211027
※だらだらと思考を垂れ流すように書き連ねるために書き連ねたので、目的も結論もなく、長くて退屈な文章だと思われます。
※主に、ヴァーチャルとリアルの認識や、それに対する人間の振るまいと未完成な文化について思いを巡らせています。
実のところ、姉も妹も、どうやって僕が生活を成り立たせているのかを知らない。
(仮想奥様に養ってもらっていることを話すと余計に複雑になり、無駄に理解不能になるためこの説明は使えない)
姉をはじめ、知り合いからも「臓器密売をしている」「裏稼業の経理を担当するインテリヤクザ」「特殊詐欺の幹部役」「世界を股にかける殺し屋」などなど、どういうわけかマトモな経済活動を行っていないと思われていることがあるが、面白いのでそのままに放っておいている。
どのみち無職なんて、社会的にまともなイキモノではないようだ。
気持ちは分からないではないし、マトモなフリを装う趣味も必要もないから周囲の想像に任せている。
誰かのファンタジィを壊さないことは、ある種の優しさだろうと僕は思うので。
「何をしているか分からない」「もしかして闇社会に染まっているのでは?」と思われる人が、にこにこしながらのんびりぼんやり世間話をしている風景というのは、なかなか見ていて楽しいものである。
その人が躍起になって「実はこういうことをしています」なんて、ありきたりで庶民的な日常をつまびらかにしたところで、がっかりするのが人というものではないか。
だとすれば「さてどうでしょう。それより一般相対性理論を最近勉強しておりまして」なんて言う方がかっこいいではないか。
いずれにせよ社会的地位が高かろうと、相当マトモではない人も観察されるようになったこの国では、権力とお金さえあれば何でもできるのかもしれないし、仮にそうだとしたらその不自由な自由に甘んじたくはないと思う。
結局のところ、自由というのは孤独でなくして実現しない。
地位や権力というのは、集団や組織の中で意味を持つ単位だから、それによって手に入る力があるとすれば、結局それは不自由なのだ。
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姉はすでに余命宣告の期限を数年前に迎え、特殊な薬(治験薬だろうか)を日本で最も長く使用している治験体になっている。
痛み止めに利用している薬剤も最近最上位のものに変わったらしく、いつ死んでもおかしくない、というリスクは今まで以上に高いのかもしれない。
そういう人が身近にいなかった人にとっては、そわそわして落ち着かないことなのだろうけれど、本来的に(よく言われるように)人間というのは、誰だって、いつだって、死のリスクと隣り合わせではある。
ただたいていの場合、入浴して即死したり、乗っている飛行機が墜落したり、電車が脱線したり、ゴミ出しの時に熊に遭遇して殺されたり、ベランダで煙草を吸っていたら狙撃されたりする可能性が極めて低いというだけのことである。
子供の頃から「いつ死んでもおかしくない」人が身近にいたものだから、僕は他人の死や、そのリスクについてあたふたしない。そんなことをしても何の意味もないと思っている。
仮に重病で死にそうな人がいたとしても、それは決して可哀想なことではない。
たとえば障害者を見て可哀想だと思う人もいるだろうけれど、心身の機能が多少劣っているからといって可哀想だという価値観は、僕の中にはさほどない。
困っている人がいたら助ければいいだけのことだし、だいたいの人は自分が困ったときに助けを求めることができる。
他者に助けを求められない人も、その多くは ── 僕自身がそうだから思い込んでいるのかもしれないが ── 自己解決する能力を身に付けるものではないか。
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しかし長生きすることと、好き勝手に生きることは、なかなか相反する問題である。
