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// NOTE:
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TITLE:
共感至上主義なんてクソくらえ。
SUBTITLE:
~ True Individualism. ~
Written by BlueCat

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::結果として、人間は過剰に個人を見るようになったといえる。
 ヴァーチャルが個々人のアタマの中に投影されてヴァーチャルでなくなるとき、実のところそれはリアルを超えてしまう。
 とくにヴァーチャル慣れしていない人ほど、ヴァーチャルを脳内投影した結果、暴走しがちだろうと思われる。
 
 
 

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//[Body]
 
 最近の大学生にとって、政治と恋愛(自分と話し相手が恋愛感情を抱いている相手について、など)の話はタブーとされている。という話を先日、知り合いの現役大学教授から聞いた。
 実際にそのセンセーと同席していた知人(接客業をしている)の観察範囲において、これらは事実であり、特に男子学生に顕著だそうだ。
 またその他の観察される傾向から察するに、彼らはとにかく傷つくことを恐れているらしい。
 
「傷つく」の定義はともかく、彼らは集団における不調和の因子たることを恐れ、また集団の中で不調和の因子を生むことを恐れているのだろうと推測される。
 それなら一人で行動すればよいのではないかと、私のような短絡なイキモノは思ってしまうのだが、彼ら彼女たちは、まず一人では行動しないらしい。
 
>>>
 
【実体を持たない人間関係】
 
 恋愛の話はともかくとして、同程度の知性水準を持つとされる集団に属している友人がいるにも関わらず、政治や学術の疑問について議論を避けるというのはいったいどういうことかと首をひねってしまった(スティーブンセガールに倒される、悪の組織のドア警備員レベルに)。
 
 想像するに、彼ら(彼女たち)にとって、一人で行動することは、すなわちある種の機能や能力の欠如を意味するのだろう。
「共感と共生の時代」とまことしやかに言われる昨今にあって、たしかに暗黙裡に作用している集団の趣味嗜好が存在するように観察される。
 ありとあらゆるSNSにおいて、見ず知らずの人であっても形成される集団意識は、当然に平等を愛し、不義を嫌う。
 
 だからIRLで仮に不倫をしている友人がいても「友人>不倫をしている人」といった具合に、友情の価値のほうが重く大きくない限り、その行為を糾弾するのが人間である。
 しかし不倫という他人の悪業よりも、実体を持つ友人が、こちらのことも友人として認識しているという価値は、より自身にとって大きな意味があると考えるのが必然だろう(もちろん自身が「不倫をされている配偶者」であれば、また意味合いが変わるのかもしれないが、今回は不倫がメインテーマではないので、その位置関係による力学について掘り下げない)。
 もしそうでないなら、それはそもそも友人などではないということだ。
 
 しかしヴァーチャルな人間関係において、そもそも友人でも知人でも何でもない人たちがあまりにも視界を横切る。
 webに限らず、あらゆるメディアではそうした「有名人」が経済活動をしていたわけだし、彼ら(彼女たち)は「近づきがたいほどの圧倒的な個性」よりも「親しみやすくて欲を投影しやすい存在」として自らのキャラクタをプロデュースしマーケティングしてきたはずだ(後者の方が、コストが安く、リターンが大きく、訓練次第で誰にでもできるので)。
 SNSでまことしやかなプライベートを垂れ流す「有名人」も少なからずいる。
 クリエイターがクリエイションをリアルタイムで配信(イラストレータなどに多いか)したりする風景も珍しくなくなった(これについても私見はあるが、余談なので捨て置く)。
 ファンにとっては垂涎のサービスだろう。
 また「有名人」にとっては、ファンの心理(欲求)の中に存在する自分の専有面積を広げる意味でも有用な、低コストで高いリターンを見込める宣伝活動である。
 
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【「好き」と交換されるもの】
 
 何かを好きになるということは決して悪いことではないと僕は思う。
 きっと多くの人がそう思っているはずだ。
 しかし何かを好きになるということは、自分の心や価値観や欲求の空白が占有されるということでもある。
 もちろん心の空白面積が東京ドーム512個分もある僕のような心の空白富豪でなくても、その空白を埋めることはさぞ気持ちのよいことだろうと想像できる(大量の造語については、なんとなく理解してください)。
 しかしコンピュータのメモリやストレージ同様、空きのない領域は全体のパフォーマンスを低下させる。
 時間も、お金も、欲求も、価値観さえもその「大好きなヴァーチャル」に侵食され「本来の自分」「本来あるべき自分」「本来ありたいはずの自分」というものが削られ風化するのだ(「合い挽き肉のハンバーグ デミグラスソース」が「森の気まぐれ木こり風」といった感じになる、ということではない)。
 
