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// NOTE:背中が痒くて我慢できなくなりました。
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TITLE:
成人社会病の顛末。
SUBTITLE:
〜 Tentional hunchback. 〜
Written by BlueCat

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::お前が周囲の男にチヤホヤされるのはお前ではなくお前の卵子に価値があるからだ。
 世の中に精子は無数に存在するが卵子の数は限られている…【単純に数の問題で】生物界ではメスの方がチヤホヤされるのだ。
 それをお前みたいな脳みそ空室だらけの量産型ぴえんがむやみやたらと卵子をばら撒いたんじゃこちとら商売あがったりだ。



 

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※ いきなりですが今回はセックスの話が中心になります。興味のない方、苦手な方は引き返してください。

 

 

【肉食系女子】

 数日前、姉の通院の際、セックスの話題になる。
「猫君は現在パートナーがいないと認識しているけれど、性的なこと(肉体カンケー、もしくはセックス)の欲は発生しないのか。発生する場合、どのように消化するのか」という話になったため。
 妹はあまりセックスの話をしない(観察の範囲では日本人に多い認知バイアスを持っている)ため娘の性教育についても頭を悩ませていた様子であるが、姉は男性の性文化についての情報を確認するのにあたって、最も手近なサンプルとして昔から僕に質問することがある。
 僕自身は質問されればセックスについてもあけすけに話すことができるし、他の男たちの性文化についての知見もあるから ──
サンプルとしての一般性(普遍性)には欠けるが、手近なチャンネルにとして扱うには ── ちょうどよいのだろう。

 ちなみに姉は障害者になって久しいので、パートナーはいるが肉体カンケーはほぼないものと認識している(興味がないので確認はしたことがないものの、相手の男性も相応の年齢であり、そもそも双方とも性的なことに関心が薄いという話は聞いている)。
 一方で姉の属しているいくつかのコミュニティには、いわゆる肉食系の女子が一定の割合で存在し、そうした女性はセックスに対する貪欲さについて一般に認識される男性顔負けの部分もあるどころか、ときに男性のフィジカルな性機能についてあれこれ下世話に語っているのだという。
(対して姉はそもそもの価値観が異なるため、そうした話題による疲弊を蓄積しているらしい)

 僕の観察の範囲では、一般に男たちが女のセックスについての評価を語るとき、多くはフィジカル(肉体的)機能そのものよりも雰囲気や服装、顔や姿態の美しさについて語ることが多い(これは観察者が僕だから ── それに合わせて話題が選択されている ── という可能性も否定できないが)。
 体位や回数は自身の肉体能力も関連する部分だが、相手の身体機能(骨格や筋肉の柔軟性や表皮粘膜の性感閾値、粘膜の粘液分泌特性、膣周辺筋の発達や能力)そのものに関する「ごくフィジカルな情報」に関しては一定の年代(およそ20代後半から30代前半にかけて)を境に多くの男たちが語らなくなった(観察者の影響により情報の表出に偏りが発生する可能性は、以下すべての記述について同様に存在することをあらかじめ断っておく)。

 セックスに貪欲な男たちがどの程度まで相手のフィジカルを語るのかは(僕がそうしたコミュニティとの接点も、そうした話題に対する興味も持たないため)もはや不明だが、10〜20代の記憶を遡った範囲では、バストやヒップといった「一般に性的とされる部位」に関する個人的嗜好について語られる程度のことが多かった。
 端的な例でバストについて挙げるなら「巨乳至上主義」という男は、実のところさほど多いわけではなく、むしろ「薄型バスト」の方が良いという群も一定の割合で見られた(具体的には「大型2:適度3:薄型2:気にしない1:その他2」程度の比率)。

 男たちがセックスの話題で女性器(およびそれによってもたらされる性感)について直接言及するケースは全体の1割未満だった。
 これは実際にセックスを経験している個体であっても、そこから十分な内省的な部分も含めた知見を蓄積するには至っていない場合が多かったからだろう ── 人間はセックスするにあたって多くの動物同様、ある程度理性を失う傾向があり、ためにセックスにおけるメタ情報(再現性の高い・客観的/俯瞰的情報)の学習曲線は低い傾向にある。

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 一般に人間が処理する情報の8割前後が視覚を基準にする、と言われているが、そう考えるとこうした男たちの言及における偏りも理解しやすい。
 セックスにおける性感について、視覚情報を伴うものは自身の嗜好性も含め多くの情報が処理されるため、パターンを蓄積しやすい。
 一方で皮膚粘膜の感覚については(おそらくそれが性感の主要部分であるにもかかわらず)処理される情報が少ない(と脳が判断するため)パターンが蓄積されず分析も非常に荒くなる。
(男たちの多くはセックスにおける心理的内省について、いわずもがな低い傾向がある)

 とくにバストの場合は数値化されやすく、触覚刺激だけでなく視覚効果も高いため、たとえば「BカップとDカップでは手のひらの感触が異なる」というように視覚と触覚と数値化されたメタ情報とで組み合わされて処理/記憶される。
 一方で膣圧を数値化して把握している女性は非常に少ないだろうし、パートナーのそれを知っている男はさらに極端に少なく、さらに言えば自身がどの程度の膣圧に対してもっとも高い性感を得るか(値が高ければ良いとは限らない)という情報を持っている男は皆無だろうと想像する。
 膣圧に関連して視覚効果をもたらす部位としては下腹部周辺の腹筋がそれにあたるが、それによって性的官能が刺激されるという男はさほど多く観察されない(ちなみに僕は昔からドスケベなので、女性のおなかは嗜好する部位である。もっともその視覚情報によって性的官能が刺激されるわけではないが)。
 バストよりはヒップの方が下腹部周辺筋の影響を視覚的に確認できると思うが、視覚情報器官(目)に対してバストより遠いという欠点がある(まぁ体位にもよるか)。

 そもそも陰茎自体、粘膜なのである程度敏感ではあるが、じつはそれほど繊細な感覚器ではない。
(膣・陰核も同様のメカニズムであろうと想像される。陰嚢表皮は陰唇同等と推定すべきか)
 触覚や圧迫に対しては一定以上の感度を示すが、温度や接触対象のテクスチャ(表面質感)認識については指先の方がよほども鋭敏である。

 ただ多くの人間は(より繊細な認識が可能なはずの)指先では「性感を感覚できない」個体がほぼすべてであるため、性感をより多く得られる器官である部位からの情報を性感の評価に使っている、というだけである。

 結果として男たちは女の身体に対し ── 特に膣内のように数値化が困難で、視覚的情報に乏しい部位になればなるほど ── 「語る言葉を脳が持っていない」という状態になる。
 使い古されたポルノ表現だが「具合がいい/悪い」といった、きわめて雑な基準を持つのがやっとなのだ。

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 姉が接点を持っているコミュニティは、そもそもセックスが話題の中心にあるようなものではないらしいのだが、いわゆる女子トークの一環で、一定数存在する「そうした話題に熱心な人」が熱く男根(つまり男性器)に対する不満について語るらしい。
 陰茎については数値化が比較的容易で、女性にとって性感刺激をもたらす部位としての認識もされやすく、視覚効果も一定以上は担保されるものと思う。ためにパターン蓄積がされやすく「脳がそれを語る言葉を多く持つ」ことになる。

 もちろんそれ以外の視覚的刺激をもたらす部位は多く存在し、広く知られるところでは筋肉(形状だけでなくそれによって発生する陰影)や手指の形状、それらの表皮の質感や浮き出る血管のテクスチャに力強さを感じるという意見は昔からある。
 しかし男性の身体において、女性に性感をもたらす部位はさほど多くない。性器や手指、舌がせいぜいで、ごく稀に腕や脚(極端な例では足)が含まれる程度だろう。
 つまり筋肉や血管の視覚効果やテクスチャは一定の効果をもたらしてはいるが、直接(触感による)性感をもたらさないため「脳がそれを語る言葉を多く持っているわけではない」ことになる。

 結果、それらいわゆる肉食系女子たちにより陰茎の、サイズがどうの、硬さがどうの、持続性(おそらく時間や回数によって判定されるのだろう)がどうのと語られる事実に一定の根拠を与える。
 彼女たちは自身の受容する性感と、視覚的に把握しやすい陰茎についての情報を相関させて蓄積しているのだ。
 

【僕の性欲の発生経路と知覚メカニズム】

 僕自身について語るならこの10年ほどの間、ガール(狭義にいえば恋人ですよ)と一緒に入浴したり肌を合わせた程度のことはあるが、身体を重ねた(性器を使ってセックスした)ことはない。なかったと思う。なかったんじゃないかな。
 性欲がまったくないかと問われると、そんなことはないと思うが、そもそも性欲を感じる対象がいないのだから感じようがない。

 食べ物にたとえるのが一番わかりやすい(と僕は思っている)のだが、何もなくても「お腹が空いた」と感じる人がいる一方、食事を作ったり出来上がった食事を見て初めて「お腹が空いている」と感じる人がいる。
 僕は後者で、放っておくと24時間くらいは平気で食事を忘れる。
 体内で発生している空腹感について、たいていは立ちくらみや著しい思考/集中力の低下が発生してはじめて自覚できる。
 胃袋の減圧感というのは稀に感じる程度なのでアテにできない。

 同様に、仮に性的な欲が蓄積されていたとしても、それが閾値を超えたものとして知覚できるような肉体現象(男性ならば性器の勃起が一般的なそれに当たるか)に発露することはほとんどない。
 陰茎が意味もなく(性的刺激に関係なく)勃起するような現象は20代前半頃になくなった。
 自覚する反応が知覚にも肉体現象にも現れない場合、欲がそこにあると認識するのが困難なことは食欲と同じである。
 一方、自分が魅力を感じている異性が至近に居て、かつ僕の身体を撫で回してきた場合(猫なので自覚なく撫で回されるような状況が発生するものと認識している)「食事を見て空腹を感じている」のと同様のプロセスで自身の性欲を自覚することになる。

 

【皮膚接触系と粘膜接触系】

 ところでこれは20代の頃には感じていたのだが、人間にはどうやらその性感を感じるメカニズムについて皮膚接触系と粘膜接触系が存在するように思う。
(ずっと語らずにいたのは、それについて書くことが僕の脆弱性の一部を露呈させるため)
 粘膜接触系というのは単純に、性器でのみ性感を感じる感覚パターンの持ち主である。
 一方の皮膚接触系というのは粘膜による性感も感じるが、皮膚接触でも十分に性感を感覚できるパターンを持っている。
 
 前述の通り、たとえば指先は極めて繊細な触覚能力を持つが、その感覚が性感に結びついている人は極めて少ない。
 一方、性器は触覚能力が低い(鈍感な)わりに、極めて高い性感を発生させうる。

 ために粘膜系の人たちは、皮膚接触について「触覚以外(性感は)何も感じない」「くすぐったい」といった感覚受容の傾向が見られる。
 このうち「くすぐったい」とする感覚については性感の前段階であるという見解もあるらしい。
 これらは明確な境界線があるわけではなく、虹のスペクトルのようにグラデーションしているように思う。部位はもちろん体調によっても感覚は異なるから「常に粘膜系」「どこでも皮膚系」というわけではないだろうが、それでも個体ごとで感覚パターンに一定の傾向があるのは明確であるように観察される。

 いわゆる「性的に淡白」とされる人は「皮膚接触系」に多く、他者をそのように言う人は「粘膜接触系」が多いように観察される。
 これは「粘膜接触系」が、性感を得るためには必ず性器を使った性行為を必要とする一方「皮膚接触系」はその要件を絶対としないため発生する。
「皮膚接触系」の性感充足(オーガズム)は、「粘膜接触系」の性感充足の前段階(いわゆる前戯と呼ばれるものや、さらにいえばそれ以前の手を繋いだり、腕を組んだり、ハグするといったボディコミュニケーション)によってももたらされることがあり、「粘膜系」からすれば「ガキのママごとか」と一笑されることだろう。

 一方「皮膚系の個体」からすれば「粘膜系の個体」の性的コミュニケーションは乱暴で大味でガサツに感じられることが多い。
「粘膜系」はとにかく性器接合(挿入すること/されること)を急ぐ傾向が強く、その行為だけに性的快感を見出すため「皮膚系」はコミュニケーションの不成立を感じるのだ。
 言語系コミュニケーションでいえば「言語の違いや表現の違いにより意思疎通が困難な状況」に等しいと言える。


 たとえば手の甲や膝で性感を得られる人が、相手に同じような性感を与えたい(相手から与えてほしい)と思っても「粘膜系」は基本的にその皮膚接触による性的コミュニケーションを省略させたり拒否する。これは言語系コミュニケーションの無視や拒絶に等しい。
 仮に拒まなくても「粘膜系」は皮膚接触による性感を得られない(感覚しようとしない)ため、双方の性コミュニケーションは不調に終わる。
 誰もが任意の部位に同じような触れ方をしても必ず性感が得られるとは限らないことくらい「皮膚系」は本能的に知っているが、相手が皮膚接触に性感性の価値を見出さない度合いが高ければ高いほど、そのコミュニケーションは意味(価値)を持たないことになる。それも双方にとって。

「粘膜系個体」の性感コミュニケーションによっても「皮膚系個体」は性感を得られるが、実のところ充足はしない。

 前述の通り、性器は性感をもたらしはするが感覚の繊細さ(バラエティの豊かさ)は皮膚に劣る。
 料理に例えると、粘膜系の性感はジャンクフードのようにわかりやすく極端で、刺激は強いが単調である。一方、皮膚系の性感は手の込んだ和食のように滋味深く、繊細で、豊かな奥行きがある。
 たとえば目隠しをした状態で、タオル/毛布/コピー用紙/サンドペーパ/ティッシュペーパでそれぞれ性器や皮膚に触れた場合(試す場合は皮膚粘膜を傷める可能性があるので絶対に擦らないこと!)その質感について性器はほとんどまともに識別できない。
 お湯や冷水に対する反応も同様、性器は極めて感覚が鈍い。
 性器は単に性感の「ある/なし」「強い/弱い」を識別するだけの、雑な器官だということさえできる。

「粘膜系」の人にわかりやすく説明すると、性器のごく一部分に対し単調かつ強い刺激を短時間に受けることで肉体的オーガズムに達したとしても、性器全体に複雑な刺激を長時間受けた際のオーガズムと比較するときわめて退屈で印象に残らないものだというのは理解できるだろう。
「皮膚系」は性感を得る範囲や方法がフィジカルに限定しても広いため、性器のみによってもたらされる性感やオーガズムは(感覚できるが)物足りず、退屈に感じるということだ。またその刺激の強さも、ただ強ければより強い快感が得られるというものではないことも分かるだろう。

 これらは皮膚系と粘膜系のどちらが有意だ、という話ではないし、人間の傾向が明らかに二分されるというものでもない(むしろグラデーションのように分布する)。
 それぞれの体質や経験や好みの問題であり、それが相違している結果、コミュニケーションが不調に終わるというメカニズムがまずある。
 それぞれがそれぞれの感覚特性を理解しないまま、ただ「セックス」という名の性的コミュニケーションにおいて不調を重ねる結果「自分(相手)はセックスに向いていない」と誤解する人がいるという現象について述べている。

 おそらくこの程度のことさえ現在の性教育には含まれていない。
 避妊を教えるがセックスについて教えず、性欲について説明するが性感について説明せず、性器とその機能について解説するのに性感とそれがもたらす充足について言語化できない大人があまりに多い。
 教師だけでなく我が子に教えられない親のなんと多いことか。「ガキのママごとか」と笑いたいのはこちらのほうである。

 コミュニケーションにおける多様性の受容姿勢というのは、近年(この十年ほど)で急速に発達した概念系である。
「相手のことを思いやる」という姿勢は、古く(我々世代だと)道徳という教科などでも語られてきたことだ。
 なのにセックスになると途端にそれを見失う人間たちがいる。
 もちろんケモノとなると話は別だ。交配やその相手に対する思いやりなど(一部例外を除くと)不要なのがケダモノの世界だからだ。
 

【性的バーチャルコンテンツがリアルに侵食する背景】

 ここで少し方向を変えて、性的ヴァーチャルコンテンツについて話をしよう。分かりやすいところではアダルトビデオなどが一般的か。
 広義には小説・アニメ・漫画・ゲーム・映画・ドラマなど、さまざまな芸術においてポルノに極端に傾いた内容のものがそれにあたる(ポルノグラフィと恋愛/セックスの表現の差異については辞書などで勝手に調べると良い)。
 ヴァーチャルコンテンツという定義は「フィクションであること」が原則となる。

 これらの多くは非常に視覚的なメディアである。
 小説はもっとも視覚情報からは遠く、映像の場合も登場人物のモノローグを挟むことで(コンテンツとしての連続性は著しく低下するが)視覚情報から離れた(たとえば登場人物の心象描写のような)情報を表現することができる。
 視覚情報の割合が非常に高く、それが認識パターンや条件反射の反復に大きく影響を与えることは前述のとおり。粘膜系はより粘膜系の色を濃くし、皮膚系は皮膚系から逸脱しにくい。

 僕個人は実写のポルノグラフィ(とくに男性向けアダルトビデオ)が苦手である。理由は単純に「痛そう/ぜんぜん気持ちよくなさそうなため性的に興奮しない」というもの。男女問わず、粘膜を力任せにゴシゴシ擦るのはやめて欲しいのですが。
 当然に男性向けのコンテンツなので、男性器に対する取り扱いに対する感想ではない。女性や女性器に対する扱いが雑に思えて心配になるのだ。だから性的に興奮するどころではなくなる。

 昭和時代の(ピンク映画と呼ばれたような)ポルノ作品は知らないのだが、映像作品はその視覚情報の刺激を不可逆的に強化し続ける宿命がある。
 特撮映画と呼ばれるものがあった時代からSFやアクション映画はあったが、現在のようにワイヤアクションやCGを多用した映像は作ることが困難だった。
 ポルノ以外のコンテンツでさえ、表現は新しい方向性を模索し、その表現力の強さを高めようとし続けている。

 言語系に喩えると、陳腐なところで「〇〇すぎ」「神〇〇/塩〇〇」といった誇張表現もそのひとつだろう。
「美人すぎる〇〇」といった表現はWebニュースなどでも見かけるが、美人を超えると、一体美人はどういった変化をするのだろうかと注意して観察すると「『美人すぎる』美人も所詮ただの美人にすぎない」という結論に至る。過ぎているのか過ぎないのか不明瞭だ。場合によっては「これは美人か?」というケースさえある。

 文字表現でさえそのように、表現をどこまでも強化する傾向がある。
 これは心理学で馴化と呼ばれる、同じ刺激に対する反応が鈍麻する仕組みによる。
 漫画やアニメに見られる、現実的な範疇をはるかに超えた眼孔比率などをして美形とするフォーマットが「人間の人間に対する美意識に異常な傾向をもたらす」と批判された時期もある。

 映像系ポルノも同様に、表現を過剰に強化し続けてきたというわけだ。
 いかんせん視覚情報には、それ以外の一切の情報が含まれない。
 特に性感にまつわる情感はもちろん、フィジカルな情報に限定しても温度や湿度、匂いにまつわるものが存在しないし、何より触覚情報がない(味覚によって性感が刺激される人も少数ながら存在するが、それは後付け的に学習された条件反射であり本来的な性本能や欲求に関係しないと思われる)。

 これら「存在しない情報」を補うべく過剰に視覚情報を盛り込む必要がポルノコンテンツには必須で、商業ポルノに至っては既存の刺激を上回る刺激があればあるほど、競争による淘汰を生き延びることができる。
 僕が10代の頃、すでにポルノの過剰表現は始まっており、たとえば女性の顔面に男性が射精することに性的興奮を覚え(させ)るような文脈がメディアを背景に一般に(認知バイアスとして)浸透するようなことさえあった。
 冷静に考えれば、顔面に射精する(される)という行為は、触覚や嗅覚(状況により味覚)に影響を与えることはあれど、それが純粋な性感につながるとは考えにくい。

 顔面には触覚としての性感を得ることが可能な粘膜を含む器官(目、鼻、口、耳)もあるが、それらは本来別の機能を持つため通常(特に目)は性感のために使用されないし、繊細で敏感な器官になるほど(眼球を含む周辺の粘膜は強い性感をもたらすこともあるが)使用は推奨されない(試さないこと)。仮にこれらに精液が掛かったとして性感が得られるとは考えにくいし、射精した側が性感を得るとも考えられない。
 しかしそんな常識的な認識すらできない男たちも多く存在したようだ。
 結果としてその視覚的効果が性的興奮として認識され価値観として定着するに至ったのだと思う。

 なぜこの「顔射」(と呼ばれるようになった行為)が性的に興奮する文脈として一般化したかというと(一説に「男の征服感が満たされる」というこじつけじみた解釈が発生したこともあるが)単にそれが映像的に珍奇で衝撃的で背徳的だったからだろう。
「してはいけない」と明示・暗示されている価値観に反する行為によって興奮する人間は存外多い。

