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// TimeLine:20200321
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TITLE:
こだわりと向き合い。
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~ Mirroring on my edge. ~
Written by BlueCat
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こんな辺鄙な田舎町でも、ティシュとトイレットペーパが買い占められていたのはもうどれくらい前のことだろう。
最初は唖然としたものだ。
どれほど恥知らずの阿呆が多いのかと、呆れ、思わずひとり笑ってしまった。
まったく情けない話ではないか。
他人のことなんてどうだっていい。
自分のことだけ考えていれば、それでいい。
海外の人たちがいわゆる爆買いをしていたときはネット上で「民度」という単語をよく目にしたものだが、今回はほとんど見ない。
これは勝手な憶測だが、他人の民度とやらにビンカンな人たちほど、己の中の獣性に関してはひどく鈍感なのやもしれぬ。
いやなに皆それどころではなくパルプ製品と不織布製品を求めて、野獣のように街から街を、店から店を、血眼になって走り回っているのかもしれないが。
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電気炊飯器を、およそ20年ぶりに使っている。
一人暮らしを始めて1年後の夏の終わりに、僕はそれを捨てた。
炊飯器は僕を堕落させた。
炊いたご飯をいつまでも保温したり、スイッチを切ってもそのまま放置したりした。
その結果、ごはんは「ごはんであったはずのナニカ」に変わる。
それを数回繰り返すうち、自分が情けなくなって捨てることにしたのだ。
放っておけば炊ける。
そのまま放っておけば適温に保つ。
数日置いてもなんとかなる。
それが僕を自堕落にさせた。
おそらく数ヶ月後、僕は初めての圧力鍋を購入した。
両手持ちの5L。大きな、そして重い、古式ゆかしい、蓋の上で重りがくるくる回る鍋だった。
そしてわずか半年でその鍋を捨てた。
最初の圧力鍋を買って3ヵ月後に新しい片手用圧力鍋を買ったのが大きな理由だ。
最初の反省は「圧力鍋の場合、大は小を兼ねるが、適切なサイズでないと使いづらい」ということ。
立方体の1辺あたりの長さを2倍にすると体積は8倍になる。中空でない物質なら、当然重量も8倍。
鍋の場合は容積ベースだが、表面積は厚みを無視しても概算4倍。
(実際は、大きくすれば強度を保つために厚みも増すだろう)
もちろん、1辺の長さ(鍋の高さや直径)が2倍になるのではない。
容量2倍なのでそんな大げさにはならない。
体積2倍と考えると1辺あたりおよそ1.26倍だったか。
面積は2乗になるから、およそ1.6倍程度なので重量も1.6倍程度ということになる。
3kgの鍋なら乾燥重量で5kg近くなる。
3Lの具材を入れたら8kg近い。
カセットコンロが壊れそうだよ。
(集合住宅のガスは高めなので、カセットコンロを愛用している)
よって片手用の2.5L程度のものを買って使い始めた。
弁も樹脂製で最初は不安だったが、圧力を2段階に切り替えられる優れもので、しかも安かった。
これは実に使い勝手が良かったが、あるとき火加減を間違えて盛大に焦がした。
普通の鍋の焦げとは次元の違う焦げ付きで、薬品も2、3試したが、最終的に諦めて、同型のものを買い直した。
しかしこれも1年足らずで焦がす。
今度は時間を間違えたせいだ。
それでも懲りずに同型の圧力鍋を買っては使い、今使っているのは4代目。
キッチンタイマーも2つ常備するようになったので、焦がすことなく5年以上使っている。
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カランダ(ザル)は、一人暮らしの最初に、長持ちしそうなものをちょっと奮発して買った。
網が破れたり、骨が歪んだりもせず、長く付き合っている。
まな板は下駄足。
かつおぶしは削り器で削る。
鉄瓶や鉄鍋で湯を沸かす。
フライパンも鉄製。
食器洗いは基本的に石鹸。
と、ここまでを客観的に見た自分を思うのだ。
「めんどくせぇオトコだなぁ」と。
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一般的に、こういうイキモノは「拘(こだわ)ってる奴」に分類される。
あなたの周囲にもいないだろうか、
「これはこうでなくてはダメ」
「これはこうであってはダメ」
と自説と拘りを振りかざして周辺諸国を制圧していく、好戦国家のようなような人が。
とにかくそやつの目につく範囲においては、そやつの拘り抜かれたセンスと理屈に従ったありようを体現しない限り蹂躙される。
布教といってもいいから、十字軍のようなものか。
異教徒は斬られる。
改宗しなければ斬られる。
そこにあるのは神の説く全き愛の姿ではなく、妄執と狂気に歪んだ自己愛の体現である。
ほら、ラーメン屋でも(コショウを最初からそんなドバドバ入れるな)(長髪者は髪を結えるものくらい持ってこい)(レンゲを使って食うな)とかいう変な店主がいたりするというではないか(今勝手に思いついたので、いないかもしれません)。
蕎麦屋でも(音を立ててすすれ)(最初は何もつけずに味わえ)(蕎麦をつゆに浸すな)(薬味は少しずつ加えてゆけ)(蕎麦湯は必ず飲め)とかうるさい奴、いない?