 そもそも、ヴァーチャルな人間関係には根っこがない。
 IRLでお互いをよりよく知っている親しい関係ではないから、ヴァーチャルな理想を投影し、押しつけていることになる。
 もちろんファンはそれに気付かない。それを気付かせないのが「親しみのある有名人」というスクリーン戦略なのだ。
 かつての有名人たちは、己のキャラクタをファンというスクリーンに投影していた。
 ファンは心のスクリーンに映る有名人たちに憧れ、しかしそのスクリーンに触れることを忌避した。スクリーンに触れてもそれは平面で、それが揺れ動けば像は歪むからだ。
 今は逆である。
 有名人は、ファンのスクリーンに成り果てた。
 ファンは複雑怪奇な欲をそのスクリーンに投影して「キャー素敵」と推し活を楽しんでいる。
 時間もお金も価値観さえも明け渡しているのだから、欲を投影して悪いはずもない。それらは有名人とファンが実際に交換しているものなのだ。経済を媒介にして。
 
 これと同様のことが、ありとあらゆる作品に当てはまった。
 あらゆるクリエイタも、作品も、閲覧者のスクリーンに何かを投影するのではなく、閲覧者の欲を投影するスクリーンに成り果てたのだ。
 結果として、クリエイタや作品は「対価を受け取っている」という理由によって、ファンの欲の捌け口として慰みものにされる運命を負わされ、ファンの(欲求の)思い通りでなければ「金を払っている」という理由で糾弾される。
 
 煙草やお酒、セックスやドラッグ、法規に抵触する行為、公序良俗に反する言動 ── 。
「フィクションだから」許されていたものでさえ「フィクションだから」許されなくなった。
 もちろん、フィクションにさえそれを許さないという強固にして潔癖なる正義の支配は、ノンフィクションつまりはIRLたる現実世界にもなべて等しく投影される。
 
「共感の世界」が生み出している潔癖とは、すなわちそういう副作用を持っている。
 きっといいこともたくさんあるのだろう。
 僕はその世界が嫌で逃げ回っているからなんともいえないが。
 
 ブログはweb上に容赦なく公開しているものの、それでもIRLで見知っている人には特別扱いをしてしまうのが僕である。
 web上だけで知ったつもりになるな。俺はそもそも猫だということを忘れるな、と僕は思っている。
 どうせおまーら人のことを人間か何かと勘違いしてるんだろコノヤロー、という気持ちである。
 
 まぁとにかく。
「共感の世界」の大前提は、一人で、孤立した価値観を持たないこと、だと誤解されているのだろう。
 現に、通り魔的な犯罪を犯す人などを観察するに、到底理解しがたい「その人だけが持っていそう」な価値観に基づいて行動しているように思いがちだ。
 
>>>
 
【通り魔的な価値観】
 
 しかしどうだろう。
 余談になるが、僕は一度といわず、そうした「誰でもいいから殺したい」とか「幸せそうにしている他人が憎い」という感情を持ったことが、実はある。
 
 その当時、僕は一人暮らしをしていて、肩の骨が折れたために車を運転することができず、ために仕事もできず、お金がなくてガスや電気どころか水道が止まることもあった。
 当然にアパートの家賃も払えなかったのだが、管理会社に骨折して仕事ができないことを説明したところ「そうですか気の毒ですがお金を用意してください用意できないならお金を払って出ていってください」と言われるだけだった。
 ありとあらゆる支払いができなかったが、お金を借りる相手もいなかった。
 だからといって仕事としてお金を貸している組織を頼るつもりもなかった。返せるはずがないからだ。
 友人にも親にも、僕は頼るということを知らなかった。
 僕はそれをしたことがなかったし、したいとも思わなかった。
 ただただ毎日、不安し、恐怖していた。空腹を感じる余地もなかった。
 誰かに窮状を説明することを恐れた。「そうですかお気の毒ですね」と言われて放置されるのだ。
 恥を忍んで現状を説明して、哀れみのお言葉を頂いて、放置されるのだ。あるいはそのうえ何かを請求されるのだ。
 だから毛布にくるまって震えて眠った。涙なんて出なかった。
 恋人は当時いなかったが、いたところでその窮状を説明する気にはならなかっただろう。僕はそういう性格だ。
(11/19追記。
 記憶を辿ったら、この当時、そういえば恋人がいた。しかし僕は彼女に何も説明せず、頼るようなことを避けていた。)

