// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:250616
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
「ノー」と言える日本はどこに行くのか。
SUBTITLE:
〜 Spirits, or Spirits? 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
250616
 
 2週間ほど寝込んでいたが、少し体調が良くなったので30分ほど外作業。
 草刈りをしたいので、草刈り機に取付ける樹脂刃(削れやすく高価)を保護/強化するための金属刃の工作である。
 100円ショップの金属ブラケットを加工して作るのだが、最近は(100円ショップの)ブラケット金具も高騰しているらしく、パッケージされている個数が減った。
 ブラケットなんて色んな種類を大量に持っているに越したことはないものなので、少々残念ではある。
 とはいえきちんと強度の欲しいL字金具などはホームセンタで買うのだが。
 
 ちなみに先日ガールと100円ショップに出かけた際(彼女は僕のブログを読んだことのある人だったのだが)そもそも100円ショップで買い物をすることに少し驚いている様子だった(口に出さなかったが、そういう空気を感じた。もちろん勘違いかもしれないが)。
 おそらく「100円ショップで買い物をするのはあまりよろしくない」というようなことを以前にも数回書いたことがあるから、それを目にしたことがあるものと想像する。
 
 たとえばだが煙草は身体に悪い。これは純然たる事実である。
 一方で僕は愛煙家なのでヒュミドール(調湿箱)も持っているし、シガレット/パイプ/葉巻/煙管を愉しむ。
 吸っている時間より、手入れや喫煙の準備に掛けている時間の方が多いような気がすることもある。
(とくにパイプや煙管は喫煙具の手入れが必要である)
 
「100円ショップで買い物をするのは日本経済にとってあまりよろしくない」と考えている事実と、僕が100円ショップで買い物をするという事実は、そんなに驚くほど相反するありようだろうか。
 だとしたらいいな、と思う。
 僕は自分が矛盾している(ように観察される)ことを、一貫して筋が通っている(と評価される)ことより良いと認識しているためである。
 
 ところで100円ショップで1,2を争ってオススメの商品があるとすれば「アクリルたわし」である。
 たいだい食器洗いスポンジにほど近い場所に置かれているものなのだが、当然、食器洗いに使う。
 1つ100円なので割高に感じるかもしれないが、洗濯することができる。なので何度となく清潔な状態で使える。
 
 僕は食器洗い用とシンク洗い用を用意しているほか、野菜の洗浄/皮むき(人参やジャガイモやゴボウ)にも使っている。
 水洗いしながら皮を剥くのでピーラより早く薄く剥ける上、使い終わったら洗濯するなり食器洗い用にするなり自在で非常に便利である。
 予備も含めると6個くらいは常備しているだろうか。
 なのでここ数年、食器洗い用スポンジというものを買ったことがない。
 
>>>
 
 かつて日本人は「ノー」と言えないと評判だった。
 それはそうだろう。
「一億玉砕せよ」と言われて「えー?」とか「それはちょっと」と言うことが許されない、全体主義的な文化/歴史の延長線上にあったからだ。
 
「国のために死ね」と言われたら「ハイ喜んで!」という、ちょっと元気の良い居酒屋みたいな返事以外は認められなかった。
 上からの圧力もあり、同調圧力もあり、結果、圧力は下方に排出するしかない。そういう文化だったのだろうと想像する。
 
 なので最近の世俗は、のどかな風景にも思える。
 皆が「それは違うんじゃない?」「そういうのは嫌だな」と言い合っているからだ。
 これは「言いたいことも言えないこんな世の中じゃ POISON」みたいな状況よりは健全な状態だと言えるだろう。
 
 しかしすべての人が「嫌だ」と思っていることに対し「ノー」と言える環境が整っているかというとそういうわけでもない。
 文化というのは連綿と、ときに明文化されないまま承継される。
 全体主義的な思想や文化が必ずしも悪いものだとは思わないのだが、その思想は「全体という他者に対して自発的にリソースを提出する」という場合に最大の効果を発揮するものであり「全体という他者に対してリソースの提出を強制する圧力」の根拠とするべきものではないだろう。
 これはおなじみ「一日為さざるは一日食わず」と「働かざる者食うべからず」の違いと同一のものである。
 
