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// NOTE:背中が痒くて我慢できなくなりました。
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TITLE:
成人社会病の顛末。
SUBTITLE:
〜 Tentional hunchback. 〜
Written by BlueCat
Written by BlueCat
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::お前が周囲の男にチヤホヤされるのはお前ではなくお前の卵子に価値があるからだ。
世の中に精子は無数に存在するが卵子の数は限られている…【単純に数の問題で】生物界ではメスの方がチヤホヤされるのだ。
それをお前みたいな脳みそ空室だらけの量産型ぴえんがむやみやたらと卵子をばら撒いたんじゃこちとら商売あがったりだ。
::お前が周囲の男にチヤホヤされるのはお前ではなくお前の卵子に価値があるからだ。
世の中に精子は無数に存在するが卵子の数は限られている…【単純に数の問題で】生物界ではメスの方がチヤホヤされるのだ。
それをお前みたいな脳みそ空室だらけの量産型ぴえんがむやみやたらと卵子をばら撒いたんじゃこちとら商売あがったりだ。
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//[List]
//[Body]
※ いきなりですが今回はセックスの話が中心になります。興味のない方、苦手な方は引き返してください。
【肉食系女子】
数日前、姉の通院の際、セックスの話題になる。
「猫君は現在パートナーがいないと認識しているけれど、性的なこと(肉体カンケー、もしくはセックス)の欲は発生しないのか。発生する場合、どのように消化するのか」という話になったため。
妹はあまりセックスの話をしない(観察の範囲では日本人に多い認知バイアスを持っている)ため娘の性教育についても頭を悩ませていた様子であるが、姉は男性の性文化についての情報を確認するのにあたって、最も手近なサンプルとして昔から僕に質問することがある。
僕自身は質問されればセックスについてもあけすけに話すことができるし、他の男たちの性文化についての知見もあるから ── サンプルとしての一般性(普遍性)には欠けるが、手近なチャンネルにとして扱うには ── ちょうどよいのだろう。
ちなみに姉は障害者になって久しいので、パートナーはいるが肉体カンケーはほぼないものと認識している(興味がないので確認はしたことがないものの、相手の男性も相応の年齢であり、そもそも双方とも性的なことに関心が薄いという話は聞いている)。
一方で姉の属しているいくつかのコミュニティには、いわゆる肉食系の女子が一定の割合で存在し、そうした女性はセックスに対する貪欲さについて一般に認識される男性顔負けの部分もあるどころか、ときに男性のフィジカルな性機能についてあれこれ下世話に語っているのだという。
妹はあまりセックスの話をしない(観察の範囲では日本人に多い認知バイアスを持っている)ため娘の性教育についても頭を悩ませていた様子であるが、姉は男性の性文化についての情報を確認するのにあたって、最も手近なサンプルとして昔から僕に質問することがある。
僕自身は質問されればセックスについてもあけすけに話すことができるし、他の男たちの性文化についての知見もあるから ── サンプルとしての一般性(普遍性)には欠けるが、手近なチャンネルにとして扱うには ── ちょうどよいのだろう。
ちなみに姉は障害者になって久しいので、パートナーはいるが肉体カンケーはほぼないものと認識している(興味がないので確認はしたことがないものの、相手の男性も相応の年齢であり、そもそも双方とも性的なことに関心が薄いという話は聞いている)。
一方で姉の属しているいくつかのコミュニティには、いわゆる肉食系の女子が一定の割合で存在し、そうした女性はセックスに対する貪欲さについて一般に認識される男性顔負けの部分もあるどころか、ときに男性のフィジカルな性機能についてあれこれ下世話に語っているのだという。
(対して姉はそもそもの価値観が異なるため、そうした話題による疲弊を蓄積しているらしい)
僕の観察の範囲では、一般に男たちが女のセックスについての評価を語るとき、多くはフィジカル(肉体的)機能そのものよりも雰囲気や服装、顔や姿態の美しさについて語ることが多い(これは観察者が僕だから ── それに合わせて話題が選択されている ── という可能性も否定できないが)。
体位や回数は自身の肉体能力も関連する部分だが、相手の身体機能(骨格や筋肉の柔軟性や表皮粘膜の性感閾値、粘膜の粘液分泌特性、膣周辺筋の発達や能力)そのものに関する「ごくフィジカルな情報」に関しては一定の年代(およそ20代後半から30代前半にかけて)を境に多くの男たちが語らなくなった(観察者の影響により情報の表出に偏りが発生する可能性は、以下すべての記述について同様に存在することをあらかじめ断っておく)。
セックスに貪欲な男たちがどの程度まで相手のフィジカルを語るのかは(僕がそうしたコミュニティとの接点も、そうした話題に対する興味も持たないため)もはや不明だが、10〜20代の記憶を遡った範囲では、バストやヒップといった「一般に性的とされる部位」に関する個人的嗜好について語られる程度のことが多かった。
端的な例でバストについて挙げるなら「巨乳至上主義」という男は、実のところさほど多いわけではなく、むしろ「薄型バスト」の方が良いという群も一定の割合で見られた(具体的には「大型2:適度3:薄型2:気にしない1:その他2」程度の比率)。
男たちがセックスの話題で女性器(およびそれによってもたらされる性感)について直接言及するケースは全体の1割未満だった。
これは実際にセックスを経験している個体であっても、そこから十分な内省的な部分も含めた知見を蓄積するには至っていない場合が多かったからだろう ── 人間はセックスするにあたって多くの動物同様、ある程度理性を失う傾向があり、ためにセックスにおけるメタ情報(再現性の高い・客観的/俯瞰的情報)の学習曲線は低い傾向にある。
>>>
一般に人間が処理する情報の8割前後が視覚を基準にする、と言われているが、そう考えるとこうした男たちの言及における偏りも理解しやすい。
セックスにおける性感について、視覚情報を伴うものは自身の嗜好性も含め多くの情報が処理されるため、パターンを蓄積しやすい。
一方で皮膚粘膜の感覚については(おそらくそれが性感の主要部分であるにもかかわらず)処理される情報が少ない(と脳が判断するため)パターンが蓄積されず分析も非常に荒くなる。
僕の観察の範囲では、一般に男たちが女のセックスについての評価を語るとき、多くはフィジカル(肉体的)機能そのものよりも雰囲気や服装、顔や姿態の美しさについて語ることが多い(これは観察者が僕だから ── それに合わせて話題が選択されている ── という可能性も否定できないが)。
体位や回数は自身の肉体能力も関連する部分だが、相手の身体機能(骨格や筋肉の柔軟性や表皮粘膜の性感閾値、粘膜の粘液分泌特性、膣周辺筋の発達や能力)そのものに関する「ごくフィジカルな情報」に関しては一定の年代(およそ20代後半から30代前半にかけて)を境に多くの男たちが語らなくなった(観察者の影響により情報の表出に偏りが発生する可能性は、以下すべての記述について同様に存在することをあらかじめ断っておく)。
セックスに貪欲な男たちがどの程度まで相手のフィジカルを語るのかは(僕がそうしたコミュニティとの接点も、そうした話題に対する興味も持たないため)もはや不明だが、10〜20代の記憶を遡った範囲では、バストやヒップといった「一般に性的とされる部位」に関する個人的嗜好について語られる程度のことが多かった。
端的な例でバストについて挙げるなら「巨乳至上主義」という男は、実のところさほど多いわけではなく、むしろ「薄型バスト」の方が良いという群も一定の割合で見られた(具体的には「大型2:適度3:薄型2:気にしない1:その他2」程度の比率)。
男たちがセックスの話題で女性器(およびそれによってもたらされる性感)について直接言及するケースは全体の1割未満だった。
