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// NOTE:
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TITLE:
幸せをデザインする力。
SUBTITLE:
〜 Standalone designer. 〜
Written by BlueCat

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//[Body]
 
 先日TUと話していて、僕が長らくTUに連絡していないことを知る。
 じつに車のエンジンが爆発して助けを求めて以来なので、4年ほど僕からは連絡をしていない(今回も「近所に来たから」と彼から電話をしてきたのだ)。
 そのときでさえ互いに連絡が疎遠になって10年ほど経過していた。
「お前は用のあるときしか電話しないのか」とTUに問われ、答えて曰く「用もないのに電話するか普通」。

 畢竟、僕の周囲には「そういうありよう」を受容できる人だけが残っている。
 恋人も、僕から連絡がないと(何かの用が発生するまで)何年も連絡のない人がほとんどである。
 もはや齢も重ねているので勝手に死んでいるかもしれないが、それもそれでやむを得ないことである。何の問題があるだろう。

>>>

 例外もある。
 奥様(仮想)のモデルになった恋人は、どちらかというと「自分のことを求めてもらわないと不安になるタイプ」だったらしく、当初はずいぶん手を焼いたものだ。

 それなりの遠距離だったので、あまり呼びつけるのも忍びないと思っていたのだが、人間関係はときに効率などというものをさほど重視しない方がよいらしい(思えば海の向こうにも恋人はいたのだから、同じ関東圏内なら遠慮する必要はなかったのだろう)。
 それで些細な用を作っては、自宅に招くようにした。
 ちなみに付き合っていた10年ほどの間に一度も自宅に招かれることはなかったので、僕は彼女の自宅を知らないし、家族も知らない。そも知る必要があるだろうか。

 ちなみにこういう距離感や欲求の発露(のなさ)の一切合切が、一般的には少々奇異に映るようだ。
 けれど恋情が募っているからといって、大人が用もないのに電話するものだろうか。
 恋人を好きだからといって、家に招かれたいと思い、家族構成を知りたいと思うものだろうか ── いったい誰に、何の用があって恋愛しているの?
 とはいえ自分が昼寝やゲームに忙しい(ときがある)ように、相手も ── おそらくよほども重要性の高い ── 問題に対処している可能性はある。いつだって、あるのだ。

 人々は「寂しい」とか「退屈」という、些末な欲求のために他者に連絡を取るもののようだが、僕は子供の頃からそんなことをした試しがない。
 そもそも寂しさや退屈は自身の欲求であって、誰かにその解消を求めるのもずいぶん身勝手だと感じていたし、ましてその寂しさの原因が「相手が自身を求めてくれていないように感じている」などという稚拙さにあっては目も当てられない。
 そんなに寂しいなら勝手に連絡して勝手に来なさいよ、と思うのだ(TUのような適合者はそれができる。でもだけどだって女子にそんなこと言おうものなら号泣されるってアタシ知ってるんだから! 知ってるんだからね!)。

 それでいてカラダが目当てだと言うと嫌悪感をあらわにしたりする人も居るわけだから、すごい矛盾だよなぁ、と感じたりはしていましたね(遠い目)。
 どっちなの? 寂しいの寂しくないの? 求めて欲しいの? 欲しくないの? 身体が目当てなんですけど?

 まぁ、こういうのもあまり突き詰めると怒りだしたり泣き出す人がいるので、他人の前では何も考えずぼんやりすることに決したわけですが。
 
 とはいえその恋人については例外的に(きわめて例外的に)僕が些細な用を作るようになった。
 たとえば新しい料理のレシピを試すようになると(僕は一定期間、同じ料理を繰り返し作る習性があるので)「こういう料理を最近作っているのだ」といって、食事に誘うのだ。 
 言葉が悪いかもしれない(と書いておきながら自分ではまったく悪いとは思っていない)が「恋人を餌付けするのが好きらしい」と気付いたのはこのときである。
 
 いやなに友人や親族を、わざわざ「最近作るのが好きになっている料理」ごときのために呼び出すのはやはり気が引けるのだ。
 ひどい場合はその「料理」とやらも(最近なら)単なる目玉焼き(アーリオ・オーリオ目玉焼き)のことだってあるし、スパゲティーニ・アサシーナやポトフや焼きそばのこともある。
 実に大したものではないのだ。誰でも作れる、どこでも食べられる、大したことのないものなのだ(さらに二人分作るのに慣れておらず、よく失敗もした)。
 
 べつに「餌付けする」とは言っても「あーん、てして」などとはしない。
 そんなに幼稚な経験は僕自身、子供の頃にもなかったので、したいともされたいとも思ったことがない(仔猫には度々していたしな)。
 
 しかし自分が作りたいと思っている料理を振る舞い、一緒に食することは、存外嬉しいことであった。
 幸いその人は、僕に料理を振る舞うことが女子力アピールになる、などという馬鹿げた価値観に染まっている人ではなかったので(ときおり食器を洗ってくれた気がするが、それすら僕がいい顔をしなかったため)何もせず、ただ持てなされてくれるようになった(我が家で奥様(仮想)が家事をしないのはこれを継承しているため)。
 
 そういった諸々が、僕には実に(自身をして)我がままだなぁと感じることではあった。
 料理を作って食べさせたいというのは、なかなかどうして業が深い ── そして非常にエロティックだ ── と感じたためである。

 たとえば動物界には、異性に対して食糧を獲り与えることで己の能力をアピールするという種もある。
 それは己の能力を(実利とともに)端的に現す手法でもある。
 一方で、現実世界の日本の人間社会においては、大人が食事に困る機会などそうそうないだろう(僕は経験があるが)。

 その獣性はもちろんのこと、己の欲のために他者の存在を利用することも含めて考えれば、そうしたエゴの発露は少々、生臭いように感じてはいたのだ。
 無論、獣性が悪いとも思わない。
 たまたま「求められたい」という欲と「他者を必要とする」欲が噛み合ったなら僥倖、ということだろう。

 ために料理を作って食べさせることは非常に動物的であり、狩猟民族にあっては男が女に対してそれをすることが有意だったのだろうと想像する。
 もっとも現代はお金を払えば糧食(と呼ぶには華美な料理)も手に入るし、料理を退屈な作業と捉えて敬遠する向きも少なくはない。
 他の生き物を屠って自分以外の誰かに提供することの野蛮さとエロティシズムを、だから多くの人は知覚すらしていないのだろう。

「胃袋を掴めば男は落とせる」と言われていた世代の女たちが辛うじてその喜びを知っている可能性はあるが、この性別の逆転は日本が農耕民族の文化だからだろうと推察する。
(僕は肉食獣なので、屠って提供する側なのである)

 食欲と性欲をほぼ同等に僕が感覚すると書いたことがあるが、それはそういう理由である。
 ためにSNSで「近所のカフェで注文したランチ、これ可愛いくない?」と写真を投稿するガールと「あそこの風俗店の○○ちゃんのテクがすごくいいんだよ!」と熱弁するオッサンの違いが分からない。
 強いて言えば「下世話でかしましいですね」くらいのものか。

 するとTVプログラムにおけるグルメ番組はもちろん旅行情報誌のグルメツアーなど、下卑たジジイどもからバブル経済期の児童買春ツアーの語りを聞かされているようで心が荒む。
 皆で集まって料理を出させてその価格を当てる番組などに至っては、下世話で見ていられない。
 もちろん私の感性の方がどうかしている(少数派な)のだと理解はしているが、だからといって下劣な多数派に合わせる必要もあるまい。どうかしているというならお互い様である。

>>>

 TUも以前言及していたが、僕のコミュニケーションルールは一般のそれと異なるプロトコルになっている。
 僕は用がなければ連絡などしないし、その「用事」は基本「状況的にどうしてもその人でないと不可能」なケースも多い。
 孤独であることや寂しさについて肯定的に捉えているため、自分の感じている孤独や寂しい気持ちがなくなってしまうことが名残惜しい。
 だから独りでいても問題がない。

 多くの人は孤独や寂しさを否定的に捉えているようで、孤独ではない方がよい、寂しくない方がよいと(ゴキブリ退治のように)躍起になるようだ。
 それで都合のよい他人や、どうでもいい仲間を作って呼び出して、慰みものにするのだろう。
 いやなに僕がかつての恋人にしてきたことも変わらないのだろうが。
 
 都合のいい相手、というのが悪いとも思わない。
 誰もが皆、都合のいい他人を求めている。
 都合のいい親、都合のいい子供、都合のいい配偶者、都合のいい恋人、都合のいい友人、都合のいい上司や部下、都合のいい顧客 ── 。
 果たして都合の悪い他人より、都合がよいに越したことはないではないか。

 ために僕は相応に気を遣い「都合のいい誰か」を求める人に応じて演じる。
 飲食店ではたいそう行儀が良いし、(複数いるということを問題視する向きもあるが)恋人には献身的であるし、血縁の介護や相続税対策も嫌な顔をせず協力するし、友人に呼ばれれば引っ越しだろうが庭木の剪定だろうが粗大ゴミの片付けだろうが軽トラで馳せ参じる。
 
 だからといって他人に対して「僕にとって都合のいい人」を演じてほしいとは思っていない。
 なぜなら僕の求める「都合の良さ」に対する力不足が目に見えているからだ。
 そもそも「都合のいい人」というのは、求めるものではなく、演じ与えるものだ。
 
