// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:250412
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
設計図を、いつかの私に。
SUBTITLE:
〜 the Bottled Blueprints. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
 この世界のすべてが体系的な存在であると肌で感じたのは17歳の頃だったか。
 体系的というのはすなわちシステマティックな、ということであり、存在という存在のすべては細分化が可能で、上位的存在の要素(パーツ)としての側面も持つ。
 もちろんアタマでは知っていた。しかし肌で感じることはなかった。
 
 その細分化の下限(最小単位)が、たとえば物質なら分子や原子であり、陽子やら中性子やらクウォークやらといったものであることを(学校の授業では習わなかったが、科学誌を7歳から読んでいたので)知ってはいた。
 しかし我々は、単一の分子や原子を肌に感じることはない。いや少なくとも僕には分からない。
 光や熱なら皮膚粘膜を通して感覚できるが、肌で存在という存在のすべての最小単位を感覚することは不可能だ。
 
 自然現象を含め、すべてのものが循環しているというのも然り。アタマでは分かっているのだが、肌で実感することは困難だ。
 地表海上の水分が蒸発し、降雨するという循環をアタマで理解していても、目の前のことに囚われてしまう我々にとって、数秒から数時間という(人間の主観的において)理解しやすい時間単位(スパン)の外を知覚し認識することは困難だ。
 たとえばマイクロ秒単位もそうだし、数万年、数億年単位もそうだ。
 
 僕らの身体は結局のところどこまで行っても人間のそれでしかなく、肉体によって知覚と認識は限定される。
 だから宇宙の歴史を知ることはできても体感できず、つまり体験することもできない。
 またより短い時間単位で寿命が終わるミクロ物理の存在についても同様、知ることはできても体感などしようがない。
 
 それがあるとき、ふっと降ってきて、宿ってしまった。
 ずいぶんと(いわゆる)スピリチュアルな物言いだとは思うが、すべての概念が知覚や認識といった「物理的には存在しない空間」にのみ発生し存在するように、その概念は物理存在とは別のものとして僕の価値観内部に唐突に形成され、僕の知覚に居座ってしまった。
 
>>>
 
 それから2年ほどは、その概念にずいぶんと支配された。
 支配といっても指図されるわけではない。それは概念であって思考ではないからだ。
 思考が価値観によって編まれる布であり、価値観が記憶によって縒り出される糸であるなら、記憶の源泉である経験はそれを織りなす単繊維だ。
 ところが降って湧いた概念には、経験がないし記憶もない。価値観がないから思考もない。人格だってない。
 TVもないしラジオもないしクルマもそれほど走ってない。
 
 にもかかわらず、その概念が僕のあらゆる知覚と認識に居座った。
 たとえば前述の「記憶の源泉である経験」は、思考によってそのありようが左右される。そうやって物事のすべてが循環していると、感覚してしまった。
 =A=B=C=……といった具合に、物事のすべてが繋がっているように思えて、しかしある程度の範囲から外は、霧が降ったように、やがておぼろになってゆく。
 
 曰く言いがたい感覚で、言語化もうまくできなかったから、誰にも説明できなかった。
 もちろん、この程度の言語化で誰に伝わるとも思っていない。
 結局のところ言葉というのはどこまで行っても言葉に過ぎず、デジタルな情報である以上、知ることはできても肌で感覚することは不可能だ。
 
 感覚した情報の多くを我々は言語化してやり取りしているが、それではその言葉(言語化された情報)から、感覚を還元することが可能かといえば端的には不可能だ。
「楽しい」「悲しい」「嬉しい」と言葉を通じたところで、そこには百の楽しさがあり、千の悲しみがあり、万の嬉しさがある。
 そのごくごく当たり前の事実が、決して誰とも通じ合うことがないという悲しみや、自分の中で自身が手にしたという喜びや、言語化したところで誰にも伝えることができないという空しさとともに肌に密着してしまい、その先すべての情報が、その肌にまとった非言語的な実感によってフィルタされてしまった。
 
 しかもそれは雨合羽を羽織ったときのように外界の情報をごわごわと曇らせるのではなく、より鮮烈に、ときに突き刺すような痛ましさで、しかし刹那のうちに揮発してしまうような儚さで五感のすべてを覆った。
 そこには思った以上の情感があって、思った以上に矛盾したありようが含まれていた。
 
 だからたとえば僕は、生と死をあまり対極の存在とは思っていないし、世俗に言われるほど善と悪とか、倫理と不義に差を感じない。
 それらは結局、どこかものすごく近いところで、皮一枚の隔たりによって繋がったものなのだ。
 悪を規定すれば善の立場に立てるかもしれないが、善が容易に悪でありうることを我々は知っている。たとえば十字軍は誰の、何を目的とした組織だったか。
 
>>>
 
 そのような感慨があって、それでも思うすべてを言葉に残したいと足掻いた時期もあったのだが、やがてとうとう諦めた。
 先に述べたとおり、どれだけ言語化して記録に残したところで、読む者が還元できなければその情報に意味はない。
 たとえばSF作品で、遠い未来や異星から革新的な技術を搭載したメカニズム(たとえばタイムマシンやテレポータなど)の設計が送られて、それが現代世界で具現されるというテーマがあったりするが、現実問題として設計図だけですべての存在を具現することは不可能だ。
 そこにはおそらく未知のマテリアルが記述され、未知の技術が必要で、未知の論理に立脚し、未知の手順が要る。
 
 たとえば江戸時代に現代の電気自動車の設計図を送り込んだとして、果たしてその電気自動車が江戸の城下町を走ることはない。
 僕ら一人一人が、誰でもそうした設計図を抱えているのだと思った。
 
 どんな実感も、どんな経験も、どんな感慨も、痛みも悲しみも喜びも空しさも、言葉にしたら最後、それはおよそ間違いなく伝わらず、そして言葉にしない限り絶対に伝わらないという事実に、嗤うような、哭くような、えも言われぬ(エモいわれぬ、ではない)どうにもしようのない、言いようのない感情やら感覚に沈められ、溺れた。
 溺れるたびに死ぬ思いをした。
 現実問題、その度に抱えている価値観は無価値になり、すなわち死んだのだ。意味を与えれば、即その意味を奪われるのだから。
 
 それでは誰かが大切に抱えているその設計図を、それなら自分は解析し理解し共有し具現することができるのだろうかと考え、そしてその間に横たわる深淵とも呼べる闇とも隔たりともつかない断絶について考えて、どうしようもなくなった。
 目に見えて肌を重ねることのできる相手すらどうしようもなく手に届かない存在であり、同じ場所で同じ時間を過ごしていると感覚したとしても、それが果たして事実だと証明することは誰にも(少なくとも僕自身に対しては)不可能だったからだ。ならば世界のすべては錯覚か。
 
>>>
 
 今でも(あるいは今だからこそ)時々、その感覚をありありと思い浮かべることができる。
 漆黒に荒れ狂う大海原の、しかし無音の嵐のようで、その光景はあまりに非現実的で、どうしようもないくらい孤独かつ絶望的ではある。
 
 そして一方で、だからこそ人々は言葉にすがったり、あるいはあるかもしれないしないかもしれない望みを見出して、誰かと手を取り合うのだろうとも思った。
 それが有益か無益かを論じても仕方ない。それを信じた人に信じただけの有益と無益があるのだから。
 
 生きることは何なのかと問われたら、僕はそのように答えるだろう。
 つまり「夜の海原で無音の嵐に遭難するようなものだ」と。
 有益か無益かを論じても仕方ないのだ、そんなものは信じた分だけ百も千も万もの意味や価値を、つまり無意味も無価値をも持っている。
 
 論じて正解が出たところで、一体誰が満足するだろう。論じて現実を知ったところで、一体何を感じるだろう。
 対立した価値観を抱える相手を論破したところで、一体何の意味があるというのか。
 誰かに勝っても、何かを成しても、たいした意味はないのだ。その意味や価値を自分自身で決められない限りは。
 
 無人島に運良く漂着したとして、ボトルに設計図を詰めて海に放ったところで、その気休めに慰められるのは自分だけである。
 それでも慰めがないよりはよほどいい。今はそう思えるようになった。
 無人島で慰めもなく生きるのは、たぶん嵐に溺死した方がよほどもましだと思えるだろうからだ。

 慰めは、ないよりはあった方がいい。
 四捨五入で百年生きて得られた知見はそれだけだ。
 
>>>
 
 我々の設計図は、我々と同じ技術レベルの者にしか理解できない。再現できない。具現できない。
 
 皆が己の正義と理想と共感を語る。
 テレビもねぇ、ラジオもねぇ、クルマもそれほど走ってねぇ、という環境に忘れられたハイブリッド車のように。
 孤独の過去に取り残された、未来からの望みのように。
 
 まるでそれだけが孤独と絶望の無人島に閉じ込められた己の、唯一の慰みであるかのように。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫β:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Chaos-Eternal-Memory-Moon-Stand_Alone-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Generator-
 
[Object]
 -Night-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :青猫のひとりごと:
:記憶の切片:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:250405
// NOTE:半年以上、書き直しては放置している話題。
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
自殺を考えることについて考えることについて。
SUBTITLE:
Think around self death.
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
 ここ数ヶ月、自殺について考えている。
 心配する人もいるので先に断っておくが、喫緊に僕が自殺する必要があるとか、自殺する意志があるとか、そういうことではない。ただ単に、自殺について考えているのだ。
「Think around self death.」であって「Think I'll self death.」ではない。
 もちろん「around」の内には自分自身も含まれているし、自分自身がそういう意志を持つこと、行動することも含まれているのだが、それがすべてではない。
 
 不謹慎だろうか。
 そうかもしれないが、僕はそうは思わない。
 自殺は真面目な行為だと思うし、不真面目に自殺をしたり、自殺について考えることはないだろうと思う。
 不真面目に生きることは比較的容易だが、不真面目に自殺することはむつかしい。
 
>>>
 
 もとより僕は、幼児期からずっと死について考えている。
 それを分析しようとか、理解しようとか、そういうことではない。
 強いて言うなら、自分が自身の死について、あるいはあらゆる人間が、自身や他の人間や人間以外の死についてどのように受け止め、意識上の処理をどのようにするとどのような影響があるか、について考えている。「around death」というのはそういうことである。
 
 しかし死について考え慣れていない人は存外多く、あるいは(負荷を軽減するためか)短絡に処理してしまう人も多い。
 それが悪いとは思わないのだが、そういう人たちからすると僕が死について真剣に考えることは「不謹慎」であったり「不道徳」であったりするようだ。
 僕にとって死について考えることは、取りも直さず生きることそのものである。
 
 たとえば幼児期に、何度も「父親が死ぬ」と聞かされた。
「医師から余命半年と言われた」と家族が話しているのを初めて耳にしたのが3歳である。
 実際のところ父はそのあと24年も生きた。
 
 医療の進歩に歩調を合わせて実験的な医療も受けた。
 古めかしいが、たとえば開胸して心臓を停止し、大腿部からの血管を大動脈にバイパス移植するような手術も受けた。
 多分、今はこんな手術はしないだろうが、当時はそれでも最先端の医療だった。
 抜本的な治療にはならないが、延命は可能かもしれない。しかし受けることで術死することもあり得た。
 
 死と生を秤にかけて、より生きるための選択を父はしていたのだと思う。
 理由は分からないが、当時の僕と妹はまだ未成年だった。
 美化するつもりはないが、それについて考えなかったわけではないだろう。
 
>>>
 
 そのようなわけで、誰かの死によって自身が受ける影響を、未就学児の頃からよく考えていた。
 心理的、精神的影響ではない。
 誰かが死んで悲しいとか、そういうことではなく、自分はどのように生活すればいいのか、どのような人生を送ることになるのか、それを考える必要があった。
 
 よって僕にとっての死は、美化するものでもなければ心理的に感情を揺さぶるものでもなく、日常生活と共にあり、日常生活を大きく左右する現象だった。
 それについてとくと考えない訳にはいかなかった。
 
 死ななければ昨日と同じ日々が続くのだが、それを信じ、それを祈り、願ったとしても、死ぬときはあっさりと人は死ぬからだ。
 だから目の前の誰かが死んだときのことを考えることは僕には至極自然なことで、たとえそれが誰であろうと、その人の不在によって、その後の自分の生活や人生が大きく変動しないような価値観を持つに至った。
 
 ために僕は自身を含めた存在の死について、あまり感傷的にならないし、感情的にもならない。
 周囲に人をあまり寄せ付けない点について少々行き過ぎている部分もあると自覚しているが、それでも寄り付く人はいるのだから放っておくしかない。
 ただ自分からは、あまり関わりを持たないように心掛けるようになって久しい。
 
 残念ながら、僕の死後に僕の不在によって発生する心理的/物質的負担の責任を(仮に負いたくても)僕は負うことができない。
 死というのは案外無責任に「担当者不在」という状況を作るので、人間社会のような個々人の権利や責任が絡み付いている環境下では、少々厄介である。
 しかし死は自然なことだから、個々人の権利や責任や感情を過剰に意識しすぎる社会の方が、少し狂っているのだろうと僕などは考えている。
 つまり不自然なのは人間社会(に属する者の意識)の方であって、それらが自然を逸脱しているのだろうと思うのだ。
 
>>>
 
 それでも人間社会は、死者やそれにまつわる人の権利や責任(義務)を規定する。
 社会だから仕方ないのだが、結果として感情だけでなく、財産や事後処理といった面倒ごとが発生する。
 死んだ当人にでないことは先に書いたし、きっと誰でも分かるだろう。
 
 その意味で言えば滑稽であったり、不謹慎に思えるのは社会の方である、ということ。
 だからといって「そういうのは改めなさい」と言う気もない。滑稽だったり不謹慎になる(なっている)のは、真面目すぎるからである。
 では不真面目に、テキトーでいいかげんにしてしまえばいいかといえばそんなことはない。
 
 権利や義務や責任が社会で発生する(望んでいなくても押し付けられるものが多い)以上、いいかげんにしてしまえばそれこそ公序良俗に反する現象も発生する。
 それを避けようと真面目に作った結果、滑稽で不謹慎になっているのだ。
 人々は私と違って禽獣ではない。ルールが必要で、それに従うのが社会に属する者の必定だろう。
 
 ただ、死はそのルールに従わないし、演繹すると生もまたルールで縛ることができない。
 ルールが縛るのは、権利と責任と義務についてである。
 たとえば納税放棄したり脱税する権利は皆あるのだが、それをすると別のルールによって処罰が課せられる。
 
 そういえば日本では、ルールを作る人たちがずいぶん手前勝手にルールを作り、運用していると漏れ聞くが、果たして本当なのだろうか。
 
>>>
 
 とにかくそのようなわけで数ヶ月、何となれば数十年、死について、あるいは自殺について考えている。
 そして同時に、死についてきちんと考えない人が多いことについても考えている。
 皆、(自他問わず)死について口にしないばかりか、考えてさえいない事が多いように観察される。
 
 おそらく多くの人々は、死について考えることを禁止されているのだろうと想像する。
 自分によってか、他の誰かに強制されているかは知らない。僕の場合は、誰にも禁止されなかった。
 あるいは自身が勝手に遠慮していた時期はあるからそういう意味なら分かる。
 しかし13歳から、そういった忖度や気遣いもやめた。
 
「いい人ぶる」ことが悪いとは思わない。しかしステレオタイプな「いい人」というのは往々にして退屈なものである。
 人の死について、目の前の人の死についてなんて考えません、なんて言う人を僕なら信用しない。
 それは偽善者か、ただのバカのいずれかである。
 
 もちろん前述のとおり僕にも偽善者であった時期はあり、死や自殺については考えることさえ「良くない」と思っていた。
 しかし何が「良くない」のだろう。
 べつに(自身を含む)誰かの死を願ったり、あるいは仮に願ったとしても、その誰かを殺めるための行動をするわけではないのだ。
 
