、意志だろうか。それとも摩擦の少ない場所を求める本能だろうか。
「眼鏡ガールにモテたい」という願いは、意志だろうか。それとも抵抗の少ない現実を求める本能だろうか。
「日本がもうちょっとまともな国になって、まともな国民の声が正しく表出する場であって欲しい」と願うのは、意志だろうか。それとも己の欲にとって摩擦の少ない理想を求める本能だろうか。
 
 意志とは何だろう。摩擦抵抗を忌避する本能をそう呼ぶとして、僕は疑問を持たない。
 僕にとって、僕の意志は摩擦を避ける為に働く機能だからだ。
 ゆえに上記のそれは、本能でありながら意志である。
 きっとカタくてアツい、んじゃないかな? リビドーだけに。
 仮にそれが、逃げの姿勢だとしても、あるいは逃げだからこそ僕にとっては本能的である。
 困難に立ち向かうような闘争心を、僕は持っていない。
 基本的に逃げることは戦うことよりも抵抗が少ない。危険が少ない気がする。よって逃げてしまうのだ。
 しかし相手の方が力も強くて足も速かったらどうしよう。勝てる要素がないかもしれない。
 
 街を歩いていて、チンピラに絡まれて「おう、おっちゃんカネ出せや」とカツアゲに遭ったら、抵抗したり逃げたりするのが面倒で、お財布の中からお金を出して渡してしまうかもしれない。その方が抵抗が少ないからだ。あるいは勝ち目がない可能性もある。
 だからそれが僕の意志でないとは言い切れない。むしろ自分の意志のような気がしないでもない。いや渡したくないけれども! 渡したくないよ! 守ろうよお財布を! でも勝ち目がなかったら仕方ないか。
 
 摩擦を承知で、それでも毅然と立ち向かうだけの熱を持ち続けることができる目標を、あるいは場所を、僕は持っているだろうか。
 ない。ないな。全然ないな。多分ないと思うんだよな。
 そもそも保持している熱量が少ないのだ。
 摩擦で熱が発生するのだろうか。
 しかし熱を持っていなければそもそも摩擦に抵抗する気力が湧かないわけで。
 
 意志より本能が強いのだ。その本能だって、他と比較して強いわけではない。少なくとも生存本能なんかすごく希薄だ。よく今日も生きているなと毎日感心する。
 
>>>
 
 しかしもう、ここまで特異な場所にいる自分を自覚するにつけ、どのように考え、どのように振る舞い、どのように他者と接するのがよいのか、よく分からない。
 モデルケースが見つからない。
 メディアなどに見られる「ちょっと変わった人」に似たようなケースがあるようにも思えるのだが、あれらの真似をしたいとはまったく思わない。
 そもそもメディアなどを通してたくさんの他人と関わっているという時点で、モデルケースから外れてしまうともいえる。
 僕は自身の社会性の低さに合わせて、社会との接点が少ない環境を(両手の届く範囲において)構築しているわけだから。
 
 つまるところ仙人のような、社会と隔絶した位置を保っている人をしてモデルケースにすればよいのかと、はたと膝を打ってみたりしたわけだが、実際に膝を打って「みょーん」となって遊んだりしているわけではない。そもそも膝を打っていないのだが、それはキミぃ、言葉の綾だよ。慣用句だよ。嘘をついているわけではないのだよ。
 
 社会から隔絶しているモデルケースを探すって、およそ不可能ですよね。
 もはや宇宙を漂流している宇宙船が、同じく漂流している宇宙船を探しているのに等しい。
 もう地球に帰れよ。帰っちゃえよオマエ。
 あ。帰れないから漂流っていうのか。
 
>>>
 
 どこで読んだか忘れたが、宇宙飛行士に必要な資質のひとつにポジティヴィティがあったように思う。
 つまるところ決断力や行動力、知識などの知能的(あるいは肉体的)資質の他に、心理的資質として、物事に対して前向きに、よりよくしようという志向を持ち続ける性質があること、である。
 なるほどいかに知能的資質が優れていても、心理的資質が上向きというか前向きというか善意的な指向性を持っていなければ、物事の処理が著しく制限される可能性もある。つまり本気を出さないということだ。
 
 そういうのってどうするんだろう。
 関数みたいに組み込むことができたのだろうか。できた気がするんだけれど。よく思い出せないのだ。
 ちょっと困ったなぁ。
 それが解決の糸口のようにも思えるのだけれど。って何に悩んでいるかを明記していないけれども。
 
<育児しないときはときどき膝に戻ってくるアヲ>
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Link-Mechanics-Memory-Recollect-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-Resistor-
 
[Object]
  -Memory-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :暗闇エトランジェ:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:220802
// NOTE:「あなたはいつも夏休みじゃない」なんて非難がましく言わないでほしい。仕事がないだけだ。
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
夏休み。
SUBTITLE:
~ Short vacation. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
220802
 
 猛暑予想日。
 スケジュールされていた歯医者へ。
 往きは良いが、帰宅予定の昼過ぎは40℃を超える予報。
 
 エアコン装備の自動車というのは驚くほど涼しい。
 と思っていたのだが、一般的な軽自動車は車内が広いぶん、空調が効きにくい。
 車内が狭い車にも利点はあるということは先日も書いた。
 
 道中、運転していて改めて気付いたのだが、僕はやはり運転が好きではないらしい。
 好きな車を買ったのにも関わらずこの有様だから、よほど運転が嫌いだったのだと自覚する。
 
 僕の通っている歯医者は温泉地、伊香保にある。平日の日中だと片道90〜120分ほどの道程である。
 帰り際、センセイから「榛名まで行っておいで。伊香保はかつてのように避暑地ではなくなってしまったけれど、榛名なら十二分に涼しい」と言われ、行ってみる。
 学生たちが夏休みに入ったとはいえ時勢もあり、観光地なのに対向車は少ない。平日であることは影響するだろうか。
 湖の畔に車を停め、木陰にキャンピングチェアなどを出して寝そべっている年配の方がたくさんいる。
 そうした自動車で、湖畔の道の片側が埋まっているほどである。
 実際、車載センサによる外気は28℃ほど。さすが下界とは違う。木陰ならなおさら涼しいだろう。
 センセイに紹介されたレストランに立ち寄り、榛名神社にゆく。
 
<榛名湖。泳いでいる子供たちもいた。川や湖で人間が泳いでいるなんて、最近は見かけないから少し羨ましい>
 
>>>
 
 運転していて「楽しい」と思うこともある。これはコンピュータを使う楽しさにも似ている。
 目的のためにその作業をするから楽しいのではなく、作業そのものが楽しいのだ。
 
 たとえばコンピュータなら、フォルダを作ったりファイルを開いたり、自動化のマクロやスクリプトを組んだり、あるいはもっとシンプルに起動したり終了したりするだけで楽しい。
 分かる人にしか分からないことだし、起動/終了だけでも楽しいとなると、ちょっと常軌を逸している可能性も否定できない。
 おそらくベンチマーク ── コンピュータの処理能力を計測する作業。人間は基本的にボタンを押したら見ているだけ ── が好きな人などは、だいたい同じ種類だろうと考えることができる。
 つまり目的のための道具であるはずが、道具を使うこと自体が目的になるというものだ。
 
 ガレージを用意して、工具を買い揃えて、整理整頓して並べて、それで満足してしまう人も同様である。
 決して悪いことではないと思うのだが、道具というのは「それを使って何をどうするのか」という目的 ── ひいては目的意識が重要なのだ。
 だから手段と目的が入れ替わってしまう自身を、僕は少々恥じている。
 持っているだけ、使っているだけで満足だなんて、小学生の頃の僕が聞いたら怒り出すかもしれない。
 
<榛名神社。入り口のすぐ側に駐車場があることを忘れ、かなり遠くに駐車してしまった>
 
>>>
 
 自動車好きも、だいたい似たようなものだと想像するが、僕はもとより自分を自動車好きだとは思っていない。
 もちろん現在所有している自動車は ── 「あっ。何このクルマ、めっちゃ小さくてかわいい!」とか「えっ。何この軽トラ、尋常じゃないくらい買い物した商品が積める!」と思う程度には ── 好きだけれど、それでは広く色々な自動車を見聞きして、あるいは様々な運転によるフィーリングの違いを感覚して、それらの差異から自身の好みを明確に持っているかと言われるとそんなわけはない。
 
 それに自動車というのは、その使用が非常に社会的なのだ。
 法規があって、所有や運用について様々な決まりごとがある。当然である。
 運転中は法規に従うだけでなく、他者との関係性も重要になる。
 横断歩道を渡ろうとしている人がいないか、次とそのあとの信号は自車到達時どのように変化しうるか。
 
 周囲の車両の運行 ── 速度はもちろん、それらの車間距離、車線またぎや車線変更、方向指示器の出し方の特徴 ── は安全な予測範囲から逸脱していないか。かつそれらと自車との車間距離は適切か。それを維持できるか。
 異常が感じられ、かつ走行車線が複数ある場合、周囲は安全に車線変更できる状況にあるか。
 
 対向車線に注意するポイントはないか。
 右折待ちの対向車が交差点にいた場合は、対象と自車それぞれの後続車両を確認し、交差点の特性などから道を譲るか通過するかも考える。
 
 周囲に他車が存在しない場合でも、歩道にいる歩行者や自転車が車道に飛び出してこないか警戒するし、歩行者や自転車が視認できなくても、飛び出しうる物陰や狭い路地に注意を払う必要がある。
 山奥の林道のような、他の自動車も歩行者も自転車もいないような場所ならどうかといえば、鹿やイノシシ、落石が道路を塞いでいたり、道幅がないのに対向車が急に現れたりするのでやはり油断できない。
 
<直径2mほどもある巨木。涼しい。素敵な場所である>
 
>>>
 
 運転は緊張の連続である。
 そもそも信号を守るのだって嫌いである(暴言)。なんとなれば車線を守るのも、左側走行も、車道しか走れないのも不服である(暴言)。
 しかし交通事故を起こしたいわけではないし、誰かに危害を加えたいわけでもないし、誰かが怖い思いをするような運転もしたくない。
 それが積み重なる結果、運転していると、とにかく緊張する。
 一般道は判断材料は多いけれど速度を出す必要がないため、まだ安心できる。疲れたらしばらく休めばいい。
 高速道路は判断材料こそ少ないかもしれないが、走行速度が高いため、それだけでかなりの緊張状態を強いられる。つまり怖いのだ。
 首都高ともなれば判断材料は一般道と同じかそれ以上になることもあるし、疲れてすぐに休める場所もない。
 
 これらを総合して考えるに「運転が楽しい」と感じる場面は本当に少ない。
 周囲には必ずと行っていいほど誰か、あるいは何かがあるのだ。ない方がおかしいと言っていい。
 それらのストレスを少しでも軽減するために「小さくて、操作と反応の遅延が少なく、運動性能に多少余裕がある(ついでにエアコンを装備している)自動車」を選んで乗ることにしたのだが、焼け石に水であり「楽しい」と思える場面は増えたが、それでも運転が苦痛であることに変わらないと気付いたのである。
<風鈴の音色が涼やかだなんて、生まれて初めて感じた>
 
>>>
 
 おそらく料理も同様だろう。
 僕は「社会性のある料理」をほとんど作らない。
 恋人が泊まりに来れば ── 餌付けが趣味のため ── 「社会性のある」食事を作るが、近年はその機会もない。
 自分による、自分のための、自分の料理を作るのである。リンカーンか。
 
 自分以外の人のために料理を作るとなれば、その人の食材の好き嫌い、味の好み、前後数日の献立、季節から判断して安く入手できる食材を選んで、適当な調理法 ── 真夏にほうれん草と牡蠣のグラタン作られても困るからね。だからといってキュウリとゴーヤのグラタンならいいのかと言えばそんなこともない ── を選出する必要がある。
 毎日家に居れば毎日作る必要があり、多くの人間は1日に2度3度と食事をする。
 
 自動車の運転同様、社会的であるがゆえに、そこにはある程度のストレスが伴うだろう。
 自分が空腹を感じたときだけ、自分の苦手な食材を除外し、自分の好みの調理法で、自分の食べたい料理を作り、かつ食べること(しかも飽きるまで何日も何度も繰り返すこと)ができるなんて、ものすごく贅沢なことだと僕は思っている。
 
 先の自動車運転に喩えると信号は無視して、車道でないところも走行し、速度も出したいだけ出し(つまりノロノロしたいだけゆっくり走行し)、邪魔なものはすべて跳ね飛ばし、コンビニにも突っ込みたいだけ飛び込めばいい。
 いろいろツッコミどころはあるが、ストレスのない自由奔放というのは社会性と相反するということをここから学びたい。
 