これは実際にセックスを経験している個体であっても、そこから十分な内省的な部分も含めた知見を蓄積するには至っていない場合が多かったからだろう ── 人間はセックスするにあたって多くの動物同様、ある程度理性を失う傾向があり、ためにセックスにおけるメタ情報(再現性の高い・客観的/俯瞰的情報)の学習曲線は低い傾向にある。
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一般に人間が処理する情報の8割前後が視覚を基準にする、と言われているが、そう考えるとこうした男たちの言及における偏りも理解しやすい。
セックスにおける性感について、視覚情報を伴うものは自身の嗜好性も含め多くの情報が処理されるため、パターンを蓄積しやすい。
一方で皮膚粘膜の感覚については(おそらくそれが性感の主要部分であるにもかかわらず)処理される情報が少ない(と脳が判断するため)パターンが蓄積されず分析も非常に荒くなる。
(男たちの多くはセックスにおける心理的内省について、いわずもがな低い傾向がある)
とくにバストの場合は数値化されやすく、触覚刺激だけでなく視覚効果も高いため、たとえば「BカップとDカップでは手のひらの感触が異なる」というように視覚と触覚と数値化されたメタ情報とで組み合わされて処理/記憶される。
一方で膣圧を数値化して把握している女性は非常に少ないだろうし、パートナーのそれを知っている男はさらに極端に少なく、さらに言えば自身がどの程度の膣圧に対してもっとも高い性感を得るか(値が高ければ良いとは限らない)という情報を持っている男は皆無だろうと想像する。
膣圧に関連して視覚効果をもたらす部位としては下腹部周辺の腹筋がそれにあたるが、それによって性的官能が刺激されるという男はさほど多く観察されない(ちなみに僕は昔からドスケベなので、女性のおなかは嗜好する部位である。もっともその視覚情報によって性的官能が刺激されるわけではないが)。
バストよりはヒップの方が下腹部周辺筋の影響を視覚的に確認できると思うが、視覚情報器官(目)に対してバストより遠いという欠点がある(まぁ体位にもよるか)。
そもそも陰茎自体、粘膜なのである程度敏感ではあるが、じつはそれほど繊細な感覚器ではない。
とくにバストの場合は数値化されやすく、触覚刺激だけでなく視覚効果も高いため、たとえば「BカップとDカップでは手のひらの感触が異なる」というように視覚と触覚と数値化されたメタ情報とで組み合わされて処理/記憶される。
一方で膣圧を数値化して把握している女性は非常に少ないだろうし、パートナーのそれを知っている男はさらに極端に少なく、さらに言えば自身がどの程度の膣圧に対してもっとも高い性感を得るか(値が高ければ良いとは限らない)という情報を持っている男は皆無だろうと想像する。
膣圧に関連して視覚効果をもたらす部位としては下腹部周辺の腹筋がそれにあたるが、それによって性的官能が刺激されるという男はさほど多く観察されない(ちなみに僕は昔からドスケベなので、女性のおなかは嗜好する部位である。もっともその視覚情報によって性的官能が刺激されるわけではないが)。
バストよりはヒップの方が下腹部周辺筋の影響を視覚的に確認できると思うが、視覚情報器官(目)に対してバストより遠いという欠点がある(まぁ体位にもよるか)。
そもそも陰茎自体、粘膜なのである程度敏感ではあるが、じつはそれほど繊細な感覚器ではない。
(膣・陰核も同様のメカニズムであろうと想像される。陰嚢表皮は陰唇同等と推定すべきか)
触覚や圧迫に対しては一定以上の感度を示すが、温度や接触対象のテクスチャ(表面質感)認識については指先の方がよほども鋭敏である。
ただ多くの人間は(より繊細な認識が可能なはずの)指先では「性感を感覚できない」個体がほぼすべてであるため、性感をより多く得られる器官である部位からの情報を性感の評価に使っている、というだけである。
結果として男たちは女の身体に対し ── 特に膣内のように数値化が困難で、視覚的情報に乏しい部位になればなるほど ── 「語る言葉を脳が持っていない」という状態になる。
使い古されたポルノ表現だが「具合がいい/悪い」といった、きわめて雑な基準を持つのがやっとなのだ。
>>>
姉が接点を持っているコミュニティは、そもそもセックスが話題の中心にあるようなものではないらしいのだが、いわゆる女子トークの一環で、一定数存在する「そうした話題に熱心な人」が熱く男根(つまり男性器)に対する不満について語るらしい。
陰茎については数値化が比較的容易で、女性にとって性感刺激をもたらす部位としての認識もされやすく、視覚効果も一定以上は担保されるものと思う。ためにパターン蓄積がされやすく「脳がそれを語る言葉を多く持つ」ことになる。
もちろんそれ以外の視覚的刺激をもたらす部位は多く存在し、広く知られるところでは筋肉(形状だけでなくそれによって発生する陰影)や手指の形状、それらの表皮の質感や浮き出る血管のテクスチャに力強さを感じるという意見は昔からある。
しかし男性の身体において、女性に性感をもたらす部位はさほど多くない。性器や手指、舌がせいぜいで、ごく稀に腕や脚(極端な例では足)が含まれる程度だろう。
つまり筋肉や血管の視覚効果やテクスチャは一定の効果をもたらしてはいるが、直接(触感による)性感をもたらさないため「脳がそれを語る言葉を多く持っているわけではない」ことになる。
結果、それらいわゆる肉食系女子たちにより陰茎の、サイズがどうの、硬さがどうの、持続性(おそらく時間や回数によって判定されるのだろう)がどうのと語られる事実に一定の根拠を与える。
彼女たちは自身の受容する性感と、視覚的に把握しやすい陰茎についての情報を相関させて蓄積しているのだ。
触覚や圧迫に対しては一定以上の感度を示すが、温度や接触対象のテクスチャ(表面質感)認識については指先の方がよほども鋭敏である。
ただ多くの人間は(より繊細な認識が可能なはずの)指先では「性感を感覚できない」個体がほぼすべてであるため、性感をより多く得られる器官である部位からの情報を性感の評価に使っている、というだけである。
結果として男たちは女の身体に対し ── 特に膣内のように数値化が困難で、視覚的情報に乏しい部位になればなるほど ── 「語る言葉を脳が持っていない」という状態になる。
使い古されたポルノ表現だが「具合がいい/悪い」といった、きわめて雑な基準を持つのがやっとなのだ。
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姉が接点を持っているコミュニティは、そもそもセックスが話題の中心にあるようなものではないらしいのだが、いわゆる女子トークの一環で、一定数存在する「そうした話題に熱心な人」が熱く男根(つまり男性器)に対する不満について語るらしい。
陰茎については数値化が比較的容易で、女性にとって性感刺激をもたらす部位としての認識もされやすく、視覚効果も一定以上は担保されるものと思う。ためにパターン蓄積がされやすく「脳がそれを語る言葉を多く持つ」ことになる。
もちろんそれ以外の視覚的刺激をもたらす部位は多く存在し、広く知られるところでは筋肉(形状だけでなくそれによって発生する陰影)や手指の形状、それらの表皮の質感や浮き出る血管のテクスチャに力強さを感じるという意見は昔からある。
しかし男性の身体において、女性に性感をもたらす部位はさほど多くない。性器や手指、舌がせいぜいで、ごく稀に腕や脚(極端な例では足)が含まれる程度だろう。
つまり筋肉や血管の視覚効果やテクスチャは一定の効果をもたらしてはいるが、直接(触感による)性感をもたらさないため「脳がそれを語る言葉を多く持っているわけではない」ことになる。
結果、それらいわゆる肉食系女子たちにより陰茎の、サイズがどうの、硬さがどうの、持続性(おそらく時間や回数によって判定されるのだろう)がどうのと語られる事実に一定の根拠を与える。
彼女たちは自身の受容する性感と、視覚的に把握しやすい陰茎についての情報を相関させて蓄積しているのだ。
【僕の性欲の発生経路と知覚メカニズム】
僕自身について語るならこの10年ほどの間、ガール(狭義にいえば恋人ですよ)と一緒に入浴したり肌を合わせた程度のことはあるが、身体を重ねた(性器を使ってセックスした)ことはない。なかったと思う。なかったんじゃないかな。
