// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:250513
// NOTE:
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TITLE:
うつつの世界のSAN値チェック。
SUBTITLE:
〜 the Lunatic. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
250513
 
 夕刻から夜に掛けて、二度に渡って近所の老婦人の襲撃に遭う。久しいことである。
 詳細を書くつもりはない。詮無いことである。
 
 かの老婦人にせよ、介助している姉にせよ、観察している範囲において人間というのは孤独に弱い。
 他者というのは、自意識を明確に持てば持つほどその輪郭を厳密に定義する上で必須のもののようだ。
 
 観察する限り姉は年齢相応に偏屈な部分もあるが、そも生来のこだわりの強さが他者との摩擦を発生させやすく、そこで疲弊してしまうために比較的孤独を好む。
 
>>>
 
 ここでいう「こだわり」というのは、決して良い意味ではない。
 僕は「こだわる」という言葉を良い意味では使わない。
 
 たとえば「こだわりのラーメン屋」とか「蕎麦職人のこだわり」といった単語は「ああ、アタマが硬くてイカれた個人経営者が偉そうにしているのか」と思う程度である。
 辞書を引くと分かるが、そもそも良い意味の言葉ではない。
「こだわる」というのを漢字で書くと「拘る」となる。
 思考が余計なことにとらわれてしまい、その個人の思考がその人自身を拘束し、その不自由さが周囲にも悪影響を与える様のことだと認識している。
 
 技術が優れている、とか、精細な作業を容易くこなす職人を表現するならば、そのまま言葉にすれば良い。
 おそらく良い意味で使われ出したきっかけは、ある種の皮肉だったのではないかと想像する。
「あの店の主人はこだわっているから」というのを「頑固で偏屈」という意味で使ったが、受け取った側は「ひとつの道を突き詰めた」と思ったのではないだろうか。
 
 意味が標準語から逆転することは古今にもいとまがない。
 たとえば「ヤバい」という形容詞も、昭和の時代は「危険だ」「胡散臭い」といった感覚で用いられていたが、今は単なる感嘆詞として作用している。
 意味合いとすれば「すごい」といったようなことか。
「超ヤバい」「激ヤバ」「めっちゃヤバい」「すごくヤバい」というのはいずれも「すごくすごい」という意味であり、その前後にある評価を強調する意味しか持たない。
「ヤバくてヤバい」ということだから「ヤバヤバ」という言い回しが生まれるかもしれない(たぶん生まれない)。
 
 古くは「矢場(名詞)」から「矢場い(形容詞)」と転じたのではないかと思う。
(そもそも弓矢を日常に使わない現代日本において「矢場」は地名を残してほぼ死語である)
 名詞から形容詞に転じていることから、そもそもスラング的な言い回しだったろうとも想像できる。
 
「こだわる」というのも同様、ある時点でそれまでの意味から反転して良い意味の、褒め言葉のように使われ始めたのではないか。
 あるいは何らかの技術者が謙遜して「無用のこだわりを抱えておりまして」と表現したのかもしれない。
 料理であろうと工学であろうと一切の技術者は、より広くより多くの人の幸福感に貢献するために技術を用いたいと思うものだ。
 
 その中で生まれる哲学が、技術を研鑽する動力としても働くし、研鑽のうちに哲学が生まれ(あるいは変容)もする。
 しかし初心にあるべきは「より広くより多くの人の幸福感を高める」という気持ちではないだろうか。
 少なくとも僕は技術の根源をそのように認識している。
 
 そのような心持ちを考えた場合、こだわりというのはあくまで自身の思うエゴに過ぎない。
「こうしたらもっと喜ばれるのではないか」という気持ちが徐々にねじれてしまい「こういうカタチが楽しいだろう」という思い込みや「この部分はすごいと賞賛されるはずだ」という虚栄心や承認欲求になってしまうことは往々にしてある ── 少なくとも僕はある。
 要は策に溺れるということだ。
 
 そのような自省の機会があれば、技術者(職人と言い換えてもいい)は必然に謙遜することになる。
 自身が突き詰めようとする道について果てなどなく、己の内にある良い哲学や理想と同時に、それそのものがときに醜いエゴや驕(おご)りに傾く不安も抱える必要がある。
 そしてそのいずれもが、己という存在の独善的なこだわりに過ぎない。
 
 もしかしたらそうした意図が、外側から観察して美しく思えたのかもしれない。その結果「こだわる」という言葉が美化されたのではないかと。
 いずれにしても現時点で僕の手にしている辞書による限り、こだわるというのは単に「独善による不自由」という意味に過ぎない。
 自分で自分や周囲をがんじがらめにしているだけの、哀れに矛盾したありようを指している。
 
 ために褒め言葉としては使わない。
 
>>>
 
 普遍的に偏屈者や頑固者というのは、この「こだわり」を強く他者に発露する者という意味が多いように思う。
 自分自身の中であれこれとこだわるのは自由である(それでもこだわりなど持たない方がいいと思うが)。
 しかしそれを他者にまで発露すれば「余計なお世話」となる。
 
 これは支配傾向の強い性格の人にも強く現れる。
 他者の考えや行いについて一事が万事、微に入り細に入り「すべからくかくあるべし」と強要するような姿勢のことだ。
(ちなみに「すべからく」の誤用も面白いので調べてみては?)
 
 偏屈者のこだわりによって「余計なお世話」を押し付けられた人は、当然にその偏屈者を煙たがり、結果として偏屈者は狭いコミュニティで暮らす必然を迎える。
 お互いの摩擦を減らすためにはその方が良いのだ。
 いかに精巧な歯車も、その歯車同士に「遊び」が必要で、近すぎれば摩擦が強すぎて動かなくなってしまう。
 
 しかし齢を重ねる中でこだわりを手放すこともまた容易なことではない。
 
 生きる中で積み重ねる記憶は、己の哲学であり道具であり、宝でありそして枷である。
 枷なら手放したいと誰もが思うが、それが道具であるためになかなか手放せない。
 有用な道具だと感じていれば尚更だ。
 
>>>
 
 僕は子育てをしたことがないが、己のこだわりの発露をどれほど抑えようとしても、人を育てるのは(そもそも「育てる」という概念がまた高慢だと思うが)こだわりという性格の遺伝をもたらす。たとえば仕事で部下や後輩を教育するのも同様である(「教育」も傲慢な言葉だと感じる)。
 
 伝播であれ反発であれ、何らかの強いこだわりは、次のこだわりを生んでしまう。
 しかし大人と子供では体格が違う。男と女では身体が違う。
 太っている人と痩せている人/背の高い人と低い人は身体感覚が異なるし、ネコと人は異なる生き物である。
 
 同じようにあって欲しいと願い、あるいは同じようにありたいと望むのは結構なことだが、そもそも物理的に異なるものに同じ働きをさせるのは無理というものだ。
 私が自身を猫だと思っていても、その肉体が人間のそれである以上、猫ほど速く走ることもできないし、猫のように跳ぶことも叶わない。
 
 人類はその齢を重ねる中で「ジェンダーバイアス」というこだわりに気付いたが、その反発として過度の男女同化を計り、同じように大人と子供の同化も計ってきた。
(バブル期世代の大人たちは、第二次大戦で過酷な子供時代を強いられた親の反動により、甘やかされた子供時代を生きただろうと想像する)
 何が正しいかは僕の決めることではないが、そうやってこだわりは反発を生みながら続いてゆく。
 その振幅が強くなるか鎮静するかは、社会、つまり個々人の集積が決めることだ。
 
<クッションかな?>
 
>>>

 姉の場合、自身のこだわりによって他者を遠ざけて、しかし僕ほど孤独に適性がないらしく、結局誰かと適度に接する必要があると自覚するに至ったらしい。

 僕の場合、自分のこだわりそのものはよく分からないのだが「いらぬことにこだわっているのではないか」と心配するこだわりがある。
 自分の中でこだわりがある場合、それを他者に強要したくないのだが、もし生理的に他者のありようを受け付けなかったら、これはこれでお互いに困る。
 同様に他者のこだわりを押し付けられるなんてまっぴら御免なので、それらを予測してマージンを設定し、様々なありようを調整した結果、仕事も私生活も孤独になってしまった。
「しまった」などと言っているが、これがたいそう気に入っている。

 仕事らしい仕事もせずに一人で暮らし、他者との接触を(自発的にしないので)絶っている(ように観察される)状態が月に25日以上もあるとしかし「自分は現在正気なのだろうか」と不安になる。
 他者が存在しないことで、自分の輪郭が曖昧になるのだ。
(今日も突然「日本語が使えなくなっていたらどうしよう」と心配になり、慌てて日記を書き始めた)
 おそらく多くの人が孤独の中で抱える不安の正体はこの「己の輪郭の曖昧さ」だろう。

 だからといって自分の輪郭を撫でてもらうためだけに他人を使うこともよいことと思えない(僕は恋人に限らず、友人であろうと姉妹であろうと、そういう「使い方」をしない)。

>>>

 件の老婦人について言えば、こだわりが強いために孤独を誘発し、にもかかわらず孤独がゆえに発生する己の輪郭の不確定さに不安を覚えるのだろう。
 支配的な人間というのはこういう気質を繰り返す。
 こだわって、周囲にそれを強いて、孤立して、不安になって誰かを使いたがるのだ。

 しかし残念ながらそのループを断ち切るのは自分自身によってしかできない。
 そして大抵の場合、そうした支配的な人間は、そのまま死ぬ。
 支配的な人間の抱えるこだわりもまた「正しさ」という病気だからだ。

 自分は間違っているのではないか、自分は傲慢になっていないかという疑念を、その不確定さを抱え続ける強さを、彼ら彼女たちは持たない。
 自分が正しいと思えるエサを骸に求める哀れなハイエナのようだ。

 おそらく齢を重ねるほど「自分は間違っているのではないか」ということを疑問に持たなくなる。
 あるいは僕などは子供の頃の方が「自分は正しい」と思っていたし、ために非常に支配的な性格だったと思う。

 そこから考えればずいぶんとこだわりを捨てられたと思う。
 精神的潔癖症や支配的な性格は、なにより自分の首を絞める。

 己の輪郭の不確定なさまを自覚することは、つまりようやく客観的な自己評価ができるようになっている可能性もある。
 異常ともいえる孤独の中にあってようやく客観性が際立つというのもまた不思議なことだと、今は感じる。
 
 
 
 
 
 
 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Cross Link ]
 こだわりと向き合い。 - 青猫工場 〜 Bluecat Engineering :Bonus Track 〜
 
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[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Diary-Ecology-Engineering-Form-Interface-Link-Love-Mechanics-Moon-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-Transistor
 
[Object]
  -Camouflage-Memory-Poison-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :君は首輪で繋がれて:
:夢見の猫の額の奥に:
 
 
//EOF
 
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// TimeLine:250425
// NOTE:
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TITLE:
クラゲじゃなくてマンモスかな?
SUBTITLE:
〜 Glacial plan. 〜
Written by BlueCat

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//[Body]
250425
 
 昨日は姉上の通院介助。
 今日は久しぶりの献血。
 
 たびたび書いている(かもしれないしそうでないかもしれない)が、僕はときどき退屈で憂鬱になったついでに死にたくなる。
 百年のうち半分くらいは人間としての人生経験を積んだと思うが、そういう子供の頃からの特性はなくならないようだ。
 7歳の頃にはすでに人生(特に通学とか、学校生活)に飽き飽きしていたので、一世紀とまで言わないが、数十年は倦みつ弛みつしながら生きている。
 
 自殺したい気分になる人に言っておきたいのだが、こういうものはなくならない。
 何歳になってもなくならないし、今抱えている痛みや苦しみがなくなったところで、死に対する羨望は消えない。
 仕事をする必要がなくなっても、オカネモチーになっても、嫌な奴がひとりとしてこの世に居なくなっても、周囲の人に愛され尊重され大切にされていても、死にたい気持ちを持つ性質はなくならないし、生きていることに対する倦怠感や飽き飽きした気持ちや、それらをひっくるめた絶望もなくならない。
 
 それならどうするかといえば、そんな憂鬱は最初から存在しないかのように振る舞うか、毎回そんなものに振り回されてジタバタするか、というのが一般的なところか。
 あるいはこういう性質がまるっと自分自身なのだと思って、ぼうっと眺めておく手法もある。
 
 憂鬱になる。退屈になる。鬱屈する。
 それを眺めて「ああ、またわたくしは退屈しているのだなぁ」と思って、極力普段どおりの日常を送るのだ。
 憂鬱だろうと爽快だろうと、時間はきちんと過ぎる。
 
 仕事があれば出掛ける時間になり、仕事をしていれば帰宅する時間を迎える。
 今日が終われば明日が来て、去年が終わって今年になる。
 止まない雨がないように、去らない憂鬱もない。
 
 我々は傘も持たず土砂降りに打たれながら口を半開きにして空を眺め、途方に暮れる白痴のようなものだ。
 空は暗く、雨は冷たく、湿った空気は沈鬱だろうけれど、そんなものは誰もが見ている風景に対する勝手な意味づけに過ぎない。
 本物の闇はもっと暗いものだし、一層の冷たい風を知る者なら雨を温かく感じるし、乾いた空気に粘膜を痛めたことのある人にすれば湿った空気は恵みだろう。
 
 傘がないというが、傘などなくても生きていけるのだ。
 詰め込まれ、打ち捨てられた段ボール箱がひしゃげたとて死にはしない。
 もちろん、なぜ生きるのか、という疑問が我々を苦しめるのもまた事実だ。
 この性質もまたずっと失われることがない。
 
 我々はその疑問の答えを見つけることができない。
 そして同時に、その疑問を手放すことができない。
 生きることの意味や価値を見つけたつもりになることはあるだろうし、見つけたと思う人もいるだろう。
 
 それはその人の自由であり、その人なりの答えである。間違いではない。
 そして同時に、誰にでも当てはまる答えなどというものはない。
 意味も、価値も、共通のものなどではない。
 
 だからある者はもっともらしく語ることができるかもしれないが、届かない人には何も伝わらない。
 語られる答えは、それを語る人にとっての価値であって、見つかっていない人にとっての意味ではない。
 
 そういったどうしようもなさを、そのまま抱えて、自分の性質として生きるしかない。
 退屈や憂鬱や無意味さに絶望することを楽しめばいいのだ。
 楽しめもしないならやめればいい。
 
>>>
 
 Webニュースを眺めていたら「氷河期世代への支援」を標榜する政治家やら政党が現れているとか。
 正直我々は(あるいは少なくとも私という氷河期世代に属する者は)死に体である。
 語源のとおりバランスを崩しているし、何となれば転倒することによってすでに安定した可能性すらある。
 
 選挙に当選することが職務たる政治家の人々は手を替え品を替え、何とか自身の職位を保たなくてはならないのだろう。
 ただ、そもそも我々は社会によって口を塞がれたサイレントアナーキストである。
 今さら社会が手を差し伸べたからといって「そうですかありがとうございます」と言えるほど恵まれた環境で素直に優しく育った者ばかりではないだろう。
 
 社会や組織や情勢や時代に対する不信感は ── そんなもの持たない方が幸せなのだろうけれど ── それを持つべくして持った世代にとって、仮においそれとぶら下げられた肉塊に飛びつくほど飢えていたとして、そんなものに飛びついた者から酷い目に遭わされてきた事実を目の当たりにすることで醸成されたものだ。
 