 自動車の場合、その運転が社会性を持つことは(よほど広い私有地を持っていない限り)およそ回避できない。
 一方で料理は、周囲の人間との関係性が先にあるから、社会性が必ずしもつきまとうわけではない。
 ために昭和の頃から「趣味でしか料理をしない人間」は存在し、滅多に使わない高額な道具や珍しすぎて普段使いようもない調味料を揃え、無駄に高価な食材を惜しみなく使って家計を圧迫し、なんとなく「デキる」っぽい、しかしだからといって格別美味しいというわけでもない料理をいたずらに時間を掛けて作った挙げ句、得意げに振る舞って褒めて欲しがるバカ犬みたいなオトコたち ── 残念ながら、こういう傾向は男に多かったようだ ── は、その自慰的行為を他人に披露する痴態をして女たちから苦笑されていた。まぁ、受け止めてもらえているならむしろ微笑ましいと思うが。
<花と苔。実は僕は、けっこう苔が好きである。名前も種類も生態も知らないが。好きである>
 
>>>
 
 コミュニケーションも本来的に社会的な行為であり、それそのものに対して人間は本能的な嗜好があると言っていい。
 
 しかし社会的な行為は前述の通り、けっこうなストレスを感じることになる。
 先日はwebニュースで「告ハラ(告白ハラスメント)」なる単語を知り、大いに衝撃を受けた。
 ハンマーで後頭部を殴られた感じというか、こめかみにバールを突き刺されたような衝撃である(死ぬ)。
 
 事ほど左様、僕はコミュニケーションにストレスが付きものだと認識している。
 さすがにセクハラともなれば権利侵害というか、精神的攻撃行為だとは思うが、いちいち好きになった人に好意を伝えるのに、あれもこれもと影響範囲を拡大して考えて欲しいというのは、告白される側の傲慢ではないだろうかと思うのである。
 告白する側だって、相応にストレスを感じ、それを乗り越えて告白するのにもかかわらず、それを(された側が否定的に感じた場合に限り)ハラスメント呼ばわりするのはどうかと思うのだ。そりゃストーカーみたいな奴だったら困るだろうけれど「ただしイケメンは許可される」というような一方的かつ一意的選択性がある状況をして「嫌がらせ/精神的苦痛を受ける行為」と断ずるのは、ちょっと人間(他人)に対する優しさに欠けている(自身に対して優しすぎる)のではありませんか、と。
 
 告白した挙げ句、断られついでにそんなことを言われるような社会にあっては、人を好きになること自体が面倒というか、恐怖になってしまうのも必然だと思う。
 しかし社会的風潮として、そういう傾向が生まれるのも(行き過ぎだとは思うが)観察の範囲で分からなくはない。
 実際に、コミュニケーションにおける抵抗の発生を極度に恐れる人間は20代以下に、相当数存在するように思える。
 
 つまり彼らは本能的にコミュニケーションを求めているにも関わらず、そこに含まれる社会性とそれに伴う摩擦抵抗の苦痛については忌避している。
 端的に、人形遊びの延長線上で人間関係を考えているのだろう。
 
 あるいはヴァーチャルな人間関係を人間は求めているともいえる。
 リアルな人間はウンチもするし、血も流れる。
 物理だけでなくコミュニケーション、つまり情報のやり取りの中でも、恥部があり、痴態があり、痛みがあり、闇がある。それが普通ではないだろうか。
 
<脇道への誘惑。僕が脇道に逸れてしまうのは、脇道のほうがいつも魅惑的だからだ>
 
<かなり手前だが、面倒になったので参拝などせず帰ることにする。お連れ様もいないから気ままである。風鈴の向かいに急な登りの脇道を発見するが、足場が相当に悪いので数段登って諦める。上る気力がない。ここまで来ただけでも偉いと思う>
 
「清廉潔白な自分」を演じるために自分を抑圧し変形させる(念のため書いておくが肉体の話ではない)だけでは飽き足らず、外部にまでその舞台装置としての清浄を求め、何となれば自身の認識さえ歪めて現実を心地よく受け止めようとする様は、滑稽を通り越して狂気的ですらある。
 もちろん僕は自身が「そちら側」であると認識しているが、さすがに実存の他人にまでそれを押し付けて「綺麗に」いたいわけではない。
 それに僕の場合、子供の頃こそそうした傾向が強かったものの、今はヴァーチャルと現実を切り離し、それぞれ自覚的に拡充しているので偏執的にはならないし、何より自分以外の誰かをエサにすることには懲りている。
 
 昨今、流行らせようと財界が躍起になっている「メタバース」についてもそうだが、ヴァーチャルが決して悪いわけではない。
 それは手軽な自己実現と安全な欲求解消のメカニズムを備えた装置である。
 
 問題は、それが「実在する他者」を含む、現実的な社会装置であること。
 かつてのwebが今よりヴァーチャルだったのは、社会との接続面が限定的だったからだ。
 リア充(もどき) ── 本当に現実が充実している人は、ヴァーチャルでそれを誇示する必要などない ── がリア充をヴァーチャルという装置まで使って過度に演出する以前は、webはもっといい加減で、野放図だった。
 接続する人間が増えた結果、社会性が色濃くなり、結局のところ息苦しくなったのである。
(ために僕などは現実から逃避した世界が社会的になったことに辟易し、とうとう現実世界に逃避している始末だ)
 
 ヴァーチャルは、ときに現実を見失わせる。
 現実はときに、醜くて痛くて冷たくて苦しくて汚い場所である。
 常に綺麗で優しくてあたたかくて楽しくて清潔ではいられない場所である。
 それらを経験せず現実世界に暮らすことはある意味で理想的ではある。
 しかし柵に囲まれた羊たちを襲う獣が現れたとき、逃げることすら知らない家畜はすべて食い散らかされるのだ。
 
 他人の醜さを知らず、自身の汚れに無自覚なままでいられる社会は、混沌のディストピアに続く道に思える。
 そしてそれはすでに実現している。
 そういう道を、相応の人間たちが歩いているように観察されるのだ。
 
 この話は長くなるのでまたいずれ。
 
<夜、シャワーを浴びようと思ったらヤモリがいた(実は昨日からいる)。大きい。かわいいけれど怖い。ヤモリも大きなケモノがやってきたので怖いのだろう。シャワーを浴びたあと、網戸に隙間を作っておく。それにしてもどこから入ってきたのだろう>
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫α:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Interface-Link-Mechanics-Recollect-Stand_Alone-Style-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-JunctionBox-Reactor-Transistor-
 
[Object]
  -Human-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :君は首輪で繋がれて:Webストリートを見おろして:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:220731
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
やる気の問題。
 
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
220731
 
 2週間ほど、何もする気がしない。
 環境によって「しなくてはならないこと」が明白かつ明確な場合なら、それに合わせて「やりたくなる気持ちを鼓舞する仕組みを考える方針」を打ち出すことができる。それは僕の身に付けた、自身にとって重要な技術だ。
 しかし「どうしてもしなければならないこと」は、さほど多くない。
 ましてこんなに暑いと、若干、体力というより、体調不良とのトレードオフを懸念する必要もある。
 
 なので1日の半分以上を眠って過ごしていた。
 世の中の睡眠不足の人であるとか、暑い中で交通整理などの外仕事をしている人に対して、非常に申し訳ないというか、後ろめたい気持ちもある。あるのだが僕に代わりが勤まるはずもない。
 
 昨日くらいから過去形になったので、だいたい1日8時間睡眠程度には落ち着いてきた。
 長らく服用していなかったのだが、カフェイン剤を飲むことにする。
 考えてみると1週間ほど、喫煙していない。
 ニコチンはどうでもいいのだが、コーヒー豆由来のカフェインを摂取していない。
 だからといって、そのため(カフェイン摂取のための喫茶のため)に煙草を吸うのはおかしい。
 
 それでも過眠と無気力は良い兆候ではない(これ以上看過できない)から、カフェイン剤の出番である。
 
 しかし「やる気」と人は言うけれど、そんなものは果たして存在するのだろうか。しないんじゃないかな。
 
>>>
 
 1〜2年前から、夏の日中は眠って過ごすことにしていることは以前にも書いた。
 眠っている間は(代謝が低下するため)エアコンの設定温度を高めにできるので、全体的に省エネになる。
 
 しかし夜中は工事ができない。
 電気工事くらいなら平気だが、床のリフォームのように電気工具を使ったりハンマーで強く叩いたりする作業はできない。
 作業をしないせいだろうか。いやそんなはずもあるまい。
 
 どうも子供の頃の夏休みに似ているのだ。
 
>>>
 
 僕は10歳になるまで、友達というものがいなかった。
 小さい頃は姉や妹がいたし、あるいは幼馴染みの女の子と遊んでいた。
 自身を女の子だと思っており、それを増長させるだけの環境は整っていた。
 
 それでもどちらかというと、ひとりで遊んでいることが多かった。
 理由は分からない。おそらく、他人と一緒に居る意味をあまり感じていなかったのだろう。
 他人の居ない環境というものがまずなかった。
 ある程度、身体が自由に動かせるようになった2歳から6歳くらいまで、家に誰も居ないことはまずなかった。
 両親は自営で、従業員は工場兼事務所を兼ねている自宅にいたからだ。
 あるいは人間が居なくても、犬が最低1匹(多い時期は2匹)、猫が最低1匹(多いときの数は不明)居た。
 
 誰と接点を持つことがなくても、人や、自分以外の生き物の気配があるので、あまり寂しいとか、恐ろしいと思うことはなかった。
 もちろん怖い夢を見て夜中に目覚めることはあったけれど、現実と夢との境目は比較的しっかり認識できていたし、おそらく子供の頃から夜目が利いていたので問題はなかった。
 
 小学生になり、学校で多少遊ぶ程度の知り合いはいたのだが、そもそも僕は男の子グループに(当然ながら)分類される上、保育園の頃同様、男の子特有の遊びにはついて行けないのであった(遠い目)。
 
 2年生になるときには引っ越しをし、やたらと猫が捨てられる学区だったこともあり(そんなものがあるのかと今さら不思議に思うが、実に僕の通学路や校門には猫が捨てられていることが多かった)、僕の奇行がつまびらかになる。
 引っ越しに前後して両親は離婚していたし、父上は生活保護の状態になっていたので、家はすっかり貧しかったと思う。
 それらも含めて揶揄する上級生がいた。同学年にも居たかもしれない。
 ある種のいじめと言えなくもないが、そもそも今振り返ると僕の奇行はちょっと凄かったのではないだろうか。
 自慢ではない。自虐である。
 授業中は大人しく授業を受けていたし、他人に迷惑を掛ける行為をしたことはなかったと思う。
 つまり集団生活ができなかったわけではないのだが、いわゆる「空気を読ん」で、男の子らしい服装を好んで、男の子らしい振る舞いをすることは不可能だった。
 目立つつもりはないのだが、集団にあって違和を発散するので目立つ。
(これは大人になった今も直っていないのだと最近知った)
 
 目立っている者をして「それは何なの? ちょっとおかしいでしょう」という気持ちを抱くのは、集団に属する者にあっては必然の反応だろう。
 観察される側であれ、する側であれ、それがちょっと行き過ぎれば排斥しようという動機が生まれる。
 同じ動機を持つ者は集団内には必然に見つかるから、それによって集合するという運動に変わる。
 集合ができれば多数決的に(相手はひとりか、少数である)揶揄したり、あるいはもう少し行き過ぎた行動をする者もいる。
 
 群集心理とひと口に言うが、メカニズムは運動、つまり力学である。
 流体力学に近いかもしれない。
 学んだことはないが、流れ(対流や渦、滞留など)、配管内変化(断面の変化による圧力変化)、粘性(個々ではなく集合として)の特性、圧縮性など、運動や性質の特性が、心理的特性にそのまま当てはまる場面もあるように思う。
 もちろん概念的な使い方であって、数値化/数式化は困難だろうけれど。
 
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 夏休み ── 。
 僕は友達というものがいなかったので、10歳までは、ぼんやりと眠って過ごしていた。
 学校は嫌いではなかったが、学校に行くのが嫌いだった。
 痩せ細った身体が重くて、屋外は屋内以上に不快で、通学の道程が苦痛で面倒だったのだ。
(今の学生はリモートがあっていいなぁ、と思うほどである)
 
 予定は特にないし、しなくてはならないこともほとんどない(宿題やプール、地区のラジオ体操などのことはすでに忘れ去られている。それらの煩雑な情報を分解し、スケジュールを管理するなど当時の僕にできるはずもない)。
 友達が居ないので、遊ぶ約束もない。
 妹や姉は相応に(友達との約束などで)忙しそうにしていることもあるし、そもそも一緒に遊ぶこともなくなっていた。
 
 TVを見るか、ゲームを作るか(すでにあれこれ作っていた)、本を読むか、寝るか、である。
 正直なところ隠居老人みたいな子供である。今とさして変わらないあたりが面白い。
 
 あまりに眠りすぎて、過眠頭痛を起こすこともしばしばであったことよ。
 
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 当時から、鬱屈しやすい自分の性質には気付いていた。
 何か嫌なこと、気分が悪くなるようなことがあったわけでもないのに、どうも気分がすぐれない。
 何をしたいとも思わないし、何もしたくないとさえ思う。
 
 呼吸もしないでいられたら便利なのだが、とは思う反面、まだ死に恋をしていなかったあの頃。
 僕たち。私たちは。
 手軽に「死んでしまえば楽なのでは」などという疑問を持つこともなく。
 夜空を見上げたり。
 蝉の抜け殻を集めたり。
 
 庭の片隅で始めた。
 キャンプファイヤー(ただの焚き火)。
 裏庭の竹林。
 揺れる風の音。
 
 いまでは何もかもが。
 素敵な思い出です。
 
  ── ってこれ何の送辞? それとも答辞なの?
 卒業式なの?
 
