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TITLE:
今日は正しさについて語っちゃうゾ!(キモチワル)
Written by BlueCat
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250621
いや、たまには、ね。こう、肩に力を入れず普段のように話をするのもいいかなぁ? そんなアタシってどうかなぁ?(キモチワル)
って思ったんだけど、そもそも読者がいないのがこのブログのいいところであってね。
それでもやっぱりモニタに向かって、キーボードに手を載せて、いざ「思ったことを書くぞ」なんて思うと、ちょっと身構えちゃう。
そんな日があって、そういう部分があって、そんなあたしがいる。きっと君もそうだよね(キモチワル)(本日3度目)。
でもまぁ、もう流石に、私の日記ごときで心をかき乱される、なんて人は(見て)いなかろうし、そういう未然の脅威に身構え続けるのもどうかなぁ、と思ってね。
見えない観察者に対する緊張感というのは常にあるわけです。
そりゃWeb上でものを書く人すべてに言えるでしょう。
職業作家とかの話ではなくて、そう、我々一般人でもね。
SNSなんて、裸で街を歩くようなものですよ。
「○○が好き!」「○○は滅びよ!」なんてことを不特定多数に発信するなんてね。そんなこと、私にはできないからずっとしていないのだけれど(ホントか?)。
だってそういう日常生活に密着した、自分自身の本当の気持ちとか価値観って、共有できる人が少ないのが当たり前で、あるいは共有できる人が(少数であれ)いるからこそIRLで話す意味があるわけで。
僕なんかは不謹慎だから「介護なんてめんどくせー」「自分が呼吸するのもめんどくせー」「可能なら自殺したい」「余命は15年を切っています」って、正直に言ってしまうんですよ。IRLで。
ちょっと知り合った人であっても、そのときの何らかの話題で、意見や同意を求められたりすることもあるわけです。
「長生きした方がいいよね」とか「この間はご不在でしたけれどどうしました?」(介護で出掛けていました)とかね。
無論、僕より長生きの人からすれば僕はまだ若いのでしょうし、僕より若い人からすれば「まだまだお若いですよぉ」なんて、オマエら老いや若さの何たるかもろくに考えてないくせに偉そうに高説ぶちやがって、アナタにアタシの何が分かるっていうの? って……思っちゃうんだよねぇ(苦笑)。
いやでも僕はね、もちろん彼ら彼女たちの価値観を否定はしないよ。だから僕より年配の方(ほう、ではなく、かたと読んでね)が、あるいは若い方(ほう、でもいいけど、かたと読んでね)が、僕をして「まだ若い」「生きていればいいこともある」って言っても、それはそうだと思うんです。それは間違ってなんかいない。
では僕の価値観、僕の認識が間違っているかというと、まぁ……仮に間違っているとしても、捨てたくないんですよね。
ときどきいるところの「まだ使えるから捨てたくない」っていう、モノ溜め込みオジサン・オバサンじゃないんですが、価値観は何一つ捨てたくない。
今まで生きてきた中で、そりゃ失敗もしたし、人に褒められるようなことばかりしてきたわけじゃない。
不意に「通り魔殺人衝動」が発生したことさえある ── カミサマに誓って、今まで生きてきて一度だけですけれど、やはり嘘を吐く気にはなりません ── から、僕は、世俗の騒ぐ事件を見るたび「あれはいつかの自分じゃないのか」って、すごく、悲しいような、苦しいような気持ちになることもあります。
それでも自分が間違えたという足跡を、自分くらいは大切にしていいと思うんです。べっべつにアンタに見てほしいとかじゃないんだからね!(本心です)
どこかの作家も言っていましたが、恥の多い人生を歩む人もいると思うし、僕はそのタイプでしょう。
恥のない人生にも憧れますが、取り返しは付かないし、来世があるなら畜生がいいですね。税金取られないし。
それにまぁ、味わいの深さ豊かさで語るなら、恥はないよりあった方がいいように思います。
だからいい人生(あるいは猫生)だったなぁ、と振り返るに思います。
あ、ちなみに今日は特に目的もないし結論もないし、議論したい話題もないので、そういうのを求めてる人は、まぁ、Webニュースのコメント欄でも見ていると楽しめるんじゃないかと思いますよ。
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それでWebニュースとかで時々ね「厳罰化を……」ってすぐ言い出す人がいるじゃないですか。
そりゃ結構だと思いますよ。
でも、すごく考えが浅いんだなぁ、って。そう思っちゃう。
