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TITLE:
トイレとケダモノ。
SUBTITLE:
〜 restroom'n'beast. 〜
Written by BlueCat
Written by BlueCat
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春の強風が続いている。
毎年変わらず季節が巡ると思っていた時代は遠い昔であるかのようだが、実のところ30年がせいぜいである。
四半世紀前までは、春はお花見、夏は海水浴、秋は紅葉、冬はこたつで丸くなるというのが世俗の平和的レジャーであり、自然と触れ合うアプローチの手法だった。こたつが自然か人工かは判断の分かれるところだが。
よって現在30歳前後より以上の人にとって、四季というのは、ある種の美化された存在だったろうと思う。
じつに四季は素晴らしかったのだ。まるで遠い昔のように語っているが、二度と戻らないと考えればそのノスタルジィもひとしおだろう。
その頃は花粉症という慢性過敏症に悩む人も今ほど多くはなく、当時の私も花粉症ではなかったと回想できるほどである。
ひるがえって昨今は花粉と乾燥と急な雷雨が、めまぐるしく訪れる。
気密の悪い環境に棲んでいるので、私の皮膚粘膜は終始具合が悪い。
数年内には引っ越しを考えている。本気である。
焼け石に水を掛けるほどの効果しかないリフォームを続けていても、短期的な満足こそあれど、長期的な体調不良は改善されない。
(介助対象の)姉が死んだら、なんて悠長に考えていたが、もっと早くていいだろう、と猫会議で結論するに至った。
つまり僕が寝ている間に決まった。
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コンビニでトイレを借りて用を足す前に、掃除をする(ことが多い)とは以前に書いたことがある。
コンビニに限らずすべてのトイレについて、使う前にそれが汚れている場合、可能であればそれを掃除する習性が僕にはある。
その可能性というのはまず「掃除用具があること」。ついで「時間的余裕があること」である。
公衆トイレの場合、待っている人がいるのに掃除に過剰な時間を掛けるわけにはいかないからだ。
確率分布的に、それらの僕の行動は「猫っぽいな」と昔から(僕自身に)認識されている。
もちろん他者は僕がトイレ掃除にいそしむ姿を見ることがないので自認に過ぎないが。
一般に言われるように猫というのは綺麗なトイレを好むのだ。
先日、遊びに来たBPが「青猫の家のトイレは綺麗だから立って用を足すのがはばかられる」と言っていた。
先だって彼の息子の恋人が遊びに来るというので、彼は自宅の掃除をしたらしいのだが、存外トイレ掃除に手こずった、という経験かららしい。
よくよく考えると、長い一人暮らしのうち「お前の家はトイレが綺麗だ」と言われることが多かった。
そのように評するのは男友達だけだったので、もしかしたら恋人たち(すべて女性)は「こやつは部屋も散らかっているがトイレも大概ですね」と思っていた可能性は否定できない。
トイレ以外の箇所については基本的にさほど綺麗にしない。少なくとも整理整頓は僕が苦手とすることのひとつである。
明日も散らかす場所を今日整頓するなんて狂気の沙汰だと思っているフシもある。
それでも水回りが汚れていると、どうも嫌な気分になる。
水というのは循環するものの象徴にも感じているし、何より水回りが汚れにくすんでいるのは不衛生である。
精神衛生上も物理衛生上も良くないとなれば、良くなるようにするしかない。
一人暮らしを始めた当初はそれでもやはり面倒くささが支配的で、トイレ掃除を半年ほどもしないことがあったのだが、飲食店で勤務したり本を読むうちに変わった。
トイレというのは、汚れに気付いたらすぐに掃除をするのが楽なのだ。
汚した直後は5秒で掃除の終わる汚れも、半年経つと数分掛かるようになる。
汚れ自体は変わらないのだが、物性が変わって落ちにくくなる。
汚れが強いというのは気分的にもよろしくないのだが、大きな時間的ロスに繋がる。5秒で済むならその方が楽だし、清掃用具も少なくて済む。
当時から時間ケチの素養はあったので、やがて汚れたらこまめに掃除をするようになった。
一人暮らしをしてもっとも変わったのは、そういった「水回りに対する意識」かもしれない。
家族が居ると、ついぞ誰かが掃除をするという環境に甘んじてしまう。
自分以外の誰かが汚した場所を掃除することができる人を、ために僕は本当にすごいと尊敬している。
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私の家は長く父子家庭だったが、それでも女性である妹がとくに綺麗に使っていたように思う。
綺麗にといってもたかが知れているが、それでもある日、ふと気付いて衝撃を受けたことがある。
当時は父と私と妹の三人暮らしだったのだが、洋式トイレの便座が一度だけ「降りていた」ことがあったのだ。
それまで当たり前のように便座が上がっている状態で使っていたのだが、妹がトイレを使わないわけではない。
しかしその単純な事実を、便座が降りている状態を目の当たりにするまで意識したことがなかった。
(もちろん毎回トイレのフタを降ろすような家庭だったら良かったのだが、あいにくそんな上品な家庭ではなかった)