性欲がまったくないかと問われると、そんなことはないと思うが、そもそも性欲を感じる対象がいないのだから感じようがない。
食べ物にたとえるのが一番わかりやすい(と僕は思っている)のだが、何もなくても「お腹が空いた」と感じる人がいる一方、食事を作ったり出来上がった食事を見て初めて「お腹が空いている」と感じる人がいる。
僕は後者で、放っておくと24時間くらいは平気で食事を忘れる。
体内で発生している空腹感について、たいていは立ちくらみや著しい思考/集中力の低下が発生してはじめて自覚できる。
胃袋の減圧感というのは稀に感じる程度なのでアテにできない。
同様に、仮に性的な欲が蓄積されていたとしても、それが閾値を超えたものとして知覚できるような肉体現象(男性ならば性器の勃起が一般的なそれに当たるか)に発露することはほとんどない。
陰茎が意味もなく(性的刺激に関係なく)勃起するような現象は20代前半頃になくなった。
自覚する反応が知覚にも肉体現象にも現れない場合、欲がそこにあると認識するのが困難なことは食欲と同じである。
一方、自分が魅力を感じている異性が至近に居て、かつ僕の身体を撫で回してきた場合(猫なので自覚なく撫で回されるような状況が発生するものと認識している)「食事を見て空腹を感じている」のと同様のプロセスで自身の性欲を自覚することになる。
(ずっと語らずにいたのは、それについて書くことが僕の脆弱性の一部を露呈させるため)
粘膜接触系というのは単純に、性器でのみ性感を感じる感覚パターンの持ち主である。
一方の皮膚接触系というのは粘膜による性感も感じるが、皮膚接触でも十分に性感を感覚できるパターンを持っている。
性欲がまったくないかと問われると、そんなことはないと思うが、そもそも性欲を感じる対象がいないのだから感じようがない。
食べ物にたとえるのが一番わかりやすい(と僕は思っている)のだが、何もなくても「お腹が空いた」と感じる人がいる一方、食事を作ったり出来上がった食事を見て初めて「お腹が空いている」と感じる人がいる。
僕は後者で、放っておくと24時間くらいは平気で食事を忘れる。
体内で発生している空腹感について、たいていは立ちくらみや著しい思考/集中力の低下が発生してはじめて自覚できる。
胃袋の減圧感というのは稀に感じる程度なのでアテにできない。
同様に、仮に性的な欲が蓄積されていたとしても、それが閾値を超えたものとして知覚できるような肉体現象(男性ならば性器の勃起が一般的なそれに当たるか)に発露することはほとんどない。
陰茎が意味もなく(性的刺激に関係なく)勃起するような現象は20代前半頃になくなった。
自覚する反応が知覚にも肉体現象にも現れない場合、欲がそこにあると認識するのが困難なことは食欲と同じである。
一方、自分が魅力を感じている異性が至近に居て、かつ僕の身体を撫で回してきた場合(猫なので自覚なく撫で回されるような状況が発生するものと認識している)「食事を見て空腹を感じている」のと同様のプロセスで自身の性欲を自覚することになる。
【皮膚接触系と粘膜接触系】
ところでこれは20代の頃には感じていたのだが、人間にはどうやらその性感を感じるメカニズムについて皮膚接触系と粘膜接触系が存在するように思う。
粘膜接触系というのは単純に、性器でのみ性感を感じる感覚パターンの持ち主である。
一方の皮膚接触系というのは粘膜による性感も感じるが、皮膚接触でも十分に性感を感覚できるパターンを持っている。
前述の通り、たとえば指先は極めて繊細な触覚能力を持つが、その感覚が性感に結びついている人は極めて少ない。
一方、性器は触覚能力が低い(鈍感な)わりに、極めて高い性感を発生させうる。
ために粘膜系の人たちは、皮膚接触について「触覚以外(性感は)何も感じない」「くすぐったい」といった感覚受容の傾向が見られる。
このうち「くすぐったい」とする感覚については性感の前段階であるという見解もあるらしい。
これらは明確な境界線があるわけではなく、虹のスペクトルのようにグラデーションしているように思う。部位はもちろん体調によっても感覚は異なるから「常に粘膜系」「どこでも皮膚系」というわけではないだろうが、それでも個体ごとで感覚パターンに一定の傾向があるのは明確であるように観察される。
いわゆる「性的に淡白」とされる人は「皮膚接触系」に多く、他者をそのように言う人は「粘膜接触系」が多いように観察される。
これは「粘膜接触系」が、性感を得るためには必ず性器を使った性行為を必要とする一方「皮膚接触系」はその要件を絶対としないため発生する。
「皮膚接触系」の性感充足(オーガズム)は、「粘膜接触系」の性感充足の前段階(いわゆる前戯と呼ばれるものや、さらにいえばそれ以前の手を繋いだり、腕を組んだり、ハグするといったボディコミュニケーション)によってももたらされることがあり、「粘膜系」からすれば「ガキのママごとか」と一笑されることだろう。
一方「皮膚系の個体」からすれば「粘膜系の個体」の性的コミュニケーションは乱暴で大味でガサツに感じられることが多い。
「粘膜系」はとにかく性器接合(挿入すること/されること)を急ぐ傾向が強く、その行為だけに性的快感を見出すため「皮膚系」はコミュニケーションの不成立を感じるのだ。
言語系コミュニケーションでいえば「言語の違いや表現の違いにより意思疎通が困難な状況」に等しいと言える。
たとえば手の甲や膝で性感を得られる人が、相手に同じような性感を与えたい(相手から与えてほしい)と思っても「粘膜系」は基本的にその皮膚接触による性的コミュニケーションを省略させたり拒否する。これは言語系コミュニケーションの無視や拒絶に等しい。
仮に拒まなくても「粘膜系」は皮膚接触による性感を得られない(感覚しようとしない)ため、双方の性コミュニケーションは不調に終わる。
誰もが任意の部位に同じような触れ方をしても必ず性感が得られるとは限らないことくらい「皮膚系」は本能的に知っているが、相手が皮膚接触に性感性の価値を見出さない度合いが高ければ高いほど、そのコミュニケーションは意味(価値)を持たないことになる。それも双方にとって。
「粘膜系個体」の性感コミュニケーションによっても「皮膚系個体」は性感を得られるが、実のところ充足はしない。
前述の通り、性器は性感をもたらしはするが感覚の繊細さ(バラエティの豊かさ)は皮膚に劣る。
料理に例えると、粘膜系の性感はジャンクフードのようにわかりやすく極端で、刺激は強いが単調である。一方、皮膚系の性感は手の込んだ和食のように滋味深く、繊細で、豊かな奥行きがある。
ために粘膜系の人たちは、皮膚接触について「触覚以外(性感は)何も感じない」「くすぐったい」といった感覚受容の傾向が見られる。
このうち「くすぐったい」とする感覚については性感の前段階であるという見解もあるらしい。
これらは明確な境界線があるわけではなく、虹のスペクトルのようにグラデーションしているように思う。部位はもちろん体調によっても感覚は異なるから「常に粘膜系」「どこでも皮膚系」というわけではないだろうが、それでも個体ごとで感覚パターンに一定の傾向があるのは明確であるように観察される。
いわゆる「性的に淡白」とされる人は「皮膚接触系」に多く、他者をそのように言う人は「粘膜接触系」が多いように観察される。
これは「粘膜接触系」が、性感を得るためには必ず性器を使った性行為を必要とする一方「皮膚接触系」はその要件を絶対としないため発生する。
「皮膚接触系」の性感充足(オーガズム)は、「粘膜接触系」の性感充足の前段階(いわゆる前戯と呼ばれるものや、さらにいえばそれ以前の手を繋いだり、腕を組んだり、ハグするといったボディコミュニケーション)によってももたらされることがあり、「粘膜系」からすれば「ガキのママごとか」と一笑されることだろう。
一方「皮膚系の個体」からすれば「粘膜系の個体」の性的コミュニケーションは乱暴で大味でガサツに感じられることが多い。
「粘膜系」はとにかく性器接合(挿入すること/されること)を急ぐ傾向が強く、その行為だけに性的快感を見出すため「皮膚系」はコミュニケーションの不成立を感じるのだ。
言語系コミュニケーションでいえば「言語の違いや表現の違いにより意思疎通が困難な状況」に等しいと言える。