 みんなどこに進学するの?
 え。キミ就職するの? すっご〜い! オトナじゃん!?
 って待って。ちょっと待って。
 
 実はその。
 ずっと言えなかったんだけど。
 ってえっと、その。
 実はその、えーと。
 
 キミのこと、す、す ── 。
 酢だこ〜!!
 
 って、今回ネタパートが長いよ!
 
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「あの頃」が悪い。
 特に「 ── なかったあの頃」である。この修飾が悪い。就職が悪い、とか変な変換をしないで欲しい。
 純真無垢な青春を彷彿とさせるような日本語を使うな(責任転嫁)。
 
 あ。違います。奥様(仮想)のせいではありませんし、責任をなすりつけるつもりはありませんので。
 はい。
 ……はい。申し訳ありません。その言葉の綾と申しますか。はい。ええ。もちろんです。はい。お願いいたします。ありがとうございます。
 
 って恐妻家なの〜? 奥様は常時ぷんぷん丸なのぉ? 猫クン可哀想だよぅ。私が守ってあげたい!
(ネタパートを増やさないでください)
 
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 鬱屈は定期的にやって来る(気付くとそうなっている)のだが、理由や原因が把握できず、ために対処法が分からず、だからといって誰に相談することもできずにいた。
 そりゃそうだろう。
 やる気が起きないのに、やる気が起きないことを相談する気力は起きない。
 もし仮に起きたとしても説明するべく原因や理由は何もないのだ。
 毎日、好きに寝て起きて、(動物的な意味では)さほど不便もないのだから。
 
 当時はまだ日記を付ける習慣はなかったが、それでも自分のことを定期的に観察していたので、およそ3〜6ヶ月程度の周期で自身の感覚というか、気分というかに、波があることは把握していた。
 一方で、攻撃的な(あるいは嗜虐的な)自身の性情も把握していたので、これらについて「何とかならんものかなぁ」とは常々(といっても思い出したときは、ということだが)考えていたのではある。
 
 当時(だいたい40年前)はまだ、食品由来の栄養を始めとして、人間が摂取する化学物質が人間の心理に与える影響については周知されていなかった。
 当時の科学雑誌で、ようやく「ビタミンCの欠乏が人間の怒りに関与しているかもしれない」と記載され「これは!」とは思った ── 僕は過眠で気分が低迷しているときの方が、攻撃的になり、僕はその攻撃性の取扱いに子供の頃から困惑している ── のだが、今と違って手軽にビタミン剤などのサプリメントが売っている時代ではないし、お小遣いも僅かだったし薬局で買うことも思い付かなかった。
(ちなみに「鉄分とカルシウムを摂ってイライラ予防〜!」みたいなCMがTVで流れるのは5年も後である)
 
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 文章を書くことは、自分自身をモニタリングするのに適しているというのは11歳に実践するまで気付かなかった。
 思うに文書を書くような場所が僕にはなかったのだ。
 ノートを買うにも自費(お小遣いから)だったので、尚更だろう。
 当時はノートを買える場所があるとは思っていなかった(書くと長いので諸般の事情だと思ってほしい)(ネタ文をやめましょう)。
 
 いや。机はあった。が、その上は雑多な物置きになっていた。
 父上の教育方針だったかどうかは定かでないが「宿題をしなさい」とか「掃除をしなさい」とは言われなかったので、机の上は半年から1年に一度、僕が何かに取り憑かれたようになったときだけ、徹底的に綺麗にされた。
 
>>>
 
(疲れてきたからまとめてしまえホトトギス)
 定期的に文書を書かないと、僕の心情はどうやら渦を巻くのかもしれない。
 渦というのは流れの中に発生する循環のことで、その運動は独立して保存される。
 つまり書いている間も、書いていない間も、僕の渦は独立して存在し続けているのだろう。
 
<何はともあれ猫の写真が見たいんだろう?>
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
 工場内検索結果へのリンク。
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Form-Kidding-Mechanics-Memory-Season-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Reactor-Resistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Friend-Human-Memory-Poison-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :暗闇エトランジェ:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:220726
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
人に好かれないことの優位性。
SUBTITLE:
~ Would you likes me? ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
220726
 
 姉上の検査入院のため、レンタカーで外出。
 入院の荷物が大量になり、ご本人様は酸素ボンベ付きのため運転席の狭い車は(僕の所有する軽自動車は2台とも該当するので)基本的に除外される。
 運転席が広いものは軽自動車であっても(僕が)嫌いなので、このあたりはどうにもならない。
 
 コペンに乗っていて思っていたのだが、キャビンが狭いため、エアコンがすぐによく効く。
 室内空間が広い軽自動車だと、そのあたりはどうしても弱いなとは思う。
 ひとつの物事をとっても様々な側面があるということをこの事象からは学びたい。
 
>>>
 
【ハイブリッド車の利便とキモチワルさ】
 
 レンタカーも必然にハイブリッド車(HV)の方が多いのだが、アクセルやブレーキがぶにゅんぶにゅんしていてキモチワルイ。
 この「ぶにゅぶにゅ感」を感じない人が多いのか、みんな我慢しているのか分からないが、個人的には正直耐えがたい。
 
 まだAT車であれば、アクセルを一定量踏み込めばエンジンの回転数もおよそ一定になるのでATフルード分のギャップはあるにしても、一定の出力を保ちやすい。
 HVの場合はATの特性に加え、モータ出力の切り替えが発生するため、一定量の踏み込みであっても、低速であればあるほど加速度にばらつきが発生する。
 
 発車時はAT車同様、クリープで発進することが多いのだが、最初はモータによるものなのか加速が悪い。
 それではともう少し踏み込むと、動力がエンジンに切り替わるのか思ったより急激に加速してしまう。
 なのでそこでアクセルを戻して調整する必要が出る。
 これが発進時だけならまだ我慢もできるのだが、少し大きめの加減速をするたびに、タイムラグだけでなく出力のばらつきが目立つ。
 これが冒頭の「ぶにゅぶにゅ感」の正体である。
 
 とにかくアクセルやブレーキを踏んでも、定量的な出力の調整にならない。
 だから実際の加減速度を体感しながら、それに合わせて微調整をすることになる。
 にもかかわらず、微調整の最中に出力が変動するので、再調整をすることになる。
 これが毎回のように起こるため、非常にストレスを感じるのだ。
 
 アクセルの踏み込みによる切り替えと出力の調整なので、ソフトウェア的に対応できるものとは思うのだが、各メーカともさほど注力しているようには思えない。
 特に軽HVに顕著だが、普通車だろうがなんだろうが、HVは宿命的にぶにゅぶにゅしている。
 
 この「ぶにゅぶにゅ感」が転じて、事故の原因になっているのではないかと邪推したくなるほどである。
 
>>>
 
【社会性と摩擦抵抗】
 
 先日、リフォーム会社の人と話していたときのことだが、僕は基本的に人当たりが良く、物腰も柔らかい。
 ために「誰とでも仲良くなれそうですよね」などと言われる。
 
 実際問題、文書を書かせれば思考回路のアクの強さが滲み出ているとは思うが、日常生活ではその片鱗も伺わせないくらい、ぼんやりのんびりしている。
 インタフェイスとしては、僕は他人から「おっとりしていて、少々頭の回転が低くて、世間を知らず、汚れた世界を知らない」くらいのキャラクタとして見くびられている方が得だと思っているので、そういうキャラクタを演じ、接している。根底にある思考を完全にシールしている。通常は表情にもほとんど出ないはずだ。
 ごく一部の人 ── 子供の頃からの友人や妹、弟子など ── だけが、その僅かな違和を察知して、僕の心情を正確に読み取る ── そして僕はこれを苦々しく認める。
 
 昔、ブログの知り合いとオフ会をしたとき、半分以上のケースで「え、こんなイキモノなの?」という反応をされた。
 ギャップが激しかったようである。
 そりゃそうだろう。こんなにアクの強い思考回路をそのまんま現実世界の人格として発露していたら、たいそう性格と当たりの悪い人間になってしまう。
 摩擦抵抗が強くてもそれ以上に高い出力を持つ推進装置で動いているならいいが、あいにく僕は肉体からして出力が不足しがちである。
 
 ために周囲の環境との摩擦抵抗を極力小さくすることで、小さな出力で自身を制御することにしたのだろうと想像する。
 
>>>
 
【モテることと摩擦抵抗】
 
 他人にモテるにも、この「周囲との摩擦を制御する」ことは有用である。
 結局のところ人間関係において、摩擦抵抗の高い存在というのは目立つ上に、大抵は敵視されるからだ。
 だから摩擦抵抗を相手に合わせて低めに調整するだけで、たいていの人間関係は無難に切り抜けられる。
 単純に相手から敵視されないだけなので、正しく味方のフリをする機会を窺うことにはなるが、上手に敵視されずに過ごしていれば、味方になることは容易である。
 
 僕の場合はそれでも、阿呆の味方だけはできないので、多数決的に決定されている習慣や常識であるとかに迎合できず(抵抗を小さくすることに失敗し)集団から目の敵にされることはある。
 結果として、現在はおよそ集団という集団に帰属していない。
 同居の家族もいないし、会社などの経済活動も他人と関わる機会は年に数回もない。
 友人が月に1〜2回遊びに来て、姉の家に月に1度、入通院のため泊まりに行き、妹や家族が2回くらい遊びに来る程度である。
 
 人好きのすることは、悪いことではない。
 モテるときは、なべて等しく、老若男女誰にでも、というのはある種の理想だろう。
 ただし一度でもモテたこと(老若男女誰にでも)がある人なら理解できるとは思うのだが、実のところ、そんなのは迷惑千万なのである。
 
 人がましい顔をして、自分の利益しか考えず、こちらの時間や所有物や人間関係や物質的財産や権利などを奪うべく、お金の無心に来たり、借金の保証人を頼みに来たり、人のプライベートを暴いてみたり、人の過去を探り出してみたりという連中は多少なり居る。
 最初から悪人ヅラをしていてくれればこちらも警戒する余地はあるのだが、だいたいそういう人は弱いフリや、真面目で誠実なフリや、好意を持っているフリをしている。
 それらはすべて、当の本人の(他人をエサにしてでも叶えたい)欲を具現するためのインタフェイスであり、その抵抗の少なさは警戒するに値する。
 
 つまりすべての人と言わずとも、相手に大きな摩擦抵抗を感じさせないように好意的なインタフェイスを持った人間は、意図的にそういう形状をしているのである。
 何が本心で、何が計算で、何が演技であるかなんて、少々観察したくらいで分かるものではない。
 
【人間関係の摩擦抵抗】
 
 仕事でも、目的を遂行するために「ここはこうした方がいい。このほうがまともでは?」と、相手に嫌われてでも自身の思う正しさをきちんと提示できる人間の方が、僕は信頼できる。
(僕がそれをしないのは一人で完結するプロジェクトがほとんどだったのと、仮にチームであっても僕は常に少数派に回る上、説明が下手なため体力をあっという間に消耗し、理解を得られず敵対されるだけに終わることが多かったためである)
 仕事の営業で来る人間たちも、基本的に人がましい顔をしているが、もう少し人間くさい部分、陰のある部分を見せてもらえればとは思う。
 そうしたある種の獣性をみんな隠しているから、余計にアヤシイと思ってしまうのだ。
 