 バブル期が終わって間もなく年功序列システムが批判され、実力/成果主義による人事考査を導入した/すると企業は次々公表したが、我々がそのシステムに載せられ突きつけられ痛感したのは「自分が思っているほど自分は有能ではない」というシンプルな事実だ。
 あるいは有能だった人も居るのかもしれないが、企業にとっては、経費は掛かるが生産性の低下した中堅以上のベテランを放逐することが優先であり、そのためにうってつけのお題目だったと後に知る。
 
 我々はその肉を信じたが、その肉は虚像だった。
 あるいは本物の肉に喰らい付いた者もいるだろうが、私の囓った肉は少なくとも幻影で、私はそのまま谷底に落ちた。
 同じ谷底への転落者に、これまた(いろいろな意味で)食えない古強者もいた、それだけである。
 
 社会は毎度のように綺麗な夢を見せてくれる。
 しかし誰かの与えてくれた幻影は、結局のところ幻影に過ぎない。
 もちろん恵まれた環境はそれでも存在し、皆に愛され、十分以上のリソースもあり、安全も確保され、将来を思うように描ける自由まで与えられている人間も存在した。身近にも居た。
 
>>>
 
 たまたま僕はそういう環境になかった。
 べつに恨みごとを言っているのではない。
 
 事実として僕の育った環境は、リソースが不足し、安全は確保されず、愛されていると実感できるほどの他者すら存在せず、自分が30歳まで生きているか危ぶんでいた。
 たまたま僕は(肉体的に)男だったので過度の危険に飲み込まれることがなかったし、愛されない状況に適応した。
 そのうえ運良くリソースを自律させることに成功したし、30歳もとうに過ぎた。
 
 ただ将来の夢などというものは10代の頃に捨てた。高校進学前に捨てたのだ。
 悲観しているわけではない。
 多段式ロケットが使い終えた推進器を投棄するように、前に進む最適解が軽量化だったのだ。
 将来への希望など、重くて邪魔だった。
 それでも周囲をざっと観察する限り、僕は幸運に過ぎると今も思う。
 
 にもかかわらず、だ。
 社会に自分のための希望はないし、世間に自分の居場所などないと思っている。そう感じるのだ。
 ちょうど今の時代は醜くてお金も地位もない中年男性に世間が厳しい。まるで砂漠みたいじゃないか。
 
 たまたま運良く家族を作ることができたり、あるいは恋人が27人もいたり、どういうわけだかオカネモチーになれたり、高等教育を受けて大企業に勤めたり、会社を経営したり独立して上手に切り盛りできている人はいい。
 そうでない人はどうなるのだ。
 お金も地位も家族もなく、ルックスにも恵まれず、ろくな学歴も職歴もなく中年になり、社会から「オッサン」「オバサン」と呼ばれる者たちはどうなる。
 
 社会の情勢や世間の風説や企業の思惑や政治家の作った仕組みに翻弄されて、どれだけの人間が溺れたのだ。窒息死したのだ。
 この上、いまさら社会を信じろと言われて「そうですかありがとうございます」と言えるほど、私は大人しい犬などではない。
 それに残念ながら、もはや人間に対してさえ、かつてのように無条件の信頼を寄せることができなくなっている。
 
 およそ10年ほど前までは、少なくとも目の前の人間くらいは、無条件に信じていた/信じようとしていたのにもかかわらず。
 
>>>
 
 これが大人になることなのだとすれば、さすがに大人になりたいなどと思った(今も思っている)自身の気持ちを自ら否定しなくてはならないだろう。
 僕にとって大人というのは、自由の象徴だ。
 
 難題に対する解決の切り札そのものであり、苦難の闇に対する希望の光そのものだ。
 寒い冬の毛布であり、乾いた砂漠のオアシスであり、雨上がりの虹であり、深夜の駅前のベンチであなたの脚に擦り寄ってスカートの中に入り込もうとするエロい猫である。
 
 ……。
 最後の不適切な喩えは忘れてもらうことにして、大人であるということはそういうことだ。
 
>>>
 
 世俗は我々を氷河期世代と呼ぶが、私は何が氷河期だったのかを知らない。
 寒かったかというならずっとそうだし、乾燥していたかと問われればずっとそうだ。
 もはや飢渇が何かさえ分からないほど、枯渇した極限環境で生きてきたのではないのか。
 
 今となってはあたたかいベッドより静かな棺桶を望むとして、何の不思議があるだろう。
 なのに政府は「まだ働ける。もっと働け」とでも言いたいのだろうか。まっぴらごめんのすけである。
 我々の多くは信じるものを持たない。
 あるいは少なくとも私は、信じるものを多く持たない。
 
 しかし冷静に考えよう。
 不貞腐れるのは簡単なことだ。
 特に持たざる者ならなおのこと。
 
 持てる者が不貞腐れるのは流石にみっともない。
 幸運なるわたくしは、ために自由の象徴である。
 望むと望まざるとにかかわらず、難題に対する解決の切り札としてささやかに、日常のきわめて狭い範囲で、身近な誰かのために、持てる力を使うしかない。
 それが責務と諦めるしかない。
 意味と価値を決めるのは誰かに委ねることにしよう。
 
 退屈だなぁ。
 飽きたなぁ。
 全部終わるといいのにな。
 と嘆きながら日々を過ごすのだ。
 
 13番目の恋人との逢瀬を夢見ながら ── 。
 
<思わず手が出ちゃう>
 
>>>
 
 ちなみに献血をしているのは、誠に勝手ながら僕が輸血のシステムに恩義を感じているからである。
 日本赤十字社や全国宝くじ協会に対して思うところ(会長になりたいとか)はあるが、それとこれとは別である。
 過去に僕の父上や一部の周囲の人たちが輸血で世話になった経緯がある。
 
 僕自身は幸か不幸か、そのような大手術を経験することなく今生を終えるだろうけれど。
 己が血で満たされた、あのぬるいパウチを撫でさせてもらうことがある。
 この身体は子供を産むことができないのだが、あれはなんというか、我が子のように愛らしいのだ。
 
 無論そんな感情を抱く方がどうかしていることは理解している。
 しかし私の家族は今後も減り続ける。それは私自身が望んだことでもある。
 自分の血で満たされたパウチくらい、愛らしく思っても良いではないか。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
 
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Convergence-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Form-Interface-Life-Link-Maintenance-Memory-Moon-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Generator-Reactor-Resistor-
 
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  -Human-Memory-
 
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[Cat-Ego-Lies]
 :君は首輪で繋がれて:
:夢見の猫の額の奥に:
 
 
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// TimeLine:250416
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
トイレとケダモノ。
SUBTITLE:
〜 restroom'n'beast. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
 春の強風が続いている。
 毎年変わらず季節が巡ると思っていた時代は遠い昔であるかのようだが、実のところ30年がせいぜいである。
 四半世紀前までは、春はお花見、夏は海水浴、秋は紅葉、冬はこたつで丸くなるというのが世俗の平和的レジャーであり、自然と触れ合うアプローチの手法だった。こたつが自然か人工かは判断の分かれるところだが。
 
 よって現在30歳前後より以上の人にとって、四季というのは、ある種の美化された存在だったろうと思う。
 じつに四季は素晴らしかったのだ。まるで遠い昔のように語っているが、二度と戻らないと考えればそのノスタルジィもひとしおだろう。
 その頃は花粉症という慢性過敏症に悩む人も今ほど多くはなく、当時の私も花粉症ではなかったと回想できるほどである。
 
 ひるがえって昨今は花粉と乾燥と急な雷雨が、めまぐるしく訪れる。
 気密の悪い環境に棲んでいるので、私の皮膚粘膜は終始具合が悪い。
 数年内には引っ越しを考えている。本気である。
 
 焼け石に水を掛けるほどの効果しかないリフォームを続けていても、短期的な満足こそあれど、長期的な体調不良は改善されない。
(介助対象の)姉が死んだら、なんて悠長に考えていたが、もっと早くていいだろう、と猫会議で結論するに至った。
 つまり僕が寝ている間に決まった。
 
>>>
 
 コンビニでトイレを借りて用を足す前に、掃除をする(ことが多い)とは以前に書いたことがある。
 コンビニに限らずすべてのトイレについて、使う前にそれが汚れている場合、可能であればそれを掃除する習性が僕にはある。
 その可能性というのはまず「掃除用具があること」。ついで「時間的余裕があること」である。
 公衆トイレの場合、待っている人がいるのに掃除に過剰な時間を掛けるわけにはいかないからだ。
 
 確率分布的に、それらの僕の行動は「猫っぽいな」と昔から(僕自身に)認識されている。
 もちろん他者は僕がトイレ掃除にいそしむ姿を見ることがないので自認に過ぎないが。
 一般に言われるように猫というのは綺麗なトイレを好むのだ。
 
 先日、遊びに来たBPが「青猫の家のトイレは綺麗だから立って用を足すのがはばかられる」と言っていた。
 先だって彼の息子の恋人が遊びに来るというので、彼は自宅の掃除をしたらしいのだが、存外トイレ掃除に手こずった、という経験かららしい。
 よくよく考えると、長い一人暮らしのうち「お前の家はトイレが綺麗だ」と言われることが多かった。
 
 そのように評するのは男友達だけだったので、もしかしたら恋人たち(すべて女性)は「こやつは部屋も散らかっているがトイレも大概ですね」と思っていた可能性は否定できない。
 トイレ以外の箇所については基本的にさほど綺麗にしない。少なくとも整理整頓は僕が苦手とすることのひとつである。
 明日も散らかす場所を今日整頓するなんて狂気の沙汰だと思っているフシもある。
 
 それでも水回りが汚れていると、どうも嫌な気分になる。
 水というのは循環するものの象徴にも感じているし、何より水回りが汚れにくすんでいるのは不衛生である。
 精神衛生上も物理衛生上も良くないとなれば、良くなるようにするしかない。
 
 一人暮らしを始めた当初はそれでもやはり面倒くささが支配的で、トイレ掃除を半年ほどもしないことがあったのだが、飲食店で勤務したり本を読むうちに変わった。
 トイレというのは、汚れに気付いたらすぐに掃除をするのが楽なのだ。
 汚した直後は5秒で掃除の終わる汚れも、半年経つと数分掛かるようになる。
 
 汚れ自体は変わらないのだが、物性が変わって落ちにくくなる。
 汚れが強いというのは気分的にもよろしくないのだが、大きな時間的ロスに繋がる。5秒で済むならその方が楽だし、清掃用具も少なくて済む。
 当時から時間ケチの素養はあったので、やがて汚れたらこまめに掃除をするようになった。
 
 一人暮らしをしてもっとも変わったのは、そういった「水回りに対する意識」かもしれない。
 家族が居ると、ついぞ誰かが掃除をするという環境に甘んじてしまう。
 自分以外の誰かが汚した場所を掃除することができる人を、ために僕は本当にすごいと尊敬している。
 
>>>
 
 私の家は長く父子家庭だったが、それでも女性である妹がとくに綺麗に使っていたように思う。
 綺麗にといってもたかが知れているが、それでもある日、ふと気付いて衝撃を受けたことがある。
 当時は父と私と妹の三人暮らしだったのだが、洋式トイレの便座が一度だけ「降りていた」ことがあったのだ。
 
 それまで当たり前のように便座が上がっている状態で使っていたのだが、妹がトイレを使わないわけではない。
 しかしその単純な事実を、便座が降りている状態を目の当たりにするまで意識したことがなかった。
(もちろん毎回トイレのフタを降ろすような家庭だったら良かったのだが、あいにくそんな上品な家庭ではなかった)
 
 使用前に便座が降りているということに驚いて、それを意識したことのなかった自分にも驚いた。
 それでは妹は使用する都度便座を下ろし、使用後に都度便座を上げているのかと疑問に思い、本人に確認したのである。
 妹はこともなげに「そうだよ」と答えた、それが衝撃的だった。
 
 なるほど我々は男なので、基本的に便座が上がっていた方が楽なのである。
(少なくとも一人暮らしを初めて数年、僕は座って小用を足すことをしなかったので)
 妹によると、父親に一度小言を言われたことがあり、ムキになって徹底しているうち習慣化したという。
 それでも(ムキになったら反発するであろうはずの)妹が、素直にそれを習慣化することができたという事実にも驚いた。
 
 それから以降は、僕も比較的掃除をするようになっただろうか、さほどでもないかもしれない。
 やはり家族が居ると気が緩む、そんな気がする。
 一人の場合、汚すのは自分しか居ないのだから、言い訳もできない。
 
 誰かに掃除をさせるものでもないし、そうなるとすぐに掃除をした方が楽である。
 便座というのは降ろしっぱなしでも使っていれば相応に汚れるものなので、時折立って(便座を上げて)使うようにもしている。
 汚すことで初めて気付く汚れもあるからだ。
 
>>>
 
 こういう傾向が行動を生み、その行動がもたらした結果はいささか神経質に映るかもしれない。
 BPは僕をして「トイレの神様とかを信じているタイプなのかと思った」と言ったほどである。
 もちろんそんなものは信じていない。僕が信じているのはネコノカミサマだけである。
 
 ただ(これは僕が気取っていることのある種の証左になるから、あまり書きたくないのだが)汚れたトイレを使いたくない、汚れたトイレを使うのに自分は相応しくないと思っている部分があると自覚するに至った。
 朕は気高く高貴であるから汚れた雪隠など使いとうない、といったところか。
 
 些細なことと言えばそのとおり、排泄など、用を足せればどうでもいい。というのは禽獣のいかにも一般的なありようだろう。
 猫とて禽獣には違いないが、優れた肉食獣は己の痕跡を消す。
 
>>>
 
 この行動様式は抽象され、普遍化された概念として僕の他の行動にも影響を与えるようになったと今は認識している。
 
 たとえば僕は、寂しいからといって、手近な誰かと連むことがない。
 間に合わせの他人で寂しさを埋めるくらいなら、孤独の中で寂しさをとくと味わうのだ。
 食事も同様、漫然と(かつどうでもいい内容で)三度の食事をするくらいなら、空腹を存分に味わったのち、我を忘れるように貪りたい。できればよりよい内容で。
 
 量より質を求め、漫然と欲を満たすのではなく、その飢渇から充足までを存分に味わいたいのだ。
 これを僕は、自身がとても欲深いからだと思っている。
 食事などは好例で、人より多く時間を掛け、じっくり味わうときに感じる愉悦は非常に官能的であり、それを公衆の面前でしているときなど、ちょっとした変態プレイでもしているかのような背徳感さえ覚える。じつに食事というのは動物的なありようだからだ。
 
 日本の文化レベルがもう少し高かった頃は、テーブルマナーであるとかドレスコードであるとかがメディアでも話題になることがあった。
 あれらはつまるところ、禽獣の域を出ない人間達がいかにして禽獣ではないかを立証しようとした、その様式であり歴史だろう。
 人間は、人間であり続けようとしなければ、ただ知性を持ったケダモノに過ぎない。
 
 無論、ケモノが悪いというわけではない。
 ただどのレベルに「人間」を置き、その「人間」を目指すか、ということではないだろうか。
 
>>>
 
 私は確率的には人間より猫に近く、神より人より禽獣に近い。
 これは観察の結果、つまり自覚や自認と呼ばれるものである。
 外観のみ観察するならば、まぁ人間に見えるだろう。これは観察者の観察形態や分析手法によるものだから否定すべくもない。
 
 人がましい顔をするイキモノはこれまでもたくさん見てきたし、今後も嫌というほど見るかもしれない。
 皆、自分を人間だと信じて疑わない。
 人間を素晴らしいものだと信じたがるのも、人間に特有の現象に思える。
 人間以外の種族は、自らやその種族に対してそういった信仰を持たない。そんな感慨など持たないものだ。
 