長生きすることを至上とする人たち ── バブル経済の頃は広く見かけられ、社会的にも通念といえる状況だった ── は、好き勝手に生きることが即ち長生きすることに直結する。
手段と目的が完全一致するという点で非常に素晴らしいと思えるが「何のために長生きをするのか」という問いに対する答えが「長生きをするため」というのはいかがなものかとも思う。
ある種の暗黒時代を迎えたこの国において、人々はすでに長寿至上発想をやめ、経済至上主義から脱却しようとしているように観察される。
それなりに財産のある人でも、生命倫理に従って「ほどほどまで生きればよい」という傾向が見られるし、長く生きること、生かされること、さらにいえば長く生きる欲がことさら強い人と生きることの苦痛について人々は気がつき、あるいは体験している。
盲目的に死を忌避していたのは、国民の多くがそれだけ若かったからだろう。
戦中はときに自国の兵士に死を求めることさえしたこの国が、次に迎えた高度経済成長期において、死は戦争とともに追いやられた暗い記憶だったのかもしれない。
人々は働いて働いて働くことで生活を向上させ、国家を活性させることができることに喜びを感じていただろう。
まさかその成長の最中に、死の匂いを忌避しないわけもない。
個人主義と自由主義が輸入され、商品化され、国家の中でそのひとりひとりは孤立していった。核家族なんて言葉はもう聞かないし、これは Nuclear family(核兵器群)という意味ではないぞ。
バブル経済崩壊後も、経済の亡霊に取り憑かれたままこの国は進むしかなかったはずだ。
なぜといって、他に依るべき指針というものなどすでに失っていたはずだからだ。
ただし経済を発生させるために優位に成長したのは、個々人でも家族でもなく、経済という結びつきによってその組成を強固なものにしたありとあらゆる組織だったというわけだ。
人の気持ちよりも経済が優先される社会だったからこそ、利益追求型組織によって殺される人もいたはずである。
個人主義的な家庭や価値観の中で、人が家族に逃げる場所を見いだせるはずもなく、そういった人たちは経済を持たなければ負け、経済を持つために与した組織によって殺されたわけである。
(昨今流行りの「親ガチャ」という概念も、個人主義の悪い面であるように思う。私は私、子供は子供、という考えで親が我が儘に振る舞えば、子供は無力であるからそのぶん、非人道的なほどまで窮屈な思いをすることになるだろう。)
もちろん個々人の資質や能力はそれぞれで、組織の体質もそれぞれである。
相性が悪いなら僕のように組織をすぐに辞めてしまうのも一つの方法だ。
組織は個人の問題を何でも解決してくれるファミリィとは限らないのだから。
だからたとえ血縁の家族であろうと、相性が悪いなら(そして独立する能力を持っているなら)その袂を分かつこともひとつの手段である。
しかしそういった発想を持たない人もいる。
会社を個人の一時的な心情で辞めてはいけないという価値観はかつて当たり前のことだったし、経済なくして生きられないのもまた事実である。
(同様に、家族と絶縁することを忌避する考え方も分からないではない。そのままでいられたら、それはどんなに幸せだろう)
それでもいろいろな可能性を、どうすればもっと自分が快適でいられるかを、与えられている選択肢の外まで考える能力を、本来は発揮すべきなのだろう。
残念ながら組織や集団というのは常に、そこに属する者をある種の盲目にする。
皆がバラバラでは結束のしようがなく組織として成り立たないため、それは必然ですらあるだろう。同じ目的を共有する者が、集団を形成するのだから。
一方で、異分子を過度に排斥するような組織が強権を握り、周囲を窒息させることによって結果的に自身の寿命を縮めてきた。
捕食が過ぎれば生態系のバランスが崩れて捕食者が餓死する、というのは生態系における恒常性の基本であるが、きっとそうした組織は盲目なのだろう。
おそらく日本で衰退した多くの企業は、そうした性質の活動によって自身の首を絞め、市場での優位を失ったのだろうと思う。