 恋愛でも、いつも聞き分けが良くて、何でもしてくれる都合の良い恋人よりは、いろいろ不得手があり(料理や家電の操作が得意じゃないなんて、すごく可愛らしいと僕は思うが)、デートが終わって帰るとき(翌日こちらは仕事があったりするのに)ぐずぐずと「帰りたくないよぅ」なんて泣き出して困らせてくるくらいの人の方が信頼できる。
 しかしそれを対外的に公言してしまうと、それを使って「摩擦抵抗の少ないカタチ」を作る人間がいるから、表向きは「美人しか興味がない。都合のいい女が一番いい」と言っておくのである。
 そうすれば、少なくとも大抵の人(老若男女)は警戒(場合によっては軽蔑)して距離を置いてくれる。
 
 要するに普段から当たりのよいカオをして、不特定多数にモテても(そのように振る舞っても)疲れるだけなのだ。 
 
 だったら最初から、非常識で奇人変人として正しく振る舞い、周囲から白い目で見られている方がラクなのである。
「ああ。猫氏は基本的に男が嫌いで、頑固でヘンタイで奇人で、30代以上の女性かつ美人かつ都合の良い女として振る舞える人間しか相手にしない、えらく下世話で狭量なケダモノなんだな」と思ってもらっていた方が都合がいい。
 何となれば世界中 ── そんなに接している境界面が広いと思い上がりたくないものだ ── とまで言わずとも、顔を見知っている全員から、ある程度嫌われて ── あるいはそこまで相手から意識されているなんて考えるほど過剰な自意識を持つのもおこがましいし面倒なので、せめて距離を離されて ── いた方がラクでいい。
 
 そうしていても、どうしたって勝手に魅力を感じて近づいてくる人間はいる。
 僕なんか男嫌いなのに、最近はIRLだと男にばかり好意を持たれる(そういうのは仕方ないので普段どおりに接しているが)。
 
── 大丈夫だよ、こわくないよ。
 昼頃起きて、猫と遊んで草取りして焚き火しているような、人畜無害の無職のおじさんだよ、とガールに対しても思うのだが、そういうところが警戒される所以かもしれない。
 まぁ無職を偽る(有職者のフリをする)ことはできないからな。
 
 結果的に誰にでも好かれるくらいなら、誰ひとりとして味方がいない方が気が楽ではある。
 誰からも頼りにされず、誰からもアテにされないということは、誰のエサにされることもない、ということだ。
 嫌われるほどの強い印象をもって誰かの意識に上ることさえもなく、ただただ背景のように無視されることの心地よさについて、つい想像してしまう(私がそれを願うとき、それは実現する)。
 
 もちろん。
 ときに庇護したい対象だってあるだろう。僕だってある。
 でも、それをぐっと堪えて、あえて見放す必要も時にはある。
 それ(見放さないこと)によって、自身の存在が目立つならば。
 それ(自他共に自覚し観察されてしまう関係性)が時に自身の(あるいは庇護したいと願う対象の)不利に働くこともあるし、最終的に環境を乱すこともあるから。
 
 しかし観察者の有無によって結果が左右されているかどうかなんて些細なことは、観察者にはなかなか判定できないことであるし、事前の予測もおよそ不可能だ。
 人間が生きる上での多くの選択は、そうやって不可逆的に、(一見して)予測不能に、結果を導いてゆく。
 
>>>
 
【非国民が許される豊かさ】
 
 弟子から以前「憲法に記載されている国民の三大義務」について説教されたことがある。
 なんでも働かない人間は、日本国民としての義務を果たしていないらしい(勤労(労働)の義務による)。
 
 えー、だったらいいよオレ非国民でいいしそうしたら税金免除してほしいしどうせなら海外に移住するしそもそも日本国って言ったってろくに国家として機能していないじゃんかぁ、と言い返したら怒られた。
 
 しかし昨今は不純異性交遊したりした挙げ句、議員の仕事もまともにしない国賊みたいな議員さんもいらっしゃるようなので、まぁ平和で豊かな国なんだろうなぁ、とは思う。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫α:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Engineering-Form-Interface-Link-Mechanics-Season-Stand_Alone-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Camouflage-Human-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:220725
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
Fallout 4 をようやくクリアした。
 
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
220725
 
 前日23時頃起床。
 
 筋トレや軽い食事をして5時頃シャワーを浴びる。
 8時頃から草取りと焼却。
 今年は夏に怯えているため、園芸部の作業が進まない。
 奥様(仮想)と相談し、自宅にいる限りは熱中症等の危険性を低く抑えられるわけだから、作業時間の確保と1日あたりの作業件数を増やす方向で調整する。
 
 ひとたび汗疹ができたり、熱中症に罹ると、ひと月は体調が悪くなるのだが、神経質になりすぎると、結果的に体調を崩しているのと変わらないくらい、さまざまな作業が捗らない。過ぎたるは及ばざるがごとし。
 また事務処理等を含む対外的作業を1日1件上限としていたのだが、頻繁にやる気がなくなる僕にとって、2件程度を詰め込んだほうが良いようだと判断された。
 
 会社員だった頃は1日あたり数件の案件を片付けるなんて当たり前のことだったのだけれど、日常生活においては、やれ買い物があるだの、洗濯があるだのと雑務も多く、イレギュラな処理 ── たとえば地震保険の事故報告や、ルータの返送、解体した倉庫の登記整理、特殊な税務処理など ── があり、それはすぐに半日くらいの時間を使ってしまう。ためについつい後回しにしてしまう。
 暑いので、電気工事作業や庭作業も延期にしがちなまま現在に至る。
 
 地震保険については、代理店である不動産管理会社の対応でかなり腹立たしいことがあったのだが、僕が業界経験者だからなのかもしれないし、怒ったところで時間の無駄だから考えることを放棄し、粛々と作業を完了させた。案外、政治家向きなんじゃないか俺。不純異性交遊とかサボりとか居眠りとか得意だし、何でもかんでも「結果オーライ」的解釈に捻じ曲げる技術もあるだろうし(時事的ブラックジョークです)。
 
>>>
 
「Fallout」という作品群は ── 時流に乗り収益性の高いゲームをワンパターンに出し続けるようになった「FROM SOFTWARE」に換わって ── 僕の推す「Bethesda Softworks」というメーカのゲームである(確か、第一作は別メーカが制作していて、ライセンス(シリーズの知的財産権)を買い取った経緯があったように思う)。
 
 基本的に、メインストーリィをクリアしてもゲームプレイは続く。
 Elder Scrolls シリーズにも通じる、シナリオ上の幅広い選択肢の広さが魅力で、核兵器によって荒廃した連邦を救うヒーローになるも良し、虐殺の限りを尽くす略奪者プレイをするのも自由である。
 一部から批判があったように、複数勢力との関係性の中で収束するシナリオは(やむを得ない部分はあるにせよ)自由度の低いものと感じさせる部分はある。
 特に従前のシリーズでは、他勢力と協調路線を選ぶことが比較的容易だった(人間勢力はどれも壊滅しない)ことを考えると、若干、シナリオメイカに誘導され、あるいは強制されているような気持ちになる部分はある。
 
 しかし Bethesda のゲームは基本的に、その行動とシナリオの自由度において、他メーカの追随を許さない。
 Fallout 4 にしても「Bethesda にしては」「従前のシリーズにしては」若干、制御の幅が狭いというのに過ぎない。
 
 そもそも Bethesda のゲームをプレイしたあとは、他メーカのRPGをプレイするたび、どうしても比較することになってしまうほど、その出来は究極的に素晴らしい。
 特定のメーカや作品を貶すつもりはないが、宝石だのゼンマイだのといった、よく分からない部品を集めると武器になったりするような、雑なクラフト要素は一切なく、素材の入手も非常に現実的で、ゲームフィールド内の非常に多くのオブジェクトやアイテム(無用のガラクタも多い)にインタラクトできる。
 所有権システムも秀逸だから、一般人の家に不法侵入したり、その所有物を勝手に盗ったり、商店のカウンタなどに飾られている商品を(間違えて)盗み取ると町中の人たちから攻撃されることになる(ある意味不便なシステムではある)。
 
 話は戻って「FO4」。
 途中から「もしかしたら」とは思っていたものの、釈然としない部分 ── インスティチュートがなぜ人造人間を市井に放っているのか、など ── を残しつつ、あまり明るいラストにはならなかった気がする。
 どの勢力を選んでも、どこかの勢力を潰すことになる以上は同様だろう。
 でもまぁ、そういう暗いエンディングも悪いとは思わない。それ以外が(いかなるエンディングを選ぼうとしても)存在しなさそうだから、ちょっと不自由を感じるという程度である。
 
 DLCもすべて購入してしていて「ヌカワールド」に至ってはほとんど手を付けていないので、まだしばらくは遊び続けると思う(SKYRIM もそろそろ遊び直したいのだが)。
 
>>>
 
 10時からリフォーム会社の来客。
 前回工事の確認なのだが、毎回、どうしても、根幹構造の修繕が必要な箇所を発見されてしまう。
 築年数が40年を超えている ── その上、この家を建築した技師の知識や能力や技術を(時代による技術の違いはあるにせよ)僕はさほど高く評価していない ── ので仕方ないのだが、いい加減、根幹部分はもういいだろう、と思いつつ、自身ではどうしようもない箇所なので依頼する。
 あと18と半年くらい保てば(取り壊すと思うので)それで問題ないのだが……。
 
 昼過ぎに豆腐を食べて14時から昼寝。
 16時頃、妹が姪を連れて遊びに来る。
 15時間ほど活動を続けたあとなので、非常に眠いのだが、来ることは昨日のうちに約束されていたわけで、文句も言えないし、特に文句があるわけでもない。
 食べ物を買ってくるのはそろそろやめてほしいのだけれど、どういうわけか軽い食べ物(今回はサンドイッチとおにぎり)を買ってきたので、一緒に食べることになる。
 
 ちなみに妹夫婦とその娘は、かなりの大食である。
 1日の食事量が僕の2〜3倍はありそうな気がする。
 だから彼女たちの軽食は、僕には1食に該当し、それで翌日まで空腹を感じなくなってしまうことも多い。
 このあたりはいずれ改善が必要だろう。
 
「どちらでもよいもの」で自分の欲求を満たすのは、「どうしてもこれがよいというもの」で満たすのとは雲泥の差があると僕は思っている。
 時間が有限であればこそ、満たすモノはもちろんのこと、飢餓感や枯渇感といった自分の欲求さえ、充足を感覚する上ではとても重要なものなのだ。
 
 漠然と「満たされない」と思っている者には、何を与えても不満は解消されないままであり、場合によっては逆効果にもなるだろう。平和であること、満たされていることの弊害ともいえる。
 だから中途半端に満たすことなく放置すれば、やがて正しく飢餓感や不足感がより強く発生し、具体的に感覚できるようになる。
 それを自律的に制御できれば良いのだけれど、そうもいかない人間は多いようだ。妹や姪から「一緒に食べよう」と言われれば、僕も食べたくないものなのに食べてしまう。
 空腹こそ最高のスパイスというのは事実であり、それは他のすべての欲求にも通じる。
 にもかかわらずガールから誘われるとついつい乗ってしまう。やはり改善が必要だろう。
 
 道具類(とくに時間を生み出すもの)には惜しみなくお金を使うが、欲を満たすことにさほどお金を使わないのは、そういう理由もあるのかもしれない。
 それでも運動不足のためか、下腹部が肥大しているのが若干の悩みである。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:
 
[InterMethod]
  -Diary-Ecology-Engineering-Link-Mechanics-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Reactor-
 
[Object]
  -Dish-Game-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:コントローラと五里霧中:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:220721
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
日本国は民主主義国家なのか。
SUBTITLE:
~ Dystopia on my mind. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
220721
 
※ 濃ゆい思想が丸出しなタイトルから分かるとおり、濃ゆい政治的思想が見え隠れしないでもない文章になります。
そのうえ死について、その概念や取扱いについても、踏み込んだことを書いています。
自殺(未遂を含む)や他殺、いじめなどについても記載があり、先の元首相殺害についても触れています。
これらに嫌悪感がある場合や、心理的な痛みが予測される場合、読まないことをおすすめします。
 
 
 
>>>
 
 基本的に、死という概念をもてあそぶのが嫌いである。
「え? まさか。猫氏がいちばん死という概念をもてあそんでいるのではありませんか」という向きもあるかもしれない。
 しかし僕は、死を、単純な死としてしか評価しない。
 もちろん主観的にはいろいろ思うところもあるが、死というのは単純に、肉体が機能を停止することであって、それでしかない。
 
 具体的にいうと、死んだ人を、死んだときから「いい人」としてすり替えたり、死ぬことを引き合いに出してコミュニティ内での影響力として利用しようとする行為を嫌っている。憎んでいる。嫌悪している。
 ときどき書いているが、死んでもクズはクズである。
 