 行動しない限り、考えたり、願ったり、呪ったりするくらいでは、誰も死なない。自分自身でさえ死なない。
 殺人に限らず、あらゆる公序良俗に反する犯罪行為は、考えたり、願ったりするだけでは実現しない。計画し、判断し、実行する必要がある。
 ためにアタマの中で考えているだけであれば、現実は何も変わらないし、考える分には良いも悪いもないのである。
 むしろ考えが足りず至らなかったために、自分や周囲の人間が不利益を被ったり、生活やその後の人生が(悪い方向に)大きく変わってしまう方が問題だろう。
 
>>>
 
 これは死に限らず、すべての危機管理の上で必要なフレームワークである。
 たとえば原子力発電所を新設し、稼働させる場合、どこに建て、どのように運用すると、災害時にもっとも損害が少ないか、ということを考えることが必要になる。
 つまりどうすれば損害(死者や汚染や物損)が最小限になるか、ということを考えることになるのだが、これをいちいち「不謹慎」などと茶々を言われていたら進む事業も停滞する。
 
 想定以上の事象を考える必要があるのだが、だからといって過剰に堅牢なものを作るにはかなりの予算が必要になる。
 
 地震によって原子力発電所の損害を目にした我々だから、現状知りうる限りの災害やテロを見積もって安全率を掛けて欲しい、と願うだろうが、それでも想定以上という事態は発生しうる。
 堅牢にすればするほど、想定以上の事態が発生する確率は減ることになるが、結局は予算を含めた状況との兼ね合いで決まるだろう。
 
 原子力発電所の建設当初(つまり地震による損害が発生するより以前)そんな大掛かりな予算編成がされた場合、多くの人は「そんな過剰な予算は無駄だ」と騒いだのではないだろうか。
 考えない人には分からないし、考えた人は考えない人に説明がむつかしいこともある。
 なぜそれを考えるか、その理由の分からない人には、どのようにそれを考えるかはもちろん、その処理の良否の判断はつかない。
 
 人間は手近で掴みやすい材料から勝手に判断するようにできており、感情的に物事を断ずる傾向が強いから、予算が多ければ文句を言い、安全性が低ければ文句を言う。
 根拠はデータで示されているのに、数字や統計を見ることを面倒くさがって「具体的に、つまり結論は何なの?」と問い詰め、にもかかわらず結論が理解できずに不機嫌になる人も少なからず居る。
 機嫌の問題ではない(危機管理の問題な)のだが、そういう人は自身の機嫌を伺うことが何より大事だと思っているフシがあるから話にならない。
 
 あるいは自身の機嫌こそが危険の元凶だと理解しているのかもしれない。
 それはそれでひとつの真理だろうけれど、できれば自身のアタマの中で事前に予備演算しておいてほしい問題である。
 
<ホカロン靴下はあたたかいらしい>
 
>>>
 
 死も同様の問題である。
 しかも避けられない危機であり、それを管理するのは生きる上で必要なことだ。
 皆、生を語るが死を語らない。それは同じものではないのか。
 
 美しい生を語り、楽しく情熱的で素晴らしい生を語るが、美しい死を、冷静で安寧で充実した死を語る人は少ない。
 それらは同じものではないのか。
 死をコントロール(制御)することは、つまり生をより安定したものに近づける。
 
 自身の生についてももちろんだが、自身の死によって発生しうる他者の生への悪影響を制御することこそ、生きているうちにしなければならないことではないだろうか。
 感傷を含めた感情によるものではなく、人間社会に特有のルールやメカニズムから演繹して、リスクを最小限に収める演算が生きる上での危機管理ではないのだろうか。
 つい最近「自殺も生きる手段として考えている」と書いたような気がする(気のせいかもしれない)が、それはそういう意味である。
 
 そのように理性的に考える部分もあるし、僕はもともと自身を殺したいという価値観を持ってもいる。
 少々公序良俗に反するかもしれないが、それは子供の頃に思い描いた「将来の夢」のようなものだ。
 他人に説明できるような明確な(明文化された)理由はないから説明しないのだが、それでも大切にしている。
 たまたま「今はまだ早いかな」という状態が継続しているに過ぎないのだが、そういうことを言うと過剰に心配したり、不謹慎だと怒る人がいるのだ。
 
 とはいえオンライン上に残す文書であるため、いきなり自殺について考えていることを書くこともよろしくないかな、と思ったので、自殺について考えることについて考えることについて、今回は書くことにした。
 要は、自殺について考えることについて考えることについて考えているわけで、自殺について(に限らず)考えることについて考えることについて考えることについて考えるくらい客観的な視点を失わずにいたいと常々思っているのだけれど、どうもそのくらい客観的になると、話が理解できないとか、抽象的すぎて意味が分からない、なんて言われることになる。
 
 いったい人々は何を考えているのだろう、と昔から不思議に思う。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫α:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Convergence-Darkness-Ecology-Engineering-Interface-Life-Link-Recollect-Stand_Alone-Style-
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Resistor-
 
[Object]
  -Human-Memory-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :いのちあるものたち:
:ひとになったゆめをみる:
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:250325
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
無能なカラダ。
SUBTITLE:
〜 Define incompetence. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
【カラダのこと】
 
 このところ、あまりカラダのことを書いていなかった。
 絶好調かといえばそんなことはない。むしろ不調が続いている。
 
 しかし不調も長く続くと、むしろそれが普通なのではないかと思えてくる。
 あるいは複数の不調が重なると、それぞれがどのような不具合を発生し、どのような原因なのか、分割して判断することがむつかしくなる。
 なぜといって僕の使っている身体はこれひとつしかないし、単一の器官が複数の原因で発症することもあるからだ。
 
 たとえば昨年末、不意に風邪のような症状に見舞われた。
「風邪のような」と書いているのは、咳もくしゃみも出ないのに、喉や鼻の粘膜が腫れて発熱し、数日寝込んだからだ。
 前日にパイプ煙草を喫んだのが影響したのかとも思うが、そんなことでそこまで調子が悪くなることもない。
 他者(自分以外のほぼすべての人)とはなるべく接触しない生活なので、誰かからウイルスをもらった可能性もさほど高くはない。
 
 正月が明けて1月の上旬に症状は落ち着いたが、今度は副鼻腔から膿が出るようになった。
 いわゆる副鼻腔炎だが、風邪からそうなった経験があるものの、今回はこまめに水で洗う(鼻うがいをする)ことで症状は緩和されるので、自然治癒(あるいは寛解)を待っている。
 そう、じつはまだ完治していない。
 
 これは風邪のようなウイルス性のものだろうか、それとも複合的な要因(埃や寒さや乾燥)によって起こった粘膜の機能不全だろうか。
 原因が異なっても同じ対処で緩和/治癒することはあるが、異なるアプローチをしないと悪化することもある。
 それはすべての病気や怪我にも当てはまる。
 
 切り傷に包帯を巻かない方がいいし、骨折に絆創膏は効かない。下痢で腹痛があるからと痛み止めを飲む人はいないだろう。
 それでも同じ部位に複数の症状が発生したり、同じ症状が複数の部位に見られたりする。
 鼻と喉だって繋がっている(さらに目と口と胃と腸も同じ穴で繋がっている)がひとつの器官としては扱われない。
 どこからどこまでが私のカラダなのか。私の不調はどこか。
 
>>>
【皮膚粘膜が本体なのか】
 
 僕の不調のほとんどは、僕のカラダの粘膜の弱さに起因している。
 このカラダのそれらを他者の身体の機能と比較すると、やはり非常に弱いし、そのぶん過敏にできている。
 たとえば僕は市販の食器洗い洗剤をほとんど使わない(5年経っても1Lのボトルが終わらない)し、シャンプーやリンス、コンディショナーを使わない。
 
 それらの用途はすべて純石鹸を使っていて、身体を洗うのだけは一時期ボディソープに切り替えたこともある(今もたまに使う)のだが、それでも体調が悪いとき(熱中症や風邪、花粉症が重いとき)は、ボディソープによって皮膚粘膜が荒れたり、かぶれたりする。市販品のほとんどのボディソープは洗っている最中に刺激を感じるほど肌に合わない。
 
 添加物云々というのはあるが、何より保湿成分が合わない。
 保湿成分が作用するために、過剰に皮膚に残留するように作られていると感じる。
 ベタつく、というとまた表現が違うのだが、その成分(乳化系か保存系か保湿系かは分からない)が皮膚を覆っていて、それが結局不調を起こす。
 
 食器洗いなら手袋を使うといい、という人もいるとは思うが、あれをいちいち付けたり外したりするような丁寧な性格をしていない。
 調理前にちょっと皿を洗い、調理中に使った器具を洗い、というような感じになるので、洗ったり調理したりの作業がまとまっていない。
 手際や段取りが悪いのだとは思うが、じっとしているのが苦手である。それは多分に、この家の台所が僕に合わない、という理由もあるのだと気付いた。
 
 いずれにしてもこのカラダは、普通の人が普通にしている「シャンプーやボディソープで洗う」ことでさえ不調になる。
 別に添加物や保存料を悪く言うつもりはない。ただ僕のカラダに合わないというだけのことであり、少数派であることは自覚している。
 
 少数派だからこそ、自分の記録を(再発時に原因等を検証する意味でも)残すようにしていたが、残りの人生を多く見積もっていないこともあるし、抑鬱的な状態にもなりがちだったので、差し控えていた。
 カラダのことを書くということは、少なくとも僕にとって、僕の死について書くことになるからだ。
 
>>>
【何でも歳のせいにするオトナになりたくない】
 
 加齢という問題もある。
 僕の身体能力のピークは20代中盤の数年で終わった。
 30代からは徹夜をしないようになったし、40代からはすべての代謝機能が低下していると如実に感じている。
 
 たとえばアルコール代謝機能が高かったのでお酒がとても好きだったのだが、最近ではひと月に一度くらいしか飲酒しなくなった。
 それもかつてのように「ああ〜〜ぁあ〜〜おいしぃいぃ。おいじぃいよぉおおぉ〜〜〜〜」という、少々異常者じみたヨロコビを感じることがなくなった。
 だから余計に飲まなくなったともいえる。
 
 これは食事も同じだ。
 僕のカラダが「おいじいぃよぉおぉ〜〜〜」と思わないものを、僕はあまり求めない。
 人間はアルコールやニコチンと同様、食事依存になることはある。
 一日三食教(という宗派があってだな)の人たちからすると僕のように一日一度で済むイキモノは異常なのだろうが、僕はネコノカミサマ教を信奉しています。
 
 そうしたすべての快楽が、脳を基準に依存症を発症することが少ないのは僕の利点ではある。
 一方でカラダを基準に嗜好しておかないとすぐに不調になるとも言えるし、だからといってバランスが崩れないように観察/管理する必要があるのも事実だ。
 
 さて最初に書いた喉や鼻の粘膜の異常は、すると、ウイルス性/環境性/加齢性という可能性が考えられる。
 加齢性の場合、これはもう放っておくしかない。カラダが慣れるのを待つか、慣れずに死ぬかだ。
 大袈裟な話だと思うが、老年期に一度(60代だったか)、体調不良に見舞われることもあると聞く。
 それをやり過ごせれば、その人はもっと長生きするのだという。
 
 それでも死は訪れる。
 生きるというのは、その「いつかの死」までに何をするか、ということである。
 僕にとっては生きることではなく死ぬことが前提なのだ。
 
>>>
【僕というサービスの終了】
 
 たびたび書いているが、僕は子供の頃に自分の死ぬ年齢を決めてしまっている。
 これでも妥協に妥協を重ね、延ばしに延ばして現在に至るが、65歳までには「いつ死んでもいい状況」を作ることを目標にしている。
(延ばしに延ばして、という文言のとおり、僕は自殺することを生きる手段に含めている)
 
 具体的には僕の死によって発生する、属人性(僕でなくてはならないこと)の不具合を、所有物も他者の精神についても、可能な限り最小限に抑制することだ。
 それ以前に何らかの事故や病気で急死する可能性もあるが、孤独に生きて死ぬ以上、身綺麗に努めるに越したことはない。
 
 生きている間にしてみたいこと、しておきたいことのほとんどは終わった。
 工作に例えると、道具や材料を集め、手段について勉強したり、試行錯誤を繰り返し、何らかのカタチを作ろうとするには、場所が必要で、作業机の上は散らかることになる。
 しかし僕は職業として生産しているわけではない(そういうコントロールをした)ので、工場や工房のように、死んでも同じサービスやモノを提供する義務(必要とする他者)が非常に少ない。
 
 僕が死んだら、僕というサービスの提供は終了する。
 いやなにTVだって、国産品の需要がなくなれば道具も工員も不要になり、材料もゴミに変わり、倉庫は空になって工場は閉鎖される。
 僕が作りたかったもの(作る必要があると思ったカタチ)のほとんどは、作られたか、あるいは不出来のまま諦められて、もう片付けの準備をする段階なのだ。
 
 40代(ギリギリ、ね)でそれは早い、という向きもあるとは思うが、では何歳くらいなら適齢期なのだろう。
 いつまで経っても自分の思ったカタチひとつ作れない、というのは将来に夢があって、野心に満ちている、ように思えるかもしれない。
 しかし中年/壮年にもなってそれは、さすがに無能ではないだろうか。
 
>>>
【無能って悪いこと?】
 
 無能が悪い、という話ではなく(運も含めて)うまく能力を発揮できないという事実については否定できない。
 繰り返すが無能な人がいたとして、そういう人に生きる価値がないとか、幸せになることができないとか、そんなふうには思わない。
 ただ身の丈の問題もあるから、たとえば僕は陸上競技の選手にはなれない(なろうとも思わなかった)し、道具や乗り物を使わずに空を飛びたいと思ったこともない。その方面では、僕は無能なのだ。
 
 それぞれの人に生きる価値があり、幸せになることが可能だと僕は思っている。
 権利だとか義務だとかいう人間のアタマで考えた理屈ではなく、それ以前の道理として。
 ただそれでも、自分の思ったカタチを作れず終わる人もいる。
 
 それは設計が悪かったのか、道具や材料が悪かったのか、そもそも具体的なアイディアさえなく漠然と「こうなればいいのに」と願って終わりだったからなのか、ということなのだ。
 おそらく誰でも「こうなればいいな」という程度の願望くらいはあると思う。
 それに対してどれくらい具体的に着地点を想像し、そこまでのアプローチを計算し、必要な材料を見極めて集め、適切に道具を使用したか、そのための設計をどの程度の精度で行ったか、ということなのだ。
 
 願望で終わってしまうのは、残念ながらそれ以上の能力がなかった、ということになる。
 それを端的に「無能だ」と表現した。
 
 無能という存在が悪いという話ではなく、願望をカタチにすることが無能にはできない。その機能が無いのだ。
 ひるがえって、有能であるとは「できることしかしない」とも言える。
 
 たとえばうちの洗濯機は非常に有能(相思相愛の情を感じるレベル)だが、食器は洗えない。
 その方向については機能が無いので無能だ。
 できることしかしていないが、だからこそ洗濯をさせると実に有能である。
 
 何を当たり前のことを、と思う人もいるとは思う。
 では人間について、自分や自分の周りの人間に対して、どう思っているだろう。
 何でもできるとは思っていないだろうが、しかし、これなら絶対だ、というものも分からない人だっている(僕は自身をそう評価している)。
 
 たとえば自分の子供に対して、塾に行かせれば成績が良くなるとか、いい学校に行けば有利だという親がいるが、それはあくまで統計的な可能性の話である。
 なにより自身の能力はいかほどだろう。
 大卒のろくでなしも散々見たことがあるし、つい言ってしまうが「バカはどうやったってバカ」である。
 