こういうのをして、やってみると確かに効能というか、違いが多少はあったりするものだから(なるほどこれは!)なんて崇めたてる奴が出てきて、本人はますます天狗になって(よろしいますます余を崇め奉るがよい下民どもよ)となって狂気度合いが加速する。
まさに正義は我にあり。
「正しさの病」もこれと同源だから(芸能人の不倫は許さない〜!)だの(マスク転売屋は死して地獄に堕ちろ〜)だのと正義を振りかざしては己の自己愛の穴を埋めるためにやかましい。
ラーメンも蕎麦も不倫も転売も好きにさせとけよ。
放っておけよ、それで淘汰されるなら、それが不要なものであり、浸透してゆくならそれが必要なものなのだから。
いいじゃないか蕎麦をつゆへだぶだぶのめためたのびたびたな具合に浸して、つゆごと飲んだっていいじゃないか! がぶがぶ飲ませてやれよ。
買うお金がある人になら1枚10万円でマスク買わせてやれよ(僕は売るマスクも着けるマスクも持っていませんが)。
と僕は思うのである。
ちなみにあとになって非難されないために、誤解のないように言っておくと、僕は蕎麦を、最初はつゆもつけずに食べるタイプではあるのだけれども。
ラーメンも、コショウをまったく入れないタイプなのではあるのだけれど。
そして他の食事はだいたい食べるのが遅いのに、麺類だけは食べるのが早いのだけれど。
それとて特に拘っているわけではない。
単にその方が自分の好みだからそうしているだけだ。
そうだこれこそが正義だだから世俗のアタマワルイ下民どもは我を崇め奉れ我に従え我が正義を褒め称えよ!
と言ってしまったら、これが狂気の始まりなわけであってね諸君。
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確かにごはんは圧力鍋で炊く。
(今は炊飯器しかない家があるから、その家では炊飯器で炊く)
玄米食を好む。
鉄器で湯を沸かす。
まな板は下駄足だ。
かつぶしはなるべく都度削る。
砂糖はきび砂糖か黒砂糖ばかり使う。
でもこれは正しいとかそういうことじゃない。
これが正解だから皆これに従えなんて思ってない。
いやいやこのあたりはモノ相手だから仕方ないけれど、たとえば恋人が27人いるとかについてもものすごく噛み付いてくる人はいるわけです。無職で365日過ぎましたとかいうと噛み付いてくる狂犬どもがいるわけです。
彼らの中には「正しさの病」があって、その正しさに従わない者は全て斬捨て御免の正当防衛なのである。
だってぇ、あいつがぁ、最初に仕掛けてきてぇ、それにぃ、せんせぇだってぇ、そぉゆぅのはよくないってぇ、いってるんだもん! だからぁ、ボクはわるくないんだもん!