たとえば手の甲や膝で性感を得られる人が、相手に同じような性感を与えたい(相手から与えてほしい)と思っても「粘膜系」は基本的にその皮膚接触による性的コミュニケーションを省略させたり拒否する。これは言語系コミュニケーションの無視や拒絶に等しい。
仮に拒まなくても「粘膜系」は皮膚接触による性感を得られない(感覚しようとしない)ため、双方の性コミュニケーションは不調に終わる。
誰もが任意の部位に同じような触れ方をしても必ず性感が得られるとは限らないことくらい「皮膚系」は本能的に知っているが、相手が皮膚接触に性感性の価値を見出さない度合いが高ければ高いほど、そのコミュニケーションは意味(価値)を持たないことになる。それも双方にとって。
「粘膜系個体」の性感コミュニケーションによっても「皮膚系個体」は性感を得られるが、実のところ充足はしない。
前述の通り、性器は性感をもたらしはするが感覚の繊細さ(バラエティの豊かさ)は皮膚に劣る。
料理に例えると、粘膜系の性感はジャンクフードのようにわかりやすく極端で、刺激は強いが単調である。一方、皮膚系の性感は手の込んだ和食のように滋味深く、繊細で、豊かな奥行きがある。
たとえば目隠しをした状態で、タオル/毛布/コピー用紙/サンドペーパ/ティッシュペーパでそれぞれ性器や皮膚に触れた場合(試す場合は皮膚粘膜を傷める可能性があるので絶対に擦らないこと!)その質感について性器はほとんどまともに識別できない。
お湯や冷水に対する反応も同様、性器は極めて感覚が鈍い。
性器は単に性感の「ある/なし」「強い/弱い」を識別するだけの、雑な器官だということさえできる。
「粘膜系」の人にわかりやすく説明すると、性器のごく一部分に対し単調かつ強い刺激を短時間に受けることで肉体的オーガズムに達したとしても、性器全体に複雑な刺激を長時間受けた際のオーガズムと比較するときわめて退屈で印象に残らないものだというのは理解できるだろう。
「皮膚系」は性感を得る範囲や方法がフィジカルに限定しても広いため、性器のみによってもたらされる性感やオーガズムは(感覚できるが)物足りず、退屈に感じるということだ。またその刺激の強さも、ただ強ければより強い快感が得られるというものではないことも分かるだろう。
これらは皮膚系と粘膜系のどちらが有意だ、という話ではないし、人間の傾向が明らかに二分されるというものでもない(むしろグラデーションのように分布する)。
それぞれの体質や経験や好みの問題であり、それが相違している結果、コミュニケーションが不調に終わるというメカニズムがまずある。
それぞれがそれぞれの感覚特性を理解しないまま、ただ「セックス」という名の性的コミュニケーションにおいて不調を重ねる結果「自分(相手)はセックスに向いていない」と誤解する人がいるという現象について述べている。
おそらくこの程度のことさえ現在の性教育には含まれていない。
避妊を教えるがセックスについて教えず、性欲について説明するが性感について説明せず、性器とその機能について解説するのに性感とそれがもたらす充足について言語化できない大人があまりに多い。
教師だけでなく我が子に教えられない親のなんと多いことか。「ガキのママごとか」と笑いたいのはこちらのほうである。
コミュニケーションにおける多様性の受容姿勢というのは、近年(この十年ほど)で急速に発達した概念系である。
「相手のことを思いやる」という姿勢は、古く(我々世代だと)道徳という教科などでも語られてきたことだ。
なのにセックスになると途端にそれを見失う人間たちがいる。
もちろんケモノとなると話は別だ。交配やその相手に対する思いやりなど(一部例外を除くと)不要なのがケダモノの世界だからだ。
【性的バーチャルコンテンツがリアルに侵食する背景】
ここで少し方向を変えて、性的ヴァーチャルコンテンツについて話をしよう。分かりやすいところではアダルトビデオなどが一般的か。
広義には小説・アニメ・漫画・ゲーム・映画・ドラマなど、さまざまな芸術においてポルノに極端に傾いた内容のものがそれにあたる(ポルノグラフィと恋愛/セックスの表現の差異については辞書などで勝手に調べると良い)。
ヴァーチャルコンテンツという定義は「フィクションであること」が原則となる。
これらの多くは非常に視覚的なメディアである。
小説はもっとも視覚情報からは遠く、映像の場合も登場人物のモノローグを挟むことで(コンテンツとしての連続性は著しく低下するが)視覚情報から離れた(たとえば登場人物の心象描写のような)情報を表現することができる。
視覚情報の割合が非常に高く、それが認識パターンや条件反射の反復に大きく影響を与えることは前述のとおり。粘膜系はより粘膜系の色を濃くし、皮膚系は皮膚系から逸脱しにくい。
僕個人は実写のポルノグラフィ(とくに男性向けアダルトビデオ)が苦手である。理由は単純に「痛そう/ぜんぜん気持ちよくなさそうなため性的に興奮しない」というもの。男女問わず、粘膜を力任せにゴシゴシ擦るのはやめて欲しいのですが。
当然に男性向けのコンテンツなので、男性器に対する取り扱いに対する感想ではない。女性や女性器に対する扱いが雑に思えて心配になるのだ。だから性的に興奮するどころではなくなる。
昭和時代の(ピンク映画と呼ばれたような)ポルノ作品は知らないのだが、映像作品はその視覚情報の刺激を不可逆的に強化し続ける宿命がある。
特撮映画と呼ばれるものがあった時代からSFやアクション映画はあったが、現在のようにワイヤアクションやCGを多用した映像は作ることが困難だった。
ポルノ以外のコンテンツでさえ、表現は新しい方向性を模索し、その表現力の強さを高めようとし続けている。
言語系に喩えると、陳腐なところで「〇〇すぎ」「神〇〇/塩〇〇」といった誇張表現もそのひとつだろう。
「美人すぎる〇〇」といった表現はWebニュースなどでも見かけるが、美人を超えると、一体美人はどういった変化をするのだろうかと注意して観察すると「『美人すぎる』美人も所詮ただの美人にすぎない」という結論に至る。過ぎているのか過ぎないのか不明瞭だ。場合によっては「これは美人か?」というケースさえある。
文字表現でさえそのように、表現をどこまでも強化する傾向がある。
これは心理学で馴化と呼ばれる、同じ刺激に対する反応が鈍麻する仕組みによる。
漫画やアニメに見られる、現実的な範疇をはるかに超えた眼孔比率などをして美形とするフォーマットが「人間の人間に対する美意識に異常な傾向をもたらす」と批判された時期もある。
映像系ポルノも同様に、表現を過剰に強化し続けてきたというわけだ。
いかんせん視覚情報には、それ以外の一切の情報が含まれない。
特に性感にまつわる情感はもちろん、フィジカルな情報に限定しても温度や湿度、匂いにまつわるものが存在しないし、何より触覚情報がない(味覚によって性感が刺激される人も少数ながら存在するが、それは後付け的に学習された条件反射であり本来的な性本能や欲求に関係しないと思われる)。
これら「存在しない情報」を補うべく過剰に視覚情報を盛り込む必要がポルノコンテンツには必須で、商業ポルノに至っては既存の刺激を上回る刺激があればあるほど、競争による淘汰を生き延びることができる。
僕が10代の頃、すでにポルノの過剰表現は始まっており、たとえば女性の顔面に男性が射精することに性的興奮を覚え(させ)るような文脈がメディアを背景に一般に(認知バイアスとして)浸透するようなことさえあった。
冷静に考えれば、顔面に射精する(される)という行為は、触覚や嗅覚(状況により味覚)に影響を与えることはあれど、それが純粋な性感につながるとは考えにくい。
顔面には触覚としての性感を得ることが可能な粘膜を含む器官(目、鼻、口、耳)もあるが、それらは本来別の機能を持つため通常(特に目)は性感のために使用されないし、繊細で敏感な器官になるほど(眼球を含む周辺の粘膜は強い性感をもたらすこともあるが)使用は推奨されない(試さないこと)。仮にこれらに精液が掛かったとして性感が得られるとは考えにくいし、射精した側が性感を得るとも考えられない。
しかしそんな常識的な認識すらできない男たちも多く存在したようだ。
結果としてその視覚的効果が性的興奮として認識され価値観として定着するに至ったのだと思う。