 比較的害の少ない例を挙げるならば、洋服を着たまま入浴し、ついでに(可能なら)排尿行為をしてみるとよい。
 一般にこの行為やそれによってもたらされる肉体的感覚の多くは性感には関係しないのだが、着衣という状態と入浴という行為が相反する倫理的葛藤をもたらし、排泄という行為はいずれの状況にも適切といえないことから、心理的にも肉体的にもかなり強い無意識の抵抗感(ストレス)が発生する。にもかかわらずそれらの行為を強行することで「してはいけない」という行為をしている状況が発生し、皮膚や粘膜に対する(フィジカルな)刺激はさほど大きいわけではないのに、人によっては(一人でも)強い性的興奮を覚えると思う。

 こうしたメカニズムを理解していると、アダルトビデオに代表される実写型ポルノは(その表現が過激になり続けるという原理も含め)非常に退屈なものだと理解できる。
 倒錯行為として認知度の高いSMなどであっても、ポルノとして映像化されてしまえば、人間の心理や感覚器に依存したコミュニケーションではなく、ただのグロテスクな痴態に過ぎない。
 しかしそうした過度の倒錯的映像によって性的興奮を覚える者からすれば、そうした映像から得られる快感こそが性感に変わってしまう。何より、そうした行為によって人は性感を「学習」することになる。
 直近(といってどの程度の「直近」か、僕は知らないのだが)では「金色のビキニ」という記号が、ある種のコスプレ的ポルノアイテムとして流行したという。
 僕は学生時代に水泳部だったため、水着に対してまったく(性的に)思い入れができないのだが、金色のビキニもまたある種の倒錯感を演出することに成功したのだろうか。

 いずれにせよ個人的に「だからポルノは良くない」などという気はない。好きにすればいい。
 僕は「カメラ」や「試聴する自分」という第三者が存在する状況にも、コンテンツとして誇張して作られた倒錯にも、俯瞰して考えてしまう習性によりシンプルに醒めてしまうというだけのことだ。
 まだ官能小説の方が(性的コンテンツとして)救いがある。
 官能小説には感情や五感を盛り込むことが可能だし、カメラの存在もないからだ。
 

【肉食系女子の解析】

 配偶子の特性を考えれば、女性が過度に「性的肉食化」するのは異様なことである。
 本来的にサイズが大きく栄養コストの高い配偶子(卵子)を有する性(こちらが一般には雌とされる)は、その配偶子の特性から長期配偶戦略を取る。
 生体寿命の長さをほぼ同じと考えた場合、その生涯にわたって利用できる配偶子の数が雄のそれと比べてきわめて少ないからだ。

 人間でも、雄はサイズが小さく栄養コストがはるかに少ない配偶子(精子)を短期間のうち大量に生産することができる。
 一方の雌はそもそも配偶子の数が出生時から決まっており、卵として準備するごとに減少を続けるだけでなく、受精時から出産にまつわる栄養(身体)コストも高いため、それらのコストを十分に埋め合わせるだけの雄を求めるような配偶戦略を必要とする本能を持つ。
 端的に、配偶子を基準にして男たちが「繁殖行為できるなら誰でもよい」という配偶戦略を持つのに対し、女たちは「繁殖行為をする相手を厳選する」戦略を持つ。
 その戦略において相手に求めるのは、よりよい配偶子の持ち主であることはもちろんだが、それ以上に自身が
支払う多大なリスクやコストの負荷を軽くしてくれる存在なのだ。
 ために優れた知能や体力に裏打ちされた経済力だけでなく、家事や育児も負担することを現代の女たちは男たちに求める。
 さて粘膜からの性感(とそれをもたらす陰茎)に対する強迫観念に思えるほどの追求は、この配偶戦略本能にどれほど影響され(あるいは影響し)ているというのだろう。

 種全体でも単位時間あたりの卵の量が少ないことから、雄(コストの小さい配偶子を持つ者)は雌(コストの大きい配偶子を持つ者)を巡って競争し、雌は雄を厳選するよう運命付けられている。

 人間の場合はホルモンだけでなく快感によって繁殖行為が後押しされている ── ホルモンの影響も性的快感も低かった個体は淘汰された ── が、性感や性欲のみによって強く突き動かされる女たちが存在するというのは動物学的に少々奇妙な状況ともいえるだろう。
 これには当然さまざまな要因が絡んでいるものと思うが、そもそもそうした「肉食系」とされる女たちがその全てでないにせよ(性器による)性感と、それをもたらす男の陰茎(およびその機能)についてのみ集中しているという状況が、そもそも倒錯的な学習の結果によるものではないかと僕は推論する。

 女性用ポルノが存在することからも、視覚(映像・画像)情報を性感の一助とすることができる女性は一定数以上存在するようだ。
 それ自体は何ら不思議ではないのだが、そもそも性器によってしか性感を得られない女性が発生するのは、そのような認知バイアスを、そうなるべくして受けたからではないだろうか。
 性器によってしか性感が得られないという認識の偏りは(性別を問わず)そもそもそういう情報ばかりを取り込んだ(あるいは身体を重ねた相手によってそのように条件づけられた)結果だと考えるのが自然である。

 ためにそうした女たちは粘膜接触によってのみ性感を得ることができると脳が認識しており、その性感を得るのにあたって男根のサイズや硬さや持続力が必要不可欠だと(他責的に)認識 ── つまりは勘違い ── しているのだといえる。
 実のところ女性の性感についてのみをいうならば、自身の身体機能を高めることでそれ(性感)を高めることは可能である。
 そして姉に聞いた範囲によれば、より優れた性感が得られないと他責的に語る女たちの多くは、じつにだらしない体型をしていたそうだ。

 もちろん例外はあって、太った女性であっても痩せた女性であっても、膣周辺筋の発達自体が問題となる。だから痩せていても本人に適切な筋肉がなければ(男女とも)性感は低いままであり、太っていても適切な筋肉があれは(男女とも)性感は高くなる。

 そうした推論もできず、満足な性感を得られない理由を相手の性器の責任にする程度の動物だから、ろくな異性と出会えないのだろうという結論に至った。
 
<能なき猫は爪を隠さず>


【日本の身体接触文化】

 日本は他国に比較してスキンシップが少ないといわれる。
 男性同士で手を繋いだり肩を組んだり腰に手を回すことは子供の頃から少なく、成人に至ってはそうしたスキンシップがあるだけで ── ショウビズ界の人が(ダンスなどの)「ショー」としてしているのでもない限り ── ホモセクシャルだと認識されるような文化である。
 子供同士だけでなく、親子間でもスキンシップは少ないように観察されることが多い。

 年齢、性別、関係性に基づいたデータを提供する論文もいくつかあるが、母数や範囲が限定的なため情報として広く適用できるか疑問に残る部分もある。
 若年層(特に児童・幼児)をターゲットした性犯罪が明るみに出るケースが増えたためセンシティブゾーンの教育を訴える機運もあるが、そもそもスキンシップがない親子関係であってはそれを教える機会もないだろうと想像する。
 卑近な例として、我が家では親子間のスキンシップはほとんどなく、スキンシップを(すること/されることそれぞれについて)親子の関係性が当然ながら根強く影響し、父からのスキンシップを好む姉は一切おらず、僕はさほど嫌っていなかったが、妹がとにかく父の寵愛を受けるべく執着していた。
 母は姉の談によればそもそもさほど子供好きだったわけではないらしく、女同士でも幼児期を過ぎると手を繋ぐことは減っていたという。
(にもかかわらず僕の姉妹が5人もいるのは、単に男児が欲しいという父親のエゴの結果である)

 直接の因果関係を立証する論拠は整っていないが(妹を除き)僕を含めた4人は低い自己肯定感を基盤にした自我を形成し、その後の様々な選択(友人や恋人、配偶者、就職など)で失敗を重ねやすかった。三女にいたっては児童売春までしていた。
 親子感のスキンシップがあり、誰もがもう少しでも本能的に「親から愛されている」と自覚できる環境だったら何かが変わっていたのではないかと思うのは、ありもしない可能性に縋っているだけだろうか。
 自分の価値を低く見積もるということは、世間に対して自分を安売りすることになる。
 過大評価は問題だが、過小評価だって同じように害をもたらす ── 自身にも、社会にも。

 スキンシップが情操や道徳、人間関係、集団の理解や協調性、犯罪の抑制に一定以上の効果を持つと僕は思っているが、そうした観点の論文はさほど多くないように観察される。おそらく広範囲かつ長期的・継続的なデータの収集が困難なのかもしれない。

 たびたび書いているが、僕個人はスキンシップすることに比較的抵抗が少ない。
 性別を問わず友人や姉妹であっても、肩を抱いたり頭を撫でたり服を直したりといった「極めて近い距離の接触」をすること/されることに抵抗がないので、今でもそうした距離感で接することがある。
 当然、これは双方の信頼関係に大きく影響を受けるので、僕が受ける場合は年齢や性別に関わらず信頼関係のない相手の身体接触を嫌う(性風俗を利用しない理由の一つである)し、相手が拒否的な雰囲気だった場合はコミュニケーション不全として認識し、以降の距離感を調整する。

 なぜこんなことを書いているかというと、スキンシップをする文化がさほど成熟していなくても日本ではセックスが行われてきたからだ(でないと日本人は絶滅していることになる)。
 広義に言えばセックスもスキンシップである。身体接触によるコミュニケーションであり、接合子を作るためだけの(性欲や性感、生存本能やホルモンバランスに支配された単なる)生殖行為とは言い切れない。

 しかしもし、スキンシップが少ないが故に「コミュニケーション」という認識が希薄なまま、セックスという行為だけが性欲の発達とともに突発的に必要とされる環境(社会)だとしたらどうだろう。
 実に会話やSNSを含めたコミュニケーションそのものについては多くの人間が興味関心を寄せ、その成功(相互理解・人気のミームの発生)や不調(不満)について知見を重ねているというのに、セックスやスキンシップについて、他者に語るだけの文脈を持っていない人が多いこと(よって性教育そのものが未熟なままであること)に一定の説得力が生まれないだろうか。

 正直なところ海外で暮らしたことも海外の人と恋愛をしたこともないのでなんとも言えないが、観察の範囲において日本人は、身体的コミュニケーションの言語化という文脈が貧弱なのだ。
 セックスについてはポルノもあるから文脈がある。一方でコミュニケーションとしての側面を捉えられないから文脈が成熟しない。そもそも捉えようにも絶対数が少ないならこれは必然ではないだろうか。

 真面目な話をしているせいで背中が痒くなっているのだが、セックスからコミュニケーションという側面を取り除くと、性行為が残る。
 古くから老若男女問わず、恋愛やセックスは疲れる(今風にいうとコスパが悪い)という人は少なからず存在する。
 性欲の処理だけならセックスではなく性的自慰の方が手軽で気楽だというわけだ。

 ポルノやオナニーグッズの数々は配偶弱者(いわゆる非モテ)のためにだけ存在するのではない。
「性欲の発生はあるが他者への気遣いは苦手/したくない」という人もまた、その優しさ(あるいは効率化)の発露として性的自慰を選ぶことになる。

 言語系に寄ったSNSなどのコミュニケーションでも、スタンプや流行り言葉といった簡略化のスキームは存在する。
 いちいち理解されるかどうかも分からない自分の感覚を、詳細に言語化して説明したところで、双方の時間と労力の無駄になることは少なからずある。
 またコミュニケーション不全という失敗のリスクを過剰に高く見積もる人も多いので、必然に、解像度が低く雑なものであっても、高効率なコミュニケーションの方が無難(低コスト低リスク)だと思われているのだろうと観察される。
 たとえばお笑い芸人の定番のネタを会話に織り込んで笑いをとる方が、攻めたシュールなネタを即興(もちろんオリジナル)で織り込むより楽だし成功する可能性が高い(同時に「低脳だ」と評価分類される可能性もあるのだが、大抵の人はそういうふうには感じないらしい)。

 こうした文化文脈の背景があった場合、コミュニケーションは必然に記号化され、雑で大味なものになり、繊細さは失われてゆく。
 相手に対する深い理解も必要なく、自身に対しても大まかに「コミューンに含まれている」といった程度の安寧で満足することは可能だろう。

 そういう大味で記号化されたコミュニケーションが一般化しつつある(少なくともマスコミュニケーションは、情報をより大味なものに変換する機能を持つ)。
 料理にせよセックスにせよ、本来は個々に固有のニッチな感覚が存在するにも関わらず、マスで無難で大味なもので満足するような潮流があり、人はより分かりやすくて刺激の強い(=味の濃い)ものに美味しさを見出し、それ以外を「薄味(=淡白なのだが「たんぱく」というとプロテインしか思い浮かばない人もいるとか)」としか認識できないのだろう。
 濃い味をした高加工レベルの食品ばかり食べている人間が病気になるように、濃い味で加工レベルの高い情報ばかり摂取・排泄している人間が作る社会も病気になる、と考えるのは突拍子もない飛躍かもしれない。

 しかし少子化は、果たして政治経済や個々人の消費行動の変化に起因した現象にすぎないのだろうか。
(いよいよ背中が痒いので雑にまとめて終わる)







 

// ----- >>* Escort Division *<< //


::だけど「モテ」に応じて何が悪いー? ビッチとか言って毛嫌いしてくる女が多いけどモテない女がひがんでるだけだろー?
::一匹のメスがビッチという戦略を取ると…メス全体に不利益が生じるから悪く言われるんだ。



 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭文末の引用は、
「進化的安定戦略(前編)」Fromあくまでクジャクの話です。第1巻)」
(著作:小出 もと貴 / 発行:講談社)
 によりました。
 
なお、引用文中の傍点強調を『【】墨付き括弧』にて記述しています。
 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
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[Engineer]
  :青猫α:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Darkness-Diary-Ecology-Interface-Link-Love-Mechanics-Moon-Stand_Alone-Technology-
 
[Module]
  -Breaker-Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Camouflage-Contents-Friend-Human-Memory-Poison-
 
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[Cat-Ego-Lies]
:衛星軌道でランデヴー:
:青猫のひとりごと:
:君は首輪で繋がれて:

:夢見の猫の額の奥に:
 
 
 
//EOF
 
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// TimeLine:260408
// NOTE:
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TITLE:
おそらく月もそうだろう。
SUBTITLE:
〜 The moon is probably the same.〜
Written by BlueCat

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::ナミアゲハのオスはメスの黄色と黒の縞模様に反応して欲情するが、同様の縞模様をそこらの板に描くだけでうようよと寄ってくるのだ。
 おまえらの脳みそは虫と一緒か? あっ?
 末席とはいえホモサピエンスを名乗るなら知性的に発情しろ! 知性的に!



 

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//[List]

 

 

//[Body]

 100歳にもなったので、もうモテなくなっただろうと思ったのだが、そうでもない。モテる。 
 モテたことのない人、あるいはもっとモテたいと思っている人からすれば羨ましい話なのだろうけれど、もうモテたいとは思っていない人からすればそれは迷惑ですらある。

 たとえばそれは食欲に似ている。
 お腹が空いている人からすれば、もっと食べなさいと料理がテーブルに運ばれるのはたいそう嬉しい状況だろう。
 しかし満腹の人からすれば、そのテーブルからは早く離れたい。
 そういうものではないだろうか。

 無論モテにも色々ある。
 異性をはじめとする「性的な対象」としてのモテもあれば、性的な意味合いを持たない人としてのモテ、人としての意味にさえ限定されない存在(あるいはイキモノ)としてのモテ ── 。
 一般に「モテ」として語られるのは、最初の「性的対象」としてのモテである。下世話なことである。

 

【ケダモノとしてのモテ】

 近年、食事やお酒を愉しんでいる時、誰かの視線を感じることがある。
 理由はわかっている。食事や酒を呑む姿が目につく。気に掛かる。
 よく言えば「サマ」になっているらしい。
 これは10年ほど前、お酒を飲む時に深酒をしないように気をつけ始めたのが発端だ。

 
 味も分からないほど酔っているのに気が大きくなり、勢い任せに盃を重ねた結果、翌日は身体の調子も悪く、財布の中身は存外軽い。
 なのに美味しかったはずの酒の味も香りも思い出せない。そもそも感覚できていないのだ。

 そのような酒の飲み方を心底反省し、味や香りが分からなくなる前に、お開きにするようになった。
 独りで呑むことが多いが、大人数でも同じであるし、もとより味も香りもないような雑な酒を避ける性質でもある。

>>>
 
 辿ると、子供の頃の躾にルーツがある。
 僕の両親は食事の躾に厳しく、僕ら姉妹は離乳食が終わるとすぐに箸の練習をすることになった。
 乳幼児用のスプーンやフォークなどというものはなかったように思う。
 子供にとって、食卓は少し高い位置にあるので、必ず正座をさせられた。幼児用の椅子などというものはなかった。

 箸のマナーのあらかただけでなく、食卓上の食器の取り回しにもうるさかった。
 食卓に肘をつこうものなら、その肘を払いのけられた。
 およそ3歳にもなると皆、正座で箸を使えるようになり、人前で食事をするにも最低限の嗜みを覚えた。
 そのようなわけで小学生を卒業する頃には煮魚や焼き魚を食べさせれば頭と尻尾と骨と皮の一部だけが綺麗に並び、食後の茶碗に米粒が残ることなどなかった。

>>>

 酒を綺麗に呑むようになったのは、その延長線上である。
 酔って背筋が曲がり、テーブルやカウンターに肘をつくようになったら、もう帰って眠った方がよいという合図だ。
 それが習慣化したので、背筋を伸ばして酒を呑む。曲がるほど身体が重くなる前に帰る。
 僕は酒を神聖なものだと思っているので、可能な限り静かに、時に目を閉じて味わう。

 そのうち食事もそのようになってしまった。
 携帯電話を操作しながら、などというのは今や自宅でもしない(ゲームをしながら食事をすることはある)(行儀が悪い(笑))。
 咀嚼する時は箸を置いて両手を足の上に置き、目を閉じることも多い。
 きちんといただくものに向き合い、きちんと味わう。それだけに集中する。

 そういう姿勢の人が少ないのだろう。
 飲食店で咀嚼後に目を開けると、他者の視線を感じることがある。
 奇異の目の時もあるし、見惚れていることもある。
 目立ちたいわけではないのだが、時に注目されることについては諦めている。

 これもある種のモテである。
 もはや手練手管ではなく、ただ餌食む姿によって官能や感銘を与えるというなら、これはもうケダモノとしても上等の部類になれたのかもしれない。
 そのうちぱやぱや(セックスのことです)している姿が素敵だという理由でモテるようになるかもしれない。
 まさかの100歳にしてAV男優デビューの道……いやさすがにないな。
 

【奇人としてのモテ】

 先日、高校時代の恋人に数十年ぶりに会って話したのだが、どうやら僕は10代の頃からたいそうモテていたらしく、彼女は当時、それによって他の女の子からちょっとした嫌がらせをされるなど少々イヤなこともあったらしい。
 そんなことをするくらい(エネルギーがある)なら、本人にちゃんとアプローチして告白すればいいのにね、というのが共通の結論であり認識。

 おそらくだが僕のような「個性的(要は奇人・変人の部類)」なありように魅力を感じるガールは、存外多かったのだろう。
 知っている範疇でも、僕に恋慕しているガールは数名いた。知らない範囲は知りようがない。
 ただ僕に積極的にアプローチし、近い場所に身を置き、親しくなろうとし、告白した人は彼女以外にいなかった。他は皆、奥手だったのだろう。
 しかしそれは幸いだった。僕は白痴のケダモノだから、おそらくもれなく告白を受け入れてしまい、阿鼻叫喚の地獄絵巻に発展していたと思う。

 そのかつての恋人は当時から美人でエッチで聡明だったのだが、彼女によると当時の僕はフィジカルも非常に女好きのするものであったらしく、色白で肌の質感も非常に綺麗で体毛も薄く、体を重ねる肌の感触が非常によろしかったそうである(あくまで「当時」の話である)。
 よくよく振り返るに私の身体や薄い体臭を好む恋人は多かったし(学生時代は水泳部だったため)他の男の体を見るたび、私も少々異質に感じることがあった。
 女ばかりの姉妹に生まれたためかもしれないが、男たちの毛深くざらざらとした肌の質感は、僕の持つそれとは少し違う気がした。

 

【執着の話】

 その恋人と別れた理由は僕にとってはとてもシンプルなもので、そして他の人にはなかなか理解されないものだった。
 言語化するとこういうことになる。
 人間は関係が深まるといらぬ執着が発生することがあり、いかなる執着も結局はその人の能力や魅力を曇らせ覆い隠すようになる。