 もちろん信仰が悪いとは思っていない。
 ことさら日本人は信仰嫌いという信仰に染まっているので滑稽に思えるほどである。
 それだけ不純な信仰が多く、人々は何を基準に物事を信じるべきか、決められないものなのだろう。
 
 決められない人間が集まって何かを決めようとして、無理に決めるから、結局信念のない決定が権力だけを抱えて迷走するようにも分析できる。
 何を信じるかということくらい自分で決めればいいのだろうに、と常々思っているが、それを簡単に決められないのが、弱さであったり優しさであったりするのだろう。
 
 
>>>
 
 春の嵐で体調が悪い。
 睡眠時間は3時間程度でぶつ切りになるし、ふとした拍子に強い睡魔に襲われるのでうかうか外出もできない。
 まぁ、したいわけでもないが。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :黒猫:
 
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[Cat-Ego-Lies]
 ひとになったゆめをみる:
 
//EOF
 
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// TimeLine:250412
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
設計図を、いつかの私に。
SUBTITLE:
〜 the Bottled Blueprints. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
 この世界のすべてが体系的な存在であると肌で感じたのは17歳の頃だったか。
 体系的というのはすなわちシステマティックな、ということであり、存在という存在のすべては細分化が可能で、上位的存在の要素(パーツ)としての側面も持つ。
 もちろんアタマでは知っていた。しかし肌で感じることはなかった。
 
 その細分化の下限(最小単位)が、たとえば物質なら分子や原子であり、陽子やら中性子やらクウォークやらといったものであることを(学校の授業では習わなかったが、科学誌を7歳から読んでいたので)知ってはいた。
 しかし我々は、単一の分子や原子を肌に感じることはない。いや少なくとも僕には分からない。
 光や熱なら皮膚粘膜を通して感覚できるが、肌で存在という存在のすべての最小単位を感覚することは不可能だ。
 
 自然現象を含め、すべてのものが循環しているというのも然り。アタマでは分かっているのだが、肌で実感することは困難だ。
 地表海上の水分が蒸発し、降雨するという循環をアタマで理解していても、目の前のことに囚われてしまう我々にとって、数秒から数時間という(人間の主観的において)理解しやすい時間単位(スパン)の外を知覚し認識することは困難だ。
 たとえばマイクロ秒単位もそうだし、数万年、数億年単位もそうだ。
 
 僕らの身体は結局のところどこまで行っても人間のそれでしかなく、肉体によって知覚と認識は限定される。
 だから宇宙の歴史を知ることはできても体感できず、つまり体験することもできない。
 またより短い時間単位で寿命が終わるミクロ物理の存在についても同様、知ることはできても体感などしようがない。
 
 それがあるとき、ふっと降ってきて、宿ってしまった。
 ずいぶんと(いわゆる)スピリチュアルな物言いだとは思うが、すべての概念が知覚や認識といった「物理的には存在しない空間」にのみ発生し存在するように、その概念は物理存在とは別のものとして僕の価値観内部に唐突に形成され、僕の知覚に居座ってしまった。
 
>>>
 
 それから2年ほどは、その概念にずいぶんと支配された。
 支配といっても指図されるわけではない。それは概念であって思考ではないからだ。
 思考が価値観によって編まれる布であり、価値観が記憶によって縒り出される糸であるなら、記憶の源泉である経験はそれを織りなす単繊維だ。
 ところが降って湧いた概念には、経験がないし記憶もない。価値観がないから思考もない。人格だってない。
 TVもないしラジオもないしクルマもそれほど走ってない。
 
 にもかかわらず、その概念が僕のあらゆる知覚と認識に居座った。
 たとえば前述の「記憶の源泉である経験」は、思考によってそのありようが左右される。そうやって物事のすべてが循環していると、感覚してしまった。
 =A=B=C=……といった具合に、物事のすべてが繋がっているように思えて、しかしある程度の範囲から外は、霧が降ったように、やがておぼろになってゆく。
 
 曰く言いがたい感覚で、言語化もうまくできなかったから、誰にも説明できなかった。
 もちろん、この程度の言語化で誰に伝わるとも思っていない。
 結局のところ言葉というのはどこまで行っても言葉に過ぎず、デジタルな情報である以上、知ることはできても肌で感覚することは不可能だ。
 
 感覚した情報の多くを我々は言語化してやり取りしているが、それではその言葉(言語化された情報)から、感覚を還元することが可能かといえば端的には不可能だ。
「楽しい」「悲しい」「嬉しい」と言葉を通じたところで、そこには百の楽しさがあり、千の悲しみがあり、万の嬉しさがある。
 そのごくごく当たり前の事実が、決して誰とも通じ合うことがないという悲しみや、自分の中で自身が手にしたという喜びや、言語化したところで誰にも伝えることができないという空しさとともに肌に密着してしまい、その先すべての情報が、その肌にまとった非言語的な実感によってフィルタされてしまった。
 
 しかもそれは雨合羽を羽織ったときのように外界の情報をごわごわと曇らせるのではなく、より鮮烈に、ときに突き刺すような痛ましさで、しかし刹那のうちに揮発してしまうような儚さで五感のすべてを覆った。
 そこには思った以上の情感があって、思った以上に矛盾したありようが含まれていた。
 
 だからたとえば僕は、生と死をあまり対極の存在とは思っていないし、世俗に言われるほど善と悪とか、倫理と不義に差を感じない。
 それらは結局、どこかものすごく近いところで、皮一枚の隔たりによって繋がったものなのだ。
 悪を規定すれば善の立場に立てるかもしれないが、善が容易に悪でありうることを我々は知っている。たとえば十字軍は誰の、何を目的とした組織だったか。
 
>>>
 
 そのような感慨があって、それでも思うすべてを言葉に残したいと足掻いた時期もあったのだが、やがてとうとう諦めた。
 先に述べたとおり、どれだけ言語化して記録に残したところで、読む者が還元できなければその情報に意味はない。
 たとえばSF作品で、遠い未来や異星から革新的な技術を搭載したメカニズム(たとえばタイムマシンやテレポータなど)の設計が送られて、それが現代世界で具現されるというテーマがあったりするが、現実問題として設計図だけですべての存在を具現することは不可能だ。
 そこにはおそらく未知のマテリアルが記述され、未知の技術が必要で、未知の論理に立脚し、未知の手順が要る。
 
 たとえば江戸時代に現代の電気自動車の設計図を送り込んだとして、果たしてその電気自動車が江戸の城下町を走ることはない。
 僕ら一人一人が、誰でもそうした設計図を抱えているのだと思った。
 
 どんな実感も、どんな経験も、どんな感慨も、痛みも悲しみも喜びも空しさも、言葉にしたら最後、それはおよそ間違いなく伝わらず、そして言葉にしない限り絶対に伝わらないという事実に、嗤うような、哭くような、えも言われぬ(エモいわれぬ、ではない)どうにもしようのない、言いようのない感情やら感覚に沈められ、溺れた。
 溺れるたびに死ぬ思いをした。
 現実問題、その度に抱えている価値観は無価値になり、すなわち死んだのだ。意味を与えれば、即その意味を奪われるのだから。
 
 それでは誰かが大切に抱えているその設計図を、それなら自分は解析し理解し共有し具現することができるのだろうかと考え、そしてその間に横たわる深淵とも呼べる闇とも隔たりともつかない断絶について考えて、どうしようもなくなった。
 目に見えて肌を重ねることのできる相手すらどうしようもなく手に届かない存在であり、同じ場所で同じ時間を過ごしていると感覚したとしても、それが果たして事実だと証明することは誰にも(少なくとも僕自身に対しては)不可能だったからだ。ならば世界のすべては錯覚か。
 
>>>
 
 今でも(あるいは今だからこそ)時々、その感覚をありありと思い浮かべることができる。
 漆黒に荒れ狂う大海原の、しかし無音の嵐のようで、その光景はあまりに非現実的で、どうしようもないくらい孤独かつ絶望的ではある。
 
 そして一方で、だからこそ人々は言葉にすがったり、あるいはあるかもしれないしないかもしれない望みを見出して、誰かと手を取り合うのだろうとも思った。
 それが有益か無益かを論じても仕方ない。それを信じた人に信じただけの有益と無益があるのだから。
 
 生きることは何なのかと問われたら、僕はそのように答えるだろう。
 つまり「夜の海原で無音の嵐に遭難するようなものだ」と。
 有益か無益かを論じても仕方ないのだ、そんなものは信じた分だけ百も千も万もの意味や価値を、つまり無意味も無価値をも持っている。
 
 論じて正解が出たところで、一体誰が満足するだろう。論じて現実を知ったところで、一体何を感じるだろう。
 対立した価値観を抱える相手を論破したところで、一体何の意味があるというのか。
 誰かに勝っても、何かを成しても、たいした意味はないのだ。その意味や価値を自分自身で決められない限りは。
 
 無人島に運良く漂着したとして、ボトルに設計図を詰めて海に放ったところで、その気休めに慰められるのは自分だけである。
 それでも慰めがないよりはよほどいい。今はそう思えるようになった。
 無人島で慰めもなく生きるのは、たぶん嵐に溺死した方がよほどもましだと思えるだろうからだ。

 慰めは、ないよりはあった方がいい。
 四捨五入で百年生きて得られた知見はそれだけだ。
 
>>>
 
 我々の設計図は、我々と同じ技術レベルの者にしか理解できない。再現できない。具現できない。
 
 皆が己の正義と理想と共感を語る。
 テレビもねぇ、ラジオもねぇ、クルマもそれほど走ってねぇ、という環境に忘れられたハイブリッド車のように。
 孤独の過去に取り残された、未来からの望みのように。
 
 まるでそれだけが孤独と絶望の無人島に閉じ込められた己の、唯一の慰みであるかのように。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
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  :青猫β:銀猫:
 
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:記憶の切片:
 
 
 
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// TimeLine:250405
// NOTE:半年以上、書き直しては放置している話題。
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
自殺を考えることについて考えることについて。
SUBTITLE:
Think around self death.
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
 ここ数ヶ月、自殺について考えている。
 心配する人もいるので先に断っておくが、喫緊に僕が自殺する必要があるとか、自殺する意志があるとか、そういうことではない。ただ単に、自殺について考えているのだ。
「Think around self death.」であって「Think I'll self death.」ではない。
 もちろん「around」の内には自分自身も含まれているし、自分自身がそういう意志を持つこと、行動することも含まれているのだが、それがすべてではない。
 
 不謹慎だろうか。
 そうかもしれないが、僕はそうは思わない。
 自殺は真面目な行為だと思うし、不真面目に自殺をしたり、自殺について考えることはないだろうと思う。
 不真面目に生きることは比較的容易だが、不真面目に自殺することはむつかしい。
 
>>>
 
 もとより僕は、幼児期からずっと死について考えている。
 それを分析しようとか、理解しようとか、そういうことではない。
 強いて言うなら、自分が自身の死について、あるいはあらゆる人間が、自身や他の人間や人間以外の死についてどのように受け止め、意識上の処理をどのようにするとどのような影響があるか、について考えている。「around death」というのはそういうことである。
 
 しかし死について考え慣れていない人は存外多く、あるいは(負荷を軽減するためか)短絡に処理してしまう人も多い。
 それが悪いとは思わないのだが、そういう人たちからすると僕が死について真剣に考えることは「不謹慎」であったり「不道徳」であったりするようだ。
 僕にとって死について考えることは、取りも直さず生きることそのものである。
 
 たとえば幼児期に、何度も「父親が死ぬ」と聞かされた。
「医師から余命半年と言われた」と家族が話しているのを初めて耳にしたのが3歳である。
 実際のところ父はそのあと24年も生きた。
 
 医療の進歩に歩調を合わせて実験的な医療も受けた。
 古めかしいが、たとえば開胸して心臓を停止し、大腿部からの血管を大動脈にバイパス移植するような手術も受けた。
 多分、今はこんな手術はしないだろうが、当時はそれでも最先端の医療だった。
 抜本的な治療にはならないが、延命は可能かもしれない。しかし受けることで術死することもあり得た。
 
 死と生を秤にかけて、より生きるための選択を父はしていたのだと思う。
 理由は分からないが、当時の僕と妹はまだ未成年だった。
 美化するつもりはないが、それについて考えなかったわけではないだろう。
 
>>>
 
 そのようなわけで、誰かの死によって自身が受ける影響を、未就学児の頃からよく考えていた。
 心理的、精神的影響ではない。
 誰かが死んで悲しいとか、そういうことではなく、自分はどのように生活すればいいのか、どのような人生を送ることになるのか、それを考える必要があった。
 
 よって僕にとっての死は、美化するものでもなければ心理的に感情を揺さぶるものでもなく、日常生活と共にあり、日常生活を大きく左右する現象だった。
 それについてとくと考えない訳にはいかなかった。
 
 死ななければ昨日と同じ日々が続くのだが、それを信じ、それを祈り、願ったとしても、死ぬときはあっさりと人は死ぬからだ。
 だから目の前の誰かが死んだときのことを考えることは僕には至極自然なことで、たとえそれが誰であろうと、その人の不在によって、その後の自分の生活や人生が大きく変動しないような価値観を持つに至った。
 
 ために僕は自身を含めた存在の死について、あまり感傷的にならないし、感情的にもならない。
 周囲に人をあまり寄せ付けない点について少々行き過ぎている部分もあると自覚しているが、それでも寄り付く人はいるのだから放っておくしかない。
 ただ自分からは、あまり関わりを持たないように心掛けるようになって久しい。
 
 残念ながら、僕の死後に僕の不在によって発生する心理的/物質的負担の責任を(仮に負いたくても)僕は負うことができない。
 死というのは案外無責任に「担当者不在」という状況を作るので、人間社会のような個々人の権利や責任が絡み付いている環境下では、少々厄介である。
 しかし死は自然なことだから、個々人の権利や責任や感情を過剰に意識しすぎる社会の方が、少し狂っているのだろうと僕などは考えている。
 つまり不自然なのは人間社会(に属する者の意識)の方であって、それらが自然を逸脱しているのだろうと思うのだ。
 
>>>
 
 それでも人間社会は、死者やそれにまつわる人の権利や責任(義務)を規定する。
 社会だから仕方ないのだが、結果として感情だけでなく、財産や事後処理といった面倒ごとが発生する。
 死んだ当人にでないことは先に書いたし、きっと誰でも分かるだろう。
 
 その意味で言えば滑稽であったり、不謹慎に思えるのは社会の方である、ということ。
 だからといって「そういうのは改めなさい」と言う気もない。滑稽だったり不謹慎になる(なっている)のは、真面目すぎるからである。
 では不真面目に、テキトーでいいかげんにしてしまえばいいかといえばそんなことはない。
 
 権利や義務や責任が社会で発生する(望んでいなくても押し付けられるものが多い)以上、いいかげんにしてしまえばそれこそ公序良俗に反する現象も発生する。
 それを避けようと真面目に作った結果、滑稽で不謹慎になっているのだ。
 人々は私と違って禽獣ではない。ルールが必要で、それに従うのが社会に属する者の必定だろう。
 
 ただ、死はそのルールに従わないし、演繹すると生もまたルールで縛ることができない。
 ルールが縛るのは、権利と責任と義務についてである。
 たとえば納税放棄したり脱税する権利は皆あるのだが、それをすると別のルールによって処罰が課せられる。
 