なぜこの「顔射」(と呼ばれるようになった行為)が性的に興奮する文脈として一般化したかというと(一説に「男の征服感が満たされる」というこじつけじみた解釈が発生したこともあるが)単にそれが映像的に珍奇で衝撃的で背徳的だったからだろう。
「してはいけない」と明示・暗示されている価値観に反する行為によって興奮する人間は存外多い。
比較的害の少ない例を挙げるならば、洋服を着たまま入浴し、ついでに(可能なら)排尿行為をしてみるとよい。
一般にこの行為やそれによってもたらされる肉体的感覚の多くは性感には関係しないのだが、着衣という状態と入浴という行為が相反する倫理的葛藤をもたらし、排泄という行為はいずれの状況にも適切といえないことから、心理的にも肉体的にもかなり強い無意識の抵抗感(ストレス)が発生する。にもかかわらずそれらの行為を強行することで「してはいけない」という行為をしている状況が発生し、皮膚や粘膜に対する(フィジカルな)刺激はさほど大きいわけではないのに、人によっては(一人でも)強い性的興奮を覚えると思う。
こうしたメカニズムを理解していると、アダルトビデオに代表される実写型ポルノは(その表現が過激になり続けるという原理も含め)非常に退屈なものだと理解できる。
倒錯行為として認知度の高いSMなどであっても、ポルノとして映像化されてしまえば、人間の心理や感覚器に依存したコミュニケーションではなく、ただのグロテスクな痴態に過ぎない。
しかしそうした過度の倒錯的映像によって性的興奮を覚える者からすれば、そうした映像から得られる快感こそが性感に変わってしまう。何より、そうした行為によって人は性感を「学習」することになる。
直近(といってどの程度の「直近」か、僕は知らないのだが)では「金色のビキニ」という記号が、ある種のコスプレ的ポルノアイテムとして流行したという。
僕は学生時代に水泳部だったため、水着に対してまったく(性的に)思い入れができないのだが、金色のビキニもまたある種の倒錯感を演出することに成功したのだろうか。
いずれにせよ個人的に「だからポルノは良くない」などという気はない。好きにすればいい。
僕は「カメラ」や「試聴する自分」という第三者が存在する状況にも、コンテンツとして誇張して作られた倒錯にも、俯瞰して考えてしまう習性によりシンプルに醒めてしまうというだけのことだ。
まだ官能小説の方が(性的コンテンツとして)救いがある。
官能小説には感情や五感を盛り込むことが可能だし、カメラの存在もないからだ。
広義には小説・アニメ・漫画・ゲーム・映画・ドラマなど、さまざまな芸術においてポルノに極端に傾いた内容のものがそれにあたる(ポルノグラフィと恋愛/セックスの表現の差異については辞書などで勝手に調べると良い)。
ヴァーチャルコンテンツという定義は「フィクションであること」が原則となる。
これらの多くは非常に視覚的なメディアである。
小説はもっとも視覚情報からは遠く、映像の場合も登場人物のモノローグを挟むことで(コンテンツとしての連続性は著しく低下するが)視覚情報から離れた(たとえば登場人物の心象描写のような)情報を表現することができる。
視覚情報の割合が非常に高く、それが認識パターンや条件反射の反復に大きく影響を与えることは前述のとおり。粘膜系はより粘膜系の色を濃くし、皮膚系は皮膚系から逸脱しにくい。
僕個人は実写のポルノグラフィ(とくに男性向けアダルトビデオ)が苦手である。理由は単純に「痛そう/ぜんぜん気持ちよくなさそうなため性的に興奮しない」というもの。男女問わず、粘膜を力任せにゴシゴシ擦るのはやめて欲しいのですが。
当然に男性向けのコンテンツなので、男性器に対する取り扱いに対する感想ではない。女性や女性器に対する扱いが雑に思えて心配になるのだ。だから性的に興奮するどころではなくなる。
昭和時代の(ピンク映画と呼ばれたような)ポルノ作品は知らないのだが、映像作品はその視覚情報の刺激を不可逆的に強化し続ける宿命がある。
特撮映画と呼ばれるものがあった時代からSFやアクション映画はあったが、現在のようにワイヤアクションやCGを多用した映像は作ることが困難だった。
ポルノ以外のコンテンツでさえ、表現は新しい方向性を模索し、その表現力の強さを高めようとし続けている。
言語系に喩えると、陳腐なところで「〇〇すぎ」「神〇〇/塩〇〇」といった誇張表現もそのひとつだろう。
「美人すぎる〇〇」といった表現はWebニュースなどでも見かけるが、美人を超えると、一体美人はどういった変化をするのだろうかと注意して観察すると「『美人すぎる』美人も所詮ただの美人にすぎない」という結論に至る。過ぎているのか過ぎないのか不明瞭だ。場合によっては「これは美人か?」というケースさえある。
文字表現でさえそのように、表現をどこまでも強化する傾向がある。
これは心理学で馴化と呼ばれる、同じ刺激に対する反応が鈍麻する仕組みによる。
漫画やアニメに見られる、現実的な範疇をはるかに超えた眼孔比率などをして美形とするフォーマットが「人間の人間に対する美意識に異常な傾向をもたらす」と批判された時期もある。
映像系ポルノも同様に、表現を過剰に強化し続けてきたというわけだ。
いかんせん視覚情報には、それ以外の一切の情報が含まれない。
特に性感にまつわる情感はもちろん、フィジカルな情報に限定しても温度や湿度、匂いにまつわるものが存在しないし、何より触覚情報がない(味覚によって性感が刺激される人も少数ながら存在するが、それは後付け的に学習された条件反射であり本来的な性本能や欲求に関係しないと思われる)。
これら「存在しない情報」を補うべく過剰に視覚情報を盛り込む必要がポルノコンテンツには必須で、商業ポルノに至っては既存の刺激を上回る刺激があればあるほど、競争による淘汰を生き延びることができる。
僕が10代の頃、すでにポルノの過剰表現は始まっており、たとえば女性の顔面に男性が射精することに性的興奮を覚え(させ)るような文脈がメディアを背景に一般に(認知バイアスとして)浸透するようなことさえあった。
冷静に考えれば、顔面に射精する(される)という行為は、触覚や嗅覚(状況により味覚)に影響を与えることはあれど、それが純粋な性感につながるとは考えにくい。
顔面には触覚としての性感を得ることが可能な粘膜を含む器官(目、鼻、口、耳)もあるが、それらは本来別の機能を持つため通常(特に目)は性感のために使用されないし、繊細で敏感な器官になるほど(眼球を含む周辺の粘膜は強い性感をもたらすこともあるが)使用は推奨されない(試さないこと)。仮にこれらに精液が掛かったとして性感が得られるとは考えにくいし、射精した側が性感を得るとも考えられない。
しかしそんな常識的な認識すらできない男たちも多く存在したようだ。
結果としてその視覚的効果が性的興奮として認識され価値観として定着するに至ったのだと思う。
なぜこの「顔射」(と呼ばれるようになった行為)が性的に興奮する文脈として一般化したかというと(一説に「男の征服感が満たされる」というこじつけじみた解釈が発生したこともあるが)単にそれが映像的に珍奇で衝撃的で背徳的だったからだろう。
「してはいけない」と明示・暗示されている価値観に反する行為によって興奮する人間は存外多い。
比較的害の少ない例を挙げるならば、洋服を着たまま入浴し、ついでに(可能なら)排尿行為をしてみるとよい。
一般にこの行為やそれによってもたらされる肉体的感覚の多くは性感には関係しないのだが、着衣という状態と入浴という行為が相反する倫理的葛藤をもたらし、排泄という行為はいずれの状況にも適切といえないことから、心理的にも肉体的にもかなり強い無意識の抵抗感(ストレス)が発生する。にもかかわらずそれらの行為を強行することで「してはいけない」という行為をしている状況が発生し、皮膚や粘膜に対する(フィジカルな)刺激はさほど大きいわけではないのに、人によっては(一人でも)強い性的興奮を覚えると思う。
こうしたメカニズムを理解していると、アダルトビデオに代表される実写型ポルノは(その表現が過激になり続けるという原理も含め)非常に退屈なものだと理解できる。
倒錯行為として認知度の高いSMなどであっても、ポルノとして映像化されてしまえば、人間の心理や感覚器に依存したコミュニケーションではなく、ただのグロテスクな痴態に過ぎない。
