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// TimeLine:250616
// NOTE:
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TITLE:
「ノー」と言える日本はどこに行くのか。
SUBTITLE:
〜 Spirits, or Spirits? 〜
Written by BlueCat

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//[Body]
250616
 
 2週間ほど寝込んでいたが、少し体調が良くなったので30分ほど外作業。
 草刈りをしたいので、草刈り機に取付ける樹脂刃(削れやすく高価)を保護/強化するための金属刃の工作である。
 100円ショップの金属ブラケットを加工して作るのだが、最近は(100円ショップの)ブラケット金具も高騰しているらしく、パッケージされている個数が減った。
 ブラケットなんて色んな種類を大量に持っているに越したことはないものなので、少々残念ではある。
 とはいえきちんと強度の欲しいL字金具などはホームセンタで買うのだが。
 
 ちなみに先日ガールと100円ショップに出かけた際(彼女は僕のブログを読んだことのある人だったのだが)そもそも100円ショップで買い物をすることに少し驚いている様子だった(口に出さなかったが、そういう空気を感じた。もちろん勘違いかもしれないが)。
 おそらく「100円ショップで買い物をするのはあまりよろしくない」というようなことを以前にも数回書いたことがあるから、それを目にしたことがあるものと想像する。
 
 たとえばだが煙草は身体に悪い。これは純然たる事実である。
 一方で僕は愛煙家なのでヒュミドール(調湿箱)も持っているし、シガレット/パイプ/葉巻/煙管を愉しむ。
 吸っている時間より、手入れや喫煙の準備に掛けている時間の方が多いような気がすることもある。
(とくにパイプや煙管は喫煙具の手入れが必要である)
 
「100円ショップで買い物をするのは日本経済にとってあまりよろしくない」と考えている事実と、僕が100円ショップで買い物をするという事実は、そんなに驚くほど相反するありようだろうか。
 だとしたらいいな、と思う。
 僕は自分が矛盾している(ように観察される)ことを、一貫して筋が通っている(と評価される)ことより良いと認識しているためである。
 
 ところで100円ショップで1,2を争ってオススメの商品があるとすれば「アクリルたわし」である。
 たいだい食器洗いスポンジにほど近い場所に置かれているものなのだが、当然、食器洗いに使う。
 1つ100円なので割高に感じるかもしれないが、洗濯することができる。なので何度となく清潔な状態で使える。
 
 僕は食器洗い用とシンク洗い用を用意しているほか、野菜の洗浄/皮むき(人参やジャガイモやゴボウ)にも使っている。
 水洗いしながら皮を剥くのでピーラより早く薄く剥ける上、使い終わったら洗濯するなり食器洗い用にするなり自在で非常に便利である。
 予備も含めると6個くらいは常備しているだろうか。
 なのでここ数年、食器洗い用スポンジというものを買ったことがない。
 
>>>
 
 かつて日本人は「ノー」と言えないと評判だった。
 それはそうだろう。
「一億玉砕せよ」と言われて「えー?」とか「それはちょっと」と言うことが許されない、全体主義的な文化/歴史の延長線上にあったからだ。
 
「国のために死ね」と言われたら「ハイ喜んで!」という、ちょっと元気の良い居酒屋みたいな返事以外は認められなかった。
 上からの圧力もあり、同調圧力もあり、結果、圧力は下方に排出するしかない。そういう文化だったのだろうと想像する。
 
 なので最近の世俗は、のどかな風景にも思える。
 皆が「それは違うんじゃない?」「そういうのは嫌だな」と言い合っているからだ。
 これは「言いたいことも言えないこんな世の中じゃ POISON」みたいな状況よりは健全な状態だと言えるだろう。
 
 しかしすべての人が「嫌だ」と思っていることに対し「ノー」と言える環境が整っているかというとそういうわけでもない。
 文化というのは連綿と、ときに明文化されないまま承継される。
 全体主義的な思想や文化が必ずしも悪いものだとは思わないのだが、その思想は「全体という他者に対して自発的にリソースを提出する」という場合に最大の効果を発揮するものであり「全体という他者に対してリソースの提出を強制する圧力」の根拠とするべきものではないだろう。
 これはおなじみ「一日為さざるは一日食わず」と「働かざる者食うべからず」の違いと同一のものである。
 
 にもかかわらず人は「その思想が正しい」というたったそれだけの理由で、他人に強制する許可を自身に与えてしまう。
「人に暴力を振るってはいけない」という思想は正しいが、それを他人に強制することがいつも正しいとは限らない。
 たとえば話し合いが通用せず、逃げることも不可能で、にもかかわらず自身の生存を脅かされるような状況であれば、暴力を振るうことも1つの手段として考える必要がある。
 
 では「暴力は状況によって使うことも選択肢に含めるべき」と、他人に言い含めることだろうか。
 僕はそうは思わない。それは僕の持つ思想であり正しさでしかない。
 
 僕より10年くらい年下の世代(およそ1990年までに生まれた人たち)の多くは、結局のところ全体主義的な同調圧力による正しさの強制を受けてきたのではないかと想像する。
 彼ら彼女たちの親が、まさしく「『ノー』と言ってはいけない価値観」によって圧力形成されてきたからだ。
(もちろん「多く」であって「すべて」ではない)
 
「嫌だ」「ノー」と思っていることに対し、そのように表明できないコミュニティは悲惨だ。
 その場の支配者、強制する側なら楽なのだが、隷属し、強制される側にとっては地獄のような場所だ。
 
「嫌だ」と言ったとき、相手にそっと手を引いてもらえる優しさを、僕は知らない。
 
 ……いや。そうでもないか。
「シュレディンガーの仔猫」の母親、かつての僕の恋人は、そもそも僕の嫌がることをしなかった。
 半年や一年くらいなら誰でも努力次第でできると思うのだが、十年のあいだ一度も、となると尋常ではない負担を掛けていたのではないかと今さらながら心配になるほどである。
 
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 卑近な例になるが、僕の家庭は「ノー」と言えない場所だった。
 父の言うことに対して口答えすることが許されず、度が過ぎれば(つまり当人が気に入らないと思えばその気分次第に)殴られていた。
 母も姉も同様に殴られていたので(嗚呼、私もいずれはそうなるな)と思っていたところ、そういう自意識が僕に備わる前に一家は離散した。
 
 離散ののち長女は独り立ちし、ほどなく不遇の次女が未成年のうちに家を飛び出し(姉の名誉のために付け加えておくと「出て行け」と言ったのは父である)、数年後には放蕩の三女の爛れた性格が矯正されないまま家を送り出した(三女は全寮制の定時制高校に進学し、数年後に中退して以降10年に一度くらいしか顔を合わせなくなり、やがて失踪する)。
 
 父の名誉のために付け加えておくと、一家離散から10年ほどのうちにずいぶんと考えを改めたようで、結果、僕は一度として殴られたことはなかった。
 もちろん僕が口答えをしなかった為でもある。
 また口にこそ出さなかったが、彼にとっては「待望の長男だった」という理由もあるようだ。
 
 ことさら意識したことはないが、僕もまた「ノー」と言えない性格に育った。僕の言うところの「圧力形成」である。
 実は父が悪いとも思っていない。彼もまた、親の世代や社会から「そういう価値観」に染められた被害者に過ぎないからだ。
 
「彼ら」のロジックは比較的シンプルだ。
「口答えするな」「余計なことをするな」「正しいとわかっているならそれをしろ」である。
 結果として、自身にとっては正しいが、思想が反する場合に沈黙するよりなくなる。
 反論すれば殴られ、自分で考えて行動すれば殴られ、相手の望む回答をすれば「最初からそうしろ」と怒鳴られる。
 
 僕はそういう思想を心底憎んだが、同時に、心底怯えていた。
 そして自分が「ノー」と言えない性格に育ったな、と自覚した10代の後半に「こりゃダメだ」と判断した。
 このまま大人になった場合、僕はその価値観に染められているため、他者に対して同じように自身の正義や思想を強制するような人間になりうると判断した。
 配偶者を束縛し、子供ができたら虐待する未来まで予測した。
 
 よって18歳にして、僕は自分の将来を諦めた。
 自分の価値観をどこまで変えられるか自信がなかったのだ。
 僕は家族らしい家族も知らず、あたたかい団らんというのも知らない。
 家族の協力とか、姉妹の絆とか、そういうものも見たことがない。
 
 なんとか20代の半ばには本当に嫌なことに対してだけは「嫌だ」と言えるようになった。
 少しの心のさざ波が先々荒くなると予測されれば即座に「まっぴらごめん」と言えるようになったのは40歳を過ぎてから。つまり(肉体的には)10年も経っていない。
 
 倫理も、正義も、正しさも思想も、自分がそれをして己を律するぶんには良いものだと、今でもそう思う。
 しかし誰かに何かを強要するための凶器に使うなら、それはシンプルな狂気だと、僕は思う。
 
>>>
 
 皆が嫌なものを嫌だと声を上げるその様子を、だから微笑ましく思う。
 平和な国に、自由な社会になったと思うのだ。
 そして同時に、誰もが己の正義を振りかざし、時に誰かに振り降ろすその凶器をおぞましく思う。
 
 新入社員が職場で電話を取るのを恐怖する、というニュースを先日見かけたが、そんなものは現代に限らず昔からあった。
 会社組織には会社組織のフォーマットがあり、営業トークには営業トークの、ビジネス電話にはビジネス電話のフォーマットがある。
 それはビジネス文書やビジネス会話、冠婚葬祭の「マナー」とされているところの「暗黙の了解」に符合するものである。
 
 集団(コミューン)における「暗黙の了解(プロトコル)」は、しかし悪いものではない。
 ビジネス文書のように要所要所のポイントを押さえることで、伝える側も読み解く側も、本題を的確に捉えることが可能になる。
 飛び込み営業を嫌う人も多いが、彼ら彼女たちのプロトコルを押さえておけば、コミュニケーションの中で情報交換することもできるし、的確に断ることも可能になる。
 
 もちろんそうしたプロトコルを教えてくれるような企業もあるだろう。あるいは独学も可能だ(僕はそうした)。
 それは強制されるものではない。
 自分で必要だと思って身に付けるか、あるいは「そんなのやってられっか」と不貞腐れ、弾かれ者として過ごすか、その二択である。
 
 外国語のようなものだ。
 郷に入りては郷に従う、そのフォーマットをどのように身に付けるかであり、その中に一切の自由がないということもない。
 知らない自由があり、知る自由がある。
 
>>>
 
「ノー」と言える自由を、労せず最初から持つ者たちは、僕には少し眩しい。
 それはおそらく、無垢であることの眩しさだ。
 彼ら彼女たちはその多く、汚れというものを知らない。
 
 無理強いされる痛みも、同調圧力によって形成される苦しみも、本来の自分のカタチを取り戻す諦めの境地も知らない。
 ガイドもパンフレットも用意されたパッケージツアーのように無駄がない。
 高効率だからこそ、ためにときどき残酷になる。退屈に思える。
 
 それが悪いと言いたいわけではない。
 たとえばペペロンチーノの基本はアーリオオーリオオイルと麺と塩である。
 究極的なものはシンプルすぎて、だから退屈なのだ。
 だからといって忙しくて慌ただしくて、じっくり味わうヒマもない複雑なものに比べたら、退屈なことはずっと豊かだと考えることもできる。
 
>>>
 
「ノー」と言える自由は、「ノー」と言える力だ。
「ノー」と言える力、「ノー」と突きつけることの正しさを我々は知った。
 
 知ってしまった。
 
 少数派を自称する者たちが、多数とされる者に対して「ノー」を突きつけ、己の正しさを強要する。
 多数の者たちに虐げられた、その復讐を果たさんとばかり。
 
 学校や職場のイジメだって、なくなることはないだろう。
「ノー」と言えない環境で育ち、「ノー」と言えないままに育った個体は今もどこにもいるものだし、捕食者たちはそれを見逃したりしない。
 
「ノー」と言わせない強制力を凶器に換えて、誰かが誰かを殴ろうとしている。
 それは己の保身のためか。過去の傷に対する復讐のためか。
 
 結局それは、かつてと同じ「『ノー』と言っている人の意見は尊重されるべきで、絶対的に守らなくてはいけない存在だ」という全体主義的な圧力を生んではいないだろうか。
 いやまぁ、それが悪いというわけではない。勝手にすればいい。
 
 ただ我々の社会は、この過渡期を抜けたとき「『ノー』とあなたの言うそれは、絶対にノーだとは限らないかもしれないよ」という「アンチ『ノー』」の姿勢を獲得するだろう。
 ノーに対するノーの応酬のように思えるかもしれない。あるいはイェスに対するイェスの価値観提示かもしれない。
 
 正しさや力関係による強制ではなく純粋にフラットな価値観の衝突の ── 「衝突」という言葉が悪いというなら価値観を提示し合う ── 場、勾配や摩擦の影響を受けず、正しく理屈をやり取りする姿勢を手に入れるのではないだろうか。
 
>>>
 
 我々はずっと正しさに迷っている。
 正しさを時に憎み、あるいは正しさに恐怖し怯え、正しくありたいと願う。
 今の社会において「ノー」と提示された対象は、その存在も価値観も、正しさの対極にある邪悪なものとしてサンドバッグのように扱われる。
 
 あるいは正しさは酒のようなものかもしれない。
 多くの者が望み、皆が欲するが、それに酔わずにいることはむつかしい。
 いや。
 欲して、飲んで、酔ったとて、我を忘れなければ問題など起こらないか。
 
 おそらく溺れない、というのがむつかしいのだろう。
 だから我々は今、この社会は今、正しさに溺れている。
 いやなにきっと何千年も前からそうだろう。
 戦争ひとつとっても、それは正しさと正しさのぶつけ合いであって、それが理屈であろうと経済であろうと武力以外の力では解決できなかった結果ではないか。
 
 悪いことではないのだ。邪悪に溺れるより、よほどもいい。
 ただその酩酊は、己を失い、時に損ない、己も含めた誰かを傷付ける。
 
 それに酒もろくに飲めないような若造がいたとして、僕は悪いこととは思わない。
 つまり正しさを知らず、迷い惑って道を外れることを悪いものだとは思っていない。
 じつに正しさに酔って溺れることは、つまり道を外すことに等しい。
 