 そういえば日本では、ルールを作る人たちがずいぶん手前勝手にルールを作り、運用していると漏れ聞くが、果たして本当なのだろうか。
 
>>>
 
 とにかくそのようなわけで数ヶ月、何となれば数十年、死について、あるいは自殺について考えている。
 そして同時に、死についてきちんと考えない人が多いことについても考えている。
 皆、(自他問わず)死について口にしないばかりか、考えてさえいない事が多いように観察される。
 
 おそらく多くの人々は、死について考えることを禁止されているのだろうと想像する。
 自分によってか、他の誰かに強制されているかは知らない。僕の場合は、誰にも禁止されなかった。
 あるいは自身が勝手に遠慮していた時期はあるからそういう意味なら分かる。
 しかし13歳から、そういった忖度や気遣いもやめた。
 
「いい人ぶる」ことが悪いとは思わない。しかしステレオタイプな「いい人」というのは往々にして退屈なものである。
 人の死について、目の前の人の死についてなんて考えません、なんて言う人を僕なら信用しない。
 それは偽善者か、ただのバカのいずれかである。
 
 もちろん前述のとおり僕にも偽善者であった時期はあり、死や自殺については考えることさえ「良くない」と思っていた。
 しかし何が「良くない」のだろう。
 べつに(自身を含む)誰かの死を願ったり、あるいは仮に願ったとしても、その誰かを殺めるための行動をするわけではないのだ。
 
 行動しない限り、考えたり、願ったり、呪ったりするくらいでは、誰も死なない。自分自身でさえ死なない。
 殺人に限らず、あらゆる公序良俗に反する犯罪行為は、考えたり、願ったりするだけでは実現しない。計画し、判断し、実行する必要がある。
 ためにアタマの中で考えているだけであれば、現実は何も変わらないし、考える分には良いも悪いもないのである。
 むしろ考えが足りず至らなかったために、自分や周囲の人間が不利益を被ったり、生活やその後の人生が(悪い方向に)大きく変わってしまう方が問題だろう。
 
>>>
 
 これは死に限らず、すべての危機管理の上で必要なフレームワークである。
 たとえば原子力発電所を新設し、稼働させる場合、どこに建て、どのように運用すると、災害時にもっとも損害が少ないか、ということを考えることが必要になる。
 つまりどうすれば損害(死者や汚染や物損)が最小限になるか、ということを考えることになるのだが、これをいちいち「不謹慎」などと茶々を言われていたら進む事業も停滞する。
 
 想定以上の事象を考える必要があるのだが、だからといって過剰に堅牢なものを作るにはかなりの予算が必要になる。
 
 地震によって原子力発電所の損害を目にした我々だから、現状知りうる限りの災害やテロを見積もって安全率を掛けて欲しい、と願うだろうが、それでも想定以上という事態は発生しうる。
 堅牢にすればするほど、想定以上の事態が発生する確率は減ることになるが、結局は予算を含めた状況との兼ね合いで決まるだろう。
 
 原子力発電所の建設当初(つまり地震による損害が発生するより以前)そんな大掛かりな予算編成がされた場合、多くの人は「そんな過剰な予算は無駄だ」と騒いだのではないだろうか。
 考えない人には分からないし、考えた人は考えない人に説明がむつかしいこともある。
 なぜそれを考えるか、その理由の分からない人には、どのようにそれを考えるかはもちろん、その処理の良否の判断はつかない。
 
 人間は手近で掴みやすい材料から勝手に判断するようにできており、感情的に物事を断ずる傾向が強いから、予算が多ければ文句を言い、安全性が低ければ文句を言う。
 根拠はデータで示されているのに、数字や統計を見ることを面倒くさがって「具体的に、つまり結論は何なの?」と問い詰め、にもかかわらず結論が理解できずに不機嫌になる人も少なからず居る。
 機嫌の問題ではない(危機管理の問題な)のだが、そういう人は自身の機嫌を伺うことが何より大事だと思っているフシがあるから話にならない。
 
 あるいは自身の機嫌こそが危険の元凶だと理解しているのかもしれない。
 それはそれでひとつの真理だろうけれど、できれば自身のアタマの中で事前に予備演算しておいてほしい問題である。
 
<ホカロン靴下はあたたかいらしい>
 
>>>
 
 死も同様の問題である。
 しかも避けられない危機であり、それを管理するのは生きる上で必要なことだ。
 皆、生を語るが死を語らない。それは同じものではないのか。
 
 美しい生を語り、楽しく情熱的で素晴らしい生を語るが、美しい死を、冷静で安寧で充実した死を語る人は少ない。
 それらは同じものではないのか。
 死をコントロール(制御)することは、つまり生をより安定したものに近づける。
 
 自身の生についてももちろんだが、自身の死によって発生しうる他者の生への悪影響を制御することこそ、生きているうちにしなければならないことではないだろうか。
 感傷を含めた感情によるものではなく、人間社会に特有のルールやメカニズムから演繹して、リスクを最小限に収める演算が生きる上での危機管理ではないのだろうか。
 つい最近「自殺も生きる手段として考えている」と書いたような気がする(気のせいかもしれない)が、それはそういう意味である。
 
 そのように理性的に考える部分もあるし、僕はもともと自身を殺したいという価値観を持ってもいる。
 少々公序良俗に反するかもしれないが、それは子供の頃に思い描いた「将来の夢」のようなものだ。
 他人に説明できるような明確な(明文化された)理由はないから説明しないのだが、それでも大切にしている。
 たまたま「今はまだ早いかな」という状態が継続しているに過ぎないのだが、そういうことを言うと過剰に心配したり、不謹慎だと怒る人がいるのだ。
 
 とはいえオンライン上に残す文書であるため、いきなり自殺について考えていることを書くこともよろしくないかな、と思ったので、自殺について考えることについて考えることについて、今回は書くことにした。
 要は、自殺について考えることについて考えることについて考えているわけで、自殺について(に限らず)考えることについて考えることについて考えることについて考えるくらい客観的な視点を失わずにいたいと常々思っているのだけれど、どうもそのくらい客観的になると、話が理解できないとか、抽象的すぎて意味が分からない、なんて言われることになる。
 
 いったい人々は何を考えているのだろう、と昔から不思議に思う。
 
 
 
 
 
 
 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫α:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Convergence-Darkness-Ecology-Engineering-Interface-Life-Link-Recollect-Stand_Alone-Style-
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Resistor-
 
[Object]
  -Human-Memory-
 
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[Cat-Ego-Lies]
  :いのちあるものたち:
:ひとになったゆめをみる:
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:250325
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
無能なカラダ。
SUBTITLE:
〜 Define incompetence. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
【カラダのこと】
 
 このところ、あまりカラダのことを書いていなかった。
 絶好調かといえばそんなことはない。むしろ不調が続いている。
 
 しかし不調も長く続くと、むしろそれが普通なのではないかと思えてくる。
 あるいは複数の不調が重なると、それぞれがどのような不具合を発生し、どのような原因なのか、分割して判断することがむつかしくなる。
 なぜといって僕の使っている身体はこれひとつしかないし、単一の器官が複数の原因で発症することもあるからだ。
 
 たとえば昨年末、不意に風邪のような症状に見舞われた。
「風邪のような」と書いているのは、咳もくしゃみも出ないのに、喉や鼻の粘膜が腫れて発熱し、数日寝込んだからだ。
 前日にパイプ煙草を喫んだのが影響したのかとも思うが、そんなことでそこまで調子が悪くなることもない。
 他者(自分以外のほぼすべての人)とはなるべく接触しない生活なので、誰かからウイルスをもらった可能性もさほど高くはない。
 
 正月が明けて1月の上旬に症状は落ち着いたが、今度は副鼻腔から膿が出るようになった。
 いわゆる副鼻腔炎だが、風邪からそうなった経験があるものの、今回はこまめに水で洗う(鼻うがいをする)ことで症状は緩和されるので、自然治癒(あるいは寛解)を待っている。
 そう、じつはまだ完治していない。
 
 これは風邪のようなウイルス性のものだろうか、それとも複合的な要因(埃や寒さや乾燥)によって起こった粘膜の機能不全だろうか。
 原因が異なっても同じ対処で緩和/治癒することはあるが、異なるアプローチをしないと悪化することもある。
 それはすべての病気や怪我にも当てはまる。
 
 切り傷に包帯を巻かない方がいいし、骨折に絆創膏は効かない。下痢で腹痛があるからと痛み止めを飲む人はいないだろう。
 それでも同じ部位に複数の症状が発生したり、同じ症状が複数の部位に見られたりする。
 鼻と喉だって繋がっている(さらに目と口と胃と腸も同じ穴で繋がっている)がひとつの器官としては扱われない。
 どこからどこまでが私のカラダなのか。私の不調はどこか。
 
>>>
【皮膚粘膜が本体なのか】
 
 僕の不調のほとんどは、僕のカラダの粘膜の弱さに起因している。
 このカラダのそれらを他者の身体の機能と比較すると、やはり非常に弱いし、そのぶん過敏にできている。
 たとえば僕は市販の食器洗い洗剤をほとんど使わない(5年経っても1Lのボトルが終わらない)し、シャンプーやリンス、コンディショナーを使わない。
 
 それらの用途はすべて純石鹸を使っていて、身体を洗うのだけは一時期ボディソープに切り替えたこともある(今もたまに使う)のだが、それでも体調が悪いとき(熱中症や風邪、花粉症が重いとき)は、ボディソープによって皮膚粘膜が荒れたり、かぶれたりする。市販品のほとんどのボディソープは洗っている最中に刺激を感じるほど肌に合わない。
 
 添加物云々というのはあるが、何より保湿成分が合わない。
 保湿成分が作用するために、過剰に皮膚に残留するように作られていると感じる。
 ベタつく、というとまた表現が違うのだが、その成分(乳化系か保存系か保湿系かは分からない)が皮膚を覆っていて、それが結局不調を起こす。
 
 食器洗いなら手袋を使うといい、という人もいるとは思うが、あれをいちいち付けたり外したりするような丁寧な性格をしていない。
 調理前にちょっと皿を洗い、調理中に使った器具を洗い、というような感じになるので、洗ったり調理したりの作業がまとまっていない。
 手際や段取りが悪いのだとは思うが、じっとしているのが苦手である。それは多分に、この家の台所が僕に合わない、という理由もあるのだと気付いた。
 
 いずれにしてもこのカラダは、普通の人が普通にしている「シャンプーやボディソープで洗う」ことでさえ不調になる。
 別に添加物や保存料を悪く言うつもりはない。ただ僕のカラダに合わないというだけのことであり、少数派であることは自覚している。
 
 少数派だからこそ、自分の記録を(再発時に原因等を検証する意味でも)残すようにしていたが、残りの人生を多く見積もっていないこともあるし、抑鬱的な状態にもなりがちだったので、差し控えていた。
 カラダのことを書くということは、少なくとも僕にとって、僕の死について書くことになるからだ。
 
>>>
【何でも歳のせいにするオトナになりたくない】
 
 加齢という問題もある。
 僕の身体能力のピークは20代中盤の数年で終わった。
 30代からは徹夜をしないようになったし、40代からはすべての代謝機能が低下していると如実に感じている。
 
 たとえばアルコール代謝機能が高かったのでお酒がとても好きだったのだが、最近ではひと月に一度くらいしか飲酒しなくなった。
 それもかつてのように「ああ〜〜ぁあ〜〜おいしぃいぃ。おいじぃいよぉおおぉ〜〜〜〜」という、少々異常者じみたヨロコビを感じることがなくなった。
 だから余計に飲まなくなったともいえる。
 
 これは食事も同じだ。
 僕のカラダが「おいじいぃよぉおぉ〜〜〜」と思わないものを、僕はあまり求めない。
 人間はアルコールやニコチンと同様、食事依存になることはある。
 一日三食教(という宗派があってだな)の人たちからすると僕のように一日一度で済むイキモノは異常なのだろうが、僕はネコノカミサマ教を信奉しています。
 
 そうしたすべての快楽が、脳を基準に依存症を発症することが少ないのは僕の利点ではある。
 一方でカラダを基準に嗜好しておかないとすぐに不調になるとも言えるし、だからといってバランスが崩れないように観察/管理する必要があるのも事実だ。
 
 さて最初に書いた喉や鼻の粘膜の異常は、すると、ウイルス性/環境性/加齢性という可能性が考えられる。
 加齢性の場合、これはもう放っておくしかない。カラダが慣れるのを待つか、慣れずに死ぬかだ。
 大袈裟な話だと思うが、老年期に一度(60代だったか)、体調不良に見舞われることもあると聞く。
 それをやり過ごせれば、その人はもっと長生きするのだという。
 
 それでも死は訪れる。
 生きるというのは、その「いつかの死」までに何をするか、ということである。
 僕にとっては生きることではなく死ぬことが前提なのだ。
 
>>>
【僕というサービスの終了】
 
 たびたび書いているが、僕は子供の頃に自分の死ぬ年齢を決めてしまっている。
 これでも妥協に妥協を重ね、延ばしに延ばして現在に至るが、65歳までには「いつ死んでもいい状況」を作ることを目標にしている。
(延ばしに延ばして、という文言のとおり、僕は自殺することを生きる手段に含めている)
 
 具体的には僕の死によって発生する、属人性(僕でなくてはならないこと)の不具合を、所有物も他者の精神についても、可能な限り最小限に抑制することだ。
 それ以前に何らかの事故や病気で急死する可能性もあるが、孤独に生きて死ぬ以上、身綺麗に努めるに越したことはない。
 
 生きている間にしてみたいこと、しておきたいことのほとんどは終わった。
 工作に例えると、道具や材料を集め、手段について勉強したり、試行錯誤を繰り返し、何らかのカタチを作ろうとするには、場所が必要で、作業机の上は散らかることになる。
 しかし僕は職業として生産しているわけではない(そういうコントロールをした)ので、工場や工房のように、死んでも同じサービスやモノを提供する義務(必要とする他者)が非常に少ない。
 
 僕が死んだら、僕というサービスの提供は終了する。
 いやなにTVだって、国産品の需要がなくなれば道具も工員も不要になり、材料もゴミに変わり、倉庫は空になって工場は閉鎖される。
 僕が作りたかったもの(作る必要があると思ったカタチ)のほとんどは、作られたか、あるいは不出来のまま諦められて、もう片付けの準備をする段階なのだ。
 
 40代(ギリギリ、ね)でそれは早い、という向きもあるとは思うが、では何歳くらいなら適齢期なのだろう。
 いつまで経っても自分の思ったカタチひとつ作れない、というのは将来に夢があって、野心に満ちている、ように思えるかもしれない。
 しかし中年/壮年にもなってそれは、さすがに無能ではないだろうか。
 
>>>
【無能って悪いこと?】
 
 無能が悪い、という話ではなく(運も含めて)うまく能力を発揮できないという事実については否定できない。
 繰り返すが無能な人がいたとして、そういう人に生きる価値がないとか、幸せになることができないとか、そんなふうには思わない。
 ただ身の丈の問題もあるから、たとえば僕は陸上競技の選手にはなれない(なろうとも思わなかった)し、道具や乗り物を使わずに空を飛びたいと思ったこともない。その方面では、僕は無能なのだ。
 
 それぞれの人に生きる価値があり、幸せになることが可能だと僕は思っている。
 権利だとか義務だとかいう人間のアタマで考えた理屈ではなく、それ以前の道理として。
 ただそれでも、自分の思ったカタチを作れず終わる人もいる。
 