 たとえば殺人犯を死刑にしたとしても「死をもって償われた」とは僕は考えない。
 殺人犯が死んだとしても、被害者が蘇るわけではないし、何事もなかった過日が戻ってくるわけでもない。
 当たり前だろう。
 マイナスに対してプラスが加わって相殺されるわけではないのだ。
 単純にコミュニティがその個体を受け容れられないから抹殺すると断言してくれた方が、正直なぶん安心できる。
 死刑制度に賛成も反対もする気はないが、誰といわず善良なカオをして人殺しをしない(そういう価値観を持たない)でもらいたい。
 死が死であるように、殺しは殺しだ。
 個人が個人を殺すように、コミュニティが個人を殺す事実を、善悪とは別に考えてもらいたい。
 その殺しはコミュニティには必要な殺しだろうけれど、償いなどではない。
 ただ一方からの正義の強要でしかない。
 無意味ではないと思うが、善良かと問われると答えに詰まるし、最善かと問われてそうだと答えることもできない。
 
 人(あるいは自分自身)の死に、過剰なメタ情報を加味しないでほしい、と僕は思う。
 誰かが死んだことは、それがその人の自発的選択的行為によるものだろうと、不慮の事故によるものだろうと、あるいは誰かに殺されたのであろうと、その人自身の価値に影響しないし、ましてその人以外の周辺の価値を変動させるものではない。
 
 具体的に、いじめに遭っている人がいるとする。大人でも子供でもいい。
 死ぬほど辛くて死んでしまうことについて、できればない方がいいとは思うが、死んだ方が楽なこともある。
 そういう気持ちも理解できるから、みだりに止める気にはならない。
 しかし死んで、本人の主観は「それ以上つらい思いをしないですむ」という解決を見るが、周囲に与える影響はどれほどだろう。
 
 明るみに出れば加害者は相応の非難を受けるだろうか。社会的な制裁を負わされるだろうか。
 法や規則が守ってくれる範囲であればそれも可能かもしれないが、倫理だけがそれを守っていた場合はどうなるだろう。
(法は明文化されているが、倫理は明文化されないものも多い)
 他人を生かしながら死ぬほどの思いをさせるような行為を行った人間たちであっても、殺人ではないから、緩やかな罰しか与えられない。
 人間性を失った ── あるいはそもそも持っていない ── 者が、他人の、それも自分が玩具としていたイキモノの死をもって反省するだろうか。
 僕にはそうは思えない。
 
 一方で、被害者を守るべき立場にある人 ── 子供なら親が居るだろう。親が居なければ、何らかの保護者が居るだろう。大人なら家族や友人が居るかもしれない。僕のようにいない可能性もあるが、独りくらい、誰か悲しむ人はいるだろう。その人の所属するなんらかの組織があるはずだ ── は、おそらく自身を責めるはずだ。そして責められて然るべきでもあるかもしれない。
 
 同様の手法で、自殺未遂を人間関係のコントロールに使う人間もいる。
 こうなると、自殺をさせる要因を作った側ではなく、自殺をしようとする側のほうが人間性を失っているといえる。
 
 人間が死んだあとに、いろいろな物事が動くのは事実だ。
 人間が人間関係やモノを所有し、それが亡き(あるいは亡くなろうとした)人の権利として紐付くような文化を形成している以上、不在の(あるいは不在になろうとした)人間の存在感が影響を与え続けるのは致し方ないことだ。
 
 しかし死によって、誰かが何かの ── それがたとえ死したその人自身であっても ── 価値を変えてはいけないように僕は思う。
 だから死んでもクズはクズだ。
 
 一方で、失われた能力は戻らない。その人の能力の喪失はもしかしたら、コミュニティの損失かもしれない。
 だからこそ、個人の能力や資質に過剰に依存しないようにコミュニティを形成しているのではないのだろうか。
 ある程度の能力を有していれば、誰がその歯車として割り当てられても、正しく稼働する仕組みを作っているのではないのか。
 
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 死刑囚が「死刑に値するほどコミュニティから拒絶される罪を犯した」事実は変わらない。
 拒絶した側のコミュニティだって「殺したから明日から安泰」と短絡に安堵するようでは根本的な解決はされない。
 
 コミュニティから拒絶されることを理解してなおコミュニティを拒絶するような強く激しい動機があればこそ、そうした因子が発生する。
 たまたま多数決的にコミュニティに属する我々は被害者ヅラをすることができるが、実のところ、コミュニティから拒絶されていたからこそ、死をも顧みないほどの狂気を増長させる可能性は否定できない。
 ために真の加害者は、コミュニティからこぼれ落ちる人を救わなかったコミュニティそのもの、つまり被害者ヅラをしている自分自身かもしれない。
 確かに人は殺されない方がいいし、みだりに殺人を犯すべきではないと思うが、人を殺したいほど憎んでしまうシステムの欠陥を修正しなければ、コミュニティの歪みはいつまでも危険な因子を生み続ける。
 死刑囚が死んで「ああよかったね、めでたしめでたし」なんてわけには行かないということが、どうして周知されないのだろう。
 
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 同じように生きることに絶望して自殺した人は、その人が弱かったわけでも、無力だったわけでもない。もちろん、強かったわけでも、勇敢だったわけでもない。その方がラクだっただけだ。
 確かに人は死なない方がいいし、自殺をしても(本人の主観以外に)何らかの解決がされるわけではない。
 しかしこれもコミュニティから拒絶されていたからこそ発生する死である。
 被害者が可哀想、加害者は悪い奴だ、というありきたりな評価で終わりにして済む問題でも、済ませていい問題でもない。
 
 そうしないと自殺する人間はみな被害者であって、周囲が加害者だという図式を悪用する人間が出てしまう。
 自分の命を道具に他人の権利を操ろうというのは、弱さである。そして同時にふてぶてしさであり、怠惰でもある。
 拳銃を手にして、相手に向けるか自分に向けるかの違いでしかない。
 つまりコミュニティにおける加害的自殺(未遂)も現象としては可能ということだ。
 
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 誰かが選択的に死んだり、あるいは殺したりという行為に及ぶのは、看過しているコミュニティに、つまりは気付かないままでいる我々ひとりひとりに遠因のある問題だと僕は考える。
 
 コミュニティがそこに含まれる(あるいは含まれて然るべき)人をして生きたまま拒絶し、拒絶された人が自身あるいは他者の死 ── あるいは生かしたままそれ以上の損傷を与えること ── によってコミュニティ(およびそのルール)を徹底的に拒絶し、その感情を行為にするとき、人は自殺あるいは他殺をするのだろう。
 
 自殺をした人が可哀想というなら、いじめをしている人間だってある意味ずいぶん可哀想だ。
 加害者を擁護しているつもりはない。
 クズに育ち、クズな価値観を植え付けられてなお、クズである自分を変えられない有り様がどうしようもなく哀れだというだけだから、非難に近い。
 あるいは自殺未遂を攻撃に使う人間が同じ原理で可哀想というなら、そういう価値観に育ててしまった被害者たるコミュニティの持つ狂気はいかほどだろう。
 
 どちらがどれほど加害的行為を行って、誰がどれくらい善良だというのだろう。
 誰が被害者で、誰がどれほどの損失を被っているのか。
 どうやってそれを定量的に計測できるというのだろう。
 
 ○○さんが殺されました。はい可哀想ですね。惜しい人でした。素晴らしい人でした。殺した奴は悪い奴ですね。そうですね。そんな奴はこのコミュニティには必要ありませんそうですねだから抹殺しましょうそうしましょう。
 と杓子定規に僕は思わない。
 勝手に死ぬクズがいるように、殺されるクズもいるだろう。
 追い詰められて死ぬ、衆に優れた人もいれば、一方的な狂気に殺される、優秀な人もいるだろう。
 
>>>
 
 元首相が死んだという。
 国葬までするという。それを、執政者が一方的に決定したという。
 施政組織が主力たる施政組織であるために、特定の宗教団体と関係を持ち、それが巡り巡った遠因となって殺されたという。
 
 僕が知っているのは、その程度の情報だ。
 
 人を殺すことは確かに容易に許されていいことではないように思う。
 しかし殺されたからといって、これまでの行いのすべてを「いいもの」として考え、あるいは印象づけようとするのはまた別問題で、はたしてどうかと思う。
 
 たいていの人は死者を悪く言えない。
 そういう価値観が醸成されているコミュニティで暮らしていればなおさらだろう。
 
 悪く言えないこと自体は、まぁ、仕方ないとも思える(いいかげん誰も彼も、死に慣れてほしいものだけれど)。
 しかしそれを逆手に利用して、つまりは死者を利用して「悪かったこと」「たいして良いことでもなかったこと」「悪かったかもしれないこと」を有耶無耶にし「いいこと」として上書きされようとはしていないだろうか。
 
 何度でもいうがクズは死んでもクズである。
 個人として、ひとりの男が死んだことは、残念というか、悲しいことである。
 僕は死後の世界を(このうえまだ意識が残るなんて信じたくないので)信じていない。ために冥福は祈らないが、顔だって、声だって、まぁ悪い方ではなかったとは思う。
 
 ただし執政者として、コミュニティを正しく運営できていたかどうかとなれば話は別だ。
 
 人間は、弱者のためにコミュニティを作り、そのコミュニティをより倫理的に、正しく運営するために「民主主義」なる概念を作ったはずだ。
 そのコミュニティから零れ落ちた弱者が、コミュニティを逆襲したのである。
 その執政は、果たして誰のためのものだったのか。
 我々の属するコミュニティは、いったい誰のために稼働するシステムなのか。
 そのシステムは、正しく機能していたのか。今も機能しているのか。
 
 死は死であり、成功は成功であり、失敗は失敗である。
 死を ── 価値観にバイアスを掛けるその機能をして ── 道具使いすることはすなわち、死の、あるいは生の、つまりはその人個人を道具にすることであり、その尊厳を貶めることに他ならない。
 
>>>
 
 事件の当初「民主主義に対する攻撃だ」などと、まことしやかに、過剰に熱を含ませた言葉が空虚に流れていると感じたが、民主主義を正しく民主主義にしていないのは誰だろう。
 誰かが善人で、誰かが悪人だという、簡単な図式などではないはずだ。
 
 誰も彼も、望むと望まざるとに関わらず、この日本国という(もはや国家かどうかアヤシイ)コミュニティに属している、すべての人間の加害行為であり、同時に被害でもある。
 
 なるほど「民主」というのが「洗練されないままの衆愚」を指すなら確かに民主的だろう。
 しかし本来の意味において「弱者のために、多数決的に物事を敢行するための」民主主義というなら、この国は、はたしてどれくらい、民主主義国家だというのか。
 いつからいつまで、民主主義国家だというのか。
 
>>>
 
 個人的には、死ぬ側の気持ちも、死なれる側の気持ちも、また死を利用される側の気持ちも分かる。
 さらに有り体にいえば、殺す側の気持ちさえ、僕は知っている。
 いずれも(実践はしていないが)経験していることだ。
 きっと死を利用する側の気持ちも分からないではない。
 
 しかし死は現象だ。
 ひとたび死を美化してしまえば、死はすべての免罪符に使える。
 殺す者にも、死ぬ者にも、他者のそれを利用する者にも。
 
 自らが生きる方に、他者を生かす方に、よりよい選択肢があるという、当たり前であるべきことが当たり前の社会であってほしい。
 自身を含めた誰かの自由を奪うことが、自身の思い通りを実現する上で優れたやり方だなんていう価値観が、仮に無くなることはないにしても、動物的で野蛮で短絡で間違ったことであると、正しく認識される人間社会であってほしいと思う。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
[ Cross Link ]
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
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[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-JunctionBox-Reactor-Resistor-
 
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[Cat-Ego-Lies]
  :いのちあるものたち:夢見の猫の額の奥に:
 
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// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:220720
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
減衰する私たち。
SUBTITLE:
~ Inductive reactance. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
220720
 
 以前から気がついていたのだが、キャンピングキャビンは浸水する。
 いや、すべてのキャンピングキャビンがそうだ、というわけではない。僕の所有しているキャンピングキャビンは少なくとも浸水する、という意味だ。
 どうやら雨がフラップ窓を伝い、枠から車外に排水されず、キャビン内に浸水するらしい。
 
 買ってから半年も経っていないし、使った回数なんて数回なのだ ── 整備している回数や日数の方がよほども多い ── が、いかんともしがたい。
 数日前の大雨で、内部が3センチほども浸水してしまっていたことには気付いていたのだが、面倒でしばらく放っておいてしまった。
 僕の性格の悪い部分が見事に露呈しているといえる。気分屋なので面倒なことはたいてい後回しなのだ。
 