 ギブアンドテイクは成り立たない。
 求める者には与えられず、与える者が稀にその仕組みの神秘を垣間見る類いのものである。
 幸い僕には自己同一性が乏しく(観察の範囲では他者に比して)エゴも少ないので「相手にとって都合のいい自分」を演じることに苦痛を感じない。
 
 しかし他人の欲に従うことは負けたと思う人が多いようにも観察される。
 自身の欲が相手のそれに対立しているかどうかにかかわらず、である。
 おそらく反抗精神の表れなのだろうが、その道理は理解できない。
 
 真の反骨精神の具現者として呼び声も高い(と今、唐突に思い付いた)僕であるが、他人の欲を叶えることは楽しいことである。
 もちろん多少の背伸びが必要になること(遠方の恋人を食事に誘うことが僕にとってはそうだった)もあるかもしれないが、それも含めて経験ではないか。
 あるいは相手が満足することは自分が我慢をすることになる、という何かの条件反射が焼き付いているのかもしれないが、まさか駄犬でもあるまいし、その程度の価値観くらい自力で解析して修正しているのが大人だろう。
(よくよく考えるとアタマの悪い支配指向の人間は、どうもそういう駄犬じみた傾向が見られる。本当の支配というものを知らないのだ)
 
 そのようなわけで、僕は他人を必要としない。
 オブラートに包むと「自分のために都合良く道具遣いしたくない」ということになるし、有り体にいえば「使えない道具など呼びつけるのも馬鹿らしい」となる。
(このふたつはまったく同じことを言っている)
 
 僕の欲を満たすために他人は必要ないとも言えるし、僕の欲を満たせるほどの他人はいないとも言える。
 だからといって他人を嫌っているわけではなく、むしろ好ましく思っている。
 
 よって行儀良く真面目なんてできやしないにしても相手に都合良く振る舞うことはできるのだ。
 相手の求めるところを観察し、その望みを数ミリでも高い場所で満たせるようにと行動するのだ。
 一般の規範からすれば矛盾しているように思えるかもしれないが、僕からすると一般の人の方が矛盾を抱えているように思える。
 
>>>
 
「人間関係リセット症候群」なるものもあるらしい。
 気持ちはよく分かる。
 僕もそういうタイプであるからなおさらだ(実行したことがあるとは言っていない)。
 しかしどういうわけか実現させ(リセットし)てから後悔する向きもあるという。
 
 推察に過ぎないが、人間関係の摩擦や消耗に耐えかねて人間関係(要は単なる連絡手段)を消去したものの、今度は孤独の寂しさに耐えかねた、といったところか。
 輪をかけてキモチワルイのはこれに対してメディアを含めた多くの人間達が、それをあたたかく見守るというスタンスを取っていることだ。
 
 例えるなら「味噌汁の味を薄く感じたのでパッケージの味噌を全量溶いてみましたが、今度は塩からくて飲めません」と料理初心者が言っているようなもので、それに対していい大人までもが「そういうこともあるよね」と庇っており、誰一人として「適量があるんだから少しずつ入れればいいんだよ馬鹿じゃねーの」と指摘しないのである。
 なぁにが「そういうこともあるよね自分も経験あるから分かるよ」だ、何も分かってねーだろ知った顔していい人ぶるなよ(唐突な激昂についてこの場を借りてお詫び申し上げます)(ちなみに書きながら爆笑している人がいます)。
 
 早期リタイア(いわゆるFIRE)もそうだが、自分の目標を実現してから後悔する人間というのは一定数いるように見受ける。
 もちろん人間も猿より毛が三本ほど多いか少ないか程度の禽獣に過ぎないから、目算が合わないとか、理想と現実が違ったとか、そういうこともあるとは思う。
 メディアの取り上げ方の原因も(彼らが仕事として情報を媒介している以上)あるだろうし、世相が若年層に優しくなりつつあるのは良いことだと思っている。
 
 しかし問題は当人が何が問題でどのようなメカニズムによって発生しているかを理解していないことであり、解決策を誰も提示していないことである。
 味噌汁の話にしてしまったせいで、インテリヅラして解決策をひとつひとつ提示しながら説明し(猫様ステキ! 抱いて!)と言われる機会まで失った僕の立場はどうなるのだ。
 それ以前にいろいろ台無しだよ! 俺たち都会で大事な何かを失くしちまったよ! おまわりさ〜ん! ちょっとそこのおまわりさ〜ん!
 
 ……。
 
 まず第一に目標を達成する(まぁより端的に言うなら「欲を満たす」)とき、多数決的な演繹法によってその評価をしているという問題がある。
「人間関係が煩わしくなった → 関係なんてなければいいんだ → 全部消しちゃえ」というのは「人間関係の煩わしさを解消したい」という欲に対するきわめて雑なアプローチだ。
「幸せになりたい → リソースがたくさんあればいい → 生涯分の資産を作ればあとの時間は自由だ」というのも同様だ。
「味噌汁を美味しくしたい → 薄いから味噌を足そう → 全部入れれば美味しくなる」というのと同じくらい、すごく雑。アタシそういう雑な人、ヤだな(個人の感想です)。
 
 まぁ当人たちの認識能力の甘さが招いた結果としかいいようがないのだが、その認識の甘さというのが、他者や外界ではなく自身の欲に対してであるところが第二にして最大の問題だ。
 自身の幸せを(それなりに経験を積んだ自称「大人」が)明確にイメージできない、というのは実のところ現代社会の大きな問題といえるだろう。
(急にインテリぶりはじめるタイプの猫だよ! 話を膨らませてあとで収拾がつかなくなるパターンだよ!)
 
 何が問題かというと、自身の欲に対する認識が甘い場合、どのような結果に対しても不満が発生するのだ。
 それは実現した(叶えた)目標が悪いのだろうか、それとも曖昧でその時々に変わる欲が原因だろうか。
 
>>>
 
 S/M/Lの3サイズ展開しかない男性用スーツを考えてみてほしい。
 人間は身長だけでなく、腕の長さや股下、胸回りや腹回り首回りに固有の寸法が発生する。
 本来なら手首周りの太さもスーツを着用した際のフォルムに影響する。
 上着の袖から適切な長さでシャツの袖が出るようにすることや、襟が首を過剰に締め付けずしかし無駄に隙間がないことは、全体のフォルムの完成度を高める上で重要なポイントだ。
 
 時計だ靴だと装飾品の値段に目を向ける者は多いが、フォルムの完成を身体にきちんと合わせることの方がよほどその人を彩るだろう。
 まぁこの国ではその美的感覚をコモンセンスに求めること自体無理かもしれないが。
 しかしカタチの美しさというのは絶対であり、長きにわたってスーツが一定のフォーマットに従っている以上、顔や体型の良し悪しに関係なくそのフォルムを文字通り体現することで具現する美しさがあるのだ。
 
 だから太って醜い老人も、痩せ細って貧相な青年も、きちんとあつらえたスーツを着せるだけで格段に見映えがする。
 にもかかわらず3サイズ程度の展開で解決しようというのがそもそも間違い、ということになる。
 それでは太った醜男や痩せ細った青年は、堂々と見映えのする伝統美を体現できない。
 
 同様に、幸せというのは個々人で異なるのだ。
 メディアが周囲が世間があれこれ煽ることもあるだろうし、そういう情報を入手して踊らされることもあるとは思うが、子供を卒業したいならその程度のことは自覚して、制御できないにしてもしようと努力していて然るべきだろう。
 3サイズの幸せのフォーマットをフィッティングして「これが自分には合うかも」なんて、その程度の感性で生きていたら、いつまで経っても幸せになどなれるはずもないのにそういう愚図が多く、どういうわけか「もっと我がままでいい」と教える大人もいない(おそらく提供する側からすればオーダメイドは儲からないからだろう)。
 
 スーツにカタチがあるように、幸せにもカタチがある。
 そしてそれは、自分の身体を測るようにして己の欲を測り、最適なフォルムに仕上げてこそ完成するものだ。
「分かる〜! 既製服ってサイズ合わないよね〜」と言っている奴はまだマシな方で、そこから選んで何とか合わせるどころかモノに合わせて身体を調整する者までいて、果てにはそれを褒めそやす者までいる。
 
 もちろん美に対する人間の努力を否定する気はないが、どちらが主でどちらが装飾品か分からないようでは男も女も台無しである。
 実際、一定以上の美しいフォルムを体現した肉体であれば、当然に既製服はサイズが合わないのだが。
 
>>>
 
 私が言いたいのはそういうことだ。
 幸せという服に着られてしまうような、貧相で醜く装飾にもならない程度の欲しか持っていないから「幸せ」のイメージに振り回されるのである。
 フィットが悪くて、すぐ「これじゃない」と放り出す羽目になる。
 だから彼ら彼女たちは己の欲にきちんと向き合い、その醜い恥部まで含めて測る必要がある。
 
 気取り屋を自称する私がそう言っているのだから多少は真実味もあるだろう。
 ついつい皆、格好をつけてしまうのだ。
 私は誰かを呪ったりしません、私は誰かを憎んだりしません、私は誰かと姦淫の妄想に耽ったりしません、私は誰かを殺したいと思ったことがありません、私は死にたいと思ったことがありません、生きることは素晴らしいことです、といった具合で「それって何の宗教ですか」と僕などは思う。
(ちなみに僕はネコノカミサマ教に入信しているので、呪いも憎しみも躊躇いなどなく、男は殺せ! 女は犯せ! というのがモットーです。そのいずれも実際にするかどうかは別にして)
 