 お金を借りても返せないと思った(そういう状況だった)し、親しい間柄でお金の貸し借りをするのは関係が壊れることだと無意識に(しかし経験則から)思っていたので、借りたくなかった。
 たぶん寄付なら受け付けたが、寄付をお願いするのはヒトとしてどうかと思って黙っていただろう。
 夜が恐ろしかったが、日中も恐ろしかった。
 誰かが来ること、会うこと、話すことが恐怖だったし、電話やメールも、その着信音にさえ怯えた。留守番電話やメッセージを確認するのに、ひどく気力を要したので、ひたすら通知が溜まっていった。
 
 誰も、僕の窮状を理解はしないと思った。
 みな表向き「そうですかお気の毒ですね」と同情を示してくれるだろう。
 頼めば(あるいは頼まれなくても)お金を貸してくれる人はいるかもしれない。いたかもしれない。
 しかしそれはその人との関係を最終的に壊すものであり、暗黙のうちに「返済をしない人間だ」というレッテルを貼られて、関係を断ち切られることになるだろう。
 
 ── 実家暮らしの頃、友人の友人にお金を貸して、少なくとも僕自身がそう感じたから、その価値観は強固だった。あれ以来、僕は友人にはお金を貸さなくなった。あげるか、断るかである。人間関係を維持するためにはそれしかないと結論したのだ。
 
 あのとき、アパートの外に走る車の音や、人々の楽しそうに笑う声を聞いて、あるいは小銭を握りしめて(という表現は大袈裟だが)スーパーに買い物に出かけて、ふと思ったのだ。
「ならばどいつもこいつも偽善の仮面を被った守銭奴ではないか。自分がそうしたように、金のためなら人間関係をも質草に流すようなケダモノじゃないか。どうしてこいつらは親もいて家族もいて友人や恋人もいて仕事もしていて健康でこんなに当たり前に恵まれてますみたいな顔をして道路を往来したり買い物をしているんだ」と、明確に、不特定多数に対する強烈な殺意を覚えたのだ。
 母親に手を引かれる子供を見てすら憎悪した。
 子供が泣きついて甘えている姿を見て、憎しみやら(憎悪が発生したことに対する)驚きやら(憎しみを感じる自分の心のメカニズムに対する)悲しみやらが心の中で渦巻いて、気絶するかと思ったほどだ。
 
 それは歪んだ怒りで、歪んだ憎悪だった。
 でもそれは確かに僕のものだった。
 幸いにして僕が無差別殺人に走らなかったのは、右肩を骨折して自由が利かなかったことと、いつでも複数の価値観が並列して動作している(つまりは理性が外れない)という理由によるものだろう。
 身体が自由で、人格や価値観が単一なら、僕はあっさりあのとき自暴自棄になったと思う。感情にまかせて他人を殺めただろうと思う。
 とはいえ身体が自由なら、仕事をして、収入もあったと思うのでこの前提は結果的に果たされないのだが。
 
 ただ「ああ、こういう気持ちなんだな」ということはよく分かった。
 
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 同情するには値しないし、共感するには危険な類いの感覚である。
 だから一般に、そうした「通り魔的な犯罪者」の気持ちなんて理解されるべきではない。
 少なくとも僕については、共感や同情をしないでほしい(僕はそれを恐怖し嫌悪している)。
 ただ僕は、そういう人たちの痛みや苦しみが ── 個々に異なることは承知の上で ── ちょっと分かるような気がする。
 経験上、その「幸せな他者」に対する憎しみが分からないではないのだ。それを抱える悲しみも。それらの歪みを自分に認める恐怖も。(もちろん今はそんなものは持っていない。だからこそこうして書くことができるのだが)
 