ゆえに礼を失したのはその方であろう。
赦さん。刀の錆にしてくれる。
我は神の御使、十字軍なり。
というわけ。
どんなわけやねん(唐突な関西弁)。
極論、殺人すら「あなた直接の被害者じゃないでしょう?」というお立場の場合や「あなたが裁きをなさるお役目ではないでしょう」という場合、その身勝手な怒りはどこから来るのか半年間そこの海辺の洞窟で考えなさい、それが正義ですゆえに私が正しいので下民たるうぬらは我を崇め奉るがよいわかったか?わかりましたね?わからないやつは死刑です! みたいな感じになってしまいかねないわけで、だから普段からこういう馬鹿馬鹿しい「正しさについての拘り」なんて持ちたくないし、いっそのこといつでも間違っていたい。
たとえば僕が殺人を犯さないのは、それが正しいからではなくて、殺人をする必要がなくてしたくないからです。
たとえば僕に恋人が27人いるのは、ガールが好きで増えちゃったものを減らさないからです。
所有している本が数百冊にも満たないのは、増えたら減らしているからです。
正しいからするとかしないではなくて、それをしたいから/したくないから、選択して行動するわけです。
一方で、殺人をすることが正しく思えちゃう人や状況もあるわけで、ではそれはどのようにあることが望ましくて、その望ましい状況を作るためにはどうするのがよいのか、というのがアタマの使い方なのではなくて? と思うのですが、それとて「正しい」とは思っていない。
マクロ的に、不要なものは淘汰され、必要なものは存続する。
弱者を守る余裕がなくなれば、社会は弱者を不要と考えたり、いいように餌にしようとするわけです。
強者が必要だから、ぽっと出の、得体の知れない代議士には投票しないで、他にいないからとか消極的な言い訳で、自分が(先の理屈の「強者」に当てはまらないから)立候補するわけでもなく、二世政治家とかに投票するわけでしょう。
弱者を守れる仕組みは、弱者に力を与えることかもしれない、ってそれまでとちょっと違う政党が与党になったらやっぱり失敗だったとか言い訳するわけでしょう。
一回失敗しただけでやめてしまうあたりが中学生の部活レベルで、だから選挙権の年齢を引き下げたのかと冗談まじりに思ってしまうほど、プロ意識の日本国民というか投票者がいないような気がしないでもない。オマエら世界を目指すなら、一度の失敗くらいでくじけるな! と言いたい。ほかならぬ政治家にではなく投票者に。
(とくに何も考えていないので、投票には基本的に行かない人がこれを書いています)
マスクが必要だから買い占めたり転売したり高額で買っちゃったりするアホウがいて、もうみんな同罪ってことにしてしまって、だったらいっそのことマスクメーカも犯罪者扱いしてしまえばいいし、マスクを考えることは姦淫にふけることと同じ神への冒涜だということでマスクを禁制品にして全員逮捕してしまえばいい。麻薬扱いしちゃえばいい。持ってても使ってもアウト。
マスクもティシュもトイレットペーパも生理用品も一律禁制で免許を受けた人だけの配給制にすればいい。
僕が正しさについてなるべく軸をずらしたり、触れないようにしているのは、それを語ることが時に人に押し付けることになるからで、それはとても恥ずかしいことだから。
呑み屋に行くと、よくわからん蘊蓄(うんちく)や自慢、説教、泣き言、管巻きを展開する人間は昔からいて、それと同じ感覚を振りまきたくないから。
(嫌される、という新しい言葉を思いついたが、こんなのは流行らないし流行らせない)
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ここからが本題なので、疲れた人は休むがよいぞ私は優しいであろう正しいであろうゆえに我を崇め奉るがよいぞ下民どもよ。
(この言い回しが、ちょっと気に入ってしまった)
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拘るということの本質的な恥ずかしさというか、醜さというのは、他者がいないと成り立たないこと、なのだ。
「うちのラーメンは、スープのガラに拘っていてね」というセリフは、それを語る相手がいないと成り立たないということ「ではない」。
拘りに正邪の基準が含まれていて、ために「正しさ」と拘りが混同してしまっているとき、それはどうしても他者に向かって発露してしまう。
スープにだけ、スープのガラに「だけ」拘っているのなら、それは単に美味しいスープを作ることに真剣に取り組んでいる、ということだから問題はない。