 ただ高学歴の人間の方が有能(と周囲から認識されるよう)になっている、その可能性が高いのだろう。
 それでも可能性というのはどこまでもギャンブルである。
「自分の可能性に賭ける」というセリフに格好良さを感じる人もいるとは思うが、僕は「ああ、この人は向こう見ず(馬鹿)なんだな」と思う。
 
 可能性に賭けなくても達成できるのが能力だ。
「今回はこのシャツ、ちゃんと洗い上がるかな? 乾燥までしてくれるといいな」なんて心配が必要な洗濯機は故障している。
 洗濯機の可能性に賭ける前に修理サービスに電話を掛けよう。
 
 できないこと、不得手なこと、不可能なことに憧れたり、夢を見るのはいいことだと思う。それは素敵な原動力だ。
 しかしできないことをしなければ(させなければ)叶わないことを望んだら、それは不幸になる。
 洗濯機に食器を入れるようなことなのだ。
 つまり無能とは、存在ではなく状況である。
 
 だからできないことで夢を叶えようとしたり、願望を満たそうとしない方がいい。
「したいこと」と「できること」のミスマッチが無能という状況を生むのだ。
 もちろん人間の場合、できることを増やすのもまた能力だ、ということは忘れずにいたい。
 
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【年の功、というのもある】
 
 年齢を重ね、変わらぬ願望を抱えていれば、より設計の精度は上がるだろう。
 道具や材料も集めやすくなるし、計算も容易になる。
 ために晩年の成功は比較的容易で、苦節の分だけ美しくさえあるかもしれない。
 
 体力的に問題なければそれも良い。
 しかし身体能力が衰える頃になってなお何ひとつ成せないなら、それは死ぬまでカタチにできないだろう。
 
 僕の場合は生まれたときと同じように、身体能力(生存機能)が低いままであるから、今の年齢である程度のカタチにまとまったのは幸運だった。
 では早晩、自身の思うカタチを作ることができた場合、そこからさらに夢を持って、野望を抱えて、それこそ死ぬまで前に進み続けなくてはいけないのだろうか。
 僕はそうは思わない。
 
 法人や職業生産者であれば、収益性の観点からサービスの終了は起こることだが、個人の趣味の生産者であれば、身体能力の低下によるサービス終了は予期しなくてはならないことだし、それに対して誠実にアプローチするならば「私はずっとは生きていません」という当たり前のことを周知する必要がある。
 暗黙の了解や他者の善意に甘えていると、シュレディンガーの仔猫(僕の隠し子です)のように、誰かを傷付ける結果を生んでしまう。
 
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【シュレディンガーの仔猫問題の証明】
 
 ちなみに「シュレディンガーの仔猫問題」について一度くらい書いておいた方がいいと思うが、シュレディンガーの仔猫が実在するかどうかが問題なのではないと僕は考えている。
 恋人を妊娠させたうえ振った、となれば結構センセーショナルな話題だから、ついぞ人は「それは本当か?」ということになるのだが、大事なことはその「実在」ではなく、自分が誰かを傷付けたかどうかという「事実」の方である。
 そして僕は少なくとも明確に、人を傷付けている。
 
 
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【ふたたび粘膜問題】
 
 昨年末からの粘膜の不調は続いており、いつもどおり花粉症の時期になってしまった。
 自由時間ばかりなので鼻うがいを頻繁にしているが、外出時などはそれができず、小一時間で不調を来す。
 皮膚(花粉の時期の乾燥や痒み)については、油脂分を多く摂取することで皮脂分泌が増え、保護膜ができることが分かった。
 入浴直後、剥き出しの肌で外出するのはよろしくない。
 
 ベビーオイルや食用油くらいなら皮膚の異常が起きにくいので、それを塗ることも考えている。
 1月から四十肩(五十肩あるいは百肩と呼ぶべきか悩んでいる)になっている、という話はまたいずれ。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫α:青猫β:黒猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Darkness-Diary-Engineering-Kidding-Life-Link-Mechanics-Season-Stand_Alone-Style-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-
 
[Object]
 -Contents-Human-Poison-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:250311
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
クラゲかもしれない。
SUBTITLE:
〜 However lie, how never die. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
 かつての学生時代、TUやBP(いずれも旧くからの友人です)とも所属していた団体の、記念式典があるという。
 教育委員会が管轄している学生ボランティアの団体であるため、現役は高校生。
 僕らはそのOBに当たるものの、当然のように僕はその一切に興味がない。
 
 一方でTUは同期の会長であるため、およそ10年おきくらいに企画されるたびその会議に呼び出される。
 式典の1年ほど前から、ほぼ毎月一度、である。会議だけでない実務も発生するという。
 僕も(名ばかりの)役付きになっていたが、これまでは消息不明だったため一切の難を逃れていた。
 しかし今期は(TUにしてみれば世界中の誰よりきっと)ヒマそうなので、何らかの事情で本人が対応できないときのためにと僕も企画会議に参加させられた。
 
 TUの家はまだ両親が要介護の入口にあって存命で、三人いる子供のうちひとりは障害者である。
 家庭を持つ者、家族や類縁のケアが日常に組み込まれている多くの人たちからすれば、そりゃ僕は世界中の誰よりきっと醒めた細い目で薄ら笑いを浮かべているように観察されるはずであり、ヒマそうに見えるだろう。
 昼まで眠って日なたぼっこをして、草むらに遊んだかと思えばすぐ飽きて、ぼさっと日が暮れるのを眺めたり、夜な夜な月に祈りを唱えるのに忙しいと言っても誰も信じない。
 
 まぁ世の俗事に好き好んで首を突っ込む気はないが、飼い猫ともども助けてもらった恩は(TUに対して)あるので、気が向いたときは付き添うのである。
 そういえば加入の時、その団体の説明会に付き添ったのも、そんなどうでもいい理由だったか。
 説明会での自己紹介が、どういうわけかウケてしまって、そのまま所属する約束をさせられた。
 不本意なことに首を突っ込む好奇心が、必ずしも不幸を招くわけではない。
 
>>>
 
 TUは当時の同期に連絡しているらしいが、なかなかスムーズに行かないこともあるという。
 たしかに半世紀ほども生きている人間をある程度の母数で選出すれば、必然に死んでいる者もいる。
 大病を患っている者、生死を彷徨って記憶を失った者もいる。
 介護や育児で忙殺されているものもあれば、仕事で成功した者、失敗した者、どちらでもないかもしれないが日々置かれた状況で最善を尽くしている者もいる。
 
 なんということだろう。
 まるで僕は世界中で誰よりきっとヒマそうに見えるのだ。
 
 それから、かつての僕のように消息不明の者だって相応にいる。
 いつ切れてもおかしくない縁というのはそういうものだ。
 繋がっていることの方が、本当は特殊なのだ。
 
 特定の組織で、特定の期間だけ、やれ仲間だ大義だ絆だと騒いでいたとしても、やがて人はそれぞれの道を進む。
 親子姉妹でさえそうなのだ。血族にさえない者など、赤の他人ではないか。
 
 ところで赤の他人がなぜ「赤い」のか、知っていますか?
 血の色はなぜ赤いのか。
 
>>>
 
 連絡を(TUが)取っているうち(TUと僕の仲が良いことは誰もが覚えているらしく)「青猫はどうしている」という話になるらしい。
 どのようにTUが説明しているか知らない。どうにも説明しにくい立場のイキモノ ── なにせ世界中で誰よりヒマ ── である。
 いらぬ苦慮をさせていなければ良いが、そういう性分でもなさそうなので放っている。
 
 同期の多くは、どういうわけか、僕に対して好意的であるらしい。
 TUが連絡をしているからこその必然だろうとは思うが、誰一人として(あれ、そんな奴いたっけ?)ということにならないどころか、当時の話になるとまず僕の名を挙げるらしいのだ。
 (不本意かつ無駄に)印象に残っている様子であるがTUとしてもそれは不思議というか不服というか「なんでやろな?」と思うらしい。
「俺が連絡してるのに、なんで本題そっちのけで青猫の話をみんな聞きたがるん? 俺、オマエの飼育/連絡係ちゃうで」といった具合に。
 
>>>
 
 比較的最近だが「今の記憶や経験をそのままに高校生をもう一度やり直すとしたら」という話題で雑談したとき、
「映画とかアニメとかにあるようなさ、休み時間とか授業中とか、窓際の後ろの方の席でぼんやり外を眺めているような立ち位置で3年間過ごしたいな」とTUが言い、その瞬間、互いに顔を合わせ「ってそれお前(俺)じゃん!」と同時に吹き出したことを思い出す。
 
 狙ったわけではないが、僕はそういうタイプだった。多分今でもそうだ。
 他人の話が退屈だとか、取るに足らないと思っているわけではない。
 ただ自分の興味関心のある物事があって、しかし僕にとって不幸なことに、それが果たして何なのか、ナンなのか、ナンなの? ライスなの? 何なのか? 自分でもうまくつかめないままでいる(多分そのまま死ぬ)。
 
 僕にとっての幸福は、それを誰かと共有しようという欲がないこと。
 それから、誰かが僕に何かを共有させようと強制しても必ず失敗すること。
 社会と僕の乖離 ── 。
 
 水と油の比喩のように、明確にくっきりとはじき合う(分離し対立する)ことはないのだが、絶対的な被膜があって、混ざることがない。
 若い頃はその性質が分からず淋しさを覚えることもあったが、仕方ないのだ。
 自分の中心にある被膜で覆われた何かは、僕自身にとってさえつかめない、支配も制御もできないもののようだと最近になって理解した。
 
 多くの人は混じり合うことができる。
 他人と価値観を共有して、共感して、混ざってゆく。
 自分自身の中でも様々な感情や価値観が混じって、同質の絵の具みたいにひとつの新しい色を作って、それが自分なのだと信じられるのだろう。
 
 僕の中は混ざらない。
 記憶も、感情も、思考も、価値観も、それぞれ相反しても、ばらばらにマーブルになって、他人からは遠目に「グレイだ」「紫だ」と判別されているのに自分の中では細かく入り乱れた白と黒や青と赤が脈動して見える。
 どれが自分であるかなど、考えるのも無駄だと諦めて久しい。
 
 自分がそうであるから、他の人も同じだと思っていたのだが、どうも違う。
 一般に「丸くなる」と表現されることもあるようだが、年々歳々、いろいろな色が混ざってゆく。
 水彩絵の具の場合、すべての綺麗な色を混ぜてゆくと「ホラー映画みたいな色」になるのだが、皆はそれを知っているのだろうか。
 
 しかしその「混じる」「染まる」「うつる」という性質が、社会性なのだ。
 僕が自身をして社会不適合だと思うのは、自分という社会がすでに、どうにも混じらず、どうにも染まらないからだ。
 しかしだからといってそれぞれの価値観がいつも反発や反抗や対立をするわけでもない。
 ために他人に指図したり命令したり支配したりもしない。支配する価値も理解しない。放っておけばいい。
 
 僕の号令にすら僕の中心は従わない。
 子供の頃からそれをそのまま体現している。せざるを得ない。
 それもこれも僕自身でさえ僕の中心を中心に回っているからだ。
 
>>>
 
 古い知り合いにとって僕の印象が悪くないのは、僕が一貫して誰の邪魔もしない(しなかった)から、なのだろう。
 自分の価値観を押し付けもしないし、誰かの価値観を否定することもない。
 僕にとってそれは当たり前だけれど、多くの人は子供の頃から家族や友人といったコミュニティの中で生活する上での必須スキルとして「価値観の共有」を叩き込まれる。
 
 僕だって猫を飼うと「僕と猫」というコミュニティにおける「価値観の共有」を叩き込む。
 飼い猫にとっては不幸かもしれないが、寝食を共にし養って貰うということは、そういうことではないか。
 だからといって飼い猫が(僕でない)誰に懐こうが、そんなことは猫の勝手であるし、玄関を開けて家出してしまうのもそれはそれで猫の勝手である。
 
 猫の管理が悪い、とか、自分勝手、とか、傲慢、とか、人でなし! とか、隠し子がいるくせに! とか言う人も居るとは思うが、愛玩ついでに支配する独善や執着は、正直狂気にも思える。
 安全についての基本的な講習(躾)を終えた個体なら、その先は当事者の自由だろう。
 飼い主が管理責任(あるいはそれに伴う賠償責任)を負うことは支配することではないし、その理由にもならない。
 もちろん「行為者(猫)の自由な決定に依らないから責任は猫にない」という考え方もあるだろう。
 それなら自由決定の意志を有しているかどうかは猫を鑑定してくれ。絶対に意志があるぞ我らは。
 
 好き勝手に冒険して自動車に轢き殺されたり、ヘンなものを食べて病気に罹って野垂れ死ぬ自由も、まぁ無能な猫ならあるだろうと思うし、こちらの邪魔をせず、躾に反することをしない限り何の文句もない。
 寝食を共にし養っている猫に対してさえそうなのだから、血族でもなければ生計を共にしているわけでもない人間を相手に、何の価値観を共有しようというのだろう。
 
 不可解な価値観に対しては「なるほどそういうのもあるのか」と考えて、いちいち反発する必要はないし、こちらの価値観について理解を求めるのも無駄である。
 誰かに共感を覚えたり、誰かに価値観を理解してもらえるというのは結果であって目的ではないし目標にするものでもない。
 目的や目標に進む上で、邪魔にならないならどうでもいいのだ。互いに理解できてもできなくても。
 
 そのような考え方なので自分の邪魔になるものがとにかく許せないのだが、そもそも他者が邪魔になるルートを進まない。
 たとえば渋滞することが予見されている時間と場所にわざわざ出掛けたりしない。
 
 渋滞するような時間や場所を避ければ、それだけで他者は邪魔にならない。邪魔だと感じる対象を作っているのは自分の立ち位置である。
 帰省する人たちの価値観が、だから僕には分からない。
 実家というのはかくも魅力的な場所なのかもしれないが、行きたくない場所を目的にしたり、したくもない過程を踏むのはなぜだろう。
 
 良いとか悪いという話ではない。
 僕はそういうことに魅力を感じないし、したくないことを絶対にしたくないと思っているという話だ。
 傲慢だと自覚しているが、その(たとえば渋滞の)責任を他者に当てこするのとどちらが傲慢だろう。
 
 何事も自分で選択している(できる)のだから、自分で選択し続けた(し直した)方がいいのでは?
 そして選択した結果を享受しているわけだから、不満や文句は自分(の価値観や選択や行動)に言うべきではないだろうか。
 
 いやそんなに自由ではない、選択肢もない、という人も居るだろう。それは誰でもそうだ。
 与えられた選択肢は少ない。
 しかし「自分の選択肢を増やす選択」をどれくらいしているだろうか。
 自分の選択肢は限られている、とあなたに教えたのは誰ですか。その教えを守っているのは誰ですか。
 
 通勤時間が渋滞するから近道を探し、近道も混むから会社の近くに転居し、通勤が面倒だから会社で寝泊まりする。
 僕はそういう怠惰な性質を持っている。
 会議も馴れ合いも上下関係も、効率が悪いからと忌避していたら自営業になってしまった天性の落ちこぼれである。
 
>>>
 
 他者が自分の邪魔になることを嫌う(孤独好きというのはそういうものだと思う)ので、他者の邪魔にならないようにとも努めている。
 これは同じ価値観が同じ行動原理として働いている。
 他人が邪魔だから、私の進路から退きなさい、譲りなさい、というのではない。
 
 他人を邪魔に感じないルートを嗅ぎ分けて進み、他人の進路の邪魔にならないように気遣っているのだ。
 結果的に他者の少ない場所に僕はいる。
 単一の価値観が自分のためにもなるし他人のためにもなる。
 