 そして何より、そういう「気持ち」が芽生えないような社会であってほしいとは思う。
 社会とはそういう装置であるべきなのではないだろうか。
 つまりそれが、社会や、あるいは政治や、あるいは実在世界における人間の精神や教養のありように対して僕が興味関心を持つ理由でもある。
 
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【共感という毒と密度】
 
 共感できるもの、共感できること、そういうものは確かに素晴らしいから、それが多ければ多いほど、その領域が広ければ広いほど、素晴らしいのだと勘違いされているように思えてならない。
 しかし上述の通り、共感できない方が自然で、よいことだってたくさんある。
 
 そもそも共感ができないことが普通で、その方が多いからこそ、共感できることが特別で、素晴らしいと思えるのではないのか。
 だとすれば、共感できる物事はそれが少なければ少ないほど、その領域が狭ければ狭いほど、その素晴らしさが相対的に価値を高めるはずだし、その価値を等しく高いまま、より広い領域で共感を得ることはおそらく不可能だろう。
 そう考えた場合、共感至上主義的な価値観や思想は、ある種の矛盾を抱えたままそれに気付かず破綻すると考えられる。
 
 これらはやはり個人主義的な価値観が蔓延した結果に導かれた状況だと思える。
 ありとあらゆる物事が、個人主義的に分断され、家族も分断され、友人関係でさえ分断されているのだ。
 それはつまり個々人が孤独を感じるような価値観を植え付けられて、それでも現実世界の人間関係には辟易して、あるいは過剰にヴァーチャルな欲を投影して、結果的に共感を現実世界で体現することができないということだ。
 
 だから安易に他人の価値観が羅列されているwebやSNSで、共感に値する情報を求めてしまう。
 求めよ、さすれば与えられん。
 じつに手軽にそれらは転がっているだろう。
 要は、自分が思っていることと同じようなことを言っている誰かの発言が欲しいだけだ。
 そこでSNSのように、相互性が発生するプラットフォームであれば、相手も自分と同じような発言を欲していれば、お手軽な共感ができあがる。
 お手軽であっても、共感は孤独の専有面積を埋めてくれるだろう。
 
 孤独とはすなわち、空白のことだ。誰にも譲らない、明け渡さない領域のことだ。
 実体を持つ人間との間に共感というバイパスを作って、それで孤独を埋めるのはとても骨の折れる作業だ。
 ただ孤独の冷え冷えとした空白に怯え、それを埋めればよいだけならば、なるほどヴァーチャルな人間関係に作られた手軽な共感だけでいい。
 
 そうなれば誰かと価値観の衝突をするなんて労力の無駄であり、また集団において忌避される個体と見なされることを予測して「無難な人格」を仮想で構築するのも必然だろう。
 政治について熱く議論するなんてもってのほか。
 気になる女の子のことを「ここが可愛い」なんて褒めてしまって、恋慕している対象が友人と重複する事故の発生なんて論外。
 なるほどそういうことかもしれない。
 メディアを通してヴァーチャルなキャラクタに恋慕し、経済を媒介にすることで決して裏切られるはずのない「推し活」をし、大人になって自分の将来に不安を感じて婚活でもするのだろう、多分。
(これらは国家的に、非常に由々しき事態ではあるが、今の社会はそれでも構わない様子である。結果、日本は滅びる)
 
 いずれにしても今回の主体たる「群馬県前橋市近辺で観察される大学生(特に男子)」はその多くが「共感という幻想に支配された仮想人格」を形成しており、その上、そのベースにあるべき「実体を持った自身本来の人格」が著しく侵食されている可能性も否定できない。
 
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【共感とは何なのか】
 
 自身の持つ価値観が誰かの持つそれと似通っている(あるいは同一である)と相互に(あるいは一方的に)認識できたとき、人は「共感」を得るようだ。
 
○共感は、孤独を埋める。
 
○孤独は価値観の中にメタ情報として書き込まれている。
 この価値観は「共感者」がいる/いない、といった具合に。
 
○共感者のない価値観は、集団の中で無価値、あるいは危険な要素として認識されていることがある。
 いじめのメカニズムにも通じるものがある。
 
○ために孤独は避けるべき要素であり、共感すること/しあうことが、集団において優位性を持つメタ情報の書き込み行為として一定の地位を持つ。
 SNSによるリスペクトも、される側を優位にするのと同様、する側の優位性を高めるのだろう。
 これは「私は誰々の知り合いです」と周囲に言うことで、一定の優位性を発揮する場があるのと同じ原理である。
 ヴァーチャルではないリアルな人間関係でも古くから動作しているメカニズムで、個人的には悪習だと思っている。
 
