210927

 

 早朝、眠りに就いて、午前中、目覚める。

 書斎の書架エリアの壁面処理を進める。

 

>>>

 

 また Evernote がバージョンアップして、端末アプリもWebアプリもアクセス不能になった。

 スタンドアロンでないアプリなんて、何の意味があるのやら。

 都合よく、ルータが Synology 製であり、NASも同メーカで構築しようと思っている(若干値は張るし、ルータの wi-fi 規格が最先端から一つは遅れているものの、ルータ依存でのシステム構築は避けられないような)ので、NASに付属するアプリケーションを利用しようと決定する。

 Synology の wi-fi ルータは前述の通り安くはないし、性能も最先端とは言い難い。

 しかし管理ソフトの盤石さは、ドライバとファームウェア程度しか提供していないような他の(多く廉価なモデルを販売している)メーカでは足元にも及ばない。

 
 いずれにしても Evernote がアップデートのたびにこれでは(単なるテキストエディタとして使っているだけなのに)僕にはすこぶる不便で、当然、課金する必要も(残念ながら)なく、まして不具合ばかりとあっては使い続ける価値すら毎回疑うことになる。
 
 NASと併せて書架を買おうと思っている。
 書架を設定する壁面の修繕も、到着前後に完了する予定だ。
 
>>>
 
 僕は自動化の仕組みを作ることが得意だし好きなようだ。
 可能な限り僕自身の入力を省力化し、与えられた条件によって自動的に出力が決定されるような(あるいは出力までほとんど手をかけずに行われるような)仕組みを作ることが得意なのだろう。
 なぜといって僕は極度の面倒くさがりで、ラクをするためなら手間を惜しまない。
 
 10の工数を必要とする作業について、1の工数で済むようになるなら ── だいたいそこまで理想的な結果は得られないが ── 100〜1000の工数をかけて、仕組みを作るのが僕の中では常識的である。
 これは周囲からすると必然に、無駄かつ意味不明な行動をしているように観察されるようだ。多くの人は愚直に10の工数を何度でも繰り返し、その速さや正確さをして自身の能力を示すための材料としたがる。
 僕は10の工数が面倒で、1の工数で済むように ── 前述の通りそんなにうまくはいかないが ── 考える。
 会社におけるファクシミリやコピー、文書管理、家事、コミュニケーション、果ては自身のキャラクタ作りにいたるまで、目的に合わせた自動化は可能だ。
 
 しかし家のリフォームというのは、自動化がむつかしい。
 
 僕がこの作業についてまったくの無知で、未経験であることも理由である。
 完成形をイメージし、材料や工法を考え、材料を手配し、作業手順を考えながら試し、実践し(けっこうな頻度で失敗し)、成功と失敗を積み重ねる。
 誰かが「こういうイメージはどうか」という完成予想を提示してくれたりはしないし、材料や工法も、作業手順までも自分で考えて(ときに調べて)実行する。
 なので遅々として作業は進まず、非常に気疲れする。
 経済を媒介にしてリフォームを職業としている専門家に丸投げするでもしないと自動化することはなさそうだ。
 
>>>
 
 自動化というのは、行為そのものをバイパスするということだ。
 たとえばお金を払ってリフォームを専門家に依頼すれば ── 自分の想像を超えたものも含めて ── 完成形のパターンをいくつか提示され、そこから選んで支払いをするだけで完成したモデルが手に入る。
 スタートからゴールが、最短で、たいした苦もなく手に入るというわけだ。
 
 そこには明らかな幸せがある。
 時間が短縮され、自分の想像どおり(あるいはそれ以上、ときにそれ以下)の結果が手に入る。
 自動化によって手に入れることのできる最大のものは時間であり、その時間を何に使うのかが制御者の本質であり真に腕の見せどころとなるように思える。
 
 一方、自動化しないことは時間の浪費であり、ときに単なる無駄にすらなる。
 
 ただ、最近になって思うのだ。
 無駄は、果たしてそんなに無駄だろうかと。
 急がば回れという俚諺もある。大器は晩に成るともいう。
 それに人間の親しさとは、いかに無駄な時間を一緒に過ごすことができたかに掛かるような気がする。
 
 だから人間は多く、若い頃に強い信頼によって繋がる友人や恋人を作ることができ、齢を重ねるにつれそれが困難になる。
 なぜといって、若い頃は残りの時間を考えるともないから、今過ごしている時間がどれほど無駄なことかなどとは考えもしない一方、アタマの硬くなった大人たちときたら損得勘定ばかり上手くなって、時間や金を無駄に使うなど愚の骨頂だと信じて疑わない。
 もちろんその価値観はそれで正しいのだけれど、無駄を忌避することが結果的に、意味を消失させることがあるのだ。
 
 これはたとえばゲームにも当てはまる。
 攻略に関する情報にアクセスし、高効率にゲームをプレイし、すべてのコンテンツにアクセスし、あるいは最短時間でクリアしたとして、それは結果的に自分以外の誰かがしたことに同義であり、あるいは自分以外の誰かにさせられたことと変わらないのだ。
 
 すなわち効率ばかりを求め、無駄を嫌い、一般に(あるいは他人にとっての)価値を持たないことに意味を見い出せないことは、誰かの決めた価値観で生きていることに等しい。
 
 なるほどそこに無駄はなかろう。それはそれで、ひとつの幸せのカタチなのだ。だから余った時間を有意義に使えばいい。
 無駄であったならそれはそれで、ひとつの幸せのカタチなのだ。その無駄を楽しむ心を、できれば忘れずにいられたらと思う。