 にもかかわらず人は「その思想が正しい」というたったそれだけの理由で、他人に強制する許可を自身に与えてしまう。
「人に暴力を振るってはいけない」という思想は正しいが、それを他人に強制することがいつも正しいとは限らない。
 たとえば話し合いが通用せず、逃げることも不可能で、にもかかわらず自身の生存を脅かされるような状況であれば、暴力を振るうことも1つの手段として考える必要がある。
 
 では「暴力は状況によって使うことも選択肢に含めるべき」と、他人に言い含めることだろうか。
 僕はそうは思わない。それは僕の持つ思想であり正しさでしかない。
 
 僕より10年くらい年下の世代(およそ1990年までに生まれた人たち)の多くは、結局のところ全体主義的な同調圧力による正しさの強制を受けてきたのではないかと想像する。
 彼ら彼女たちの親が、まさしく「『ノー』と言ってはいけない価値観」によって圧力形成されてきたからだ。
(もちろん「多く」であって「すべて」ではない)
 
「嫌だ」「ノー」と思っていることに対し、そのように表明できないコミュニティは悲惨だ。
 その場の支配者、強制する側なら楽なのだが、隷属し、強制される側にとっては地獄のような場所だ。
 
「嫌だ」と言ったとき、相手にそっと手を引いてもらえる優しさを、僕は知らない。
 
 ……いや。そうでもないか。
「シュレディンガーの仔猫」の母親、かつての僕の恋人は、そもそも僕の嫌がることをしなかった。
 半年や一年くらいなら誰でも努力次第でできると思うのだが、十年のあいだ一度も、となると尋常ではない負担を掛けていたのではないかと今さらながら心配になるほどである。
 
>>>
 
 卑近な例になるが、僕の家庭は「ノー」と言えない場所だった。
 父の言うことに対して口答えすることが許されず、度が過ぎれば(つまり当人が気に入らないと思えばその気分次第に)殴られていた。
 母も姉も同様に殴られていたので(嗚呼、私もいずれはそうなるな)と思っていたところ、そういう自意識が僕に備わる前に一家は離散した。
 
 離散ののち長女は独り立ちし、ほどなく不遇の次女が未成年のうちに家を飛び出し(姉の名誉のために付け加えておくと「出て行け」と言ったのは父である)、数年後には放蕩の三女の爛れた性格が矯正されないまま家を送り出した(三女は全寮制の定時制高校に進学し、数年後に中退して以降10年に一度くらいしか顔を合わせなくなり、やがて失踪する)。
 
 父の名誉のために付け加えておくと、一家離散から10年ほどのうちにずいぶんと考えを改めたようで、結果、僕は一度として殴られたことはなかった。
 もちろん僕が口答えをしなかった為でもある。
 また口にこそ出さなかったが、彼にとっては「待望の長男だった」という理由もあるようだ。
 
 ことさら意識したことはないが、僕もまた「ノー」と言えない性格に育った。僕の言うところの「圧力形成」である。
 実は父が悪いとも思っていない。彼もまた、親の世代や社会から「そういう価値観」に染められた被害者に過ぎないからだ。
 
「彼ら」のロジックは比較的シンプルだ。
「口答えするな」「余計なことをするな」「正しいとわかっているならそれをしろ」である。
 結果として、自身にとっては正しいが、思想が反する場合に沈黙するよりなくなる。
 反論すれば殴られ、自分で考えて行動すれば殴られ、相手の望む回答をすれば「最初からそうしろ」と怒鳴られる。
 
 僕はそういう思想を心底憎んだが、同時に、心底怯えていた。
 そして自分が「ノー」と言えない性格に育ったな、と自覚した10代の後半に「こりゃダメだ」と判断した。
 このまま大人になった場合、僕はその価値観に染められているため、他者に対して同じように自身の正義や思想を強制するような人間になりうると判断した。
 配偶者を束縛し、子供ができたら虐待する未来まで予測した。
 