もちろん言い出した人はそれで正しいんだと思っていると思います。
つまりその人にとって、罪が重くなれば重くなるほど、その犯罪に手を染める人が全体では減る、っていう認識があり、そういう価値観で生きているわけですよね。
でもそれって、とっても怖いと思うんです。
なぜってその人自身は罰が軽くなったり、あるいは罰がなかったら、どうするんでしょう。
僕はよく「男は殺せ! 女は犯せ!」って言っていますけれど(IRLではまったく思ったこともないので、Web上で、だけね)、僕がそれを「本当に」しようと思ったら、刑罰とかそういうのは関係なしに実行するんですよ。だってそれが正しいのだから。
でも僕は嘘ばかり書くから、男を殺したいわけでも女を犯したいわけでもないのに「丘海賊キャラ」という(自分で作った)謎設定を押し通すために、そんなことを書くわけです。
罰があろうとなかろうと、それは僕にとっては正しくない。だから僕はそれをしない。
他の人はどうかと考えた場合、まずは僕を基準に考えるしかないから、やはり皆「自分が考えて正しくないと感じたことはしたくない」と思うと思うんです。
それでも衝動的に幸せそうな他人を殺したくなったり、色欲に理性が圧倒されちゃったり、金庫の中の金塊をポケットに入れちゃおうかな、って思うときが、あってもいいと僕は思うんです。
つまり例外的な欲求 ── 衝動って、瞬発的な欲求です ── が発生して、それで自分の自我というか、自意識というかが、大きく揺れ動いちゃうことがあっても、ね。
もちろんそういう「他者を害する/害しかねない衝動」は、ない方がいい。それはそうです。
でもその一方で、そういう衝動があって、その衝動に突き動かされて、仮に一歩手前のところまで行動してしまったとしても、それでも未然に防げる人は多いと思うんです。
単純に言えば「ああ。正しくないな」って自分で気付けて、自制できる人の方が多いと思うんです。
絶対に、圧倒的に多い。
そりゃ僕なんかは悪魔と取引をした憎悪の化身よろしく、人を憎んだり呪ったりなんて抵抗なくしますよ、ええします。しますとも!
それじゃあ、ひもすがら、人を呪って呪って、憎んで憎んで、ホームセンタでバールやロープや釘やハンマーを買って……なんてしますか? できますか?
僕にはそれはできない。
人に対する怒りや憎しみは、たとえその対象が個人であったとしても、所詮は感情ですからね。
その感情を「悪いものだ」って捨てる気にはならない。
先に述べたように、それも僕の大切な感情です。押し込める気もなければ、人にひけらかす気もない。
ただ自分のものだから「そんなものはないよ」って、嘘を言いたくない。自分の認識の上でも無理に隠す気はない。
ではだからといって、実行しますか、って自問しても、やっぱりしませんよ。
それは憎しみの対象を物理で攻撃して生命を沈黙させるとして(多分、とっても気分は良いでしょうけれど)それが法的に罰せられるから、ではなくて(とっても気分が良くても)正しいことではないから。
気持ち良くても道ならぬことだから、です。
憎悪の対象たる人や行為があったとして、そういう行為をする人は、そういう行為をするだけの権利(自由)が、やはり同じようにあるのだと僕は思いたい。
たとえば通り魔殺人があったとする ── もちろん、ない方がいいに決まっていますが。
でもそのとき、その人は、とうとう自身の「正しさの声」が聞こえなくなっちゃった人なんだろうな、と思うのです。
「良心の声」といってもいいでしょう。
実際にそうした大掛かりな不正行為を実行しようと思えば、いくつものハードルがあり、ステップがある。
僕は通り魔の衝動とは別に人を殺そうと思ったこともあります(ちょっとした問題発言です)が、どんな道具が必要か考えたり、手段をどうしようかと考えたり、接触手段や経路を考えたりと、なかなか忙しいんです。
で、そういうことを現実的に考えると(僕の場合はすぐに)我に返る。
多分、みんなそうなるんじゃないかな、って思うんです。
もちろん「誰を憎んだこともない」という人が多い方がいいけれど、人を憎んではいけない、という拘束力は、結局無自覚な憎悪を人の意識の陰に作るんですよね。
憎いけれど、憎んではいけないという、二律背反みたいな状況が「すべての人を愛する私の知る私」と「すべての人を憎む私の知らない私」という二人の人格を抱えるようなものです。
だったら最初から憎めばいいし、憎んだ自分も認めてあげればいい。憎んで憎んで、それで晴れる気持ちもあるでしょう。
その気持ちを無理に殺す必要はない。だから同じように、ほかの誰かを殺す必要もない。
筋が通っているというのは、そういうことでしょう。
憎んではいけないと自身の気持ちを「正しさ」で殺しているから、誰かを殺したくなっちゃうんじゃないかと思うんです。正しさで。