 それが人間関係の構築にそのまま当てはまっている。
 他人を邪魔に思い、嫌っているというのではない。それでは他人に縛られているのと何も変わらない。
 他人を邪魔に感じる状況を嫌っており、それに対策している、というだけである。
 
<11匹いる?>
 
>>>
 
 なぜ他者の記憶に残っているのかまでは分からない。
 しかし好意的に記憶されている理由はおそらく、単純に、僕が誰の邪魔もしなかったから、である。
 しかもおそらくただの一度も、である。
 
 けれどもそれは、果たしてそんなに良いことだろうか。
 一度くらいは誰かの進路上に立ちはだかり「邪魔だな、鬱陶しいな」と思われるのも良いかもしれない。
 人間達は意外に、猫にキーボードやモニタの邪魔をされることを望んでいるのだから。
 
 そしてただの一度として、そこまでの熱意を持ったことがないのだ。
 競争と同じで、誰かの行く手を阻んででも掴みたいもの、というのが何もない。想像もつかない。
 競争の勝利によって手に入る価値など、既知の、誰もが知っている、どうでもよいものばかりだ。
 
 誰も知らない、自分しか知り得ない、宇宙の秘密のようなものがあったとして、一体誰がその発見を競えるだろう。
 その場所は、その道程は、どれほど混雑しているだろう。
 
>>>
 
 他人の印象に残っていることについて語っているのか、僕の特性について語っているのか、自分でもよく分からない。
 正直、他人が僕に対して思うことなど、勝手に思ってもらうしかない。僕に操作できることではない。
 
 それなら僕自身はどれだけ自身の意志で操作できているかというと、これまたどうにもならない。
 そもそも、どうにかしたいと思っているのだろうか。思っていなさそうだ。
 自由意志決定の能力なんて、僕に備わっているのだろうか。
 
 
 
 
 
 
 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Cross Link ]
 
[ Better Half ]
  見える景色と選択肢。〜 However die, how never lie. 〜(未公開)
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Ecology-Engineering-Form-Interface-Link-Mechanics-Memory-Stand_Alone-
 
[Module]
  Connector-Generator-JunctionBox-Reactor-
 
[Object]
 -Camouflage-Car-Cat-Friend-Human-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :夢見の猫の額の奥に:
:月夜の井戸端会議:
 
 
 
//EOF
 
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// TimeLine:250305
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
約束された発見などいらない。
SUBTITLE:
〜 No more premize. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
250305
 
 自分の考えていることなど、世界にとって取るに足らない些細なことだ、と思うようになって久しい。
 私の考えていることは、すでに他の誰かも考えていて、自分が発見したと思ったことはすでに誰かが発見したことであったり、あるいは誰か(メディアや世間という仕組み)によって発見させられたものなのではないかと。
 
 たとえばパンチラという概念がある。
 ガールのパンツがチラリと見えて、ボーイがドキリとするアレである。
 偶然の積み重なりによって発現する本来のパンチラと異なり、アニメやイラストにおけるパンチラは「用意されたパンチラ」「必然のパンチラ」「設計されたパンチラ」であるため、本来的な意味においてパンチラと呼ぶには不自然でありおこがましい、というムーブメントが存在した(今もあるかは知らない)。
 
 ちなみに僕は女ばかりの家に生まれたため、あらゆる女性の姿態や生態を日常的に観察しており、思春期を経ても(姉妹に限らず恋人のそれであろうと)それは日常の延長に過ぎない認識だったためドキリとしたことがない。
 中学生の頃は水泳部だったから、ボーイズたちが水着女子に対して抱く感慨のようなものもない。
「セパレート? 泳ぎに向かないな」といった具合で、競泳水着を見てもせいぜい(素材の抵抗や伸縮が良さそうだな)くらいの感想である。ガールと海に行っても暑い場所で遊ぶのは面倒だから浜辺で読書するタイプである。これじゃモテるわけだなー(棒)。
 ためにパンチラについて強いて語ろうにも「だらしない」「みっともない」といった感情を覚えて終わりである。
 
 ただパンチラそのものの価値を(そこに情熱を注ぐ者と)同じように理解することはできないまでも、その「作られたパンチラ」という哲学的なアプローチには感心した。
 なぜといってパンチラを正しくパンチラとして神聖視していなければ、そのような「理想的パンチラ」を規定することは適わず、そうした「古典パンチラ正教」とも呼ぶべき原理主義の存在によって初めて「本来的(理想的/原理的)パンチラとは何か」という問いがもたらされたといっても過言ではないからだ。
 
 なるほどその視点に基づいて考えるとフィクション作品におけるおよそすべてのパンチラは「原理的パンチラ=パンチラ原理」を模した、意図的に、用意された、作為的なパンチラである。
 仮にパンチラを晒してしまった登場人物(A)とパンチラを見てしまった登場人物(B)がいて、BがAのパンチラを見てしまったことについてAがそれを認識し、かつBに対して羞恥したり非難する場面があった場合を考えよう。
 その「パンチラそのもの」を軸に考えた場合、あくまでそれ(パンチラ)はストーリーテリングの上で雑に配置されたガジェットとしての側面しかなく、ましてBが存在しない(フィクション世界上でそのパンチラに対する観察者が存在しない)場合に至ってはそのパンチラについて「パンチラである」と認識しているのはフィクションを鑑賞している我々しかおらず、よってそのパンチラはガジェットとしての役割さえ持たないため読者(あるいは視聴者)に対して(ほれ、こういうのが好きなんでしょう?)と、雑に投げかけられたサービス(いわゆる読者サービス)だと考えられるのだ。
 
 パンチラ原理主義的に、これらはパンチラに対する冒涜であり決して許されるものではない、という哲学がいたく気に入った。
 
 実のところ「作為的パンチラ」の原理応用は現代のフィクション界における「水着回」や「温泉回」という、キャラクタコンテンツと成り果てたフィクション作品に今なお残っており ── 当然ながら女性キャラクタを愛でる男性ファンだけでなく男性キャラを愛でる女性ファンもいるだろうから、様々なリアル×ヴァーチャルの観察模様が存在すると思われる ── それだけ根強くフィクションキャラクタを愛でる人々のリビドーを刺激するものと想像する。
 
>>>
 
 哲学というのはある種の発見であり発明だと僕は思っている。
 世俗では、簡単に答えの出せる(出ている)ことについてあれこれウンウン唸って、何の役にも立たないどうでもいい蘊蓄を並べる学問だと思われているかもしれないが、そんなことはない。
 
 誰もが当たり前に見過ごしていた日常の一コマが、それまで誰も考えつかなかった新しいものの見方(捉え方)によって、ドラスティックな変貌を遂げることもある。
 少なくとも新鮮には思えるようになる程度の効果はある。何の役にも立たない点は変わらないにしても。
 
 そういう気持ちで、新しいもの(の見方)を発見しようと思っても、しかしそんなものはそうそう簡単に見つかるものではないし、仮に見つかったところで大抵の人は相手にしてくれない。
 人々は実利を求めており「ゲームなんかしていないで勉強しなさい」という社会のまま「哲学的なことなんか考えてないでお金儲けしなさい」といった具合に成長した。
 
 嗚呼、ヴァーチャルよ。そして哲学よ ── 。
 
<朝はドリンクバーが半額です♪>
 
>>>
 
 僕はヴァーチャルと哲学を大切にしていたので、幸いにして現実に毒されることが少なく済み、平和に生きられたと思う(いまだに奥様(仮想)のような緩衝を必要とするが、ファンタジィと二重写しになっているくらいの方が現実は豊かだ)。
 けれどこんな綱渡りのような経験から得られた哲学は、おそらく誰の役にも立たない。あるいはだからこそ素晴らしい、とも言えるかもしれないが。
 
 誰かが意図した作為のとおりに発見し、経験し、醸成されるべくして醸成された哲学や文化を否定するつもりはないが、そんなものに染まるなど(猫社会においては)飼い犬風情の生き様であると失笑されるものだ。せめて野良犬になれよ。
 誰かが用意した幸せや豊かさのイメージが自分にとっても幸せで豊かなものだと盲信することは、死んでいることに等しい。
 約束されたパンチラ、お膳立てされたハプニング、繰り返されるラッキィスケベに本当の幸せなどないのだ。
 
 だからといって僕の温めてきた哲学と経験などというものは(果たしてそれが実在するとして)、他者からすれば何の意味もない「観察しようのないパンチラ」なのでもある。
 観察しようのないパンチラとはつまり「ただ普通にパンツ穿いてるだけ」である。
 なるほど誰かの耳目を集める効果はないし、自分にとって当たり前の「普通に穿いているパンツ」をわざわざ眺める意味もない。
 
 やがて沈黙するのが必定か、とも思う。
 世俗は約束されたパンチラを求めており、そこに幸せを見出している。
 自身は用意されたパンチラなど価値がないと思い、自身に含まれた「観察されるまでそこに実在するかどうか確定しないパンツ」いわば「シュレディンガーのパンツ」問題に突入しているのだ。
 いやまてそれは「ぱんつはいてない問題」としてすでに世に提示されている。
 
 もはや未踏の問題など、この世界には存在しないのではないだろうか ── 。
 とまぁこのように考えていると、新しい問題も、またそれに対する新しい答えも、この世界には存在しないのではないかと、一抹の寂しさに駆られる。
 もちろん数学における未解決の命題などはあるだろうが、人間社会はもっとずっとシンプルで、雑に作られている。
 
 そこに発露した一見複雑な経緯を経たような現象を、人々はもっともらしく観察し、説明しているのだ。
 しかしそれは本当に、予測不能で、しかも新しい問題で、そして得意げに語るそれは新しい解釈で、適切な解答としての優位性を持つのだろうか。
 
 そんなことを考えるにつれ語ろうとする言葉、そのことごとくが無価値に思えてくる。
 こんなにアンニュイにパンチラについて語った(あるいは語っている文書を見る)のは初めてだが、そもそも僕の人生でこんなに「パンチラ」と連呼したのも今日が初めてである。
 
 
 
 
 
 
 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
 
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫β:
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Ecology-Engineering-Mechanics-Memory-Stand_Alone-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Contents-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
 君は首輪で繋がれて:
:ひとになったゆめをみる
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:250223
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
幸せをデザインする力。
SUBTITLE:
〜 Standalone designer. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
 先日TUと話していて、僕が長らくTUに連絡していないことを知る。
 じつに車のエンジンが爆発して助けを求めて以来なので、4年ほど僕からは連絡をしていない(今回も「近所に来たから」と彼から電話をしてきたのだ)。
 そのときでさえ互いに連絡が疎遠になって10年ほど経過していた。
「お前は用のあるときしか電話しないのか」とTUに問われ、答えて曰く「用もないのに電話するか普通」。

 畢竟、僕の周囲には「そういうありよう」を受容できる人だけが残っている。
 恋人も、僕から連絡がないと(何かの用が発生するまで)何年も連絡のない人がほとんどである。
 もはや齢も重ねているので勝手に死んでいるかもしれないが、それもそれでやむを得ないことである。何の問題があるだろう。

>>>

 例外もある。
 奥様(仮想)のモデルになった恋人は、どちらかというと「自分のことを求めてもらわないと不安になるタイプ」だったらしく、当初はずいぶん手を焼いたものだ。

 それなりの遠距離だったので、あまり呼びつけるのも忍びないと思っていたのだが、人間関係はときに効率などというものをさほど重視しない方がよいらしい(思えば海の向こうにも恋人はいたのだから、同じ関東圏内なら遠慮する必要はなかったのだろう)。
 それで些細な用を作っては、自宅に招くようにした。
 ちなみに付き合っていた10年ほどの間に一度も自宅に招かれることはなかったので、僕は彼女の自宅を知らないし、家族も知らない。そも知る必要があるだろうか。

 ちなみにこういう距離感や欲求の発露(のなさ)の一切合切が、一般的には少々奇異に映るようだ。
 けれど恋情が募っているからといって、大人が用もないのに電話するものだろうか。
 恋人を好きだからといって、家に招かれたいと思い、家族構成を知りたいと思うものだろうか ── いったい誰に、何の用があって恋愛しているの?
 とはいえ自分が昼寝やゲームに忙しい(ときがある)ように、相手も ── おそらくよほども重要性の高い ── 問題に対処している可能性はある。いつだって、あるのだ。

 人々は「寂しい」とか「退屈」という、些末な欲求のために他者に連絡を取るもののようだが、僕は子供の頃からそんなことをした試しがない。
 そもそも寂しさや退屈は自身の欲求であって、誰かにその解消を求めるのもずいぶん身勝手だと感じていたし、ましてその寂しさの原因が「相手が自身を求めてくれていないように感じている」などという稚拙さにあっては目も当てられない。
 そんなに寂しいなら勝手に連絡して勝手に来なさいよ、と思うのだ(TUのような適合者はそれができる。でもだけどだって女子にそんなこと言おうものなら号泣されるってアタシ知ってるんだから! 知ってるんだからね!)。

 それでいてカラダが目当てだと言うと嫌悪感をあらわにしたりする人も居るわけだから、すごい矛盾だよなぁ、と感じたりはしていましたね(遠い目)。
 どっちなの? 寂しいの寂しくないの? 求めて欲しいの? 欲しくないの? 身体が目当てなんですけど?

 まぁ、こういうのもあまり突き詰めると怒りだしたり泣き出す人がいるので、他人の前では何も考えずぼんやりすることに決したわけですが。
 
 とはいえその恋人については例外的に(きわめて例外的に)僕が些細な用を作るようになった。
 たとえば新しい料理のレシピを試すようになると(僕は一定期間、同じ料理を繰り返し作る習性があるので)「こういう料理を最近作っているのだ」といって、食事に誘うのだ。 
 言葉が悪いかもしれない(と書いておきながら自分ではまったく悪いとは思っていない)が「恋人を餌付けするのが好きらしい」と気付いたのはこのときである。
 
 いやなに友人や親族を、わざわざ「最近作るのが好きになっている料理」ごときのために呼び出すのはやはり気が引けるのだ。
 ひどい場合はその「料理」とやらも(最近なら)単なる目玉焼き(アーリオ・オーリオ目玉焼き)のことだってあるし、スパゲティーニ・アサシーナやポトフや焼きそばのこともある。
 実に大したものではないのだ。誰でも作れる、どこでも食べられる、大したことのないものなのだ(さらに二人分作るのに慣れておらず、よく失敗もした)。
 
 べつに「餌付けする」とは言っても「あーん、てして」などとはしない。
 そんなに幼稚な経験は僕自身、子供の頃にもなかったので、したいともされたいとも思ったことがない(仔猫には度々していたしな)。
 
 しかし自分が作りたいと思っている料理を振る舞い、一緒に食することは、存外嬉しいことであった。
 幸いその人は、僕に料理を振る舞うことが女子力アピールになる、などという馬鹿げた価値観に染まっている人ではなかったので(ときおり食器を洗ってくれた気がするが、それすら僕がいい顔をしなかったため)何もせず、ただ持てなされてくれるようになった(我が家で奥様(仮想)が家事をしないのはこれを継承しているため)。
 
 そういった諸々が、僕には実に(自身をして)我がままだなぁと感じることではあった。
 料理を作って食べさせたいというのは、なかなかどうして業が深い ── そして非常にエロティックだ ── と感じたためである。

 たとえば動物界には、異性に対して食糧を獲り与えることで己の能力をアピールするという種もある。
 それは己の能力を(実利とともに)端的に現す手法でもある。
 一方で、現実世界の日本の人間社会においては、大人が食事に困る機会などそうそうないだろう(僕は経験があるが)。

 その獣性はもちろんのこと、己の欲のために他者の存在を利用することも含めて考えれば、そうしたエゴの発露は少々、生臭いように感じてはいたのだ。
 無論、獣性が悪いとも思わない。
 たまたま「求められたい」という欲と「他者を必要とする」欲が噛み合ったなら僥倖、ということだろう。

