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TITLE:
無能なカラダ。
SUBTITLE:
〜 Define incompetence. 〜
Written by BlueCat
Written by BlueCat
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【カラダのこと】
このところ、あまりカラダのことを書いていなかった。
絶好調かといえばそんなことはない。むしろ不調が続いている。
しかし不調も長く続くと、むしろそれが普通なのではないかと思えてくる。
あるいは複数の不調が重なると、それぞれがどのような不具合を発生し、どのような原因なのか、分割して判断することがむつかしくなる。
なぜといって僕の使っている身体はこれひとつしかないし、単一の器官が複数の原因で発症することもあるからだ。
たとえば昨年末、不意に風邪のような症状に見舞われた。
「風邪のような」と書いているのは、咳もくしゃみも出ないのに、喉や鼻の粘膜が腫れて発熱し、数日寝込んだからだ。
前日にパイプ煙草を喫んだのが影響したのかとも思うが、そんなことでそこまで調子が悪くなることもない。
他者(自分以外のほぼすべての人)とはなるべく接触しない生活なので、誰かからウイルスをもらった可能性もさほど高くはない。
正月が明けて1月の上旬に症状は落ち着いたが、今度は副鼻腔から膿が出るようになった。
いわゆる副鼻腔炎だが、風邪からそうなった経験があるものの、今回はこまめに水で洗う(鼻うがいをする)ことで症状は緩和されるので、自然治癒(あるいは寛解)を待っている。
そう、じつはまだ完治していない。
これは風邪のようなウイルス性のものだろうか、それとも複合的な要因(埃や寒さや乾燥)によって起こった粘膜の機能不全だろうか。
原因が異なっても同じ対処で緩和/治癒することはあるが、異なるアプローチをしないと悪化することもある。
それはすべての病気や怪我にも当てはまる。
切り傷に包帯を巻かない方がいいし、骨折に絆創膏は効かない。下痢で腹痛があるからと痛み止めを飲む人はいないだろう。
それでも同じ部位に複数の症状が発生したり、同じ症状が複数の部位に見られたりする。
鼻と喉だって繋がっている(さらに目と口と胃と腸も同じ穴で繋がっている)がひとつの器官としては扱われない。
どこからどこまでが私のカラダなのか。私の不調はどこか。
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【皮膚粘膜が本体なのか】
僕の不調のほとんどは、僕のカラダの粘膜の弱さに起因している。
このカラダのそれらを他者の身体の機能と比較すると、やはり非常に弱いし、そのぶん過敏にできている。
たとえば僕は市販の食器洗い洗剤をほとんど使わない(5年経っても1Lのボトルが終わらない)し、シャンプーやリンス、コンディショナーを使わない。
それらの用途はすべて純石鹸を使っていて、身体を洗うのだけは一時期ボディソープに切り替えたこともある(今もたまに使う)のだが、それでも体調が悪いとき(熱中症や風邪、花粉症が重いとき)は、ボディソープによって皮膚粘膜が荒れたり、かぶれたりする。市販品のほとんどのボディソープは洗っている最中に刺激を感じるほど肌に合わない。
添加物云々というのはあるが、何より保湿成分が合わない。
保湿成分が作用するために、過剰に皮膚に残留するように作られていると感じる。
ベタつく、というとまた表現が違うのだが、その成分(乳化系か保存系か保湿系かは分からない)が皮膚を覆っていて、それが結局不調を起こす。
食器洗いなら手袋を使うといい、という人もいるとは思うが、あれをいちいち付けたり外したりするような丁寧な性格をしていない。
調理前にちょっと皿を洗い、調理中に使った器具を洗い、というような感じになるので、洗ったり調理したりの作業がまとまっていない。
手際や段取りが悪いのだとは思うが、じっとしているのが苦手である。それは多分に、この家の台所が僕に合わない、という理由もあるのだと気付いた。
いずれにしてもこのカラダは、普通の人が普通にしている「シャンプーやボディソープで洗う」ことでさえ不調になる。
別に添加物や保存料を悪く言うつもりはない。ただ僕のカラダに合わないというだけのことであり、少数派であることは自覚している。
少数派だからこそ、自分の記録を(再発時に原因等を検証する意味でも)残すようにしていたが、残りの人生を多く見積もっていないこともあるし、抑鬱的な状態にもなりがちだったので、差し控えていた。
カラダのことを書くということは、少なくとも僕にとって、僕の死について書くことになるからだ。
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【何でも歳のせいにするオトナになりたくない】
加齢という問題もある。
僕の身体能力のピークは20代中盤の数年で終わった。
30代からは徹夜をしないようになったし、40代からはすべての代謝機能が低下していると如実に感じている。
たとえばアルコール代謝機能が高かったのでお酒がとても好きだったのだが、最近ではひと月に一度くらいしか飲酒しなくなった。
それもかつてのように「ああ〜〜ぁあ〜〜おいしぃいぃ。おいじぃいよぉおおぉ〜〜〜〜」という、少々異常者じみたヨロコビを感じることがなくなった。
だから余計に飲まなくなったともいえる。