しかしそうした過度の倒錯的映像によって性的興奮を覚える者からすれば、そうした映像から得られる快感こそが性感に変わってしまう。何より、そうした行為によって人は性感を「学習」することになる。
直近(といってどの程度の「直近」か、僕は知らないのだが)では「金色のビキニ」という記号が、ある種のコスプレ的ポルノアイテムとして流行したという。
僕は学生時代に水泳部だったため、水着に対してまったく(性的に)思い入れができないのだが、金色のビキニもまたある種の倒錯感を演出することに成功したのだろうか。
いずれにせよ個人的に「だからポルノは良くない」などという気はない。好きにすればいい。
僕は「カメラ」や「試聴する自分」という第三者が存在する状況にも、コンテンツとして誇張して作られた倒錯にも、俯瞰して考えてしまう習性によりシンプルに醒めてしまうというだけのことだ。
まだ官能小説の方が(性的コンテンツとして)救いがある。
官能小説には感情や五感を盛り込むことが可能だし、カメラの存在もないからだ。
【肉食系女子の解析】
配偶子の特性を考えれば、女性が過度に「性的肉食化」するのは異様なことである。
本来的にサイズが大きく栄養コストの高い配偶子(卵子)を有する性(こちらが一般には雌とされる)は、その配偶子の特性から長期配偶戦略を取る。
生体寿命の長さをほぼ同じと考えた場合、その生涯にわたって利用できる配偶子の数が雄のそれと比べてきわめて少ないからだ。
人間でも、雄はサイズが小さく栄養コストがはるかに少ない配偶子(精子)を短期間のうち大量に生産することができる。
一方の雌はそもそも配偶子の数が出生時から決まっており、卵として準備するごとに減少を続けるだけでなく、受精時から出産にまつわる栄養(身体)コストも高いため、それらのコストを十分に埋め合わせるだけの雄を求めるような配偶戦略を必要とする本能を持つ。
端的に、配偶子を基準にして男たちが「繁殖行為できるなら誰でもよい」という配偶戦略を持つのに対し、女たちは「繁殖行為をする相手を厳選する」戦略を持つ。
その戦略において相手に求めるのは、よりよい配偶子の持ち主であることはもちろんだが、それ以上に自身が支払う多大なリスクやコストの負荷を軽くしてくれる存在なのだ。
ために優れた知能や体力に裏打ちされた経済力だけでなく、家事や育児も負担することを現代の女たちは男たちに求める。
さて粘膜からの性感(とそれをもたらす陰茎)に対する強迫観念に思えるほどの追求は、この配偶戦略本能にどれほど影響され(あるいは影響し)ているというのだろう。
種全体でも単位時間あたりの卵の量が少ないことから、雄(コストの小さい配偶子を持つ者)は雌(コストの大きい配偶子を持つ者)を巡って競争し、雌は雄を厳選するよう運命付けられている。
人間の場合はホルモンだけでなく快感によって繁殖行為が後押しされている ── ホルモンの影響も性的快感も低かった個体は淘汰された ── が、性感や性欲のみによって強く突き動かされる女たちが存在するというのは動物学的に少々奇妙な状況ともいえるだろう。
これには当然さまざまな要因が絡んでいるものと思うが、そもそもそうした「肉食系」とされる女たちがその全てでないにせよ(性器による)性感と、それをもたらす男の陰茎(およびその機能)についてのみ集中しているという状況が、そもそも倒錯的な学習の結果によるものではないかと僕は推論する。
女性用ポルノが存在することからも、視覚(映像・画像)情報を性感の一助とすることができる女性は一定数以上存在するようだ。
それ自体は何ら不思議ではないのだが、そもそも性器によってしか性感を得られない女性が発生するのは、そのような認知バイアスを、そうなるべくして受けたからではないだろうか。
性器によってしか性感が得られないという認識の偏りは(性別を問わず)そもそもそういう情報ばかりを取り込んだ(あるいは身体を重ねた相手によってそのように条件づけられた)結果だと考えるのが自然である。
ためにそうした女たちは粘膜接触によってのみ性感を得ることができると脳が認識しており、その性感を得るのにあたって男根のサイズや硬さや持続力が必要不可欠だと(他責的に)認識 ── つまりは勘違い ── しているのだといえる。
実のところ女性の性感についてのみをいうならば、自身の身体機能を高めることでそれ(性感)を高めることは可能である。
そして姉に聞いた範囲によれば、より優れた性感が得られないと他責的に語る女たちの多くは、じつにだらしない体型をしていたそうだ。
もちろん例外はあって、太った女性であっても痩せた女性であっても、膣周辺筋の発達自体が問題となる。だから痩せていても本人に適切な筋肉がなければ(男女とも)性感は低いままであり、太っていても適切な筋肉があれは(男女とも)性感は高くなる。
そうした推論もできず、満足な性感を得られない理由を相手の性器の責任にする程度の動物だから、ろくな異性と出会えないのだろうという結論に至った。
本来的にサイズが大きく栄養コストの高い配偶子(卵子)を有する性(こちらが一般には雌とされる)は、その配偶子の特性から長期配偶戦略を取る。
生体寿命の長さをほぼ同じと考えた場合、その生涯にわたって利用できる配偶子の数が雄のそれと比べてきわめて少ないからだ。
人間でも、雄はサイズが小さく栄養コストがはるかに少ない配偶子(精子)を短期間のうち大量に生産することができる。
一方の雌はそもそも配偶子の数が出生時から決まっており、卵として準備するごとに減少を続けるだけでなく、受精時から出産にまつわる栄養(身体)コストも高いため、それらのコストを十分に埋め合わせるだけの雄を求めるような配偶戦略を必要とする本能を持つ。
端的に、配偶子を基準にして男たちが「繁殖行為できるなら誰でもよい」という配偶戦略を持つのに対し、女たちは「繁殖行為をする相手を厳選する」戦略を持つ。
その戦略において相手に求めるのは、よりよい配偶子の持ち主であることはもちろんだが、それ以上に自身が支払う多大なリスクやコストの負荷を軽くしてくれる存在なのだ。
ために優れた知能や体力に裏打ちされた経済力だけでなく、家事や育児も負担することを現代の女たちは男たちに求める。
さて粘膜からの性感(とそれをもたらす陰茎)に対する強迫観念に思えるほどの追求は、この配偶戦略本能にどれほど影響され(あるいは影響し)ているというのだろう。
種全体でも単位時間あたりの卵の量が少ないことから、雄(コストの小さい配偶子を持つ者)は雌(コストの大きい配偶子を持つ者)を巡って競争し、雌は雄を厳選するよう運命付けられている。
人間の場合はホルモンだけでなく快感によって繁殖行為が後押しされている ── ホルモンの影響も性的快感も低かった個体は淘汰された ── が、性感や性欲のみによって強く突き動かされる女たちが存在するというのは動物学的に少々奇妙な状況ともいえるだろう。
これには当然さまざまな要因が絡んでいるものと思うが、そもそもそうした「肉食系」とされる女たちがその全てでないにせよ(性器による)性感と、それをもたらす男の陰茎(およびその機能)についてのみ集中しているという状況が、そもそも倒錯的な学習の結果によるものではないかと僕は推論する。
女性用ポルノが存在することからも、視覚(映像・画像)情報を性感の一助とすることができる女性は一定数以上存在するようだ。
それ自体は何ら不思議ではないのだが、そもそも性器によってしか性感を得られない女性が発生するのは、そのような認知バイアスを、そうなるべくして受けたからではないだろうか。
性器によってしか性感が得られないという認識の偏りは(性別を問わず)そもそもそういう情報ばかりを取り込んだ(あるいは身体を重ねた相手によってそのように条件づけられた)結果だと考えるのが自然である。
ためにそうした女たちは粘膜接触によってのみ性感を得ることができると脳が認識しており、その性感を得るのにあたって男根のサイズや硬さや持続力が必要不可欠だと(他責的に)認識 ── つまりは勘違い ── しているのだといえる。
実のところ女性の性感についてのみをいうならば、自身の身体機能を高めることでそれ(性感)を高めることは可能である。
そして姉に聞いた範囲によれば、より優れた性感が得られないと他責的に語る女たちの多くは、じつにだらしない体型をしていたそうだ。