○「共感」は集団には有益であるため優位性を持つが、ときに個を殲滅する。
 これもいじめに根底が通じている。
 メカニズムがいい加減に運用される危険性があるので、僕は「共感」というメカニズムを本能的に忌避するようにしている。
 もちろん、誰かに共感することはあるし誰かに共感されることもあるが、それは僕の(あるいは相手の)持つ価値観をより優位にするわけではないと思っているから、共感できない価値観があったとしてそれを劣位だと思ったりはしない。
 
○個人主義のなれの果てに「共感」は神格化されている。
 みんながみんな同じように感じて、同じ正義を信じるなんて、僕は信じられないしキモチワルイと感じる。
 
○「共感」を集団が強要するとき、果たしてどうなるのか。
 冒頭の知り合いたちが言っていたのは、これが政府やメディアが誘導した民衆支配の一形態ではないか、というものだった。
 たしかに本来の個性たる主体人格を、集団の共感を優先するような仮想人格によって侵食されて育った世代は、集団の動きに合わせないことを本能的に恐怖するだろう。
 その意味において、もし本当にそれを計算づくで導いたのだとすれば、それを提唱し実現してきた人や組織は大した実力を持っていると評価できる。
 世が乱れているのは、その過渡期だからだという判断も可能だ。
 
 ただしそれは、その善悪を問わない場合において、である。
 
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【急に父性の話】
 
 個人主義の導入によって、日本に父性という概念は消失したように観察される。
 不惑を過ぎた男どもは、軒並み「おっさん」という(旧来は蔑称だったはずのそれ)によって呼称され、あるいは自称し、父性を持ち、それを発揮することで賞賛されるような場面はおよそ観察されなくなった。
 家庭の主婦ども(あえて軽蔑的に表記している)が、配偶者に求めているのは「より優れた父の姿」ではなく「便利な道具」としてのそれである。
 そこで男たちは家事をすることを求められ、子育てを担うことを求められ、家計の主体であることも求められ、見目麗しく、なおかつ配偶者たる女がいかなる状態にあっても褒め称え、最良の「女」として評価することを絶対とさせられている。
 
 なぜといって、女も男も、母親の配偶者たる中年男性を知ってはいても「父性」を知らないからだろう。
 そして上記の女目線に都合のよい道具をして「父親」を見た子供たちが、そういうオトコを再生産してゆく。
 
 女というのは基本的に、家庭のような極めて狭い範囲での損得勘定に優れている一方、大局的なことや抽象的なことを取り扱うことが苦手な脳構造を持っている。
(もっとも人間の心理的機微については優位性を持っているので、一概に政治や社会貢献に役に立たない傾向があると言いたいわけではない)
 
 しかしそもそもオトコたちが父性を失うとき、集団は結束を失う。
 庇護と安心をなくせば、社会は疑心暗鬼なくして成り立たなくなる。
 個人主義は加速し、人はバックボーンのない不安から集団を拠りどころとし、個人主義的であるにもかかわらず、全体としては結果的に社会主義として機能する。
 しかし表向きは資本主義だから、その道理に基づけば、経済的弱者は敗者として見捨てられ、愚者は禽獣にも等しい扱いから脱却できない。愚者を愚者でなくするのは、誇りと学びである。
 
 なるほど支配者層に有益な潜在的社会主義国家を形成するにあたって、これほど理に適った誘導はないようにさえ思える。
 それも経済という力をうまく利用して価値観の流れを形成しているという点においては、完璧ともいえるだろう。
 経済や社会的影響力を持っているオトコであっても、父性を知らず、女たちの道具であることが必然とされた社会にあっては、人という人のすべてが、経済によって支配できる道具に過ぎなくなるからだ。
 男も女も金で買える社会は、まして安い金で買えるならば、経済的支配者層にとってまさに理想的な奴隷制度の国家である。表向きの名称は何であれ。
 とりあえず選挙さえしていれば民主国家の体裁は保てるのだから。
 そうでしょう? みんなこの国が民主国家でないなんて、疑っていないでしょう? 選挙制度があるのだから。
「なに政治家が悪い? お気の毒ですね。あなた方が選んだ代表者です。とりあえずお金を払ってください払えないなら死になさい」
 