 正邪も善悪も善行も悪徳もその判断基準も、結局のところ道具に過ぎない。
 己の欲を満たすより、両手の届く範囲にある者たちを守ろうとすることのほうが素晴らしいが、それに終始する程度の道具なら、一層のこと手放した方がいいだろう。
 それは一人の人間が抱えるには過分な、相応することが困難な道具だ。
 
 だから人は、人を裁くことを法という人ならざるものに求めたのではないか。
 もちろんこの国で正しく法が振るわれていると思うかどうかは別問題だが。
 
<足並みを揃える>
 
>>>
 
 体調が良くなったついで書類を整理する折、税金の書類を見つけてうめき声を上げる。
「あー。あー」「うー。うー」
 マイクチェックではなく苦悶の声である。
 
 全体主義的な思想や文化が必ずしも悪いものだとは思わないのだが、その思想は「全体という他者に対して自発的にリソースを提出する」という場合に最大の効果を発揮するものであり「全体という他者に対してリソースの提出を強制する圧力」の根拠とするべきものではない、と青猫氏は語った。
 
 いや払えるものは払うんですけどね……。
 今年の固定資産税って、高すぎませんか?
 なんでこういう一方的な正しさで僕に強制力を振るうのでしょう、僕は猫なのに。猫なのに……。
 
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
 
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Darkness-Diary-Ecology-Eternal-Form-Interface-Link-Mechanics-Memory-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Koban-Memory-Poison-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:250520
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
技術者とは何か。
SUBTITLE:
〜 Engineer at heart. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
 ここ数年、夏も冬も体調を崩す。春と秋も調子がいいとは言えないことが多い。
 環境要因もあるだろうが、自律的な影響も否定できない。
 仕方ないので主たる人格を切替え(僕にはそのような様式があり、猫会議によって可決された)、規則正しい食事と睡眠、ついでに適度な運動を心掛け、ついでに(ついでに?)キャンピングキャビンを整備した。
 
>>>
 
 先日(といって数ヶ月前になるが)技術者(エンジニア)とは何か、という話をする機会があった。
 
 技術者というのは、つまるところ現実世界で高い再現性をもつ手法を知っていて、それを使うことができて、場合によっては応用できる人のことだ。
 料理ができる人も、人と交渉したり、知識を教える人も技術者だと思っている。
 より良い結果(質)をより高い再現性(量)で発揮する者は、より優れた技術者として認識されるという点については異論もないと思う。
 
 料理をはじめとする家事全般や各種事務処理、他者とのコミュニケーションにさえ技術は存在し、ために優れた技術者とそうでない者に分類することは可能である。
 また既存ではない技術を新しく生み出す人は発明家と呼ばれるが、これも技術者の一形態だろう。
 
 いずれにしても技術者の持つ「技術」には知識(情報)的な側面と現実世界に具現される能力的な側面があり、知識に含まれる情報の正確さはもちろん、それを具現する能力に高い信頼性(=再現性:同じ結果を出せること)も求められる。
 
>>>
 
 僕自身、他者からよく技術者(あるいは理数系の人)という認識をされることが多い。
 かつて職業技術者(機械設計)をしていたこともあるが、どちらかといえば無能のイキモノだと思っている。
 また文系か理系かと問われると、どちらかといえば文系に近い自認である。
 
 臆せず土木や建築、園芸や電気工事に手出しをするし、市販の洗剤の代わりに化学薬品を調合して使用することも多い。
 知識がないと危険が伴うものの、安価で強力で便利なものを作ることも可能だ。
 
 たとえばホウ酸から水溶液を作って殺虫/防虫/忌避に利用したり、ジクロロイソシアヌル酸Naから水溶液を作って冷蔵庫内の消臭/除菌に使ったり、入浴後の風呂水に直接入れて水質保持に使ったりする。
 純石鹸を常用しているため浴室などに石鹸カスが付着しやすいが、これらには希釈したリン酸に界面活性剤を混合して使うことが多い(香料や着色料を含まないサンポールのような作用をもたらす)。
 
 いずれも環境や肉体(あるいは経済事情)の特性に強制されて(学び、身に付け、使用して)いる側面が強く、好き好んでしているわけではない。
 
 ただ理屈をベースに物事を考える気質ではある。
 人間の感情でさえ(原因と結果の相関性について)一定の再現性を持つと思っている。
 ために自身の感情についてさえ、何が原因でどのような過程を経て結果に至るかを考えるようになった。
 
 そもそも「理系」とか「文系」というくくりが、あまりよく理解できない。
 理系といっても自国語なり他国語なりを基盤にして、かなり複雑な文法や用語、概念を用いる場面は多い。
 固有名詞もふんだんにあるし、専門用語も含めたらちょっとした文系を凌ぐ情報量を取り扱うと言ってもいいだろう。
 言語なくして知識なし、と考えればいかなる学科も文系という基板の上に成り立っている。
 
 それなら数学や幾何、化学などは文系に含まれないのかと考えると、どうやら含まれなさそうだ。
 よって理系には文系が(必ず)含まれるが、文系に理系は(必ず)含まれるわけではないと考えられる。
 理系は文系に対し、上位互換ということになるか。
 
 僕の場合はたまたま小学生の頃からコンピュータについて学ぶ機会があり、独学で言語を学ぶ環境も得られた。
 64ビットだの、量子ビットだのという高度な電子工学や物理学を必要としない、8ビットの基礎的な環境だ。
 僕より少し前の世代になると小中学生のうちから自作(独学)で鉱石ラジオを作ったり、電気回路を設計していた人たちも多い。
 テクノロジィに対する憧れが、華やかな未来を描いて原動力になっていたのだろうと想像する。
 
 懐古主義のつもりはないが、基本を知っていることと知らないこと、経験していることとしていないことについて、それぞれ前者には一定のアドバンテージがあるとは思う。
 
 僕は大卒だと勘違いされることがあるが、おそらく使う言葉による錯覚だろう。
 高校の進路選択では進学校に行ってもろくな未来が見えなかったことと、早く就職した方が良いのだろうという(家庭環境に対する)勝手な忖度の結果、工業高校を卒業した。
 
 これまで愚劣な大卒者も多く見たが、実に利発な者はたいてい大卒だった。
 理路整然と体系化して自身の知識や体験、思考や感情を言語化して出力できるその能力にはシンプルな素晴らしさがあり、僕には到底およびもつかないと感じる。
 とはいえ自身の学歴について劣等コンプレクスはない。
 
 おそらく競争を好まず、競争に参加しない思考回路の持ち主だからだろう。
 比較して勝った負けたと評価されることにも、することにも興味がないのだ。
 
>>>
 
 話を戻して技術について少し話をしよう。
 
 技術とは何か ── それをもう少し詳述すると「自分を含めた誰かを、ちょっとだけ幸せにする知識と実現力」だと思っている。
 たとえば些細な会話でも「あの人と話すと気持ちが軽くなる」とか「悩みごとに対してヒントをもらえた」という経験は誰にでもあると思う。
 ……え。ないの?
 ……そう。僕はあるんだけどな。
 
 あるいは床に落ちている塵が気になったとき、ちょっと拾ったりするのも技術である。
 僕がトイレを綺麗にしてしまうのも、あれは技術に違いない。少なくとも綺麗なトイレは僕の心を平穏にする。
 古式ゆかしき「給仕という美の体現」としての接客業も、高度な技術である。
 
 美味しい料理、整備された自動車、通販の商品を誰かの家に届けること、野菜や家畜を育て、それを屠殺し流通させること。
 誰かの愚痴を黙って聞くこと、あるいは自分なりの意見を述べること、ときに何も言わず誰かと一緒にいることだって、じつは大事な技術だったりする。
 
 これらについて知識がないと、再現性は損なわれてしまう。
 体現する能力がない場合も同様だ。
 
 料理は「まぐれ」にしか美味しいものが出来ず、自動車は車検を通した直後に不具合が出たりする。
 設計や試験の技術不足でリコールが発生し、流通は滞り、食品すら満足に供給されない。
 友人や恋人は心変わりし、家族は離散し、学級は崩壊し、社会は荒廃する。
 
 不幸にならないために、不幸を作らないために、ちょっと工夫をすること。
 幸せになるために、幸せを作るために、ちょっと工夫すること。
 不快を不快でないように、今ある当たり前を、より快適にすること。
 
 そのちょっとの段差を埋め、理想に近づく手段が、技術だと思う。
 
 そう考えると我々は誰もが技術者であり、また、技術者になれる。
 その技術について、どれほどの質を求め、どれほどの再現性を発揮するかは ── まぁ、各々の考え方次第だ。
 
 お金さえ払えば大抵の技術を購入できるようになって久しいが、近年とみに思うのは、環境の変動に伴い安定して動植物を育てる(作る)ことの困難さだろうか。
 
 世俗はお米で騒いでいるようだが、かつて(日本の景気が良かった頃)は「米農家は日本政府に優遇されすぎだ」などと社会に叩かれ、より一層の減反政策に傾けるような意見が多かった。
 近年も「ローカーボハイドレイト(糖質制限)の流行で米消費が低迷している」などと騒いでいたはずだが、人々はすべて忘れて一転したようだ。
 人間社会はつくづく分からないことが多い。
 
 個人的には年に5〜20kg程度のお米を消費する程度なので、価格がおよそ2倍になった今も影響はほとんどない。
(10kgのお米を消費するのに3年以上掛かったこともある)
 
<午睡の階段構造>
 
>>>
 
 色々な意味で、技術者は減りつつあるのではないかという危惧する気持ちが少しある。
 人口が減っているのだから当たり前だ、という考え方もできるが、技術大国と呼ばれた(あるいは自称に過ぎないかもしれない)この国の「技術者」は、その割合を減らし続けてはいないだろうか。
 
 マイナスのものを少しでもゼロに近づけること、ゼロから少しプラスにすること。
 自分の両手で届く範囲を、よりよくするためにできることを、少しすること。
 独り占めせず、できる限りその「よりよさ」を皆で分け合う。
 それが技術の本質ではないだろうか。
 
 受け身の考えで、買えばいい、貰えばいい、誰かがすればいい、という発想では、事態は徐々に悪化してしまう。
 とはいえ他人のことをとやかく言うつもりはない。
 自分の技術を、さて今日は何に使おうかと、窓の外を眺めて考える。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫α:黒猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Cooking-Darkness-Ecology-Engineering-Form-Love-Recollect-Rhythm-Season-Style-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Generator-
 
[Object]
 -Camouflage-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :工場長の設計室:
:ひとになったゆめをみる
:Webストリートを見おろして:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:250513
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
うつつの世界のSAN値チェック。
SUBTITLE:
〜 the Lunatic. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
250513
 
 夕刻から夜に掛けて、二度に渡って近所の老婦人の襲撃に遭う。久しいことである。
 詳細を書くつもりはない。詮無いことである。
 
 かの老婦人にせよ、介助している姉にせよ、観察している範囲において人間というのは孤独に弱い。
 他者というのは、自意識を明確に持てば持つほどその輪郭を厳密に定義する上で必須のもののようだ。
 
 観察する限り姉は年齢相応に偏屈な部分もあるが、そも生来のこだわりの強さが他者との摩擦を発生させやすく、そこで疲弊してしまうために比較的孤独を好む。
 
>>>
 
 ここでいう「こだわり」というのは、決して良い意味ではない。
 僕は「こだわる」という言葉を良い意味では使わない。
 
 たとえば「こだわりのラーメン屋」とか「蕎麦職人のこだわり」といった単語は「ああ、アタマが硬くてイカれた個人経営者が偉そうにしているのか」と思う程度である。
 辞書を引くと分かるが、そもそも良い意味の言葉ではない。
「こだわる」というのを漢字で書くと「拘る」となる。
 思考が余計なことにとらわれてしまい、その個人の思考がその人自身を拘束し、その不自由さが周囲にも悪影響を与える様のことだと認識している。
 
 技術が優れている、とか、精細な作業を容易くこなす職人を表現するならば、そのまま言葉にすれば良い。
 おそらく良い意味で使われ出したきっかけは、ある種の皮肉だったのではないかと想像する。
「あの店の主人はこだわっているから」というのを「頑固で偏屈」という意味で使ったが、受け取った側は「ひとつの道を突き詰めた」と思ったのではないだろうか。
 
 意味が標準語から逆転することは古今にもいとまがない。
 たとえば「ヤバい」という形容詞も、昭和の時代は「危険だ」「胡散臭い」といった感覚で用いられていたが、今は単なる感嘆詞として作用している。
 意味合いとすれば「すごい」といったようなことか。
「超ヤバい」「激ヤバ」「めっちゃヤバい」「すごくヤバい」というのはいずれも「すごくすごい」という意味であり、その前後にある評価を強調する意味しか持たない。
「ヤバくてヤバい」ということだから「ヤバヤバ」という言い回しが生まれるかもしれない(たぶん生まれない)。
 
 古くは「矢場(名詞)」から「矢場い(形容詞)」と転じたのではないかと思う。
(そもそも弓矢を日常に使わない現代日本において「矢場」は地名を残してほぼ死語である)
 名詞から形容詞に転じていることから、そもそもスラング的な言い回しだったろうとも想像できる。
 
「こだわる」というのも同様、ある時点でそれまでの意味から反転して良い意味の、褒め言葉のように使われ始めたのではないか。
 あるいは何らかの技術者が謙遜して「無用のこだわりを抱えておりまして」と表現したのかもしれない。
 料理であろうと工学であろうと一切の技術者は、より広くより多くの人の幸福感に貢献するために技術を用いたいと思うものだ。
 
 その中で生まれる哲学が、技術を研鑽する動力としても働くし、研鑽のうちに哲学が生まれ(あるいは変容)もする。
 しかし初心にあるべきは「より広くより多くの人の幸福感を高める」という気持ちではないだろうか。
 少なくとも僕は技術の根源をそのように認識している。
 
 そのような心持ちを考えた場合、こだわりというのはあくまで自身の思うエゴに過ぎない。
「こうしたらもっと喜ばれるのではないか」という気持ちが徐々にねじれてしまい「こういうカタチが楽しいだろう」という思い込みや「この部分はすごいと賞賛されるはずだ」という虚栄心や承認欲求になってしまうことは往々にしてある ── 少なくとも僕はある。
 要は策に溺れるということだ。
 
 そのような自省の機会があれば、技術者(職人と言い換えてもいい)は必然に謙遜することになる。
 自身が突き詰めようとする道について果てなどなく、己の内にある良い哲学や理想と同時に、それそのものがときに醜いエゴや驕(おご)りに傾く不安も抱える必要がある。
 そしてそのいずれもが、己という存在の独善的なこだわりに過ぎない。
 
 もしかしたらそうした意図が、外側から観察して美しく思えたのかもしれない。その結果「こだわる」という言葉が美化されたのではないかと。
 いずれにしても現時点で僕の手にしている辞書による限り、こだわるというのは単に「独善による不自由」という意味に過ぎない。
 自分で自分や周囲をがんじがらめにしているだけの、哀れに矛盾したありようを指している。
 
 ために褒め言葉としては使わない。
 
>>>
 
 普遍的に偏屈者や頑固者というのは、この「こだわり」を強く他者に発露する者という意味が多いように思う。
 自分自身の中であれこれとこだわるのは自由である(それでもこだわりなど持たない方がいいと思うが)。
 しかしそれを他者にまで発露すれば「余計なお世話」となる。
 
 これは支配傾向の強い性格の人にも強く現れる。
 他者の考えや行いについて一事が万事、微に入り細に入り「すべからくかくあるべし」と強要するような姿勢のことだ。
(ちなみに「すべからく」の誤用も面白いので調べてみては?)
 