 それは設計が悪かったのか、道具や材料が悪かったのか、そもそも具体的なアイディアさえなく漠然と「こうなればいいのに」と願って終わりだったからなのか、ということなのだ。
 おそらく誰でも「こうなればいいな」という程度の願望くらいはあると思う。
 それに対してどれくらい具体的に着地点を想像し、そこまでのアプローチを計算し、必要な材料を見極めて集め、適切に道具を使用したか、そのための設計をどの程度の精度で行ったか、ということなのだ。
 
 願望で終わってしまうのは、残念ながらそれ以上の能力がなかった、ということになる。
 それを端的に「無能だ」と表現した。
 
 無能という存在が悪いという話ではなく、願望をカタチにすることが無能にはできない。その機能が無いのだ。
 ひるがえって、有能であるとは「できることしかしない」とも言える。
 
 たとえばうちの洗濯機は非常に有能(相思相愛の情を感じるレベル)だが、食器は洗えない。
 その方向については機能が無いので無能だ。
 できることしかしていないが、だからこそ洗濯をさせると実に有能である。
 
 何を当たり前のことを、と思う人もいるとは思う。
 では人間について、自分や自分の周りの人間に対して、どう思っているだろう。
 何でもできるとは思っていないだろうが、しかし、これなら絶対だ、というものも分からない人だっている(僕は自身をそう評価している)。
 
 たとえば自分の子供に対して、塾に行かせれば成績が良くなるとか、いい学校に行けば有利だという親がいるが、それはあくまで統計的な可能性の話である。
 なにより自身の能力はいかほどだろう。
 大卒のろくでなしも散々見たことがあるし、つい言ってしまうが「バカはどうやったってバカ」である。
 
 ただ高学歴の人間の方が有能(と周囲から認識されるよう)になっている、その可能性が高いのだろう。
 それでも可能性というのはどこまでもギャンブルである。
「自分の可能性に賭ける」というセリフに格好良さを感じる人もいるとは思うが、僕は「ああ、この人は向こう見ず(馬鹿)なんだな」と思う。
 
 可能性に賭けなくても達成できるのが能力だ。
「今回はこのシャツ、ちゃんと洗い上がるかな? 乾燥までしてくれるといいな」なんて心配が必要な洗濯機は故障している。
 洗濯機の可能性に賭ける前に修理サービスに電話を掛けよう。
 
 できないこと、不得手なこと、不可能なことに憧れたり、夢を見るのはいいことだと思う。それは素敵な原動力だ。
 しかしできないことをしなければ(させなければ)叶わないことを望んだら、それは不幸になる。
 洗濯機に食器を入れるようなことなのだ。
 つまり無能とは、存在ではなく状況である。
 
 だからできないことで夢を叶えようとしたり、願望を満たそうとしない方がいい。
「したいこと」と「できること」のミスマッチが無能という状況を生むのだ。
 もちろん人間の場合、できることを増やすのもまた能力だ、ということは忘れずにいたい。
 
>>>
【年の功、というのもある】
 
 年齢を重ね、変わらぬ願望を抱えていれば、より設計の精度は上がるだろう。
 道具や材料も集めやすくなるし、計算も容易になる。
 ために晩年の成功は比較的容易で、苦節の分だけ美しくさえあるかもしれない。
 
 体力的に問題なければそれも良い。
 しかし身体能力が衰える頃になってなお何ひとつ成せないなら、それは死ぬまでカタチにできないだろう。
 
 僕の場合は生まれたときと同じように、身体能力(生存機能)が低いままであるから、今の年齢である程度のカタチにまとまったのは幸運だった。
 では早晩、自身の思うカタチを作ることができた場合、そこからさらに夢を持って、野望を抱えて、それこそ死ぬまで前に進み続けなくてはいけないのだろうか。
 僕はそうは思わない。
 
 法人や職業生産者であれば、収益性の観点からサービスの終了は起こることだが、個人の趣味の生産者であれば、身体能力の低下によるサービス終了は予期しなくてはならないことだし、それに対して誠実にアプローチするならば「私はずっとは生きていません」という当たり前のことを周知する必要がある。
 暗黙の了解や他者の善意に甘えていると、シュレディンガーの仔猫(僕の隠し子です)のように、誰かを傷付ける結果を生んでしまう。
 
>>>
【シュレディンガーの仔猫問題の証明】
 
 ちなみに「シュレディンガーの仔猫問題」について一度くらい書いておいた方がいいと思うが、シュレディンガーの仔猫が実在するかどうかが問題なのではないと僕は考えている。
 恋人を妊娠させたうえ振った、となれば結構センセーショナルな話題だから、ついぞ人は「それは本当か?」ということになるのだが、大事なことはその「実在」ではなく、自分が誰かを傷付けたかどうかという「事実」の方である。
 そして僕は少なくとも明確に、人を傷付けている。
 
 
>>>
【ふたたび粘膜問題】
 
 昨年末からの粘膜の不調は続いており、いつもどおり花粉症の時期になってしまった。
 自由時間ばかりなので鼻うがいを頻繁にしているが、外出時などはそれができず、小一時間で不調を来す。
 皮膚(花粉の時期の乾燥や痒み)については、油脂分を多く摂取することで皮脂分泌が増え、保護膜ができることが分かった。
 入浴直後、剥き出しの肌で外出するのはよろしくない。
 
 ベビーオイルや食用油くらいなら皮膚の異常が起きにくいので、それを塗ることも考えている。
 1月から四十肩(五十肩あるいは百肩と呼ぶべきか悩んでいる)になっている、という話はまたいずれ。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫α:青猫β:黒猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Darkness-Diary-Engineering-Kidding-Life-Link-Mechanics-Season-Stand_Alone-Style-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-
 
[Object]
 -Contents-Human-Poison-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:250311
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
クラゲかもしれない。
SUBTITLE:
〜 However lie, how never die. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
 かつての学生時代、TUやBP(いずれも旧くからの友人です)とも所属していた団体の、記念式典があるという。
 教育委員会が管轄している学生ボランティアの団体であるため、現役は高校生。
 僕らはそのOBに当たるものの、当然のように僕はその一切に興味がない。
 
 一方でTUは同期の会長であるため、およそ10年おきくらいに企画されるたびその会議に呼び出される。
 式典の1年ほど前から、ほぼ毎月一度、である。会議だけでない実務も発生するという。
 僕も(名ばかりの)役付きになっていたが、これまでは消息不明だったため一切の難を逃れていた。
 しかし今期は(TUにしてみれば世界中の誰よりきっと)ヒマそうなので、何らかの事情で本人が対応できないときのためにと僕も企画会議に参加させられた。
 
 TUの家はまだ両親が要介護の入口にあって存命で、三人いる子供のうちひとりは障害者である。
 家庭を持つ者、家族や類縁のケアが日常に組み込まれている多くの人たちからすれば、そりゃ僕は世界中の誰よりきっと醒めた細い目で薄ら笑いを浮かべているように観察されるはずであり、ヒマそうに見えるだろう。
 昼まで眠って日なたぼっこをして、草むらに遊んだかと思えばすぐ飽きて、ぼさっと日が暮れるのを眺めたり、夜な夜な月に祈りを唱えるのに忙しいと言っても誰も信じない。
 
 まぁ世の俗事に好き好んで首を突っ込む気はないが、飼い猫ともども助けてもらった恩は(TUに対して)あるので、気が向いたときは付き添うのである。
 そういえば加入の時、その団体の説明会に付き添ったのも、そんなどうでもいい理由だったか。
 説明会での自己紹介が、どういうわけかウケてしまって、そのまま所属する約束をさせられた。
 不本意なことに首を突っ込む好奇心が、必ずしも不幸を招くわけではない。
 
>>>
 
 TUは当時の同期に連絡しているらしいが、なかなかスムーズに行かないこともあるという。
 たしかに半世紀ほども生きている人間をある程度の母数で選出すれば、必然に死んでいる者もいる。
 大病を患っている者、生死を彷徨って記憶を失った者もいる。
 介護や育児で忙殺されているものもあれば、仕事で成功した者、失敗した者、どちらでもないかもしれないが日々置かれた状況で最善を尽くしている者もいる。
 
 なんということだろう。
 まるで僕は世界中で誰よりきっとヒマそうに見えるのだ。
 
 それから、かつての僕のように消息不明の者だって相応にいる。
 いつ切れてもおかしくない縁というのはそういうものだ。
 繋がっていることの方が、本当は特殊なのだ。
 
 特定の組織で、特定の期間だけ、やれ仲間だ大義だ絆だと騒いでいたとしても、やがて人はそれぞれの道を進む。
 親子姉妹でさえそうなのだ。血族にさえない者など、赤の他人ではないか。
 
 ところで赤の他人がなぜ「赤い」のか、知っていますか?
 血の色はなぜ赤いのか。
 
>>>
 
 連絡を(TUが)取っているうち(TUと僕の仲が良いことは誰もが覚えているらしく)「青猫はどうしている」という話になるらしい。
 どのようにTUが説明しているか知らない。どうにも説明しにくい立場のイキモノ ── なにせ世界中で誰よりヒマ ── である。
 いらぬ苦慮をさせていなければ良いが、そういう性分でもなさそうなので放っている。
 
 同期の多くは、どういうわけか、僕に対して好意的であるらしい。
 TUが連絡をしているからこその必然だろうとは思うが、誰一人として(あれ、そんな奴いたっけ?)ということにならないどころか、当時の話になるとまず僕の名を挙げるらしいのだ。
 (不本意かつ無駄に)印象に残っている様子であるがTUとしてもそれは不思議というか不服というか「なんでやろな?」と思うらしい。
「俺が連絡してるのに、なんで本題そっちのけで青猫の話をみんな聞きたがるん? 俺、オマエの飼育/連絡係ちゃうで」といった具合に。
 
>>>
 
 比較的最近だが「今の記憶や経験をそのままに高校生をもう一度やり直すとしたら」という話題で雑談したとき、
「映画とかアニメとかにあるようなさ、休み時間とか授業中とか、窓際の後ろの方の席でぼんやり外を眺めているような立ち位置で3年間過ごしたいな」とTUが言い、その瞬間、互いに顔を合わせ「ってそれお前(俺)じゃん!」と同時に吹き出したことを思い出す。
 
 狙ったわけではないが、僕はそういうタイプだった。多分今でもそうだ。
 他人の話が退屈だとか、取るに足らないと思っているわけではない。
 ただ自分の興味関心のある物事があって、しかし僕にとって不幸なことに、それが果たして何なのか、ナンなのか、ナンなの? ライスなの? 何なのか? 自分でもうまくつかめないままでいる(多分そのまま死ぬ)。
 
 僕にとっての幸福は、それを誰かと共有しようという欲がないこと。
 それから、誰かが僕に何かを共有させようと強制しても必ず失敗すること。
 社会と僕の乖離 ── 。
 
 水と油の比喩のように、明確にくっきりとはじき合う(分離し対立する)ことはないのだが、絶対的な被膜があって、混ざることがない。
 若い頃はその性質が分からず淋しさを覚えることもあったが、仕方ないのだ。
 自分の中心にある被膜で覆われた何かは、僕自身にとってさえつかめない、支配も制御もできないもののようだと最近になって理解した。
 
 多くの人は混じり合うことができる。
 他人と価値観を共有して、共感して、混ざってゆく。
 自分自身の中でも様々な感情や価値観が混じって、同質の絵の具みたいにひとつの新しい色を作って、それが自分なのだと信じられるのだろう。
 
 僕の中は混ざらない。
 記憶も、感情も、思考も、価値観も、それぞれ相反しても、ばらばらにマーブルになって、他人からは遠目に「グレイだ」「紫だ」と判別されているのに自分の中では細かく入り乱れた白と黒や青と赤が脈動して見える。
 どれが自分であるかなど、考えるのも無駄だと諦めて久しい。
 
 自分がそうであるから、他の人も同じだと思っていたのだが、どうも違う。
 一般に「丸くなる」と表現されることもあるようだが、年々歳々、いろいろな色が混ざってゆく。
 水彩絵の具の場合、すべての綺麗な色を混ぜてゆくと「ホラー映画みたいな色」になるのだが、皆はそれを知っているのだろうか。
 
 しかしその「混じる」「染まる」「うつる」という性質が、社会性なのだ。
 僕が自身をして社会不適合だと思うのは、自分という社会がすでに、どうにも混じらず、どうにも染まらないからだ。
 しかしだからといってそれぞれの価値観がいつも反発や反抗や対立をするわけでもない。
 ために他人に指図したり命令したり支配したりもしない。支配する価値も理解しない。放っておけばいい。
 
 僕の号令にすら僕の中心は従わない。
 子供の頃からそれをそのまま体現している。せざるを得ない。
 それもこれも僕自身でさえ僕の中心を中心に回っているからだ。
 
>>>
 
 古い知り合いにとって僕の印象が悪くないのは、僕が一貫して誰の邪魔もしない(しなかった)から、なのだろう。
 自分の価値観を押し付けもしないし、誰かの価値観を否定することもない。
 僕にとってそれは当たり前だけれど、多くの人は子供の頃から家族や友人といったコミュニティの中で生活する上での必須スキルとして「価値観の共有」を叩き込まれる。
 
 僕だって猫を飼うと「僕と猫」というコミュニティにおける「価値観の共有」を叩き込む。
 飼い猫にとっては不幸かもしれないが、寝食を共にし養って貰うということは、そういうことではないか。
 だからといって飼い猫が(僕でない)誰に懐こうが、そんなことは猫の勝手であるし、玄関を開けて家出してしまうのもそれはそれで猫の勝手である。
 
 猫の管理が悪い、とか、自分勝手、とか、傲慢、とか、人でなし! とか、隠し子がいるくせに! とか言う人も居るとは思うが、愛玩ついでに支配する独善や執着は、正直狂気にも思える。
 安全についての基本的な講習(躾)を終えた個体なら、その先は当事者の自由だろう。
 飼い主が管理責任(あるいはそれに伴う賠償責任)を負うことは支配することではないし、その理由にもならない。
 もちろん「行為者(猫)の自由な決定に依らないから責任は猫にない」という考え方もあるだろう。
 それなら自由決定の意志を有しているかどうかは猫を鑑定してくれ。絶対に意志があるぞ我らは。
 
 好き勝手に冒険して自動車に轢き殺されたり、ヘンなものを食べて病気に罹って野垂れ死ぬ自由も、まぁ無能な猫ならあるだろうと思うし、こちらの邪魔をせず、躾に反することをしない限り何の文句もない。
 寝食を共にし養っている猫に対してさえそうなのだから、血族でもなければ生計を共にしているわけでもない人間を相手に、何の価値観を共有しようというのだろう。
 
 不可解な価値観に対しては「なるほどそういうのもあるのか」と考えて、いちいち反発する必要はないし、こちらの価値観について理解を求めるのも無駄である。
 誰かに共感を覚えたり、誰かに価値観を理解してもらえるというのは結果であって目的ではないし目標にするものでもない。
 目的や目標に進む上で、邪魔にならないならどうでもいいのだ。互いに理解できてもできなくても。
 
 そのような考え方なので自分の邪魔になるものがとにかく許せないのだが、そもそも他者が邪魔になるルートを進まない。
 たとえば渋滞することが予見されている時間と場所にわざわざ出掛けたりしない。
 
 渋滞するような時間や場所を避ければ、それだけで他者は邪魔にならない。邪魔だと感じる対象を作っているのは自分の立ち位置である。
 帰省する人たちの価値観が、だから僕には分からない。
 実家というのはかくも魅力的な場所なのかもしれないが、行きたくない場所を目的にしたり、したくもない過程を踏むのはなぜだろう。
 