もちろん例外はあって、太った女性であっても痩せた女性であっても、膣周辺筋の発達自体が問題となる。だから痩せていても本人に適切な筋肉がなければ(男女とも)性感は低いままであり、太っていても適切な筋肉があれは(男女とも)性感は高くなる。
そうした推論もできず、満足な性感を得られない理由を相手の性器の責任にする程度の動物だから、ろくな異性と出会えないのだろうという結論に至った。
<能なき猫は爪を隠さず>
【日本の身体接触文化】
日本は他国に比較してスキンシップが少ないといわれる。
男性同士で手を繋いだり肩を組んだり腰に手を回すことは子供の頃から少なく、成人に至ってはそうしたスキンシップがあるだけで ── ショウビズ界の人が(ダンスなどの)「ショー」としてしているのでもない限り ── ホモセクシャルだと認識されるような文化である。
子供同士だけでなく、親子間でもスキンシップは少ないように観察されることが多い。
年齢、性別、関係性に基づいたデータを提供する論文もいくつかあるが、母数や範囲が限定的なため情報として広く適用できるか疑問に残る部分もある。
若年層(特に児童・幼児)をターゲットした性犯罪が明るみに出るケースが増えたためセンシティブゾーンの教育を訴える機運もあるが、そもそもスキンシップがない親子関係であってはそれを教える機会もないだろうと想像する。
卑近な例として、我が家では親子間のスキンシップはほとんどなく、スキンシップを(すること/されることそれぞれについて)親子の関係性が当然ながら根強く影響し、父からのスキンシップを好む姉は一切おらず、僕はさほど嫌っていなかったが、妹がとにかく父の寵愛を受けるべく執着していた。
母は姉の談によればそもそもさほど子供好きだったわけではないらしく、女同士でも幼児期を過ぎると手を繋ぐことは減っていたという。
(にもかかわらず僕の姉妹が5人もいるのは、単に男児が欲しいという父親のエゴの結果である)
直接の因果関係を立証する論拠は整っていないが(妹を除き)僕を含めた4人は低い自己肯定感を基盤にした自我を形成し、その後の様々な選択(友人や恋人、配偶者、就職など)で失敗を重ねやすかった。三女にいたっては児童売春までしていた。
親子感のスキンシップがあり、誰もがもう少しでも本能的に「親から愛されている」と自覚できる環境だったら何かが変わっていたのではないかと思うのは、ありもしない可能性に縋っているだけだろうか。
自分の価値を低く見積もるということは、世間に対して自分を安売りすることになる。
過大評価は問題だが、過小評価だって同じように害をもたらす ── 自身にも、社会にも。
スキンシップが情操や道徳、人間関係、集団の理解や協調性、犯罪の抑制に一定以上の効果を持つと僕は思っているが、そうした観点の論文はさほど多くないように観察される。おそらく広範囲かつ長期的・継続的なデータの収集が困難なのかもしれない。
たびたび書いているが、僕個人はスキンシップすることに比較的抵抗が少ない。
性別を問わず友人や姉妹であっても、肩を抱いたり頭を撫でたり服を直したりといった「極めて近い距離の接触」をすること/されることに抵抗がないので、今でもそうした距離感で接することがある。
当然、これは双方の信頼関係に大きく影響を受けるので、僕が受ける場合は年齢や性別に関わらず信頼関係のない相手の身体接触を嫌う(性風俗を利用しない理由の一つである)し、相手が拒否的な雰囲気だった場合はコミュニケーション不全として認識し、以降の距離感を調整する。
なぜこんなことを書いているかというと、スキンシップをする文化がさほど成熟していなくても日本ではセックスが行われてきたからだ(でないと日本人は絶滅していることになる)。
広義に言えばセックスもスキンシップである。身体接触によるコミュニケーションであり、接合子を作るためだけの(性欲や性感、生存本能やホルモンバランスに支配された単なる)生殖行為とは言い切れない。
しかしもし、スキンシップが少ないが故に「コミュニケーション」という認識が希薄なまま、セックスという行為だけが性欲の発達とともに突発的に必要とされる環境(社会)だとしたらどうだろう。
実に会話やSNSを含めたコミュニケーションそのものについては多くの人間が興味関心を寄せ、その成功(相互理解・人気のミームの発生)や不調(不満)について知見を重ねているというのに、セックスやスキンシップについて、他者に語るだけの文脈を持っていない人が多いこと(よって性教育そのものが未熟なままであること)に一定の説得力が生まれないだろうか。
正直なところ海外で暮らしたことも海外の人と恋愛をしたこともないのでなんとも言えないが、観察の範囲において日本人は、身体的コミュニケーションの言語化という文脈が貧弱なのだ。
セックスについてはポルノもあるから文脈がある。一方でコミュニケーションとしての側面を捉えられないから文脈が成熟しない。そもそも捉えようにも絶対数が少ないならこれは必然ではないだろうか。
真面目な話をしているせいで背中が痒くなっているのだが、セックスからコミュニケーションという側面を取り除くと、性行為が残る。
古くから老若男女問わず、恋愛やセックスは疲れる(今風にいうとコスパが悪い)という人は少なからず存在する。
性欲の処理だけならセックスではなく性的自慰の方が手軽で気楽だというわけだ。
ポルノやオナニーグッズの数々は配偶弱者(いわゆる非モテ)のためにだけ存在するのではない。
「性欲の発生はあるが他者への気遣いは苦手/したくない」という人もまた、その優しさ(あるいは効率化)の発露として性的自慰を選ぶことになる。
言語系に寄ったSNSなどのコミュニケーションでも、スタンプや流行り言葉といった簡略化のスキームは存在する。
いちいち理解されるかどうかも分からない自分の感覚を、詳細に言語化して説明したところで、双方の時間と労力の無駄になることは少なからずある。
またコミュニケーション不全という失敗のリスクを過剰に高く見積もる人も多いので、必然に、解像度が低く雑なものであっても、高効率なコミュニケーションの方が無難(低コスト低リスク)だと思われているのだろうと観察される。
たとえばお笑い芸人の定番のネタを会話に織り込んで笑いをとる方が、攻めたシュールなネタを即興(もちろんオリジナル)で織り込むより楽だし成功する可能性が高い(同時に「低脳だ」と評価分類される可能性もあるのだが、大抵の人はそういうふうには感じないらしい)。
こうした文化文脈の背景があった場合、コミュニケーションは必然に記号化され、雑で大味なものになり、繊細さは失われてゆく。
相手に対する深い理解も必要なく、自身に対しても大まかに「コミューンに含まれている」といった程度の安寧で満足することは可能だろう。
そういう大味で記号化されたコミュニケーションが一般化しつつある(少なくともマスコミュニケーションは、情報をより大味なものに変換する機能を持つ)。
料理にせよセックスにせよ、本来は個々に固有のニッチな感覚が存在するにも関わらず、マスで無難で大味なもので満足するような潮流があり、人はより分かりやすくて刺激の強い(=味の濃い)ものに美味しさを見出し、それ以外を「薄味(=淡白なのだが「たんぱく」というとプロテインしか思い浮かばない人もいるとか)」としか認識できないのだろう。
濃い味をした高加工レベルの食品ばかり食べている人間が病気になるように、濃い味で加工レベルの高い情報ばかり摂取・排泄している人間が作る社会も病気になる、と考えるのは突拍子もない飛躍かもしれない。
しかし少子化は、果たして政治経済や個々人の消費行動の変化に起因した現象にすぎないのだろうか。
(いよいよ背中が痒いので雑にまとめて終わる)
男性同士で手を繋いだり肩を組んだり腰に手を回すことは子供の頃から少なく、成人に至ってはそうしたスキンシップがあるだけで ── ショウビズ界の人が(ダンスなどの)「ショー」としてしているのでもない限り ── ホモセクシャルだと認識されるような文化である。
子供同士だけでなく、親子間でもスキンシップは少ないように観察されることが多い。
年齢、性別、関係性に基づいたデータを提供する論文もいくつかあるが、母数や範囲が限定的なため情報として広く適用できるか疑問に残る部分もある。
若年層(特に児童・幼児)をターゲットした性犯罪が明るみに出るケースが増えたためセンシティブゾーンの教育を訴える機運もあるが、そもそもスキンシップがない親子関係であってはそれを教える機会もないだろうと想像する。