 我が家の経済主体たる奥様(仮想)におかれましても、雨でぐずぐずになってしまった公共料金の払込票については(巡り巡って人様に迷惑を掛けるので)いたく心配されていらっしゃるものの、僕のオモチャが水浸しになっていようと、それを放置しようと、あまり気にする気配はない。
「好きにすればぁ?」といった感じであり、それよりむしろ「早く庭のいわゆる雑草たちを何とかしてください」と言わんばかりにこちらを見つめてくる。
 
 かなりの圧である。
 
 彼女がかろうじてそれを言い出さないのは、僕が熱中症を恐れていることを知っているからだろう。
 しかしよくよく考えると、2時間もエアコンのない炎天下の車内にいたことが原因だから、外作業なら問題なくこなせる気がする。何を畏れていたのだ。
 
>>>
 
 自分の能力が、かつてに比べて衰えていると感じた最初は24歳の頃だったか。
 
 13歳の頃は単位時間中に思考を巡らせる速度が圧倒的だったし、17歳の頃のゲームデザインにおけるバランス感覚は自分でも驚くほどだった。
 たとえばジグソウパズルのピースを、一枚絵からではなく、それぞれのピースごとに切り出して組み合わせたにも関わらず、それぞれが隙間も歪みもなく、ぴたりと嵌まるような感じで、根幹のシステムから例外処理に至るまで、想像する範囲で十分なリアリティを持つ数式を組み立てられたのだ。
 
 衰え、磨り減り、摩耗して死ぬことは10歳の時から分かっていた。
 死ぬということは単に生と決別することではなく、ようやくと生かしている自身をしてもそれを維持できなくなるということだ。
 飛行機に喩えると、飛行中に墜落するなんてケースは稀で、通常は着陸するわけだ。
 しかし人間を含めた多くの生物にとって、自身の設定した目的地に正しく着陸できるケースは稀だ。ほとんど不可能といっていい。
 もちろん知能レベルのさほど高くない多くの動物にとっては、生きることがそのまま生きる目的だから「ただ飛べばいい」「ずっと飛んでいればいい」という目的になるだろう。
 
 一方で人間の場合、生きることは手段に過ぎない。(そうでもない人もいるようだが)
 どんな下賤な目的や欲だったとしても、いやむしろ下賤で動物的だからこそ、それはそのまま生きる気力や能力として強く発露するだろうと想像される。
 
 いずれにしても産まれたときから生きることを拒否するような肉体で発生したためか、僕の思考はあまり長く生きることを好んでいない。
 母親から授乳された母乳に対してアレルギィを起こすことに始まり(今までの人生で、僕以外に見聞きしたことがない)、外界との境界面である皮膚粘膜は弱く、常に食欲がなく、たびたび貧血を起こし、骨格だけは縦に伸びるのに、筋肉の発達がどうにもならない、野生動物だったら早々に死んでいたようなイキモノだった。
 
 周囲の男友達は身体能力に優れ、また思春期ともなれば食欲や性欲も圧倒的だったので「ああ、オトコというのはこういうものか」と、それぞれの特性を床に転がる雑巾でも眺めるように思ったものだ。
 もっともそれらは多く必然に相関性のあることではあったし、程度の差こそあれ、僕にもやがて(苦痛とともに)訪れたのではあるが。
 
>>>
 
 23歳で一人暮らしを始め、24歳で久しぶりにPCを手に入れ ── 僕は13歳から、つまりは現在から遡ること35年ほど前からコンピュータを使っている(正確には12歳の春からなので35年だが) ── これで再び新しくゲームをデザインできる、と喜んだのも束の間、自分の能力が枯渇していることを知った。
 特定の現象をシミュレートするとき、事象に含まれる思い付く限りの要素をパラメータ(変数)化し、それぞれのパラメータの適正範囲をイメージし、相関性を乱数も織り交ぜて数式化する。
 
 それがかつてのように、瞬時に思い描くことができなくなってしまっていた。
 ゲームデザインと聞いて、人が何を想像するかは知らないが、僕にとってはルールを作ることであり、その根幹は乱数を取り入れた数式とパラメータの集合と例外処理のルール化(定型化)である。
 
 それがいくら考えても空白部分が思い浮かばない。
 今思えば空白部分があることが分かるだけ「まし」だった ── 今ならもれなく空白部分があることさえ気付かない ── のだが、現象を抽象し、概念化させてパラメータを当てはめ、それぞれのパラメータの概念系における相関性から数式を考えるはずが、まったく上手くいかない。
 想像しているのに、想像もつかない部分が発生してしまって、それをうまく処理できない。
 
 ああ。ここまでなんだ。
 そう思って以降、僕はゲームデザインをやめ、ただのゲームプレイヤに成り下がった。
 
 ひと晩でもない、数時間、あるいは数分のことだった。
 諦めきれずにズルズルする必要はなかった。
 翼の折れた鳥は、飛ぶ必要がないのだ。
 飛びたいかどうかではない。
 飛べるかどうかであって、飛べない鳥は飛ぶ選択肢を持たず、ために飛ぶ必要はなくなる。
 
>>>
 
 僕の場合、人生の着陸地点は選択的自死であろうと想像していたのだが、ズルズルと高度を落としながらなお生き存えている。
 最近では現実の柵(しがら)みによって、そうそう死ぬわけにも行かなくなり、(主観的には)延命用の仮想人格まで作って現実世界に自分の存在を馴染ませている。
 
 17歳の頃、せめて自分は23歳か27歳には死ぬだろうと思っていた。
 そしてその年齢を過ぎるたび「ああ。俺はこの年齢で死ぬほどの器ではなかったのか」とがっかりしたものだ。
 なぜといって13歳の頃には「17歳には死ぬんじゃないか」と思っていたからだ。
 
 13歳の頃なら1時間程度で書き上げていたような文書を、4時間以上も掛けて書いている。
 ついでに推敲は毎回必要で、表現は徐々に限定的になってしまっている。
 あるいはそれが、最初から本来の姿だったのだろう。
 
>>>
 
 飛行機だって、最初は地上にあって、加速してようやくと離陸することが可能になる。
 燃料を大量消費することで軽量になってゆくから、それはさぞ気持ちの良いものだろうと想像できる。
 
 幸い僕の機体は(今までのところ)墜落することなく、何とかしのいでいるが、能力の劣化はどうしようもない。
 
 偶然と幸運が重なって、競争どころか自身に特有の能力を発露する必要すらない場所に自分自身を運ぶことに成功したけれど、それが幸せかと問われると何ともいえない。
 僕は自分で選んだこの孤独が気に入ってはいるけれど、多くの人は、ここまで極端な孤独に憧れこそすれ耐えられないかもしれないとは思う。なるほど専業主夫(あるいは専業主婦)はある種の孤独な存在なのかもしれない。
 
 実のところ、その子供の頃の記憶が色濃く残っていて、僕は紙と鉛筆があれば、それだけでハッピィになれると今でも思っている。
 
 誰も必要なかった。
 自分のアタマの中に広がる世界を、どこまでも詳細に見つめているだけで、それは抽象され、数値化され、数式化され、相関性を導くことができた。
 特定点で起こる現象を解析し、他の地点で再現することも不可能ではなかった。
 極端な話、自分自身さえ僕には必要がなかった。
 
 その風景、その幸せを、僕は知っている。
 誰かがいなければ、とか、何かがなければ、という風には、なかなか思えないのだ。
 
>>>
 
 おそらく ── そして間違いなく ── 僕は、僕を含む多くのイキモノたちは、時間の経過とともに衰えてゆく。
 一般的にはまだ若く、見ようによっては子供といっても差し支えない20代も前半にして、僕は自分の衰退に絶望すらしたものだ。
 
 あれから比べると、その後のいかなる衰えも、たいしたものではない。
 僕はかつて、ときどき天才だったけれど、ある時を境にときどきでさえも天才ではなくなってしまって、その時点で一度死んでしまったのだ。
 
 若いことが素晴らしいとは、しかしやっぱり思えない。
 
 僕の場合、孤独の苦痛から逃れるために孤独の膜の中で眠り続けていたようなものだろうから。
 恐怖や不安から逃れようと、何も感じない膜で自身を覆っていたから。
 
>>>
 
 不思議なもので、かつてゲームデザインに費やしていた(周囲からすると圧倒的に)無駄な日々と(僕からすれば天才的だった)その能力は、現実世界をデザインすることに使い始めたら驚くほどの具現性を持っていた。
 世界設定をイメージし、特定の現象について解析し、パラメータを抽出し、相関式を導いたように、現実世界を観察して相関式を導き、逆算的に目的とするパラメータを設定し、特定の現象に当てはめて現実世界に還元すると、世界は思った通りに変わるのだ。ちょうオドロキ。
 
「6歳以前」と時間を辿りながら暮らしているのだけれど、彼は今、ちょうど反抗期である。
 同時に苦痛と恐怖の第二次性徴を迎えている頃だろう(オトコになることを、僕たちは恐れていたから)。
 ちなみに僕自身の反抗期は30歳を過ぎてからだったので比較すると早い気もするが、早熟であることは減衰も早いという以外、さほど害もないだろう。
 
>>>
 
 熱中症に関する恐怖を分析し、畏れるには足りぬと判断されたため、昼頃からキャビン内の清掃。
 水を雑巾で吸っては外で絞るという、地味で地道で原始的な作業を繰り返す。
 奥様は水の跳ねる様子をきゃあきゃあ言いながら眺めている。眺めているだけである。
 ちなみにドアは車体後部にあり、キャビンは車体前方が若干低いらしく、水は前方に溜まる(逆ならドアから排水されるのだが)。
 
 冷蔵庫がショートしていなくてよかったとつくづく思うが、あと2センチほども水位が高ければ、ろくに使っていない電気系が原因で、最悪火災や爆発が起こっていたかもしれないと、暑い車内で肝を冷やす。
 はやく対策すれば良かったのだ。
「はやく対策すれば良かったのにね」と奥様(仮想)に言われる。
 そうですね。
 
 車内の清掃が終わったのち、窓枠にパッキンを貼り付ける。
 流入経路が不明瞭なので、どこにどのように貼り付けるのが適切か分からない。
 まぁ、こういうのはやってみてからのお楽しみだと、半ばやけくそ気味に作業をする。
 
 午後になってから散髪に出かける。
 
 思えば白髪が増えている。
 思い出すと父上も、僕くらいの頃はけっこうな白髪交じりだった。
 思い起こすと父上は、いつも死の匂いがしていた。
 
 死臭ではない。
 死の雰囲気というか、面影というか、明るくひょうきんな人格の容れ物が、いつも死に向かっていることを感じさせた。
 
 何のことはない。
 誰も彼も、毎日少しずつ、死に向かっている。
 物心つくよりずっと前から、父上は「死ぬ死ぬ詐欺(医者たちに余命半年だの何だのと宣告されつつ、医療の進歩によってスレスレで存える)」を繰り返していたから、生きている父を見ながら、それに含まれた死を感じていたのだ。
 現在の中に過去があるように、現在の中に未来は含まれている。
 
 子供の頃は父上を殺そうと思っていた時期もあったのだけれど、僕はそれよりずっと父を、あるいはそこに含まれる死を、慕わしく思っていたのだろう。
 
 今この世界で気に入らないことがあるとすれば、奥様(仮想)が不死の存在だということだ、という話はまたいずれ。
 
 
 
 
 
 
 

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[NEXUS]
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[ Randomizer ]

 

 

 

 
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  -Algorithm-Blood-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Interface-Life-Link-Love-Mechanics-Memory-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-JunctionBox-Reactor-Resistor-Transistor-
 
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  -Camouflage-Human-
 
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  :いのちあるものたち:
 
 
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// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:220717
// NOTE:トレンチを使うバイトを探してはいかがでしょうか。
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
できればきれいな背景として。
SUBTITLE:
~ Cinematics. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
220717
 
 行きつけのバーで「バーテンダーになりませんか」と声を掛けられたことがある。
 当時は家も近所にあったし、時々、手伝いに呼ばれることもあった。
 けれど、僕は本能的にそれを断った。
 
 2日ほど飲食店のフロアで働いていて、そのことをつと思い出した。
 
 接客業について、昨今の流れを詳しく知っているわけではない。
 若年層人口が減少し、一般的な庶民の文化レベルが少しずつ低下し続けている昨今にあって、まともな接客サービスがあるまともな飲食店はほとんどなくなったように思う。
 
 だから会社などによくいる、中年/壮年の中途半端な管理職が「昔はこうだったんだよぉ」という自慢にも聞こえかねないような話をこれから書く。興味のない人は読まない方がいいだろう。
 