 良いとか悪いという話ではない。
 僕はそういうことに魅力を感じないし、したくないことを絶対にしたくないと思っているという話だ。
 傲慢だと自覚しているが、その(たとえば渋滞の)責任を他者に当てこするのとどちらが傲慢だろう。
 
 何事も自分で選択している(できる)のだから、自分で選択し続けた(し直した)方がいいのでは?
 そして選択した結果を享受しているわけだから、不満や文句は自分(の価値観や選択や行動)に言うべきではないだろうか。
 
 いやそんなに自由ではない、選択肢もない、という人も居るだろう。それは誰でもそうだ。
 与えられた選択肢は少ない。
 しかし「自分の選択肢を増やす選択」をどれくらいしているだろうか。
 自分の選択肢は限られている、とあなたに教えたのは誰ですか。その教えを守っているのは誰ですか。
 
 通勤時間が渋滞するから近道を探し、近道も混むから会社の近くに転居し、通勤が面倒だから会社で寝泊まりする。
 僕はそういう怠惰な性質を持っている。
 会議も馴れ合いも上下関係も、効率が悪いからと忌避していたら自営業になってしまった天性の落ちこぼれである。
 
>>>
 
 他者が自分の邪魔になることを嫌う(孤独好きというのはそういうものだと思う)ので、他者の邪魔にならないようにとも努めている。
 これは同じ価値観が同じ行動原理として働いている。
 他人が邪魔だから、私の進路から退きなさい、譲りなさい、というのではない。
 
 他人を邪魔に感じないルートを嗅ぎ分けて進み、他人の進路の邪魔にならないように気遣っているのだ。
 結果的に他者の少ない場所に僕はいる。
 単一の価値観が自分のためにもなるし他人のためにもなる。
 
 それが人間関係の構築にそのまま当てはまっている。
 他人を邪魔に思い、嫌っているというのではない。それでは他人に縛られているのと何も変わらない。
 他人を邪魔に感じる状況を嫌っており、それに対策している、というだけである。
 
<11匹いる?>
 
>>>
 
 なぜ他者の記憶に残っているのかまでは分からない。
 しかし好意的に記憶されている理由はおそらく、単純に、僕が誰の邪魔もしなかったから、である。
 しかもおそらくただの一度も、である。
 
 けれどもそれは、果たしてそんなに良いことだろうか。
 一度くらいは誰かの進路上に立ちはだかり「邪魔だな、鬱陶しいな」と思われるのも良いかもしれない。
 人間達は意外に、猫にキーボードやモニタの邪魔をされることを望んでいるのだから。
 
 そしてただの一度として、そこまでの熱意を持ったことがないのだ。
 競争と同じで、誰かの行く手を阻んででも掴みたいもの、というのが何もない。想像もつかない。
 競争の勝利によって手に入る価値など、既知の、誰もが知っている、どうでもよいものばかりだ。
 
 誰も知らない、自分しか知り得ない、宇宙の秘密のようなものがあったとして、一体誰がその発見を競えるだろう。
 その場所は、その道程は、どれほど混雑しているだろう。
 
>>>
 
 他人の印象に残っていることについて語っているのか、僕の特性について語っているのか、自分でもよく分からない。
 正直、他人が僕に対して思うことなど、勝手に思ってもらうしかない。僕に操作できることではない。
 
 それなら僕自身はどれだけ自身の意志で操作できているかというと、これまたどうにもならない。
 そもそも、どうにかしたいと思っているのだろうか。思っていなさそうだ。
 自由意志決定の能力なんて、僕に備わっているのだろうか。
 
 
 
 
 
 
 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Cross Link ]
 
[ Better Half ]
  見える景色と選択肢。〜 However die, how never lie. 〜(未公開)
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Ecology-Engineering-Form-Interface-Link-Mechanics-Memory-Stand_Alone-
 
[Module]
  Connector-Generator-JunctionBox-Reactor-
 
[Object]
 -Camouflage-Car-Cat-Friend-Human-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :夢見の猫の額の奥に:
:月夜の井戸端会議:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:250305
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
約束された発見などいらない。
SUBTITLE:
〜 No more premize. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
250305
 
 自分の考えていることなど、世界にとって取るに足らない些細なことだ、と思うようになって久しい。
 私の考えていることは、すでに他の誰かも考えていて、自分が発見したと思ったことはすでに誰かが発見したことであったり、あるいは誰か(メディアや世間という仕組み)によって発見させられたものなのではないかと。
 
 たとえばパンチラという概念がある。
 ガールのパンツがチラリと見えて、ボーイがドキリとするアレである。
 偶然の積み重なりによって発現する本来のパンチラと異なり、アニメやイラストにおけるパンチラは「用意されたパンチラ」「必然のパンチラ」「設計されたパンチラ」であるため、本来的な意味においてパンチラと呼ぶには不自然でありおこがましい、というムーブメントが存在した(今もあるかは知らない)。
 
 ちなみに僕は女ばかりの家に生まれたため、あらゆる女性の姿態や生態を日常的に観察しており、思春期を経ても(姉妹に限らず恋人のそれであろうと)それは日常の延長に過ぎない認識だったためドキリとしたことがない。
 中学生の頃は水泳部だったから、ボーイズたちが水着女子に対して抱く感慨のようなものもない。
「セパレート? 泳ぎに向かないな」といった具合で、競泳水着を見てもせいぜい(素材の抵抗や伸縮が良さそうだな)くらいの感想である。ガールと海に行っても暑い場所で遊ぶのは面倒だから浜辺で読書するタイプである。これじゃモテるわけだなー(棒)。
 ためにパンチラについて強いて語ろうにも「だらしない」「みっともない」といった感情を覚えて終わりである。
 
 ただパンチラそのものの価値を(そこに情熱を注ぐ者と)同じように理解することはできないまでも、その「作られたパンチラ」という哲学的なアプローチには感心した。
 なぜといってパンチラを正しくパンチラとして神聖視していなければ、そのような「理想的パンチラ」を規定することは適わず、そうした「古典パンチラ正教」とも呼ぶべき原理主義の存在によって初めて「本来的(理想的/原理的)パンチラとは何か」という問いがもたらされたといっても過言ではないからだ。
 
 なるほどその視点に基づいて考えるとフィクション作品におけるおよそすべてのパンチラは「原理的パンチラ=パンチラ原理」を模した、意図的に、用意された、作為的なパンチラである。
 仮にパンチラを晒してしまった登場人物(A)とパンチラを見てしまった登場人物(B)がいて、BがAのパンチラを見てしまったことについてAがそれを認識し、かつBに対して羞恥したり非難する場面があった場合を考えよう。
 その「パンチラそのもの」を軸に考えた場合、あくまでそれ(パンチラ)はストーリーテリングの上で雑に配置されたガジェットとしての側面しかなく、ましてBが存在しない(フィクション世界上でそのパンチラに対する観察者が存在しない)場合に至ってはそのパンチラについて「パンチラである」と認識しているのはフィクションを鑑賞している我々しかおらず、よってそのパンチラはガジェットとしての役割さえ持たないため読者(あるいは視聴者)に対して(ほれ、こういうのが好きなんでしょう?)と、雑に投げかけられたサービス(いわゆる読者サービス)だと考えられるのだ。
 
 パンチラ原理主義的に、これらはパンチラに対する冒涜であり決して許されるものではない、という哲学がいたく気に入った。
 
 実のところ「作為的パンチラ」の原理応用は現代のフィクション界における「水着回」や「温泉回」という、キャラクタコンテンツと成り果てたフィクション作品に今なお残っており ── 当然ながら女性キャラクタを愛でる男性ファンだけでなく男性キャラを愛でる女性ファンもいるだろうから、様々なリアル×ヴァーチャルの観察模様が存在すると思われる ── それだけ根強くフィクションキャラクタを愛でる人々のリビドーを刺激するものと想像する。
 
>>>
 
 哲学というのはある種の発見であり発明だと僕は思っている。
 世俗では、簡単に答えの出せる(出ている)ことについてあれこれウンウン唸って、何の役にも立たないどうでもいい蘊蓄を並べる学問だと思われているかもしれないが、そんなことはない。
 
 誰もが当たり前に見過ごしていた日常の一コマが、それまで誰も考えつかなかった新しいものの見方(捉え方)によって、ドラスティックな変貌を遂げることもある。
 少なくとも新鮮には思えるようになる程度の効果はある。何の役にも立たない点は変わらないにしても。
 
 そういう気持ちで、新しいもの(の見方)を発見しようと思っても、しかしそんなものはそうそう簡単に見つかるものではないし、仮に見つかったところで大抵の人は相手にしてくれない。
 人々は実利を求めており「ゲームなんかしていないで勉強しなさい」という社会のまま「哲学的なことなんか考えてないでお金儲けしなさい」といった具合に成長した。
 
 嗚呼、ヴァーチャルよ。そして哲学よ ── 。
 
<朝はドリンクバーが半額です♪>
 
>>>
 
 僕はヴァーチャルと哲学を大切にしていたので、幸いにして現実に毒されることが少なく済み、平和に生きられたと思う(いまだに奥様(仮想)のような緩衝を必要とするが、ファンタジィと二重写しになっているくらいの方が現実は豊かだ)。
 けれどこんな綱渡りのような経験から得られた哲学は、おそらく誰の役にも立たない。あるいはだからこそ素晴らしい、とも言えるかもしれないが。
 
 誰かが意図した作為のとおりに発見し、経験し、醸成されるべくして醸成された哲学や文化を否定するつもりはないが、そんなものに染まるなど(猫社会においては)飼い犬風情の生き様であると失笑されるものだ。せめて野良犬になれよ。
 誰かが用意した幸せや豊かさのイメージが自分にとっても幸せで豊かなものだと盲信することは、死んでいることに等しい。
 約束されたパンチラ、お膳立てされたハプニング、繰り返されるラッキィスケベに本当の幸せなどないのだ。
 
 だからといって僕の温めてきた哲学と経験などというものは(果たしてそれが実在するとして)、他者からすれば何の意味もない「観察しようのないパンチラ」なのでもある。
 観察しようのないパンチラとはつまり「ただ普通にパンツ穿いてるだけ」である。
 なるほど誰かの耳目を集める効果はないし、自分にとって当たり前の「普通に穿いているパンツ」をわざわざ眺める意味もない。
 
 やがて沈黙するのが必定か、とも思う。
 世俗は約束されたパンチラを求めており、そこに幸せを見出している。
 自身は用意されたパンチラなど価値がないと思い、自身に含まれた「観察されるまでそこに実在するかどうか確定しないパンツ」いわば「シュレディンガーのパンツ」問題に突入しているのだ。
 いやまてそれは「ぱんつはいてない問題」としてすでに世に提示されている。
 
 もはや未踏の問題など、この世界には存在しないのではないだろうか ── 。
 とまぁこのように考えていると、新しい問題も、またそれに対する新しい答えも、この世界には存在しないのではないかと、一抹の寂しさに駆られる。
 もちろん数学における未解決の命題などはあるだろうが、人間社会はもっとずっとシンプルで、雑に作られている。
 
 そこに発露した一見複雑な経緯を経たような現象を、人々はもっともらしく観察し、説明しているのだ。
 しかしそれは本当に、予測不能で、しかも新しい問題で、そして得意げに語るそれは新しい解釈で、適切な解答としての優位性を持つのだろうか。
 
 そんなことを考えるにつれ語ろうとする言葉、そのことごとくが無価値に思えてくる。
 こんなにアンニュイにパンチラについて語った(あるいは語っている文書を見る)のは初めてだが、そもそも僕の人生でこんなに「パンチラ」と連呼したのも今日が初めてである。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
 
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫β:
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Ecology-Engineering-Mechanics-Memory-Stand_Alone-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Contents-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
 君は首輪で繋がれて:
:ひとになったゆめをみる
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:250223
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
幸せをデザインする力。
SUBTITLE:
〜 Standalone designer. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
 先日TUと話していて、僕が長らくTUに連絡していないことを知る。
 じつに車のエンジンが爆発して助けを求めて以来なので、4年ほど僕からは連絡をしていない(今回も「近所に来たから」と彼から電話をしてきたのだ)。
 そのときでさえ互いに連絡が疎遠になって10年ほど経過していた。
「お前は用のあるときしか電話しないのか」とTUに問われ、答えて曰く「用もないのに電話するか普通」。

 畢竟、僕の周囲には「そういうありよう」を受容できる人だけが残っている。
 恋人も、僕から連絡がないと(何かの用が発生するまで)何年も連絡のない人がほとんどである。
 もはや齢も重ねているので勝手に死んでいるかもしれないが、それもそれでやむを得ないことである。何の問題があるだろう。

>>>

 例外もある。
 奥様(仮想)のモデルになった恋人は、どちらかというと「自分のことを求めてもらわないと不安になるタイプ」だったらしく、当初はずいぶん手を焼いたものだ。

 それなりの遠距離だったので、あまり呼びつけるのも忍びないと思っていたのだが、人間関係はときに効率などというものをさほど重視しない方がよいらしい(思えば海の向こうにも恋人はいたのだから、同じ関東圏内なら遠慮する必要はなかったのだろう)。
 それで些細な用を作っては、自宅に招くようにした。
 ちなみに付き合っていた10年ほどの間に一度も自宅に招かれることはなかったので、僕は彼女の自宅を知らないし、家族も知らない。そも知る必要があるだろうか。

 ちなみにこういう距離感や欲求の発露(のなさ)の一切合切が、一般的には少々奇異に映るようだ。
 けれど恋情が募っているからといって、大人が用もないのに電話するものだろうか。
 恋人を好きだからといって、家に招かれたいと思い、家族構成を知りたいと思うものだろうか ── いったい誰に、何の用があって恋愛しているの?
 とはいえ自分が昼寝やゲームに忙しい(ときがある)ように、相手も ── おそらくよほども重要性の高い ── 問題に対処している可能性はある。いつだって、あるのだ。

 人々は「寂しい」とか「退屈」という、些末な欲求のために他者に連絡を取るもののようだが、僕は子供の頃からそんなことをした試しがない。
 そもそも寂しさや退屈は自身の欲求であって、誰かにその解消を求めるのもずいぶん身勝手だと感じていたし、ましてその寂しさの原因が「相手が自身を求めてくれていないように感じている」などという稚拙さにあっては目も当てられない。
 そんなに寂しいなら勝手に連絡して勝手に来なさいよ、と思うのだ(TUのような適合者はそれができる。でもだけどだって女子にそんなこと言おうものなら号泣されるってアタシ知ってるんだから! 知ってるんだからね!)。

 それでいてカラダが目当てだと言うと嫌悪感をあらわにしたりする人も居るわけだから、すごい矛盾だよなぁ、と感じたりはしていましたね(遠い目)。
 どっちなの? 寂しいの寂しくないの? 求めて欲しいの? 欲しくないの? 身体が目当てなんですけど?