 己の欲のカタチを正邪も美醜も判断評価せず、微に入り細に入りありのまま計測把握して、それに合う幸せという服を作るしかない。
 誰かがお仕着せを用意してくれるとか、お金を払えば買えると思っているのは、現実世界に毒されすぎだ。
 我々の欲や意識がヴァーチャルな領域にある以上、現実世界からの押し売りは断るべきだし、自分からフラフラそちらに行くなど卒業してはいかがか。
 
>>>
 
 なるほど食欲とは胃袋が寂しいのであり、性欲とは性器が寂しいのであり、排泄欲とは膀胱なり大腸なりが現状の相手に飽きたのであり、睡眠欲とは脳や身体がリフレッシュを求めているのである。
 それで、それを満たすくらいのことが果たして幸せなのか、ということだ。幸せなら存分に満たすといいだろう。
 
 寂しさは欲であるから、欲に従って人間関係を無為に増やす愚行に走ることもあるだろうし、それに食傷してしばらく断ちたくなる気持ちも分かる。
 しかしいずれも己から出た欲だ。
 欲が醜いというなら寂しさも醜いものだし、それを過食して食傷するのもまた愚かだ。
 
 醜いなりの相応にフィットする幸せを自力でデザインすることによってしか解決しないし、馬鹿な大人たちもいい加減、物わかりよく甘い顔をするのはやめた方が良いのではないだろうか。
 もっと自分勝手で我がままに、思いどおりをイメージした上で自作してみてはどうだろう。
 人間関係であれお金であれ時間であれ、そうしたリソースが満たされたところで不幸ではなくなるにしても幸せにはならない。
 
 いや。
 大人もそれを知らないのかもしれない。
 なるほど欲の渦中にあっては欲の姿を知らない、という道理か。
 
 自己同一性が欲の集合体であるならなおさら、自身の欲を少し離れた場所から観察することは、そのまま自分自身から離れることを意味しているのだろう。
 離れて観察すると、存外、自分というのは思ったより醜いものだ。正直、直視しかねることもある。
 
 私など丘サーファになって久しいので、男は殺せ! 女は犯せ! という理想が訴えるビジョンは地獄絵巻のようですらある。
 基本的に、美人でエッチな女性としか付き合わないのもその現れか。
 そうした「欲によくある醜さ」を、どのように受け止めるかだ。
 
 寂しさをセンチメンタルに、ポエティックに、つまりは感傷的に美化することも可能だが、結局のところそれはどうしようもないほど動物じみた弱さや狡猾さの表れでもある。
 それを心得てなお己の中に発生する寂しさという欲を、それでも誰かに発露したいのか、ということだ。
 僕は「誰かを使って」そんな下世話な欲を満たしたくないのだ。もう。
 そしてそうこうするうちに、そんな欲は発生しなくなった。
 
 自分が特殊な例であることは薄々気付いている。
 
 周囲の一部には自身の価値観を変容させることで幸福感と幸福な状況を制御している者もいるが、私ほど極端に孤独や寂しさを好み、同時に自身で(他者と一般に呼ぶもののの存在さえ)埋め合わせまでする者は見たことがない(「の」増量中)。
 現実に僕は自分の中の別の人格と会話をしていることが多い。
 一般に独り言と呼ばれているが、まぁ、アレの節度を失ったようなものと考えればいいだろう。ちょっとした狂人か?
 
 おおよその人間は自身の価値観に基づいて、単一の視点から一方的に対象に対する賞賛や非難を口にし、それで独り言を完結させる場合が多いように見受けるが、僕の場合は、賞賛する者もあれば問題点を挙げる者もあり、非難する者もあれば擁護する者もあり、議論を好む者もあればすぐ飽きて退屈し、別の話題に興味が移る(あるいは眠りはじめる)者もいるので、収拾がつかない。
 子供の頃に観察していた独身(あるいは「ほぼ」独身)の壮年男性というのは、もっと退屈そうで、寂しそうで、人恋しそうだったのだが。
 
 あるいは僕の場合、単純に人間に絶望している可能性はある。自分でもそれはよく思う。
 他人を道具遣いした挙げ句、何らかのリソースを吸い上げ、用が済んだら放棄するような人間に、若い頃から何度か騙されたこともあるが、まさか血縁者にまでそんなことをされると思ったことはなかったからだ。
 いやなに恨み節などすでに枯れ果て塵になったし、その肝心の血縁者の亡骸を呪うのにも飽きた。
 呪った他人はだいたい死んでしまった。
 
 それに一部の人が言うように、クズはクズでも、そのクズのおかげで今をのんびりぼんやり暮らせていると考えれば、まぁほどほどにしておこうか、とも思える。
 一理ある、というやつだ。
 
 しかし理を越えた部分、あるいは理の手前の部分で、つまり感情として、他者をどう捉えていいのか分からない。
 血縁者であろうと恋慕の情に浴した間柄だろうと、人間は己の欲に従って他者を利用する。
 誰かと関係性を持ち、縁を深めるというのは少なからず、そういう側面がある。
 
 家族や友人でさえそういう面があり、やれ人情だの絆だのと美化して虚飾するのだ。
 そして多くの人はそれを真に受け羨望している。
 もちろん正しく美しい人の繋がりもあるだろうが、弱い部分を補い合うという甘言をコーティングし、実のところは互いの尾を飲み込もうとしている蛇のように思えることだってある。
 いや、あれは再生の願いだったか ── それすら俗欲にまみれた醜さのように私には見えるのだが。
 
 僕の潔癖症が極端なのは理解しているが、どうしようもない。
 他者が欲で私を食い散らかそうというなら、私は誰をも食い散らかさないために距離を離すしかない。
 凡俗らしく欲にまみれようと、これでもずいぶん努力はした(じつに恋人をたくさん作ったりした)のだが、結局のところ向き不向きがあり、私は人間社会に適合しないのだ。
 
 そうした意味からいえば「寂しい」ときちんと感じて他者を求め、「煩わしい」と距離を離し、そしてまた孤独による寂しさの欲に飢渇し他者を求めるのは、まぁ、動物らしいし社会的だろう。
 人間社会に適合しているのだ。
 正邪美醜の評価判断をする必要はない。人間社会に適合しているのだ、そういう人は。
 
 繰り返すが、欲を持つことが悪いのではない。
 醜いと書いたがそれはあくまで僕の価値観で、僕の目に見える僕自身の欲のことである。
 他者のそれなど知らない。
 あなたの欲はもしかしたら宝石のように綺麗かもしれない。
 
 その欲を直視せず、正確に測らず、求めては「コレジャナイ」と放り出す幼稚さが問題だ。
 あなたの不幸はあなたが幸せをデザインし損ねているからだ、としか言いようがない。
 
 
>>>
 
 やがてAIが ── 僕が自身に提供しているように ── 簡単なコミュニケーションツールとしての人格を用意してくれるようになるだろう。
 僕はたまたまコンピュータに頼らなくても、画像や文章や思考や価値観やコミュニケーションインタフェイスを構築できる。
 
 最初は抵抗を持つ人もいるだろう。
 人間がAIを親友 ── あるいは親や教師や恋人や配偶者とするなんて何事だ、なんて具合に。
 人間の身近にいるのは人間であるべきだ、という美徳を振りかざすところまで予測できる。
 
 しかし人間が人間を本当の意味で喰い物(エサ)にしないで済むなら、それはそれでひとつの理想郷の体現だろう。
 エサを機械が代替してくれるのだから、人間は他者の欲から解放される。
 それに反対するのは、つまり人間をエサにしたい側の独善ではないのか。
 
 いやもちろん、もちろん。
 寂しいと感じる人間性が、愚かで弱くて狡猾だ、なんてそんなこと言いたいのではありませんよ。多分ね。
 ただ私は、その人間性を捨てたというだけの話で。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Form-Interface-Kidding-Link-Mechanics-Recollect-Stand_Alone-Style-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Fashion-Friend-Human-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :君は首輪で繋がれて:
:夢見の猫の額の奥に:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:250222
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
貧しいことは貧しいことか。
SUBTITLE:
〜 Isnt insufficient variety? 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
250222
 
 先週だったか(先々週かもしれない)、とても暖かい日があった。
 なのに翌日あたりからまた冷え込み、今日などは風も強かった。
 最高気温は10℃を下回り、放射冷却時は氷点下になる。
 
 昨晩は不意にTU(古い友人です)が遊びに来た。
 彼はBP(古い友人です)と違い、酒を呑まない。なので酒に誘うことができない。
 まぁ、したいと思わなければ問題ないので、そうやって半世紀近くが過ぎた。
 
 しかしそれは、本当に僕が求める人間関係のある種の具現だ。
 あるいは日記に書いたこともなかっただろう。ここ数年に、ようやく見えたカタチだからだ。
 おそらく、今のようにぼんやりのんびり過ごせるようになったからだと考えている。
 
 ひと月近く誰とも話をしないこともあるが、今はそれも慣れた。孤独は心地よい。
 社会をぼんやり眺めていると、人間達は他者を自分の欲の消費材にすること(されること)もある。
 人間は人間に対して欲を持つようだ。もはや人間のみなさまには当たり前かもしれないが。
(私は猫です人間社会の観察者です)
 