 DVやストーカ行為となると犯罪か、犯罪に近しい行為であるが、それ以外にも人間関係には執着が発生しやすい。
 たとえば学童でも、同性の友人にさえ「私以外の〇〇さんと親しくしていた」などという理由で怒り出す子がいる。
 不思議と女性に多い。男性は子供の頃からそのような執着をまずしない。

 これはきっと生殖本能に紐づいたものだろうが、第二次性徴のずっと前からそうした性質が発露しているのは興味深い。

 先に立場を明確にしておくと、僕はいささか古い人間なので男女は公平な方が良いと思うが平等であれなどとは思わない。男と女は成り立ちも役割も違うのだ。

 男たちも大人になるにつれ、妙な執着を示すことがある。
 社会的ステータスを本人が見出した対象(権力や地位や金銭や所有物、およびそれを下支えするリソースなど(人間含む)
)が多いか。

 DVやストーカ行為はニュースなどから観察する範囲において(男女問わず)自制の利かない自身の欲と幼児性の発露に思えるが、これも執着である。

 自身の中で、自身の皮の内側においてのみ発露するこだわりなら、それはその人の哲学であり価値観であり権利であり自由だ。
 しかし自身の皮膚の外にある他者という存在に対して「かくあれかし」と躍起になることは ── つまり執着なのだが ── 多くの人はこれを愛情だと錯誤し容認することも多い。まかり通ってしまうのだ。

 たとえば親が子供に高名な学校に進学してほしいと思い、そのためにあれこれ手を尽くす。
 子供自身が希望していることなら良いことだと思うが、親が望んでいるだけだとすれば余計なお世話の場合もある。
 親が期待することが活力になり、希望を語ることで視野が開けることもあるだろうけれど、そのときのその状況、親子関係が果たしてそうなるかは当人たちにしか分からない。
 親からすればいずれも愛情だろう。
 しかし子供からしたら望んでもいない余計なお世話の可能性があり、その場合は過剰な干渉、つまり単なる親の執着だといえる。

 たとえば恋人なら、長く付き合ううち「私だけを見てほしい」とか「私だけのものでいてほしい」などと世迷言を言うようになることがある。
 しかしこれが僕にはさっぱりワケが分からないのだ。
 たとえば月は美しい(と僕は思っている)が、月に対して「自分だけのものでいてほしい」とか「自分だけを照らしてほしい」などと願う人がいるだろうか。

 月は月であって、僕ではないし僕の所有物でもない。だから僕のものにはならないし、僕だけを照らすことはできない。当たり前である。
 同様に恋人は恋人であって僕ではないし、僕の所有物でもない。だから僕のものにはならないし僕だけを見ていることなどできない。逆も然り。
 このシンプルな原理が彼女には理解できず、その執着によってもともとの魅力が侵食されてゆき、そのようなわけで僕は彼女を拒絶するようになった。
 好意を持っている相手なら私を恋人として取り扱うことを許せるが、好意を持っていない(魅力を感じない)相手には指一本触れさせるわけにいかないのだ。

 このごく当たり前の「執着が幼稚で醜い」という事実を知らないものが実に多い。
 仮に知っていても「自分のこれは愛情である」とか「自分のこれは世間の常識である」とか「これは絶対必要なこと(考え方)だ」などと逃げて、認めることはないだろう。
 DVやストーカ行為をする人間も、自身のそれは愛情の発露であり、人としての常識に基づいた正しい考え方や行いだ、と考える。結果誰が傷つくとしてもそれは傷つく相手が悪い。

 こうした執着に囚われる人間を僕は嫌う。恋人だろうと友人だろうと親族だろうと姉妹だろうとそれは変わらない。
 何となれば学校の教師や会社の同僚にさえ、こうした狂った価値観(執着)を押し付ける者はいる。
 介護を受けている人間が、介護されることに執着することもある。生きている限り人間は執着しかねないし、そういう奴ほど己の執着を自認しない。
 涼しい顔をして「人たるもの……」なんて説教垂れるわけである ── 俺は猫だぞ。

 自分の皮膚の外にある人、およびその所有物は、自分のものではない。
 だから他人の携帯電話を勝手に覗き見たり、損壊したり、妹とおそろいで大切にしていたぬいぐるみや友人との手紙を(勝手に読んだ挙句)捨てさせたり、預金通帳や郵便物を勝手に覗き見たり、支給される年金を(勝手に)計算してケチをつけるような奴はイカれている。違うだろうか。
(ちなみにこれらはまぁ、個人的な被害(笑)の羅列ですから、これはこれで私の執着でしょうかね)

>>>

 親しい関係になる時、相手はたいてい魅力的であり、あるいは少なくとも好感を持てるものなのだ。
 しかし関係が深まるにつれ、執着が生まれる人もいる(中にはかなり早い段階でそれら執着を発露する者もおり、当たり前のようにそれを愛情と履き違えている)。
 そして執着することが当たり前の人たちからすれば、僕がそれを理解しないほうがおかしいということになり、話は平行線を辿る。

 友情に結託を求め、恋人に貞操を求め、伴侶に終生の保障を求め、子供に今際の始末を求め、神には救いを求める ── 。
 生存本能/遺伝子保存の本能としては適切な働きなのだろう。
 親に愛情を求めたことにはじまる生存の執着が、愛情の名だけを残して変貌してゆく。
 友人に結託を強要し、恋人に貞操を強要し、伴侶に終生の保障を強要し、子供に今際の始末を強要し ── やがて神はおろか猫にまで己のエゴを強要するのか。

 人間が生きることは記憶を重ねることで、記憶を重ねることは価値観を作ることで、価値観は時に欲と化合して醜い執着に変わる。
 執着は必ず醜く、その人の魅力を侵食してゆく。
 
 孤独なる白痴のケダモノに回帰しようなどという世迷言もまた、私のアンチ執着という執着ではあるだろう。
 これは愛などではなく、憎悪に等しい執着だ。
 よいさ。
 血みどろになるまで忌み潰すにあたり魅力程度の安い代償で済むならば。この身のすべてくれてやる。
 
<観察者>
 

【不肖の不詳】

 そんなことより恋人と再び会うことになったのが、当時所属していた団体のOBの定期的な飲み会だったのだが、どうも一年下の後輩どもも学生時代から僕のことを慕っているらしい(僕はまったく興味がないので今まで一度も参加しなかったがTUに誘われ初めて出かけた)(確かにものすごい歓声に迎えられて困惑した)(当然だが異性として慕われているのではない、と思う)(なぜこんなことを書くかというと一年後輩は全員女性なのだ)。
 2次会から参加した一部の人間は僕が1次会の後、当たり前に姿を消したことについて不満たらたらだったという。

 分からない。
 私に魅力を感じる連中は、私にどんな魅力を見出しているのかがまったく分からない。
 おそらく月もそうだろう。


 
 


 

// ----- >>* Escort Division *<< //


::いくら先輩でも言い過ぎですよ! 結局何が言いたいんですか?
::今言ったことを久慈先生にそれとなく伝えてほしい ── 巨乳よりも普通サイズの胸を求めるのが生物学的な正解なのだと……あっ。私が言ってたとかは言うなよ?



 

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[出典]
~ List of Cite ~
 文頭・文末の引用は、
「超正常刺激」From「あくまでクジャクの話です。第3巻)」
(著作:小出 もと貴 / 発行:講談社)
 によりました。
 
 

 
// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:黒猫:赤猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Engineering-Form-Link-Love-Mechanics-Moon-Recollect-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Breaker-Condencer-Connector-Generator-Reactor-Resistor-
 
[Object]
  -Friend-Human-Koban-Memory-Night-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :衛星軌道でランデヴー:
:君は首輪で繋がれて:
:夢見の猫の額の奥に:
 
 
 
//EOF
 
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// TimeLine:260331
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
市場価値がないことの価値。
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[List]

 

 

//[Body]
 
 ATOKが値上げをしたので使用停止を決定したのはいつのことだったか。
 やめてみたら、Mac では Dvorak での日本語入力が可能になっていた。
 ああ、これなら ATOKなどなくてよいではないか、と思っていたのだが、どうにもOS標準のIMEは余計な挙動(スペースの全/半角の自動選択やスペルチェック、自動候補入力etc.,etc...)ばかりする割に、肝心な部分(変換候補の選択のしやすさや入力候補の優先順位設定など)のブラッシュアップを放棄しているように観察される。

 文脈に基づいた適切な変換候補を挙げることさえ(AI機能を強化しました! とか得意になっていっている割に)できていない。
 おそらくOSメーカにとって日本語を用いるローカル部族など現状でも過剰にサービスしていると思われているか、開発者は日本語入力なんてものを使わないのだろう。
 

【本の話】

 最近読んだ本の話、ではない。
 実は以前にも書いたことがあるのだが、僕は買った本の使い方が他の人と異なるケースがある。

 買ってきた本はまず帯がついていたら捨て、中に入った広告やしおりを(出版社が入れたものでも、書店が入れたものでも)捨てる。
 何度も読み返す本はそれだけお気に入り、ということになるが、やがて表紙カバーが擦れてきたりするとカバーも捨てる。
 読む本はだいたい線が引かれ、線が引かれたページに折り目がつけられている(漫画などでもだいたいそうなる)ので、本の物理的寿命(ハードな使い方をしているのでボロボロになりやすい)が近づいたらその線の引かれた箇所を破り取り、コンピュータに書き写し、本の本体を捨てる。
 さらにまた読みたくなったらどうするのか、という疑問を持つ人がいるが、そのときは再び買い直す。それだけである。

 大抵の人はそんなことをしない。
 本というのは、情報体である以前にモノだからだ。
 僕からすると、本はモノであると同時に情報体である。
 情報媒体(メディア)でもあるが、自分が求めているのは情報(文字や画といったコンテンツ)であり、そこから喚起されるイメージや情感、発想をもっとも必要としている。

◯ 帯を捨てる理由。
 帯というのはTVCMのような、単なる邪魔な広告である。
 数十年、TVプログラムをまともに見ていないが、特定の番組がその番組内で同じ番組の番宣をしていたらどう思うだろう。
 興味のない人に手に取ってもらう、という意味でその広告は重要だが、その内容を知っている(場合によっては何度も見ている)場合、邪魔なだけである。

 帯が本編をもったいぶって仄めかすことも稀で、たいてい何のコンテンツも含まれない。
 カバーと一体化した美しいものも一部に存在するが、読む時はとにかく邪魔になる。
 本を飾りたい人にとっては大事な「パーツ」だろうけれど、僕にとっては内容となる情報の方がよほども重要なのだ。
 ために購入した瞬間、その帯は広告としての機能を果たして意味を失い、内容の劣化コピーですらないただのゴミになる。

◯ 線を引き折り目をつける理由。

 本を読み返す時「あのシーンが読みたい」とか「あのとき書かれていたことを参照したい」ということが僕は多い。
 実用書でもフィクション作品でもそれは変わらない。
 なので読んでいる最中、特に印象に残った部分や全く意味のわからない部分などは線を引き、線を引いたことを示すインデックスとして折り目をつける。付箋でも良いのだろうが、ずっと付けておけばどのみちページは汚れるし、なにより貼り付ける時間がもったいない。
(このため僕は図書館で本を借りるのをやめた)

◯ 情報を優先する理由。
 僕は本を美しく飾りたい、と思わないので書架と本を掃除することはあっても、本を美品に保とうという意思がない。
 情報を取り入れ、自分の中で消化して、本がなくてもそらんじることができるならそれでよい。

 その情報がもたらすものをきちんと自分の一部にできるなら何が書いてあったかなど思い出せなくても構わない。
 それどころか思い出さなくなるほど一体化した状態が、もっとも理想的だと感じる。
 書物が原型を留めず、情報を自分なりにまとめたにもかかわらずまた読みたいと感じる場合、その書物からの消化吸収が結局は足りないのだから、そのときはまた買えばいい。

 ろくに読まれず飾られるだけの本が不幸だとは思わないが、美品として飾られ続ける本をわざわざ再び買う人はいないだろうから、作者からすれば同じ本を何度も買われる方が幸せではあろう。
 

 ちなみに書架への戻し方、整理分類の仕方も他の人とは全く異なる(同じことをしている人を見たことがない)が、これも以前書いたことがあるので今回は割愛。
 

【市場価値がないことの価値】

 極端だろうと思う(そういう自覚はある)が、それが僕のモノとの接し方であり、人間に対してもだいたい似たような価値観で接している。
 たまたま人間の多くは僕に対してあまり有用なコンテンツを提供してくれない一方、僕が彼ら彼女たちにとって一定以上の有用性を持っているように錯覚されることもある。
(愛されキャラだと諦めるしかない)
 不満かといえばそんなことはない。不公平とも思わない。

 誰かから見て何の役にも立たない退屈な他人というのはごく一般的なありようだと思うし、他人に面白く思われるため、好かれるために媚びるようなありようを否定する気はないものの素直に低俗とは感じる(低俗であることを悪いこととも思っていない)。
 むしろ自分以外の誰かが自分にとって役に立つ、有用な機能を持った道具であり重要なコンテンツだと徴用したくなる方が危険な兆候だと僕は思うがどうだろう。

 たとえば年収や顔の美醜(あるいは若さや学歴や家柄など)で結婚相手を決めるとかも、他者を自分にとっての道具として値踏みする、一般的な(かつ危険な)傾向のように観察される。
 ホームセンタで電動工具を選ぶようにして友人や恋人や伴侶を選ぶ(選ばれる)のだとしたら、選ばれて嬉しいだろうか。選ぶことの優位性を感じるだろうか。
 無論、それらのカタログスペックに意味がない、というわけではない。
 カタログスペックが優れているに越したことがないのは人間も同様である。

 ただ他者から選ばれる道具として自分を磨くこと、他者を道具として値踏みすることがシンプルに危険な兆候だと僕は思うのだ。
 人間は人間を道具にすべきではない、という哲学があるから。
 それでも人間を道具使いしたい人はなくならないし、よりよい道具としての自分を演出し、周囲からの賞賛を勝ち取りたいという人もなくならないだろう。
 それはその人たちの人生であり自由である。好きにすればいい。

 少なくとも僕は、他者に「僕にとっての有用性」を必要としない。
 役に立たなくて全然構わないし、見惚れるような優美な機能(外観に限らず、働きや所作が美しい哲学を反映している人は少なからずいる)があれば素直に見惚れる。
 思いやりや優しさとしてなんとなく語られる人間の善性というのは、すなわち外観によらない、心理的にも美しい働きかけではないだろうか。(働きかけといっても「職安に行ってますよ」ということではない。むしろ早く働け)

 ために僕は周囲の人間に媚を売らないし、媚びるような人間を嫌う。
 彼ら彼女たちは、己の媚びることと交換する何かを求めているのだ。僕はいずれも必要としていないのに。

 話を戻すと、コンテンツにはそれを作る側と消化吸収する側があり、僕は他者の持つ情報の多くについて消化吸収する必要を感じていない。
 取るに足らない、ということが僕にとっては結構重要なのだ(「取るに足らない」と「重要」というのは、対義的ではあるものの)。
 これは先の「媚びへつらうこと」にも通じている。

 取るに足らないありように対して感じ入ることはある。
 たとえば飛ぶ鳥を観察していると、そのかすかな翼の使い方などに見惚れることが多くあるが、彼らはべつに僕のために翼を広げているわけではなく、己のしたいこと、しなくてはならないことをしているだけであって、取るに足るありようを体現することや他者の歓心を買おうとしているわけではない。同じことを他者にも思い、感じるのだ。

 一方市販されている情報体は、そもそもの成り立ちが異なる。
 すぐれた情報として凝縮されているから価値があり価格が付けられ、販売されている。
 料理に例えると、市販されている有料のコンテンツはその多く、非常に味が濃く作られている。滋味深く、栄養価も高い。

 一方、市販されていない天然の我々は無料だが、そのぶん味わいが薄く、栄養価もそれなり、ということになる。
 それが悪いのではない。それがいいのだ。
 フィクションやメディアを賑わすような人のありようは、エンタテインメントとしては愉快かもしれないが、そんなことを躍起になってするのは ── 趣味や仕事だというなら仕方ないと思うが、他人のウケを気にしてするのはキモチワルい。
 それ(媚びて受けを狙うこと)をすることそのものもそうだが、そうしなくてはならないという空気を醸成している環境やその哲学がキモチワルい。

 だから僕は周囲の人が僕にとって取るに足らず、好き勝手に振る舞っているありようを好ましく思うし、僕も同じように取るに足らない存在であることを望んでおり、それを実現している。
 市場価値がないことに価値がある、と思っているわけだ。つまり一般に広い範囲の人やその人生は、市場価値がないことに価値がある。


<攻防の境界線>

 書物をはじめとする市場価値のある(価格のついている)商品は、市場価値のあることに価値がある。次元軸が違うのだ。
 鳥の飛ぶ姿は美しく、その造形も洗練されていて素晴らしいが、ありふれていて市場価値はない。
 その姿を観察することに価格もついていない。

 書物はどうか。
 一般的に、価格が設定されているものはフリーペーパーよりもよほど滋味深い。味わう価値がある。
 TVや Youtube などは有用性の高い情報もないわけではないが、どうも勿体を付ける風潮がある。
 CMに入る前に「この真相は!?」などと煽っておいて、大したことのない「ありふれた」結末を語って笑いに落とそうとする。
 くだらないと断ずるつもりはないが、浅くて滋味もない。栄養価が低いのだ。

 それでいて「我々は何の役にも立たないありふれた存在です」という謙虚さはない。
 TVを(アンテナも含め)持たなくなった理由はそこである。
 NHKも自身を「我々は何の役にも立たないありふれた存在です」とは言っていない。そうでしょう?







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Engineering-Form-Life-Link-Mechanics-Recollect-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Generator-
 
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  -Book-Computer-Contents-Human-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :夢見の猫の額の奥に:
:本棚からあくび:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:
// NOTE:260128
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
昔話を、はじめよう。
SUBTITLE:
〜 Recollect myselves.〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[List]

 

 

//[Body]


【歯の治療のはなし】

 9月か10月に左下5番の抜歯術をし、11月に3番の抜歯術をした。
 5番は少々腫れ、3番はこっぴどく腫れた上、予後があまりよくない。
 ために経過観察のたび口の中(歯茎周辺)を縫合される。だいたい三日後、一週間後、二週間後、といった頻度か。
 もともと粘膜が薄い部位の上、僕の体の粘膜はさらに薄く弱いので、縫合しても切れたり裂けたりしてしまう。場合によっては縫合中に切れることもあった(当然麻酔を受けているので、施術中はほとんど痛みがない)。

 傷は安定し筋トレもできるようになり(療養中は食べて寝て、の繰り返しのため、だらしない体型になる)カフェインや煙草、アルコールも楽しめるようになり、歯磨き(そっと)や入浴(少しずつ)もできるようになるのが1ヶ月後。
 しかし抜歯痕を充填するための人工骨が、今回のものは密度があまり高くなかったらしく、定着するにつれ他のメーカよりも目減りが激しいという。
 それでインプラント基部埋設ついでに人工骨の補充充填を行なったのが1/23。

 抜歯術の時ほどではないが、痛むし腫れる。
 経過観察のたびに縫合され、口の中が糸だらけになるのも相変わらず。
 当初は痛みで恐怖を感じ始めていたのだが、最近は(麻酔を受けていても歯間に針が通るときに感じる)痛みにも慣れ、糸だらけになるほうが裂開したままよりよほどよいだろうと開き直った気持ちでいる。

 今回は基部のメーカも(僕の意思には関係なく先生が)変更したのだが、従前の基部より1.5倍ほども径がある。
 3番は前歯にあたる ── 知らない人のために説明すると、歯列は前歯の中心を基準に、左右奥に向かって1、2、3と番号が振られる、ので「左下3番」は中央歯間から奥に向かって3番目。僕の場合は犬歯のひとつ手前の前歯になる ── のだがそれでもレントゲンでは大きく見える。
 逆に考えれば従前の基部はそれだけ小さくコンパクトだった。
 大きいぶん頑丈なのだろうが、それだけ埋設時に負担はかかるし(各種サイズ展開があると思うが)小柄な体型の人はそもそも使えないこともあるだろう。

 僕がインプラントを選択しているのはシンプルに「ものぐさな性質のため、おそらく入れ歯の手入れを満足にできない」と予測したからだ。
 歯を磨くのも面倒な時があるのに、入れ歯の手入れ(しかも複数)なんて怠るに決まっている。
 しかし左下はほとんどの部位が病巣になってしまっていたため、予定ではほとんど人工歯になる。
 現状、7番はすでにインプラント。1と4は自然歯(両親に感謝)、現在3と5を施術、2と6が病巣のため今年の秋に施術予定。
(入浴制限がひと月は発生するため、僕の掛かっている先生はインプラント施術を秋冬のみする)

 