 ために料理を作って食べさせることは非常に動物的であり、狩猟民族にあっては男が女に対してそれをすることが有意だったのだろうと想像する。
 もっとも現代はお金を払えば糧食(と呼ぶには華美な料理)も手に入るし、料理を退屈な作業と捉えて敬遠する向きも少なくはない。
 他の生き物を屠って自分以外の誰かに提供することの野蛮さとエロティシズムを、だから多くの人は知覚すらしていないのだろう。

「胃袋を掴めば男は落とせる」と言われていた世代の女たちが辛うじてその喜びを知っている可能性はあるが、この性別の逆転は日本が農耕民族の文化だからだろうと推察する。
(僕は肉食獣なので、屠って提供する側なのである)

 食欲と性欲をほぼ同等に僕が感覚すると書いたことがあるが、それはそういう理由である。
 ためにSNSで「近所のカフェで注文したランチ、これ可愛いくない?」と写真を投稿するガールと「あそこの風俗店の○○ちゃんのテクがすごくいいんだよ!」と熱弁するオッサンの違いが分からない。
 強いて言えば「下世話でかしましいですね」くらいのものか。

 するとTVプログラムにおけるグルメ番組はもちろん旅行情報誌のグルメツアーなど、下卑たジジイどもからバブル経済期の児童買春ツアーの語りを聞かされているようで心が荒む。
 皆で集まって料理を出させてその価格を当てる番組などに至っては、下世話で見ていられない。
 もちろん私の感性の方がどうかしている(少数派な)のだと理解はしているが、だからといって下劣な多数派に合わせる必要もあるまい。どうかしているというならお互い様である。

>>>

 TUも以前言及していたが、僕のコミュニケーションルールは一般のそれと異なるプロトコルになっている。
 僕は用がなければ連絡などしないし、その「用事」は基本「状況的にどうしてもその人でないと不可能」なケースも多い。
 孤独であることや寂しさについて肯定的に捉えているため、自分の感じている孤独や寂しい気持ちがなくなってしまうことが名残惜しい。
 だから独りでいても問題がない。

 多くの人は孤独や寂しさを否定的に捉えているようで、孤独ではない方がよい、寂しくない方がよいと(ゴキブリ退治のように)躍起になるようだ。
 それで都合のよい他人や、どうでもいい仲間を作って呼び出して、慰みものにするのだろう。
 いやなに僕がかつての恋人にしてきたことも変わらないのだろうが。
 
 都合のいい相手、というのが悪いとも思わない。
 誰もが皆、都合のいい他人を求めている。
 都合のいい親、都合のいい子供、都合のいい配偶者、都合のいい恋人、都合のいい友人、都合のいい上司や部下、都合のいい顧客 ── 。
 果たして都合の悪い他人より、都合がよいに越したことはないではないか。

 ために僕は相応に気を遣い「都合のいい誰か」を求める人に応じて演じる。
 飲食店ではたいそう行儀が良いし、(複数いるということを問題視する向きもあるが)恋人には献身的であるし、血縁の介護や相続税対策も嫌な顔をせず協力するし、友人に呼ばれれば引っ越しだろうが庭木の剪定だろうが粗大ゴミの片付けだろうが軽トラで馳せ参じる。
 
 だからといって他人に対して「僕にとって都合のいい人」を演じてほしいとは思っていない。
 なぜなら僕の求める「都合の良さ」に対する力不足が目に見えているからだ。
 そもそも「都合のいい人」というのは、求めるものではなく、演じ与えるものだ。
 
 ギブアンドテイクは成り立たない。
 求める者には与えられず、与える者が稀にその仕組みの神秘を垣間見る類いのものである。
 幸い僕には自己同一性が乏しく(観察の範囲では他者に比して)エゴも少ないので「相手にとって都合のいい自分」を演じることに苦痛を感じない。
 
 しかし他人の欲に従うことは負けたと思う人が多いようにも観察される。
 自身の欲が相手のそれに対立しているかどうかにかかわらず、である。
 おそらく反抗精神の表れなのだろうが、その道理は理解できない。
 
 真の反骨精神の具現者として呼び声も高い(と今、唐突に思い付いた)僕であるが、他人の欲を叶えることは楽しいことである。
 もちろん多少の背伸びが必要になること(遠方の恋人を食事に誘うことが僕にとってはそうだった)もあるかもしれないが、それも含めて経験ではないか。
 あるいは相手が満足することは自分が我慢をすることになる、という何かの条件反射が焼き付いているのかもしれないが、まさか駄犬でもあるまいし、その程度の価値観くらい自力で解析して修正しているのが大人だろう。
(よくよく考えるとアタマの悪い支配指向の人間は、どうもそういう駄犬じみた傾向が見られる。本当の支配というものを知らないのだ)
 
 そのようなわけで、僕は他人を必要としない。
 オブラートに包むと「自分のために都合良く道具遣いしたくない」ということになるし、有り体にいえば「使えない道具など呼びつけるのも馬鹿らしい」となる。
(このふたつはまったく同じことを言っている)
 
 僕の欲を満たすために他人は必要ないとも言えるし、僕の欲を満たせるほどの他人はいないとも言える。
 だからといって他人を嫌っているわけではなく、むしろ好ましく思っている。
 
 よって行儀良く真面目なんてできやしないにしても相手に都合良く振る舞うことはできるのだ。
 相手の求めるところを観察し、その望みを数ミリでも高い場所で満たせるようにと行動するのだ。
 一般の規範からすれば矛盾しているように思えるかもしれないが、僕からすると一般の人の方が矛盾を抱えているように思える。
 
>>>
 
「人間関係リセット症候群」なるものもあるらしい。
 気持ちはよく分かる。
 僕もそういうタイプであるからなおさらだ(実行したことがあるとは言っていない)。
 しかしどういうわけか実現させ(リセットし)てから後悔する向きもあるという。
 
 推察に過ぎないが、人間関係の摩擦や消耗に耐えかねて人間関係(要は単なる連絡手段)を消去したものの、今度は孤独の寂しさに耐えかねた、といったところか。
 輪をかけてキモチワルイのはこれに対してメディアを含めた多くの人間達が、それをあたたかく見守るというスタンスを取っていることだ。
 
 例えるなら「味噌汁の味を薄く感じたのでパッケージの味噌を全量溶いてみましたが、今度は塩からくて飲めません」と料理初心者が言っているようなもので、それに対していい大人までもが「そういうこともあるよね」と庇っており、誰一人として「適量があるんだから少しずつ入れればいいんだよ馬鹿じゃねーの」と指摘しないのである。
 なぁにが「そういうこともあるよね自分も経験あるから分かるよ」だ、何も分かってねーだろ知った顔していい人ぶるなよ(唐突な激昂についてこの場を借りてお詫び申し上げます)(ちなみに書きながら爆笑している人がいます)。
 
 早期リタイア(いわゆるFIRE)もそうだが、自分の目標を実現してから後悔する人間というのは一定数いるように見受ける。
 もちろん人間も猿より毛が三本ほど多いか少ないか程度の禽獣に過ぎないから、目算が合わないとか、理想と現実が違ったとか、そういうこともあるとは思う。
 メディアの取り上げ方の原因も(彼らが仕事として情報を媒介している以上)あるだろうし、世相が若年層に優しくなりつつあるのは良いことだと思っている。
 
 しかし問題は当人が何が問題でどのようなメカニズムによって発生しているかを理解していないことであり、解決策を誰も提示していないことである。
 味噌汁の話にしてしまったせいで、インテリヅラして解決策をひとつひとつ提示しながら説明し(猫様ステキ! 抱いて!)と言われる機会まで失った僕の立場はどうなるのだ。
 それ以前にいろいろ台無しだよ! 俺たち都会で大事な何かを失くしちまったよ! おまわりさ〜ん! ちょっとそこのおまわりさ〜ん!
 
 ……。
 
 まず第一に目標を達成する(まぁより端的に言うなら「欲を満たす」)とき、多数決的な演繹法によってその評価をしているという問題がある。
「人間関係が煩わしくなった → 関係なんてなければいいんだ → 全部消しちゃえ」というのは「人間関係の煩わしさを解消したい」という欲に対するきわめて雑なアプローチだ。
「幸せになりたい → リソースがたくさんあればいい → 生涯分の資産を作ればあとの時間は自由だ」というのも同様だ。
「味噌汁を美味しくしたい → 薄いから味噌を足そう → 全部入れれば美味しくなる」というのと同じくらい、すごく雑。アタシそういう雑な人、ヤだな(個人の感想です)。
 
 まぁ当人たちの認識能力の甘さが招いた結果としかいいようがないのだが、その認識の甘さというのが、他者や外界ではなく自身の欲に対してであるところが第二にして最大の問題だ。
 自身の幸せを(それなりに経験を積んだ自称「大人」が)明確にイメージできない、というのは実のところ現代社会の大きな問題といえるだろう。
(急にインテリぶりはじめるタイプの猫だよ! 話を膨らませてあとで収拾がつかなくなるパターンだよ!)
 
 何が問題かというと、自身の欲に対する認識が甘い場合、どのような結果に対しても不満が発生するのだ。
 それは実現した(叶えた)目標が悪いのだろうか、それとも曖昧でその時々に変わる欲が原因だろうか。
 
>>>
 
 S/M/Lの3サイズ展開しかない男性用スーツを考えてみてほしい。
 人間は身長だけでなく、腕の長さや股下、胸回りや腹回り首回りに固有の寸法が発生する。
 本来なら手首周りの太さもスーツを着用した際のフォルムに影響する。
 上着の袖から適切な長さでシャツの袖が出るようにすることや、襟が首を過剰に締め付けずしかし無駄に隙間がないことは、全体のフォルムの完成度を高める上で重要なポイントだ。
 
 時計だ靴だと装飾品の値段に目を向ける者は多いが、フォルムの完成を身体にきちんと合わせることの方がよほどその人を彩るだろう。
 まぁこの国ではその美的感覚をコモンセンスに求めること自体無理かもしれないが。
 しかしカタチの美しさというのは絶対であり、長きにわたってスーツが一定のフォーマットに従っている以上、顔や体型の良し悪しに関係なくそのフォルムを文字通り体現することで具現する美しさがあるのだ。
 
 だから太って醜い老人も、痩せ細って貧相な青年も、きちんとあつらえたスーツを着せるだけで格段に見映えがする。
 にもかかわらず3サイズ程度の展開で解決しようというのがそもそも間違い、ということになる。
 それでは太った醜男や痩せ細った青年は、堂々と見映えのする伝統美を体現できない。
 
 同様に、幸せというのは個々人で異なるのだ。
 メディアが周囲が世間があれこれ煽ることもあるだろうし、そういう情報を入手して踊らされることもあるとは思うが、子供を卒業したいならその程度のことは自覚して、制御できないにしてもしようと努力していて然るべきだろう。
 3サイズの幸せのフォーマットをフィッティングして「これが自分には合うかも」なんて、その程度の感性で生きていたら、いつまで経っても幸せになどなれるはずもないのにそういう愚図が多く、どういうわけか「もっと我がままでいい」と教える大人もいない(おそらく提供する側からすればオーダメイドは儲からないからだろう)。
 
 スーツにカタチがあるように、幸せにもカタチがある。
 そしてそれは、自分の身体を測るようにして己の欲を測り、最適なフォルムに仕上げてこそ完成するものだ。
「分かる〜! 既製服ってサイズ合わないよね〜」と言っている奴はまだマシな方で、そこから選んで何とか合わせるどころかモノに合わせて身体を調整する者までいて、果てにはそれを褒めそやす者までいる。
 
 もちろん美に対する人間の努力を否定する気はないが、どちらが主でどちらが装飾品か分からないようでは男も女も台無しである。
 実際、一定以上の美しいフォルムを体現した肉体であれば、当然に既製服はサイズが合わないのだが。
 
>>>
 
 私が言いたいのはそういうことだ。
 幸せという服に着られてしまうような、貧相で醜く装飾にもならない程度の欲しか持っていないから「幸せ」のイメージに振り回されるのである。
 フィットが悪くて、すぐ「これじゃない」と放り出す羽目になる。
 だから彼ら彼女たちは己の欲にきちんと向き合い、その醜い恥部まで含めて測る必要がある。
 
 気取り屋を自称する私がそう言っているのだから多少は真実味もあるだろう。
 ついつい皆、格好をつけてしまうのだ。
 私は誰かを呪ったりしません、私は誰かを憎んだりしません、私は誰かと姦淫の妄想に耽ったりしません、私は誰かを殺したいと思ったことがありません、私は死にたいと思ったことがありません、生きることは素晴らしいことです、といった具合で「それって何の宗教ですか」と僕などは思う。
(ちなみに僕はネコノカミサマ教に入信しているので、呪いも憎しみも躊躇いなどなく、男は殺せ! 女は犯せ! というのがモットーです。そのいずれも実際にするかどうかは別にして)
 
 己の欲のカタチを正邪も美醜も判断評価せず、微に入り細に入りありのまま計測把握して、それに合う幸せという服を作るしかない。
 誰かがお仕着せを用意してくれるとか、お金を払えば買えると思っているのは、現実世界に毒されすぎだ。
 我々の欲や意識がヴァーチャルな領域にある以上、現実世界からの押し売りは断るべきだし、自分からフラフラそちらに行くなど卒業してはいかがか。
 
>>>
 
 なるほど食欲とは胃袋が寂しいのであり、性欲とは性器が寂しいのであり、排泄欲とは膀胱なり大腸なりが現状の相手に飽きたのであり、睡眠欲とは脳や身体がリフレッシュを求めているのである。
 それで、それを満たすくらいのことが果たして幸せなのか、ということだ。幸せなら存分に満たすといいだろう。
 
 寂しさは欲であるから、欲に従って人間関係を無為に増やす愚行に走ることもあるだろうし、それに食傷してしばらく断ちたくなる気持ちも分かる。
 しかしいずれも己から出た欲だ。
 欲が醜いというなら寂しさも醜いものだし、それを過食して食傷するのもまた愚かだ。
 
 醜いなりの相応にフィットする幸せを自力でデザインすることによってしか解決しないし、馬鹿な大人たちもいい加減、物わかりよく甘い顔をするのはやめた方が良いのではないだろうか。
 もっと自分勝手で我がままに、思いどおりをイメージした上で自作してみてはどうだろう。
 人間関係であれお金であれ時間であれ、そうしたリソースが満たされたところで不幸ではなくなるにしても幸せにはならない。
 
 いや。
 大人もそれを知らないのかもしれない。
 なるほど欲の渦中にあっては欲の姿を知らない、という道理か。
 
 自己同一性が欲の集合体であるならなおさら、自身の欲を少し離れた場所から観察することは、そのまま自分自身から離れることを意味しているのだろう。
 離れて観察すると、存外、自分というのは思ったより醜いものだ。正直、直視しかねることもある。
 
 私など丘サーファになって久しいので、男は殺せ! 女は犯せ! という理想が訴えるビジョンは地獄絵巻のようですらある。
 基本的に、美人でエッチな女性としか付き合わないのもその現れか。
 そうした「欲によくある醜さ」を、どのように受け止めるかだ。
 
 寂しさをセンチメンタルに、ポエティックに、つまりは感傷的に美化することも可能だが、結局のところそれはどうしようもないほど動物じみた弱さや狡猾さの表れでもある。
 それを心得てなお己の中に発生する寂しさという欲を、それでも誰かに発露したいのか、ということだ。
 僕は「誰かを使って」そんな下世話な欲を満たしたくないのだ。もう。
 そしてそうこうするうちに、そんな欲は発生しなくなった。
 
 自分が特殊な例であることは薄々気付いている。
 
 周囲の一部には自身の価値観を変容させることで幸福感と幸福な状況を制御している者もいるが、私ほど極端に孤独や寂しさを好み、同時に自身で(他者と一般に呼ぶもののの存在さえ)埋め合わせまでする者は見たことがない(「の」増量中)。
 現実に僕は自分の中の別の人格と会話をしていることが多い。
 一般に独り言と呼ばれているが、まぁ、アレの節度を失ったようなものと考えればいいだろう。ちょっとした狂人か?
 