 
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 飲食店(レストラン/カフェ/居酒屋等々を含む)のウェイタというのは、店の主役でもなければ脇役でもない。背景である。
 時代はジェンダーがどうこうなどと、めんどくせえことで騒いだりするのだが、ウェイタはウェイタであり、ウェイトレスはウェイトレスである。
 
 ベッドでどうこうする関係性は全くない ── 性差というのはベッドの上でどうこうするための識別子だと書いたことがある。セックスするでもないのに性別を過剰に意識するのは(それが自意識であっても)むしろ動物的だ、という内容である ── のだが、男女の肉体的な差違は傾向として顕著なので性差が発生するし、それを認識して然るべきだと僕は思っている。
 
 僕はかなり有能な上司に恵まれる傾向があり、ウェイタとしてもかなり優秀な教育を受けたように思う。
 なぜといって、どの店で働いてもおよそ問題がないからだ。
 むしろホスピタリティが過剰なため、「それを業務としてしないでほしい」と制止されることがあるほどだ。
 
 テーブル番号を覚え、スタッフのドレスコードを満たしてしまえば、今の時代はフードやドリンクの名前をろくに覚えていなくてもどうにかなるシステムが出来上がっている。
 手書きオーダの店は少ないし、POSジャーナル(オーダ情報が印字された感熱紙のビラ)に収まらない商品名も多くはない。
 
 制服をもらって店に行って、テーブル番号を覚えれば、あとは何とかなる。
 潰しが効くというと少々意味は違うが、接客業につけても、トップクラスの教育を受けるのは大切なことだといえる。
 
 それならバーテンダーをしたって良さそうなものだ。どうせあなたは酒が好きだろう、と思う読者もいるかもしれない(そもそも誰も読んでいないかもしれないが「青猫様が書いたものなら何でも読んじゃうワン」というタイプのキュートなガールがまったく存在しないとも限らないので書き続ける)。
 その通り、僕はお酒が好きだし、まったく知らない人よりほんの少し、お酒の知識もある。
 身長が高いから指も長いし、スーツも似合うから、バーテンダーの所作ができるようになればそれだけで見栄えはするだろう。
 
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 ちなみにバーテンダーは醜男であっても遜色なく格好良く見える職業のひとつだと思う。
 立ち居振る舞い、とくに手の表情が豊かで美しければ、顔なんかどうでも良くなってしまう、ギタリストのような職業ではないだろうか。勝手なことを書いているとギタリストとバーテンダーの両方から訴えられそうな気もするが。
 
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 言葉遣いは丁寧で、物腰も柔らかく、ゲストの機微をそれとなく察してサービスを提供できる ── どこかで「ちょっとエアコンが寒いね」と聞こえれば、呼ばれる前にそのエリアの空調を少し調整して膝掛けを持って行くくらいのことはする。
 
 自覚できる適性もあるのにバーテンダーを断ったのは、つまるところ、僕は背景でいたいからだ。
 
 僕の中ではどうやら接客における哲学があって「お客様が主役」というのを崩したくないのだ。
 バーを始めとする酒類提供店においても同様で、お客様が主役でいてほしい ── 主役としての体裁風格資質の如何を問わず、店に足を踏み込むとき、その程度の自覚を持っていてほしい。そうでない場合が往々にしてあるものの。
 
 バーテンダーは背景であることももちろんだが、独りの酔客に対してはお酒のお供としてお話しに付き合うこともある、そして何よりお酒(ことカクテル)を作っている最中は、主役になってしまう。
 どれだけ背景に徹しようとしても、あるいは徹底して背景になれるほどの自然な所作ができるとしても、カクテルという非日常の飲み物を、バーという非日常の空間で作ってしまうとき、少なくとも最初は目立ってしまう。
 
 たとえばカラオケで、上手すぎてBGMになってしまう人がいるが、ああいうくらい自然になれれば問題はない。
 しかしカラオケボックスは日常感が満載だが、バーは ── 慣れない人には ── 非日常である(何より、ああいう場所が日常にならない、つまりは非日常として捉えていられるままの人生を送る方がいいと思うが)。
 
 もちろんウェイタだって目立つ。
 所作が綺麗で立ち居振る舞いに不快を感じさせず、普段は目立たないのに明確な存在感を発揮する ── ボトルワインや大皿料理をトレンチ(西洋丸盆)ひとつで運ぶときは、移動中の事故を防ぎ、テーブルのお客様を(少し)目立たせるため、いつもより2割くらい、目立つように振る舞う ── こともある。
 
 トレンチさばき一つとっても、お皿をうずたかく積み重ね、身体の横、腰の位置から正面、肩の上へと、テーブル間の狭い通路を機敏に通りながら動かすバランスは見る者にとって珍しくもあり、美しくもあるだろう(「主役はイヤだ」という感覚に矛盾しているが、だいたいあれはショーマンシップでしている)
 
>>>
 
 とはいえそういう由緒正しい(つまりはおそらく時代遅れの)ウェイタ/ウェイトレスがいて、リーズナブルな飲食店というものがなくなってしまった。
 
 僕が教育を受けた店は、都会の高級レストランなどではない。
 お客様のドレスコードもないし、客単価も千円から(酔客で)3000円程度の ── 少なくともお高くはない ── 店である。
 
 群馬という辺鄙な土地で、例によって大盛りのパスタ ── 群馬のパスタは基本的に量が大盛りなのが主流である ── を提供するような、ファミレスに近い店舗である。
 一般的なスパゲティ(1人前 ── 2人前に近い量である)を800円前後で提供していたから、客層はファミリィを中心に学生も多く、アイドルタイム(ランチ終わりからディナー始まりまでの休憩時間)がないので、ティータイムに利用するマダムたちも存在した。
 
「正しい接客はお客様を育てる」というのが、僕の上司のポリシィだったように思う。
 事実、品の悪いお客様を何度かつまみ出していたけれど、それも含めて接客である。
 
 疫病の流行っている昨今にあっては、機械でオーダするのもやむを得ないと思うし、機械が運んでくるのも仕方ないとは思う。
 
 それでも自分がお客様の立場のとき、どこかに必ず人がいて、その人が自分のためにサービスをしてくれているという事実を忘れてしまっている人もときにいるようだ。
 そうした人たちが、ちやほやされたことがなかったためにそうなったのか、ちやほやされてばかりいてそうなったのかは分からない。
 
 サービスを機械任せにするうちに、人間が機械になっているようで、だからそういう「人間の居ない店」に僕は行かない。
 アナクロかもしれないのだが、人間にしかできないサービス(ホスピタリティ)があって、そこには(たとえば先のエアコンのような心配りには)値段が付いていないのだ。
 お子様のお誕生日に、機械でオーダして機械的に運ばれるディナでお祝いするのが悪いことだとは思わない。
(大人になるまで、満足にお祝いされたことのない子供だって居るのだ)
 しかし見ず知らずの誰かにまでお祝いしてもらえるような経験をする人は、もはや稀有ではないだろうか。
 
>>>
 
 僕のしたい接客というのはそういうもので、効率化が進んだ現代においてそれを提供する店も少なく、また求められてもいないのだろう。
 
 トレンチに ── びっしりというほどでもなく ── 並べたジョッキの重さにさえ悲鳴を上げながら(昔はこうじゃなかったなぁ)と己の体幹の衰えを思い知らされる
 
 ビジネスである以上、効率も大事だ。
 しかし節電警報でもないのに、やたらと空調や照明で節約しようとしたり、果てには食洗機の設定温度や洗剤流量、水道の使い方まで「ご指導」くださるタイプの店もあって、経営姿勢を疑う。
 
 こと食洗機は「人間がラクをするため」の道具である。
 人間がラクをすると、人間には時間ができるのだ。
 下洗いをしたり、水道をこまめに締めたりするのが悪いとは言わないが、食洗機に放り込むだけで食器がきちんと洗われるようにすれば「お皿と食洗機にサービスする時間」を「お客様にサービスする時間」に変えられる。
 
 まぁ僕は飲食店経営者ではないから偉そうなことはいえないが、人間の値段が本来はいちばん高く設定されていてしかるべきはずで、そうではない店を見るにつけ、お客様を人ではなく財布として見ているのだろうと微苦笑してしまう。
 
 安いモノを買ってばかりいると自身を安く見積もる結果に繋がるのと同じ理屈で、結局、人のカタチをした別物が増えてしまうのではないだろうか。
 
 せめてたまには「ちょっと特別な外食」のできる店が、もう少し増えてもいいのではないかと思う。
 
<在りし日の4匹。なぜお尻を合わせていたのか不明>
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
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[ Randomizer ]
 
 
 
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[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:
 
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220716

 

 学生バイトが、テストやら何やらで足りないらしく、数日前に頼まれた居酒屋バイト。

 あいにくスケジュールが丸空きのときに限って頼まれる不思議。

 いや、土日はなるべく外出したくないから、予定を入れない傾向がある。

 それにそもそも予定が少ない(少なすぎてスケジュール帳が要らなくなった)。

 結果としては必然なのかもしれない。

 

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 当然ながら、エアコンのある自動車で向かう90分(平日の場合、帰宅ラッシュにぶつかるので120分掛かる)。

 トラックで熱中症に罹ったことが懐かしい。そして奥様(仮想)のドヤ顔。

 ええ、まぁ、奥様(仮想)にご指摘いただき、かつ、買っていただいたおかげで、熱中症に罹ることなく出勤できるわけですけれども。

 2時間て。

 埼玉とか横浜のベッドタウンから通勤しているエリートサラリーマンなの〜? って思ってしまうが僕は無職である。

 実に1年以上のブランク。

 

 1年ぶりなので、ドリンク類の名称とレシピの4割を忘れ、3人の社員のうち1人の名前を、入店まで思い出せなかった。

「363連休ほどいただきました。ありがとうございます」と言いながら準備をするも、今回から僕はタイムカードを押す必要がなくなり、当日現金払いというイレギュラな対応をいただくことになった。

 

 というのも前回(いつだか思い出せない)のとき、2〜3日出勤したものの、いつもどおり駐車場代金を精算しない ── 指定されている有料駐車場の領収証を持って精算できるのだが、僕は滅多に出勤しないため、精算するタイミングがない ── どころか、給与を取りに行くのが面倒なので、僕に声を掛ける店長に「僕の代わりに受け取って、代わりに使っておいてください」と言って、使ってもらったのだ。

 

 今回も間違いなく店長のお小遣いになるはずだったのだが、店長が社長に進言したのか、タイムカードレスの日当制に変わったという様子。もちろん僕だけだろう。むしろ申し訳ない。

 

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 外食に出かける場合、人が対応してくれる店にしか行かないので、ブランクがあっても基本的な対応は問題がない。

 普段の言葉遣いも「丁寧すぎて慇懃無礼」と、婚約した恋人から愚弄されたほどである。

 ちなみに奥様(仮想)のモデルになった、かつての(別の)恋人は、とても丁寧な言葉遣いをして(僕のほうが年下なのだが「猫様」と、敬称付きで呼びかけて)くださっていたので「まぁ、基準は人それぞれだよね」と考えるに留めている。

 

 それでも20代後半くらいまでは「かしこまりました」とか「承ります」とか「恐れ入ります」という言葉がすらすらとは出てこなくて、けっこう練習した。

 ひとりのときに口を動かして練習したりもしたし、頭の中で「あのシーンはかしこまりました、だな」とか復習をしたり。

 

 僕に限ってかは知らないが、慣れないと、うまく言葉を出せない。

 頭の中であれ、独りごちるときに敬語を使うこともたびたびあるため、奥様(仮想)が敬語になってしまうことが多いのだ。

 まぁ奥様(仮想)は我が家の経済主体なので、尚更なのだけれど。

 

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 久しぶりの割に、ホールのバイトがもう一人居てくれたので、難も苦もなく終わる。

 ドリンクのレシピなど、覚えても仕方ないこと ── 次回の出勤が数ヶ月以内にあるわけでも、あってほしいわけでもない ── なので、可能な限り覚える必要のある仕事は他の人に任せ、自然にできること(ハンディPOSの操作だとか、フード/ドリンクの提供など)をしていた。それでも「来てくれて助かった」と言ってもらえるのでまぁ楽しめる。

 

 

 

 ひと言「来なくていいよ」と、せめて言ってくれたらいいのになぁ、と毎回思うのだけれど。

 大人ってむつかしいね(ここ笑うところです)。

 

 

 