 よって18歳にして、僕は自分の将来を諦めた。
 自分の価値観をどこまで変えられるか自信がなかったのだ。
 僕は家族らしい家族も知らず、あたたかい団らんというのも知らない。
 家族の協力とか、姉妹の絆とか、そういうものも見たことがない。
 
 なんとか20代の半ばには本当に嫌なことに対してだけは「嫌だ」と言えるようになった。
 少しの心のさざ波が先々荒くなると予測されれば即座に「まっぴらごめん」と言えるようになったのは40歳を過ぎてから。つまり(肉体的には)10年も経っていない。
 
 倫理も、正義も、正しさも思想も、自分がそれをして己を律するぶんには良いものだと、今でもそう思う。
 しかし誰かに何かを強要するための凶器に使うなら、それはシンプルな狂気だと、僕は思う。
 
>>>
 
 皆が嫌なものを嫌だと声を上げるその様子を、だから微笑ましく思う。
 平和な国に、自由な社会になったと思うのだ。
 そして同時に、誰もが己の正義を振りかざし、時に誰かに振り降ろすその凶器をおぞましく思う。
 
 新入社員が職場で電話を取るのを恐怖する、というニュースを先日見かけたが、そんなものは現代に限らず昔からあった。
 会社組織には会社組織のフォーマットがあり、営業トークには営業トークの、ビジネス電話にはビジネス電話のフォーマットがある。
 それはビジネス文書やビジネス会話、冠婚葬祭の「マナー」とされているところの「暗黙の了解」に符合するものである。
 
 集団(コミューン)における「暗黙の了解(プロトコル)」は、しかし悪いものではない。
 ビジネス文書のように要所要所のポイントを押さえることで、伝える側も読み解く側も、本題を的確に捉えることが可能になる。
 飛び込み営業を嫌う人も多いが、彼ら彼女たちのプロトコルを押さえておけば、コミュニケーションの中で情報交換することもできるし、的確に断ることも可能になる。
 
 もちろんそうしたプロトコルを教えてくれるような企業もあるだろう。あるいは独学も可能だ(僕はそうした)。
 それは強制されるものではない。
 自分で必要だと思って身に付けるか、あるいは「そんなのやってられっか」と不貞腐れ、弾かれ者として過ごすか、その二択である。
 
 外国語のようなものだ。
 郷に入りては郷に従う、そのフォーマットをどのように身に付けるかであり、その中に一切の自由がないということもない。
 知らない自由があり、知る自由がある。
 
>>>
 
「ノー」と言える自由を、労せず最初から持つ者たちは、僕には少し眩しい。
 それはおそらく、無垢であることの眩しさだ。
 彼ら彼女たちはその多く、汚れというものを知らない。
 
 無理強いされる痛みも、同調圧力によって形成される苦しみも、本来の自分のカタチを取り戻す諦めの境地も知らない。
 ガイドもパンフレットも用意されたパッケージツアーのように無駄がない。
 高効率だからこそ、ためにときどき残酷になる。退屈に思える。
 
 それが悪いと言いたいわけではない。
 たとえばペペロンチーノの基本はアーリオオーリオオイルと麺と塩である。
 究極的なものはシンプルすぎて、だから退屈なのだ。
 だからといって忙しくて慌ただしくて、じっくり味わうヒマもない複雑なものに比べたら、退屈なことはずっと豊かだと考えることもできる。
 
>>>
 
「ノー」と言える自由は、「ノー」と言える力だ。
「ノー」と言える力、「ノー」と突きつけることの正しさを我々は知った。
 
 知ってしまった。
 
 少数派を自称する者たちが、多数とされる者に対して「ノー」を突きつけ、己の正しさを強要する。
 多数の者たちに虐げられた、その復讐を果たさんとばかり。
 
 学校や職場のイジメだって、なくなることはないだろう。
「ノー」と言えない環境で育ち、「ノー」と言えないままに育った個体は今もどこにもいるものだし、捕食者たちはそれを見逃したりしない。
 