これは食事も同じだ。
僕のカラダが「おいじいぃよぉおぉ〜〜〜」と思わないものを、僕はあまり求めない。
人間はアルコールやニコチンと同様、食事依存になることはある。
一日三食教(という宗派があってだな)の人たちからすると僕のように一日一度で済むイキモノは異常なのだろうが、僕はネコノカミサマ教を信奉しています。
そうしたすべての快楽が、脳を基準に依存症を発症することが少ないのは僕の利点ではある。
一方でカラダを基準に嗜好しておかないとすぐに不調になるとも言えるし、だからといってバランスが崩れないように観察/管理する必要があるのも事実だ。
さて最初に書いた喉や鼻の粘膜の異常は、すると、ウイルス性/環境性/加齢性という可能性が考えられる。
加齢性の場合、これはもう放っておくしかない。カラダが慣れるのを待つか、慣れずに死ぬかだ。
大袈裟な話だと思うが、老年期に一度(60代だったか)、体調不良に見舞われることもあると聞く。
それをやり過ごせれば、その人はもっと長生きするのだという。
それでも死は訪れる。
生きるというのは、その「いつかの死」までに何をするか、ということである。
僕にとっては生きることではなく死ぬことが前提なのだ。
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【僕というサービスの終了】
たびたび書いているが、僕は子供の頃に自分の死ぬ年齢を決めてしまっている。
これでも妥協に妥協を重ね、延ばしに延ばして現在に至るが、65歳までには「いつ死んでもいい状況」を作ることを目標にしている。
(延ばしに延ばして、という文言のとおり、僕は自殺することを生きる手段に含めている)
具体的には僕の死によって発生する、属人性(僕でなくてはならないこと)の不具合を、所有物も他者の精神についても、可能な限り最小限に抑制することだ。
それ以前に何らかの事故や病気で急死する可能性もあるが、孤独に生きて死ぬ以上、身綺麗に努めるに越したことはない。
生きている間にしてみたいこと、しておきたいことのほとんどは終わった。
工作に例えると、道具や材料を集め、手段について勉強したり、試行錯誤を繰り返し、何らかのカタチを作ろうとするには、場所が必要で、作業机の上は散らかることになる。
しかし僕は職業として生産しているわけではない(そういうコントロールをした)ので、工場や工房のように、死んでも同じサービスやモノを提供する義務(必要とする他者)が非常に少ない。
僕が死んだら、僕というサービスの提供は終了する。
いやなにTVだって、国産品の需要がなくなれば道具も工員も不要になり、材料もゴミに変わり、倉庫は空になって工場は閉鎖される。
僕が作りたかったもの(作る必要があると思ったカタチ)のほとんどは、作られたか、あるいは不出来のまま諦められて、もう片付けの準備をする段階なのだ。
40代(ギリギリ、ね)でそれは早い、という向きもあるとは思うが、では何歳くらいなら適齢期なのだろう。
いつまで経っても自分の思ったカタチひとつ作れない、というのは将来に夢があって、野心に満ちている、ように思えるかもしれない。
しかし中年/壮年にもなってそれは、さすがに無能ではないだろうか。
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【無能って悪いこと?】
無能が悪い、という話ではなく(運も含めて)うまく能力を発揮できないという事実については否定できない。
繰り返すが無能な人がいたとして、そういう人に生きる価値がないとか、幸せになることができないとか、そんなふうには思わない。
ただ身の丈の問題もあるから、たとえば僕は陸上競技の選手にはなれない(なろうとも思わなかった)し、道具や乗り物を使わずに空を飛びたいと思ったこともない。その方面では、僕は無能なのだ。
それぞれの人に生きる価値があり、幸せになることが可能だと僕は思っている。
権利だとか義務だとかいう人間のアタマで考えた理屈ではなく、それ以前の道理として。
ただそれでも、自分の思ったカタチを作れず終わる人もいる。
それは設計が悪かったのか、道具や材料が悪かったのか、そもそも具体的なアイディアさえなく漠然と「こうなればいいのに」と願って終わりだったからなのか、ということなのだ。
おそらく誰でも「こうなればいいな」という程度の願望くらいはあると思う。
それに対してどれくらい具体的に着地点を想像し、そこまでのアプローチを計算し、必要な材料を見極めて集め、適切に道具を使用したか、そのための設計をどの程度の精度で行ったか、ということなのだ。
願望で終わってしまうのは、残念ながらそれ以上の能力がなかった、ということになる。
それを端的に「無能だ」と表現した。
無能という存在が悪いという話ではなく、願望をカタチにすることが無能にはできない。その機能が無いのだ。
ひるがえって、有能であるとは「できることしかしない」とも言える。
たとえばうちの洗濯機は非常に有能(相思相愛の情を感じるレベル)だが、食器は洗えない。
その方向については機能が無いので無能だ。
できることしかしていないが、だからこそ洗濯をさせると実に有能である。
何を当たり前のことを、と思う人もいるとは思う。
では人間について、自分や自分の周りの人間に対して、どう思っているだろう。
何でもできるとは思っていないだろうが、しかし、これなら絶対だ、というものも分からない人だっている(僕は自身をそう評価している)。