今や経済活動も分散型になり、中央集約型はごく一部を除いて、ときに危ぶまれるべき泥船のような存在になっているようにさえ観察される。
娯楽も同様に分散型になり、ためにTVプログラムはチャンネルの数を増やしてなお大衆の娯楽の中心ではなくなり、旧来の仕組みにしがみついている人たちの居城は脆く崩れようとしている。
── 姉の家でTVを見るたびに、ネットでの話題がわざわざニュースで取り上げられていてうんざりする。ネットでTVの話題を見るのと同じくらい、無意味に感じるのだが、あれが有用な人ももしかしたらいるのだろうか。
地震などの大規模災害があったときに、やたらと「絆」だとかという言葉が飛び交っていた。
もちろんそれは日本人の美徳のひとつだろうけれど、ときに「しがらみ」にもなるそれは、多くの人が嫌い個人主義へ向かっていったことの根源でもあるのだ。
自己と他者の「つながり」についてそれでも人は模索を続け、たとえばweb上では、個々人が物理的拘束にさほど左右されずに結びつくことが可能になった一方で、それを悪用した犯罪も目立つようになった。
僕はSNSを利用していない(その上、SNSでやりとりする友達も恋人も家族もいない)ので、あまり知ったふうのことはいえないが、10年ほど前からすでにwebは窮屈な場所として感じられるようになっていた。
たとえばそれは20年ほど前にTVがつまらなく感じるようになったのと同じものである。
ようやく社会的にもwebが不自由な場所だと認識されるようになってきたようではあるが、利用を最小限にするのではなく規約や規制によって統制を図り、安全性を確保しようとしているように見える。
結局のところそれは、TVが娯楽として楽しくなくなったことにもそのまま通じている。
社会や人間関係そのものが、規約や規制によって統制を図り、安全性を確保しなくてはならないものに変化してしまったかのように。
もはや恒常性は神話でしかないのかもしれない。
かつて規制によって一定の秩序が集団に作用するようにできていた。
集団の中でトップダウン的に出された指針によって、組織は一定の働きをするようにできていた。
放送局と視聴者は、その(どちらか一方ではない、両者という)集団において個人主義的な価値観が行き過ぎた結果、一部の一意的な善意によるクレーム対応のため規制を強めるよりなくなったり、あるいは一方的な目的意識によって発信側に問題行動が発生する(倫理的な問題がある場合はもちろん、実際に倫理的な問題はなくても、発信側の行動が視聴者に問題だとされる)こともあった。
後者は特に抽象的に感じられると思うが、例えばいわゆる「やらせ」と呼ばれる捏造行為であるとか、「このあとスタッフがおいしくいただきました」というテロップを必要としたりといった「手法」のことである。
またドキュメントとエンタテインメントを(おもに出演者の人間関係や感情の長期的な変遷 ── 主に恋愛感情 ── などをコンテンツとして)混合したような番組では発信側の予期しない展開そのものが本来はコンテンツであり、それが結果的に視聴者の反応(主に不快感)を制御不能なレベルにすることもあったように観察される。
結局のところ、不特定多数に向けたエンタテインメントはすでに成立しないのだ。
出版物にしても、かつては発行100万部を超えてベストセラーと呼ばれていたものが、最近では数十万部でそう呼ばれている。そのくらい、人々はその興味も関心も分散している。
それをひとつのテーブルやメディア、コミュニティに集約することは、それ自体が前時代的なありようなのだと思える。
お茶の間に自宅の家族はおろか近所の人まで集まってTVを観るという文化は、その価値観も倫理も絆もすでに失われたのだ。
そのうえ、多くの娯楽がインタラクティヴィティを持つようになっている。
発信者側が組織や集団であったとしても、結果的にコンテンツを楽しんでいる人間がそこに個人を見ている場合、一部の(僕の言葉では「アタマオカシイ」とされる)人にとってはあたかも友達のように文句を言う相手になってしまう。