だとしたら「正しさ」で殺さず、邪悪に染まって、それで自分で我に返るところまでがひとつのセットであれば、それでいいと思うんです。
実行しちゃったらアウトなので、実行しないで欲しい。
でも実行スレスレのところ、誰かを害する直前のところまでは踏み込む権利があるし、踏み込んで引き返す価値もあると思うんです。
危険だからしない方がいいし、そういう権利を行使したくなるような状況にならないのが一番良いのですが。
「一線を越えてしまう」のは結局、その人の性質だけじゃなくて、環境や社会がどんな状態か、という中で醸成される気がするのです。
「正しさ」を意識しすぎている(そうしてきた)からこそ、道を外しちゃう人も中にはいるんじゃないかな、って。
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厳罰を望む人は「正しい」側にいるのだと思います。
おそらく一生「そちら側」にいられるのだとしたら、それは幸せなことです。ずっとそのままでいてほしいし、そのままでいられる社会であってほしい。
一方で、その思想は「罰が軽かったり、そもそも罰がないなら、自分もそれをする」という潜在的な価値観を投影した意見でもあります。
彼ら彼女たちは「罰さえなければ」猛り狂うケダモノのように振る舞う自身の価値観を肯定している独裁者かのように思えて、だから僕は怖いと思うのです。
罰がより重くても、人は自身の欲求を「正しいもの」「悪いことではないこと」と認識している場合、それを実行します。
通り魔殺人だろうと、詐欺だろうと、強姦だろうとパワハラ/セクハラだろうとテロだろうと、加害者にとっては「必要なこと」「正しいこと」なのです。
眠いけれど朝起きて、面倒だけれど仕事や学校に出掛けるように、仮に死罰が相当しても「必要」あるいは「正しい」と判断された場合には、その行為は実行される。
そしてその「必要」と「正しい」は、理性とは別のところ、その人の人格や普段使っている価値観とは別のところで判断されてしまう可能性もある。
ひとくちに厳罰化を望むという人たちを浅慮だと思うのは、そういう理由です。
彼らは「正しさ」について、自身の思う「正しさ」しか知らない。あるいは考慮しない。
正しさって簡単に歪んでしまうから、戦争を仕掛ける国には仕掛けるだけの正しさがあることを理解しようとしない。
べつに特定の戦争における、特定の国家を擁護しようというわけではなく、いかなる時代のいかなる戦争も「よくないな」と思いながら始まったものなんて、きっとない。
人殺しも強姦も人身売買も搾取も、仮に欲から発生したのだとしても、それを「正しさだ」と錯誤するシステムが人間には備わっている。
人間は、自分の立ち位置にとって都合のいい理屈を「正しさ」と認識する、それだけのことなのです。
だから「本当に正しい道筋はどこなのか」と、その場面場面で考え続けるとき、ほんの一筋、微かに光る隙間が正しさだったりする。
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「正しさ」って突き詰めると、ヴィーガンみたいになっちゃうんです。
ヴィーガンの人がいたらごめんなさいね。それは崇高な倫理で、正しさだと思うのです(私はそれを否定したいわけではありません)が、人間からケダモノの領域を排除したあとに残る倫理観のように思えます。
なるべく人間以外のイキモノに対してもその権利を尊重した、そういう生き方をしよう、という思想だと私は思っています。(ファッションみたいな食生活を指しているものとは思っていません)
すごく正しい、のだけれど、それで病気になって死んでしまう人もいる。
つまり自身の健康を維持できなくなる人もいる。それは自身の正しさで自身を殺しているのと同じです。
生きる正しさがあって、死ぬ正しさがある。
これは生が死への過程であり、死が生の結果である以上、どちらも同じことを言っています。
正しくあるために生きるというのは崇高ですが、それはときに周りも本人も苦しい。
経済や価値観の摩擦や、人が生きるという本質的な疑問に対して、苦しいビジョンしか提供できない可能性がある。
それでも正しいんですよね、ヴィーガンって。
もっと広く「ゆるヴィーガン」みたいな感じの文化が広まればいいのにな、って思うくらい。
その正しさを僕なりに理解して(そしてなるべく実行しないで)いると、やはり自分は「正しくはいられないし、正しいと思うなんておこがましい」とは思います。
僕は人こそ殺しませんが、家畜を間接的に殺します。魚も殺します。間接的かつ長期的に鶏に不遇な死を強要していることでしょう。