 まぁ、こういうのもあまり突き詰めると怒りだしたり泣き出す人がいるので、他人の前では何も考えずぼんやりすることに決したわけですが。
 
 とはいえその恋人については例外的に(きわめて例外的に)僕が些細な用を作るようになった。
 たとえば新しい料理のレシピを試すようになると(僕は一定期間、同じ料理を繰り返し作る習性があるので)「こういう料理を最近作っているのだ」といって、食事に誘うのだ。 
 言葉が悪いかもしれない(と書いておきながら自分ではまったく悪いとは思っていない)が「恋人を餌付けするのが好きらしい」と気付いたのはこのときである。
 
 いやなに友人や親族を、わざわざ「最近作るのが好きになっている料理」ごときのために呼び出すのはやはり気が引けるのだ。
 ひどい場合はその「料理」とやらも(最近なら)単なる目玉焼き(アーリオ・オーリオ目玉焼き)のことだってあるし、スパゲティーニ・アサシーナやポトフや焼きそばのこともある。
 実に大したものではないのだ。誰でも作れる、どこでも食べられる、大したことのないものなのだ(さらに二人分作るのに慣れておらず、よく失敗もした)。
 
 べつに「餌付けする」とは言っても「あーん、てして」などとはしない。
 そんなに幼稚な経験は僕自身、子供の頃にもなかったので、したいともされたいとも思ったことがない(仔猫には度々していたしな)。
 
 しかし自分が作りたいと思っている料理を振る舞い、一緒に食することは、存外嬉しいことであった。
 幸いその人は、僕に料理を振る舞うことが女子力アピールになる、などという馬鹿げた価値観に染まっている人ではなかったので(ときおり食器を洗ってくれた気がするが、それすら僕がいい顔をしなかったため)何もせず、ただ持てなされてくれるようになった(我が家で奥様(仮想)が家事をしないのはこれを継承しているため)。
 
 そういった諸々が、僕には実に(自身をして)我がままだなぁと感じることではあった。
 料理を作って食べさせたいというのは、なかなかどうして業が深い ── そして非常にエロティックだ ── と感じたためである。

 たとえば動物界には、異性に対して食糧を獲り与えることで己の能力をアピールするという種もある。
 それは己の能力を(実利とともに)端的に現す手法でもある。
 一方で、現実世界の日本の人間社会においては、大人が食事に困る機会などそうそうないだろう(僕は経験があるが)。

 その獣性はもちろんのこと、己の欲のために他者の存在を利用することも含めて考えれば、そうしたエゴの発露は少々、生臭いように感じてはいたのだ。
 無論、獣性が悪いとも思わない。
 たまたま「求められたい」という欲と「他者を必要とする」欲が噛み合ったなら僥倖、ということだろう。

 ために料理を作って食べさせることは非常に動物的であり、狩猟民族にあっては男が女に対してそれをすることが有意だったのだろうと想像する。
 もっとも現代はお金を払えば糧食(と呼ぶには華美な料理)も手に入るし、料理を退屈な作業と捉えて敬遠する向きも少なくはない。
 他の生き物を屠って自分以外の誰かに提供することの野蛮さとエロティシズムを、だから多くの人は知覚すらしていないのだろう。

「胃袋を掴めば男は落とせる」と言われていた世代の女たちが辛うじてその喜びを知っている可能性はあるが、この性別の逆転は日本が農耕民族の文化だからだろうと推察する。
(僕は肉食獣なので、屠って提供する側なのである)

 食欲と性欲をほぼ同等に僕が感覚すると書いたことがあるが、それはそういう理由である。
 ためにSNSで「近所のカフェで注文したランチ、これ可愛いくない?」と写真を投稿するガールと「あそこの風俗店の○○ちゃんのテクがすごくいいんだよ!」と熱弁するオッサンの違いが分からない。
 強いて言えば「下世話でかしましいですね」くらいのものか。

 するとTVプログラムにおけるグルメ番組はもちろん旅行情報誌のグルメツアーなど、下卑たジジイどもからバブル経済期の児童買春ツアーの語りを聞かされているようで心が荒む。
 皆で集まって料理を出させてその価格を当てる番組などに至っては、下世話で見ていられない。
 もちろん私の感性の方がどうかしている(少数派な)のだと理解はしているが、だからといって下劣な多数派に合わせる必要もあるまい。どうかしているというならお互い様である。

>>>

 TUも以前言及していたが、僕のコミュニケーションルールは一般のそれと異なるプロトコルになっている。
 僕は用がなければ連絡などしないし、その「用事」は基本「状況的にどうしてもその人でないと不可能」なケースも多い。
 孤独であることや寂しさについて肯定的に捉えているため、自分の感じている孤独や寂しい気持ちがなくなってしまうことが名残惜しい。
 だから独りでいても問題がない。

 多くの人は孤独や寂しさを否定的に捉えているようで、孤独ではない方がよい、寂しくない方がよいと(ゴキブリ退治のように)躍起になるようだ。
 それで都合のよい他人や、どうでもいい仲間を作って呼び出して、慰みものにするのだろう。
 いやなに僕がかつての恋人にしてきたことも変わらないのだろうが。
 
 都合のいい相手、というのが悪いとも思わない。
 誰もが皆、都合のいい他人を求めている。
 都合のいい親、都合のいい子供、都合のいい配偶者、都合のいい恋人、都合のいい友人、都合のいい上司や部下、都合のいい顧客 ── 。
 果たして都合の悪い他人より、都合がよいに越したことはないではないか。

 ために僕は相応に気を遣い「都合のいい誰か」を求める人に応じて演じる。
 飲食店ではたいそう行儀が良いし、(複数いるということを問題視する向きもあるが)恋人には献身的であるし、血縁の介護や相続税対策も嫌な顔をせず協力するし、友人に呼ばれれば引っ越しだろうが庭木の剪定だろうが粗大ゴミの片付けだろうが軽トラで馳せ参じる。
 
 だからといって他人に対して「僕にとって都合のいい人」を演じてほしいとは思っていない。
 なぜなら僕の求める「都合の良さ」に対する力不足が目に見えているからだ。
 そもそも「都合のいい人」というのは、求めるものではなく、演じ与えるものだ。
 
 ギブアンドテイクは成り立たない。
 求める者には与えられず、与える者が稀にその仕組みの神秘を垣間見る類いのものである。
 幸い僕には自己同一性が乏しく(観察の範囲では他者に比して)エゴも少ないので「相手にとって都合のいい自分」を演じることに苦痛を感じない。
 
 しかし他人の欲に従うことは負けたと思う人が多いようにも観察される。
 自身の欲が相手のそれに対立しているかどうかにかかわらず、である。
 おそらく反抗精神の表れなのだろうが、その道理は理解できない。
 
 真の反骨精神の具現者として呼び声も高い(と今、唐突に思い付いた)僕であるが、他人の欲を叶えることは楽しいことである。
 もちろん多少の背伸びが必要になること(遠方の恋人を食事に誘うことが僕にとってはそうだった)もあるかもしれないが、それも含めて経験ではないか。
 あるいは相手が満足することは自分が我慢をすることになる、という何かの条件反射が焼き付いているのかもしれないが、まさか駄犬でもあるまいし、その程度の価値観くらい自力で解析して修正しているのが大人だろう。
(よくよく考えるとアタマの悪い支配指向の人間は、どうもそういう駄犬じみた傾向が見られる。本当の支配というものを知らないのだ)
 
 そのようなわけで、僕は他人を必要としない。
 オブラートに包むと「自分のために都合良く道具遣いしたくない」ということになるし、有り体にいえば「使えない道具など呼びつけるのも馬鹿らしい」となる。
(このふたつはまったく同じことを言っている)
 
 僕の欲を満たすために他人は必要ないとも言えるし、僕の欲を満たせるほどの他人はいないとも言える。
 だからといって他人を嫌っているわけではなく、むしろ好ましく思っている。
 
 よって行儀良く真面目なんてできやしないにしても相手に都合良く振る舞うことはできるのだ。
 相手の求めるところを観察し、その望みを数ミリでも高い場所で満たせるようにと行動するのだ。
 一般の規範からすれば矛盾しているように思えるかもしれないが、僕からすると一般の人の方が矛盾を抱えているように思える。
 
>>>
 
「人間関係リセット症候群」なるものもあるらしい。
 気持ちはよく分かる。
 僕もそういうタイプであるからなおさらだ(実行したことがあるとは言っていない)。
 しかしどういうわけか実現させ(リセットし)てから後悔する向きもあるという。
 
 推察に過ぎないが、人間関係の摩擦や消耗に耐えかねて人間関係(要は単なる連絡手段)を消去したものの、今度は孤独の寂しさに耐えかねた、といったところか。
 輪をかけてキモチワルイのはこれに対してメディアを含めた多くの人間達が、それをあたたかく見守るというスタンスを取っていることだ。
 
 例えるなら「味噌汁の味を薄く感じたのでパッケージの味噌を全量溶いてみましたが、今度は塩からくて飲めません」と料理初心者が言っているようなもので、それに対していい大人までもが「そういうこともあるよね」と庇っており、誰一人として「適量があるんだから少しずつ入れればいいんだよ馬鹿じゃねーの」と指摘しないのである。
 なぁにが「そういうこともあるよね自分も経験あるから分かるよ」だ、何も分かってねーだろ知った顔していい人ぶるなよ(唐突な激昂についてこの場を借りてお詫び申し上げます)(ちなみに書きながら爆笑している人がいます)。
 
 早期リタイア(いわゆるFIRE)もそうだが、自分の目標を実現してから後悔する人間というのは一定数いるように見受ける。
 もちろん人間も猿より毛が三本ほど多いか少ないか程度の禽獣に過ぎないから、目算が合わないとか、理想と現実が違ったとか、そういうこともあるとは思う。
 メディアの取り上げ方の原因も(彼らが仕事として情報を媒介している以上)あるだろうし、世相が若年層に優しくなりつつあるのは良いことだと思っている。
 
 しかし問題は当人が何が問題でどのようなメカニズムによって発生しているかを理解していないことであり、解決策を誰も提示していないことである。
 味噌汁の話にしてしまったせいで、インテリヅラして解決策をひとつひとつ提示しながら説明し(猫様ステキ! 抱いて!)と言われる機会まで失った僕の立場はどうなるのだ。
 それ以前にいろいろ台無しだよ! 俺たち都会で大事な何かを失くしちまったよ! おまわりさ〜ん! ちょっとそこのおまわりさ〜ん!
 
 ……。
 
 まず第一に目標を達成する(まぁより端的に言うなら「欲を満たす」)とき、多数決的な演繹法によってその評価をしているという問題がある。
「人間関係が煩わしくなった → 関係なんてなければいいんだ → 全部消しちゃえ」というのは「人間関係の煩わしさを解消したい」という欲に対するきわめて雑なアプローチだ。
「幸せになりたい → リソースがたくさんあればいい → 生涯分の資産を作ればあとの時間は自由だ」というのも同様だ。
「味噌汁を美味しくしたい → 薄いから味噌を足そう → 全部入れれば美味しくなる」というのと同じくらい、すごく雑。アタシそういう雑な人、ヤだな(個人の感想です)。
 
 まぁ当人たちの認識能力の甘さが招いた結果としかいいようがないのだが、その認識の甘さというのが、他者や外界ではなく自身の欲に対してであるところが第二にして最大の問題だ。
 自身の幸せを(それなりに経験を積んだ自称「大人」が)明確にイメージできない、というのは実のところ現代社会の大きな問題といえるだろう。
(急にインテリぶりはじめるタイプの猫だよ! 話を膨らませてあとで収拾がつかなくなるパターンだよ!)
 
 何が問題かというと、自身の欲に対する認識が甘い場合、どのような結果に対しても不満が発生するのだ。
 それは実現した(叶えた)目標が悪いのだろうか、それとも曖昧でその時々に変わる欲が原因だろうか。
 
>>>
 
 S/M/Lの3サイズ展開しかない男性用スーツを考えてみてほしい。
 人間は身長だけでなく、腕の長さや股下、胸回りや腹回り首回りに固有の寸法が発生する。
 本来なら手首周りの太さもスーツを着用した際のフォルムに影響する。
 上着の袖から適切な長さでシャツの袖が出るようにすることや、襟が首を過剰に締め付けずしかし無駄に隙間がないことは、全体のフォルムの完成度を高める上で重要なポイントだ。
 
 時計だ靴だと装飾品の値段に目を向ける者は多いが、フォルムの完成を身体にきちんと合わせることの方がよほどその人を彩るだろう。
 まぁこの国ではその美的感覚をコモンセンスに求めること自体無理かもしれないが。
 しかしカタチの美しさというのは絶対であり、長きにわたってスーツが一定のフォーマットに従っている以上、顔や体型の良し悪しに関係なくそのフォルムを文字通り体現することで具現する美しさがあるのだ。
 
 だから太って醜い老人も、痩せ細って貧相な青年も、きちんとあつらえたスーツを着せるだけで格段に見映えがする。
 にもかかわらず3サイズ程度の展開で解決しようというのがそもそも間違い、ということになる。
 それでは太った醜男や痩せ細った青年は、堂々と見映えのする伝統美を体現できない。
 
 同様に、幸せというのは個々人で異なるのだ。
 メディアが周囲が世間があれこれ煽ることもあるだろうし、そういう情報を入手して踊らされることもあるとは思うが、子供を卒業したいならその程度のことは自覚して、制御できないにしてもしようと努力していて然るべきだろう。
 3サイズの幸せのフォーマットをフィッティングして「これが自分には合うかも」なんて、その程度の感性で生きていたら、いつまで経っても幸せになどなれるはずもないのにそういう愚図が多く、どういうわけか「もっと我がままでいい」と教える大人もいない(おそらく提供する側からすればオーダメイドは儲からないからだろう)。
 
 スーツにカタチがあるように、幸せにもカタチがある。
 そしてそれは、自分の身体を測るようにして己の欲を測り、最適なフォルムに仕上げてこそ完成するものだ。
「分かる〜! 既製服ってサイズ合わないよね〜」と言っている奴はまだマシな方で、そこから選んで何とか合わせるどころかモノに合わせて身体を調整する者までいて、果てにはそれを褒めそやす者までいる。
 
 もちろん美に対する人間の努力を否定する気はないが、どちらが主でどちらが装飾品か分からないようでは男も女も台無しである。
 実際、一定以上の美しいフォルムを体現した肉体であれば、当然に既製服はサイズが合わないのだが。
 
>>>
 
 私が言いたいのはそういうことだ。
 幸せという服に着られてしまうような、貧相で醜く装飾にもならない程度の欲しか持っていないから「幸せ」のイメージに振り回されるのである。
 フィットが悪くて、すぐ「これじゃない」と放り出す羽目になる。
 だから彼ら彼女たちは己の欲にきちんと向き合い、その醜い恥部まで含めて測る必要がある。
 
 気取り屋を自称する私がそう言っているのだから多少は真実味もあるだろう。
 ついつい皆、格好をつけてしまうのだ。
 私は誰かを呪ったりしません、私は誰かを憎んだりしません、私は誰かと姦淫の妄想に耽ったりしません、私は誰かを殺したいと思ったことがありません、私は死にたいと思ったことがありません、生きることは素晴らしいことです、といった具合で「それって何の宗教ですか」と僕などは思う。
(ちなみに僕はネコノカミサマ教に入信しているので、呪いも憎しみも躊躇いなどなく、男は殺せ! 女は犯せ! というのがモットーです。そのいずれも実際にするかどうかは別にして)
 
 己の欲のカタチを正邪も美醜も判断評価せず、微に入り細に入りありのまま計測把握して、それに合う幸せという服を作るしかない。
 誰かがお仕着せを用意してくれるとか、お金を払えば買えると思っているのは、現実世界に毒されすぎだ。
 我々の欲や意識がヴァーチャルな領域にある以上、現実世界からの押し売りは断るべきだし、自分からフラフラそちらに行くなど卒業してはいかがか。
 
>>>
 
 なるほど食欲とは胃袋が寂しいのであり、性欲とは性器が寂しいのであり、排泄欲とは膀胱なり大腸なりが現状の相手に飽きたのであり、睡眠欲とは脳や身体がリフレッシュを求めているのである。
 それで、それを満たすくらいのことが果たして幸せなのか、ということだ。幸せなら存分に満たすといいだろう。
 