卑近な例として、我が家では親子間のスキンシップはほとんどなく、スキンシップを(すること/されることそれぞれについて)親子の関係性が当然ながら根強く影響し、父からのスキンシップを好む姉は一切おらず、僕はさほど嫌っていなかったが、妹がとにかく父の寵愛を受けるべく執着していた。
母は姉の談によればそもそもさほど子供好きだったわけではないらしく、女同士でも幼児期を過ぎると手を繋ぐことは減っていたという。
(にもかかわらず僕の姉妹が5人もいるのは、単に男児が欲しいという父親のエゴの結果である)
直接の因果関係を立証する論拠は整っていないが(妹を除き)僕を含めた4人は低い自己肯定感を基盤にした自我を形成し、その後の様々な選択(友人や恋人、配偶者、就職など)で失敗を重ねやすかった。三女にいたっては児童売春までしていた。
親子感のスキンシップがあり、誰もがもう少しでも本能的に「親から愛されている」と自覚できる環境だったら何かが変わっていたのではないかと思うのは、ありもしない可能性に縋っているだけだろうか。
自分の価値を低く見積もるということは、世間に対して自分を安売りすることになる。
過大評価は問題だが、過小評価だって同じように害をもたらす ── 自身にも、社会にも。
スキンシップが情操や道徳、人間関係、集団の理解や協調性、犯罪の抑制に一定以上の効果を持つと僕は思っているが、そうした観点の論文はさほど多くないように観察される。おそらく広範囲かつ長期的・継続的なデータの収集が困難なのかもしれない。
たびたび書いているが、僕個人はスキンシップすることに比較的抵抗が少ない。
性別を問わず友人や姉妹であっても、肩を抱いたり頭を撫でたり服を直したりといった「極めて近い距離の接触」をすること/されることに抵抗がないので、今でもそうした距離感で接することがある。
当然、これは双方の信頼関係に大きく影響を受けるので、僕が受ける場合は年齢や性別に関わらず信頼関係のない相手の身体接触を嫌う(性風俗を利用しない理由の一つである)し、相手が拒否的な雰囲気だった場合はコミュニケーション不全として認識し、以降の距離感を調整する。
なぜこんなことを書いているかというと、スキンシップをする文化がさほど成熟していなくても日本ではセックスが行われてきたからだ(でないと日本人は絶滅していることになる)。
広義に言えばセックスもスキンシップである。身体接触によるコミュニケーションであり、接合子を作るためだけの(性欲や性感、生存本能やホルモンバランスに支配された単なる)生殖行為とは言い切れない。
しかしもし、スキンシップが少ないが故に「コミュニケーション」という認識が希薄なまま、セックスという行為だけが性欲の発達とともに突発的に必要とされる環境(社会)だとしたらどうだろう。
実に会話やSNSを含めたコミュニケーションそのものについては多くの人間が興味関心を寄せ、その成功(相互理解・人気のミームの発生)や不調(不満)について知見を重ねているというのに、セックスやスキンシップについて、他者に語るだけの文脈を持っていない人が多いこと(よって性教育そのものが未熟なままであること)に一定の説得力が生まれないだろうか。
正直なところ海外で暮らしたことも海外の人と恋愛をしたこともないのでなんとも言えないが、観察の範囲において日本人は、身体的コミュニケーションの言語化という文脈が貧弱なのだ。
セックスについてはポルノもあるから文脈がある。一方でコミュニケーションとしての側面を捉えられないから文脈が成熟しない。そもそも捉えようにも絶対数が少ないならこれは必然ではないだろうか。
真面目な話をしているせいで背中が痒くなっているのだが、セックスからコミュニケーションという側面を取り除くと、性行為が残る。
古くから老若男女問わず、恋愛やセックスは疲れる(今風にいうとコスパが悪い)という人は少なからず存在する。
性欲の処理だけならセックスではなく性的自慰の方が手軽で気楽だというわけだ。
ポルノやオナニーグッズの数々は配偶弱者(いわゆる非モテ)のためにだけ存在するのではない。
「性欲の発生はあるが他者への気遣いは苦手/したくない」という人もまた、その優しさ(あるいは効率化)の発露として性的自慰を選ぶことになる。
言語系に寄ったSNSなどのコミュニケーションでも、スタンプや流行り言葉といった簡略化のスキームは存在する。
いちいち理解されるかどうかも分からない自分の感覚を、詳細に言語化して説明したところで、双方の時間と労力の無駄になることは少なからずある。
またコミュニケーション不全という失敗のリスクを過剰に高く見積もる人も多いので、必然に、解像度が低く雑なものであっても、高効率なコミュニケーションの方が無難(低コスト低リスク)だと思われているのだろうと観察される。
たとえばお笑い芸人の定番のネタを会話に織り込んで笑いをとる方が、攻めたシュールなネタを即興(もちろんオリジナル)で織り込むより楽だし成功する可能性が高い(同時に「低脳だ」と評価分類される可能性もあるのだが、大抵の人はそういうふうには感じないらしい)。
こうした文化文脈の背景があった場合、コミュニケーションは必然に記号化され、雑で大味なものになり、繊細さは失われてゆく。
相手に対する深い理解も必要なく、自身に対しても大まかに「コミューンに含まれている」といった程度の安寧で満足することは可能だろう。
そういう大味で記号化されたコミュニケーションが一般化しつつある(少なくともマスコミュニケーションは、情報をより大味なものに変換する機能を持つ)。
料理にせよセックスにせよ、本来は個々に固有のニッチな感覚が存在するにも関わらず、マスで無難で大味なもので満足するような潮流があり、人はより分かりやすくて刺激の強い(=味の濃い)ものに美味しさを見出し、それ以外を「薄味(=淡白なのだが「たんぱく」というとプロテインしか思い浮かばない人もいるとか)」としか認識できないのだろう。
濃い味をした高加工レベルの食品ばかり食べている人間が病気になるように、濃い味で加工レベルの高い情報ばかり摂取・排泄している人間が作る社会も病気になる、と考えるのは突拍子もない飛躍かもしれない。
しかし少子化は、果たして政治経済や個々人の消費行動の変化に起因した現象にすぎないのだろうか。
(いよいよ背中が痒いので雑にまとめて終わる)
// ----- >>* Escort Division *<< //
::だけど「モテ」に応じて何が悪いー? ビッチとか言って毛嫌いしてくる女が多いけどモテない女がひがんでるだけだろー?
::一匹のメスがビッチという戦略を取ると…メス全体に不利益が生じるから悪く言われるんだ。
::だけど「モテ」に応じて何が悪いー? ビッチとか言って毛嫌いしてくる女が多いけどモテない女がひがんでるだけだろー?
::一匹のメスがビッチという戦略を取ると…メス全体に不利益が生じるから悪く言われるんだ。
// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭文末の引用は、
なお、引用文中の傍点強調を『【】墨付き括弧』にて記述しています。
// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
:青猫α:黒猫:銀猫:
[InterMethod]
-Algorithm-Blood-Darkness-Diary-Ecology-Interface-Link-Love-Mechanics-Moon-Stand_Alone-Technology-
[Module]
-Breaker-Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-
[Object]
-Camouflage-Contents-Friend-Human-Memory-Poison-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
:衛星軌道でランデヴー:
:青猫のひとりごと:
:君は首輪で繋がれて:
:夢見の猫の額の奥に:
:青猫のひとりごと:
:君は首輪で繋がれて:
:夢見の猫の額の奥に:
//EOF