「ノー」と言わせない強制力を凶器に換えて、誰かが誰かを殴ろうとしている。
 それは己の保身のためか。過去の傷に対する復讐のためか。
 
 結局それは、かつてと同じ「『ノー』と言っている人の意見は尊重されるべきで、絶対的に守らなくてはいけない存在だ」という全体主義的な圧力を生んではいないだろうか。
 いやまぁ、それが悪いというわけではない。勝手にすればいい。
 
 ただ我々の社会は、この過渡期を抜けたとき「『ノー』とあなたの言うそれは、絶対にノーだとは限らないかもしれないよ」という「アンチ『ノー』」の姿勢を獲得するだろう。
 ノーに対するノーの応酬のように思えるかもしれない。あるいはイェスに対するイェスの価値観提示かもしれない。
 
 正しさや力関係による強制ではなく純粋にフラットな価値観の衝突の ── 「衝突」という言葉が悪いというなら価値観を提示し合う ── 場、勾配や摩擦の影響を受けず、正しく理屈をやり取りする姿勢を手に入れるのではないだろうか。
 
>>>
 
 我々はずっと正しさに迷っている。
 正しさを時に憎み、あるいは正しさに恐怖し怯え、正しくありたいと願う。
 今の社会において「ノー」と提示された対象は、その存在も価値観も、正しさの対極にある邪悪なものとしてサンドバッグのように扱われる。
 
 あるいは正しさは酒のようなものかもしれない。
 多くの者が望み、皆が欲するが、それに酔わずにいることはむつかしい。
 いや。
 欲して、飲んで、酔ったとて、我を忘れなければ問題など起こらないか。
 
 おそらく溺れない、というのがむつかしいのだろう。
 だから我々は今、この社会は今、正しさに溺れている。
 いやなにきっと何千年も前からそうだろう。
 戦争ひとつとっても、それは正しさと正しさのぶつけ合いであって、それが理屈であろうと経済であろうと武力以外の力では解決できなかった結果ではないか。
 
 悪いことではないのだ。邪悪に溺れるより、よほどもいい。
 ただその酩酊は、己を失い、時に損ない、己も含めた誰かを傷付ける。
 
 それに酒もろくに飲めないような若造がいたとして、僕は悪いこととは思わない。
 つまり正しさを知らず、迷い惑って道を外れることを悪いものだとは思っていない。
 じつに正しさに酔って溺れることは、つまり道を外すことに等しい。
 
 正邪も善悪も善行も悪徳もその判断基準も、結局のところ道具に過ぎない。
 己の欲を満たすより、両手の届く範囲にある者たちを守ろうとすることのほうが素晴らしいが、それに終始する程度の道具なら、一層のこと手放した方がいいだろう。
 それは一人の人間が抱えるには過分な、相応することが困難な道具だ。
 
 だから人は、人を裁くことを法という人ならざるものに求めたのではないか。
 もちろんこの国で正しく法が振るわれていると思うかどうかは別問題だが。
 
<足並みを揃える>
 
>>>
 
 体調が良くなったついで書類を整理する折、税金の書類を見つけてうめき声を上げる。
「あー。あー」「うー。うー」
 マイクチェックではなく苦悶の声である。
 
 全体主義的な思想や文化が必ずしも悪いものだとは思わないのだが、その思想は「全体という他者に対して自発的にリソースを提出する」という場合に最大の効果を発揮するものであり「全体という他者に対してリソースの提出を強制する圧力」の根拠とするべきものではない、と青猫氏は語った。
 
 いや払えるものは払うんですけどね……。
 今年の固定資産税って、高すぎませんか?
 なんでこういう一方的な正しさで僕に強制力を振るうのでしょう、僕は猫なのに。猫なのに……。
 
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
 
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Darkness-Diary-Ecology-Eternal-Form-Interface-Link-Mechanics-Memory-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Koban-Memory-Poison-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
//EOF