>>>
 
 たとえば本当の友達となら、一緒に公園にでも出掛けて、ベンチなりブランコなり思い思いの場所に腰を掛けたり歩き回ったりして、煙草や飲み物を喫んだりしながら、当て処もない話をどちらからともなく話していて、気がついたら驚くほど時間が過ぎている。そういうものではないだろうか。
 TUの場合は、それができる。
 飲み物と煙草は飾りでしかない。
(彼は私と違いさほど煙草が好きではない ── 美味しく感じないらしい ── のだが、常習化していて、それはある種の依存症であるらしい)
 
 お金の掛かる遊びしか知らない大人たちは多い。現代にあって、おそらく子供たちもそうだろう。
 それが悪いとは思わない。
 しかし、それしか知らないのだとしたら、お金の掛かる遊びしか知らないという無知(および不自由さ)はそのまま貧しさである。
 それは感性の貧しさであり、欲の貧しさであり、理想の貧しさであり、経験の貧しさだ。
 
「水は味がしないから好きじゃない(飲みたくない)」という人が僕の周囲にもいたことがあるが、それと同じである。
 いやなに僕は「料理はすべからく薄味であるべしだよねー」などという薄味サイコー至上信仰派ではない。
(重複の単語はわざとです)
 しかし水の美味しさを知らない(感じたことがない)というのは、つまり本当の渇きを知らないのだ。
 仮に忘れているのだとしても、忘れたことは知らないことと同義である。
 
 鈍感なのか、それとも恵まれているのか、いずれにせよそれは貧しさであり、ある種の不幸でもある。
 一般に、リソース(時間やお金や人間関係や知識や知能や道具や能力)が豊富であることは至上とされているが、真実そうだとは僕は思わない。
 もちろんたまたま現在の僕は恵まれているので、のんびり日なたで煙草を喫んでいるうちに日が暮れてしまったりするが、その無駄に薄く引き延ばされた時間を味わうことができるのは、寝食に充てる時間もないほど忙殺されかけていた時期を記憶しているからだ。
 
 喉の粘膜が張り付きそうなほど、皮膚が汗を流さなくなるほどの渇きを身体で、感覚で、知っていたなら、そのあとの水の甘露たる味わいを忘れることはないだろう。
 もちろん毎回々々水を飲むたび「嗚呼、甘露なるや」などと独りごちるようにもなるとこれはこれで病的だが。
 つまり己の身体の状態によって、水も甘く感じたり、苦く感じたりする。これは水に限ったものではないし、物質に限ったことでもない。
 己の身体はもちろん、己が感覚することで初めて意味を与えられる(与えている)情報なのだ。
 
 だから「○○に遊びに/ランチに/飲みに行こう」という遊びを否定するつもりはないが、それしか知らないというのは、誰か(家族でもいい)と少し顔を合わせて話すだけでも発見や驚きがあるという、そこまでの退屈や孤独を知らないのだろうと想像する。
 物質的にも精神的にも肉体的にも、両極を体験し、経験し、仮に目を背けたくなるほどの絶望や痛みがあったとしても、あるいは恍惚とするほどの享楽に溺れるにせよ、それを漏らさず記憶することは、だから決して無駄ではない。
 
 あまり貧乏くさい話を何度もするのはいかにも年寄りっぽいので避けたいのだが、まぁ年寄りだから気に留めず繰り返すなら、僕は20代の頃からときどきガスや電気や水道が止まるような生活をしていた。
 20代で両親もなく一人暮らしをしていたので仕方ないのだが、当然に僕は格別自分が不幸だと思わなかった。
 不自由かといえば、確かに金銭的に不自由だったからインフラの支払いができずに止められるわけだが、その不自由は自分で選んで自活しているという自由の上に成立した不自由だ。
 だから不満がないどころか、たいそう満足していた。その不自由さは、自身の自由の証だったのだ。
 
 むしろ当時、父上(敬称は諸事情による)と暮らしていた2歳下の妹の方が辛かっただろうと思っている。
 妹はファザコンであり、父たちが(つまり一人暮らしを始める前の僕も)暮らした公営住宅は「夫婦もしくは親子」のみが入居資格を持つため、父が死んだ途端に資格を失効し、役所から退去の勧告を受けるに至った。
 社会の決まり事の多くを父上に処理してもらっていた僕らは、社会のことをさほど知らずにいた。
 ためにそうした役所仕事も、最初は僕が付き添って対応していた。
 
 父の遺品が残る家で(僕が家を出るきっかけとなった出戻りの姉はまたどこかに男でも作ったのか放浪の旅に出たため)独り暮らす妹が不憫で仕方なかったが、僕には僕の ── ただただ僕を生かすという、それだけの目的しか持たない ── 生活があり、何をすることもできなかった。
 たまに仕事の帰りに、遠回りして顔を合わせ、くだらない話に興じたり、遺品の整理を進めたりしたものだ。
 
 幸いにして、僕も妹も、貧しさには慣れていた。
「今日の晩ごはんは、茹でた鱈」と妹。
「え? ……ん? 鱈って、あの鱈?」
「そうそう、白身魚の。安く売ってたから。茹でてポン酢しょうゆで食べるの」
「せめて豆腐とか入れなよ〜」
「やだよ豆腐好きじゃないもん。茹でた鱈、けっこういけるよ!」
「他に何かないの?」
「欲しがりません勝つまでは!」
「なにそれ」
 などといって呵々大笑いしていたものだ。
 
<寒いでやんす>
 
>>>
 
 貧しさが美徳であり、それを誰かと共有して乗り越える程度のことが美談などとは思っていない。
 そもそもリソースが豊かであるに越したことはないのだ。
 しかし経験の豊かさというのは、リソースの潤沢さがそうであるように枯渇もまたひとつの経験であり、ために枯渇を経験していることやその者は否定したり蔑むようなものではないのだ。
 僕が経済至上主義を嗤うのは、そのためでもある。
 
 物質的な豊かさが悪いわけではない。むしろ歓迎すべきだろう。
 しかしそれしか知らず、それしか求められないというのは、そのまま貧しいのだ。
 それは感性の貧しさであり、欲の貧しさであり、理想の貧しさであり、経験の貧しさだ。
 
 残念なことに、恵まれた環境に生まれた者の多くはそうした本当の飢渇を知らない。
 ネコ科の動物で百獣の王と呼ばれていた者がいるが、あれは子を谷に落とすと言われている。
 まぁ単なる寓話だろうが、王家に産まれた者には、不遇も体験させることがすなわち「豊かな経験(学習)」の一端にはなるということを語っているのだろう。
 
 徒競走を中止にしたり、最後はみんなで横並びになることを強要した親たちというのがかつて居たらしいが、またずいぶんと貧しい感性の持ち主だったのだろうと振り返る。
 さても豊かさを語る連中は多いが、彼らの描くステレオタイプな幸福像には辟易する。
 もちろん私は自身がひねくれ者であることを自覚しているし、その上での難癖である。
 
 繰り返すが豊かであるに越したことはない。
 しかし貧しい豊かさもあるのだ。逆がそうであるように。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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// NOTE:
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TITLE:
欲の容れ物。
SUBTITLE:
〜 Pat the pot. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
241127
 
 思うに自己同一性とは欲によって形成されるのだろう。
 その欲の発生にはじまり、具現のために行動する過程を経て、それが満たされる(あるいは満たされず諦める)体感や実感までを自身の肉体や思考で感覚するそのすべて。
 それが自己同一性を生み出す(あるいはそれそのものな)のではないかと思う。
 
 たとえば動物的な欲(一般的な三大欲求)ももちろんだし、人間らしい欲求(リソースを集めたいとか、管理したいとか、他者からこのように思われたいとか)もそうだし、社会的な欲求(国家のような広い範囲にかぎらず、職場でもいいし、家族でもいいし、友人や恋人関係でも、その関係を持つ組織に「かくあれかし」と望んだりすること)もそうだろう。
 
 僕は自己同一性が希薄なため、様々な欲求が希薄になりがちで、めぐりめぐって自分が誰なのか分からなくなったり、自分が自分であるという実感が湧かなかったりする。
 たとえば空腹になってそれを実感するだけでも(ああ、自分はここにいるんだな)と体感できるし、その空腹を存分に味わったのちに食事をすれば格別に美味しく感じる。
 社会や身近な人に「こうあれかし」などとおこがましい欲を持つことも ── それがたとえ独善やエゴや劣情だとしても ── それはそれで、その人がその人自身の輪郭を体感するに十分な情報であり、そういう意味ではどんな欲でも持っていないよりは持っている方が良いのかもしれない。
 
 たとえば誰かに乱暴を働くとか、殺意を抱くのだとしても、それを実現しない限りにおいては犯罪にはならないのだから、好き勝手にそういう欲を自分の中で大切にするのは「自分が自分である」という実感には有用だろう。
 しかし僕の(現在使用している人格の)場合、潔癖症が甚だしいので、それらの自己同一性の源泉たる欲を持つことが上手にできない。
 
 たとえば「イキモノは殺しちゃいかん!」という人も食事はしているはずだけれど、まさか光合成をするはずもなく、鉱物を囓って空腹を満たせるはずもない。
 植物だって生きている、と考えれば、立派な殺しを誰もがしているわけで、そういう意味で「世界よ人よ、かくあれかし」と声高に訴える正義の声の根底にある潔癖たる精神について疑問符が付くことになる。
 少なくとも僕は僕自身に対してそのように思っている。
 スポーツや勉学や事業で成功するのは結構なことだけれど、その人が成功したために、そのステージに上がろうとしていた他の誰かが蹴落とされていないと、一体誰に言い切れるだろう。
 