 しかし疑問も残る。
 もし仮に、優れた頭脳が誘導した社会的価値観がもたらしたのが「これ」ならば、その先をどう予測しているのか、ということだ。
 少なくとも僕の考えられる範囲では、奴隷が次々死ぬのが次のフェイズである。
 現に高齢化社会のなかで、若者のほとんどは将来に希望など見ていないし、楽観もしていない。
 高齢者はどうやっても基本的に死んでゆく。
 上記の仮定された支配者層が(政治家や国家がそれであるかどうかも分からないが)望むものは、何よりもまず国家の存続ではないのか。繁栄ではないのか。
 
 奴隷が潤うことに支配者層が嫉妬するだろうか。そんなはずはないと思うのだ。
 奴隷が潤えば、支配者層は一層潤う。
 もちろんバブル経済のような冷や水を浴びることはあったにせよ、国家という家庭の家族が幸せになることに嫉妬し、不幸になることをはたしてマトモな支配者層が望むとは思えないのだ。
 
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【国家陰謀論なの?】
 
 よってここから導き出せるのは、
 
○そもそも国家(あるいはそれ以上の支配者層があったとしたらそれ)による意図的な価値観誘導など存在しない。
 
○仮に価値観誘導があった場合、非常に優れた奴隷を生み出すことには成功しているかもしれないが、民主国家あるいは資本主義国家としての弱体化を招いていることは明白である。
 
○ために目先のことに気を取られて、最終的に自滅する演算結果であるように観察されるのだから、意図的な支配者層は自らの首を絞めて自滅する。
 
○あるいはもっとすごい計画があるのか(←陰謀論者めw)。
 
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【経済の持つ機能に踊らされているのではないのか】
 
 個人的には、経済という「人間が生み出した概念的なモノ」がもつ性質、メカニズムなのだと思う。
 経済(つまりお金)も、相当にヴァーチャルな存在なのに、人間はあたかもそれが現実で、ときに命に等しいモノとして扱ってきた。
 結果、生きるためにお金は絶対に必要なものとして認識している人が多い(僕はそうでもないが)。
 
 経済という価値観が人々の価値観に浸潤し浸食した結果、人間はその「人間至上主義」だった価値観を崩壊させたのだろう。
 もちろん表向きはみな「人間至上主義」の貌をしているが、お金を持っていない人間は人間として扱わないからそんなカオをしていられるだけだ。
 
 金がない=仕事をしていない=大人ならクズ。
 金がある=素晴らしい能力を持った、社会的に優れた人間に違いない。
 そんな価値観を持ってはいないだろうか。
「ケガをして、お金が払えないんです」「気の毒ですが自分でなんとかしろお金を用意できないなら死ね」という社会ではないのだろうか。
 
 実際、意図的な犯罪を犯す人の多くは「ラクして大量のお金を手に入れたくて」法を犯す。
 お金にそれだけの力があるのだけれど、その力をお金に見出し、与えているのは社会そのものであり、人間のそのものではないだろうか。
 
 お金は人間に信頼され過ぎた。もはやカミサマみたいではないか。
 それを人がポケットに入れている。カミサマ in the ポケットである。
 そりゃ相対的に人間の値打ちが下がるわけである。
 人間というのは等しく人間であるから、他人の価値も自分の価値もお金によって等しく下がる。
 友達になりたそうにしている人間と、1億円が並んでいて、どちらか選んでいいと言われたら1億円を選ぶだろう。僕ならそうする。いや、100円だってそうするかもしれない。
 なぜといって、人間はお金に換えられないほどの損害をもたらしたりすることもあるからだ。
 
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 今のところ人間が接しているヴァーチャルな存在、あるいはヴァーチャル/リアルの境界面のうち、もっとも力を持っているのが経済である。
 