使用前に便座が降りているということに驚いて、それを意識したことのなかった自分にも驚いた。
それでは妹は使用する都度便座を下ろし、使用後に都度便座を上げているのかと疑問に思い、本人に確認したのである。
妹はこともなげに「そうだよ」と答えた、それが衝撃的だった。
なるほど我々は男なので、基本的に便座が上がっていた方が楽なのである。
(少なくとも一人暮らしを初めて数年、僕は座って小用を足すことをしなかったので)
妹によると、父親に一度小言を言われたことがあり、ムキになって徹底しているうち習慣化したという。
それでも(ムキになったら反発するであろうはずの)妹が、素直にそれを習慣化することができたという事実にも驚いた。
それから以降は、僕も比較的掃除をするようになっただろうか、さほどでもないかもしれない。
やはり家族が居ると気が緩む、そんな気がする。
一人の場合、汚すのは自分しか居ないのだから、言い訳もできない。
誰かに掃除をさせるものでもないし、そうなるとすぐに掃除をした方が楽である。
便座というのは降ろしっぱなしでも使っていれば相応に汚れるものなので、時折立って(便座を上げて)使うようにもしている。
汚すことで初めて気付く汚れもあるからだ。
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こういう傾向が行動を生み、その行動がもたらした結果はいささか神経質に映るかもしれない。
BPは僕をして「トイレの神様とかを信じているタイプなのかと思った」と言ったほどである。
もちろんそんなものは信じていない。僕が信じているのはネコノカミサマだけである。
ただ(これは僕が気取っていることのある種の証左になるから、あまり書きたくないのだが)汚れたトイレを使いたくない、汚れたトイレを使うのに自分は相応しくないと思っている部分があると自覚するに至った。
朕は気高く高貴であるから汚れた雪隠など使いとうない、といったところか。
些細なことと言えばそのとおり、排泄など、用を足せればどうでもいい。というのは禽獣のいかにも一般的なありようだろう。
猫とて禽獣には違いないが、優れた肉食獣は己の痕跡を消す。
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この行動様式は抽象され、普遍化された概念として僕の他の行動にも影響を与えるようになったと今は認識している。
たとえば僕は、寂しいからといって、手近な誰かと連むことがない。
間に合わせの他人で寂しさを埋めるくらいなら、孤独の中で寂しさをとくと味わうのだ。
食事も同様、漫然と(かつどうでもいい内容で)三度の食事をするくらいなら、空腹を存分に味わったのち、我を忘れるように貪りたい。できればよりよい内容で。
量より質を求め、漫然と欲を満たすのではなく、その飢渇から充足までを存分に味わいたいのだ。
これを僕は、自身がとても欲深いからだと思っている。
食事などは好例で、人より多く時間を掛け、じっくり味わうときに感じる愉悦は非常に官能的であり、それを公衆の面前でしているときなど、ちょっとした変態プレイでもしているかのような背徳感さえ覚える。じつに食事というのは動物的なありようだからだ。
日本の文化レベルがもう少し高かった頃は、テーブルマナーであるとかドレスコードであるとかがメディアでも話題になることがあった。
あれらはつまるところ、禽獣の域を出ない人間達がいかにして禽獣ではないかを立証しようとした、その様式であり歴史だろう。
人間は、人間であり続けようとしなければ、ただ知性を持ったケダモノに過ぎない。
無論、ケモノが悪いというわけではない。
ただどのレベルに「人間」を置き、その「人間」を目指すか、ということではないだろうか。
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私は確率的には人間より猫に近く、神より人より禽獣に近い。
これは観察の結果、つまり自覚や自認と呼ばれるものである。
外観のみ観察するならば、まぁ人間に見えるだろう。これは観察者の観察形態や分析手法によるものだから否定すべくもない。
人がましい顔をするイキモノはこれまでもたくさん見てきたし、今後も嫌というほど見るかもしれない。
皆、自分を人間だと信じて疑わない。
人間を素晴らしいものだと信じたがるのも、人間に特有の現象に思える。
人間以外の種族は、自らやその種族に対してそういった信仰を持たない。そんな感慨など持たないものだ。
もちろん信仰が悪いとは思っていない。
ことさら日本人は信仰嫌いという信仰に染まっているので滑稽に思えるほどである。
それだけ不純な信仰が多く、人々は何を基準に物事を信じるべきか、決められないものなのだろう。
決められない人間が集まって何かを決めようとして、無理に決めるから、結局信念のない決定が権力だけを抱えて迷走するようにも分析できる。
何を信じるかということくらい自分で決めればいいのだろうに、と常々思っているが、それを簡単に決められないのが、弱さであったり優しさであったりするのだろう。
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春の嵐で体調が悪い。
睡眠時間は3時間程度でぶつ切りになるし、ふとした拍子に強い睡魔に襲われるのでうかうか外出もできない。
まぁ、したいわけでもないが。
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