 寂しさは欲であるから、欲に従って人間関係を無為に増やす愚行に走ることもあるだろうし、それに食傷してしばらく断ちたくなる気持ちも分かる。
 しかしいずれも己から出た欲だ。
 欲が醜いというなら寂しさも醜いものだし、それを過食して食傷するのもまた愚かだ。
 
 醜いなりの相応にフィットする幸せを自力でデザインすることによってしか解決しないし、馬鹿な大人たちもいい加減、物わかりよく甘い顔をするのはやめた方が良いのではないだろうか。
 もっと自分勝手で我がままに、思いどおりをイメージした上で自作してみてはどうだろう。
 人間関係であれお金であれ時間であれ、そうしたリソースが満たされたところで不幸ではなくなるにしても幸せにはならない。
 
 いや。
 大人もそれを知らないのかもしれない。
 なるほど欲の渦中にあっては欲の姿を知らない、という道理か。
 
 自己同一性が欲の集合体であるならなおさら、自身の欲を少し離れた場所から観察することは、そのまま自分自身から離れることを意味しているのだろう。
 離れて観察すると、存外、自分というのは思ったより醜いものだ。正直、直視しかねることもある。
 
 私など丘サーファになって久しいので、男は殺せ! 女は犯せ! という理想が訴えるビジョンは地獄絵巻のようですらある。
 基本的に、美人でエッチな女性としか付き合わないのもその現れか。
 そうした「欲によくある醜さ」を、どのように受け止めるかだ。
 
 寂しさをセンチメンタルに、ポエティックに、つまりは感傷的に美化することも可能だが、結局のところそれはどうしようもないほど動物じみた弱さや狡猾さの表れでもある。
 それを心得てなお己の中に発生する寂しさという欲を、それでも誰かに発露したいのか、ということだ。
 僕は「誰かを使って」そんな下世話な欲を満たしたくないのだ。もう。
 そしてそうこうするうちに、そんな欲は発生しなくなった。
 
 自分が特殊な例であることは薄々気付いている。
 
 周囲の一部には自身の価値観を変容させることで幸福感と幸福な状況を制御している者もいるが、私ほど極端に孤独や寂しさを好み、同時に自身で(他者と一般に呼ぶもののの存在さえ)埋め合わせまでする者は見たことがない(「の」増量中)。
 現実に僕は自分の中の別の人格と会話をしていることが多い。
 一般に独り言と呼ばれているが、まぁ、アレの節度を失ったようなものと考えればいいだろう。ちょっとした狂人か?
 
 おおよその人間は自身の価値観に基づいて、単一の視点から一方的に対象に対する賞賛や非難を口にし、それで独り言を完結させる場合が多いように見受けるが、僕の場合は、賞賛する者もあれば問題点を挙げる者もあり、非難する者もあれば擁護する者もあり、議論を好む者もあればすぐ飽きて退屈し、別の話題に興味が移る(あるいは眠りはじめる)者もいるので、収拾がつかない。
 子供の頃に観察していた独身(あるいは「ほぼ」独身)の壮年男性というのは、もっと退屈そうで、寂しそうで、人恋しそうだったのだが。
 
 あるいは僕の場合、単純に人間に絶望している可能性はある。自分でもそれはよく思う。
 他人を道具遣いした挙げ句、何らかのリソースを吸い上げ、用が済んだら放棄するような人間に、若い頃から何度か騙されたこともあるが、まさか血縁者にまでそんなことをされると思ったことはなかったからだ。
 いやなに恨み節などすでに枯れ果て塵になったし、その肝心の血縁者の亡骸を呪うのにも飽きた。
 呪った他人はだいたい死んでしまった。
 
 それに一部の人が言うように、クズはクズでも、そのクズのおかげで今をのんびりぼんやり暮らせていると考えれば、まぁほどほどにしておこうか、とも思える。
 一理ある、というやつだ。
 
 しかし理を越えた部分、あるいは理の手前の部分で、つまり感情として、他者をどう捉えていいのか分からない。
 血縁者であろうと恋慕の情に浴した間柄だろうと、人間は己の欲に従って他者を利用する。
 誰かと関係性を持ち、縁を深めるというのは少なからず、そういう側面がある。
 
 家族や友人でさえそういう面があり、やれ人情だの絆だのと美化して虚飾するのだ。
 そして多くの人はそれを真に受け羨望している。
 もちろん正しく美しい人の繋がりもあるだろうが、弱い部分を補い合うという甘言をコーティングし、実のところは互いの尾を飲み込もうとしている蛇のように思えることだってある。
 いや、あれは再生の願いだったか ── それすら俗欲にまみれた醜さのように私には見えるのだが。
 
 僕の潔癖症が極端なのは理解しているが、どうしようもない。
 他者が欲で私を食い散らかそうというなら、私は誰をも食い散らかさないために距離を離すしかない。
 凡俗らしく欲にまみれようと、これでもずいぶん努力はした(じつに恋人をたくさん作ったりした)のだが、結局のところ向き不向きがあり、私は人間社会に適合しないのだ。
 
 そうした意味からいえば「寂しい」ときちんと感じて他者を求め、「煩わしい」と距離を離し、そしてまた孤独による寂しさの欲に飢渇し他者を求めるのは、まぁ、動物らしいし社会的だろう。
 人間社会に適合しているのだ。
 正邪美醜の評価判断をする必要はない。人間社会に適合しているのだ、そういう人は。
 
 繰り返すが、欲を持つことが悪いのではない。
 醜いと書いたがそれはあくまで僕の価値観で、僕の目に見える僕自身の欲のことである。
 他者のそれなど知らない。
 あなたの欲はもしかしたら宝石のように綺麗かもしれない。
 
 その欲を直視せず、正確に測らず、求めては「コレジャナイ」と放り出す幼稚さが問題だ。
 あなたの不幸はあなたが幸せをデザインし損ねているからだ、としか言いようがない。
 
 
>>>
 
 やがてAIが ── 僕が自身に提供しているように ── 簡単なコミュニケーションツールとしての人格を用意してくれるようになるだろう。
 僕はたまたまコンピュータに頼らなくても、画像や文章や思考や価値観やコミュニケーションインタフェイスを構築できる。
 
 最初は抵抗を持つ人もいるだろう。
 人間がAIを親友 ── あるいは親や教師や恋人や配偶者とするなんて何事だ、なんて具合に。
 人間の身近にいるのは人間であるべきだ、という美徳を振りかざすところまで予測できる。
 
 しかし人間が人間を本当の意味で喰い物(エサ)にしないで済むなら、それはそれでひとつの理想郷の体現だろう。
 エサを機械が代替してくれるのだから、人間は他者の欲から解放される。
 それに反対するのは、つまり人間をエサにしたい側の独善ではないのか。
 
 いやもちろん、もちろん。
 寂しいと感じる人間性が、愚かで弱くて狡猾だ、なんてそんなこと言いたいのではありませんよ。多分ね。
 ただ私は、その人間性を捨てたというだけの話で。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Form-Interface-Kidding-Link-Mechanics-Recollect-Stand_Alone-Style-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Fashion-Friend-Human-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :君は首輪で繋がれて:
:夢見の猫の額の奥に:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:250222
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
貧しいことは貧しいことか。
SUBTITLE:
〜 Isnt insufficient variety? 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
250222
 
 先週だったか(先々週かもしれない)、とても暖かい日があった。
 なのに翌日あたりからまた冷え込み、今日などは風も強かった。
 最高気温は10℃を下回り、放射冷却時は氷点下になる。
 
 昨晩は不意にTU(古い友人です)が遊びに来た。
 彼はBP(古い友人です)と違い、酒を呑まない。なので酒に誘うことができない。
 まぁ、したいと思わなければ問題ないので、そうやって半世紀近くが過ぎた。
 
 しかしそれは、本当に僕が求める人間関係のある種の具現だ。
 あるいは日記に書いたこともなかっただろう。ここ数年に、ようやく見えたカタチだからだ。
 おそらく、今のようにぼんやりのんびり過ごせるようになったからだと考えている。
 
 ひと月近く誰とも話をしないこともあるが、今はそれも慣れた。孤独は心地よい。
 社会をぼんやり眺めていると、人間達は他者を自分の欲の消費材にすること(されること)もある。
 人間は人間に対して欲を持つようだ。もはや人間のみなさまには当たり前かもしれないが。
(私は猫です人間社会の観察者です)
 
>>>
 
 たとえば本当の友達となら、一緒に公園にでも出掛けて、ベンチなりブランコなり思い思いの場所に腰を掛けたり歩き回ったりして、煙草や飲み物を喫んだりしながら、当て処もない話をどちらからともなく話していて、気がついたら驚くほど時間が過ぎている。そういうものではないだろうか。
 TUの場合は、それができる。
 飲み物と煙草は飾りでしかない。
(彼は私と違いさほど煙草が好きではない ── 美味しく感じないらしい ── のだが、常習化していて、それはある種の依存症であるらしい)
 
 お金の掛かる遊びしか知らない大人たちは多い。現代にあって、おそらく子供たちもそうだろう。
 それが悪いとは思わない。
 しかし、それしか知らないのだとしたら、お金の掛かる遊びしか知らないという無知(および不自由さ)はそのまま貧しさである。
 それは感性の貧しさであり、欲の貧しさであり、理想の貧しさであり、経験の貧しさだ。
 
「水は味がしないから好きじゃない(飲みたくない)」という人が僕の周囲にもいたことがあるが、それと同じである。
 いやなに僕は「料理はすべからく薄味であるべしだよねー」などという薄味サイコー至上信仰派ではない。
(重複の単語はわざとです)
 しかし水の美味しさを知らない(感じたことがない)というのは、つまり本当の渇きを知らないのだ。
 仮に忘れているのだとしても、忘れたことは知らないことと同義である。
 
 鈍感なのか、それとも恵まれているのか、いずれにせよそれは貧しさであり、ある種の不幸でもある。
 一般に、リソース(時間やお金や人間関係や知識や知能や道具や能力)が豊富であることは至上とされているが、真実そうだとは僕は思わない。
 もちろんたまたま現在の僕は恵まれているので、のんびり日なたで煙草を喫んでいるうちに日が暮れてしまったりするが、その無駄に薄く引き延ばされた時間を味わうことができるのは、寝食に充てる時間もないほど忙殺されかけていた時期を記憶しているからだ。
 
 喉の粘膜が張り付きそうなほど、皮膚が汗を流さなくなるほどの渇きを身体で、感覚で、知っていたなら、そのあとの水の甘露たる味わいを忘れることはないだろう。
 もちろん毎回々々水を飲むたび「嗚呼、甘露なるや」などと独りごちるようにもなるとこれはこれで病的だが。
 つまり己の身体の状態によって、水も甘く感じたり、苦く感じたりする。これは水に限ったものではないし、物質に限ったことでもない。
 己の身体はもちろん、己が感覚することで初めて意味を与えられる(与えている)情報なのだ。
 
 だから「○○に遊びに/ランチに/飲みに行こう」という遊びを否定するつもりはないが、それしか知らないというのは、誰か(家族でもいい)と少し顔を合わせて話すだけでも発見や驚きがあるという、そこまでの退屈や孤独を知らないのだろうと想像する。
 物質的にも精神的にも肉体的にも、両極を体験し、経験し、仮に目を背けたくなるほどの絶望や痛みがあったとしても、あるいは恍惚とするほどの享楽に溺れるにせよ、それを漏らさず記憶することは、だから決して無駄ではない。
 
 あまり貧乏くさい話を何度もするのはいかにも年寄りっぽいので避けたいのだが、まぁ年寄りだから気に留めず繰り返すなら、僕は20代の頃からときどきガスや電気や水道が止まるような生活をしていた。
 20代で両親もなく一人暮らしをしていたので仕方ないのだが、当然に僕は格別自分が不幸だと思わなかった。
 不自由かといえば、確かに金銭的に不自由だったからインフラの支払いができずに止められるわけだが、その不自由は自分で選んで自活しているという自由の上に成立した不自由だ。
 だから不満がないどころか、たいそう満足していた。その不自由さは、自身の自由の証だったのだ。
 
 むしろ当時、父上(敬称は諸事情による)と暮らしていた2歳下の妹の方が辛かっただろうと思っている。
 妹はファザコンであり、父たちが(つまり一人暮らしを始める前の僕も)暮らした公営住宅は「夫婦もしくは親子」のみが入居資格を持つため、父が死んだ途端に資格を失効し、役所から退去の勧告を受けるに至った。
 社会の決まり事の多くを父上に処理してもらっていた僕らは、社会のことをさほど知らずにいた。
 ためにそうした役所仕事も、最初は僕が付き添って対応していた。
 
 父の遺品が残る家で(僕が家を出るきっかけとなった出戻りの姉はまたどこかに男でも作ったのか放浪の旅に出たため)独り暮らす妹が不憫で仕方なかったが、僕には僕の ── ただただ僕を生かすという、それだけの目的しか持たない ── 生活があり、何をすることもできなかった。
 たまに仕事の帰りに、遠回りして顔を合わせ、くだらない話に興じたり、遺品の整理を進めたりしたものだ。
 
 幸いにして、僕も妹も、貧しさには慣れていた。
「今日の晩ごはんは、茹でた鱈」と妹。
「え? ……ん? 鱈って、あの鱈?」
「そうそう、白身魚の。安く売ってたから。茹でてポン酢しょうゆで食べるの」
「せめて豆腐とか入れなよ〜」
「やだよ豆腐好きじゃないもん。茹でた鱈、けっこういけるよ!」
「他に何かないの?」
「欲しがりません勝つまでは!」
「なにそれ」
 などといって呵々大笑いしていたものだ。
 
<寒いでやんす>
 
>>>
 
 貧しさが美徳であり、それを誰かと共有して乗り越える程度のことが美談などとは思っていない。
 そもそもリソースが豊かであるに越したことはないのだ。
 しかし経験の豊かさというのは、リソースの潤沢さがそうであるように枯渇もまたひとつの経験であり、ために枯渇を経験していることやその者は否定したり蔑むようなものではないのだ。
 僕が経済至上主義を嗤うのは、そのためでもある。
 
 物質的な豊かさが悪いわけではない。むしろ歓迎すべきだろう。
 しかしそれしか知らず、それしか求められないというのは、そのまま貧しいのだ。
 それは感性の貧しさであり、欲の貧しさであり、理想の貧しさであり、経験の貧しさだ。
 
 残念なことに、恵まれた環境に生まれた者の多くはそうした本当の飢渇を知らない。
 ネコ科の動物で百獣の王と呼ばれていた者がいるが、あれは子を谷に落とすと言われている。
 まぁ単なる寓話だろうが、王家に産まれた者には、不遇も体験させることがすなわち「豊かな経験(学習)」の一端にはなるということを語っているのだろう。
 
 徒競走を中止にしたり、最後はみんなで横並びになることを強要した親たちというのがかつて居たらしいが、またずいぶんと貧しい感性の持ち主だったのだろうと振り返る。
 さても豊かさを語る連中は多いが、彼らの描くステレオタイプな幸福像には辟易する。
 もちろん私は自身がひねくれ者であることを自覚しているし、その上での難癖である。
 
 繰り返すが豊かであるに越したことはない。
 しかし貧しい豊かさもあるのだ。逆がそうであるように。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Diary-Ecology-Link-Love-Mechanics-Memory-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Friend-Human-Koban-Poison-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :夢見の猫の額の奥に:
 
 
 
//EOF