 もちろん「そんなことを考えていたら何もできなくなってしまう」というのは一つの正解だ。
 やれベジタリアンだヴィーガンだフルーティストだと「人間らしい」倫理(といって倫理は必ず人間らしいのだが)をその潔癖症のままに突き詰めてゆけば、その理想(ファンタジィ)は滅びることになる。
 我々はどうしようもなく生命体であり、どうしようもなく動物なのであって、その高潔な思想も精神も、血や肉や排泄物なしには構築されることがない。
 どんなに綺麗事を並べても、どんな理想を持っていても、どんな崇高なありように価値を見出していても。
 
>>>
 
 そのように考えると矛盾しない潔癖を貫くことなど不可能で、自身にであれ他者にであれ「かくあれかし」などともっともらしい正義や道徳を吹聴することさえ白々しく、さらにいえば邪悪なありようだとさえ感じてしまって、私は自身の抱える潔癖症を眠らせたのだったか。
 世俗に溢れるエセ潔癖症とはつまるところ「他者の不正は許さないが、自分の不正は有耶無耶にする」という点で共通しており、そういう意味では政治家も、それを批判する人も、さして変わらないと思うこともある。
 
 久しぶりにWebニュースなど見たら、選挙の際SNSなどによる情報操作によって人を煽動し、それについてお金を使っていたことが不法に当たるかもしれない政治家(あれはどこかの知事だったか)の情報があったが、宗教団体とお金を使って票を稼ぐことで政府の中核であり続けていた政党のありようが不問なままなのは不思議といえば不思議である。
 
 もちろん「だから何をしたって無駄だ」などと不貞腐れることもない。
 慎ましい欲しか持たず、聖人君子として誰もが生きられるはずはない。
 だからこそ僕だって禽獣(「男は殺せ! 女は犯せ!」でおなじみの丘海賊、あるいは猫)として生きることに決しているわけだから。
 
 汚れや不正や不倫(男女間のことではなく、広く道徳において道ならぬこと)をあげつらう潔癖な思想に対して、不全で愚鈍で悪いものだと指摘するつもりはないが、所詮大腸菌と共生している我々哺乳類がどれほどの潔白を語ったところで、その潔白を実践したら死んでしまう個体の方が多いという事実を無視して騒ぐ様は、子供が駄々をこねているのと変わらないように思う。
 
>>>
 
 欲があればこそ人は集団を作り、社会や文化は発展してきた。
 文明も技術も、エロと戦争が先導するとか何とか聞いたこともある。
 
 たしかに他者に対して無邪気な信頼を寄せるにはむつかしい時代になったのかもしれない、と時々思う。
 あるいはこれは私が百年も生きているからそうなのだろうか。
 それともこれは私の潔癖がそのまま自身のありように影響しているのか。
 
>>>
 
 17歳のとき、初めてできた恋人と(まだ身体も重ねぬうちだったと思うが)「私はあなたとずっと一緒にいることはできない」と言い放ち、めちゃくちゃ怒られたか泣かれたかしたような記憶がある。
 当時の僕はすでに自分がかなり早い段階で病死するか、貧乏で野垂れ死ぬか、自殺することを予測(あるいは計画)していたので「最低でも死別するから、ずっとは無理」と言い続けた。
 恋に恋してもおかしくない十代が、よりにもよって最初の恋愛からそのような物言いをしていたのだからひどい話であるとは思う。
 ことほど左様、頑固で嫌味な性格だったのだろう。
 
 定見を持たないようにと心掛けるようになったのは、そうした思考の根底にも潔癖症が見え隠れしていたからだ。
 その場かぎりの甘言で耳朶をくすぐったところで、恋愛感情を持つ程度にまともな大人なら、言質を取ってその真偽を突きつけるような真似はすまい。
 そのような意味で僕はたいそう幼稚なイキモノであったし、その幼稚さを脱却するためにはとりあえず嘘を重ねようと思ったのだったか。

 意外に思う人も居るかもしれないが、子供の方が本来的に潔癖症である。
 社会人にもなると、嫌なことをしてお金を稼ぐ(事が多い)以上、多少のことには目をつむることになる。
 職場内のセクハラやパワハラに反旗を翻すだけの時間的/経済的/精神的/肉体的余裕を持たない職場や個々人の状況があった場合、それらの不道徳は「致し方なし」と黙認される。
 たとえば納期が目前に迫っている状況で、上長や公的機関にそれらの不正を訴えるヒマなどないだろう。
 
 大人ならばそうしていろいろなものを天秤に掛けて、ときに目をつむる。
 何が正しいかなど分かっているだろうに、徒党を組んでいると見えなくなることがある。
 
 子供はそうした柵(しがらみ)も少なく、自身の持つリソースを認識する余裕もない。ためにシンプルな正義や倫理に身を任せていられる。
 その無邪気さは時に煩わしく映るかもしれないが、そうした理想をきちんと抱え続けられるなら、それはひとつの資質である。
 たいていの場合、子供も家族や友人といった人間関係の中で秤に掛けることを覚え、つまりは徒党を組む中で、無邪気さを邪気に汚してしまうからだ。
 
 しかし嘘というのは重ねれば重ねるほど、どれが真でどれが嘘だか分からなくなる。
 誰だって、口先では良いことを並べることができるし「そのときはそう思った」という都合の良い言い訳も可能だ。
 立候補したときは崇高な使命に燃えていた政治家だっていた(いる)だろうと思うし、入学初日から「カモを見つけてイジメてやるぜ」と息巻く子供はいなかろう。
 
 良かれと思っていたはずなのに、気が付いたらおかしなことになってしまったり、あるいは変な欲やエゴが出てしまったり、一度言い出したことを変えられないこともある。
 僕も大人になるにつれ、嘘を重ねたり、あるいは真を説明しようと努力するたび、何も伝わらないことに絶望さえした。
 他人が求めているのは結局のところ、真摯に開示した私自身の葛藤などではなく、自身の思い描いた欲(理想)に少しでも沿うような甘言なのではないかと。
 
>>>
 
 結果的に、自分が何を感じて何を考え、何を欲して何を求めているのか、正直なところ、僕にはよく分からない。
 自身の言動を観察して「どうやら自分はこう感じている(こう考えている)らしい」と思うしかない。
 なんといっても男は殺すし女は犯すのである。
 弱者をなぶって遊び、ついでに空腹なら喰いもする。それがネコ科のイキモノの正体である。
 それを厭わしく思っていたら、遊ぶことも食べることもできなくなってしまう。
 
 おそらく厭わしいのだろう。
 だから食欲について、どこかの回路が焼き切れたかのように、何も感じないときがある。
 時間を確認し、あるいは身体の状態を観察し「さてそろそろ食事をしなくては」だの「そろそろ運動をしなくては」だのと、イキモノとしてのガワを保つために、やれ排泄だ射精だ入浴だと世話することになる。
 
 生きることがイヤだとか、死ぬことが望ましいといった、人間らしい思想の末ではなく、単に肉体感覚として、己の肉体やその維持が煩わしく厭わしいのである。
 それでもまぁ、百歳まで生きたのだから十分なのだろうとは思うのだが。
 
 これはこれでこの人格を運用するにあたって、やむを得ないこと。
 みだりに否定することもよろしくないし、無理に押さえ付ければ暴れるので仕方ない。
 これはこれ。私は私。身体は身体。
 
 そのように分けて考えるうち、潔癖症の自分とも、嘘ばかりの自分とも、仲良くなれるようにはなったが。
 観察しているその対象であるところの、この「私」とやらは、いったいいつも何を考えているのやら。
 
 
>>>
 
 空腹さえ満足に感じないことが続いたりするときは何かしら遠因があったりするものだろうとあれこれ思いを巡らせたものの、果たして秋らしい秋がないまま唐突に冬が訪れたことで気持ちの整理が付かないのかと悩んだりもしたが、そんなものは悩んだところで詮無いことである。
 世は流れ、人は思い思いのカタチを己によって描く。
 
 己の中のファンタジィを、自分というインタフェイスを通じて、この世界に、他人に、あるいはあなたに私に擦りつける。
 
 正直に言ってしまえば、そんな不潔なものはすべて消えてしまえ、と思う。
 しかしそれは私の中の理想論であり、ファンタジィであり、そしてまた、決して具現してはいけない類いの望みである。
 
 私は多分、この世界が大嫌いだし、それは多分、この世界が大好きで、ために甘えているからだろう。
 かくあれかしと望み、それが叶わないから、聞き分けない子供のように手足をバタつかせて駄々をこねているのである。
 
 
 
 
 
 
 

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TITLE:
私の方が馬鹿なのか。
SUBTITLE:
〜 Dream walker. 〜
Written by BlueCat

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//[Body]
 
 知り合いに「俺は25歳以上の女とは付き合わない」と言っていた男がいる。
 当時、彼は50歳になろうとしていた。
 
 普通なら鼻でせせら嗤うところであるが、その男の普段の立ち居振る舞いからも、その真意は軽蔑に当たるものではないと分かった。
 身なりはそれなりにきちんとしているタイプの男で、風合いの良い高価そうなセーターと、同じく生地の肌目や仕立てのしっかりしたジーパンなどを穿いており、肌も髪もそれなりに整えている。過度に小綺麗でなく、だからといってみすぼらしくもなく。
 