素晴らしいことだと思う。そのまま邁進していただきたい。
ただ「このガラだけ」「このスープだけ」が正しいと「思ったら」どうなるだろう。
その「思い」が拘りで、すなわち「正しさのビョーキ」で、つまりは狂気なのだ。
「このやり方だけ」「このあり方だけ」「この考え方だけ」が正しいなんて、いやいや恐ろしくて私には言えない。
殺しは絶対しません! なんて、毎日イワシ焼いたり、肉を塩漬けにしたりしているワタクシが申し上げるわけには参りません。
不倫はしません! なんて、非生命や自然現象や動物や同性にも恋してしまうワタクシには恐れ多くて申せません。
「適正価格のマスク」って、そもそもマスクがどの程度の原価なのか知らないので、語れません。
本当は原価9万円で、メーカのたゆまぬ努力と政府の陰ながらの援助の結果、店頭販売価格が1枚あたり100円なのかもしれないし。
鉄器で沸かしたお湯が美味しい気がするのは、どこかのアヤシイ集団から100万円で買った壺に汲んだ水を飲むと幸せになると思っているのと変わらないかもしれないし。
玄米を食べていると体調がいいのも錯覚かもしれない。
下駄足のまな板は物理的な理由があるので錯覚ではないにせよ、他人様に(金物屋さんで買った下駄足まな板がコスパも含めてサイコー!リピ確定!)とか恥ずかしくて言えません。
これらはすべて、向きの問題なのではあります。
つまりモノと向き合ったり、自分の感覚や感情に正しく向き合っていれば、それは観察上「拘り」なのかもしれないけれど、自己完結してゆく。
27人恋人がいても、自己完結しちゃってる人にはどうしようもありません。
不倫して自己完結しちゃってるなら、外の人が何を言っても通じません。
(わざわざ謝罪会見とかしたりさせたり放送したり観たり論じたりする人がいるあたりが、ヒトビトの狂気を感じるのではありますが)
ちなみに先の「正しく向き合う」の「正しく」は「軸を逸らさず/正面から」の意味であり「ヒャッハー!十字軍だオラー!コッチ向けやオラー!首の曲げ方をこのオレ様が指導してくれるぁー!」ということではありません。
自分の感覚で対象を感覚しながら「このほうがいいかな」「こっちのほうが合うのかな」と試行錯誤するわけです。
スープのガラも「こうしたほうがいいかな?」
蕎麦の食べ方も「こうしたらどうかな?」
そういうのをひとつひとつ、自分で確かめてゆくことで分かるのは「自分の好み」であって「正しさ」などではない。
それを正しさなどと錯覚し、吹聴し、あまつさえ強要してしまいたくなる己の身の程を僕は考える。
己に向き合って反省する。
他人のことなんてどうだっていい。
自分のことだけ考えていれば、それでいい。
なるほど、私もケダモノなわけである。
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炊飯器にだって罪はない。
そこにあるのは僕の自堕落であり、炊飯器が僕を堕落させたなんて、言い訳がましいにも程があろう。
「拘り」と「向き合うこと」の違いは「働かざるもの食うべからず」と「一日為さざるは一日食わず」にも似ている。
他人をとやかく言いたくなる気持ちは、とにかく恥ずかしい。幼稚だと感じる。
赤の他人であろうとそうだし、どんなに親密な間柄でも、僕はしない。
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[NEXUS]
~ Junction Box ~
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[Engineer]
-青猫α-/-黒猫-/-BlueCat-/-銀猫-
[InterMethod]
-Algorithm-Chaos-Darkness-Diary-Ecology-Form-Interface-Kidding-Link-Mechanics-Memory-Stand_Alone-Style-
[Module]
-Condencer-Convertor-Generator-Transistor-
[Object]
-Human-Koban-
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[Cat-Ego-Lies]
-おこと教室-:-夢見の猫の額の奥に-:-Webストリートを見おろして-
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