直近の例では「これまでオリンピック開催に否定的だった番組(あるいはコメンテータ)が、急にオリンピック開催に肯定的かつ積極的になった」というクレームを見ることもあった(とくにwebで、だったろうか)。
TVプログラムは個人ではない。
そこに登壇して発言する人も、それがキャスタであれ、ホストであれゲストであれ、あるいはディレクタやプロデューサであったとしても、カメラの前で発言している以上は個人の皮を被った出演者に過ぎない。
個人の意見や思想を公共の電波に乗せるのは、それが目的になっているときだけだ、という当たり前のことを理解できない人は、放送局や番組構成チームといった組織や集団の存在を忘れ、無視している。そしてそれらの集団には人格(権利義務主体としての人格ではなく、価値観の集合によって個人と見なされるべき対象)が存在しないにもかかわらず、勝手にそこに個人を投影してしまう。
これらを僕は「アタマオカシイ」と断じてしまうのだが、実のところ人格のないものにキャラクタを見出すのは、高度な人間の能力でもある。
子供が人形を相手にキャラクタを設定してコミュニケーションするように、かつての社会では、それは幼稚なこととして忌避されていた。
当時の社会の中で、インタラクティヴィティを持つのは実在する人間とのダイレクトなやり取り(対面/電話/手紙など)によるものだけであり、そうでないヴァーチャルなすべては現実世界で何の役にも立たないものとして馬鹿にされてさえいたのだ。
ためにTVゲームはただの遊びと見なされ、アニメや漫画も芸術よりは格下の単なる娯楽として扱われていたわけだ。
今では漫画やアニメが芸術として認められ、TVゲームがエンタテインメントとして、あるいはスポーツとしてさえ認められるようになった。
同時にヴァーチャルなものさえインタラクトできる対象になった。
実在しないキャラクタが声を持ち、歌を歌い、実存しないモデルを人はリアルタイムに演じ/それを観ることが可能になり、それらはエンタテインメントとして成り立っている。
(参照:Vocaloid / Vtuber|いずれも Wikipediaへのリンク)
人間の人格認識能力は、かくして過剰に発揮されることをよしとされるようになり、経済がそれを後押しした。
結果として、人間は過剰に個人を見るようになったといえる。
ヴァーチャルが個々人のアタマの中に投影されてヴァーチャルでなくなるとき、実のところそれはリアルを超えてしまう。
とくにヴァーチャル慣れしていない人ほど、ヴァーチャルを脳内投影した結果、暴走しがちだろうと思われる。
これは実証を集めていないのでなんともいえないのだが、恋愛経験が少ない人ほどストーカーになりやすいことに似ているのではないかと考えている。
経験の少なさや、視野の狭さは、結果的に過剰な想像力を増長させる。
通常ならば、経験や広い視野によって、現実的な範囲内に想像力がセーブされるはずが、それらの不足によって制御を失い、過剰なままの想像を現実世界に投影することになる。
これは社会経験や対人経験のすべてに共通していて、それらに憧れる人もそれらを嫌う人も、経験していない人のほうが想像によって過剰な意味づけをしている。
たとえば僕は基本的に人見知りではあるが、人と会わないときの方が人と会うのが怖くなり、会いたくなくなるのだ。
定期的に人と会っていれば、その過剰な恐怖心は抑制される。
それは正しい「他人の像」を認識できるからだ。
就職も同様で、僕は最初、就労するのを過度に恐れていた。
恋愛だってセックスだって同様である、最初は怖くて仕方なかった。
未知のもの、未経験のこと、他者が関わる全てのことは、怖くないわけがない、というのが僕のスタンスである。
未知のもの、未経験のことについて、適切なスケールでそれを把握できる人のほうが少ないだろうと僕は思っている。およそそれは不可能だ。
また他者が関わる場合について、十人十色の言葉の通り、絶対の答えなど存在しないのも事実だ。