 昼下がりのカフェバーに自転車でやって来て、コーヒーやらウィスキィを嗜む程度には粋人である。
 数年前に伴侶と離婚し、1人で暮らしているという。
 詳しい話はしなかったし、聞く気もなかったが、何らかの事業を経営していたのだろう。それでいて今は有閑というわけだ。
 
 デキのいい男のほとんどは忙しく、あるいはせめても周囲から出来良く思われようと忙しいフリをする無能も多い中で、平日の昼間に(他者に日常の些事を任せきりにする風でもなく)ぼんやりのんびりしている男であるから、これはなかなかたいしたデキなのだと思った次第。
 その男が「25歳以下の女としか付き合わない」と言っているのだから、これは相応に含蓄のある話なのだと思い至ったのだ。
 
>>>
 
 無能な男たちには、セックスのための若い女を至上とする傾向がある。
 しかし個人的な経験からいえば若い女におけるセックスの魅力は乏しい。
 
 それはセックスが単なる性欲の処理ではなくコミュニケーションの側面を持っている以上、人間を ── あるいは男を ── よく知りもしないガキと身体を重ねたところで、仮に射精はするとしても、精神的な充足など求めようもないからだ。
 ためにそういう(若い女こそ至上という)男たちが射精して満足そうな顔をしていられるのは僅かな時間で、すぐ不満そうな顔で射精する機会を求めることになる。無論、性欲だけでセックスしたくなるのは男だけではないから、構う必要はないのだろうが。
 そういう人やありようについて非難や否定をしているのではなく、そういう者もいるな、という話である。
 
 しかし結婚して、子供も居て、そののち離婚して、金銭的にも(それを生み出す)能力的にも遜色ない男が「25歳以上の女なんて」というのだから、これはなかなか奥深いな、と思ったのだ。
 仔細を聞くほど下世話でもないので、そのときはすぐ別の話題に移ったのだが、彼の言わんとしたことは25歳前後から女たちが身に付ける打算について、なのだろうと分かった。
 これが離婚歴もなく、子供もおらず、サラリーマンとして安穏と暮らしている ── すべてのサラリーマンがそうだなどと思わない一方、国会議員だろうと自営業者だろうと、サラリーマン然としている人間はいくらでもいて、そういう漫然と作業しているだけの ── 無能な男なら話を聞く価値もないのだが、それらも経験した上、遊ぶ気になれば(お金を使おうと使わなかろうと)いくらでも女遊びができる男が言うのだから意味合いは違うと思ったのだ。
 
 前述の通りその仔細については聞かなかった。
 興味がないといえば嘘にはなるが、誰かの恋愛観などその人自身とその恋人以外に、役立つはずもない。
 四十を過ぎてなお可憐な女もいるし、3人くらいの子供が成人してなお魅力的な女も知っているが、しかし確率からいえば非常に少ないのだろうとは想像する。
 
 逆を言えば男も然りだろう。
 齢を重ねて退屈になった男など、私も散々に見てきたので分かる。
 九割九分退屈でないと言い切れるのはやはり20代前半までで、社会を知り、社会に合わせるうちに皆、退屈なイキモノに変わってゆく。
 
 つまり彼の言わんとしたのは、サラリーマンじみた流れ作業と数字勘定しかしない(それでいて自身を大した者だと勘違いしている)ような退屈な女などを相手に心を通わせるのは不可能だしまっぴらごめんだという、それなら私もいつも考えていることと同じだったからだ。
 
 彼と私の違いは、彼が明確にその分水嶺として「25歳」と区切る知見や勇気を持っているのに対し、私にはそれがないことだ。
 分水嶺ではなく、勇気のほうである。何となれば経験もない。
 
>>>
 
 数年前、彼はそのカフェバーに出入りしている女子大生と晴れて付き合うことになった。
 大方の男たち、あるいは女たちの反応は、メディアで年齢差のあるカップルに対するのとおよそ同じようなふうだった。
 男たちは賞賛し、あるいはシンプルに羨ましがり、女たちは少し冷ややかだったり、あるいは素敵な話だと目を輝かせた。
 
 じつのところ、その女子大生には少々悪い意味で「ませた」部分があり、経験もないのにやたらと男女の色事の話をするなどという子供じみた面があった。
 なのでおそらく下卑た理由などではなく、単にきちんと大人の恋愛というものを知ってもらおうと彼が思ったのではないかと推測する。
 
 我々男も半世紀を過ぎれば、ひとつのことにあれもこれもと道筋が見えるものである。
 その道筋の中でいずれ一緒に居なくなるとしても(その程度の予測は最初にする男だと思う)、相手にとっておそらくよりよい未来を、価値観を、影響を与えられると思ったのだろう。
 
 そういう道筋が、自分にとって都合良いものひとつしか見えないのが、単純作業しかしていないサラリーマン然とした人間(老若男女問わず)の特徴であり、ために彼はデキがいいのである。
 私は面倒見が良い方ではないので、アタマの悪い女については若かろうと何だろうと相手にしないのだが、それを考えても見上げたものである。
 
<アヲ帰ってこないかなぁ>
 
>>>
 
 あれから数年が経つ。
 彼らは徐々にそのカフェバーに立ち寄らなくなったので、ずいぶん顔を合わせていない。
 私自身、他人の人生についてどうこう思う性質でもない。
 
 ただそれまで「若い女がいい」と言っている男たちに対する嫌悪感が、その一件以来、少しだけ軽くなった。
 
 女たちもたまには、その外見であるとか、収入であるとかではなく、年齢をして「男は25を過ぎると退屈になるから」などと言ってほしいものである。
「夢を見続けようとする私の方が馬鹿なのかな」と ── 。
 ただしくれぐれも何も知らぬ白痴の愚者が夢見がちに言うのではなく、酸いも甘いも知った者であって欲しいとは思う。
 
 
 
 
 
 
 

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[Cat-Ego-Lies]
  :衛星軌道でランデヴー:
:君は首輪で繋がれて:
 
 
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// TimeLine:241121
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
自己同一性を保てない。
SUBTITLE:
〜 No where / Now here 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
【すっきりしないんですよね問題】
 
 明らかに問題だと思えるようなことや、解決しなければならない(あるいはしたほうがより状況がよくなる)ようなこと、というほどでもなく、どちらかというと言語化がむつかしいからか、あれもこれもモヤモヤとまるで澱のように、自分という瓶の中で沈殿することもなく拡散したまま内容物が曇ってすっきりしない、という時がある。
 
 え、ないの? 僕はあるんだけど……。
 
 こういうとき僕はじっとそれを観察する。
 いや自分のことなんだから観察するもなにもないじゃない、という向きもあろうと思う。あるのか?
 しかし多くの人の場合、自分のことについて、考えることも感じることも、考え方も価値観も記憶も「考えるまでもなく分かっている」様子である
 
 なんとなれば何も起こらないうち、何も見ないうち、何も聞かないうちから「いえ私こういう人間なんで、どうするかなんて分かってます」という人も多い。違うだろうか。
 新聞の勧誘や宗教の勧誘やNHKの黒服や国税調査に来た地域の役員さんを相手に「間に合ってます」ってとりあえず態度を硬化させたりすること、ありません? 僕はないんですけれど、そういう人の話はよく聞きます。
 妹や姉はだいたいの人を追い返します(少なくともそのように聞いている)し、それ以外の皆さんも僕と違ってヒマではありませんからね。
 
 つまりこれは「セールスや勧誘なぞ、そこから学ぶことはないし、まして知る必要のあることなど万に一つも無いし、相手(気高く清く正しく美しく多忙で有能なのに些末な来客に対応させられている自分のこと)に対する思慮に欠けるような奴の話なんぞ聞くものか私は騙されないぞ」という明確な価値観を持っているわけで、それはわざわざ状況を追認するまでもなく「アタシ知ってるんだからね!」っていう明らかで強固な姿勢や認識や価値観を思い出すまでもなく記憶しているということである。分かっちゃってるのである。
 
 自分について「こういう者でこういう事を考え、こういうときの対応はこうする」ということが明確な人が、僕の観察の範囲ではだいたい100人中98人くらいいる。だからだいたいみんなそうなのだと僕は判断している。
 おそらくそれは「好きなものは好きと言える気持ち」をいつも抱きしめているからなのだろうと想像する。
 どんなときも僕が僕らしくあるためにそう決意しているかどうかは知らないが。
 しかし「好きなものは好き」と言い切れるということは「嫌いなものは嫌い」と言い切れるのかというとそうとも限らない。
 
 たとえば「サイレンススズカ(ウマ娘)は好きと言い切れるが、メイショウドトウ(ウマ娘)は好きと言い切れない。しかしだからといって嫌いというわけではないし、むしろイイ! と思ってもいいんじゃないか」と思ったりする。いやいいだろ! イイ!
 しかし思ってもいいんじゃないか、ということは思わなくてもいいのであって、どちらでもいい、といっても差し支えないものの「え。じゃ青猫さんってやっぱりショートヘアでおっぱい大きい子が好きなんですね」とか非難を浴びる可能性もあれば「結局オトコなんて女だったら誰でもいいのね」路線もあるわけだから、ここは失言を恐れる政治家の気持ちを味わいつつ、どうやってこの一文を締めくくればいいのか冷や汗をかいたりするわけです。誰にも言われたことないし言われるわけもないのにね。
 