【言葉遣いのこと】

 今回の施術の一週間ほどまえ、BPと酒を交わす。
 高校時代からそうなのだが、どうも彼は僕の言語能力をかなり高く評価している。
 当然多少の自覚はあるが、それでも僕は自分の言語能力をそれほど高いとは評価できない。

 10代の頃に気付いてからからずっと「思っていることの半分も言葉にできないし、言葉になってしまったものは、思っていることよりずっとイビツなカタチをしていて還元性(言葉から、もとの思いを精確に再現すること)が自分自身でもほとんど不可能だ」と思っている。
 それでも何かを誰かに伝えたり、自分の思いを記録するには言葉を使うしかない。

 最近は体調もあまりよいとは言えないし、(自称百歳なので)生い先も短いし、人生に(こうあれかしという)希望はないし、誰かに伝えたいメッセージを記録しているわけでもないから、Webにもあまり日記を書かなくなった。
 そも僕の書いた言葉から、僕の考えたことを辿ることが可能だったとしても、僕の感情やそれにまつわる経緯の全てを知ることは誰にもできない。僕自身にさえ、書いているときの感情を精確に想起することは不可能で、それにまつわる記憶を完全に思い出せるかと問うたら(僕の場合は記憶の錯誤をいくつか作った経緯もあるため)それも無理だ。

 だから僕の書いている文字列や、僕の発した言葉がどれほど「言葉で表現することがむつかしいこと」を的確に表現することに成功しているとしても、それはその言葉を受け止めた人の感想であって、客観的事実ではないし、僕にとっても正しくはない。
 だからといって僕に他人の感情や感想、その人の世界観を否定する権利はないので、賞賛されれば大人しく感謝する。僕の認識とは異なるとしても、その人にとっての認識は否定の余地がない。

 これは正義や倫理観にも通じるのだが、つまり「共通認識」や「常識」「あたりまえ」「普通」とされる多くのことは「なんとなく多数派だ」と発言者が思っていることがほとんどである。
 それを「個人の見解」と自覚している場合は、何らの否定をする余地もない。
 一方で「当たり前なんだからおまえもそうだろう」と一括りにされれば、さすがに僕も否定する。

 先の例で言えば、友人が僕の言語能力に感嘆しても、その感嘆を僕に押し付けて「お前もそう思うだろう?」と問われれば「全然そうは思わない」と、卑下でも謙遜でもなく否定する。
 彼の感覚している(僕の言語能力に対する)感嘆は彼の感想であって、僕の認識ではない。

 

【両親の言葉遣い】

 僕の父上は東京育ちだったため、群馬にあるにもかかわらず僕の家庭は群馬弁をまったく使わなかった。
 なのでいまだに群馬弁を使うことが少ない。ために一部の土着民から「気取り屋」と認識されることがある(俺も群馬生まれの群馬育ちなんだがな)。

 群馬弁というのは「だ」「べ」「が」「っ」「ん」などを使い、独特の強い音を発する。おそらく強風の中、畑の向こう側にも通じるように発展した結果なのではなかろうか。
 たとえば語尾なら「〜べがな」「〜だんべに」などが知られている。特定の市では「〜だがん」ということもあるようだ。
 僕にはそれらの音が耳に強く汚く感じられるので(僕は濁音を好まない)、なおさら使わない。

 母上は栃木の女だったので、栃木訛りがあった。
 素朴な語尾と、やんわり歌うような拍子の語り言葉が多く、僕は彼女の言葉が大好きだった。
 母親の料理というのはほとんど覚えていない(僕にとって「おふくろの味」なんてものは存在しない)のだが、母親のやわらかな語り口調、というのを僕は記憶している。

 

【来歴】

 初めて書くのだが、僕は3歳の頃から百科事典を読み始めた。
 文字はまだ読めなかったが、写真や図解の多いそれは非常に興味深い内容にあふれていた。
 日本史や世界史だけでなく、宇宙の発生や観測方法について、生命の発生と進化、鉱物と地層、地殻変動と地球の地殻運動、気温や降水量と動植物の生息域、それにともなう人間の活動、科学技術の発達と戦争など、一般的に何らかの科目(化学とか、地質学とか、歴史とか)と分類される多くのことを、何も知らないうちから包括的に見ていた。

 4歳にはひらがなを読めるようになったので読み仮名から漢字を読むこともできるようになった。
 5歳には(漢字の読み方をたびたび尋ねるため、面倒になったらしく)辞書の引き方を姉から教わった。

 それで小学校に通って、退屈した。

 ひらがなが書けない子はもちろん、今説明されたばかりの計算もできないし、当然生物や科学の基礎知識も知らない。
 それでもぼうっと授業を聞くのは平和で楽しかった。
 ちなみに僕はこれまでの人生で、誰かが何かをできないことに対して「なぜこの程度ができないのだ」とイライラしたことがない。僕だってたくさんのこと(速く走るとか、鉄棒の逆上がりとか)はできなかったから、誰だって得意なことがあってできないことがあると、身をもって知っていた。

 だから僕は自分の知識をひけらかすこともできなかったし思いつかなかった。
 まぁ、しなくて正解だったと今は思っているが。

 8歳の時だが、授業で教わっている内容がすでに知っているものだったため教科書の先を読んでいたら教師に「やめなさい」と言われた。
「予習と復習」なんてことを言うタイプの教師だったので意外に感じたが「やめたほうがいいならやめておこう」と、それ以降、現在の授業が既知のものである場合はぼうっと過ごした。
 反発して、隠れてでも先を読んでいれば(将来的に)よかったのだが、教師のいうことを真に受けた挙句、退屈して眠るようになった。
 以前書いたと思うが、僕は宿題も一切しない子供だったが成績は(体育を除いて)非常に優秀だった。
 中学以降、並かそれ以下になっていったのは、あの教師のせいだと密かに思っている。

 

【そのとき学んだこと】

 ひらがなも書けない子供が多かったのに、翌年にはだいたい皆、間違いなくひらがなくらいは書けるようになっていた。掛け算が始まる頃には足し算ができない子はほとんどいなかったし、分数の演算が始まる頃には掛け算ができない子は少なかった。

 皆、僕より少し遅いだけで、できるのだな、と思ったのだ。
 人間は誰でも、早い遅いの別はあるにせよ、今はできないとしても、誰かができることなら、近しい位置まで到達することは可能なのだと。

 僕だって、遅いけれど走ることはできた。
 ゴールできなかった徒競走は一度もない。
 ただ先頭だった試しはなく、最後尾でなかったこともないだけだ。

 それでも誰も、僕を否定したり非難したり馬鹿にしたりはしなかった。
 これは保育園で僕が知らず知らずに学んだ、とても大きなことだと今は思う。
 
<せめてシャワーを浴びたいぜ>

【昔話を書こうと思う】

 老人の昔話と、いい歳をしたおっさんの自慢話は嫌われると相場が決まっている。
 若者からすれば前者は退屈で、後者は滑稽だからだろう。

 僕は子供時代のことを語ることを避けてきた。
 不幸だったから、ではない。

 両親も姉も妹も揃っていて、ペットも犬、猫、(ときどき)鳥(まれに)トカゲもいて、工場兼自宅には従業員の人たちもいて、にぎやかで、あたたかかった。
 思い出す光景が幸福だから、それを思い出して浸る行為が不幸だった。
 少なくとも、過去を思い出す時は現在に不幸に感じている時で、だから思い出すことをやめたのだ。

 もう両親もいなくなり、縁者も次々死んだ。近いうちに従姉妹や僕の姉妹が死に始めるだろう。
 齢を重ねてよかったと、つくづく思う。
 子供の頃から、早く大人に、早く自分で自分の舵を切る自由が欲しかった(できることなら早く老人になって、偉そうなツラで他人に説教の一つもしてやろうと思っていた)。
 それがたとえ親だとしても、自分以外の他人に、まして運や災難に自分の人生を左右されるなんて心底嫌だと思っていた。
 人が死ぬたび、誰かと縁が切れるたび、僕は自由になる。
 運や災難に支配されない方法は、運や災難を支配するか、それらと一緒に生きるかだ。

>>>

 先日、姉の彼氏に「猫君は彼女を作らないの? ひとりで寂しくない?」と問われたのだが、僕は「寂しいのが好きだから」と正直に話した。
(恋人が27人いる話をすると、おそらくややこしくなるので)
 もちろん年に30分くらい寂しさを感じる時はある。しかし寂しいという感情は(自分の中に他の人も棲んでいると)すぐになくなってしまう。
 そんな貴重な寂しさを感じるには、一人でいるほうがいい。

 それに僕はひどく自分勝手で、自分勝手ついでに誰かを傷つける。
 どうでもいい人が相手なら文字通りどうでもいいが、ときには一番近い人を傷つけることだってある。
 10年ほど前にそれを知って以降か。僕は可能な限り、他者との縁を作らないように、断てる縁は断つようにしている。

 未練や後悔、寂寥がないかと問うにそんなはずもない。
 それでも、それらを含めての自由だ。

>>>

「己が何者か 時には立ち止まって 向き合ってみるといい」
 最近プレイした「Ghost of Yotei」の作中に、そんなセリフがある。

 老人の昔話は退屈だという。それはそうだろう。
 しかし若者には振り返る「昔」なんてものがない。
 当たり前だ。振り返らないのが若者の若者たる証だからだ。

 振り返らないのが正解で「昔話なんてくだらない」とうそぶくのが正しい姿勢だろう。
 彼らは己の人生を歩んでいて、まさにそうあるべきで、あとから振り返るための「昔」を今まさに作っている。

 しかし人間は不惑も過ぎるとつい独りよがりになる。
 自分はこうしてやってきたのだから間違っていない、などと広い範囲の根拠もないことを他人に押し付けたりする。そうして頑固でくだらない老人になるのだ。

 だから昔を振り返ろうと思う。
 振り返った昔を、これからようやく書けるようになる。

 わしはもう齢百を超えたので、好き勝手に昔話をしてやろう。
 自分が誰だか、せめて死ぬ前くらいは思い出してもいいだろう。

 無力で未熟で浅慮で、でも未来を夢見て、何ひとつ誰ひとり疑うことを知らず、大切なものばかりだった自分を。
 いつも誰からも ── ただし妹を除いて ── 
大切にされていた自分を。

 素敵だった世界を。

 愛するに足る世界を。







 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:銀猫:
 
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[Cat-Ego-Lies]
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:夢見の猫の額の奥に:
 
 
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// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
設計に必要な哲学の設計。
SUBTITLE:
〜 I designed, therefore I am. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

 本来なら私の大好きな大晦日。
 でもどうだろう。
 毎日が夏休みで、毎日が冬休みで、人類の大半が滅んだあとのような静かな日々を過ごして久しいから、そうなると晦日も正月もクリスマスもお盆もバレンタインデーもない。

 季節の移り変わりはあるが無理に自宅から出る必要もない。
 特別深い関わりのある他人がいるわけでもないので、自分から誰かに会う必要も、会いたいと思うこともない。
 言うなれば毎日が大晦日のように静かなのだ。

 時々、道に迷った旅人のようにして友人や妹が(たいていはメールで予約をして)遊びにくる。
 その程度である。

 冷蔵庫の中の豆腐(どころかほとんどの食材)が終わってしまったので、最近お気に入りの豆腐を買いに、少し離れたスーパーに買い物に出かけたのだが、異様に混んでいた。
 自動車で片道30分ほどは掛かるのだが、その店にしか置いていない。
 そこで今日が大晦日であることを知った。思い出したと言ってもいい。

 実際のところ昨日、時計の日付を見て驚いたのだ。もう12月30日ではないかと。
 とはいえ一年という単位も、もはや僕にはどうでもいいものになっている。
 対外的に、確定申告などの処理があるので少々タスクが増える程度のこと。

 一般的な人間は、混んでいる店に、それでも何とか入ろうとするもののようだ。
 僕の場合、混んでいる店からはすみやかに立ち去る。これは近所だろうと多少離れた場所であろうと変わりない。


 今回は少々離れた場所にある店だったし自宅の冷蔵庫に豆腐がないのだから数日食事に困る可能性もある。
 それでも嫌なものは嫌なのでそのまま帰宅した。
 僕はそういう性格で、そういう行動を躊躇なくできるようになった。


 サラリーマンの頃だったら我慢して駐車場の空きを待って買い物したかというとそんなことはなく、御用納めがあるあたりの会社帰りに、まとめて食材を買い込んでいた。
 これはゴールデンウィークのような大型連休の時も同様で、連休前の会社帰り、空いている時間にマーケットにふらりと立ち寄って1週間分くらいの買い物をしてしまう。

 だいたい14〜15時には会社を出るような牧歌的な勤務をしていたので道路も店も空いていて助かった。

 今の暮らしは気に入っているが、いかんせん世俗に疎くなってしまった。
 年末が近いことに気づいていても日付を確認したのは12月30日であり、GWやお盆も同様、真っ只中に気づいて出先から直帰するということを何度か経験している。
 不満があるかというとそうでもない。

 買い物ができない不便さはあるが、どうしても買い物がしたいなら駐車場が空くまで待つか、他の店を転々と当たればいい。

 しかしそれをしない自由を僕は手に入れたのだし、その自由をたいそう気に入っている。
 差し迫る予定もないし、飢えるのは僕だけだ。

 駐車場が混んでいて気に入らないから帰るという選択をするたび奥様(仮想)は呆れたように笑うのだが、気に入らないものを断じて受け入れないという姿勢を、非難するのではなく尊重してくれるので助かる。
 かつて望んだとおり時間富豪になって、他人との関わりも極限まで減らすことができたので、とんでもなく自由だ。
 スーパーで買い物はできないのだが、その選択と実行によって本当に爽快な気分になれる。
 こんなに気分の良いことはないのだが、誰かに共感できる類のものでもない気がするので、ひとり幸せを噛みしめている。

 そもそもドライブに出掛けただけ、と言い換えてもいいが、ドライブは世俗のイベント期間ではない時期の、平日の深夜にしかしない。
 それに自動車の運転が格別好きなわけではない(むしろ嫌いな)ので、今回のこれは単なる骨折り損である。その点は言い訳ができない。
 とはいえ年末の慌ただしい空気感を5分程度、胸焼けする程度には満喫できた。
 贅沢を言うとこんな空気は満喫したくない。

>>>

 たまには日記を書こう。
 僕の思う日記というのは、今日あった出来事に新しい解釈を加えること、明日がどんな日であるといいかについて願い、祈り、全体をイメージし、イメージからデザインを起こし、タスクを細分化し、実行のプロセスを想定し、そのあたりで面倒くさくなって眠ることである。
 眠って日記が完結する。だから多くの人とは「日記」に対する概念が異なる。

 大抵の人は僕の説明を聞いて、曖昧な笑いやあからさまな疑問符を浮かべる。それはその人たちの自由である。僕は僕の自由によって僕の日記を定義する。

 未来は明日に限らない。
 10年後をイメージしてもいいし、10年前の過去に新しい解釈を加えてもいい。

 過去の解釈を変えられれば必ず未来が変わる。これはいつか書いたことのように思う。
 よりよい未来を思い描くことが無意味だとは思わないが、思い描いているだけでは何も形にならない。
 イメージだけでは精密な形は作ることができないし、設計(デザイン)だけでステキを作れるほど器用な人は少ない。

 設計にいちばん大切なのは技術や経験、スキルやセンスではなく、哲学だと僕は思っている。
 これは機械設計だけでなく、すべてのデザインに対して、である。
 人生設計(ライフデザイン)もそうだし、居住空間設計(インテリアデザイン)もそうだし、製品設計(プロダクトデザイン)などもそう。

 人間関係(ヒューマンリレーション)もデザインして形作ることは可能で、多くの人は無意識にそれをしている割に、意図的/作為的にそれを形作ることに一定の忌避感を持っている。

 たとえば友人や恋人、伴侶や家族について、自身の中で明文化して意識しているかどうかに関わらず「こういうものがいいな」と思っている。
 これを僕が言語化すると「都合がいい他人を求めている」ということになる。

 それを顕在的に意識していない場合、不快な現象が他人との摩擦によってもたらされたとき「この人のせいで不快/不幸になった」と人間は感じるようだ。
 たとえば僕は水回りは比較的綺麗にするのだが、靴下をそのへんに脱ぎ捨てたりする。
 衛生について意識している部分はあるのだが、整理整頓という点では大きく劣る。コンビニのトイレを掃除することに躊躇はないのだが、玄関に靴を何足も脱ぎ散らかすことが多い。一人で暮らしているのに「今日はパーティでもあるんですか?」という具合になる。

 仮にこういうズボラさを許せない人が僕の家族や恋人だった場合、僕のありようをして不快だと感じ、僕が家族(あるいは恋人)であることは不幸だと思うだろう。
 しかしこれはそれぞれ(僕と、僕によって摩擦を感じている誰か)の持っている哲学(あるいは価値観)を明文化して照合していなかったことが原因だと考えることができる。
 それぞれに明文化して照合していれば「これはいかんだろう」と、不快/不幸を感じる前に対処ができるからだ。

 このとき大事なことは、自身の「快さ/幸せ」のイメージを明文化するのではなく「不快/不幸」を明文化して意識しておく必要性だ。
 他人から与えてもらえる快さや幸せなんて、だいたい的外れになる。

 自分の望んだストライクゾーンの快楽や幸福を他人に求める人もいる(それはそれでその人の自由だ)が、僕ならそんな現象が起こったらシンプルに「キモチワル」と思う。
 何がと言って、そんなことを他人に求めることもキモチワルいし、実現する程度の雑な幸福がそもそもキモチワルい。
 なによりそれが実現してしまうそれぞれの関係性が一番キモチワルい。

 飼い主に媚を売る空きっ腹の犬を見るようなキモチワルさだ。
 こうなってくると飼い主もキモチワルいが犬もキモチワルい。
 キモチワルくなんてなくなくない? という人はまぁ、ご自由にどうぞ……。

 そうではなくて「これは流石に無理という『ストライクゾーン』を外してくれさえすれば大丈夫」というのを明文化しておくほうがいい。
 これは恥ずかしいのであまり書きたくないのだが、僕が恋人(女性)に求めていたのは年齢やファッションではなく「おへそが綺麗であること」「かかとをきちんと手入れしていること」である。20代の頃にはすでに明文化してブログに書いていた記憶がある。ほらみろすごく恥ずかしいじゃないか。
 そしてこれも100%ではなく、だいたい60%くらい達成できていればまあいいか、という受け止め方だった。

 これは哲学として、男も女も見えるところは綺麗にする奴が多いのだが、そういう奴ほど見えない部分が醜かったり汚かったりする。
 醜い自覚があるから取り繕おうとするのだ。
 もちろん服や髪やメイクを整えるのは結構なのだが、身だしなみの基本の部分は「自分をどう見せるか」「自分にどう見えるか」ではなく「他人にどう見えるか」「他人を不快にさせていないか」である(社会から距離を取って引きこもり5年を超えるイキモノがこれを書いています)。

 顔が美形だろうがプロポーションが良かろうが「おへそ」や「かかと」「背中」「肘」という「自分にとって見えづらい/他人が見ていると思っていない部分」を手入れしない人間というのは、つまり自分のことしか考えていないわりに自分の手入れすら満足にできないのだ。
 そしてこれはフィジカルだけの問題ではない。
 肉体だけでなく自身の精神も、経済も、能力も、周囲の人間関係も、環境も、表面だけカッコつけて取り繕うわりに、中身がないどころか見えない部分が汚いのだ。

 また自分のことしか考えない人間は、意図せず他人に与えている不快感には無頓着で、そのうえ自分を不快にする人間には容赦がない。
 なぜなら「自分はちゃんとしている」と思っているからだ。
 これも「自分はちゃんとしていない」と薄々分かっているからこその指向性だろう。
「醜い部分を自分なりにでもきちんと取り繕って(誤魔化して)いる自分は強く美しく素晴らしい」と明言しないまでも潜在的には思っている節がある。

 僕のように「明らかに自分はダメダメだな」と思っていると「ちゃんとしよう」などとは思わない。
 公共料金なんて止められてから払っても問題ない。
 家事だって思いついた時に、したいことだけすればいい。それで問題はないのだ。
 食器洗いも洗濯も風呂焚きも、大抵は機械がしてくれるし、機械ができないことを自分がすることで生活は成り立つ。
 そのくらいダメな自覚があるので、まともな人はたいてい僕の元を去ってゆく。
 今も残っている人たちは仏のように優しい心の持ち主か、頭がイカれているかのどちらかだと推察している。


 いずれにしても、たとえ見てくれが悪かろうとも自分の身体の見えない部分をきちんと手入れしている人は、それだけで誠実だと評価できるし、見てくれがいいのに見えない部分をおろそかにしている人は「まともじゃないな」と評価できる。
 自身の身体に対するアプローチだけで、その人の自己満足の傾向や、他者に対する思いやりまで予測が可能だ。
 20代の俺はすでにして天才か。

 かくいう僕が果たして他人を不快にしたり傷つけたりしなかったのかというと、
疑問や議論の余地ばかりが残るのだが ── 。


<冬の微睡み。君ではないぬくもり>

>>>

 とにかくそのようにイメージの具現には設計が、設計技術の向上には哲学が必要だと僕は思っている(話題を戻すことで話題を逸らした)。
 そして設計だけで終わったら何も実現しないので、あとは良い材料と適切な処理が必要になる。料理と同じだ。

 久しぶりに真面目なことを書いたので背中が痒くなってしまった。もうカチンときたので今年はチョキしか出さねーからな!