たとえばどんなにwebや書籍で情報を集めたとしても、実際にそれを経験することによって得る情報とは雲泥の差があり、求めた「正しさ」が具現するとは限らない。
俚諺にも「過ぎたるは及ばざるがごとし」というではないか(そっちかい)。
そして、たとえばアイドル歌手のファンが、自分を特別視してくれていると過剰に思い込むことは異常だと自覚できる可能性が高いけれど、相手がヴァーチャルな存在であればそもそも相手は人間ではないのだからどのような隠された設定を脳内でしたところで問題になることもない。
こうした現象が現実世界ですでに齟齬を生んでいる。
たとえばある Vtuber(Youtube そのものもあまり見ないので名前も忘れた)がIRLの日常風景を撮影して撮影された現実世界の手について、視聴者から「(そのキャラクタは)そんな手じゃないだろう」とクレームを付けられたりすることもあったそうだ。
先の「TV番組としての意見」というものも、視聴者の勝手なイメージである(一方でクレームを付ける側は真剣である)。
不特定多数を相手に経済活動をする中で、ちょっとした発言で炎上したり、不祥事で活動停止に追い込まれるのも、個々人に投影されたイメージが過剰に保護されている結果だろう。
綺麗で完璧なものがあると思うこと、思い込むことは決して悪いことではないと思える。
しかし本来的に綺麗でも完璧でもないものにそれを投影できる時点で相当ファンタジィでハッピィな脳内だろうとは想像できる。
それが行き過ぎれば、自分の想像したキャラクタだけが絶対的なものとなり、自身の設定を侵す行為は許されない、ということにもなる。
この「脳内でヴァーチャルが過剰成長する」現象は、ヴァーチャルな存在には留まらず、結局のところ自分以外の全てに投影される。
過剰な想像力を制御できない個人は、TVプログラムに人格を見出して発言に一貫性を求め、SNSの有名人を古くからの友人であるとか学閥の後輩か何かのように扱おうとする。
もちろんそうした人は極めて少ないけれども、脳内に投影されるヴァーチャルな風景を「自分が作っている」と認識できない幼稚な知性は確かに存在していて、その過剰な想像力は社会にとって危険な因子として作用することもある。
かくいう僕も想像力が過剰なほうであるから、自分の確固たる人格がないのをいいことに人格を分離させている。
極端なことをいえば「殺人はよくない」という僕がいるかと思えば「殺人も致し方ない場合がある」という僕もいる。
「自然環境の汚染を防ごう」という僕と「なあにかまうものか」という僕は同じ肉体にパッケージされていて、その時々の場面にならないと(蓋を開けてみないと)どちらに転ぶか分からない。
SNSはほとんど使わないけれど、ゲームをするときによく使う人格もあり(それは女性であるが)僕はその人格を使うことをとても楽しんでいる。
僕が異常な行動に走らないのは「正しいかどうかは僕が決めることではない」と思っているからである。
他者の言動に正しさを求める正義感は、決して悪いものではないとは思う。
けれども一意的な正しさを他者に強制するとき(昨今のニュースやコメントではよく見かける風景になりつつあるが)それは一線を超えると狂気になり、どういうわけか人はヴァーチャル(あるいは「匿名性」と言い換えてもいい)の中で独善を暴走させる。
いやなに独善の暴走なら僕だってする。
しかし誰かにそれを突き付け、突き刺すようなことはしない。それは暴力だ。
それをされたことのある人なら知っているだろう。あれは無駄に痛い。
僕はSNSをせず、ブログも目立たないように、読者が増えないように工夫している。
不特定多数のシンパを作ることは(たとえそれが経済活動であるとしても)もはや危険なことでしかない。
極論から入りたがる僕はちょっとしたことですぐに炎上しそうだし、誰に問題視されることもない無難なコンテンツなら作る必要はない。
思ったことを思った通りに表現して、それがきちんと受け入れられる場所は、web上でもヴァーチャルの中でもなく、IRLの、つまりは足で歩いて手で触れられる人間たちのコミュニティにこそある。