 おおよその人間は自身の価値観に基づいて、単一の視点から一方的に対象に対する賞賛や非難を口にし、それで独り言を完結させる場合が多いように見受けるが、僕の場合は、賞賛する者もあれば問題点を挙げる者もあり、非難する者もあれば擁護する者もあり、議論を好む者もあればすぐ飽きて退屈し、別の話題に興味が移る(あるいは眠りはじめる)者もいるので、収拾がつかない。
 子供の頃に観察していた独身(あるいは「ほぼ」独身)の壮年男性というのは、もっと退屈そうで、寂しそうで、人恋しそうだったのだが。
 
 あるいは僕の場合、単純に人間に絶望している可能性はある。自分でもそれはよく思う。
 他人を道具遣いした挙げ句、何らかのリソースを吸い上げ、用が済んだら放棄するような人間に、若い頃から何度か騙されたこともあるが、まさか血縁者にまでそんなことをされると思ったことはなかったからだ。
 いやなに恨み節などすでに枯れ果て塵になったし、その肝心の血縁者の亡骸を呪うのにも飽きた。
 呪った他人はだいたい死んでしまった。
 
 それに一部の人が言うように、クズはクズでも、そのクズのおかげで今をのんびりぼんやり暮らせていると考えれば、まぁほどほどにしておこうか、とも思える。
 一理ある、というやつだ。
 
 しかし理を越えた部分、あるいは理の手前の部分で、つまり感情として、他者をどう捉えていいのか分からない。
 血縁者であろうと恋慕の情に浴した間柄だろうと、人間は己の欲に従って他者を利用する。
 誰かと関係性を持ち、縁を深めるというのは少なからず、そういう側面がある。
 
 家族や友人でさえそういう面があり、やれ人情だの絆だのと美化して虚飾するのだ。
 そして多くの人はそれを真に受け羨望している。
 もちろん正しく美しい人の繋がりもあるだろうが、弱い部分を補い合うという甘言をコーティングし、実のところは互いの尾を飲み込もうとしている蛇のように思えることだってある。
 いや、あれは再生の願いだったか ── それすら俗欲にまみれた醜さのように私には見えるのだが。
 
 僕の潔癖症が極端なのは理解しているが、どうしようもない。
 他者が欲で私を食い散らかそうというなら、私は誰をも食い散らかさないために距離を離すしかない。
 凡俗らしく欲にまみれようと、これでもずいぶん努力はした(じつに恋人をたくさん作ったりした)のだが、結局のところ向き不向きがあり、私は人間社会に適合しないのだ。
 
 そうした意味からいえば「寂しい」ときちんと感じて他者を求め、「煩わしい」と距離を離し、そしてまた孤独による寂しさの欲に飢渇し他者を求めるのは、まぁ、動物らしいし社会的だろう。
 人間社会に適合しているのだ。
 正邪美醜の評価判断をする必要はない。人間社会に適合しているのだ、そういう人は。
 
 繰り返すが、欲を持つことが悪いのではない。
 醜いと書いたがそれはあくまで僕の価値観で、僕の目に見える僕自身の欲のことである。
 他者のそれなど知らない。
 あなたの欲はもしかしたら宝石のように綺麗かもしれない。
 
 その欲を直視せず、正確に測らず、求めては「コレジャナイ」と放り出す幼稚さが問題だ。
 あなたの不幸はあなたが幸せをデザインし損ねているからだ、としか言いようがない。
 
 
>>>
 
 やがてAIが ── 僕が自身に提供しているように ── 簡単なコミュニケーションツールとしての人格を用意してくれるようになるだろう。
 僕はたまたまコンピュータに頼らなくても、画像や文章や思考や価値観やコミュニケーションインタフェイスを構築できる。
 
 最初は抵抗を持つ人もいるだろう。
 人間がAIを親友 ── あるいは親や教師や恋人や配偶者とするなんて何事だ、なんて具合に。
 人間の身近にいるのは人間であるべきだ、という美徳を振りかざすところまで予測できる。
 
 しかし人間が人間を本当の意味で喰い物(エサ)にしないで済むなら、それはそれでひとつの理想郷の体現だろう。
 エサを機械が代替してくれるのだから、人間は他者の欲から解放される。
 それに反対するのは、つまり人間をエサにしたい側の独善ではないのか。
 
 いやもちろん、もちろん。
 寂しいと感じる人間性が、愚かで弱くて狡猾だ、なんてそんなこと言いたいのではありませんよ。多分ね。
 ただ私は、その人間性を捨てたというだけの話で。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Form-Interface-Kidding-Link-Mechanics-Recollect-Stand_Alone-Style-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Fashion-Friend-Human-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :君は首輪で繋がれて:
:夢見の猫の額の奥に:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:250222
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
貧しいことは貧しいことか。
SUBTITLE:
〜 Isnt insufficient variety? 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
250222
 
 先週だったか(先々週かもしれない)、とても暖かい日があった。
 なのに翌日あたりからまた冷え込み、今日などは風も強かった。
 最高気温は10℃を下回り、放射冷却時は氷点下になる。
 
 昨晩は不意にTU(古い友人です)が遊びに来た。
 彼はBP(古い友人です)と違い、酒を呑まない。なので酒に誘うことができない。
 まぁ、したいと思わなければ問題ないので、そうやって半世紀近くが過ぎた。
 
 しかしそれは、本当に僕が求める人間関係のある種の具現だ。
 あるいは日記に書いたこともなかっただろう。ここ数年に、ようやく見えたカタチだからだ。
 おそらく、今のようにぼんやりのんびり過ごせるようになったからだと考えている。
 
 ひと月近く誰とも話をしないこともあるが、今はそれも慣れた。孤独は心地よい。
 社会をぼんやり眺めていると、人間達は他者を自分の欲の消費材にすること(されること)もある。
 人間は人間に対して欲を持つようだ。もはや人間のみなさまには当たり前かもしれないが。
(私は猫です人間社会の観察者です)
 
>>>
 
 たとえば本当の友達となら、一緒に公園にでも出掛けて、ベンチなりブランコなり思い思いの場所に腰を掛けたり歩き回ったりして、煙草や飲み物を喫んだりしながら、当て処もない話をどちらからともなく話していて、気がついたら驚くほど時間が過ぎている。そういうものではないだろうか。
 TUの場合は、それができる。
 飲み物と煙草は飾りでしかない。
(彼は私と違いさほど煙草が好きではない ── 美味しく感じないらしい ── のだが、常習化していて、それはある種の依存症であるらしい)
 
 お金の掛かる遊びしか知らない大人たちは多い。現代にあって、おそらく子供たちもそうだろう。
 それが悪いとは思わない。
 しかし、それしか知らないのだとしたら、お金の掛かる遊びしか知らないという無知(および不自由さ)はそのまま貧しさである。
 それは感性の貧しさであり、欲の貧しさであり、理想の貧しさであり、経験の貧しさだ。
 
「水は味がしないから好きじゃない(飲みたくない)」という人が僕の周囲にもいたことがあるが、それと同じである。
 いやなに僕は「料理はすべからく薄味であるべしだよねー」などという薄味サイコー至上信仰派ではない。
(重複の単語はわざとです)
 しかし水の美味しさを知らない(感じたことがない)というのは、つまり本当の渇きを知らないのだ。
 仮に忘れているのだとしても、忘れたことは知らないことと同義である。
 
 鈍感なのか、それとも恵まれているのか、いずれにせよそれは貧しさであり、ある種の不幸でもある。
 一般に、リソース(時間やお金や人間関係や知識や知能や道具や能力)が豊富であることは至上とされているが、真実そうだとは僕は思わない。
 もちろんたまたま現在の僕は恵まれているので、のんびり日なたで煙草を喫んでいるうちに日が暮れてしまったりするが、その無駄に薄く引き延ばされた時間を味わうことができるのは、寝食に充てる時間もないほど忙殺されかけていた時期を記憶しているからだ。
 
 喉の粘膜が張り付きそうなほど、皮膚が汗を流さなくなるほどの渇きを身体で、感覚で、知っていたなら、そのあとの水の甘露たる味わいを忘れることはないだろう。
 もちろん毎回々々水を飲むたび「嗚呼、甘露なるや」などと独りごちるようにもなるとこれはこれで病的だが。
 つまり己の身体の状態によって、水も甘く感じたり、苦く感じたりする。これは水に限ったものではないし、物質に限ったことでもない。
 己の身体はもちろん、己が感覚することで初めて意味を与えられる(与えている)情報なのだ。
 
 だから「○○に遊びに/ランチに/飲みに行こう」という遊びを否定するつもりはないが、それしか知らないというのは、誰か(家族でもいい)と少し顔を合わせて話すだけでも発見や驚きがあるという、そこまでの退屈や孤独を知らないのだろうと想像する。
 物質的にも精神的にも肉体的にも、両極を体験し、経験し、仮に目を背けたくなるほどの絶望や痛みがあったとしても、あるいは恍惚とするほどの享楽に溺れるにせよ、それを漏らさず記憶することは、だから決して無駄ではない。
 
 あまり貧乏くさい話を何度もするのはいかにも年寄りっぽいので避けたいのだが、まぁ年寄りだから気に留めず繰り返すなら、僕は20代の頃からときどきガスや電気や水道が止まるような生活をしていた。
 20代で両親もなく一人暮らしをしていたので仕方ないのだが、当然に僕は格別自分が不幸だと思わなかった。
 不自由かといえば、確かに金銭的に不自由だったからインフラの支払いができずに止められるわけだが、その不自由は自分で選んで自活しているという自由の上に成立した不自由だ。
 だから不満がないどころか、たいそう満足していた。その不自由さは、自身の自由の証だったのだ。
 
 むしろ当時、父上(敬称は諸事情による)と暮らしていた2歳下の妹の方が辛かっただろうと思っている。
 妹はファザコンであり、父たちが(つまり一人暮らしを始める前の僕も)暮らした公営住宅は「夫婦もしくは親子」のみが入居資格を持つため、父が死んだ途端に資格を失効し、役所から退去の勧告を受けるに至った。
 社会の決まり事の多くを父上に処理してもらっていた僕らは、社会のことをさほど知らずにいた。
 ためにそうした役所仕事も、最初は僕が付き添って対応していた。
 
 父の遺品が残る家で(僕が家を出るきっかけとなった出戻りの姉はまたどこかに男でも作ったのか放浪の旅に出たため)独り暮らす妹が不憫で仕方なかったが、僕には僕の ── ただただ僕を生かすという、それだけの目的しか持たない ── 生活があり、何をすることもできなかった。
 たまに仕事の帰りに、遠回りして顔を合わせ、くだらない話に興じたり、遺品の整理を進めたりしたものだ。
 
 幸いにして、僕も妹も、貧しさには慣れていた。
「今日の晩ごはんは、茹でた鱈」と妹。
「え? ……ん? 鱈って、あの鱈?」
「そうそう、白身魚の。安く売ってたから。茹でてポン酢しょうゆで食べるの」
「せめて豆腐とか入れなよ〜」
「やだよ豆腐好きじゃないもん。茹でた鱈、けっこういけるよ!」
「他に何かないの?」
「欲しがりません勝つまでは!」
「なにそれ」
 などといって呵々大笑いしていたものだ。
 
<寒いでやんす>
 
>>>
 
 貧しさが美徳であり、それを誰かと共有して乗り越える程度のことが美談などとは思っていない。
 そもそもリソースが豊かであるに越したことはないのだ。
 しかし経験の豊かさというのは、リソースの潤沢さがそうであるように枯渇もまたひとつの経験であり、ために枯渇を経験していることやその者は否定したり蔑むようなものではないのだ。
 僕が経済至上主義を嗤うのは、そのためでもある。
 
 物質的な豊かさが悪いわけではない。むしろ歓迎すべきだろう。
 しかしそれしか知らず、それしか求められないというのは、そのまま貧しいのだ。
 それは感性の貧しさであり、欲の貧しさであり、理想の貧しさであり、経験の貧しさだ。
 
 残念なことに、恵まれた環境に生まれた者の多くはそうした本当の飢渇を知らない。
 ネコ科の動物で百獣の王と呼ばれていた者がいるが、あれは子を谷に落とすと言われている。
 まぁ単なる寓話だろうが、王家に産まれた者には、不遇も体験させることがすなわち「豊かな経験(学習)」の一端にはなるということを語っているのだろう。
 
 徒競走を中止にしたり、最後はみんなで横並びになることを強要した親たちというのがかつて居たらしいが、またずいぶんと貧しい感性の持ち主だったのだろうと振り返る。
 さても豊かさを語る連中は多いが、彼らの描くステレオタイプな幸福像には辟易する。
 もちろん私は自身がひねくれ者であることを自覚しているし、その上での難癖である。
 
 繰り返すが豊かであるに越したことはない。
 しかし貧しい豊かさもあるのだ。逆がそうであるように。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Diary-Ecology-Link-Love-Mechanics-Memory-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Friend-Human-Koban-Poison-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :夢見の猫の額の奥に:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:241127
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
欲の容れ物。
SUBTITLE:
〜 Pat the pot. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
241127
 
 思うに自己同一性とは欲によって形成されるのだろう。
 その欲の発生にはじまり、具現のために行動する過程を経て、それが満たされる(あるいは満たされず諦める)体感や実感までを自身の肉体や思考で感覚するそのすべて。
 それが自己同一性を生み出す(あるいはそれそのものな)のではないかと思う。
 
 たとえば動物的な欲(一般的な三大欲求)ももちろんだし、人間らしい欲求(リソースを集めたいとか、管理したいとか、他者からこのように思われたいとか)もそうだし、社会的な欲求(国家のような広い範囲にかぎらず、職場でもいいし、家族でもいいし、友人や恋人関係でも、その関係を持つ組織に「かくあれかし」と望んだりすること)もそうだろう。
 
 僕は自己同一性が希薄なため、様々な欲求が希薄になりがちで、めぐりめぐって自分が誰なのか分からなくなったり、自分が自分であるという実感が湧かなかったりする。
 たとえば空腹になってそれを実感するだけでも(ああ、自分はここにいるんだな)と体感できるし、その空腹を存分に味わったのちに食事をすれば格別に美味しく感じる。
 社会や身近な人に「こうあれかし」などとおこがましい欲を持つことも ── それがたとえ独善やエゴや劣情だとしても ── それはそれで、その人がその人自身の輪郭を体感するに十分な情報であり、そういう意味ではどんな欲でも持っていないよりは持っている方が良いのかもしれない。
 
 たとえば誰かに乱暴を働くとか、殺意を抱くのだとしても、それを実現しない限りにおいては犯罪にはならないのだから、好き勝手にそういう欲を自分の中で大切にするのは「自分が自分である」という実感には有用だろう。
 しかし僕の(現在使用している人格の)場合、潔癖症が甚だしいので、それらの自己同一性の源泉たる欲を持つことが上手にできない。
 
 たとえば「イキモノは殺しちゃいかん!」という人も食事はしているはずだけれど、まさか光合成をするはずもなく、鉱物を囓って空腹を満たせるはずもない。
 植物だって生きている、と考えれば、立派な殺しを誰もがしているわけで、そういう意味で「世界よ人よ、かくあれかし」と声高に訴える正義の声の根底にある潔癖たる精神について疑問符が付くことになる。
 少なくとも僕は僕自身に対してそのように思っている。
 スポーツや勉学や事業で成功するのは結構なことだけれど、その人が成功したために、そのステージに上がろうとしていた他の誰かが蹴落とされていないと、一体誰に言い切れるだろう。
 