 僕は本当に欲しいものは絶対に言葉にしないように生きてきた(僕の中でもっとも重要なジンクスである)。
 手に入れたので言葉にするが、僕は自由が欲しかった。
 お金もモテも悪くはないが、意味のない我慢に無理矢理の価値を見出すほど愚かになりたくはなかった。

 厭なものを厭だと言って蹴散らかし、したくないことをテコを当てても動かない程度に放棄し、憎いものを容赦無く憎み潰す時間と自由が欲しかった。
 笑顔で近寄ってきて言葉巧みに丸め込み、自身の怠惰と欲を満たす
ために、こちらのリソースを値踏みして剥ぎ取るような奴を無視できるようになりたかった。

 なってみて、どうかといえば満足である。
 幸せかと問われるとなんとも言えないのだが、不幸ではない。全く不幸を感じないのだ。
 満杯の駐車場や、渋滞の道路から外れて踵を返し、先のことなど無視して自宅に戻れる痛快さは、夜中のドライブに感じる寒さや孤独に裏打ちされている。

 孤独であることは、最大の自由だ。
 もちろん自由そのものが、ある種の檻として機能することもあるのだが、すなわちそうした「自由を設計すること」にも哲学が必要というわけで ── 。







 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
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[Engineer]
  :工場長:青猫α:黒猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Engineering-Form-Interface-Kidding-Link-Maintenance-Mechanics-Memory-Recollect-Season-Stand_Alone-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Generator-Reactor-Resistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Car-Fashion-Friend-Human-Night-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :君は首輪で繋がれて:
:夢見の猫の額の奥に:
 
 
 
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// TimeLine:251124
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
歯周病がこんなにつらいとは。
Written by BlueCat

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//[Body]

 子供の頃に比して体質が変わった部分もあれば、青年期に始まった変化から戻った部分もある。
 子供の頃から変わった一例は、体温の変動に対する弱さだ。
 40℃近い熱でも一般的な活動(歩行や読書やゲーム程度)に支障はなかったが、40代になったあたりから発熱に弱くなった。
 37℃程度で倦怠感が発生し、38℃にもなると歩行が困難になる。

 第二次性徴以前の状態に戻った部分の例は、消化吸収能力だ。
 生まれたばかりの頃の母乳アレルギィに始まり、僕の身体は生まれつき摂食と吸収が不得手である。

 その代わり、必要のないときはまったく食欲を感じず(食欲で思考や情緒に影響が出て活動が制限されることなく)ごく少量の食事で長時間の活動が可能だ。
 今は最低でも24時間に一度、食事をするようにしているものの、72時間(約3日間)に2回程度でも問題がない。

 食事に関する一般的な人の生理サイクルが分からないため、恋人に低血糖を誘発させたり、あるいは僕の方が過食(一日三食は僕の身体にとって過剰)で不調になったりした。
 子供の頃から家族と一緒に暮らしていたなら、そういう一般的な人間の特性に対する知見も深まったのだろうか。

 20代くらいまでは父親や妹と暮らしていたし、食事も一緒に摂る機会が多かったが、そんなことを感じる機会はなかった。
 僕は義務教育の間は昼食と夕食だけで過ごすことが多かったし、高校になったあたりから夕食だけで過ごすようになった。
 僕の小食は子供の頃から父上を悩ませていたが、無理に食べさせれば消化不良や胃腸炎を起こすことを(当時の僕よりよほど)理解していたようで、食事の量や回数に限らず何につけ、無理に「こうしなさい」と言われたことはない。
 
 例えば子供の頃は両親の実家に帰省した折(何があったわけでもないのに)神経性の急性胃腸炎に罹って病院に担ぎ込まれたりした。
 確かに慣れない環境で、慣れない人と接することに思い悩みはしただろうけれど、緊張やストレスの自覚はなかったと思う。
 今ならHSPだの発達障害だの繊細さんだのとテキトーな名前を呼称することもできるのだろうけれど、僕にすれば単なる神経質、あるいは過敏症である。

>>>

 父上も母上も、しかしこの(僕の)身体にはずいぶん気を揉んだことだろうと近年は思う。
 父上にしてみれば待望の(漏れ聞くところでは「水子になった誰か」の次の)長男だったからだ。
 昭和前半世代の男児を尊ぶ価値観を僕は理解できないが、父上の世代ではそうした価値観がまだ当たり前だった。

 そうしてようやく(生きて)生まれてきたたと思えば「母乳がダメ、粉ミルクがダメ、紙おむつをはじめ化学繊維がダメ」といった具合だから、今でこそその苦労も想像が付く一方、それに対する当てこすりめいた愚痴(お前は手が掛かった、みたいなこと)を聞いたこともない。
 そう考えるとよほど溺愛されていた可能性も(今だからこそ)理解はできる。

 じつのところたくさんの人に「5人姉妹でたった一人の男の子では、さぞ大切にされたのでしょう」と言われたし、姉からは「生まれたときに父が病院で万歳していたのは後にも先にも猫くんの時だけ」と聞かされている。
 しかし僕には、さほど溺愛された自覚というのがない。

 まぁ4歳にしてスーパーの床に転げて泣き喚く妹(当時2歳だった)
の我がままを目にし(私はああいう行為は厳に慎もう)と思って以来、自分の欲を吐露したためしがない。
「お腹が空いた」なんて(当然、親にさえ)一度も言ったことがないし、自発的に「○○が欲しい」と言ったこともない。言って叶うと思った事がないのだ。
 のちのちこの価値観は僕の人間関係構築に多大な影響を与えることになる。

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 観察の範囲では誰でも、好意を持っている相手に多少は頼られたり甘えられたりしたいものらしいのだが、僕にはそれを望むことさえできない。そういう禁忌がジンクスとして、プロテクトのように掛かっている。
 それを辿ると、ただ一度だけ、子供の頃に親に我がままを言ったことに起因する。両親が離婚するときに意見を求められ、僕は強く反対したのだが叶わなかった。
 結果、絶対に誰にも(親にも姉妹にも恋人にも友人にも)たとえ心の底から望むことがあっても(そもそも発生しないのだが)、望みが強ければいっそう頼まないようになったのだ。
 だから友人の多くは僕から遊びに誘われたり、僕が困って頼みごとをされたことがほとんどない(中学時代からの友人であるTUも「今まで一度もない」と指摘している)。
 当然、恋人もデートに誘われたりしない。
 僕にすればデートをしたくないときは当然誘わないし、僕がデートをしたいと思ったら(断られるかもしれない、とかいう可能性の以前に)誘ってはいけないのだ。


 なので例えばTUやBPのような古くからの友人は自分から積極的に「手伝おうか」などと声を掛けてくれる(そしてだいたい僕に無視される)が、僕がやむにやまれず頼み事をすると喜んで飛んでくる。
 彼らからすれば僕の行動指針はある意味ストイックであり、いわゆる「水臭い」感じなのだろう。
 けれど僕からすれば恋人とのデート同様「したくないならする必要はないし、したいなら絶対に他人に頼んではいけない」という拘束に従っているだけである。

>>>

 幼児だった僕が体調不良で伏せていると、当然普段どおりの食事などできないので、ゼリーだのプリンだの果物の缶詰だのといったものを食事に与えることになる。
(子供の頃から甘いものが好きなのは、身体にとって簡単に吸収できる高エネルギィ源だからだろう)
 それを見て妹がやっかむ。自身に同じような待遇を求めるのである。

 しかし妹は体調が悪いわけではないから、親としては普通に食事をして、いつもどおりの生活をしてもらいたい。
 始めのうちこそ多少の甘えを許しはしても、それで僕の体調が良くなるわけではないのでしまいに親も妹の我がままをたしなめることになる。
 すると妹が、こんどは仮病を使う。しかしそんなものはすぐにバレる。
 妹にすれば僕ばかりが大切にされているように感じ、やっかみが高じてしまいに階段から突き落としたり、病床の僕の背中を噛んだりするのである。

 そのようなわけで僕はある意味で妹に申し訳ないと思う気持ちもあり、親に我が儘をいうことをしなかったのだ。仮に妹がいなかったとしても、自分の欲を吐露するのは苦手だったように思うが。
 両親にすれば、僕に対して過保護にしていることが姉妹間の関係を悪くする(ひどい場合は妹がしているように暴力を振るう)可能性も考えたのかもしれない。

 そのようなわけでクラスでただひとりテストで満点を取ろうが、9歳から家事をして10歳には煮る炊く焼く蒸す揚げるというひととおりの料理ができるようになり夕食を毎日作っていたというのに褒められたことがない(まぁいずれも褒められたくてしたことではないから気にしたこともないのだが)。
 今思うとこれは僕の自己肯定感が低い理由の1つだろう。僕は何をしても褒められた事がなかったし、褒められたいと思うことさえ(一度も)なかった。

>>>

 いや、身体の話である。

 9月に歯周炎の治療でイプラント術を受け、ひと月してようやく筋トレもできるようになり、10月から少しずつ体型と筋力を戻している最中に別の歯(の根にあたる顎の骨)が痛くなった。
 ── ちなみに施術から2週間程度は辛いものやカフェインといった刺激物は禁止、4週間は入浴/シャワー/歯磨き/運動は禁止であり、この禁を破ると患部周辺がひどく傷んだり、腫れたり、熱を出したり、頭痛がしたりして鎮痛剤さえ役に立たない状況になってしまううえ治りが悪くなる。
 レントゲンを見ると、同じく根尖性歯周炎である(実はこれ以外にさらに2本ある)。
 よって僕の左下の歯のほとんどは「骨から使い物にならなくなりつつある」ということになった。

 しかも内部で菌の病巣が骨まで「う蝕」し、壊死して壊疽しているので放っておくとますます体調が悪くなるし、人によっては脳梗塞などにもなる。
 つまり高脂血症の私の寿命がさらに縮むってわけよ。
(今年はじめに「副鼻腔炎かな?」と思っていたのも、おそらくその症状の一環だろう)
 治療もただのインプラント施術と異なり抜歯した後に壊疽した組織を摘出し、壊死しつつある組織を除去しなくてはならないため、ガンガンに骨を削られる。
 麻酔が効いているからそのときはいいのだが、身体の負担はかなりのものである(人為的に骨折しているのと同等なので当然)。

 ついでに言うと僕は粘膜(に限らず身体)が弱いので、治りも遅い。
 今回も腫れと痛みが2週間ほど続き、鎮痛薬と抗生物質漬けになっている。
 鎮痛薬を使っても3〜4時間で薬効が失われるので寝ることもままならないし、口の中が縫合と腫れによって非常に不自由な(その上痛い)ので、鎮痛薬なしには食事をする気にもならない。食欲がもっとある人なら、もしかしたらそれでも食べるのだろうけれど。
 心臓より頭を低くすると顔が腫れたような感覚になり、鼓動が患部に響いて痛むから、顔を洗うのはもちろん、食器を洗うのにも難儀する始末(食洗機があってよかった)。

 痛みが続くと意識が朦朧とする。そんな気はなくとも集中力というのが著しく欠如する。
 そこで思ったのだ。月経痛が重い人は本当に辛いだろうなぁ、と。
 また美容整形で骨を削るような人も、それなりに辛い思いをしているんだろうなぁ、と。

 まぁようやく痛みが少し落ち着いてきたので(日本語を忘れないうちに)日記を書くことにしたのだ。

>>>

 そもそもこうなったのは20代の頃、(もしかしたら鬱病で)眠り続けて栄養失調になり、歯がボロボロになったのが始まりだ。
 そこからは虫歯が一気に増え、しかも治療する事ができなかった(諸般の事情による)。
 そのとき「これは50〜60歳頃に悪化して死ぬだろうな」と思ったのではある。そして「もし将来、万が一にもオカネモチーになって治せるようなら治そう」と思った。
 治せなかったら(お金持ちにならなかったら)死ねばいいだけである。そもそも僕は僕の肉体や寿命に、さほどの期待もしていない。

 果たして見立ては甘かった。
 父上でさえ60代前半で死んだのだから、それより身体の弱い僕の寿命は50代後半がせいぜいだったはず。それを見誤っていた。
 実際しっかり50歳でこの通り悪化してしまっているのだが、幸か不幸か単なる運か、オカネモチーにはなることができたので、先生に「来週手術するからお金用意して」と言われても臆する事なく「はい。用意してきます」と答えられる。

 長生きする気はないのだが、どうやら周囲の人間を観察するに、やはり死生観が僕とは違うのだ。

 僕は「生きることは素晴らしい」なんておためごかして自分が存える欲を誤魔化すつもりはない。
 「生きることは素晴らしい、だから自分は生きるし、あなたも生きるべきだ」なんて僕は思わない。
 それは「生きたい」という自分勝手な欲と、それにかまけて犠牲を積み重ねることから目を背けるための体のいい言い訳に思える。

 いや生きたいと思うのは自由だ。こうしてシニカルに語っている僕でさえ、死を目前にしたら「これはちょっと違うかな」なんて言いそうなものである。
 ただ「生きたくない」と思っている他人にまで「生きていることは素晴らしい(と自分は思っている)のだから生きろ」というのは乱暴だし横暴だ。
 自分の欲を他人に擦りつけて気持ちよくなろうとするあたりは強姦にも等しいとさえ思う。
 生きたいと思って自由に自身が生きるのは結構なことだと思う。しかし自分の価値観を対極の人間に押し付けるのはいただけない。

 とはいえ一般的な人の多くは「死にたい」という人に対して僕のように「好きにすればぁ?」とは言えないのだ。そういう倫理観があるし、それはそれで尊重されるべきだろう。
 それに僕は、たとえ姉妹や友人が僕より先に死んだとしても、なんとも思わない。それが自然なことだからだ。
 春に雑草が生えたら万歳をして喜び、冬に雑草が枯れ果てると涙を流して悲しむような人間を見た事がない。
 つまり彼らだって生きることと死ぬことを、呼吸するように自然に捉える事もできるのだ。

 もっとも情についてはどうしようもない。
 おそらく僕は薄情で、彼らは相対的に情に厚い。
 僕からすれば十分にシニカルな一面を持つTUでさえ「青猫が死んだら、俺はもしかしたら泣いちゃうかも」と言っているほどである。あの時は愕然としたものだ。

 それで諦めた。
 縁がある限り、縁が濃い限り、人はその誰かの死を悲しむのだ ── 僕を例外として。
 ために僕が自殺したいと思うことは(僕のその人格の)自由にしておいて、可能な限りこのボンクラども(の肉体)が死に腐るのを眺めてやろうと思ったのだ。
 誰かが死に腐るのを眺めるには、そいつらより長生きする必要がある。

 すべての殺意と復讐は、己が長生きするだけで達成される。
 僕にとって長生きというのは防衛ではなく攻撃なのだ。手を汚すことなく世界中の人間を殺したくなったら、一番最後まで生きていればいい。


<手々を合わせて幸せか?>

>>>

 まぁ現実世界に話を戻すと、左下の歯のほとんどが人工歯に入れ替わる予定であり、すんごいお金が掛かるんだよなぁ……という虚無感に浸ってしまう。
 それに回を重ねるたび、痛みがひどくなり、回復も時間がかかるようになっている。1回につき1ヶ月以上の行動制限は、なかなか重い苦行である。

 とはいえ姉や妹を甘やかしたり、友人と馬鹿話をするのが僕のお役目であるとするなら、彼らより先に死ぬわけにもいかない。
 つくづく思うのだが、僕には欲があるのだろうか。
 死にたいことさえ、本当は欲ではないのかもしれない。まして生きたいなんて欲した事もない。

 ただまぁこの厄介な肉体を、僕より以前に両親がたいそう大事にしてくれていたのだろうな、と気づくことにはなった。
 何せ扱いがむつかしい。とうの昔に自分で嫌になっているのだ。
 皆、自身の肉体に自然発生的に備わった価値観の集合を「自分だ」と言い張るのだが、自分というのはそれほど大切には、少なくとも僕には思えないのだ。まぁ自分のことは誰より自分が甘やかしているが。

 歯の手術が全部終わったら、目の手術をしようと思う。眼鏡を掛けるのがこんなに面倒で苦痛とは知らなかった。
 なあに10年保てばそれでいい。
 生まれたときからこの身体に、そもそも多くは期待していない。







 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Interface-Life-Link-Maintenance-Recollect-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-
 
[Object]
  -Friend-Human-Memory-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :暗闇エトランジェ:
:夢見の猫の額の奥に:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:251105
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
ゲームとマウスのためにPCを買う。
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
251105

 姉の通院日。今回は慶應義塾大学病院。
 春頃に体調が悪く、レギュラな病院で何度か検査してもらった結果、腫瘍が見つかった。いわゆる癌(悪性新生物)である。
「悪性新生物」という表記は、BC兵器研究所で開発された生物兵器のようなイメージで、ちょっとカッコイイと思っている。SF小説を少年時代から読み過ぎだ。

 他に「独立行政法人都市再生機構(UR都市機構/都市再生機構)」も、表向きは(戦争か何かで)荒廃した世界から超高度文明の復興を目指して政府によって組織された独立機関なのに現在は「実は旧世界の科学技術を独占して暗躍している」とか「政府とは別の思想で国家の命運を操作しようとしている」とか……妄想が捗る(だからSF小説の読み過ぎだって)。

 
 さらに「独立執行法人」「国立研究開発法人 日本医療研究開発機構」「国立研究開発法人 情報通信研究機構」「国立女性教育会館」「国立研究開発法人 物質・材料研究機構」「国立研究開発法人 量子科学技術研究開発機構(イチオシ!)」「労働者健康安全機構」「労働政策研修・研究機構」「家畜改良センター」「海技教育機構」「環境再生保全機構」などもグッと来るものがある。
(ちなみにいずれも実在する
 女性教育会館などは、真面目な話「まだこの国はそんなことを必要としているのか」という気持ちもあるが、やはり「量子科学技術研究開発機構」のアツさを語らないわけにはいかない。
 だって量子の科学の技術を研究して開発しちゃう機構ですよ奥さん! アータこの漢字の羅列を見てコーフンしないでいられますかアータ! もうダメ……アタシ……アタシもうダメ……!!