 共感についても同様、それはヴァーチャルで、単純に自己満足の感情でしかないともいえる。
 共感が何を生み出すかといって、たいしたことはしない。
 ただメディアで共感を集めれば、大勢の人間を動かすことができるから、個々人から小銭を集めればそれが大金になる。
 共感の社会だなんて綺麗事みたいなセリフは大嫌いだが、つまりその「共感の社会」もまた、経済の価値観によって狂わされた誰かに、いいように使われているのだろう。
 
 共感よりは、怒りや憎しみの方が、はるかに有用で何かを生み出すだろう。
 僕は冬は好きだけれど寒さが嫌いだし、暑さがとにかく嫌いなので、空調についていつも考えている。
 まぁ「いつも」というのは言い過ぎだ。
 そんなにいつもは考えていないかな。ガールとぱやぱやすることを考えている方がシアワセかな。
 ためにエネルギー効率がよく、結果的に環境性能も高く、さらには経済効率も高い熱交換システムについて考えていた(過去形。経済効率をもっと高めるヒラメキが欲しいところだ)。
 
 怒りや憎しみや悲しみは、孤独だ。
 誰かのそれに共感することはあっても、共感してもらうことはできないものだ。
 共感なんかされてはいけないし、させてはいけない。させるわけにはいかないものだ。
 
 では孤独に対する共感はどうかといえば、これもまた推奨されるものではない。
 孤独は大きな力になるものだ。その人固有の、力の糧だ。
 それに共感することは、少なくともその孤独に共感を表明してしまうことは、その人の孤独の芽を摘むことだ。だから電信柱の陰からそっと、熱い視線を送るしかない。バレたらストーカー扱いされるけれど、逮捕されてでも見守り続けるしかない(それはどうなのか)。
 
 共感は、ひとつ間違えば単なる馴れ合いになる。
 馴れ合いけっこう、馴れ合いの何が悪いのか、とも思う。
 同調圧力大いにけっこう、そんなものを蹴散らかすだけの孤独を秘めることができるなら、それこそ先に述べたその人ならではの力になるだろう。
 だから、共感そのものを否定するつもりもない。
 共感は素晴らしいといってもいいだろう。そのメカニズムをして経済や集団に悪用されなければ、なおさらいいと思う。
 
 ただ、共感と引き換えに孤独の魂を明け渡すことを、少なくとも僕ならしない。
 
 イマドキの若者たちが共感のためのヴァーチャルな価値観を主体とした仮想人格によって構成されているとするならば、彼らは仮想人格を使いこなす資質を育てていることになる。
 どうか正しく、本来の人格を陰に日向に育てて欲しいと思う。
 それによっていずれ、正しく「父性」と呼ばれるべき人間の資質が目覚めることもあるだろう。再生することもあるだろう。
 あるいは性差を持たない新しい言葉で「母性」や「父性」が、表現され、体現される日が来るだろう。
 来なければ、人間は滅ぶのだ。禽獣となって、互いを貪り喰い合ううちに。
 
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【「傷つく」の定義と父性】
 さても冒頭の「傷つく」ということの定義だが、彼らが恐れている傷とはすなわち、社会的抹殺そのものだろう。
 もちろん「社会」のサイズの大小はある。
 彼らは彼らの属しているリアル/ヴァーチャルなコミュニティの中で、自身の価値が他人と衝突し、勝敗はともかくとして、衝突する行為すら最終的に集団において自身の優位性を下げることに怯えているわけだ。
 そんなものは「社会」というほど広くない、という人もいるだろうけれど、人間にはその属する「社会」のサイズが変わるものではないか。
 そしてそれは、扱いきれないほど広ければ相互に何の役にも立たないものだし、狭すぎればお互いに手に余ることになる。
 
 会社の中でのコミュニティに迎合せざるを得ない、なんていう経験もあるのではないか(僕もある)。
 そしてもっと広く、日本国家において、あるいは世界の他の人種や国家と渡り合おうとする場面においてそれは、恐れている場合ではない傷なのだ。
 
 孤独のうちに生きようと思えば、傷は負う。
 誰かを傷つけることによって、自分の不義を思い知ることもある。
 綺麗事、ヴァーチャルな格好良さ、美しさ、矜恃だけを持って生きられたらどんなにいいだろうと思う。
 キリストの曰く「汝姦淫するなかれ」とある。