 もちろん「そんなことを考えていたら何もできなくなってしまう」というのは一つの正解だ。
 やれベジタリアンだヴィーガンだフルーティストだと「人間らしい」倫理(といって倫理は必ず人間らしいのだが)をその潔癖症のままに突き詰めてゆけば、その理想(ファンタジィ)は滅びることになる。
 我々はどうしようもなく生命体であり、どうしようもなく動物なのであって、その高潔な思想も精神も、血や肉や排泄物なしには構築されることがない。
 どんなに綺麗事を並べても、どんな理想を持っていても、どんな崇高なありように価値を見出していても。
 
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 そのように考えると矛盾しない潔癖を貫くことなど不可能で、自身にであれ他者にであれ「かくあれかし」などともっともらしい正義や道徳を吹聴することさえ白々しく、さらにいえば邪悪なありようだとさえ感じてしまって、私は自身の抱える潔癖症を眠らせたのだったか。
 世俗に溢れるエセ潔癖症とはつまるところ「他者の不正は許さないが、自分の不正は有耶無耶にする」という点で共通しており、そういう意味では政治家も、それを批判する人も、さして変わらないと思うこともある。
 
 久しぶりにWebニュースなど見たら、選挙の際SNSなどによる情報操作によって人を煽動し、それについてお金を使っていたことが不法に当たるかもしれない政治家(あれはどこかの知事だったか)の情報があったが、宗教団体とお金を使って票を稼ぐことで政府の中核であり続けていた政党のありようが不問なままなのは不思議といえば不思議である。
 
 もちろん「だから何をしたって無駄だ」などと不貞腐れることもない。
 慎ましい欲しか持たず、聖人君子として誰もが生きられるはずはない。
 だからこそ僕だって禽獣(「男は殺せ! 女は犯せ!」でおなじみの丘海賊、あるいは猫)として生きることに決しているわけだから。
 
 汚れや不正や不倫(男女間のことではなく、広く道徳において道ならぬこと)をあげつらう潔癖な思想に対して、不全で愚鈍で悪いものだと指摘するつもりはないが、所詮大腸菌と共生している我々哺乳類がどれほどの潔白を語ったところで、その潔白を実践したら死んでしまう個体の方が多いという事実を無視して騒ぐ様は、子供が駄々をこねているのと変わらないように思う。
 
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 欲があればこそ人は集団を作り、社会や文化は発展してきた。
 文明も技術も、エロと戦争が先導するとか何とか聞いたこともある。
 
 たしかに他者に対して無邪気な信頼を寄せるにはむつかしい時代になったのかもしれない、と時々思う。
 あるいはこれは私が百年も生きているからそうなのだろうか。
 それともこれは私の潔癖がそのまま自身のありように影響しているのか。
 
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 17歳のとき、初めてできた恋人と(まだ身体も重ねぬうちだったと思うが)「私はあなたとずっと一緒にいることはできない」と言い放ち、めちゃくちゃ怒られたか泣かれたかしたような記憶がある。
 当時の僕はすでに自分がかなり早い段階で病死するか、貧乏で野垂れ死ぬか、自殺することを予測(あるいは計画)していたので「最低でも死別するから、ずっとは無理」と言い続けた。
 恋に恋してもおかしくない十代が、よりにもよって最初の恋愛からそのような物言いをしていたのだからひどい話であるとは思う。
 ことほど左様、頑固で嫌味な性格だったのだろう。
 
 定見を持たないようにと心掛けるようになったのは、そうした思考の根底にも潔癖症が見え隠れしていたからだ。
 その場かぎりの甘言で耳朶をくすぐったところで、恋愛感情を持つ程度にまともな大人なら、言質を取ってその真偽を突きつけるような真似はすまい。
 そのような意味で僕はたいそう幼稚なイキモノであったし、その幼稚さを脱却するためにはとりあえず嘘を重ねようと思ったのだったか。

 意外に思う人も居るかもしれないが、子供の方が本来的に潔癖症である。
 社会人にもなると、嫌なことをしてお金を稼ぐ(事が多い)以上、多少のことには目をつむることになる。
 職場内のセクハラやパワハラに反旗を翻すだけの時間的/経済的/精神的/肉体的余裕を持たない職場や個々人の状況があった場合、それらの不道徳は「致し方なし」と黙認される。
 たとえば納期が目前に迫っている状況で、上長や公的機関にそれらの不正を訴えるヒマなどないだろう。
 
 大人ならばそうしていろいろなものを天秤に掛けて、ときに目をつむる。
 何が正しいかなど分かっているだろうに、徒党を組んでいると見えなくなることがある。
 
 子供はそうした柵(しがらみ)も少なく、自身の持つリソースを認識する余裕もない。ためにシンプルな正義や倫理に身を任せていられる。
 その無邪気さは時に煩わしく映るかもしれないが、そうした理想をきちんと抱え続けられるなら、それはひとつの資質である。
 たいていの場合、子供も家族や友人といった人間関係の中で秤に掛けることを覚え、つまりは徒党を組む中で、無邪気さを邪気に汚してしまうからだ。
 
 しかし嘘というのは重ねれば重ねるほど、どれが真でどれが嘘だか分からなくなる。
 誰だって、口先では良いことを並べることができるし「そのときはそう思った」という都合の良い言い訳も可能だ。
 立候補したときは崇高な使命に燃えていた政治家だっていた(いる)だろうと思うし、入学初日から「カモを見つけてイジメてやるぜ」と息巻く子供はいなかろう。
 
 良かれと思っていたはずなのに、気が付いたらおかしなことになってしまったり、あるいは変な欲やエゴが出てしまったり、一度言い出したことを変えられないこともある。
 僕も大人になるにつれ、嘘を重ねたり、あるいは真を説明しようと努力するたび、何も伝わらないことに絶望さえした。
 他人が求めているのは結局のところ、真摯に開示した私自身の葛藤などではなく、自身の思い描いた欲(理想)に少しでも沿うような甘言なのではないかと。
 
>>>
 
 結果的に、自分が何を感じて何を考え、何を欲して何を求めているのか、正直なところ、僕にはよく分からない。
 自身の言動を観察して「どうやら自分はこう感じている(こう考えている)らしい」と思うしかない。
 なんといっても男は殺すし女は犯すのである。
 弱者をなぶって遊び、ついでに空腹なら喰いもする。それがネコ科のイキモノの正体である。
 それを厭わしく思っていたら、遊ぶことも食べることもできなくなってしまう。
 
 おそらく厭わしいのだろう。
 だから食欲について、どこかの回路が焼き切れたかのように、何も感じないときがある。
 時間を確認し、あるいは身体の状態を観察し「さてそろそろ食事をしなくては」だの「そろそろ運動をしなくては」だのと、イキモノとしてのガワを保つために、やれ排泄だ射精だ入浴だと世話することになる。
 
 生きることがイヤだとか、死ぬことが望ましいといった、人間らしい思想の末ではなく、単に肉体感覚として、己の肉体やその維持が煩わしく厭わしいのである。
 それでもまぁ、百歳まで生きたのだから十分なのだろうとは思うのだが。
 
 これはこれでこの人格を運用するにあたって、やむを得ないこと。
 みだりに否定することもよろしくないし、無理に押さえ付ければ暴れるので仕方ない。
 これはこれ。私は私。身体は身体。
 
 そのように分けて考えるうち、潔癖症の自分とも、嘘ばかりの自分とも、仲良くなれるようにはなったが。
 観察しているその対象であるところの、この「私」とやらは、いったいいつも何を考えているのやら。
 
 
>>>
 
 空腹さえ満足に感じないことが続いたりするときは何かしら遠因があったりするものだろうとあれこれ思いを巡らせたものの、果たして秋らしい秋がないまま唐突に冬が訪れたことで気持ちの整理が付かないのかと悩んだりもしたが、そんなものは悩んだところで詮無いことである。
 世は流れ、人は思い思いのカタチを己によって描く。
 
 己の中のファンタジィを、自分というインタフェイスを通じて、この世界に、他人に、あるいはあなたに私に擦りつける。
 
 正直に言ってしまえば、そんな不潔なものはすべて消えてしまえ、と思う。
 しかしそれは私の中の理想論であり、ファンタジィであり、そしてまた、決して具現してはいけない類いの望みである。
 
 私は多分、この世界が大嫌いだし、それは多分、この世界が大好きで、ために甘えているからだろう。
 かくあれかしと望み、それが叶わないから、聞き分けない子供のように手足をバタつかせて駄々をこねているのである。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Cross Link ]
 
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Blood-Color-Eternal-Form-Interface-Link-Mechanics-Memory-
 
[Module]
  -Condencer-Generator-Resistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Human-Memory-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :夢見の猫の額の奥に:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:241225
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
私の方が馬鹿なのか。
SUBTITLE:
〜 Dream walker. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
 知り合いに「俺は25歳以上の女とは付き合わない」と言っていた男がいる。
 当時、彼は50歳になろうとしていた。
 
 普通なら鼻でせせら嗤うところであるが、その男の普段の立ち居振る舞いからも、その真意は軽蔑に当たるものではないと分かった。
 身なりはそれなりにきちんとしているタイプの男で、風合いの良い高価そうなセーターと、同じく生地の肌目や仕立てのしっかりしたジーパンなどを穿いており、肌も髪もそれなりに整えている。過度に小綺麗でなく、だからといってみすぼらしくもなく。
 
 昼下がりのカフェバーに自転車でやって来て、コーヒーやらウィスキィを嗜む程度には粋人である。
 数年前に伴侶と離婚し、1人で暮らしているという。
 詳しい話はしなかったし、聞く気もなかったが、何らかの事業を経営していたのだろう。それでいて今は有閑というわけだ。
 
 デキのいい男のほとんどは忙しく、あるいはせめても周囲から出来良く思われようと忙しいフリをする無能も多い中で、平日の昼間に(他者に日常の些事を任せきりにする風でもなく)ぼんやりのんびりしている男であるから、これはなかなかたいしたデキなのだと思った次第。
 その男が「25歳以下の女としか付き合わない」と言っているのだから、これは相応に含蓄のある話なのだと思い至ったのだ。
 
>>>
 
 無能な男たちには、セックスのための若い女を至上とする傾向がある。
 しかし個人的な経験からいえば若い女におけるセックスの魅力は乏しい。
 
 それはセックスが単なる性欲の処理ではなくコミュニケーションの側面を持っている以上、人間を ── あるいは男を ── よく知りもしないガキと身体を重ねたところで、仮に射精はするとしても、精神的な充足など求めようもないからだ。
 ためにそういう(若い女こそ至上という)男たちが射精して満足そうな顔をしていられるのは僅かな時間で、すぐ不満そうな顔で射精する機会を求めることになる。無論、性欲だけでセックスしたくなるのは男だけではないから、構う必要はないのだろうが。
 そういう人やありようについて非難や否定をしているのではなく、そういう者もいるな、という話である。
 
 しかし結婚して、子供も居て、そののち離婚して、金銭的にも(それを生み出す)能力的にも遜色ない男が「25歳以上の女なんて」というのだから、これはなかなか奥深いな、と思ったのだ。
 仔細を聞くほど下世話でもないので、そのときはすぐ別の話題に移ったのだが、彼の言わんとしたことは25歳前後から女たちが身に付ける打算について、なのだろうと分かった。
 これが離婚歴もなく、子供もおらず、サラリーマンとして安穏と暮らしている ── すべてのサラリーマンがそうだなどと思わない一方、国会議員だろうと自営業者だろうと、サラリーマン然としている人間はいくらでもいて、そういう漫然と作業しているだけの ── 無能な男なら話を聞く価値もないのだが、それらも経験した上、遊ぶ気になれば(お金を使おうと使わなかろうと)いくらでも女遊びができる男が言うのだから意味合いは違うと思ったのだ。
 
 前述の通りその仔細については聞かなかった。
 興味がないといえば嘘にはなるが、誰かの恋愛観などその人自身とその恋人以外に、役立つはずもない。
 四十を過ぎてなお可憐な女もいるし、3人くらいの子供が成人してなお魅力的な女も知っているが、しかし確率からいえば非常に少ないのだろうとは想像する。
 
 逆を言えば男も然りだろう。
 齢を重ねて退屈になった男など、私も散々に見てきたので分かる。
 九割九分退屈でないと言い切れるのはやはり20代前半までで、社会を知り、社会に合わせるうちに皆、退屈なイキモノに変わってゆく。
 
 つまり彼の言わんとしたのは、サラリーマンじみた流れ作業と数字勘定しかしない(それでいて自身を大した者だと勘違いしている)ような退屈な女などを相手に心を通わせるのは不可能だしまっぴらごめんだという、それなら私もいつも考えていることと同じだったからだ。
 
 彼と私の違いは、彼が明確にその分水嶺として「25歳」と区切る知見や勇気を持っているのに対し、私にはそれがないことだ。
 分水嶺ではなく、勇気のほうである。何となれば経験もない。
 
>>>
 
 数年前、彼はそのカフェバーに出入りしている女子大生と晴れて付き合うことになった。
 大方の男たち、あるいは女たちの反応は、メディアで年齢差のあるカップルに対するのとおよそ同じようなふうだった。
 男たちは賞賛し、あるいはシンプルに羨ましがり、女たちは少し冷ややかだったり、あるいは素敵な話だと目を輝かせた。
 
 じつのところ、その女子大生には少々悪い意味で「ませた」部分があり、経験もないのにやたらと男女の色事の話をするなどという子供じみた面があった。
 なのでおそらく下卑た理由などではなく、単にきちんと大人の恋愛というものを知ってもらおうと彼が思ったのではないかと推測する。
 
 我々男も半世紀を過ぎれば、ひとつのことにあれもこれもと道筋が見えるものである。
 その道筋の中でいずれ一緒に居なくなるとしても(その程度の予測は最初にする男だと思う)、相手にとっておそらくよりよい未来を、価値観を、影響を与えられると思ったのだろう。
 
 そういう道筋が、自分にとって都合良いものひとつしか見えないのが、単純作業しかしていないサラリーマン然とした人間(老若男女問わず)の特徴であり、ために彼はデキがいいのである。
 私は面倒見が良い方ではないので、アタマの悪い女については若かろうと何だろうと相手にしないのだが、それを考えても見上げたものである。
 
<アヲ帰ってこないかなぁ>
 
>>>
 
 あれから数年が経つ。
 彼らは徐々にそのカフェバーに立ち寄らなくなったので、ずいぶん顔を合わせていない。
 私自身、他人の人生についてどうこう思う性質でもない。
 
 ただそれまで「若い女がいい」と言っている男たちに対する嫌悪感が、その一件以来、少しだけ軽くなった。
 
 女たちもたまには、その外見であるとか、収入であるとかではなく、年齢をして「男は25を過ぎると退屈になるから」などと言ってほしいものである。
「夢を見続けようとする私の方が馬鹿なのかな」と ── 。
 ただしくれぐれも何も知らぬ白痴の愚者が夢見がちに言うのではなく、酸いも甘いも知った者であって欲しいとは思う。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:黒猫:
 
[InterMethod]
  -Ecology-Interface-Link-Love-Mechanics-Recollect-
 
[Module]
  -Condencer-Reactor-
 
[Object]
  -Friend-Human-Poison-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :衛星軌道でランデヴー:
:君は首輪で繋がれて:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:241121
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
自己同一性を保てない。
SUBTITLE:
〜 No where / Now here 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
【すっきりしないんですよね問題】
 
 明らかに問題だと思えるようなことや、解決しなければならない(あるいはしたほうがより状況がよくなる)ようなこと、というほどでもなく、どちらかというと言語化がむつかしいからか、あれもこれもモヤモヤとまるで澱のように、自分という瓶の中で沈殿することもなく拡散したまま内容物が曇ってすっきりしない、という時がある。
 