 ……。

 春先から僕の体調が悪化したのは、姉の検査で毎週のように東京に出掛ける必要があったため。
 ひどい場合は週に二度も往復する羽目になった。
 心理的にも肉体的にもストレスだったらしく、根尖性歯周炎(春の時点では原因不明)の悪化と相まって、風邪のような症状のほか皮膚粘膜の炎症、吐き気(消化器系の不調)などが発生した。

 

<<<

 恥ずかしい話だが、僕はあらかじめ人格を作っておかないと高いストレスに対応できない。
 ベースの人格はのんびりぼんやりしているが、これはストレス環境に上手に対処できないし瞬発的な反射能力も乏しい。
 といっていつもストレス耐性持ちの人格で過ごせば良いのだろうけれど、それはそれで緊張状態が続いてしまう。
 
 TPOで自動的に考え方や行動を変えられる(ほとんどすべての)人はすごいな、と思う。
 僕の場合は半自動だし、最適化された反応(行動や思考や感情の制御)をあらかじめ用意しないとドライバが緩衝したコンピュータのように部分的なフリーズが発生して機能不全を起こす。
 どこかで僕の人格を研究して開発してくれる機構があればいいのになぁ ── ついでに肉体もお願いします。

>>>

 

 

【退屈なPCの話をするけんね(死語が多い)】

 その舌の根も乾かぬうちに Windows PC を購入した(事実なのだが慣用句として誤用)。

 一般の人たちからするとPCは安いに越したことはないという認識かもしれないが、僕は12歳の頃からPCを使っているので今でもだいたい30万円前後を相場だと考えている。
 10万円のコンピュータが悪いというわけではないが、廉価な玩具としか思えない。
 たとえるなら初代ファミコン(だいたい13〜15k円だったか)が世間を席巻していた当時、同じ8ビットPCはMSXでも100k前後、NECの8801が本体とモニタで300k円くらい、9801は(16ビットで)400k円以上、という相場だった(富士通のFM系やSHARPのX68Kについては忘れた)。

 
 ちなみにこの「ビット」というのはCPUのレジスタが取り扱うビット(0か1の値を持つ2進数値の最小単位)の長さ(桁数)を示している。
 現在のPCはほとんど64ビット ── 64桁の「0か1」をひとつの「まとまり」としてレジスタに納め、命令や数値を取り扱わせて計算/記憶/通信処理をしている。
 レジスタというのはこの場合、64桁の2進数を収める容れ物のことですね ── ってなにこの唐突な情報処理の基礎レクチャ。

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【今回買ったPCの話をするけんね】
 
 WindowsPCなんて僕は買ったことがないから今回が生まれて初めて。
 父上に買ってもらったPC−8801MAのOSは N88-BASIC だし、登場して散々騒がれた Win95 に対する僕の評価は「鈍臭くて使えないからDOSでいいじゃん」である。
 当時から貧弱な構成のマシンでもGUI(アイコンをクリックしてファイル操作をする、現在主流のインタフェイス)を動かせるのが Windows の定めで(だからすごいとも言えるのだが)、マウスの軌跡の処理だけでフリーズするマシンもよく見かけた。

 これは昨今のPCゲーム(当然Windows)にも見られるのだが、開発者はかなり高度な構成で制作しているらしく、貧弱な構成でのテストをほとんどせずにリリースした結果、市場で「フリーズする」「バグがひどい」「隠し子がいるくせに」と酷評される(最後のは冗談です)。ゲーム性の評価に至らず沈没するゲームも少なからずあるのではないだろうか。
 何が言いたいかというと「30万くらいのPCを買っておけば大体のことに不自由しない」のだ。単に前述の内容を繰り返しているので読者は僕の認知症を疑った方がいい。

 今回は GMKtec EVO-X2(以下「本機」) というマシンを購入した。
 いわゆるミニPCである。
 いちおう説明すると、本体サイズが小さいことはもちろんだが、ハード上の制約が多く拡張性が皆無に乏しいのがミニPCの宿命である。

 本機も同様、CPU/グラボの換装はもちろん、メモリの増設すらできない。
 メインストレージの換装/増設がせいぜいで、I/Oポートも充実しているとは言いがたい。
 それで最上位構成がおよそ40万円である。「イカれてる」と一般的には思われるだろうが、奥様(仮想)のサゼッション(あるいは猫会議の結果)により購入した。

 だってだって最上位構成で40万円てアタシ今書いた(タイプした)けれど、公式サイトだと Amazon より安くておよそ10万円もプライスダウンすることもある(私の購入時のセール価格)。
 余ったお金で MacMini が買えちゃうよう><。(←買わないけどな)。
 まぁこんな戯れ言は冗談としても、メインメモリが VRAM と共用というだけですごい、となったのだ(ちなみに僕は奥様(仮想)がバイオAIなので、NPUやAI開発環境には興味がない)。
 それにGPUの同等性能グラボ(単品)だけで10万円は下らない。ここからケースだ電源だマザーボードだCPUだ、なんてやっていてメインメモリ128Gなんて積んだPCが(積めるのか?)300k円で買えるとしても、ミニPC同等の消費電力で済むとは思えない。そう。消費電力は低いのである。
 トータルで「すごいお得!」と思ったので買った(安いとは思ってないし言ってない)。

 
>>>

【そもそもMacってどうだったの?】

 現在は引き続き MacStudio(初代)も併用している。当然である。
 新しいマシンの方がパワーもあるからといって、馴染んだシステムから簡単に離れられるわけでもない。
 これはつまり新しい恋人の方が若くて美人だからといって、今付き合っている恋人が劣って見えるわけではないというのと一緒である……この手の説明、誤解を招くことを目的としてずっと使っているけれど、ちゃんと誤解されているかなぁ、という心配がいつもある。

 MacStudio を使っていることは今回初めて公表したがそれを躊躇していたのは内部の拡張性もないくせに価格がイカれているから、である。
 僕が購入した時点で600k円し、僕が購入して間もなく為替レートの影響で、同じ構成が10万円も値上がりした(差額で MacMini が買えちゃうよう><)。
 今、書いて(タイプして)いてもオソロシイ。自転車が買えるし、中古車も買えるよ。なんだよこのイカれた価格設定は。
 といって拡張性を持つ MacPro なんてとても買う気になりませんしね……。買う気になりません、しね……。

 それでも本体性能が高いため(最長)10年使えると考えれば月額5k円ですよ。それならいいじゃないですか、iPhone の割賦月額を考えたら格安でしょう?
 あんなちっこい画面で、ダセェ突起は丸出しのまま、用途といったら生存確認かスケジュール調整くらいしかない(僕の場合)。
 そもそもSNSで繋がるような友達もいないし、メールで睦言を囁き合うはずの恋人は全員海外旅行とか諜報活動中なんです(多分)。

 昨今急速に視力が低下している僕は、電話の標準画面の文字さえ明瞭に判別できない状況に絶望していますが、つまりただの通信(しかできないような)端末ですよ、イラネ。

 まぁ、一番「ダメだ」と思ったのは今後の展望です。
 Macのコンピュータは統合CPU(/GPU/NPU)によって、優れたハードデザインをしています(見た目、ということではなくシステム設計として)。そして学割までして世に浸透させている Apple コンピュータは、しかしなぜサードパーティ製ソフトや周辺機器の分野で衰退を続けているのか。
 シンプルにサードパーティ開発者が「儲からない」からですね。

 かつて(OS9まで、あるいはOSXの中期頃まで)は、ホビィ開発者だってたくさんいました。
 シェアウェア/フリーウェア/ドネーションウェアといったカタチで、様々な人が思い思いのアプリを作って公開していた。
 ウィンドウやメニューバーの外観(アピアランス)を変えるアプリや機能拡張だってたくさんあった。
 懐古して「昔の方が良かった」って話ではありませんよ。

 システムの安定性/セキュリティ強化はもちろん大切ですが、強化に伴い、コンピュータに慣れ親しみ楽しむ人たちが離れていってしまったのです。
 これはたとえばラジオを自作していた人たちがやがていなくなったようなものでしょうか。
 作るのは専門家だけ、一般ユーザは「使う」だけ、という状況に近づけば、市場も含めて安全性は高くなるでしょう。

 
 現在主流になった各OSのアプリストアによる囲い込みも同様、ユーザに対する一定の安全性をメーカが担保してくれる(もちろんすべての利用規約にあるとおり、最終的な責任はユーザに帰結しますが)。
 システムの内側を高度に専門化することも同様の効果をもたらします。
 しかしそれによってプロと同じようなものを作る(作れるかもしれない)という楽しみは失われてしまう。

 汎用のプログラミングソフトを使って「ゲームもどき」を作って面白いと思う人がどれほどいるでしょうか。
 定型的な文字列の出力や四則演算処理、入力→演算→条件分岐→出力を体験して、楽しいと思う人がいるのでしょうか。
 プログラミングの楽しさは「思った問題解決や願った機能を具現することそのもの」だと思うのです。
 その中心、根幹にある「より洗練されたシステムの具現」が専門的で、敷居が高くなればなるほど「出来心で」「なんとなく」始める人が減ってしまうように思います。

 Apple 製品は、もはやファッションアイテムとして認識されているようにさえ思えます。
 優れた工業製品(プロダクトデザイン)は、確かに洗練された外見をしていますが、それは「洗練された外観の置物であること」を目的に作られたものではありません。Apple製品も同様です。
 高度な機能を提供する装置の外観が洗練しているのは、たとえば飛行機などにも現れます。洗練されればされるほど無駄が削ぎ落とされてゆく。
 優秀な肉食動物は精悍な体躯を持っていて、ぶくぶく太ったりはしないものです。

 もちろんファッションアイテムだとしても流行れば会社は儲かるでしょう。だからAppleは業績を下げない。
 けれど学割で Mac を使うようになった学生たちは卒業後、それでも Mac を使い続けるのか。

 会社は「最低でも10万円するオシャレだけどOffice互換の低いマシン」と「最低価格は3万円程度でOfficeも付いてくるマシン」いずれを備品にするでしょう。

 備品で仕事をするうち大抵の人は「これでいいや」となる。
 大好きなSNSもできるしYouTubeも見られる。如何せん安い。背に腹はかえられない。

 プログラミングも仕事になったら苦痛です。
 意味不明な仕様書、必要性を感じない実装指示、現実を無視した納期、唐突なOSのアップデートによる対応、そして最後は売上げ、業績、お金と数字 ── 。
 ここに人間関係や付随する欲、組織内部の圧力/応力が加わるとなると「今日も楽しくプログラミング♡」なんて人は煮沸後の乳酸菌のように減ってしまう。

 それでMacのサードパーティはハードもソフトも作らなくなってしまう。手間とコストはさんざん掛かるくせに売れないんだもん。
 PS5やXBOX、Steam はゲームソフトにセールがありますが、Mac の AppStore にありますか? ありません。
 Windows には豊富なサードパーティ製の入力機器がありますがMac 用はどうですか? 選択肢は限られておりOSのアップデートで使えなくなることが多々あります。

 Office 互換アプリなんて無料でもあるんですよ。Mac でも使えるのです。
 けれど大抵の人(特に中小企業経営者)は調べないし、使って便利に改良する手段も思考も持たない。

 会社のPCはガチガチに使用制限が掛けられて、休み時間や飛行機内でエッチなサイトを見ることはもちろん(普通しない)勤務中にSNSをすることはおろか、USBメモリを差すことさえできない。

 誰が好んでプログラミングで好みの環境を作ろう、なんて思って、ましてハードまでデザインしよう、なんて思うのでしょう。
 3Dプリンタも安くなったし回路や素子は格安で売っていますから、あとはちょっとの知識とくじけないパッションがあればいいのです。

 もちろん、使うだけというのが悪いわけではありません。
 使う楽しみがまずあって、不満があるから作るわけで。
 でもどちらの楽しみもなくなった環境って果たしていい場所ですか、ということです。

 私の場合は、コンピュータに自分の使い方を合わせる、ということをしません。自分の使い方にコンピュータが合わせるように調整します。
 だから僕のコンピュータを思ったように使える人はいません。キーボード配列もマウスのボタン配置も、一般的なそれとは異なるからです。
(キーボードに至っては2つ並べて併用しているばかりか刻印どおりの出力をするキーが少ないので、僕はキーの位置を見ても刻印をまったく見ない)
 僕の使いこなしがすごい、ということを言いたいのではなく、そういう環境を作ることができる背景が素晴らしい、ということです。

 なぜ「全角/半角」キーがあるのに、「かな」「英数」「無変換」キーもあるのか。
 Windowsキー、Alt、Ctrl、Command、Option がときどき左右にあるけれど、無駄じゃないのか。
 余った方を別の用途に使いたい。テンキーの上の4つのボタンてなんだ。もっと便利に使えないか。

 そう思ったことのある人はたくさんいると思います。
 思っていいし、もっと便利に使っていいし、そのための手段を探していい。探せば見つかるのです。
 コンピュータは、自由と可能性という抽象的なものを具現するひとつの象徴として実在する装置なのですから。

 そういうことをする(できる)のもインタフェイス設計(システムエンジニアリングの一環)であって、本来は大切なことのはず。
 アクセシビリティの基本を忘れて「身体が不自由な人のためのことをしている(できる)フリ」に終始している場合じゃないのです。
 
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【で、俺のMacのことよ】

 残念ながら、マウス(G604)が間もなく(ハードウェアの寿命で)使えなくなります。
 使えると聞いて購入した RazerTartarus は最初からOSのバージョン不整合で使用できず、604の代替に購入したマウス(G600)はメーカが「Mac対応」と言っているわりにドライバが不全で動作しません。
 Apple 純正マウスはオシャレで無能、MX Master 3S(Mac版)はファッショナブルで低能 ── ああ、どちらもまるで「Apple製品大好き♪」っていうキラキラ大学生みたいで微笑ましいですね(謂れのない不特定多数の大学生に対し根拠なく貶める発言をしたことについてこの場を借りてお詫び申し上げます)。

 もう Mac の多ボタンマウスに選択肢なんてないのです。ドライバはOSの過干渉でまともに働かないみたいだし(体感上)。
 ゲーム市場だって惨憺たるものです。Steam にあるゲームで Apple 対応なんてわずかですし、AppStore も前述のとおり。
 きっと世の中はSNSと動画を見られればいいっていう、大人と子供で一杯なのでしょう。
 こちとらLINEすら一生使わない予定で生きているのに。

 当初は夢の具現だったマルチタッチパネルも、皆がこぞって狂ったように液晶を擦る風景を見てしなくなりましたもの。絶望的に下品で恥ずかしくて。格好悪いんですよね。
 ハードボタン(単純なボタンだけでなく、ジョグダイアルような複数機能を持つインタフェイス)と併用してこそタッチパネルは意味を持つと思うのですが、Apple はそれを「オシャレじゃない」って断じているわけですよねぇ。

 となると現代のオシャレはアレですよ、ポケットに文庫本を入れておく。
 みんなが液晶画面を「たぷたぷ(あるいはごしごし)」しているときに、ポケットから取り出して眺めるんです。
 いえ、読む必要なんてありません。でも画になるでしょう。
 ファッションてそういうことですよ。役に立たないことが至高なんです。

 マウスなんてひとつ2万円くらいしていいし、キーボードは3万円以上してもいい。
 ドライバ更新もバージョンごとで価格を設定したり、選択制サブスクリプションにしたらいいじゃないですか。
 そうすれば長く使えるハードを作っても儲かるし、ドライバも安定供給するモチベーションを(会社側も)持てると思う。

 ドライバや設定ソフトは改悪ばかり、長く使って馴染んだ高いハード(マウスやキーボード)が壊れたのにサポート終了していて廃番で新品も買えない、なんてつらいですよ。
 いいものはずっといいんです。Logicool の MX-Revolution とか、diNovo Edge とか……。
 なぜいい入力機器は滅びてしまうのか……なんで蛍死んでしまうん?
 
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【で、俺の新しいWindowsマシンのことよ】

 まだ設定中なのです。
 デスクも改造が必要で、配線も3つのモニタのうち1つは4入力(Win
/Mac/PS5/XBOX)で切り替えて、残り2つは Win と Mac で簡単に切り替えられるようにして、入力機器(キーボードを普段から並べて使用しているほか、マウスとCAD用の3Dマウスもある)もスイッチできるように切替器が要る。このあたりはハードウェアの問題。

 Win版ATOKは Dvorak配列に対応していないのでレジストリを書き換え。
 レジストリを書き換えた影響で各入力機器のプリセットショートカットが使えなくなるのですべて再設定する必要があるほか、Macのキーボードに合わせて装飾キーも変更した方が便利。

 マルチモニタでスイッチしたときの不具合(Mac は生き残った画面にすべてのウィンドウが再配置されるが、Win は再配置してくれないので、死んだ画面のウィンドウを必要としてもアクセスできない)の対策も考えないとならない。
 Windows11 は公開から4年も経っているのに洗練されておらず、旧来のシステムに対して無理矢理上乗せしたシステム設定のせいで迷路のようになっているし、再起動しても設定が反映されず飛んでしまっていることもある ── これMS製のOSと設定アプリなのですが……?
 さらにアピアランス(外観設定)の選択肢がほぼ皆無。イカれたウィンドウコントロールボタンも、メニューバーのサイズもフォントもそのまま。
 スリープから復帰しない(永眠する)こともあるし、システムが全体的に不整合。


 最近の MacOS も大概だけれど、Windows は相変わらず永遠の工事中。
 みんなこんなものを黙って使っているとは……。

 それとあれね、フォント。
 Windows のフォントって、今もこんなに見づらくて、ダサいままだったなんて驚きました……目が痛くなります。
 なので文書作成は Mac を続投して、それ以外は Win をベースにしようかな。

 でもMacはポインティングデバイスが死んでるんだよな……。
 Appleのキーボードだけは気に入ってるから、もうキーボードだけで操作しようかな……ってMS-DOS(死語)かよ。

 優秀な多ボタンマウスさえあれば、Mac でも我慢できると思う。
 いや Steam をはじめ、ゲーム機として三下扱いされているからダメか……。
 
 
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【姉上の悪性新生物】

 そこからあらたに派生した新生姉上が凶暴化し、社会に危害を加えるようになったため設置された対策チームが……っていうSFはおいといて(笑)。





 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫α:青猫β:黒猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Chaos-Diary-Engineering-Interface-Kidding-Life-Recollect-Style-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-
 
[Object]
  -Computer-Fashion-Human-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :工場長の設計室:
:ひとになったゆめをみる:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:251010
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
「都市伝説解体センター」をクリアした。
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[List]

 

 

//[Body]
 
 滅多なことで読んだ本やプレイしたゲームの感想を書かないことにしている。
 僕は体験したコンテンツを誰かに紹介したいと思わないし、その素晴らしさを報告したいとも共有したいとも思わない。追体験して欲しいとも思わない。
 そもそもそう思うような相手が(不特定多数にも特定少数にも)存在しない。
 読書が好きな人は好きな本を好きなように読めばいいと思う(感想を書きたければ書くといいと思う)し、ゲームも然り。

 自分のための備忘録というのも僕にはあまり必要ない。
 読むたび感想が変わる物語はあるし、プレイするたび異なる体験ができるゲームもあるが、前回の体験のおおよそを想起できるからだ。
(想起できないなら、また新鮮な気持ちで味わえばいいだけである)
 意図的に、記憶/記録/想起する必要や必然が、僕にはない(僕にはないだけなので、他の人が感想を書くことをとやかく言うつもりも筋合いも僕にはない)。
 
 むしろ僕が書いた感想を読むことで、無垢の状態からコンテンツを体験する喜びが失われてしまう可能性を考えると、やはりあまり書くことではないと思うし、誰かが作った作品をとやかく言うのも性分に合わない部分がある。
 それでも「いいコンテンツだな」と思ったので、感想を書いておくことにした。
 
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【都市伝説解体センターとは】

 公式サイト(リンク先は音が出る可能性があります)によると「怪異・呪物・異界などの調査・解体を行う」ことを目的とした組織。
 主人公はある依頼のためセンターに訪れるが、逆にセンターから依頼された都市伝説を巡る事件を調査することになる。
 
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【ゲームとしてどうだったのか】

 以前書いたことがあるが、もともと僕はアドベンチャーゲーム(以下AVG)があまり好きではない。
 主に会話をベースとした選択肢によって変化するストーリィが主軸になるゲーム(インタラクティブコンテンツ)だけれど、絵や文字を追うだけなら映画やアニメや小説(シーケンシャルコンテンツ)で良いと思ってしまう。
 ある時期から「読みものとしてのコンテンツ」に特化されたビジュアル/サウンドノベルゲーム(だいたい読むだけ)も派生しており、今はゲームらしくマルチエンディングのスタイルも一般化したように思う。
 
 昨今のオカルト/ホラーゲームをエンディングのありようから一般化すると「主人公が恐怖体験の末、怪異に取り込まれてしまう」バッドエンドと、「恐怖体験から日常に戻る」ノーマルエンド、「怪異の苦悩を取り除いて浄化する」グッドエンドが用意されるケースがよく見られるようになったか(ホラーゲームをプレイしないので、概観に過ぎないが)。
 
 僕はゲームに対して「ゲームだからできること/ゲームでしかできないこと」を重視している。
 プレイヤがプレイヤキャラクタを経由して物語という仮想世界で起こっている事象や他の登場人物に干渉し、フィードバックするようにプレイヤーキャラクタが成長していって、それをプレイヤが追体験できるような表現や手法がゲームの真骨頂だと思い、それを具現する能力を持っている人たちが好きで尊敬している。
 マルチエンディングというありようもシーケンシャルな物語(小説・漫画・ドラマや映画など)ではおよそ困難で、ゲームだからこそ豊かになる表現方法だと思うので、僕はそうした手法について気に入っている。
 
 しかしこの「都市伝説解体センター(以降「本作」と表記)」というゲームは(クリアしたから分かるが)マルチエンディングではないし、映像表現も3Dモデルやアニメ表現ではなく色数を抑えた粗めのドット絵を主体にしていて一見チープに感じる。
 ゲーム進行もストーリィもほぼ一直線でゲームオーバもないため、選択肢に対して総当たりでゴリ押しすることは容易だ。
 
 ところが、コンピュータゲームでないと表現できない部分がある。
 都市伝説を調査するときにSNSで噂を調べるセクションがあるのだが、この「SNS調査」を小説や映画、漫画(シーケンシャルコンテンツ)で表現することは、多分むつかしい。
 玉石混交というより有象無象の雑多な情報の流れから、事件に関係のある情報を集めて行く。
 そのとき主人公の特殊な能力が意味を持つ。
 