 偏屈者のこだわりによって「余計なお世話」を押し付けられた人は、当然にその偏屈者を煙たがり、結果として偏屈者は狭いコミュニティで暮らす必然を迎える。
 お互いの摩擦を減らすためにはその方が良いのだ。
 いかに精巧な歯車も、その歯車同士に「遊び」が必要で、近すぎれば摩擦が強すぎて動かなくなってしまう。
 
 しかし齢を重ねる中でこだわりを手放すこともまた容易なことではない。
 
 生きる中で積み重ねる記憶は、己の哲学であり道具であり、宝でありそして枷である。
 枷なら手放したいと誰もが思うが、それが道具であるためになかなか手放せない。
 有用な道具だと感じていれば尚更だ。
 
>>>
 
 僕は子育てをしたことがないが、己のこだわりの発露をどれほど抑えようとしても、人を育てるのは(そもそも「育てる」という概念がまた高慢だと思うが)こだわりという性格の遺伝をもたらす。たとえば仕事で部下や後輩を教育するのも同様である(「教育」も傲慢な言葉だと感じる)。
 
 伝播であれ反発であれ、何らかの強いこだわりは、次のこだわりを生んでしまう。
 しかし大人と子供では体格が違う。男と女では身体が違う。
 太っている人と痩せている人/背の高い人と低い人は身体感覚が異なるし、ネコと人は異なる生き物である。
 
 同じようにあって欲しいと願い、あるいは同じようにありたいと望むのは結構なことだが、そもそも物理的に異なるものに同じ働きをさせるのは無理というものだ。
 私が自身を猫だと思っていても、その肉体が人間のそれである以上、猫ほど速く走ることもできないし、猫のように跳ぶことも叶わない。
 
 人類はその齢を重ねる中で「ジェンダーバイアス」というこだわりに気付いたが、その反発として過度の男女同化を計り、同じように大人と子供の同化も計ってきた。
(バブル期世代の大人たちは、第二次大戦で過酷な子供時代を強いられた親の反動により、甘やかされた子供時代を生きただろうと想像する)
 何が正しいかは僕の決めることではないが、そうやってこだわりは反発を生みながら続いてゆく。
 その振幅が強くなるか鎮静するかは、社会、つまり個々人の集積が決めることだ。
 
<クッションかな?>
 
>>>

 姉の場合、自身のこだわりによって他者を遠ざけて、しかし僕ほど孤独に適性がないらしく、結局誰かと適度に接する必要があると自覚するに至ったらしい。

 僕の場合、自分のこだわりそのものはよく分からないのだが「いらぬことにこだわっているのではないか」と心配するこだわりがある。
 自分の中でこだわりがある場合、それを他者に強要したくないのだが、もし生理的に他者のありようを受け付けなかったら、これはこれでお互いに困る。
 同様に他者のこだわりを押し付けられるなんてまっぴら御免なので、それらを予測してマージンを設定し、様々なありようを調整した結果、仕事も私生活も孤独になってしまった。
「しまった」などと言っているが、これがたいそう気に入っている。

 仕事らしい仕事もせずに一人で暮らし、他者との接触を(自発的にしないので)絶っている(ように観察される)状態が月に25日以上もあるとしかし「自分は現在正気なのだろうか」と不安になる。
 他者が存在しないことで、自分の輪郭が曖昧になるのだ。
(今日も突然「日本語が使えなくなっていたらどうしよう」と心配になり、慌てて日記を書き始めた)
 おそらく多くの人が孤独の中で抱える不安の正体はこの「己の輪郭の曖昧さ」だろう。

 だからといって自分の輪郭を撫でてもらうためだけに他人を使うこともよいことと思えない(僕は恋人に限らず、友人であろうと姉妹であろうと、そういう「使い方」をしない)。

>>>

 件の老婦人について言えば、こだわりが強いために孤独を誘発し、にもかかわらず孤独がゆえに発生する己の輪郭の不確定さに不安を覚えるのだろう。
 支配的な人間というのはこういう気質を繰り返す。
 こだわって、周囲にそれを強いて、孤立して、不安になって誰かを使いたがるのだ。

 しかし残念ながらそのループを断ち切るのは自分自身によってしかできない。
 そして大抵の場合、そうした支配的な人間は、そのまま死ぬ。
 支配的な人間の抱えるこだわりもまた「正しさ」という病気だからだ。

 自分は間違っているのではないか、自分は傲慢になっていないかという疑念を、その不確定さを抱え続ける強さを、彼ら彼女たちは持たない。
 自分が正しいと思えるエサを骸に求める哀れなハイエナのようだ。

 おそらく齢を重ねるほど「自分は間違っているのではないか」ということを疑問に持たなくなる。
 あるいは僕などは子供の頃の方が「自分は正しい」と思っていたし、ために非常に支配的な性格だったと思う。

 そこから考えればずいぶんとこだわりを捨てられたと思う。
 精神的潔癖症や支配的な性格は、なにより自分の首を絞める。

 己の輪郭の不確定なさまを自覚することは、つまりようやく客観的な自己評価ができるようになっている可能性もある。
 異常ともいえる孤独の中にあってようやく客観性が際立つというのもまた不思議なことだと、今は感じる。
 
 
 
 
 
 
 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Cross Link ]
 こだわりと向き合い。 - 青猫工場 〜 Bluecat Engineering :Bonus Track 〜
 
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[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
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[Cat-Ego-Lies]
  :君は首輪で繋がれて:
:夢見の猫の額の奥に:
 
 
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// TimeLine:250425
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
クラゲじゃなくてマンモスかな?
SUBTITLE:
〜 Glacial plan. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
250425
 
 昨日は姉上の通院介助。
 今日は久しぶりの献血。
 
 たびたび書いている(かもしれないしそうでないかもしれない)が、僕はときどき退屈で憂鬱になったついでに死にたくなる。
 百年のうち半分くらいは人間としての人生経験を積んだと思うが、そういう子供の頃からの特性はなくならないようだ。
 7歳の頃にはすでに人生(特に通学とか、学校生活)に飽き飽きしていたので、一世紀とまで言わないが、数十年は倦みつ弛みつしながら生きている。
 
 自殺したい気分になる人に言っておきたいのだが、こういうものはなくならない。
 何歳になってもなくならないし、今抱えている痛みや苦しみがなくなったところで、死に対する羨望は消えない。
 仕事をする必要がなくなっても、オカネモチーになっても、嫌な奴がひとりとしてこの世に居なくなっても、周囲の人に愛され尊重され大切にされていても、死にたい気持ちを持つ性質はなくならないし、生きていることに対する倦怠感や飽き飽きした気持ちや、それらをひっくるめた絶望もなくならない。
 
 それならどうするかといえば、そんな憂鬱は最初から存在しないかのように振る舞うか、毎回そんなものに振り回されてジタバタするか、というのが一般的なところか。
 あるいはこういう性質がまるっと自分自身なのだと思って、ぼうっと眺めておく手法もある。
 
 憂鬱になる。退屈になる。鬱屈する。
 それを眺めて「ああ、またわたくしは退屈しているのだなぁ」と思って、極力普段どおりの日常を送るのだ。
 憂鬱だろうと爽快だろうと、時間はきちんと過ぎる。
 
 仕事があれば出掛ける時間になり、仕事をしていれば帰宅する時間を迎える。
 今日が終われば明日が来て、去年が終わって今年になる。
 止まない雨がないように、去らない憂鬱もない。
 
 我々は傘も持たず土砂降りに打たれながら口を半開きにして空を眺め、途方に暮れる白痴のようなものだ。
 空は暗く、雨は冷たく、湿った空気は沈鬱だろうけれど、そんなものは誰もが見ている風景に対する勝手な意味づけに過ぎない。
 本物の闇はもっと暗いものだし、一層の冷たい風を知る者なら雨を温かく感じるし、乾いた空気に粘膜を痛めたことのある人にすれば湿った空気は恵みだろう。
 
 傘がないというが、傘などなくても生きていけるのだ。
 詰め込まれ、打ち捨てられた段ボール箱がひしゃげたとて死にはしない。
 もちろん、なぜ生きるのか、という疑問が我々を苦しめるのもまた事実だ。
 この性質もまたずっと失われることがない。
 
 我々はその疑問の答えを見つけることができない。
 そして同時に、その疑問を手放すことができない。
 生きることの意味や価値を見つけたつもりになることはあるだろうし、見つけたと思う人もいるだろう。
 
 それはその人の自由であり、その人なりの答えである。間違いではない。
 そして同時に、誰にでも当てはまる答えなどというものはない。
 意味も、価値も、共通のものなどではない。
 
 だからある者はもっともらしく語ることができるかもしれないが、届かない人には何も伝わらない。
 語られる答えは、それを語る人にとっての価値であって、見つかっていない人にとっての意味ではない。
 
 そういったどうしようもなさを、そのまま抱えて、自分の性質として生きるしかない。
 退屈や憂鬱や無意味さに絶望することを楽しめばいいのだ。
 楽しめもしないならやめればいい。
 
>>>
 
 Webニュースを眺めていたら「氷河期世代への支援」を標榜する政治家やら政党が現れているとか。
 正直我々は(あるいは少なくとも私という氷河期世代に属する者は)死に体である。
 語源のとおりバランスを崩しているし、何となれば転倒することによってすでに安定した可能性すらある。
 
 選挙に当選することが職務たる政治家の人々は手を替え品を替え、何とか自身の職位を保たなくてはならないのだろう。
 ただ、そもそも我々は社会によって口を塞がれたサイレントアナーキストである。
 今さら社会が手を差し伸べたからといって「そうですかありがとうございます」と言えるほど恵まれた環境で素直に優しく育った者ばかりではないだろう。
 
 社会や組織や情勢や時代に対する不信感は ── そんなもの持たない方が幸せなのだろうけれど ── それを持つべくして持った世代にとって、仮においそれとぶら下げられた肉塊に飛びつくほど飢えていたとして、そんなものに飛びついた者から酷い目に遭わされてきた事実を目の当たりにすることで醸成されたものだ。
 
 バブル期が終わって間もなく年功序列システムが批判され、実力/成果主義による人事考査を導入した/すると企業は次々公表したが、我々がそのシステムに載せられ突きつけられ痛感したのは「自分が思っているほど自分は有能ではない」というシンプルな事実だ。
 あるいは有能だった人も居るのかもしれないが、企業にとっては、経費は掛かるが生産性の低下した中堅以上のベテランを放逐することが優先であり、そのためにうってつけのお題目だったと後に知る。
 
 我々はその肉を信じたが、その肉は虚像だった。
 あるいは本物の肉に喰らい付いた者もいるだろうが、私の囓った肉は少なくとも幻影で、私はそのまま谷底に落ちた。
 同じ谷底への転落者に、これまた(いろいろな意味で)食えない古強者もいた、それだけである。
 
 社会は毎度のように綺麗な夢を見せてくれる。
 しかし誰かの与えてくれた幻影は、結局のところ幻影に過ぎない。
 もちろん恵まれた環境はそれでも存在し、皆に愛され、十分以上のリソースもあり、安全も確保され、将来を思うように描ける自由まで与えられている人間も存在した。身近にも居た。
 
>>>
 
 たまたま僕はそういう環境になかった。
 べつに恨みごとを言っているのではない。
 
 事実として僕の育った環境は、リソースが不足し、安全は確保されず、愛されていると実感できるほどの他者すら存在せず、自分が30歳まで生きているか危ぶんでいた。
 たまたま僕は(肉体的に)男だったので過度の危険に飲み込まれることがなかったし、愛されない状況に適応した。
 そのうえ運良くリソースを自律させることに成功したし、30歳もとうに過ぎた。
 
 ただ将来の夢などというものは10代の頃に捨てた。高校進学前に捨てたのだ。
 悲観しているわけではない。
 多段式ロケットが使い終えた推進器を投棄するように、前に進む最適解が軽量化だったのだ。
 将来への希望など、重くて邪魔だった。
 それでも周囲をざっと観察する限り、僕は幸運に過ぎると今も思う。
 
 にもかかわらず、だ。
 社会に自分のための希望はないし、世間に自分の居場所などないと思っている。そう感じるのだ。
 ちょうど今の時代は醜くてお金も地位もない中年男性に世間が厳しい。まるで砂漠みたいじゃないか。
 
 たまたま運良く家族を作ることができたり、あるいは恋人が27人もいたり、どういうわけだかオカネモチーになれたり、高等教育を受けて大企業に勤めたり、会社を経営したり独立して上手に切り盛りできている人はいい。
 そうでない人はどうなるのだ。
 お金も地位も家族もなく、ルックスにも恵まれず、ろくな学歴も職歴もなく中年になり、社会から「オッサン」「オバサン」と呼ばれる者たちはどうなる。
 