この正しさの境界線を、よりアウトロー側に寄せていけば、人間も ── 他人なら ── 有用なリソース(あるいはそれを入手する手段)として殺すようになる。それが正しさです。
そしてより善良な倫理に寄せていって、そのギリギリをチキンレースのように攻めているのがヴィーガンのように思えるのです。
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僕は精神的潔癖症がとても強い人間だった(過去形)なので、こうした思考に慣れ親しんでいます。
何が正しいのか、何が善良なのか。
ただ悪徳を憎むだけではなく、あたかもその悪徳について寄り添うように、その悪徳の中にある正しささえ(現実世界に存在する他者に害を与えない範囲で)価値観として集めていたい。可能なら体験したい。
でもそうやって「正しさ」のパターンを拾い集めることは、とても精神的にはキツい部分もあるんだろうな、って(他人事のように)思います。
なぜ他人事のようになるかというと、僕には自分の精神が、具体的にどこにあるのか分かりません。
なんというか感情や気分がすぐれないことはあっても、必要なことに対して身体を適切に動かすことはできるし、感情や気分を制御することもできる。
みんなそうでしょう。
眠いけれど会社や学校に行き、怒っても仲直りをし、面倒くさくても他の人に親切にする。
どっちが自分か、なんて切り分けて考えようとする僕のようなイキモノにとっては、苦痛ですよ。
どちらも自分だとしたら、どちらも自分ではないかもしれないわけで。
肉体も同じ。
みんな自分の身体について「私のものだ」みたいなカオをしていますが、本当にそう思っているのだとしたらすごいな、って思います。
僕もこの身体しか知りませんが、ずいぶん勝手が悪い。設計が悪いと言ってもいいかな。
べつに死んだ親に不満を言いたいわけではありませんよ。
ただ複雑すぎる。
広く一般に語られるのとおなじメカニズムを完全に再現できるなら良いのだけれど、皮膚粘膜さえ弱いために、頻繁に不調を起こす。
たとえば僕は他の人と同じものを同じくらい食べて、他の人と同じように活動できないカラダなんですね。
では他の人が僕と同じようにすると、低血糖を起こしたりする(驚きの低燃費、かつ低出力です)。
100年も前なら生後数ヶ月で死んでいたであろうはずなのに、結局こうして生き存えている。
死ぬはずの遺伝病も、時代背景によって延命制御に成功している。
肉体の方がよほども制御できなくて、子供の頃から難儀しています。手足も不如意ですし。
だから私は自分の価値観や人格を使って、エミュレートするように、正しさや倫理や良心を体験しています。
結論付けるとして、邪な気持ちを抱え続けるくらいなら、善良な方がやはりよいですよ。
でも生きることは論理じゃない。だから善良とばかりにいかないときもある。それも体験したから分かるのです。
褒められるような生き方だけしてきたわけではありませんからね。
「正しくあること」って、いいことだけれど、それだけを突き詰めると息苦しいっていう、まぁ、それだけの話ですね。
また同じ話をしてしまいました。
<醜い野良猫は死ねっていう正しさもあるし、野良猫を救いたいっていう正しさもある>
>>>
ところでWebニュースでもそのコメントでも「正しさ」については皆が語るのに、「良心」については誰も語らないのはなぜなんだろう、って最近思います。みんな忘れたのですかね。
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[NEXUS]
~ Junction Box ~
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[Engineer]
:青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
[InterMethod]
-Algorithm-Blood-Darkness-Ecology-Engineering-Interface-Kidding-Life-Link-Mechanics-Moon-Stand_Alone-Style-
[Module]
-Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-Transistor-
[Object]
-Camouflage-Human-Poison-
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[Cat-Ego-Lies]
:青猫のひとりごと:
:夢見の猫の額の奥に:
:Webストリートを見おろして:
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