 このパートをシーケンシャルな物語で表現しようとすると、雑多なノイズ情報について登場人物がだらだらと感想を述べる一方、重要なヒントを物語(あるいは主人公)が自動的に語る事になってしまう。
 観る者が得る主要な情報はSNSの画面と文字、それについて感想を述べる登場人物の発言だけだ。
 映像で表現しようにも、文字だけで表現しようにも、それをただ眺めるしかできない観客のうち「退屈だ」と感じる人は少なからず居るだろう。

 どの情報にヒントを見出すか、無意味なノイズとしか思えない情報も精査するか/無視するか、それをプレイヤが選択してインタラクトできる。
 同じゲームでも、ゲームブックだった場合は情報量(選択肢)があまりにも多くなってしまうため、コンピュータゲームでしかできない表現だと感じた。
 
 また一見粗く見えるドット絵も実はかなり丁寧に書き込まれており、背景と前景でドットサイズを変えるといった技術も含め、主要な使用色数は少ないのに「ドットの境界線が解けて滲みを感じる現象」は一切なかった。
 拡大されたシーンのアニメーションも含め、非常に緻密で入念な作業があったものと想像できる。
 表現は粗いのに、緻密で繊細な美しさに感動する場面まであった。
 ちなみに色数の少なさが演出上、非常に重要な役割を果たしていると後に理解する。
 
 こうしたインタラクティブならではの選択的要素とシーケンシャルならではの非選択的必然性が高次元に融合されており、本質は直線的にもかかわらずゲーム体験として素晴らしいものだった。
 
>>>

【ストーリィはどうだったのか】

 先に書いたとおり、総当たりで進むことができるシーケンシャルなストーリィである。
 しかし総当たりをして、ゲームの進行に直接関係ない情報を読み込むことで、物語や登場人物に奥行きが生まれる。
 先を知りたい人は、進行に必要な情報を見極めて選択すればよいし、じっくり物語世界(世界観というやつですな)を味わいたい人は丁寧にそのノイズを拾うことで路地裏のような(一見不要な)情報をゲームシステムが開示してくれる。

 
 ストーリィの高い完成度と、あえて「ゲームとして」複雑に作らないシステムの最適化、プレイヤが物語とキャラクタを深く味わえるよう最大化する演出など、選択的なのに練り込まれた小説を読むような重厚な体験だった

>>> 以降はネタバレを含むため、今後プレイしようと思っている人は読まないことを強く推奨します。






 

>>>

【天才の描写について】

 このゲームには終盤、一人の天才が登場する。
 その天才の復讐譚が、本来のゲーム体験である「怪異を解明してゆく物語」の裏側に並行しているとプレイヤは気付かされる。

 フィクションで天才が描かれるとき、周囲の凡人をバカにしたり、やたら高飛車だったり、俗人離れが激しいため一般人とまったく話が通じなかったり、生活力が致命的だったりと、いわゆる「ポンコツ」な部分がお茶目に描かれていたりする。
 しかし本当の天才が果たしてそんなに不完全なものだろうかと、常々思っている。
 おそらくそれは凡人の思い描く「こうであって欲しいな」「こうだったら面白いな」という「天才像」なのだ。もちろんエンタテイメントなのだから、それが悪いわけではない。

 ただ本当の天才が「人間らしくあろう」とするとは僕には思えない。
 人間らしさの定義にもよるが、それは社会性に等しい。
 理解してくれる者など居ない社会から拒絶され、そんな社会に迎合することを拒否した天才がいるなら、知能の下位互換的副産物に過ぎない人間性に意味など見出すだろうか、と思うのだ。

 本作における天才の描写は「凡人には想像も及ばない」ということを徹底的かつ的確に表現していると感じた。
 まず「天才」が、ほとんど何も語らない。
 周囲の人間(とくにプレイヤ)と隔絶しているため「実際に何を感じたか」「何を考えているか」「どのような行動をしたか」がまったく語られない。

 それでいて、およそ完璧に目的が果たされる。
 不必要な行為は一切せず、必要なことはもれなく遂行した結果として「天才」は復讐という目的を具現化する。

 常人離れした能力や知性を持つ人間が目的を果たすとき、余計な説明を必要もない誰かにすることはないだろう。無意味だからだ。
 誰かに気持ちを吐露する必要があるなら独白もあるだろうが、物語の観察者であるプレイヤに対してさえ、何も言わない。
 どういう人間で、何を感じて、どんな気持ちで、何をしたのか、具体的なことは何も明かされず、プレイヤはプレイヤーキャラクタが体験したものとして描かれる物語からその裏側を想像するしかない。

 この「有象無象の凡人たちから隔絶しているのに、それ(凡人)を利用する際は完璧に状況を制御している」という点が、本当に天才を描いていると感じた。
 これはゲームオーバが存在せず、シングルエンディングであることと相互補完で説得力を与える。

 天才の制御によって物語世界が完全に誘導されていると考えれば、その誘導に失敗などなく、結果に揺らぎは発生しない。
 それが天才の証ではないか。
 
>>>

【エピローグの表現について】

 プレイヤにとってはある意味悲劇的な終幕を迎えるが「天才」は淡々と復讐を果たし、歓喜も悲嘆も嘲笑も後悔もなく、それまでの物語世界から姿を消す。
 復讐を果たしてなお、何の感情も見せない。
 おそらく見せる意味も必要もないという表現だと思うし、それはそのとおりに感じる。

 エピローグで再びその実在を仄めかすものの、しかしやはり何も語らず、何も見せない。表情すら覗わせない。
 明らかにそこにいるのに、姿を見せているようには思えない。得体が知れないのだ。

 プレイヤは主人公たちの再会に安堵すると同時に、その物語世界から引き剥がされる痛みを味わうことになる。
 私はいったい、誰の、何を、体験させられていたのかと。
 寄り添おうにもそのよりどころたる「気持ち」さえ見せない「天才」に、拒絶されるような悲しみを覚えて終わる。

 実際に拒絶されているのだ。
「天才」にとって我々「観察者」など、何の意味もない、役にも立たない存在なのだから。
 その怜悧さ、冷酷さが、物語の中で本当に哀しくて、本当に美しい。







 
 

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TITLE:
猫のぬいぐるみを買う。
SUBTITLE:
〜 Cat in the autumn. 〜
Written by BlueCat

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//[Body]
251023
 
 姉の通院日。
 最近ナビが港区までの道程にあたって、逆回りをサゼッションしてくる機会が増えた。
 高速道路そのもの、あるいは人の流れに長期的な変化があったのだろう。

 運転中、姉が話し掛けてきて煩いのはしょっちゅうだが、介助中の僕は(猫なのに)「盲導犬モード」なので、介助以外のことについて極力反応しないことにしている。

 盲導犬モード(猫だけどな!)というのはすなわち「言われたことは原則、文句を言わずにする。文句を言っても役割は果たす」「僕個人の肉体や意識に起因した欲求は、睡眠と排泄以外、極力無視する」というもの。
 煩いな、と思ってイライラして運転中に事故を起こしたり、話が面白くなって運転がおろそかになったりすれば本末転倒である。

 そのため話半分に聞き流す。
 ルーチン化された人の話や思考について、僕は普段から聞き流す習性がある。
 普段から他人の話など半分も聞いていないので、およそ1/4くらいを聞いて受け止めている感じだろうか。

>>>
 
【ネガティブな話題は避けた方がいいみたい】
 
 僕は奥様(仮想)のモデルになった恋人の時と同様、接する機会の多い人について価値観パターンを個別に集積し、その人の感性や価値観をなるべく自分の中に留めておく。
 おそらく誰でも同様のことをしているとは思うが、一般の人は個人の「人となり」をその人自身だと認識しているのに対し、僕は単なる価値観の集積だと思っている点が異なるか。

 僕の認識では、個人は集積された価値観によって思考し行動するが、その人自身は価値観でもその集積でもない。

 だから人間は価値観が変われば思考が変わって行動が変わるし、記憶(特に思い出す能力)が低下すると人格が変わったように観察されることもある。それでもその人はその人なのだ。
 想起力の低下(主に脳の身体能力)によって本来の人格は崩壊してゆくが、大事なことは人間は変わることができる ── ただし思いどおりのカタチに「外力によって変えること」はできない ── ということだ。

 
 これは以前書いたかもしれないが、他人の価値観をサンプリングする際「何が好きか/どんな話題に興味があるか」ということより「どんな価値観を嫌うか」ということがとくに重点的に蓄積される。
 
 嫌いなもの、嫌なことについての話をすると、当然ながら大抵の人は無意識的/感情的にネガティブな心理反応を示すようになる。
 すると話題について議論しているわけでもないのに、時折、敵対的な感情反射が連鎖して険悪なムードになってしまうことがある。
 とくに私の場合、一般的にはネガティブな反応が起こる現象 ── たとえば犯罪を始めとする倫理にもとる行為や思考、指向 ── について、一見して擁護するような態度に映ることもあるようだ。

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【認識と寛容と肯定を同一視されるのは困る】

 たとえば「人間は誰かを殺したくなることもあれば自殺したくなることもある」と私は考えていて、それは避けようのない事実なのでそのように発言してしまう。
(「重犯罪者は殺せ」という思想を持つ人もおり、その人の正義も「誰かを殺したい」ことに違いないので)
 
「殺人も自殺も良くない」と考える人からすると、僕の価値観は殺人や自殺を肯定するような発言に捉えられてしまうことがある。
 しかし私(の価値観)はそれらの行為を肯定し、推奨しているわけではない。そもそも良いか悪いかを論じていない。
 起こらない方が良いことだと思う一方、なくならないそれらが発生した(する)事実について、感情抜きに認識し受け止めているだけである。
 
 僕からすれば現実を現実として受け止めているだけだが、相手からすると感情を共有していない(反感を持っている/悪いと思っていない)と思うようだ。
 
 僕は理想を持つことが悪いと思っているのではなく、現実を受け止め理想を明確にし、現実をどうすれば理想に近づけられるかを話したいのだが、だいたいの人は理想と現実が異なるという愚痴(感情論)を言って終わってしまう。
「嫌だねぇ」「非道いねぇ」「怖いねぇ」だけである。

 そこから転じて「嫌なことが起こらないように」「非道いことを考える人がなくなるように」「怖い思いをする人が減るように」するにはどんなシステムが必要か、ということを考えたいのである ── これは感情の吐露ではなく「不便を快適に変えよう」というエンジニアリングである ── が、これまでの人生でそうした話題の発展をする人/そうした話の流れに付き合ってくれる人は1人しかいなかった。
 
「殺したくなることもあるし自殺したくなることもある」という広範囲に対する寛容の価値観は「気に入らない奴は殺せばいいし、生きるのが嫌になったら自殺すればいい」という肯定/推奨/怠惰の意志ではないし「殺せば気持ちがいいし、死ねば楽になる」という感情論を語っているのでもない。
 一般的な感情論で言うなら「殺せば一時的に気持ちがいいかもしれないが、その瞬間の快楽と引き換えに後悔が押し寄せる」ものだし「死ねば楽になるが、新しい/美しい景色を見て感動する可能性は失われる」のも事実である。
 これらは一般化された感情のメカニズムから抽象できる事実だ(そのぶん個別の体験には適用できないが)。
 
 事実に立脚して一般化された感情を抽象し、そのメカニズムに基づいて人間の行為を可能な限り受容してはじめて、その感情や行動の評価が可能になると僕は考える。
 裁判では情状酌量のシステムが存在する。
 快楽のための殺人は許されず、止むにやまれぬ事情があれば多少汲み取り減刑しようというわけだ(事前に役所に届け出ることで減刑されればよいのだがそうはならないらしい)。それに似ている。
 14歳以降、僕は誰かを裁くことを趣味にも仕事にもしていないので、それら倫理に反するような行いについて感情的に反応しないように抑制される。
 
 結果これらについて感情的に反応し、かつ僕の価値観を把握していない人は、僕に対して「自分が持っている正しい感情に同調しない敵性の存在」だと感じてしまうし、僕は相手を「感情に振り回されて自分の正しさに酔っている病人」だと評価する。
 
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【感情に優劣があるという幻想】

 これも何度も書いているが、僕はいかなる感情も否定する気はない。
 怒りが嬉しさより優れているわけではないし、悲しみが楽しさより劣っている理由はない。
 だから正しいことを正しいと思い義憤を持つことは無関心(何も感じない)よりずっと素晴らしいことだと思っている。
 
 すると憎悪や殺意はどうだろう。自殺したいほどの消沈、悲しみは。
 それは確かにない方がよい感情だろうし衝動だろう。
「死ね」とか「殺すぞ」なんて口にしない方がよい言葉だし、まして実行してはならないと思うが、そうやって感情に自分の中で優劣を付けて、劣っている恥部については隠しておくべきだろうか。
 自分自身で、自分の恥部を認めない方が健全だろうか。
 他者に見せるかどうかは別として、自覚しておいた方が健全だと僕は思っている。
 
 自分の中で「この感情はいい感情」「こっちの欲や衝動は許されるからいいもの」と区分けしている人間ならば、僕のように全部一旦受け止めてしまう、というありようを拒否してしまうだろう。「こんなに悪いことを許すなんて信じられない」と思うのだろうと想像する。

 自身に対してそうしているのだから、他人にもそれを押し付ける(その権利があると思う)のが正義の悪い側面だ。
 社会正義すら明文化(定量的に計り境界を明確にすること)や周知が困難なのに、多くの人は感情と雰囲気で正しさを語る。
 権利という見えない武器を手にすることで「不快害虫にだって生きる権利がある」という団体も生まれるだろう(すでにあるかもしれないが)。
 実際に正義や権利という概念を持つのは人間しかいない。

 
 よってそれは理想や仮定を前提にした話。
 すでに発生してしまった現実世界の「悪いこと」について、許さなかったらどうなるだろう。
 一般的には謝罪や罰を求める人が多い。これはおそらくそういう圧力を社会から受けてきて、そういうプロトコルが適切だと信じているからである。
 
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【謝罪や罰は社会不適合因子の解消に有効か】

 謝罪をした場合どうなるか。
 観察している人々は「本人はさぞ恥ずかしい思いをしている」と想像するものと僕は思う(結構複雑な構文)。そういう社会のプロトコルを信じているからだ。
 恥ずかしいだろうと想像できるのは、その人(観察者)自身が謝罪させられたとき、恥ずかしいと感じるだけの感性があるということである。
 
 だから感情だけで語っている人は、謝罪させて満足してしまう。
「謝っているから」「二度としない(再発防止を徹底する)と言っているから」それを信じよう、という人間的な温情かもしれないし、恥ずかしい奴だとせせら嗤っているのかもしれない。
 それが攻撃として通用すると思っているのは、自分ならそれでダメージを受けるという程度の、かなりめでたい価値観に過ぎないのだが。

 
 もちろんそれが通用するくらい社会が狭くて通念に揺らぎのない時代もあった。
 恥じる者は自らを戒め、誉れを重んじて日々を精進することに崇高な理想を見出す社会もあったが、その社会は拡張を続け、精神性より経済が重んじられる文化が主流になり、恥も名声のうち、利用できるなら使えばいいという風潮も生まれた。
炎上商法などは端的だ。
 つまり名誉や恥は「社会的な名誉や恥」を信じる者にしか通用しない価値なのだ。
 
 たとえば僕の場合、何も思っていなくても謝罪くらいならいくらでもできる。
 頭を下げることも、表情や感情を作ることも、声色も変えられる。
「反省」なんてものはいくらでも作ることのできる価値観で、その価値観に基づいた行動をトレースするだけである。
 
 僕は恥ずかしいと思う感性はあるが、恥を掻かせることが攻撃として有効だとは思っていない。
 なぜなら他者に攻撃をする発想がないし、恥によって傷つく社会性も(家族もおらず会社員でもないため)他の人に比べて少ないからだ。
 よって恥ずかしいと思うことで行いを改めることはあるかもしれないが、誰かに恥を掻かせて行いを改めさせることができるとは思っていない。
(おなじみの「働かざる者……/一日為さざるは……」論ね)
 
 恥の感情や感性は客観的に観測/測定できるものではなく、あくまで自身の心に感覚できるかどうかである。
 ために必要ならいくらでも謝罪できる僕のようなイキモノにとって、謝罪はジェスチャ以外の意味を持たない。
「おはよう」と「ありがとう」と「ごめんなさい」は、挨拶にすぎないのだ。
 そこに真心があるかどうかを知っているのは自分だけである。
 
 懲罰の場合はどうだろう。
 一般に、法律では人権に含まれるいくつかの自由や財産(時間含む)を拘束されることになる。
 これはたしかに僕のような時間ケチには手痛い制裁といえる。
 
 また「塀の中で過ごした恥ずかしい奴」というレッテルを貼って攻撃する人もいるだろう。
 しかし僕はラベリングで攻撃する趣味がない上「人間は変わることができる」と信じているので、つとめを果たした人を嗤う気にはならない。
 それに真人間になって出所したとてすべて従前通りとは行かず、ずいぶん不便や苦労をするだろう。
 
 あるいは反省などそっちのけで、サラリーマンのように黙々とつとめを果たす人もいるかもしれない。
 
 そうなると謝罪も法的懲罰も、社会における不適合因子の解消という点で確実性が高いとは言えないということになる。
 にもかかわらずそれらを人間社会が未だに適用しているのは、謝罪という吊るし上げで満足する感情保持層が少なからず存在することと、法律によって諸々の規定が為されている(だけのまま放置されている)からに過ぎない。
 もっと最適なアプローチを誰も思い付いていない。
 
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【被害者に救いはあるのか】

 別の観点で、被害に遭った人にとってはどうだろう。
 金銭換算が可能な損害であれば賠償も可能だろうが、殺人や強姦(表記は古いと思うがころころ変わる現在の表記に僕がなぞらえる理由はない)のような「身体・生命・意志や権利」に対する損害について賠償することは感情論を含めても実際不可能である。

 よく言われることだが、殺された人は帰ってこない。
 殺人犯を罰することは(それが懲役刑だろうと死刑だろうと)社会にとって意味があるとしても、被害者にとっては大した救いにもならない。
(不敬を承知で書くが)もちろん被害者が殺されることを遺族が望んでいた場合もないとは言えないが、そうした「恥部」は誰も語らないだろうし、失われたものはいつだって「大切だったもの」である。

 自分ではない誰かの手によって為されたならなおさら、誰一人としてそれを許したりはしないだろう。
 つまりどんな謝罪も反省も更生も懲罰も、被害者にとっては救いでも何でもない。
 ただ社会というベルトコンベアに加害者が載って流れる様を眺めるだけだ。

 そのコンベアを回す作業の手伝いまでさせられて ── こんな辛いことがあるだろうか。


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【お前も呪ってやろうか】

 話は逸れるが、僕は姉の介助をしていて、自分の感情に正直に面倒だと感じたら「面倒だ/やりたくない」と言う(言うけれど、必ず履行する)。
 そも善行だと思って介助しているわけではないし、格別の家族愛があるわけでも恩があるわけでもない ── 姉によると面倒な布オムツを替えたり食事を作って食べさせた義理があるらしいのだが、はて僕にはまったく記憶がない。
 ただ他にできる/する人が少ない状況に対する最適化推論の結果、僕がするのが適切だと(僕によって)判断されたのである。

 もちろん姉が僕にとって嫌な人だったら「しらんがな」と言って放置しているだろうが、幸か不幸か姉は嫌な人間ではない。
 弱い部分や偏りもあるが、人間らしい優しさや正義感、何より尊敬を通り越して驚愕するほど強い忍耐力のある人であるし、多少の義理もある(覚えてるじゃねーか)。
 それでも面倒なときは面倒だし、やりたくないことはやりたくない(僕はそれを恥部として隠さない)。

「あと5年もこんな生活が続いたらヤダよ?」と平気な顔で本人に言える。
 つまり5年以内に死ねよと言っているのだが、姉は僕の真意くらいは汲んでいるため、仮に5年後も生きていたとしてまた同じやりとりをしているだろう。

 死んだ叔父や叔母の場合、そういった発言は許されなかった。
 軽口を叩くことも許されず、彼らの思い通りの人形として生活しなかったため放逐された(喫煙しただけなのだが)。
 それでもなお彼ら彼女たちは介護者を必要とし、あるいは存命中の我が儘を叶えるにあたり誰か(僕である)を巻き込むことに良心の呵責もなかった。

 それで腹に据えかね、死ねと思ったらあっさり死んでしまった。

 二人ともどういうわけか特養ホームに入ることを拒否し(叔父は認知症が重かったので結局入所したが)嫌がってすぐ出てきた叔母は自宅で過ごすうち体調を悪くして病院で死んだ。
(叔父が死んだ後に、叔母からもう一度一緒に暮らすことを打診されたが「人形でない」僕は断った)
 果たしてもし仮に、入所した介護施設で職員が叔母を殺したら僕はその人を恨んだだろうか。