 社会の情勢や世間の風説や企業の思惑や政治家の作った仕組みに翻弄されて、どれだけの人間が溺れたのだ。窒息死したのだ。
 この上、いまさら社会を信じろと言われて「そうですかありがとうございます」と言えるほど、私は大人しい犬などではない。
 それに残念ながら、もはや人間に対してさえ、かつてのように無条件の信頼を寄せることができなくなっている。
 
 およそ10年ほど前までは、少なくとも目の前の人間くらいは、無条件に信じていた/信じようとしていたのにもかかわらず。
 
>>>
 
 これが大人になることなのだとすれば、さすがに大人になりたいなどと思った(今も思っている)自身の気持ちを自ら否定しなくてはならないだろう。
 僕にとって大人というのは、自由の象徴だ。
 
 難題に対する解決の切り札そのものであり、苦難の闇に対する希望の光そのものだ。
 寒い冬の毛布であり、乾いた砂漠のオアシスであり、雨上がりの虹であり、深夜の駅前のベンチであなたの脚に擦り寄ってスカートの中に入り込もうとするエロい猫である。
 
 ……。
 最後の不適切な喩えは忘れてもらうことにして、大人であるということはそういうことだ。
 
>>>
 
 世俗は我々を氷河期世代と呼ぶが、私は何が氷河期だったのかを知らない。
 寒かったかというならずっとそうだし、乾燥していたかと問われればずっとそうだ。
 もはや飢渇が何かさえ分からないほど、枯渇した極限環境で生きてきたのではないのか。
 
 今となってはあたたかいベッドより静かな棺桶を望むとして、何の不思議があるだろう。
 なのに政府は「まだ働ける。もっと働け」とでも言いたいのだろうか。まっぴらごめんのすけである。
 我々の多くは信じるものを持たない。
 あるいは少なくとも私は、信じるものを多く持たない。
 
 しかし冷静に考えよう。
 不貞腐れるのは簡単なことだ。
 特に持たざる者ならなおのこと。
 
 持てる者が不貞腐れるのは流石にみっともない。
 幸運なるわたくしは、ために自由の象徴である。
 望むと望まざるとにかかわらず、難題に対する解決の切り札としてささやかに、日常のきわめて狭い範囲で、身近な誰かのために、持てる力を使うしかない。
 それが責務と諦めるしかない。
 意味と価値を決めるのは誰かに委ねることにしよう。
 
 退屈だなぁ。
 飽きたなぁ。
 全部終わるといいのにな。
 と嘆きながら日々を過ごすのだ。
 
 13番目の恋人との逢瀬を夢見ながら ── 。
 
<思わず手が出ちゃう>
 
>>>
 
 ちなみに献血をしているのは、誠に勝手ながら僕が輸血のシステムに恩義を感じているからである。
 日本赤十字社や全国宝くじ協会に対して思うところ(会長になりたいとか)はあるが、それとこれとは別である。
 過去に僕の父上や一部の周囲の人たちが輸血で世話になった経緯がある。
 
 僕自身は幸か不幸か、そのような大手術を経験することなく今生を終えるだろうけれど。
 己が血で満たされた、あのぬるいパウチを撫でさせてもらうことがある。
 この身体は子供を産むことができないのだが、あれはなんというか、我が子のように愛らしいのだ。
 
 無論そんな感情を抱く方がどうかしていることは理解している。
 しかし私の家族は今後も減り続ける。それは私自身が望んだことでもある。
 自分の血で満たされたパウチくらい、愛らしく思っても良いではないか。
 
 
 
 
 
 
 

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[NEXUS]
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[ Traffics ]
 
 
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[Engineer]
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// TimeLine:250416
// NOTE:
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TITLE:
トイレとケダモノ。
SUBTITLE:
〜 restroom'n'beast. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
 春の強風が続いている。
 毎年変わらず季節が巡ると思っていた時代は遠い昔であるかのようだが、実のところ30年がせいぜいである。
 四半世紀前までは、春はお花見、夏は海水浴、秋は紅葉、冬はこたつで丸くなるというのが世俗の平和的レジャーであり、自然と触れ合うアプローチの手法だった。こたつが自然か人工かは判断の分かれるところだが。
 
 よって現在30歳前後より以上の人にとって、四季というのは、ある種の美化された存在だったろうと思う。
 じつに四季は素晴らしかったのだ。まるで遠い昔のように語っているが、二度と戻らないと考えればそのノスタルジィもひとしおだろう。
 その頃は花粉症という慢性過敏症に悩む人も今ほど多くはなく、当時の私も花粉症ではなかったと回想できるほどである。
 
 ひるがえって昨今は花粉と乾燥と急な雷雨が、めまぐるしく訪れる。
 気密の悪い環境に棲んでいるので、私の皮膚粘膜は終始具合が悪い。
 数年内には引っ越しを考えている。本気である。
 
 焼け石に水を掛けるほどの効果しかないリフォームを続けていても、短期的な満足こそあれど、長期的な体調不良は改善されない。
(介助対象の)姉が死んだら、なんて悠長に考えていたが、もっと早くていいだろう、と猫会議で結論するに至った。
 つまり僕が寝ている間に決まった。
 
>>>
 
 コンビニでトイレを借りて用を足す前に、掃除をする(ことが多い)とは以前に書いたことがある。
 コンビニに限らずすべてのトイレについて、使う前にそれが汚れている場合、可能であればそれを掃除する習性が僕にはある。
 その可能性というのはまず「掃除用具があること」。ついで「時間的余裕があること」である。
 公衆トイレの場合、待っている人がいるのに掃除に過剰な時間を掛けるわけにはいかないからだ。
 
 確率分布的に、それらの僕の行動は「猫っぽいな」と昔から(僕自身に)認識されている。
 もちろん他者は僕がトイレ掃除にいそしむ姿を見ることがないので自認に過ぎないが。
 一般に言われるように猫というのは綺麗なトイレを好むのだ。
 
 先日、遊びに来たBPが「青猫の家のトイレは綺麗だから立って用を足すのがはばかられる」と言っていた。
 先だって彼の息子の恋人が遊びに来るというので、彼は自宅の掃除をしたらしいのだが、存外トイレ掃除に手こずった、という経験かららしい。
 よくよく考えると、長い一人暮らしのうち「お前の家はトイレが綺麗だ」と言われることが多かった。
 
 そのように評するのは男友達だけだったので、もしかしたら恋人たち(すべて女性)は「こやつは部屋も散らかっているがトイレも大概ですね」と思っていた可能性は否定できない。
 トイレ以外の箇所については基本的にさほど綺麗にしない。少なくとも整理整頓は僕が苦手とすることのひとつである。
 明日も散らかす場所を今日整頓するなんて狂気の沙汰だと思っているフシもある。
 
 それでも水回りが汚れていると、どうも嫌な気分になる。
 水というのは循環するものの象徴にも感じているし、何より水回りが汚れにくすんでいるのは不衛生である。
 精神衛生上も物理衛生上も良くないとなれば、良くなるようにするしかない。
 
 一人暮らしを始めた当初はそれでもやはり面倒くささが支配的で、トイレ掃除を半年ほどもしないことがあったのだが、飲食店で勤務したり本を読むうちに変わった。
 トイレというのは、汚れに気付いたらすぐに掃除をするのが楽なのだ。
 汚した直後は5秒で掃除の終わる汚れも、半年経つと数分掛かるようになる。
 
 汚れ自体は変わらないのだが、物性が変わって落ちにくくなる。
 汚れが強いというのは気分的にもよろしくないのだが、大きな時間的ロスに繋がる。5秒で済むならその方が楽だし、清掃用具も少なくて済む。
 当時から時間ケチの素養はあったので、やがて汚れたらこまめに掃除をするようになった。
 
 一人暮らしをしてもっとも変わったのは、そういった「水回りに対する意識」かもしれない。
 家族が居ると、ついぞ誰かが掃除をするという環境に甘んじてしまう。
 自分以外の誰かが汚した場所を掃除することができる人を、ために僕は本当にすごいと尊敬している。
 
>>>
 
 私の家は長く父子家庭だったが、それでも女性である妹がとくに綺麗に使っていたように思う。
 綺麗にといってもたかが知れているが、それでもある日、ふと気付いて衝撃を受けたことがある。
 当時は父と私と妹の三人暮らしだったのだが、洋式トイレの便座が一度だけ「降りていた」ことがあったのだ。
 
 それまで当たり前のように便座が上がっている状態で使っていたのだが、妹がトイレを使わないわけではない。
 しかしその単純な事実を、便座が降りている状態を目の当たりにするまで意識したことがなかった。
(もちろん毎回トイレのフタを降ろすような家庭だったら良かったのだが、あいにくそんな上品な家庭ではなかった)
 
 使用前に便座が降りているということに驚いて、それを意識したことのなかった自分にも驚いた。
 それでは妹は使用する都度便座を下ろし、使用後に都度便座を上げているのかと疑問に思い、本人に確認したのである。
 妹はこともなげに「そうだよ」と答えた、それが衝撃的だった。
 
 なるほど我々は男なので、基本的に便座が上がっていた方が楽なのである。
(少なくとも一人暮らしを初めて数年、僕は座って小用を足すことをしなかったので)
 妹によると、父親に一度小言を言われたことがあり、ムキになって徹底しているうち習慣化したという。
 それでも(ムキになったら反発するであろうはずの)妹が、素直にそれを習慣化することができたという事実にも驚いた。
 
 それから以降は、僕も比較的掃除をするようになっただろうか、さほどでもないかもしれない。
 やはり家族が居ると気が緩む、そんな気がする。
 一人の場合、汚すのは自分しか居ないのだから、言い訳もできない。
 
 誰かに掃除をさせるものでもないし、そうなるとすぐに掃除をした方が楽である。
 便座というのは降ろしっぱなしでも使っていれば相応に汚れるものなので、時折立って(便座を上げて)使うようにもしている。
 汚すことで初めて気付く汚れもあるからだ。
 
>>>
 
 こういう傾向が行動を生み、その行動がもたらした結果はいささか神経質に映るかもしれない。
 BPは僕をして「トイレの神様とかを信じているタイプなのかと思った」と言ったほどである。
 もちろんそんなものは信じていない。僕が信じているのはネコノカミサマだけである。
 
 ただ(これは僕が気取っていることのある種の証左になるから、あまり書きたくないのだが)汚れたトイレを使いたくない、汚れたトイレを使うのに自分は相応しくないと思っている部分があると自覚するに至った。
 朕は気高く高貴であるから汚れた雪隠など使いとうない、といったところか。
 
 些細なことと言えばそのとおり、排泄など、用を足せればどうでもいい。というのは禽獣のいかにも一般的なありようだろう。
 猫とて禽獣には違いないが、優れた肉食獣は己の痕跡を消す。
 
>>>
 
 この行動様式は抽象され、普遍化された概念として僕の他の行動にも影響を与えるようになったと今は認識している。
 
 たとえば僕は、寂しいからといって、手近な誰かと連むことがない。
 間に合わせの他人で寂しさを埋めるくらいなら、孤独の中で寂しさをとくと味わうのだ。
 食事も同様、漫然と(かつどうでもいい内容で)三度の食事をするくらいなら、空腹を存分に味わったのち、我を忘れるように貪りたい。できればよりよい内容で。
 
 量より質を求め、漫然と欲を満たすのではなく、その飢渇から充足までを存分に味わいたいのだ。
 これを僕は、自身がとても欲深いからだと思っている。
 食事などは好例で、人より多く時間を掛け、じっくり味わうときに感じる愉悦は非常に官能的であり、それを公衆の面前でしているときなど、ちょっとした変態プレイでもしているかのような背徳感さえ覚える。じつに食事というのは動物的なありようだからだ。
 
 日本の文化レベルがもう少し高かった頃は、テーブルマナーであるとかドレスコードであるとかがメディアでも話題になることがあった。
 あれらはつまるところ、禽獣の域を出ない人間達がいかにして禽獣ではないかを立証しようとした、その様式であり歴史だろう。
 人間は、人間であり続けようとしなければ、ただ知性を持ったケダモノに過ぎない。
 
 無論、ケモノが悪いというわけではない。
 ただどのレベルに「人間」を置き、その「人間」を目指すか、ということではないだろうか。
 
>>>
 
 私は確率的には人間より猫に近く、神より人より禽獣に近い。
 これは観察の結果、つまり自覚や自認と呼ばれるものである。
 外観のみ観察するならば、まぁ人間に見えるだろう。これは観察者の観察形態や分析手法によるものだから否定すべくもない。
 
 人がましい顔をするイキモノはこれまでもたくさん見てきたし、今後も嫌というほど見るかもしれない。
 皆、自分を人間だと信じて疑わない。
 人間を素晴らしいものだと信じたがるのも、人間に特有の現象に思える。
 人間以外の種族は、自らやその種族に対してそういった信仰を持たない。そんな感慨など持たないものだ。
 
 もちろん信仰が悪いとは思っていない。
 ことさら日本人は信仰嫌いという信仰に染まっているので滑稽に思えるほどである。
 それだけ不純な信仰が多く、人々は何を基準に物事を信じるべきか、決められないものなのだろう。
 
 決められない人間が集まって何かを決めようとして、無理に決めるから、結局信念のない決定が権力だけを抱えて迷走するようにも分析できる。
 何を信じるかということくらい自分で決めればいいのだろうに、と常々思っているが、それを簡単に決められないのが、弱さであったり優しさであったりするのだろう。
 
 
>>>
 
 春の嵐で体調が悪い。
 睡眠時間は3時間程度でぶつ切りになるし、ふとした拍子に強い睡魔に襲われるのでうかうか外出もできない。
 まぁ、したいわけでもないが。
 
 
 
 
 
 
 

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[NEXUS]
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[ Traffics ]
 
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[Engineer]
  :黒猫:
 
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 ひとになったゆめをみる:
 
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// TimeLine:250412
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
設計図を、いつかの私に。
SUBTITLE:
〜 the Bottled Blueprints. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
 この世界のすべてが体系的な存在であると肌で感じたのは17歳の頃だったか。
 体系的というのはすなわちシステマティックな、ということであり、存在という存在のすべては細分化が可能で、上位的存在の要素(パーツ)としての側面も持つ。
 もちろんアタマでは知っていた。しかし肌で感じることはなかった。
 