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// TimeLine:220709
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
現行システムの限界と美しさについて。
SUBTITLE:
~ Beauty and beast. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
220709
【来客】
 ひょんなことで知り合った営業職の男性がやってくる。半分は遊びである。
 僕も営業職をしていたので「お金にならない訪問先」のありがたみはよく知っている。
 もちろん利益を生み出す機会を与えてくれる顧客がありがたくないわけではない。
 しかしビジネスをしていて「おカネおカネ」と数字勘定ばかりしていると、やはり疲れてくる。
 
 そういうとき、遊びに行けばお茶を出してもらえて、些細な世間話に花を咲かせられる場所が、自分の所属している組織ではない場所にある ── つまり砂漠を旅する営業職にとってのオアシスのような存在なのだ。
 
 なぜといって利益を生み出す機会にあっては、ビジネスマンたるもの仕事の話に終始してしまう。
 顧客が商品やサービスを求めていればこそ、それ以外のコミュニケーションは必然に少なくなってしまう。
 お金に関係しない情報のやり取りがあって初めて、それぞれの人となりが分かり、つまりは心地よい人なのか、善人なのか、居心地悪い相手なのか、悪人なのかを判断できるのだ。
 
 僕は「お金をもらっても貴方のためには働きたくない」と思ったら最後、何もしなくなる傾向が徹頭徹尾あるので「対価をもらうから我慢しよう」という大人げが少ない。
 敬意を払うに値しない対象など、視界に収めるのも厭なのだ。
(だから無職になるし、嫁も居ない ── とはいえ仕事も家族も、なくて暮らせるならその方が理想的だと思っているので、不満もない。つまり非常に満足している。仮想奥様は有能な上に優しくて可愛いし、飼い猫は思いやりがあって可愛いし、機械装置は甲斐甲斐しく働いて有能で可愛いし)
 
 経済至上主義の弊害とはつまり、人間を見失うことである。
 功罪のうちの功の部分は、日本が物質的に豊かになった、ということだ。
 
 食べるものさえ物質的に存在しなかった時代があって、その時代にあって人々は、腹を下すと分かっていても野草を囓ったりして飢えをしのいだと聞く。
 僕のように空腹に慣れている者には想像もつかないが、周囲を観察していても、空腹が何より耐えがたいという人はいる。
 
 飢え痩せ衰えるという肉体的/動物的/本能的危機感や恐怖、どうやっても食糧が手に入らない不安や絶望や無力感については、確かに ── 眠り続けて栄養失調になった経験から ── 想像するに、我々のすべてがイキモノである以上、なかなか軽視できるものでもないのだろう。
 
 そうした「本能的危機/恐怖/不安」をなくすべく集団が形成され、社会が構成されたはずで、一部の権力者がそれを握っていた時代に比べれば、多くの人が本能的にも安心して、恐れることなく、誰かのために役に立ったり、何か新しくて楽しいことをしたいと思えるような基盤ができたといえる。
 経済は確かに、そういう社会を作った。
 
 しかし経済至上の価値観が醸成され、やがて席巻するうち、物質が目の前にあるのに飢えるしかない時代になってしまった。
 作る側だって経済ありきなので、タダでくれてやるわけにもいかない。どんなに「世のため社会のため。人命は何よりも尊い」と表向きに謳っていても、お金を持っていない飢えた人を見殺しにしなければ事業が存続できない。
 
 内包する弱者を助けなければならないはずの社会さえも「弱者の線引き」がうまくできず「弱者のフリをする怠け者」を憎悪する者が現れて分断が進む。
 結果として「弱者になること」そのものが悪だと断定する価値観まで生まれる始末で、すなわちそれは社会という存在意義の否定のようにさえ思える。
 
 幸福だったはずの社会は、いつの間にか応力や摩擦でエナジィを損耗し、機能を損ない続けているように観察される。
 部品の劣化がとくに酷いと感じる。
 経年劣化、つまりは高齢化社会になったために、社会という装置の働きが悪くなった、という意味ではない。
 新品の部品であっても、その精度が悪い。粗悪品が増えたように観察される。
 これは個々人の能力が低下した部分もあるだろう。
 
>>>
 
 僕は昔から漫画雑誌を読む社会人を無能と断じている。
 漫画そのものが悪いとは思わないし、漫画雑誌が悪いとも思っていない。
 娯楽として愉しむぶんには誰がどこで何を読もうが文句を言う筋でもないだろう。
(実際、僕はエロ本だろうが官能小説だろうが漫画だろうがゴシップ誌だろうが、自分以外の誰かの書いた文書の載っている書物を読むことを「良いこと」と考えている)
 
 しかし通勤途中や勤務日の休憩時間に、漫画雑誌を読むような成人は、結局その程度の仕事しかしない。
 活字を読め、紙媒体こそ至高、ビジネス書や自己啓発書を読め、とまでは言わないが、自身の仕事の質(給与の高さではない)を上げる意識はないのだろうか。つまり生活の根底に「誰かの役に立とう」という気持ちはないのだろうか。
 誰かの役に立ちたいというなら「今よりもっと」と思うことはないのだろうか。
 それは社会的な観点から考えると、もっとも崇高な欲だと僕は思う(養っている家族も居ないのにな(笑))。
 
 いやそんな社会なんて大それたものでなくていい。
 目の前の仕事が、せめてもっと楽になるように工夫しようと考えたりはしないのだろうか。
 顧客の、上司の、同僚の、最低でも自分自身の役に立とう、立ちたいとは思わないのだろうか。
 
 結果的にそうした「自分さえ良ければ/楽ができれば/損をしなければ」という文化が出来上がってしまった。
「他人に対してむやみに施しを与えるわけにはいかない」という価値観は「怠け者を作らない」という点においても集団にとっては非常に有用で、必須と言ってもいいだろう。
 一方で「施しはしないが自立の手段を一緒に考え一助となる」といった価値観がなければ、社会は衰退する。
 集団は ── その善悪に関わらず ── 弱者を強者が食い潰す行動を増長するからだ。
 
 安いモノを買うことは自分自身の値段を下げることだと僕は昔から書いていた。
 購買行為において「自分が損をしない」ことは企業が吸収していた部分で、結果的に社会は安物を作って消費者の価値観を堕落させ、消費者たる従業員の価値を高めることができなかった。
 
 今頃になって社会は「値上げも仕方ない」となったけれど、人々の就労賃金が上がるのはもっと先だから、社会はもっと殺伐とする可能性もある。
 すべて政治のせいとは思わないが、この社会に属している一般的な人間は、僕が思っていたより、僕が期待していたより、阿呆が多い(端的な直喩についてはこの場を借りてお詫び申し上げます)。
 
 各企業が価格競争をしている段階で「こんな流れで競争をさせて安いモノを買ってはいけない」と思う人が少なかったのかと思う。
 いや観察の範囲では「安いんだからそれでいい」という人が圧倒的多数だったのは事実だ。
 もちろん僕だって買い物に出かけて、158円の国産生姜の隣に98円の中国産生姜が(なお重量比で数倍して)置いてあれば、やはり安い方を買ってしまう。
 
 ただその「安さの根底にあって見えない部分」を考えないことの愚かさについてはいかんともしがたく、しかし日々を ── 優雅にとまでは行かなくても ── 余裕のないままに送ることの危険性は感じていた。
 まぁ、余裕がなさ過ぎてガスや電気が止まることもあったわけだけれど。
 目先のこと、自分のこと、そういったことばかりにかまける人間が多くなれば、文化は粗野になり、社会は衰退してゆく。
 
 現行の社会システムは、そもそも、現行のままでシステムをより良く改変するだけの自己改変機能を持っていない気がする。
 とはいえ以前、弟子を革命家にしてレジスタンス組織を作らせようと思いついたのに、本人はまったくその気がないどころか「猫さんが中年革命家としてYouTuberになればいいじゃないですか」なんて返してくる始末でどうにもならない。イヤだよ失敗して吊し上げられて断首されて晒し首になって一族郎党皆殺しにされるのは俺じゃなくてお前の方がいいよ。と言ったら怒られたっけ(遠い目)。
 
 一般に、現行社会では「民主主義の骨子」と錯覚されている選挙制度だって、まともに機能しているとは思えないのだ。
(民主政治は選挙制度によって実現しているのではない。民主政治を実現するのに一番手軽で、その時点では現実的だったのが選挙制度だっただけである。選挙制度なくして民主政治は成り立たない ── 選挙があるから民主政治が行われている ── と考えること自体、すでに前時代的ではないだろうか)
 
>>>
 
 こうした社会やそのメカニズムについての考察は、漫画雑誌を読むだけでは到達できないようだ。
 人間ドラマや冒険譚、大いに結構。
 しかし誰かを助け、誰かの役に立とうとするときに、ファンタジィやヒロイズム、ロマンスだけで解決できる範囲は限定的だ。
 
 お金にならない話をすることが「よりよいお金」を産む種になることもある。
 近視眼的な価値観は最終的に自身の首を絞めるだけだと、せめてそのくらいは思い出してほしい。
 諺でいうと「情けは人のためならず」だろうか、それとも「風が吹けば桶屋が儲かる」だろうか。いや「知らぬが仏」かもしれないが。
 
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 夕刻、妹と姪が遊びに来る。
 高校生になった姪はアルバイトを始めることになったのだが、送迎は妹がすることになっているようだ。
 まぁ女の子だとなおさら、夜に一人での帰宅を心配するのは必然だろう。
 当然ながら初めての接客業なので「いらっしゃいませ」と言うのが恥ずかしいらしい。
 言われてみれば、僕も最初の頃はそうだった。
 今ではフリーランスの接客バイト(100人単位の宴席にも対応)が可能だが、こんなことは自慢にはならない。
 
 妹が校内有数の美少女だったからか(旦那様もかなりいい顔である)、姪もそれなりに美少女である。まぁ、それなり(笑)だが、本人に言ったら絶対(僕が)笑ってしまうので言わない。
 美人の姪といえば、通院などの介護で出かける次姉の娘(30代だったか)が途方もなく美形である。
 しかし残念なことに ── 彼女の両親の離婚のゴタゴタに巻き込まれる形で、義務教育の最中にも関わらず不就学期間があり ── 驚くくらい頭が悪いので非常に残念である。
 
 頭の良い(知識量ではなく知能と情操に秀でている)美形の人は、老若男女問わず素晴らしいと思う。
 なんだ天は二物を与えるのかこのやろーもっとやれ!という気持ちになる。
 
>>>
 
 僕は過度でなければルッキズムも悪くないと思っている(ときどき書いている)が、見た目が良いことが至高だと思っているわけではなく、見た目も良い方がいいし頭もいい方がいいし心持ちも優しい方がいいという当たり前のことを当たり前に思っているだけである。
 自分自身が醜男なのに、そういうのはどうなのかと非難する向きがあったとしても不思議はない。
 しかし不味い米より美味しい米を食べれば美味しいものだし、筋張っているより程よく脂が乗って程よく発達した筋肉の肉や魚が美味しい。
 
 個人の美醜の概念を一般論化するつもりもないし、一般論化が可能なセンスだとも思っていない ── 一般論から個別の価値観に還元可能とも思っていない ── から「流行」という存在にも懐疑的だし、自分の美醜の概念を流行で変容させる気もない。
 アンチルッキズムのレジスタンス活動として「ナチュラルな肉体」をSNSに上げる人もいるようだ。
 それはそれで流行になっている概念に対する活動として間違っていないのだろうが、個人的には美しかろうと醜かろうと、誇示するという行為によって、美しさからは離れてしまうと感じる。
 
 たとえば草花も、そこに生え、育ち、咲き、散り、実り、枯れてゆくそれぞれの場面に、初々しさや、溌剌とした空気や、憂いや、侘しさまでがあるわけで、それぞれがそれぞれに良いものだと僕は感じる。
 確かに散って変色した花より、開きかける蕾のほうが綺麗かもしれないが、散って乾くばかりの花弁の哀れもまたぐっと心を惹き付ける味わいがある。
 
 それも立派な美しさだ。
 色カタチが整っていることが美しさなのではなくて、強く心を惹き付けられることが美しさなのだ。
 だから醜さの中にも美しさは存在する。
 
 しかしその「美しさ」を誰かが育て、挙げ句に「見なさい見なさい、これを見て味わいなさい」と、躍起になって見ることを強要されるとき、その意志のためにすべてが醜く感じられる。
 それは醜い醜さだ。
 まぁSNSで衆人環視されることにヨロコビを見出している人たちには理解できない感覚なのかなぁ、と思ったりはするが。
<見なさい。そして悶絶しなさい>
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Engineering-Eternal-Form-Life-Link-Love-Mechanics-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-
 
[Object]
  -Book-Fashion-Human-Memory-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :いのちあるものたち:ひとになったゆめをみる:
 
 
//EOF