たとえば自分の子供に対して、塾に行かせれば成績が良くなるとか、いい学校に行けば有利だという親がいるが、それはあくまで統計的な可能性の話である。
なにより自身の能力はいかほどだろう。
大卒のろくでなしも散々見たことがあるし、つい言ってしまうが「バカはどうやったってバカ」である。
ただ高学歴の人間の方が有能(と周囲から認識されるよう)になっている、その可能性が高いのだろう。
それでも可能性というのはどこまでもギャンブルである。
「自分の可能性に賭ける」というセリフに格好良さを感じる人もいるとは思うが、僕は「ああ、この人は向こう見ず(馬鹿)なんだな」と思う。
可能性に賭けなくても達成できるのが能力だ。
「今回はこのシャツ、ちゃんと洗い上がるかな? 乾燥までしてくれるといいな」なんて心配が必要な洗濯機は故障している。
洗濯機の可能性に賭ける前に修理サービスに電話を掛けよう。
できないこと、不得手なこと、不可能なことに憧れたり、夢を見るのはいいことだと思う。それは素敵な原動力だ。
しかしできないことをしなければ(させなければ)叶わないことを望んだら、それは不幸になる。
洗濯機に食器を入れるようなことなのだ。
つまり無能とは、存在ではなく状況である。
だからできないことで夢を叶えようとしたり、願望を満たそうとしない方がいい。
「したいこと」と「できること」のミスマッチが無能という状況を生むのだ。
もちろん人間の場合、できることを増やすのもまた能力だ、ということは忘れずにいたい。
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【年の功、というのもある】
年齢を重ね、変わらぬ願望を抱えていれば、より設計の精度は上がるだろう。
道具や材料も集めやすくなるし、計算も容易になる。
ために晩年の成功は比較的容易で、苦節の分だけ美しくさえあるかもしれない。
体力的に問題なければそれも良い。
しかし身体能力が衰える頃になってなお何ひとつ成せないなら、それは死ぬまでカタチにできないだろう。
僕の場合は生まれたときと同じように、身体能力(生存機能)が低いままであるから、今の年齢である程度のカタチにまとまったのは幸運だった。
では早晩、自身の思うカタチを作ることができた場合、そこからさらに夢を持って、野望を抱えて、それこそ死ぬまで前に進み続けなくてはいけないのだろうか。
僕はそうは思わない。
法人や職業生産者であれば、収益性の観点からサービスの終了は起こることだが、個人の趣味の生産者であれば、身体能力の低下によるサービス終了は予期しなくてはならないことだし、それに対して誠実にアプローチするならば「私はずっとは生きていません」という当たり前のことを周知する必要がある。
暗黙の了解や他者の善意に甘えていると、シュレディンガーの仔猫(僕の隠し子です)のように、誰かを傷付ける結果を生んでしまう。
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【シュレディンガーの仔猫問題の証明】
ちなみに「シュレディンガーの仔猫問題」について一度くらい書いておいた方がいいと思うが、シュレディンガーの仔猫が実在するかどうかが問題なのではないと僕は考えている。
恋人を妊娠させたうえ振った、となれば結構センセーショナルな話題だから、ついぞ人は「それは本当か?」ということになるのだが、大事なことはその「実在」ではなく、自分が誰かを傷付けたかどうかという「事実」の方である。
そして僕は少なくとも明確に、人を傷付けている。
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【ふたたび粘膜問題】
昨年末からの粘膜の不調は続いており、いつもどおり花粉症の時期になってしまった。
自由時間ばかりなので鼻うがいを頻繁にしているが、外出時などはそれができず、小一時間で不調を来す。
皮膚(花粉の時期の乾燥や痒み)については、油脂分を多く摂取することで皮脂分泌が増え、保護膜ができることが分かった。
入浴直後、剥き出しの肌で外出するのはよろしくない。
ベビーオイルや食用油くらいなら皮膚の異常が起きにくいので、それを塗ることも考えている。
1月から四十肩(五十肩あるいは百肩と呼ぶべきか悩んでいる)になっている、という話はまたいずれ。
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[NEXUS]
~ Junction Box ~
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[Engineer]
:工場長:青猫α:青猫β:黒猫:
[InterMethod]
-Algorithm-Darkness-Diary-Engineering-Kidding-Life-Link-Mechanics-Season-Stand_Alone-Style-Technology-
[Module]
-Condencer-Connector-Convertor-Generator-
[Object]
-Contents-Human-Poison-Tool-
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[Cat-Ego-Lies]
:ひとになったゆめをみる:
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