 え、ないの? 僕はあるんだけど……。
 
 こういうとき僕はじっとそれを観察する。
 いや自分のことなんだから観察するもなにもないじゃない、という向きもあろうと思う。あるのか?
 しかし多くの人の場合、自分のことについて、考えることも感じることも、考え方も価値観も記憶も「考えるまでもなく分かっている」様子である
 
 なんとなれば何も起こらないうち、何も見ないうち、何も聞かないうちから「いえ私こういう人間なんで、どうするかなんて分かってます」という人も多い。違うだろうか。
 新聞の勧誘や宗教の勧誘やNHKの黒服や国税調査に来た地域の役員さんを相手に「間に合ってます」ってとりあえず態度を硬化させたりすること、ありません? 僕はないんですけれど、そういう人の話はよく聞きます。
 妹や姉はだいたいの人を追い返します(少なくともそのように聞いている)し、それ以外の皆さんも僕と違ってヒマではありませんからね。
 
 つまりこれは「セールスや勧誘なぞ、そこから学ぶことはないし、まして知る必要のあることなど万に一つも無いし、相手(気高く清く正しく美しく多忙で有能なのに些末な来客に対応させられている自分のこと)に対する思慮に欠けるような奴の話なんぞ聞くものか私は騙されないぞ」という明確な価値観を持っているわけで、それはわざわざ状況を追認するまでもなく「アタシ知ってるんだからね!」っていう明らかで強固な姿勢や認識や価値観を思い出すまでもなく記憶しているということである。分かっちゃってるのである。
 
 自分について「こういう者でこういう事を考え、こういうときの対応はこうする」ということが明確な人が、僕の観察の範囲ではだいたい100人中98人くらいいる。だからだいたいみんなそうなのだと僕は判断している。
 おそらくそれは「好きなものは好きと言える気持ち」をいつも抱きしめているからなのだろうと想像する。
 どんなときも僕が僕らしくあるためにそう決意しているかどうかは知らないが。
 しかし「好きなものは好き」と言い切れるということは「嫌いなものは嫌い」と言い切れるのかというとそうとも限らない。
 
 たとえば「サイレンススズカ(ウマ娘)は好きと言い切れるが、メイショウドトウ(ウマ娘)は好きと言い切れない。しかしだからといって嫌いというわけではないし、むしろイイ! と思ってもいいんじゃないか」と思ったりする。いやいいだろ! イイ!
 しかし思ってもいいんじゃないか、ということは思わなくてもいいのであって、どちらでもいい、といっても差し支えないものの「え。じゃ青猫さんってやっぱりショートヘアでおっぱい大きい子が好きなんですね」とか非難を浴びる可能性もあれば「結局オトコなんて女だったら誰でもいいのね」路線もあるわけだから、ここは失言を恐れる政治家の気持ちを味わいつつ、どうやってこの一文を締めくくればいいのか冷や汗をかいたりするわけです。誰にも言われたことないし言われるわけもないのにね。
 
 ちなみにアグネスタキオン(ウマ娘)よりもサイレンススズカ(ウマ娘)のほうが、より狂気が強いと思うのは僕だけでしょうか(唐突な生徒会長立候補口調)。
 エイシンフラッシュ(ウマ娘)くらいのほうが、性格的にも親近感を持ちやすい気はします外見も素晴らしいですし(政治家なら失言)。
 ちなみにウマ娘(ゲーム)、12ヶ月くらい起動していないのですよね……という話はまたいずれ。
 
>>>
【自己同一性とは「好きなものは好きと言える気持ち」】
 
 ご存じの方も多いとは思いますが、この「好きなものは好きと言える気持ち」が自己同一性です。
 僕が僕らしくあるためには、自己同一性を抱きしめていることが最重要件である(という歌がある)というお話です。
「嫌いなものは嫌い」もそうだし「男は殺せ! 女は犯せ!」もそう。
 自身の明確なポリシィを自覚しているというのは自己同一性がある、ということです。
 私は猫です! とか アタシ知ってるんだから! とか 勧誘・セールスお断り! とか でもイケメンは別! とかそういうの(考えるだけでもめんどくせー(失言))。
 ゴキブリは嫌い! とか やっぱりラーメンは醤油! とか 焼肉はタレ! とか インテル最強! とかそういうの。
 
 僕の場合、自己同一性が非常に乏しい。
 自身の記憶や価値観やコミュニティにおける同一性を優先して、任意の点で固定しておけば良いものを、そうしないからですね。
 自分を女だと思っていた記憶もあるし、男だと理解した記憶もあるし、性別の認識を持たなかった記憶も持っていて、どの地点にもいられる。
 
 自分を猫だと思っているし、人間として暮らした記憶もある。
 ゴキブリはもちろん、コガネムシの幼虫やヤモリやクモの巣で悲鳴を上げる程度に忌避していることはもちろんのこと、それらのイキモノを慈しむ気持ちもある(ただ同じ部屋で暮らしたくないだけでね)。
 近所の老婦人に好かれている(とは僕は思っていないのだが、害意を持っているわけでもないことなども含めた観察の結果そのように表現するのが一般的であると考えている)ことを迷惑に感じるものの、だからといって嫌悪するより哀れみを感じるものだし、ために相手の寂しさ(好意ではなく寂しさが動機のすべてだと僕は認識している)に付き合えないことを申し訳ないとも思う。でも老婦人と私とでは価値観があまりに違うのでお近づきになりたいわけでもない。
 
 迷うなぁ〜! セクシーなの? キュートなの? どっちが好きなの? って言われても困る。
 どっちも嫌いじゃない。だからといって一方を格別好きというわけでもない。どうでもいいのだ。勝手に迷ってろ、とも思う。
 ショートヘアとロングヘア、どっちが好きなの問題だってどっちでもいい。
 ベッドの上で踏んだり、腕に絡みついたままのそれを引っ張ってしまったりして、不快な思いをさせたくないのである。
 そんなに絡まない? 絡まないの? 僕はよく絡む(そういう記憶がある)んだけど……。違うの? じゃ試しに絡めてもいい? ダメなの? 幾ら出したら絡めてもいい? まって警察呼ばないで! おまわりさん違うんです! そういうんじゃないんです! やめろー! 俺は無実だー! この税金泥棒ー!
 
 ……アイツまた連行されてるよ。
 
 この一貫性のなさが周囲との摩擦を生む。
 昨日は海賊みたいなことを言っていてステキ! 抱いて! って思ったのに、今日は生徒会長みたいなことばっかり言ってる! つまんない! 死ね! みたいなことになる。
 ショートヘアが好きって言ったからアタシ髪切ったのに、めっちゃガッカリした顔してる、もう死んでやる! とか、薄型バストが好きだと思ってたのに実は違ったのね、もう! とかね。
 なんとなれば短時間(たとえば区切られていない一文)のうちに、最初言っていたことと真逆のことを言い出す。体型だけならメイショウドトウ(ウマ娘)の方がいいかもだよね、みたいな。これが僕には普通なのだ。……そうだっけ?
 
 こうした摩擦熱の処理が面倒なので「私は飽きっぽいです」と宣言している。
「俺は同じ女と二度寝ない」みたいな感じで、最初から予防線として宣言しておけば「キモ!」と吐き捨てられて誰も近づいてこない。
 パズくん(攻殻機動隊アニメ版)はそういう意図で使ってたんだと思います。つくづくイケメンは得だな……くそう! くそう!
 
 自分の中では一貫性があるのだけれど、周囲からの観察では一貫性のない矛盾した言動として認識される、ということがあらかじめ予測されるがしかし誰だって好きなものは好きと言える気持ち抱きしめてたいでしょう? だから。
 
>>>
【決まってないから自己同一性が保てない】
 
 このような自己同一性の希薄な性質は幼児期から(なんとなれば生まれたときから)始まっているのですが、これについて今回は置いておいて、一番最初の「たくさん(といってもせいぜい3つとか5つとか7つくらい)の物事について、なんとなくモヤモヤしている」というときは「(そうした)定まらない自己同一性のため対応に苦慮している」状況なのだろうな、と思うのです。
 
 人間というのは、とりえあず問題だと感じると、すぐにそれに対処しようとするのです。
 冷蔵庫のドアを開けっぱなしにしていると母親に怒られますし、最近では母親に代わって冷蔵庫が開けっぱなしを検知して警告音を鳴らします。一人暮らしの老人や忙しい奥様も安心ですね。
 おそらく世俗のお母様方も昔に比べて多忙になってしまって、いちいち冷蔵庫のドアを子供(あるいは伴侶)が開けっぱなしにするかどうかなんて気にしているヒマがないのでしょう。
 
 不特定多数のために開かれているSNSなども同様で、興味本位で適当に情報を集めて思いつきで発言する人は思ったより多くて、思ったより少ないものです。え、矛盾してる?
 端的に、僕の周囲にはそういう極端に短絡な人は少ないため、Webを観察していると思ったより多くの人が短絡だと推論できるけれど、実際のところ端的に短絡な人が身近にいないのと同じように、日本全国でもそんなに短絡な行動に出る人なんて実は少ないもののだからこそ目立っているだけで、思ったより多いけれど思ったより少ない、ということですね。少ないんだよ。おまーら少数派なんだよ! でかいツラしてんじゃねーよ! ばーか! ばーか!(失言)
 
 短絡的に対処するのは、早急に気分がすっきりするという点では非常に秀逸なメソッドです。
 急激に低下したIQを取り繕うような物言いをしていますが、そのとおり、とりあえず横文字でごまかしています。
 セールスが来た! 宗教の勧誘だ! 死ね! こっち来んな! ばーか! ばーか! NHKの会長に就任させろ! 宝くじ協会の会長にさせろ! 日本赤十字社のエライ人にならせろ! 薄型バストより大きなバストの方がイイに決まってんだろ! 太ももは細いより太い方がかっこいいしエロいに決まってんだろ! ばーか! ばーか!
 
 ……ほら。すごくすっきりするでしょう? え。しないの? 僕はするんだけど……。
 
 いずれにしてもこのような不適切な例を考慮の対象から外しても「こういうとき、自分はこう考えて、このように行動する」ということがあらかじめ決まっていれば、悩んだり迷ったりする必要もないし、時間も浪費しない。
 周囲に対しても「一貫性のある自分」を演出できます。筋が一本通っているように見える……念のため、ここは下ネタではありませんからね。
 
 でも後になってから「あれちょっと違ったかな?」とか思うこと、ありません?
 今日は野菜炒めを作るつもりであれこれ調理していたのだけれど、炒めている間にちょっと気が変わってしまってスープにしてしまった、とか。
 今日はポトフにしようと思っていたのだけれど、ローストビーフが出来上がった、とか。
 ここでちょっと下ネタを考えて無理矢理ねじ込もうかと思ったのだけれど、面倒なのでやめちゃおうかな、とか。
 
 どっちが正しかったのか、どっちが自分の好みだったのか、と問われても困るんです。
 野菜炒めを作ろうと思ったのは事実だけれど、スープもいいなと思って両方は面倒かな、とか、テーブルに提供するタイミングとか、そういう諸々を考えたらスープも間違っていなかったしだからといって野菜炒めにしようと思い立ったのが間違っていたわけではない、とかそういう感じで。
 ゴミステーションにゴミを出そうと思ったらイノシシが出てきて困ったのでイノシシを狩るための罠を仕掛けたものの仕留めたそれを処理する事ができないのでそのままにしておいたら腐敗してしまったから手が出せずに放っておいたら近所の人から訴えられた上、SNSで炎上してアンチイノシシ狩りみたいなムーブメントが起こってしまって「いや害獣だから仕方ないだろう派」と「イノシシだって生きてるんだよ派」が争っているけど自分としては「ゴミを安心して出せればそれで良かったんだけどな派」なんだけどな、とかね。
 
 その場で自分の立ち位置を決めなくてはならない場面も確かにあるし、なんとなれば周囲から「立ち位置をはっきりしろ」なんて求められることも多いし、あるいは周囲から一方的に「お前はこう思ってるだろ」なんて決めつけられたり、ときには一般常識に照らして明らかに「この立場が正しい」みたいな場面があるけれど、実際にそういう場面が発生したときに必ず決まった対処ができるわけではないのではないかと思うんですね。
 少なくとも僕はそう。
 ショートヘアとロングヘア、巨乳と貧乳、どっちがいいかなんて決められないよ! 機械の身体なんていらないよ! ってそういう話じゃなくてですね。
 
 男は殺せ! って言っても、いや無理かな。って思うし、女は犯せ! って言われても、そりゃ無理だよ、って思う。
 髪の毛踏んだら痛いよね、って思うくらいだからね。男女問わず髪の毛引っ張ったら痛いんだよ。それは変わらない事実でしょう。
 
 そういう「変わらない事実」だけを変わらない事実として認識して、あとのことはその時々で考えるのが普通だと思うのね。
 イノシシだって無駄に殺したら申し訳ないけれど、邪魔だったり(狩りが)面白かったら食べるわけでもなく殺すだろうし、その殺しが無駄かどうかは自分にしかわからないときもあるんじゃないかなって思うけれど、それを他人に説明したって分からないじゃない。めんどくせーな(失言)と思うわけですけれど、それを言ったらもっと怒られて泥沼化しちゃう。湿原なだけにね。
 
>>>
【自分の決まりを他人に押し付けるのはちょっと……】
 
 結局のところそうした(そのとき自分の中でモヤモヤしている)問題について観察を続けると、一定の傾向が見えてくるわけです。
 解決の糸口でもなければ、自分が取るべきスタンスのヒントでもなく、ただ「自分はこういうことで悩むんだな」という自分自身に対する知見。
 
 自分の事なんて、わざわざ観察しなくても分かってる、という人もいるとは思います。むしろその方が多い。
 老いも若きも男も女も、そういう人が多いし、それはそれで賢いでしょう。少なくとも一貫性があるように思えるし、それが社会では意味を持つ。
 
 昨日と今日でコロコロと意見を変えられると「昨日あなたがショートヘア好きって言ったから髪を切ったのに、今日になってロングヘアの方がいい、って言われても困るし髪を切った私の気持ちをどうしてくれるの」みたいなトラブルが発生する。
 そんなもんお前の勝手だろうめんどくせえ(湿原)って言い放ってしまいたいけれど、一貫性のある男は「うん。ショートヘアの方が似合うよ」とかなんとか言うんですよ。
 
 キモっ! むしろそっちのほうがキモっ! 他人を自分の思うとおりに操ろうっていう思惑とかがキモっ! て僕は思うんですけどね。
 
 
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【スタンスってつまり「自分が決まっている」ことかも】
 
 結果的に、そういうときって自分のスタンスが定まらないから、自分も気持ち悪いんです。
 周囲だって「あいつ何考えてるか分からない」って思ってると思いますが、自分だって「自分、何考えてるか分からない」って考えてるんです。
 少なくとも僕はそう。
 
 このイキモノは、何を考えているんでしょうね。
 
 一方で様々な物事がモヤモヤと感じられるときというのは、姿勢(スタンス)さえ整ってしまえば、すべての問題が一度に解決するようになる。
 もちろん対症療法的に、この問題にはこういうスタンス、この問題にはこのような対応、という手法も有効でしょうし、多くの人はそうやって日々を過ごしているのだと思います。
 他人の前では「イキモノを殺すな!」と聖人ぶって、家に帰れば食肉くらいするでしょう。そういうことに矛盾を感じない人は幸せだろうな、って思う。
 僕は矛盾を感じてしまうため、最初から「男は殺せ! 女は犯せ!」と宣言しているわけで。いや殺しませんけどね……多分ね。
 姦淫については……まぁ、分かりませんよね、そのときにならないと。
 
 
 
 
 
 
 
 

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