::「『姦通してはならない』と命じられたのを、あなたがたは聞いている。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも情欲を抱いて女を見る者は、その女に対し心の中ですでに姦通の罪を犯したことになる」とおっしゃいました。
 
引用元:

 
 この伝に従えば、僕はすでに無差別殺人を犯している。
 それどころではない。
 親を殺し、自らの一族郎党を滅ぼし、なんとなればヒトというヒトを滅ぼしている。それも何度となくだ。
 
 姦淫など、それこそリアルに数え切れないほどしているから、ヴァーチャルなそれを数える気になどならない。風俗店に行く趣味もない(お金を払うのが嫌なのではなくて、恋愛感情のない他人の身体に触れたり、触れられたりするのが、己の性欲を超えて嫌である)のに、この有様である。
 
 僕は僕が思う以上に、だから誰かが思っているよりはるかにそれ以上、自分が汚れていることを知っている。
 集団に適合せず、あるいは危険な因子と見なされうることを知っている。
 
 必然、僕は集団に迎え入れられない(ことも多い)。
 しかし僕は傷つかない。
 
 先の父性に話を戻せば、父性とはすなわち、自身が傷ついてでも負ったものを守ろうとする性質のことではないだろうか。
 いやもちろん、母性にだってそういう側面はあるだろう。
 しかし母性が直面するのは自らのファミリィに対して発露する能力であるのに対し、父性が直面するのはファミリィの外に対して発露する能力なのである。
 
 外に対して発露すべき能力を持つというのなら、そこで無傷のまま帰ってこようという方がそもそもおかしい。
 先に述べた「より広い社会」を負って立つということは、その外側に向かって発露する能力を有するということでもある。
 
 もともと父らしい父親を持たず、女同士のファミリィでキャッキャウフフしていただけの僕のようなイキモノが、父性だの母性だのを語るのも相当に滑稽なことだとは自覚しているのが、父親というものを社会が粗末にし始めた段階で、現状は運命づけられていたようにも思える。
 理想の父親かくあらんと感じさせるほど、日本を負って立つような政治家も、そうした背中を見せつける経営者も、あるいはインフルエンサだろうとカリスマだろうと構わないが、父性を感じさせる権力者がいなくなってしまった。
 
 共感の名の下に、自らの価値を傷つけられることを恐れるのは結構なことだ。
 しかし、それに怯えているだけでは、守りたいものができたときに満足に立ち向かうこともかなわないだろう。
 あるいは刺し違えてでも守りたいものとして、誰かに庇護された経験がないのだろうか。
 きっとないのだ、誰も彼も。父性というものがこの日本に失われてからというもの。
 
 顔が整っていて、身体のあちこち脱毛して、お肌の手入れを欠かさず、いい匂いのする香水を焚いて曖昧な笑顔を振りまく男が今どきの女に好かれるのは必然である。
 しかし彼らはけっしてお前たちを守らないだろうと、彼女たちは理解しているのだろうか。
 それとも、かつて男が女にしたように、醜い欲のヴァーチャルを投影して金を払った(あるいは股を開いた)対価に夢を見せろと命令し、支配するつもりだろうか。
 
 セックスそのものを除いては、この国はメスばかりになったのかもしれない。
 なるほど与しやすいのだが、それによって一体誰が得をするというのだろう。
 
 
 
image
<むん!>
 
 
 
 

// ----- >>* Escort Division *<< //
 
 
::これらを僕は「アタマオカシイ」と断じてしまうのだが、実のところ人格のないものにキャラクタを見出すのは、高度な人間の能力でもある。
 子供が人形を相手にキャラクタを設定してコミュニケーションするように、かつての社会では、それは幼稚なこととして忌避されていた。
 
 
 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭文末の引用は、
ヴァーチャル/リアルに漂う君たちよ。」From「青猫工場」
によりました。
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
 
[ Cross Link ]
 
 
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  工場長:青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫
 
[InterMethod]
  :Algorithm:Blood:Ecology:Link:Mechanics:Recollect:Stand_Alone:Style:
 
[Module]
  :Connector:Convertor:JunctionBox:Reactor:Transistor:
 
[Object]
  :Friend:Human:Koban:
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :青猫のひとりごと:ひとになったゆめをみる:夢見の猫の額の奥に:
 
 
 
//EOF