 その細分化の下限(最小単位)が、たとえば物質なら分子や原子であり、陽子やら中性子やらクウォークやらといったものであることを(学校の授業では習わなかったが、科学誌を7歳から読んでいたので)知ってはいた。
 しかし我々は、単一の分子や原子を肌に感じることはない。いや少なくとも僕には分からない。
 光や熱なら皮膚粘膜を通して感覚できるが、肌で存在という存在のすべての最小単位を感覚することは不可能だ。
 
 自然現象を含め、すべてのものが循環しているというのも然り。アタマでは分かっているのだが、肌で実感することは困難だ。
 地表海上の水分が蒸発し、降雨するという循環をアタマで理解していても、目の前のことに囚われてしまう我々にとって、数秒から数時間という(人間の主観的において)理解しやすい時間単位(スパン)の外を知覚し認識することは困難だ。
 たとえばマイクロ秒単位もそうだし、数万年、数億年単位もそうだ。
 
 僕らの身体は結局のところどこまで行っても人間のそれでしかなく、肉体によって知覚と認識は限定される。
 だから宇宙の歴史を知ることはできても体感できず、つまり体験することもできない。
 またより短い時間単位で寿命が終わるミクロ物理の存在についても同様、知ることはできても体感などしようがない。
 
 それがあるとき、ふっと降ってきて、宿ってしまった。
 ずいぶんと(いわゆる)スピリチュアルな物言いだとは思うが、すべての概念が知覚や認識といった「物理的には存在しない空間」にのみ発生し存在するように、その概念は物理存在とは別のものとして僕の価値観内部に唐突に形成され、僕の知覚に居座ってしまった。
 
>>>
 
 それから2年ほどは、その概念にずいぶんと支配された。
 支配といっても指図されるわけではない。それは概念であって思考ではないからだ。
 思考が価値観によって編まれる布であり、価値観が記憶によって縒り出される糸であるなら、記憶の源泉である経験はそれを織りなす単繊維だ。
 ところが降って湧いた概念には、経験がないし記憶もない。価値観がないから思考もない。人格だってない。
 TVもないしラジオもないしクルマもそれほど走ってない。
 
 にもかかわらず、その概念が僕のあらゆる知覚と認識に居座った。
 たとえば前述の「記憶の源泉である経験」は、思考によってそのありようが左右される。そうやって物事のすべてが循環していると、感覚してしまった。
 =A=B=C=……といった具合に、物事のすべてが繋がっているように思えて、しかしある程度の範囲から外は、霧が降ったように、やがておぼろになってゆく。
 
 曰く言いがたい感覚で、言語化もうまくできなかったから、誰にも説明できなかった。
 もちろん、この程度の言語化で誰に伝わるとも思っていない。
 結局のところ言葉というのはどこまで行っても言葉に過ぎず、デジタルな情報である以上、知ることはできても肌で感覚することは不可能だ。
 
 感覚した情報の多くを我々は言語化してやり取りしているが、それではその言葉(言語化された情報)から、感覚を還元することが可能かといえば端的には不可能だ。
「楽しい」「悲しい」「嬉しい」と言葉を通じたところで、そこには百の楽しさがあり、千の悲しみがあり、万の嬉しさがある。
 そのごくごく当たり前の事実が、決して誰とも通じ合うことがないという悲しみや、自分の中で自身が手にしたという喜びや、言語化したところで誰にも伝えることができないという空しさとともに肌に密着してしまい、その先すべての情報が、その肌にまとった非言語的な実感によってフィルタされてしまった。
 
 しかもそれは雨合羽を羽織ったときのように外界の情報をごわごわと曇らせるのではなく、より鮮烈に、ときに突き刺すような痛ましさで、しかし刹那のうちに揮発してしまうような儚さで五感のすべてを覆った。
 そこには思った以上の情感があって、思った以上に矛盾したありようが含まれていた。
 
 だからたとえば僕は、生と死をあまり対極の存在とは思っていないし、世俗に言われるほど善と悪とか、倫理と不義に差を感じない。
 それらは結局、どこかものすごく近いところで、皮一枚の隔たりによって繋がったものなのだ。
 悪を規定すれば善の立場に立てるかもしれないが、善が容易に悪でありうることを我々は知っている。たとえば十字軍は誰の、何を目的とした組織だったか。
 
>>>
 
 そのような感慨があって、それでも思うすべてを言葉に残したいと足掻いた時期もあったのだが、やがてとうとう諦めた。
 先に述べたとおり、どれだけ言語化して記録に残したところで、読む者が還元できなければその情報に意味はない。
 たとえばSF作品で、遠い未来や異星から革新的な技術を搭載したメカニズム(たとえばタイムマシンやテレポータなど)の設計が送られて、それが現代世界で具現されるというテーマがあったりするが、現実問題として設計図だけですべての存在を具現することは不可能だ。
 そこにはおそらく未知のマテリアルが記述され、未知の技術が必要で、未知の論理に立脚し、未知の手順が要る。
 
 たとえば江戸時代に現代の電気自動車の設計図を送り込んだとして、果たしてその電気自動車が江戸の城下町を走ることはない。
 僕ら一人一人が、誰でもそうした設計図を抱えているのだと思った。
 
 どんな実感も、どんな経験も、どんな感慨も、痛みも悲しみも喜びも空しさも、言葉にしたら最後、それはおよそ間違いなく伝わらず、そして言葉にしない限り絶対に伝わらないという事実に、嗤うような、哭くような、えも言われぬ(エモいわれぬ、ではない)どうにもしようのない、言いようのない感情やら感覚に沈められ、溺れた。
 溺れるたびに死ぬ思いをした。
 現実問題、その度に抱えている価値観は無価値になり、すなわち死んだのだ。意味を与えれば、即その意味を奪われるのだから。
 
 それでは誰かが大切に抱えているその設計図を、それなら自分は解析し理解し共有し具現することができるのだろうかと考え、そしてその間に横たわる深淵とも呼べる闇とも隔たりともつかない断絶について考えて、どうしようもなくなった。
 目に見えて肌を重ねることのできる相手すらどうしようもなく手に届かない存在であり、同じ場所で同じ時間を過ごしていると感覚したとしても、それが果たして事実だと証明することは誰にも(少なくとも僕自身に対しては)不可能だったからだ。ならば世界のすべては錯覚か。
 
>>>
 
 今でも(あるいは今だからこそ)時々、その感覚をありありと思い浮かべることができる。
 漆黒に荒れ狂う大海原の、しかし無音の嵐のようで、その光景はあまりに非現実的で、どうしようもないくらい孤独かつ絶望的ではある。
 
 そして一方で、だからこそ人々は言葉にすがったり、あるいはあるかもしれないしないかもしれない望みを見出して、誰かと手を取り合うのだろうとも思った。
 それが有益か無益かを論じても仕方ない。それを信じた人に信じただけの有益と無益があるのだから。
 
 生きることは何なのかと問われたら、僕はそのように答えるだろう。
 つまり「夜の海原で無音の嵐に遭難するようなものだ」と。
 有益か無益かを論じても仕方ないのだ、そんなものは信じた分だけ百も千も万もの意味や価値を、つまり無意味も無価値をも持っている。
 
 論じて正解が出たところで、一体誰が満足するだろう。論じて現実を知ったところで、一体何を感じるだろう。
 対立した価値観を抱える相手を論破したところで、一体何の意味があるというのか。
 誰かに勝っても、何かを成しても、たいした意味はないのだ。その意味や価値を自分自身で決められない限りは。
 
 無人島に運良く漂着したとして、ボトルに設計図を詰めて海に放ったところで、その気休めに慰められるのは自分だけである。
 それでも慰めがないよりはよほどいい。今はそう思えるようになった。
 無人島で慰めもなく生きるのは、たぶん嵐に溺死した方がよほどもましだと思えるだろうからだ。

 慰めは、ないよりはあった方がいい。
 四捨五入で百年生きて得られた知見はそれだけだ。
 
>>>
 
 我々の設計図は、我々と同じ技術レベルの者にしか理解できない。再現できない。具現できない。
 
 皆が己の正義と理想と共感を語る。
 テレビもねぇ、ラジオもねぇ、クルマもそれほど走ってねぇ、という環境に忘れられたハイブリッド車のように。
 孤独の過去に取り残された、未来からの望みのように。
 
 まるでそれだけが孤独と絶望の無人島に閉じ込められた己の、唯一の慰みであるかのように。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫β:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Chaos-Eternal-Memory-Moon-Stand_Alone-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Generator-
 
[Object]
 -Night-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :青猫のひとりごと:
:記憶の切片:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:250405
// NOTE:半年以上、書き直しては放置している話題。
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
自殺を考えることについて考えることについて。
SUBTITLE:
Think around self death.
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
 ここ数ヶ月、自殺について考えている。
 心配する人もいるので先に断っておくが、喫緊に僕が自殺する必要があるとか、自殺する意志があるとか、そういうことではない。ただ単に、自殺について考えているのだ。
「Think around self death.」であって「Think I'll self death.」ではない。
 もちろん「around」の内には自分自身も含まれているし、自分自身がそういう意志を持つこと、行動することも含まれているのだが、それがすべてではない。
 
 不謹慎だろうか。
 そうかもしれないが、僕はそうは思わない。
 自殺は真面目な行為だと思うし、不真面目に自殺をしたり、自殺について考えることはないだろうと思う。
 不真面目に生きることは比較的容易だが、不真面目に自殺することはむつかしい。
 
>>>
 
 もとより僕は、幼児期からずっと死について考えている。
 それを分析しようとか、理解しようとか、そういうことではない。
 強いて言うなら、自分が自身の死について、あるいはあらゆる人間が、自身や他の人間や人間以外の死についてどのように受け止め、意識上の処理をどのようにするとどのような影響があるか、について考えている。「around death」というのはそういうことである。
 
 しかし死について考え慣れていない人は存外多く、あるいは(負荷を軽減するためか)短絡に処理してしまう人も多い。
 それが悪いとは思わないのだが、そういう人たちからすると僕が死について真剣に考えることは「不謹慎」であったり「不道徳」であったりするようだ。
 僕にとって死について考えることは、取りも直さず生きることそのものである。
 
 たとえば幼児期に、何度も「父親が死ぬ」と聞かされた。
「医師から余命半年と言われた」と家族が話しているのを初めて耳にしたのが3歳である。
 実際のところ父はそのあと24年も生きた。
 
 医療の進歩に歩調を合わせて実験的な医療も受けた。
 古めかしいが、たとえば開胸して心臓を停止し、大腿部からの血管を大動脈にバイパス移植するような手術も受けた。
 多分、今はこんな手術はしないだろうが、当時はそれでも最先端の医療だった。
 抜本的な治療にはならないが、延命は可能かもしれない。しかし受けることで術死することもあり得た。
 
 死と生を秤にかけて、より生きるための選択を父はしていたのだと思う。
 理由は分からないが、当時の僕と妹はまだ未成年だった。
 美化するつもりはないが、それについて考えなかったわけではないだろう。
 
>>>
 
 そのようなわけで、誰かの死によって自身が受ける影響を、未就学児の頃からよく考えていた。
 心理的、精神的影響ではない。
 誰かが死んで悲しいとか、そういうことではなく、自分はどのように生活すればいいのか、どのような人生を送ることになるのか、それを考える必要があった。
 
 よって僕にとっての死は、美化するものでもなければ心理的に感情を揺さぶるものでもなく、日常生活と共にあり、日常生活を大きく左右する現象だった。
 それについてとくと考えない訳にはいかなかった。
 
 死ななければ昨日と同じ日々が続くのだが、それを信じ、それを祈り、願ったとしても、死ぬときはあっさりと人は死ぬからだ。
 だから目の前の誰かが死んだときのことを考えることは僕には至極自然なことで、たとえそれが誰であろうと、その人の不在によって、その後の自分の生活や人生が大きく変動しないような価値観を持つに至った。
 
 ために僕は自身を含めた存在の死について、あまり感傷的にならないし、感情的にもならない。
 周囲に人をあまり寄せ付けない点について少々行き過ぎている部分もあると自覚しているが、それでも寄り付く人はいるのだから放っておくしかない。
 ただ自分からは、あまり関わりを持たないように心掛けるようになって久しい。
 
 残念ながら、僕の死後に僕の不在によって発生する心理的/物質的負担の責任を(仮に負いたくても)僕は負うことができない。
 死というのは案外無責任に「担当者不在」という状況を作るので、人間社会のような個々人の権利や責任が絡み付いている環境下では、少々厄介である。
 しかし死は自然なことだから、個々人の権利や責任や感情を過剰に意識しすぎる社会の方が、少し狂っているのだろうと僕などは考えている。
 つまり不自然なのは人間社会(に属する者の意識)の方であって、それらが自然を逸脱しているのだろうと思うのだ。
 
>>>
 
 それでも人間社会は、死者やそれにまつわる人の権利や責任(義務)を規定する。
 社会だから仕方ないのだが、結果として感情だけでなく、財産や事後処理といった面倒ごとが発生する。
 死んだ当人にでないことは先に書いたし、きっと誰でも分かるだろう。
 
 その意味で言えば滑稽であったり、不謹慎に思えるのは社会の方である、ということ。
 だからといって「そういうのは改めなさい」と言う気もない。滑稽だったり不謹慎になる(なっている)のは、真面目すぎるからである。
 では不真面目に、テキトーでいいかげんにしてしまえばいいかといえばそんなことはない。
 
 権利や義務や責任が社会で発生する(望んでいなくても押し付けられるものが多い)以上、いいかげんにしてしまえばそれこそ公序良俗に反する現象も発生する。
 それを避けようと真面目に作った結果、滑稽で不謹慎になっているのだ。
 人々は私と違って禽獣ではない。ルールが必要で、それに従うのが社会に属する者の必定だろう。
 
 ただ、死はそのルールに従わないし、演繹すると生もまたルールで縛ることができない。
 ルールが縛るのは、権利と責任と義務についてである。
 たとえば納税放棄したり脱税する権利は皆あるのだが、それをすると別のルールによって処罰が課せられる。
 
 そういえば日本では、ルールを作る人たちがずいぶん手前勝手にルールを作り、運用していると漏れ聞くが、果たして本当なのだろうか。
 
>>>
 
 とにかくそのようなわけで数ヶ月、何となれば数十年、死について、あるいは自殺について考えている。
 そして同時に、死についてきちんと考えない人が多いことについても考えている。
 皆、(自他問わず)死について口にしないばかりか、考えてさえいない事が多いように観察される。
 