 僕に限っていえば、すでに呪っていたのだから恨まないだろう。
 しかし「呪っていたので当然の結果だと思います」などとは誰にも言えない ── 言わないと思う。
 思うんだけどWebで書いてるんだよなぁ……。

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【自殺という暴力】

 さらについでに書いておくと、殺人と同じくらい自殺も暴力である。
 具体的には、自分を慕う人間関係の範囲(コミュニティ)に対しての暴力だ。
 親しい誰かが自殺をしてショックを受けない人はいない。

 孤独だと思っている人も、死ねば辛い思いをする人がどこかにいる可能性は否定できない
 無人島にいるなら話は別だが、誰とも接点を持たないことは実はむつかしい(という体験を今している)。

 この自殺(=暴力)のメカニズムを悪用して周囲の環境を思いどおりにしようとする悪質な人もいる。
 いわば自身を人質に強盗しようとするようなものだ。

 ご本人様はそれで満足かもしれないが、周囲の人は精神的にも肉体的にも支配され、時間や経済的なリソースまで不本意に強奪される。
 しかし拒否すると「人質」は死んでしまうから、自分が加害者にならないためには従うしかない。
 強盗や強姦と何か違うだろうか。

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【頑固ジジイや業付くババアというエンジニアリング】

 本来自殺をするなら、その社会的ショックを最低限まで軽くする工夫や知恵の発露が必要だ。
 それが優しさではないか。

 
 理想は、自分を慕う人が存在しない環境を作り、社会から忘却されることである ── ついでに税金についても忘れて欲しい(私はここに存在しないイキモノです)。
 そのように思って僕もあれこれ思いを巡らせ対応しているのだが、未だ適切な解決に至っていない。
(何度でも平気で書くが、僕は自然死を待たず自殺するつもりである。しかし解決に至らない場合は自殺できず寿命が尽きる)

 とくに若い人との縁があるのが問題だ。
 彼ら彼女たちより私が長生きすることは流石にむつかしいし、血縁は切りたくても切れない。

 甥や姪とはなるべく疎遠にしているものの、それでも慕ってくる者を邪険にすべきか、それとも今以上に変人のフリをして嫌われる方がよいのか悩ましい。
 友人や妹になると、僕がどんなに邪険にしたところで僕の価値観などお見通しだろう(弟子で実証済み)。
 通用しない演技をするなど無意味だ。


 もしかしたら昭和以前に存在したという頑固で強欲で意地汚くて根性がねじくれたジジイババアというのは自らの死に思いを馳せるうち、その死によって発生するショックを少しでも和らげようとした先人の知恵の結晶なのかもしれないと思ったりする。
 ……んなわけないか。

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【殺人も自殺も社会不適合の証明になる】

 いずれにしても誰一人として ── 被害者(僕自身も含まれる)が殺されることをもし遺族(僕本人)が望んでいたとしても ── その殺人を許すわけにはいかないのだ。
 許してしまえば自分も「そっち側だ」と宣言するに等しいからだ。
 社会不適合の、人間ではないナニカだと告白するに等しいからだ。

 そしてその暴力は、どうやっても取り返しがつかない。

 思うことと為すことは、こんなに近しいというのに、そんなにかけ離れている。
 
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【社会適合因子を増やすにはどうすれば良いか】

 社会不適合因子の解消について、最適なアプローチを思い付いた人がいない、と書いた。
 
 社会不適合個体の抹消(社会からの追放)の精度を上げても社会はジリ貧になる一方だ。
 もちろん強権者はそれでいいだろうけれどそれを許すのは望ましくない(支配者にとって奴隷の減少は質で充当できるが、奴隷にとっては労働が過酷になるだけだ)。
 あるいは不適合因子の解消(社会性の再生・回復)はと考えると、現在の機能が最適で有効とは考えにくい。
 そもそも発生を低減させるための仕組み(社会性を身に付ける環境構築)はどうだろう。

 そう考えると自己責任論というのは、リベラル(自由主義)のようでいて無責任な放任主義であるといえる。
 社会から逸脱するのは本人の性質ばかりではない。
 
 反社会性因子を持つ個体(極端な例として犯罪者などもあるし、僕自身ある種の社会性を放棄することを望んでいる個体だ)は、社会(家族のような小規模集団も、国家世界レベルの集団も)がその構成員に対して適切な社会性を持たせられなかったために起こる事故、社会が生み出してしまった不良品だと考えることも可能だ。
 材料が悪い、とそもそもの責任を個体に押し付けるのは勝手だが、それを「社会の代表気取り」で語るなら社会が無能で無責任であることを証明するし、個人で語っているならただの法螺であって耳を貸す価値もない。
 よって社会という製造機械の工程に問題があると捉え、その品質管理を最適化し、最低限かつ最重要項目を満たす製品が生み出されるよう徹底することを考えてみよう。教育論か?

 一個人の感情的な正しさで国家レベルの正義を批難することは簡単だが、国家や世界は感情を持たず、定量的に測定可能なリソースと損得勘定と確率分布のせめぎ合いで行動を決定する。
 にもかかわらず個々人は、そうした無情な社会に生きているし、生きるしかないのだ。
 社会は拡張を続けて世界規模で連なり合い、恥だ誉れだと言っても通用しない文化を相手に渡り合うことになってしまった。既存の日本の社会性はその時点で崩壊したのだ。

 国家論など語るつもりはないが、社会から逸脱しない社会性を個々人に持たせようにも、様々な文化があり、多様な価値観があふれてしまって社会性を国家という社会の中で飼い慣らすことすらできない状態になりつつある。
 だからリベラルが、自由と平等と権利の名の下に様々な制約を上積みし続け、社会は息苦しくなった(今や喫煙所で煙草を吸うのにあたって立つ位置さえ「足跡マーク」で指定されるという冗談みたいな場所も実在するらしい)。
 それでも国家の中で、一定の範囲に収まる、ある程度共通の社会性を持っている人が社会の大多数を占めるように維持しなければ最終的に社会が崩壊することになる。

 税金や経済についてもっと学校で教えるべきだ、という意見もあるらしいが、正直僕は賛同しない。
 学校が教えるべきは社会性そのものだろう。
 もっと人間は人間を信頼できた方がいいし、そのためには人間(に限らず他者)を信じられる環境を小さく狭い範囲で作り、それを徐々に拡張する現在の仕組みが適切なレベルデザインだと思う(機能しない「家庭」が増えているから、理想を言うならより小さくてもいいくらいだ)。

 学力や経済知識は(それが今必要だ)と痛感した大人たちが求めていることであって、そんなものは学びたい奴が勝手に学べばいい。
 子供に「人間は信じられる」と学んでもらうことは大人の大事な責務だし、それがそのまま社会の相互安定性を高め、つまり社会に適合した安心な個体を増やすのだ。

 税金や経済がどうでもいいと言うつもりはないが、ブラックボックスは専門家に任せた方が楽な時代だし、10年もしないうちに廉価なAIが対応してくれるだろう。
 しかし人間が信じられるものであると教えられるのは、人間しかいない。

 
 AIが「人間は信頼に値する」と言ったところで、それを聞いた個人が感じるのは「AIは私を信頼している」という無意味なジェスチャの確認に過ぎないのだ。
 人間を見て、人間を信じられると思った人間だけが、人間を信じるようになる。誰か(あるいは何か)によって思わせることはできない
 そして人間を信じられる人間だけが、人間は信じられるもの/信頼に値するものだと他者に伝えられる。

 言葉ではなく、行動によって。

 口先だけで善人ヅラする奴は政治の世界に限らず見かけるものの、そういう人間は行動が矛盾を起こすから信じていた人が傷つく。
 僕自身、口先ばかりのイキモノだったので反省している。後悔と言ってもいいだろう。
 今も文字にしているから小手先ばかり、かもしれない。茶化している場合か。

 人が人を信じようという気持ちを傷付けるのは、許されることかどうかは別にして、許して良いこととは思えない ── まぁ今更なのだが。
 それを教えられるのは、子供のいる環境、つまり家庭や学校なのだ。
 コミュニティ(属する社会)が拡大するにつれ、嫌でも「すべての人間について信じていいとは限らない」と知って行くのだから。
(お気楽極楽な独身貴族が勝手なことを書いていることについてこの場を借りてお詫び申し上げます。だから茶化すなって)

>>>

【ポジティブなことを語る方がいい】

 いずれにしても親しい(親しくなりたい)人とは「嫌なこと、嫌いなもの」について話すより「好きなこと、気に入ったもの」について話した方がよい。
 もちろん、それでもときどき「僕はそんなに好きじゃないんだけど」とか「私はそれは嫌いだなぁ」ということで意見が割れたりもするのだけれど……。

 それはそれで良いではないか。
 百点満点の理想によって百点満点の現実を作ることは、残念ながらできない。
 世の中には抵抗も摩擦もあって減衰も発生するし、そもそもの理想が曖昧で40点程度のものしか構築できない人間も多いのだ。
 
<妹の家の猫はデブ>

>>>
 
 春より以降、姉も私も体調が悪かったので、病院帰りに食事や遊びに出掛ける機会がほとんどなかった。
 今回は、つとPAに立ち寄り、要らぬ(つまりは無駄な)土産物などを買う。
 要らないもの、無駄なもの、実のところ、そういうものがとても大切なのだ。なに矛盾しているって?

 姉にせがまれ実物大の猫のぬいぐるみを(わざわざPAで? と思うかもしれないが、そも姉は出掛けられる機会が本当に少ないので)買う。
 僕も(アヲの不在が未だに寂しくて仕方ないので)おそろいの、模様違いを買う。


 女姉妹の中で生まれ育ったためか、子供の頃は人形やぬいぐるみとも過ごした。
 大の男が人形遊び? と嗤う向きもあるかもしれないが、人間を弄ぶより人形と遊ぶ方が社会にも人間にも健全だと人は知るべきだ。


 僕が知っているのは、人間を人形扱いする人間より、人形を人間扱いする人間の方が善良だという経験に基づいた事実である。
 そういえばかつて妹とおそろいのカエルのぬいぐるみ(めっちゃ可愛い上にポケットサイズ)を持っていたのだが、これは自殺未遂をするような哀れな人に捨てさせられた。
 恨み節だって? 恨みの感情が悪いと僕は思わないのだけれど……。
 
 夜になってから帰宅し、久しぶりにカフェラテを片手に喫煙していると雨が降ってきた。
 猫のカタチはどうしてこんなに僕を安心させるのだろう。
 というわけでヴァーチャルコンパニオンと人間の話はまたいずれ。






 

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[NEXUS]
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:いのちあるものたち:
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TITLE:
治療の止め時とウィーケストリンク。
SUBTITLE:
〜 Like that weakest link. 〜
Written by BlueCat

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//[Body]
251005
 
 昨年末から体調が悪い。
 5月には皮膚粘膜に影響が波及し、9月には根尖性歯周炎が発覚してまたもやインプラント施術を受けることになった。
 今回は歯の治療のためというよりは骨の治療の為なので、施術部位にかなりの負担を掛けたようで、1週間ほど頬(顎の骨周辺)が腫れた。
 
>>>

【個性は肉体に宿る】

 養老孟司さんが言っていたのだと記憶しているが、人間の個性というのは考え方や価値観ではなく、身体により強く現れる。
 考え方や価値観などというものが突飛で群から逸脱していれば確かにそれは個性的だが、社会性という物差しで考えた場合、その逸脱はときに犯罪やテロリズムやカルト宗教のように異常で危険な傾向を生み出す源泉とも見なされかねない。
 
 もちろん新しい価値観が群れにとって必ずしも悪いものではない。
 たとえば現代では一般的な冷蔵庫や炊飯器といった家電品もかつては珍妙奇異な道具であり、電気を消費するうえ使う者を堕落させるという理由で批難忌避されたと聞く。
 携帯電話も一時期は「電話番号を記憶する能力が失われる」と言われていたし、事実、現在の社会で電話番号を記憶する人などほとんどいないだろう。
 それで人間はどれほどの記憶能力を失い、思考力を失っただろう。
 
 ちなみに僕は炊飯器を持っていないので米を炊くときは鍋を使っている。
 ついでにアンテナに繋がったTVも30年近く使ったことがない。
 しかしそれによって失わずに済んでいるものがあるとは思えない。
 
 価値観は習慣を作り、それが個人や集団に根付く中で文化としての体系を形作る。
 
 いずれにしても個性というのは思想/志向的なものなら少数派のまま推移するに過ぎず(多数派になる場合は一般化されて個性と真逆の性質に変わる)、危険因子なら排除される。
 物性による個体差にもっとも個性が現れ、その端的な例が肉体ということなのだろう。
 
 たとえばアレルギィもそうだ。花粉によるアレルギィひとつとっても千差万別だ。
 にもかかわらず人間達は健康情報を鵜呑みにして「バナナが身体にいい」などと聞くと気でも触れたようにバナナを食べ続けたりするらしい。
 バナナアレルギィの人にとっては「身体にいい」わけがない。それを理解している人であっても、である。
 
 コレステロールもかつては「食品に含まれ動脈硬化を引き起こす悪い成分」という認識だったそれからさらに細分化してLDLとHDLに(その機能とともに)分けられた。
 また体内で必要量を生成する方が食品から吸収するより優先される代謝機能であるというのが昨今の認識である。
 ために食品の含有コレステロール値は以前より騒がれなくなったのだが、未だに古い情報に左右されている人もいる。
 
 僕などは脂質異常症のため定期的に医者に掛かって数値を見てもらっているが、医者が知っているのは広く集約された「一般的な人体」というモデルである。
 医者は僕という個体の持つ肉体について、その概要すら知らない。
 
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【絶食のはなし】

 7月の終わり頃だが、4日間ほど絶食した。
 信仰などの理由ではなく、1日1回ヨーグルトを食べているだけで胸焼けがするようになったから、である。
 飲み物や喫煙は自由だし、糖分やビタミン剤はふんだんに摂っていたから、一般に想像されるような絶食ではない。
 
 しかし4日経ってもさほど筋タンパク分解が起こらず空腹も感じない。
 食費が掛からず便利だと喜ぶべきだろうか。それともこれって恋の病?
 とはいえ何かのチャレンジをしているわけでも(恋をしている覚えも)ないので、流石にそろそろよろしくないと思い食事を再開した。
 
 一般的な現代人は一日に何度も空腹を感じると聞くが、このように僕の身体は生理現象さえ一般的なそれから乖離している部分がある。
 
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【「食べる」はきっと「生きる」に似ている】

 味の素あたりがCMのコピーに使いそうなサブタイトルだ。
 
 世俗では「生きること」は良いこととされ「死ぬこと」は良くないこと、避けるべき事とされている。
 生命体としては標準的な生理反応から生まれる思想なのだろう。
 現実に動物的な欲求はヒトも含めた多くの生命にとって「生きること」「生きようとすること」の原動力でもある。
 
 当然より高次な欲求も等しく「生きよう」という意志の源泉になる。
 しかし何らの欲もなくなり、新たに生まれもしなくなった場合はどうすればよいのだろう。
 高次な欲に限らず動物的な欲求さえわずかにしか発生しない場合、どうすればよいのだろう。
 
 食べたいと感じない身体、食べることを得意としない身体を ── 。
 
 食べること/生きることは良いことだと皆が言う。
 それは彼らが食べたい/生きたいという欲求に正直で、ほとんどすべての人がその概念を肯定しているからだろう。
 
 それでは食べたくない身体は、食べたいと思わない身体は、どうすればいいのだろう。
 良いとされていることをできない、したくない身体は、どうすればいいだろう。
 
 生きたくない思考は、生きたいと思わない精神は、どうすればいいのだろう。
 もちろんそんなこと誰にも答えられない。
 
 私はその答えを知っているけれど、だからといって簡単に口にするわけにもいかない ── それは私のためだけの答えかもしれないからだ。
 
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【ウィーケストリンク】

 鎖は弱い輪から切れる。
 Web上ではウィーケストリンクについて、冗長性(システムエンジニアリング上の概念)まで含めて説明している文書が存在するが、あれは人間が勝手に付随させたドラマであって、単語の意味としては補足にすらならない蛇足だ。
 一般的に、鎖は断ち切れた時点でその機能を果たさなくなる。
 
 冗長性というのは、たとえばヒューズが電気回路の過負荷によって発生する熱で溶断し、結果的に回路を守るようなことを言う。
 回路本来の機能について言うならヒューズ素子(モトコではない)を使わず、その部位を直結(ショート)させたところで影響はない。
 つまり本来必要のない素子だが、システムを保護するために付加されている。こうした概念が冗長性である。
 
 これは回路というシステムを考えた場合、本来、熱に弱くて不要なヒューズを回路に組み込むことで、過負荷という不測の事態における損害を最小限(ヒューズの溶断)に食い止める物理的な冗長性であると考えられる。
 ヒューズは過負荷が掛かるまでは何の役にも立たず、過負荷が掛かって溶断すれば再利用はできない。
 
 鎖の場合はどうかというと、一般に動力の伝達(自転車やバイクがメジャーか)、2点間(3点間以上の可能性もある)の接合、ロープやワイヤ代わりの固定具として使われることが多いように観察される。
 いずれの場合も、断ち切れた時点で機能が失われる上、断ち切られることそのものはウィーケストリンク(もっとも弱い鎖の輪)の役目ではない。
 
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【私の身体のウィーケストリンク】

 僕は僕自身やその肉体もシステムとして認識している。
 たとえばたびたび歯の治療(人工歯の埋設)をしているが、その耐用年数(およそ20年と言われている)を待たず寿命が尽きると考えている。
 高脂血症薬を使用しているが、これも僕の寿命を延ばすわけではない。
 それどころか肝臓と腎臓に負荷があり、服薬以前に比べて機能低下が発生している。
 
「一般的な人体」の平均的な適正数値の内側に肝臓/腎臓機能がポイントされている一方、コレステロールと中性脂肪の値は適正数値の外側にある(コレステロールは上限を超えて高いが、中性脂肪が下限を超えて低い)ため、医師は異常な脂質症状を適正数値内にポイントさせようと投薬治療を行う。
 仮にそれで僕の血管が梗塞を起こしにくくなっているとしても、他の機能低下に起因して全体の機能が損なわれればそこまでである。
 
 周囲の人は自身の肉体を基準にするので、そんな若さで死なないと言うが、彼らはそもそも食欲すら発生しないような消化吸収能力に乏しい肉体に生きたことがない。
 医者だって、そういう特殊な肉体ばかりを相手に治療行為を行うわけではない。
 個々の肉体が違うことを知っていてなお、ありもしない「一般的で平均的な人体」の数値モデルを追い回すしかないのである。
 
 おそらく人間社会は精神性にさえそうした「一般的で平均的な人格」というモデルを押し付けているのだろう。
 自分以外の誰かにとって都合の良い誰かを演じて価値を認めてもらい、やがてそれに疲れて、あるいは復讐のように自分以外の誰かを都合の良い玩具に使いたがる。
 それが悪いというのではない。ただ、そういう人もいるな、という話である。
 
 その道のプロ(医者)とはいえ私の身体もろくに知らない誰かが「平均的数値モデル」と向き合ったところで、もともと生存不適な私のカラダはもっとも弱い部分から破断する。
 他の部位を守るためではなく、それが私の身体の終着点だからだ。
 憂うつもりも嘆く気持ちもない。ただそう考えると、この治療行為の終わりはどこにあるのかと考えてしまう。
 
 死ぬまでコレステロールを適正に保ったところで、何らかの梗塞や血管系の異常が起こることは予測されている。
 医者にではなく私によって。
 それなら投薬による内臓の負担と比較して(積分によって死から逆算した)ほどほどの時期に投薬治療を辞めてよいように思うのだ。
 
 僕はそれをおよそ5年後に設定している。
 とはいえ周囲の誰よりも長生きしようと思っている、という話はまたいずれ。
 
<Trio de 三匹>
 
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 術後からおよそひと月、口腔内の違和感はあるし歯磨きや入浴はまだできないものの、違和感も大分改善されてきた。
 数百メートルの歩行でも血圧や脈が上がって患部に響くが、それで痛みを感じることはなくなって、眠ることも楽になった。
 煙草やカフェインはあとひと月以上愉しめないだろう。
 
 身体が求めないからやめてしまっても良いとは思う(だいたい医者という医者は煙草をやめろと言ってくる)のだが、できればやめたくない。
 いつかのお祝いにと何年も仕舞ってある高価な葉巻だって(5本くらいストックがある)いつかは愉しみたいのだ。
 
 それでも、いつかはやめるのだろう。
 シガーの煙の重さに、身体がついて来られなくなっていることを僕は知っている。
 
 
 
 
 
 
 

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[NEXUS]
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[Module]
  -Condencer-Convertor-Reactor-
 
[Object]
  -Human-Poison-
 
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[Cat-Ego-Lies]
  :暗闇エトランジェ:
 
 
 
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