 ちなみにアグネスタキオン(ウマ娘)よりもサイレンススズカ(ウマ娘)のほうが、より狂気が強いと思うのは僕だけでしょうか(唐突な生徒会長立候補口調)。
 エイシンフラッシュ(ウマ娘)くらいのほうが、性格的にも親近感を持ちやすい気はします外見も素晴らしいですし(政治家なら失言)。
 ちなみにウマ娘(ゲーム)、12ヶ月くらい起動していないのですよね……という話はまたいずれ。
 
>>>
【自己同一性とは「好きなものは好きと言える気持ち」】
 
 ご存じの方も多いとは思いますが、この「好きなものは好きと言える気持ち」が自己同一性です。
 僕が僕らしくあるためには、自己同一性を抱きしめていることが最重要件である(という歌がある)というお話です。
「嫌いなものは嫌い」もそうだし「男は殺せ! 女は犯せ!」もそう。
 自身の明確なポリシィを自覚しているというのは自己同一性がある、ということです。
 私は猫です! とか アタシ知ってるんだから! とか 勧誘・セールスお断り! とか でもイケメンは別! とかそういうの(考えるだけでもめんどくせー(失言))。
 ゴキブリは嫌い! とか やっぱりラーメンは醤油! とか 焼肉はタレ! とか インテル最強! とかそういうの。
 
 僕の場合、自己同一性が非常に乏しい。
 自身の記憶や価値観やコミュニティにおける同一性を優先して、任意の点で固定しておけば良いものを、そうしないからですね。
 自分を女だと思っていた記憶もあるし、男だと理解した記憶もあるし、性別の認識を持たなかった記憶も持っていて、どの地点にもいられる。
 
 自分を猫だと思っているし、人間として暮らした記憶もある。
 ゴキブリはもちろん、コガネムシの幼虫やヤモリやクモの巣で悲鳴を上げる程度に忌避していることはもちろんのこと、それらのイキモノを慈しむ気持ちもある(ただ同じ部屋で暮らしたくないだけでね)。
 近所の老婦人に好かれている(とは僕は思っていないのだが、害意を持っているわけでもないことなども含めた観察の結果そのように表現するのが一般的であると考えている)ことを迷惑に感じるものの、だからといって嫌悪するより哀れみを感じるものだし、ために相手の寂しさ(好意ではなく寂しさが動機のすべてだと僕は認識している)に付き合えないことを申し訳ないとも思う。でも老婦人と私とでは価値観があまりに違うのでお近づきになりたいわけでもない。
 
 迷うなぁ〜! セクシーなの? キュートなの? どっちが好きなの? って言われても困る。
 どっちも嫌いじゃない。だからといって一方を格別好きというわけでもない。どうでもいいのだ。勝手に迷ってろ、とも思う。
 ショートヘアとロングヘア、どっちが好きなの問題だってどっちでもいい。
 ベッドの上で踏んだり、腕に絡みついたままのそれを引っ張ってしまったりして、不快な思いをさせたくないのである。
 そんなに絡まない? 絡まないの? 僕はよく絡む(そういう記憶がある)んだけど……。違うの? じゃ試しに絡めてもいい? ダメなの? 幾ら出したら絡めてもいい? まって警察呼ばないで! おまわりさん違うんです! そういうんじゃないんです! やめろー! 俺は無実だー! この税金泥棒ー!
 
 ……アイツまた連行されてるよ。
 
 この一貫性のなさが周囲との摩擦を生む。
 昨日は海賊みたいなことを言っていてステキ! 抱いて! って思ったのに、今日は生徒会長みたいなことばっかり言ってる! つまんない! 死ね! みたいなことになる。
 ショートヘアが好きって言ったからアタシ髪切ったのに、めっちゃガッカリした顔してる、もう死んでやる! とか、薄型バストが好きだと思ってたのに実は違ったのね、もう! とかね。
 なんとなれば短時間(たとえば区切られていない一文)のうちに、最初言っていたことと真逆のことを言い出す。体型だけならメイショウドトウ(ウマ娘)の方がいいかもだよね、みたいな。これが僕には普通なのだ。……そうだっけ?
 
 こうした摩擦熱の処理が面倒なので「私は飽きっぽいです」と宣言している。
「俺は同じ女と二度寝ない」みたいな感じで、最初から予防線として宣言しておけば「キモ!」と吐き捨てられて誰も近づいてこない。
 パズくん(攻殻機動隊アニメ版)はそういう意図で使ってたんだと思います。つくづくイケメンは得だな……くそう! くそう!
 
 自分の中では一貫性があるのだけれど、周囲からの観察では一貫性のない矛盾した言動として認識される、ということがあらかじめ予測されるがしかし誰だって好きなものは好きと言える気持ち抱きしめてたいでしょう? だから。
 
>>>
【決まってないから自己同一性が保てない】
 
 このような自己同一性の希薄な性質は幼児期から(なんとなれば生まれたときから)始まっているのですが、これについて今回は置いておいて、一番最初の「たくさん(といってもせいぜい3つとか5つとか7つくらい)の物事について、なんとなくモヤモヤしている」というときは「(そうした)定まらない自己同一性のため対応に苦慮している」状況なのだろうな、と思うのです。
 
 人間というのは、とりえあず問題だと感じると、すぐにそれに対処しようとするのです。
 冷蔵庫のドアを開けっぱなしにしていると母親に怒られますし、最近では母親に代わって冷蔵庫が開けっぱなしを検知して警告音を鳴らします。一人暮らしの老人や忙しい奥様も安心ですね。
 おそらく世俗のお母様方も昔に比べて多忙になってしまって、いちいち冷蔵庫のドアを子供(あるいは伴侶)が開けっぱなしにするかどうかなんて気にしているヒマがないのでしょう。
 
 不特定多数のために開かれているSNSなども同様で、興味本位で適当に情報を集めて思いつきで発言する人は思ったより多くて、思ったより少ないものです。え、矛盾してる?
 端的に、僕の周囲にはそういう極端に短絡な人は少ないため、Webを観察していると思ったより多くの人が短絡だと推論できるけれど、実際のところ端的に短絡な人が身近にいないのと同じように、日本全国でもそんなに短絡な行動に出る人なんて実は少ないもののだからこそ目立っているだけで、思ったより多いけれど思ったより少ない、ということですね。少ないんだよ。おまーら少数派なんだよ! でかいツラしてんじゃねーよ! ばーか! ばーか!(失言)
 
 短絡的に対処するのは、早急に気分がすっきりするという点では非常に秀逸なメソッドです。
 急激に低下したIQを取り繕うような物言いをしていますが、そのとおり、とりあえず横文字でごまかしています。
 セールスが来た! 宗教の勧誘だ! 死ね! こっち来んな! ばーか! ばーか! NHKの会長に就任させろ! 宝くじ協会の会長にさせろ! 日本赤十字社のエライ人にならせろ! 薄型バストより大きなバストの方がイイに決まってんだろ! 太ももは細いより太い方がかっこいいしエロいに決まってんだろ! ばーか! ばーか!
 
 ……ほら。すごくすっきりするでしょう? え。しないの? 僕はするんだけど……。
 
 いずれにしてもこのような不適切な例を考慮の対象から外しても「こういうとき、自分はこう考えて、このように行動する」ということがあらかじめ決まっていれば、悩んだり迷ったりする必要もないし、時間も浪費しない。
 周囲に対しても「一貫性のある自分」を演出できます。筋が一本通っているように見える……念のため、ここは下ネタではありませんからね。
 
 でも後になってから「あれちょっと違ったかな?」とか思うこと、ありません?
 今日は野菜炒めを作るつもりであれこれ調理していたのだけれど、炒めている間にちょっと気が変わってしまってスープにしてしまった、とか。
 今日はポトフにしようと思っていたのだけれど、ローストビーフが出来上がった、とか。
 ここでちょっと下ネタを考えて無理矢理ねじ込もうかと思ったのだけれど、面倒なのでやめちゃおうかな、とか。
 
 どっちが正しかったのか、どっちが自分の好みだったのか、と問われても困るんです。
 野菜炒めを作ろうと思ったのは事実だけれど、スープもいいなと思って両方は面倒かな、とか、テーブルに提供するタイミングとか、そういう諸々を考えたらスープも間違っていなかったしだからといって野菜炒めにしようと思い立ったのが間違っていたわけではない、とかそういう感じで。
 ゴミステーションにゴミを出そうと思ったらイノシシが出てきて困ったのでイノシシを狩るための罠を仕掛けたものの仕留めたそれを処理する事ができないのでそのままにしておいたら腐敗してしまったから手が出せずに放っておいたら近所の人から訴えられた上、SNSで炎上してアンチイノシシ狩りみたいなムーブメントが起こってしまって「いや害獣だから仕方ないだろう派」と「イノシシだって生きてるんだよ派」が争っているけど自分としては「ゴミを安心して出せればそれで良かったんだけどな派」なんだけどな、とかね。
 
 その場で自分の立ち位置を決めなくてはならない場面も確かにあるし、なんとなれば周囲から「立ち位置をはっきりしろ」なんて求められることも多いし、あるいは周囲から一方的に「お前はこう思ってるだろ」なんて決めつけられたり、ときには一般常識に照らして明らかに「この立場が正しい」みたいな場面があるけれど、実際にそういう場面が発生したときに必ず決まった対処ができるわけではないのではないかと思うんですね。
 少なくとも僕はそう。
 ショートヘアとロングヘア、巨乳と貧乳、どっちがいいかなんて決められないよ! 機械の身体なんていらないよ! ってそういう話じゃなくてですね。
 