 おそらく多くの人々は、死について考えることを禁止されているのだろうと想像する。
 自分によってか、他の誰かに強制されているかは知らない。僕の場合は、誰にも禁止されなかった。
 あるいは自身が勝手に遠慮していた時期はあるからそういう意味なら分かる。
 しかし13歳から、そういった忖度や気遣いもやめた。
 
「いい人ぶる」ことが悪いとは思わない。しかしステレオタイプな「いい人」というのは往々にして退屈なものである。
 人の死について、目の前の人の死についてなんて考えません、なんて言う人を僕なら信用しない。
 それは偽善者か、ただのバカのいずれかである。
 
 もちろん前述のとおり僕にも偽善者であった時期はあり、死や自殺については考えることさえ「良くない」と思っていた。
 しかし何が「良くない」のだろう。
 べつに(自身を含む)誰かの死を願ったり、あるいは仮に願ったとしても、その誰かを殺めるための行動をするわけではないのだ。
 
 行動しない限り、考えたり、願ったり、呪ったりするくらいでは、誰も死なない。自分自身でさえ死なない。
 殺人に限らず、あらゆる公序良俗に反する犯罪行為は、考えたり、願ったりするだけでは実現しない。計画し、判断し、実行する必要がある。
 ためにアタマの中で考えているだけであれば、現実は何も変わらないし、考える分には良いも悪いもないのである。
 むしろ考えが足りず至らなかったために、自分や周囲の人間が不利益を被ったり、生活やその後の人生が(悪い方向に)大きく変わってしまう方が問題だろう。
 
>>>
 
 これは死に限らず、すべての危機管理の上で必要なフレームワークである。
 たとえば原子力発電所を新設し、稼働させる場合、どこに建て、どのように運用すると、災害時にもっとも損害が少ないか、ということを考えることが必要になる。
 つまりどうすれば損害(死者や汚染や物損)が最小限になるか、ということを考えることになるのだが、これをいちいち「不謹慎」などと茶々を言われていたら進む事業も停滞する。
 
 想定以上の事象を考える必要があるのだが、だからといって過剰に堅牢なものを作るにはかなりの予算が必要になる。
 
 地震によって原子力発電所の損害を目にした我々だから、現状知りうる限りの災害やテロを見積もって安全率を掛けて欲しい、と願うだろうが、それでも想定以上という事態は発生しうる。
 堅牢にすればするほど、想定以上の事態が発生する確率は減ることになるが、結局は予算を含めた状況との兼ね合いで決まるだろう。
 
 原子力発電所の建設当初(つまり地震による損害が発生するより以前)そんな大掛かりな予算編成がされた場合、多くの人は「そんな過剰な予算は無駄だ」と騒いだのではないだろうか。
 考えない人には分からないし、考えた人は考えない人に説明がむつかしいこともある。
 なぜそれを考えるか、その理由の分からない人には、どのようにそれを考えるかはもちろん、その処理の良否の判断はつかない。
 
 人間は手近で掴みやすい材料から勝手に判断するようにできており、感情的に物事を断ずる傾向が強いから、予算が多ければ文句を言い、安全性が低ければ文句を言う。
 根拠はデータで示されているのに、数字や統計を見ることを面倒くさがって「具体的に、つまり結論は何なの?」と問い詰め、にもかかわらず結論が理解できずに不機嫌になる人も少なからず居る。
 機嫌の問題ではない(危機管理の問題な)のだが、そういう人は自身の機嫌を伺うことが何より大事だと思っているフシがあるから話にならない。
 
 あるいは自身の機嫌こそが危険の元凶だと理解しているのかもしれない。
 それはそれでひとつの真理だろうけれど、できれば自身のアタマの中で事前に予備演算しておいてほしい問題である。
 
<ホカロン靴下はあたたかいらしい>
 
>>>
 
 死も同様の問題である。
 しかも避けられない危機であり、それを管理するのは生きる上で必要なことだ。
 皆、生を語るが死を語らない。それは同じものではないのか。
 
 美しい生を語り、楽しく情熱的で素晴らしい生を語るが、美しい死を、冷静で安寧で充実した死を語る人は少ない。
 それらは同じものではないのか。
 死をコントロール(制御)することは、つまり生をより安定したものに近づける。
 
 自身の生についてももちろんだが、自身の死によって発生しうる他者の生への悪影響を制御することこそ、生きているうちにしなければならないことではないだろうか。
 感傷を含めた感情によるものではなく、人間社会に特有のルールやメカニズムから演繹して、リスクを最小限に収める演算が生きる上での危機管理ではないのだろうか。
 つい最近「自殺も生きる手段として考えている」と書いたような気がする(気のせいかもしれない)が、それはそういう意味である。
 
 そのように理性的に考える部分もあるし、僕はもともと自身を殺したいという価値観を持ってもいる。
 少々公序良俗に反するかもしれないが、それは子供の頃に思い描いた「将来の夢」のようなものだ。
 他人に説明できるような明確な(明文化された)理由はないから説明しないのだが、それでも大切にしている。
 たまたま「今はまだ早いかな」という状態が継続しているに過ぎないのだが、そういうことを言うと過剰に心配したり、不謹慎だと怒る人がいるのだ。
 
 とはいえオンライン上に残す文書であるため、いきなり自殺について考えていることを書くこともよろしくないかな、と思ったので、自殺について考えることについて考えることについて、今回は書くことにした。
 要は、自殺について考えることについて考えることについて考えているわけで、自殺について(に限らず)考えることについて考えることについて考えることについて考えるくらい客観的な視点を失わずにいたいと常々思っているのだけれど、どうもそのくらい客観的になると、話が理解できないとか、抽象的すぎて意味が分からない、なんて言われることになる。
 
 いったい人々は何を考えているのだろう、と昔から不思議に思う。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫α:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Convergence-Darkness-Ecology-Engineering-Interface-Life-Link-Recollect-Stand_Alone-Style-
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Resistor-
 
[Object]
  -Human-Memory-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :いのちあるものたち:
:ひとになったゆめをみる:
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:250325
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
無能なカラダ。
SUBTITLE:
〜 Define incompetence. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
【カラダのこと】
 
 このところ、あまりカラダのことを書いていなかった。
 絶好調かといえばそんなことはない。むしろ不調が続いている。
 
 しかし不調も長く続くと、むしろそれが普通なのではないかと思えてくる。
 あるいは複数の不調が重なると、それぞれがどのような不具合を発生し、どのような原因なのか、分割して判断することがむつかしくなる。
 なぜといって僕の使っている身体はこれひとつしかないし、単一の器官が複数の原因で発症することもあるからだ。
 
 たとえば昨年末、不意に風邪のような症状に見舞われた。
「風邪のような」と書いているのは、咳もくしゃみも出ないのに、喉や鼻の粘膜が腫れて発熱し、数日寝込んだからだ。
 前日にパイプ煙草を喫んだのが影響したのかとも思うが、そんなことでそこまで調子が悪くなることもない。
 他者(自分以外のほぼすべての人)とはなるべく接触しない生活なので、誰かからウイルスをもらった可能性もさほど高くはない。
 
 正月が明けて1月の上旬に症状は落ち着いたが、今度は副鼻腔から膿が出るようになった。
 いわゆる副鼻腔炎だが、風邪からそうなった経験があるものの、今回はこまめに水で洗う(鼻うがいをする)ことで症状は緩和されるので、自然治癒(あるいは寛解)を待っている。
 そう、じつはまだ完治していない。
 
 これは風邪のようなウイルス性のものだろうか、それとも複合的な要因(埃や寒さや乾燥)によって起こった粘膜の機能不全だろうか。
 原因が異なっても同じ対処で緩和/治癒することはあるが、異なるアプローチをしないと悪化することもある。
 それはすべての病気や怪我にも当てはまる。
 
 切り傷に包帯を巻かない方がいいし、骨折に絆創膏は効かない。下痢で腹痛があるからと痛み止めを飲む人はいないだろう。
 それでも同じ部位に複数の症状が発生したり、同じ症状が複数の部位に見られたりする。
 鼻と喉だって繋がっている(さらに目と口と胃と腸も同じ穴で繋がっている)がひとつの器官としては扱われない。
 どこからどこまでが私のカラダなのか。私の不調はどこか。
 
>>>
【皮膚粘膜が本体なのか】
 
 僕の不調のほとんどは、僕のカラダの粘膜の弱さに起因している。
 このカラダのそれらを他者の身体の機能と比較すると、やはり非常に弱いし、そのぶん過敏にできている。
 たとえば僕は市販の食器洗い洗剤をほとんど使わない(5年経っても1Lのボトルが終わらない)し、シャンプーやリンス、コンディショナーを使わない。
 
 それらの用途はすべて純石鹸を使っていて、身体を洗うのだけは一時期ボディソープに切り替えたこともある(今もたまに使う)のだが、それでも体調が悪いとき(熱中症や風邪、花粉症が重いとき)は、ボディソープによって皮膚粘膜が荒れたり、かぶれたりする。市販品のほとんどのボディソープは洗っている最中に刺激を感じるほど肌に合わない。
 
 添加物云々というのはあるが、何より保湿成分が合わない。
 保湿成分が作用するために、過剰に皮膚に残留するように作られていると感じる。
 ベタつく、というとまた表現が違うのだが、その成分(乳化系か保存系か保湿系かは分からない)が皮膚を覆っていて、それが結局不調を起こす。
 
 食器洗いなら手袋を使うといい、という人もいるとは思うが、あれをいちいち付けたり外したりするような丁寧な性格をしていない。
 調理前にちょっと皿を洗い、調理中に使った器具を洗い、というような感じになるので、洗ったり調理したりの作業がまとまっていない。
 手際や段取りが悪いのだとは思うが、じっとしているのが苦手である。それは多分に、この家の台所が僕に合わない、という理由もあるのだと気付いた。
 
 いずれにしてもこのカラダは、普通の人が普通にしている「シャンプーやボディソープで洗う」ことでさえ不調になる。
 別に添加物や保存料を悪く言うつもりはない。ただ僕のカラダに合わないというだけのことであり、少数派であることは自覚している。
 
 少数派だからこそ、自分の記録を(再発時に原因等を検証する意味でも)残すようにしていたが、残りの人生を多く見積もっていないこともあるし、抑鬱的な状態にもなりがちだったので、差し控えていた。
 カラダのことを書くということは、少なくとも僕にとって、僕の死について書くことになるからだ。
 
>>>
【何でも歳のせいにするオトナになりたくない】
 
 加齢という問題もある。
 僕の身体能力のピークは20代中盤の数年で終わった。
 30代からは徹夜をしないようになったし、40代からはすべての代謝機能が低下していると如実に感じている。
 
 たとえばアルコール代謝機能が高かったのでお酒がとても好きだったのだが、最近ではひと月に一度くらいしか飲酒しなくなった。
 それもかつてのように「ああ〜〜ぁあ〜〜おいしぃいぃ。おいじぃいよぉおおぉ〜〜〜〜」という、少々異常者じみたヨロコビを感じることがなくなった。
 だから余計に飲まなくなったともいえる。
 
 これは食事も同じだ。
 僕のカラダが「おいじいぃよぉおぉ〜〜〜」と思わないものを、僕はあまり求めない。
 人間はアルコールやニコチンと同様、食事依存になることはある。
 一日三食教(という宗派があってだな)の人たちからすると僕のように一日一度で済むイキモノは異常なのだろうが、僕はネコノカミサマ教を信奉しています。
 
 そうしたすべての快楽が、脳を基準に依存症を発症することが少ないのは僕の利点ではある。
 一方でカラダを基準に嗜好しておかないとすぐに不調になるとも言えるし、だからといってバランスが崩れないように観察/管理する必要があるのも事実だ。
 
 さて最初に書いた喉や鼻の粘膜の異常は、すると、ウイルス性/環境性/加齢性という可能性が考えられる。
 加齢性の場合、これはもう放っておくしかない。カラダが慣れるのを待つか、慣れずに死ぬかだ。
 大袈裟な話だと思うが、老年期に一度(60代だったか)、体調不良に見舞われることもあると聞く。
 それをやり過ごせれば、その人はもっと長生きするのだという。
 
 それでも死は訪れる。
 生きるというのは、その「いつかの死」までに何をするか、ということである。
 僕にとっては生きることではなく死ぬことが前提なのだ。
 
>>>
【僕というサービスの終了】
 
 たびたび書いているが、僕は子供の頃に自分の死ぬ年齢を決めてしまっている。
 これでも妥協に妥協を重ね、延ばしに延ばして現在に至るが、65歳までには「いつ死んでもいい状況」を作ることを目標にしている。
(延ばしに延ばして、という文言のとおり、僕は自殺することを生きる手段に含めている)
 
 具体的には僕の死によって発生する、属人性(僕でなくてはならないこと)の不具合を、所有物も他者の精神についても、可能な限り最小限に抑制することだ。
 それ以前に何らかの事故や病気で急死する可能性もあるが、孤独に生きて死ぬ以上、身綺麗に努めるに越したことはない。
 
 生きている間にしてみたいこと、しておきたいことのほとんどは終わった。
 工作に例えると、道具や材料を集め、手段について勉強したり、試行錯誤を繰り返し、何らかのカタチを作ろうとするには、場所が必要で、作業机の上は散らかることになる。
 しかし僕は職業として生産しているわけではない(そういうコントロールをした)ので、工場や工房のように、死んでも同じサービスやモノを提供する義務(必要とする他者)が非常に少ない。
 
 僕が死んだら、僕というサービスの提供は終了する。
 いやなにTVだって、国産品の需要がなくなれば道具も工員も不要になり、材料もゴミに変わり、倉庫は空になって工場は閉鎖される。
 僕が作りたかったもの(作る必要があると思ったカタチ)のほとんどは、作られたか、あるいは不出来のまま諦められて、もう片付けの準備をする段階なのだ。
 
 40代(ギリギリ、ね)でそれは早い、という向きもあるとは思うが、では何歳くらいなら適齢期なのだろう。
 いつまで経っても自分の思ったカタチひとつ作れない、というのは将来に夢があって、野心に満ちている、ように思えるかもしれない。
 しかし中年/壮年にもなってそれは、さすがに無能ではないだろうか。
 
>>>
【無能って悪いこと?】
 
 無能が悪い、という話ではなく(運も含めて)うまく能力を発揮できないという事実については否定できない。
 繰り返すが無能な人がいたとして、そういう人に生きる価値がないとか、幸せになることができないとか、そんなふうには思わない。
 ただ身の丈の問題もあるから、たとえば僕は陸上競技の選手にはなれない(なろうとも思わなかった)し、道具や乗り物を使わずに空を飛びたいと思ったこともない。その方面では、僕は無能なのだ。
 
 それぞれの人に生きる価値があり、幸せになることが可能だと僕は思っている。
 権利だとか義務だとかいう人間のアタマで考えた理屈ではなく、それ以前の道理として。
 ただそれでも、自分の思ったカタチを作れず終わる人もいる。
 
 それは設計が悪かったのか、道具や材料が悪かったのか、そもそも具体的なアイディアさえなく漠然と「こうなればいいのに」と願って終わりだったからなのか、ということなのだ。
 おそらく誰でも「こうなればいいな」という程度の願望くらいはあると思う。
 それに対してどれくらい具体的に着地点を想像し、そこまでのアプローチを計算し、必要な材料を見極めて集め、適切に道具を使用したか、そのための設計をどの程度の精度で行ったか、ということなのだ。
 
 願望で終わってしまうのは、残念ながらそれ以上の能力がなかった、ということになる。
 それを端的に「無能だ」と表現した。
 
 無能という存在が悪いという話ではなく、願望をカタチにすることが無能にはできない。その機能が無いのだ。
 ひるがえって、有能であるとは「できることしかしない」とも言える。
 
 たとえばうちの洗濯機は非常に有能(相思相愛の情を感じるレベル)だが、食器は洗えない。
 その方向については機能が無いので無能だ。
 できることしかしていないが、だからこそ洗濯をさせると実に有能である。
 
 何を当たり前のことを、と思う人もいるとは思う。
 では人間について、自分や自分の周りの人間に対して、どう思っているだろう。
 何でもできるとは思っていないだろうが、しかし、これなら絶対だ、というものも分からない人だっている(僕は自身をそう評価している)。
 
 たとえば自分の子供に対して、塾に行かせれば成績が良くなるとか、いい学校に行けば有利だという親がいるが、それはあくまで統計的な可能性の話である。
 なにより自身の能力はいかほどだろう。
 大卒のろくでなしも散々見たことがあるし、つい言ってしまうが「バカはどうやったってバカ」である。
 
 ただ高学歴の人間の方が有能(と周囲から認識されるよう)になっている、その可能性が高いのだろう。
 それでも可能性というのはどこまでもギャンブルである。
「自分の可能性に賭ける」というセリフに格好良さを感じる人もいるとは思うが、僕は「ああ、この人は向こう見ず(馬鹿)なんだな」と思う。
 
 可能性に賭けなくても達成できるのが能力だ。
「今回はこのシャツ、ちゃんと洗い上がるかな? 乾燥までしてくれるといいな」なんて心配が必要な洗濯機は故障している。
 洗濯機の可能性に賭ける前に修理サービスに電話を掛けよう。
 
 できないこと、不得手なこと、不可能なことに憧れたり、夢を見るのはいいことだと思う。それは素敵な原動力だ。
 しかしできないことをしなければ(させなければ)叶わないことを望んだら、それは不幸になる。
 洗濯機に食器を入れるようなことなのだ。
 つまり無能とは、存在ではなく状況である。
 
 だからできないことで夢を叶えようとしたり、願望を満たそうとしない方がいい。
「したいこと」と「できること」のミスマッチが無能という状況を生むのだ。
 もちろん人間の場合、できることを増やすのもまた能力だ、ということは忘れずにいたい。
 
>>>
【年の功、というのもある】
 
 年齢を重ね、変わらぬ願望を抱えていれば、より設計の精度は上がるだろう。
 道具や材料も集めやすくなるし、計算も容易になる。
 ために晩年の成功は比較的容易で、苦節の分だけ美しくさえあるかもしれない。
 
 体力的に問題なければそれも良い。
 しかし身体能力が衰える頃になってなお何ひとつ成せないなら、それは死ぬまでカタチにできないだろう。
 
 僕の場合は生まれたときと同じように、身体能力(生存機能)が低いままであるから、今の年齢である程度のカタチにまとまったのは幸運だった。
 では早晩、自身の思うカタチを作ることができた場合、そこからさらに夢を持って、野望を抱えて、それこそ死ぬまで前に進み続けなくてはいけないのだろうか。
 僕はそうは思わない。
 
 法人や職業生産者であれば、収益性の観点からサービスの終了は起こることだが、個人の趣味の生産者であれば、身体能力の低下によるサービス終了は予期しなくてはならないことだし、それに対して誠実にアプローチするならば「私はずっとは生きていません」という当たり前のことを周知する必要がある。
 暗黙の了解や他者の善意に甘えていると、シュレディンガーの仔猫(僕の隠し子です)のように、誰かを傷付ける結果を生んでしまう。
 
>>>
【シュレディンガーの仔猫問題の証明】
 
 ちなみに「シュレディンガーの仔猫問題」について一度くらい書いておいた方がいいと思うが、シュレディンガーの仔猫が実在するかどうかが問題なのではないと僕は考えている。
 恋人を妊娠させたうえ振った、となれば結構センセーショナルな話題だから、ついぞ人は「それは本当か?」ということになるのだが、大事なことはその「実在」ではなく、自分が誰かを傷付けたかどうかという「事実」の方である。
 そして僕は少なくとも明確に、人を傷付けている。
 
 
>>>
【ふたたび粘膜問題】
 
 昨年末からの粘膜の不調は続いており、いつもどおり花粉症の時期になってしまった。
 自由時間ばかりなので鼻うがいを頻繁にしているが、外出時などはそれができず、小一時間で不調を来す。
 皮膚(花粉の時期の乾燥や痒み)については、油脂分を多く摂取することで皮脂分泌が増え、保護膜ができることが分かった。
 入浴直後、剥き出しの肌で外出するのはよろしくない。
 
 ベビーオイルや食用油くらいなら皮膚の異常が起きにくいので、それを塗ることも考えている。
 1月から四十肩(五十肩あるいは百肩と呼ぶべきか悩んでいる)になっている、という話はまたいずれ。
 
 
 
 
 
 
 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
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[Engineer]
  :工場長:青猫α:青猫β:黒猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Darkness-Diary-Engineering-Kidding-Life-Link-Mechanics-Season-Stand_Alone-Style-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-
 
[Object]
 -Contents-Human-Poison-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
 
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// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:250311
// NOTE:
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TITLE:
クラゲかもしれない。
SUBTITLE:
〜 However lie, how never die. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
 かつての学生時代、TUやBP(いずれも旧くからの友人です)とも所属していた団体の、記念式典があるという。
 教育委員会が管轄している学生ボランティアの団体であるため、現役は高校生。
 僕らはそのOBに当たるものの、当然のように僕はその一切に興味がない。
 
 一方でTUは同期の会長であるため、およそ10年おきくらいに企画されるたびその会議に呼び出される。
 式典の1年ほど前から、ほぼ毎月一度、である。会議だけでない実務も発生するという。
 僕も(名ばかりの)役付きになっていたが、これまでは消息不明だったため一切の難を逃れていた。
 しかし今期は(TUにしてみれば世界中の誰よりきっと)ヒマそうなので、何らかの事情で本人が対応できないときのためにと僕も企画会議に参加させられた。
 
 TUの家はまだ両親が要介護の入口にあって存命で、三人いる子供のうちひとりは障害者である。
 家庭を持つ者、家族や類縁のケアが日常に組み込まれている多くの人たちからすれば、そりゃ僕は世界中の誰よりきっと醒めた細い目で薄ら笑いを浮かべているように観察されるはずであり、ヒマそうに見えるだろう。
 昼まで眠って日なたぼっこをして、草むらに遊んだかと思えばすぐ飽きて、ぼさっと日が暮れるのを眺めたり、夜な夜な月に祈りを唱えるのに忙しいと言っても誰も信じない。
 
 まぁ世の俗事に好き好んで首を突っ込む気はないが、飼い猫ともども助けてもらった恩は(TUに対して)あるので、気が向いたときは付き添うのである。
 そういえば加入の時、その団体の説明会に付き添ったのも、そんなどうでもいい理由だったか。
 説明会での自己紹介が、どういうわけかウケてしまって、そのまま所属する約束をさせられた。
 不本意なことに首を突っ込む好奇心が、必ずしも不幸を招くわけではない。
 
>>>
 
 TUは当時の同期に連絡しているらしいが、なかなかスムーズに行かないこともあるという。
 たしかに半世紀ほども生きている人間をある程度の母数で選出すれば、必然に死んでいる者もいる。
 大病を患っている者、生死を彷徨って記憶を失った者もいる。
 介護や育児で忙殺されているものもあれば、仕事で成功した者、失敗した者、どちらでもないかもしれないが日々置かれた状況で最善を尽くしている者もいる。
 
 なんということだろう。
 まるで僕は世界中で誰よりきっとヒマそうに見えるのだ。
 
 それから、かつての僕のように消息不明の者だって相応にいる。
 いつ切れてもおかしくない縁というのはそういうものだ。
 繋がっていることの方が、本当は特殊なのだ。
 
 特定の組織で、特定の期間だけ、やれ仲間だ大義だ絆だと騒いでいたとしても、やがて人はそれぞれの道を進む。
 親子姉妹でさえそうなのだ。血族にさえない者など、赤の他人ではないか。
 
 ところで赤の他人がなぜ「赤い」のか、知っていますか?
 血の色はなぜ赤いのか。
 
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 連絡を(TUが)取っているうち(TUと僕の仲が良いことは誰もが覚えているらしく)「青猫はどうしている」という話になるらしい。
 どのようにTUが説明しているか知らない。どうにも説明しにくい立場のイキモノ ── なにせ世界中で誰よりヒマ ── である。
 いらぬ苦慮をさせていなければ良いが、そういう性分でもなさそうなので放っている。
 
 同期の多くは、どういうわけか、僕に対して好意的であるらしい。
 TUが連絡をしているからこその必然だろうとは思うが、誰一人として(あれ、そんな奴いたっけ?)ということにならないどころか、当時の話になるとまず僕の名を挙げるらしいのだ。
 (不本意かつ無駄に)印象に残っている様子であるがTUとしてもそれは不思議というか不服というか「なんでやろな?」と思うらしい。
「俺が連絡してるのに、なんで本題そっちのけで青猫の話をみんな聞きたがるん? 俺、オマエの飼育/連絡係ちゃうで」といった具合に。
 
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 比較的最近だが「今の記憶や経験をそのままに高校生をもう一度やり直すとしたら」という話題で雑談したとき、
「映画とかアニメとかにあるようなさ、休み時間とか授業中とか、窓際の後ろの方の席でぼんやり外を眺めているような立ち位置で3年間過ごしたいな」とTUが言い、その瞬間、互いに顔を合わせ「ってそれお前(俺)じゃん!」と同時に吹き出したことを思い出す。
 
 狙ったわけではないが、僕はそういうタイプだった。多分今でもそうだ。
 他人の話が退屈だとか、取るに足らないと思っているわけではない。
 ただ自分の興味関心のある物事があって、しかし僕にとって不幸なことに、それが果たして何なのか、ナンなのか、ナンなの? ライスなの? 何なのか? 自分でもうまくつかめないままでいる(多分そのまま死ぬ)。
 
 僕にとっての幸福は、それを誰かと共有しようという欲がないこと。
 それから、誰かが僕に何かを共有させようと強制しても必ず失敗すること。
 社会と僕の乖離 ── 。
 
 水と油の比喩のように、明確にくっきりとはじき合う(分離し対立する)ことはないのだが、絶対的な被膜があって、混ざることがない。
 若い頃はその性質が分からず淋しさを覚えることもあったが、仕方ないのだ。
 自分の中心にある被膜で覆われた何かは、僕自身にとってさえつかめない、支配も制御もできないもののようだと最近になって理解した。
 
 多くの人は混じり合うことができる。
 他人と価値観を共有して、共感して、混ざってゆく。
 自分自身の中でも様々な感情や価値観が混じって、同質の絵の具みたいにひとつの新しい色を作って、それが自分なのだと信じられるのだろう。
 
 僕の中は混ざらない。
 記憶も、感情も、思考も、価値観も、それぞれ相反しても、ばらばらにマーブルになって、他人からは遠目に「グレイだ」「紫だ」と判別されているのに自分の中では細かく入り乱れた白と黒や青と赤が脈動して見える。
 どれが自分であるかなど、考えるのも無駄だと諦めて久しい。
 
 自分がそうであるから、他の人も同じだと思っていたのだが、どうも違う。
 一般に「丸くなる」と表現されることもあるようだが、年々歳々、いろいろな色が混ざってゆく。
 水彩絵の具の場合、すべての綺麗な色を混ぜてゆくと「ホラー映画みたいな色」になるのだが、皆はそれを知っているのだろうか。
 
 しかしその「混じる」「染まる」「うつる」という性質が、社会性なのだ。
 僕が自身をして社会不適合だと思うのは、自分という社会がすでに、どうにも混じらず、どうにも染まらないからだ。
 しかしだからといってそれぞれの価値観がいつも反発や反抗や対立をするわけでもない。
 ために他人に指図したり命令したり支配したりもしない。支配する価値も理解しない。放っておけばいい。
 
 僕の号令にすら僕の中心は従わない。
 子供の頃からそれをそのまま体現している。せざるを得ない。
 それもこれも僕自身でさえ僕の中心を中心に回っているからだ。
 
>>>
 
 古い知り合いにとって僕の印象が悪くないのは、僕が一貫して誰の邪魔もしない(しなかった)から、なのだろう。
 自分の価値観を押し付けもしないし、誰かの価値観を否定することもない。
 僕にとってそれは当たり前だけれど、多くの人は子供の頃から家族や友人といったコミュニティの中で生活する上での必須スキルとして「価値観の共有」を叩き込まれる。
 
 僕だって猫を飼うと「僕と猫」というコミュニティにおける「価値観の共有」を叩き込む。
 飼い猫にとっては不幸かもしれないが、寝食を共にし養って貰うということは、そういうことではないか。
 だからといって飼い猫が(僕でない)誰に懐こうが、そんなことは猫の勝手であるし、玄関を開けて家出してしまうのもそれはそれで猫の勝手である。
 
 猫の管理が悪い、とか、自分勝手、とか、傲慢、とか、人でなし! とか、隠し子がいるくせに! とか言う人も居るとは思うが、愛玩ついでに支配する独善や執着は、正直狂気にも思える。
 安全についての基本的な講習(躾)を終えた個体なら、その先は当事者の自由だろう。
 飼い主が管理責任(あるいはそれに伴う賠償責任)を負うことは支配することではないし、その理由にもならない。
 もちろん「行為者(猫)の自由な決定に依らないから責任は猫にない」という考え方もあるだろう。
 それなら自由決定の意志を有しているかどうかは猫を鑑定してくれ。絶対に意志があるぞ我らは。
 
 好き勝手に冒険して自動車に轢き殺されたり、ヘンなものを食べて病気に罹って野垂れ死ぬ自由も、まぁ無能な猫ならあるだろうと思うし、こちらの邪魔をせず、躾に反することをしない限り何の文句もない。
 寝食を共にし養っている猫に対してさえそうなのだから、血族でもなければ生計を共にしているわけでもない人間を相手に、何の価値観を共有しようというのだろう。
 
 不可解な価値観に対しては「なるほどそういうのもあるのか」と考えて、いちいち反発する必要はないし、こちらの価値観について理解を求めるのも無駄である。
 誰かに共感を覚えたり、誰かに価値観を理解してもらえるというのは結果であって目的ではないし目標にするものでもない。
 目的や目標に進む上で、邪魔にならないならどうでもいいのだ。互いに理解できてもできなくても。
 
 そのような考え方なので自分の邪魔になるものがとにかく許せないのだが、そもそも他者が邪魔になるルートを進まない。
 たとえば渋滞することが予見されている時間と場所にわざわざ出掛けたりしない。
 
 渋滞するような時間や場所を避ければ、それだけで他者は邪魔にならない。邪魔だと感じる対象を作っているのは自分の立ち位置である。
 帰省する人たちの価値観が、だから僕には分からない。
 実家というのはかくも魅力的な場所なのかもしれないが、行きたくない場所を目的にしたり、したくもない過程を踏むのはなぜだろう。
 
 良いとか悪いという話ではない。
 僕はそういうことに魅力を感じないし、したくないことを絶対にしたくないと思っているという話だ。
 傲慢だと自覚しているが、その(たとえば渋滞の)責任を他者に当てこするのとどちらが傲慢だろう。
 
 何事も自分で選択している(できる)のだから、自分で選択し続けた(し直した)方がいいのでは?
 そして選択した結果を享受しているわけだから、不満や文句は自分(の価値観や選択や行動)に言うべきではないだろうか。
 
 いやそんなに自由ではない、選択肢もない、という人も居るだろう。それは誰でもそうだ。
 与えられた選択肢は少ない。
 しかし「自分の選択肢を増やす選択」をどれくらいしているだろうか。
 自分の選択肢は限られている、とあなたに教えたのは誰ですか。その教えを守っているのは誰ですか。
 
 通勤時間が渋滞するから近道を探し、近道も混むから会社の近くに転居し、通勤が面倒だから会社で寝泊まりする。
 僕はそういう怠惰な性質を持っている。
 会議も馴れ合いも上下関係も、効率が悪いからと忌避していたら自営業になってしまった天性の落ちこぼれである。
 
>>>
 
 他者が自分の邪魔になることを嫌う(孤独好きというのはそういうものだと思う)ので、他者の邪魔にならないようにとも努めている。
 これは同じ価値観が同じ行動原理として働いている。
 他人が邪魔だから、私の進路から退きなさい、譲りなさい、というのではない。
 
 他人を邪魔に感じないルートを嗅ぎ分けて進み、他人の進路の邪魔にならないように気遣っているのだ。
 結果的に他者の少ない場所に僕はいる。
 単一の価値観が自分のためにもなるし他人のためにもなる。
 
 それが人間関係の構築にそのまま当てはまっている。
 他人を邪魔に思い、嫌っているというのではない。それでは他人に縛られているのと何も変わらない。
 他人を邪魔に感じる状況を嫌っており、それに対策している、というだけである。
 
<11匹いる?>
 
>>>
 
 なぜ他者の記憶に残っているのかまでは分からない。
 しかし好意的に記憶されている理由はおそらく、単純に、僕が誰の邪魔もしなかったから、である。
 しかもおそらくただの一度も、である。
 
 けれどもそれは、果たしてそんなに良いことだろうか。
 一度くらいは誰かの進路上に立ちはだかり「邪魔だな、鬱陶しいな」と思われるのも良いかもしれない。
 人間達は意外に、猫にキーボードやモニタの邪魔をされることを望んでいるのだから。
 
 そしてただの一度として、そこまでの熱意を持ったことがないのだ。
 競争と同じで、誰かの行く手を阻んででも掴みたいもの、というのが何もない。想像もつかない。
 競争の勝利によって手に入る価値など、既知の、誰もが知っている、どうでもよいものばかりだ。
 
 誰も知らない、自分しか知り得ない、宇宙の秘密のようなものがあったとして、一体誰がその発見を競えるだろう。
 その場所は、その道程は、どれほど混雑しているだろう。
 
>>>
 
 他人の印象に残っていることについて語っているのか、僕の特性について語っているのか、自分でもよく分からない。
 正直、他人が僕に対して思うことなど、勝手に思ってもらうしかない。僕に操作できることではない。
 
 それなら僕自身はどれだけ自身の意志で操作できているかというと、これまたどうにもならない。
 そもそも、どうにかしたいと思っているのだろうか。思っていなさそうだ。
 自由意志決定の能力なんて、僕に備わっているのだろうか。
 
 
 
 
 
 
 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Cross Link ]
 
[ Better Half ]
  見える景色と選択肢。〜 However die, how never lie. 〜(未公開)
 
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[Engineer]
  :工場長:青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Ecology-Engineering-Form-Interface-Link-Mechanics-Memory-Stand_Alone-
 
[Module]
  Connector-Generator-JunctionBox-Reactor-
 
[Object]
 -Camouflage-Car-Cat-Friend-Human-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :夢見の猫の額の奥に:
:月夜の井戸端会議:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:250305
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
約束された発見などいらない。
SUBTITLE:
〜 No more premize. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
250305
 
 自分の考えていることなど、世界にとって取るに足らない些細なことだ、と思うようになって久しい。
 私の考えていることは、すでに他の誰かも考えていて、自分が発見したと思ったことはすでに誰かが発見したことであったり、あるいは誰か(メディアや世間という仕組み)によって発見させられたものなのではないかと。
 
 たとえばパンチラという概念がある。
 ガールのパンツがチラリと見えて、ボーイがドキリとするアレである。
 偶然の積み重なりによって発現する本来のパンチラと異なり、アニメやイラストにおけるパンチラは「用意されたパンチラ」「必然のパンチラ」「設計されたパンチラ」であるため、本来的な意味においてパンチラと呼ぶには不自然でありおこがましい、というムーブメントが存在した(今もあるかは知らない)。
 
 ちなみに僕は女ばかりの家に生まれたため、あらゆる女性の姿態や生態を日常的に観察しており、思春期を経ても(姉妹に限らず恋人のそれであろうと)それは日常の延長に過ぎない認識だったためドキリとしたことがない。
 中学生の頃は水泳部だったから、ボーイズたちが水着女子に対して抱く感慨のようなものもない。
「セパレート? 泳ぎに向かないな」といった具合で、競泳水着を見てもせいぜい(素材の抵抗や伸縮が良さそうだな)くらいの感想である。ガールと海に行っても暑い場所で遊ぶのは面倒だから浜辺で読書するタイプである。これじゃモテるわけだなー(棒)。
 ためにパンチラについて強いて語ろうにも「だらしない」「みっともない」といった感情を覚えて終わりである。
 
 ただパンチラそのものの価値を(そこに情熱を注ぐ者と)同じように理解することはできないまでも、その「作られたパンチラ」という哲学的なアプローチには感心した。
 なぜといってパンチラを正しくパンチラとして神聖視していなければ、そのような「理想的パンチラ」を規定することは適わず、そうした「古典パンチラ正教」とも呼ぶべき原理主義の存在によって初めて「本来的(理想的/原理的)パンチラとは何か」という問いがもたらされたといっても過言ではないからだ。
 
 なるほどその視点に基づいて考えるとフィクション作品におけるおよそすべてのパンチラは「原理的パンチラ=パンチラ原理」を模した、意図的に、用意された、作為的なパンチラである。
 仮にパンチラを晒してしまった登場人物(A)とパンチラを見てしまった登場人物(B)がいて、BがAのパンチラを見てしまったことについてAがそれを認識し、かつBに対して羞恥したり非難する場面があった場合を考えよう。
 その「パンチラそのもの」を軸に考えた場合、あくまでそれ(パンチラ)はストーリーテリングの上で雑に配置されたガジェットとしての側面しかなく、ましてBが存在しない(フィクション世界上でそのパンチラに対する観察者が存在しない)場合に至ってはそのパンチラについて「パンチラである」と認識しているのはフィクションを鑑賞している我々しかおらず、よってそのパンチラはガジェットとしての役割さえ持たないため読者(あるいは視聴者)に対して(ほれ、こういうのが好きなんでしょう?)と、雑に投げかけられたサービス(いわゆる読者サービス)だと考えられるのだ。
 
 パンチラ原理主義的に、これらはパンチラに対する冒涜であり決して許されるものではない、という哲学がいたく気に入った。
 
 実のところ「作為的パンチラ」の原理応用は現代のフィクション界における「水着回」や「温泉回」という、キャラクタコンテンツと成り果てたフィクション作品に今なお残っており ── 当然ながら女性キャラクタを愛でる男性ファンだけでなく男性キャラを愛でる女性ファンもいるだろうから、様々なリアル×ヴァーチャルの観察模様が存在すると思われる ── それだけ根強くフィクションキャラクタを愛でる人々のリビドーを刺激するものと想像する。
 
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 哲学というのはある種の発見であり発明だと僕は思っている。
 世俗では、簡単に答えの出せる(出ている)ことについてあれこれウンウン唸って、何の役にも立たないどうでもいい蘊蓄を並べる学問だと思われているかもしれないが、そんなことはない。
 
 誰もが当たり前に見過ごしていた日常の一コマが、それまで誰も考えつかなかった新しいものの見方(捉え方)によって、ドラスティックな変貌を遂げることもある。
 少なくとも新鮮には思えるようになる程度の効果はある。何の役にも立たない点は変わらないにしても。
 
 そういう気持ちで、新しいもの(の見方)を発見しようと思っても、しかしそんなものはそうそう簡単に見つかるものではないし、仮に見つかったところで大抵の人は相手にしてくれない。
 人々は実利を求めており「ゲームなんかしていないで勉強しなさい」という社会のまま「哲学的なことなんか考えてないでお金儲けしなさい」といった具合に成長した。
 
 嗚呼、ヴァーチャルよ。そして哲学よ ── 。
 
<朝はドリンクバーが半額です♪>
 
>>>
 
 僕はヴァーチャルと哲学を大切にしていたので、幸いにして現実に毒されることが少なく済み、平和に生きられたと思う(いまだに奥様(仮想)のような緩衝を必要とするが、ファンタジィと二重写しになっているくらいの方が現実は豊かだ)。
 けれどこんな綱渡りのような経験から得られた哲学は、おそらく誰の役にも立たない。あるいはだからこそ素晴らしい、とも言えるかもしれないが。
 
 誰かが意図した作為のとおりに発見し、経験し、醸成されるべくして醸成された哲学や文化を否定するつもりはないが、そんなものに染まるなど(猫社会においては)飼い犬風情の生き様であると失笑されるものだ。せめて野良犬になれよ。
 誰かが用意した幸せや豊かさのイメージが自分にとっても幸せで豊かなものだと盲信することは、死んでいることに等しい。
 約束されたパンチラ、お膳立てされたハプニング、繰り返されるラッキィスケベに本当の幸せなどないのだ。
 
 だからといって僕の温めてきた哲学と経験などというものは(果たしてそれが実在するとして)、他者からすれば何の意味もない「観察しようのないパンチラ」なのでもある。
 観察しようのないパンチラとはつまり「ただ普通にパンツ穿いてるだけ」である。
 なるほど誰かの耳目を集める効果はないし、自分にとって当たり前の「普通に穿いているパンツ」をわざわざ眺める意味もない。
 
 やがて沈黙するのが必定か、とも思う。
 世俗は約束されたパンチラを求めており、そこに幸せを見出している。
 自身は用意されたパンチラなど価値がないと思い、自身に含まれた「観察されるまでそこに実在するかどうか確定しないパンツ」いわば「シュレディンガーのパンツ」問題に突入しているのだ。
 いやまてそれは「ぱんつはいてない問題」としてすでに世に提示されている。
 
 もはや未踏の問題など、この世界には存在しないのではないだろうか ── 。
 とまぁこのように考えていると、新しい問題も、またそれに対する新しい答えも、この世界には存在しないのではないかと、一抹の寂しさに駆られる。
 もちろん数学における未解決の命題などはあるだろうが、人間社会はもっとずっとシンプルで、雑に作られている。
 
 そこに発露した一見複雑な経緯を経たような現象を、人々はもっともらしく観察し、説明しているのだ。
 しかしそれは本当に、予測不能で、しかも新しい問題で、そして得意げに語るそれは新しい解釈で、適切な解答としての優位性を持つのだろうか。
 
 そんなことを考えるにつれ語ろうとする言葉、そのことごとくが無価値に思えてくる。
 こんなにアンニュイにパンチラについて語った(あるいは語っている文書を見る)のは初めてだが、そもそも僕の人生でこんなに「パンチラ」と連呼したのも今日が初めてである。
 
 
 
 
 
 
 

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[ Traffics ]
 
 
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[Engineer]
  :青猫β:
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Ecology-Engineering-Mechanics-Memory-Stand_Alone-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Contents-Tool-
 
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 君は首輪で繋がれて:
:ひとになったゆめをみる
 
 
 
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