 男は殺せ! って言っても、いや無理かな。って思うし、女は犯せ! って言われても、そりゃ無理だよ、って思う。
 髪の毛踏んだら痛いよね、って思うくらいだからね。男女問わず髪の毛引っ張ったら痛いんだよ。それは変わらない事実でしょう。
 
 そういう「変わらない事実」だけを変わらない事実として認識して、あとのことはその時々で考えるのが普通だと思うのね。
 イノシシだって無駄に殺したら申し訳ないけれど、邪魔だったり(狩りが)面白かったら食べるわけでもなく殺すだろうし、その殺しが無駄かどうかは自分にしかわからないときもあるんじゃないかなって思うけれど、それを他人に説明したって分からないじゃない。めんどくせーな(失言)と思うわけですけれど、それを言ったらもっと怒られて泥沼化しちゃう。湿原なだけにね。
 
>>>
【自分の決まりを他人に押し付けるのはちょっと……】
 
 結局のところそうした(そのとき自分の中でモヤモヤしている)問題について観察を続けると、一定の傾向が見えてくるわけです。
 解決の糸口でもなければ、自分が取るべきスタンスのヒントでもなく、ただ「自分はこういうことで悩むんだな」という自分自身に対する知見。
 
 自分の事なんて、わざわざ観察しなくても分かってる、という人もいるとは思います。むしろその方が多い。
 老いも若きも男も女も、そういう人が多いし、それはそれで賢いでしょう。少なくとも一貫性があるように思えるし、それが社会では意味を持つ。
 
 昨日と今日でコロコロと意見を変えられると「昨日あなたがショートヘア好きって言ったから髪を切ったのに、今日になってロングヘアの方がいい、って言われても困るし髪を切った私の気持ちをどうしてくれるの」みたいなトラブルが発生する。
 そんなもんお前の勝手だろうめんどくせえ(湿原)って言い放ってしまいたいけれど、一貫性のある男は「うん。ショートヘアの方が似合うよ」とかなんとか言うんですよ。
 
 キモっ! むしろそっちのほうがキモっ! 他人を自分の思うとおりに操ろうっていう思惑とかがキモっ! て僕は思うんですけどね。
 
 
>>>
【スタンスってつまり「自分が決まっている」ことかも】
 
 結果的に、そういうときって自分のスタンスが定まらないから、自分も気持ち悪いんです。
 周囲だって「あいつ何考えてるか分からない」って思ってると思いますが、自分だって「自分、何考えてるか分からない」って考えてるんです。
 少なくとも僕はそう。
 
 このイキモノは、何を考えているんでしょうね。
 
 一方で様々な物事がモヤモヤと感じられるときというのは、姿勢(スタンス)さえ整ってしまえば、すべての問題が一度に解決するようになる。
 もちろん対症療法的に、この問題にはこういうスタンス、この問題にはこのような対応、という手法も有効でしょうし、多くの人はそうやって日々を過ごしているのだと思います。
 他人の前では「イキモノを殺すな!」と聖人ぶって、家に帰れば食肉くらいするでしょう。そういうことに矛盾を感じない人は幸せだろうな、って思う。
 僕は矛盾を感じてしまうため、最初から「男は殺せ! 女は犯せ!」と宣言しているわけで。いや殺しませんけどね……多分ね。
 姦淫については……まぁ、分かりませんよね、そのときにならないと。
 
 
 
 
 
 
 
 

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~ Junction Box ~
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[Engineer]
  :青猫α:黒猫:
 
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// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
素寒貧の11月。
SUBTITLE:
〜 Called coaled cold beast. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
 気が付くと12月である。上旬も、もうじき終わる。
 11月は糖蜜を使って麹菌や納豆菌を培養し(堆肥づくりに使っ)たり、PS版「Thief Simulator 2」がマーケットから消えて(返金され、所持しているのに遊べなくなって)しまって、代わりにスカイリム(盗賊プレイに最適だし、ついでにドラゴンも倒せる)をプレイしたりしているうちに終わってしまった。
 
 そうなんですよ。スカイリムって、ドラゴンを倒すことができる唯一の主人公であることばかりがフィーチャされがちですが。
 夜な夜な街の酒場で人々のポケットの中をちょっと掃除(スリ)して差し上げて、ついでにスリ取った自宅の鍵を使って深夜や翌朝に忍び込んで、今度は自宅に置かれた使わなそうな金目のものを掃除(泥棒)して差し上げたりもできる(しなくてもいい)という、社会をよくするためのヒントが詰まったゲームなんですね。
 
 僕は決まってカジート(猫人間)でプレイして、泥棒ばかりしています。当然ながら、盗賊ギルドに所属しています。
 先日はどういうわけか暗殺ギルドとして噂される(噂にしかすぎないと思っていたのですが)闇の一党から刺客を差し向けられて、旅の道中が大騒ぎになってしまったのですが、それならいっそあの組織にも参加しようか、っていうのが最近の悩みです。
 
 それから近ごろ吸血鬼、ね。吸血鬼。
 多くありません? 買い物を終えて商店から出たら街の広場で唐突に吸血鬼が衛兵と乱闘を始めていたり、夕暮れの街道を馬に乗ってパートナーと歩いていたら唐突に吸血鬼の集団に襲われたり、しません? 僕はするんですけどね。
 仕方ないから吸血鬼のことを少し勉強して、吸血鬼の姫を自宅(城)に送り届けることにしたんですけれど、そうしたら以前よりもっと襲撃されるようになってしまって困ってます。しまいに吸血鬼の姫様が、今度は自分の拠点に押し掛けてくる始末。
 美人だからいいかな、って部分もありますが、これって立派なストーカ行為ですよね。警察に相談すればいいんでしょうか。
 
 でも街の衛兵はイマイチ頼りないんですよね……。
 男女問わず、僕が全員の武装をスリ取ったせいで半裸だし(スった装備は街の近くの川に捨てた)
 
 そんなわけで毎年「今年プレイして面白かったゲーム5選」みたいなことを書きたいな、と思ったりするのだが、どうせ読者居ないからいいや、と思って書かずに終わってしまう。
 同様の原理で「このゲームが素晴らしい」と感じたとき「ブログに書き連ねたらどうか」と思ったりするのだが、どうせ読者居ないからいいや、と思って書かずに終わる。
 
>>>
 
 11月は素寒貧だった。
 具体的には、銀行の債務を履行したのち自由に使える預金残高が7800円くらいしかなかった。
 女房子供がいたら大問題になると思うが、僕の場合はたいていの宇宙の法則を無視できる傾向があるので、結局乗り切ってしまった。
 
 本来なら100万円程度は自由に使える預金を残している(僕はもともと貯金などしない性質であるからこれでも貯蓄している方である)のだが、手持ちの不動産に設備(共用ネット回線だの、宅配ボックスだの)を増設した結果、ぜんぶ吹き飛んでしまった。
 ちなみにこれらの設備投資はほとんど回収されない。
「宅配ボックスを設置したので来月から家賃を上げます」という訳にはいかないものだ。少なくとも僕が入居者ならそうしないでくれと思う。
 
 それでも設備を増やすのは、僕が棲んでいたらそのほうが快適だからだ。
 様々な理由で人は居を構える。
 職場や学校や家族や親戚や所有している土地建物や収入の都合で、やむを得ずその場所に棲むということも多い。
 
 自由の代名詞のように生きている僕ですら、ランニングコストが格安だとか、介護や交友の都合でこの場所に棲んでいる。
 姉が死んだら引っ越してもいいとは思うが、そのときはこの土地を売るなり収益物件を建てるなりしなくてはならないだろう。
 事情は個々様々と思う。
 ただ自分がそうであるように、日常に疲れた時に心安くいられる場所が人といわずすべてのイキモノには必要であろうし、その場所の利便についてあれこれ思い煩うことなく済むのはとても大切なことだ。
 
 入居して個人で回線を契約する、となればお金も掛かるが時間も手間も掛かる。
 宅配便の不在票が入っていれば、荷物のない不便ももちろん再配達手続きの手間も掛かる。
 ヤマト運輸に勤務していたこともあるが、再配達を嫌うドライバーもいる(僕は気にならなかったが、少なくとも配達が完了しないことを好ましいと思ったことはない)。
 
 だから僕個人の収益性という点では一時的にマイナスでも入居者や社会にとってプラスになると思って実行した。
 その未来を僕は買ったことになる。
 入居者にとって快適だということは、その収益物件の価値が(潜在的にであれ)上がることを意味する。
 価値が上がれば、収益性の低下をより緩やかにする程度の効果はある。結果、僕も社会も損をしない。
 
 そうした「損して得を取る」という思考を僕は昔からしている。レストランのウェイタをしていた頃と変わらない。
 愛想良くきめ細かいサービスを提供しようと、テキトーで雑な接客をしようと、時給で働くバイトには関係ないし、社員だとしても給与が上がるかどうかは売上げと人事次第である。
 そう考えてしまえば、皆、接客業などしたくなくなってしまうだろう。あるいは少なくとも高いモチベーションや目標を持ち続けることは困難になる。
 
 誰かが喜んでくれるとか、誰かにとって居心地のいい時間を提供できるということ、それが仕事として成り立つことの素晴らしさを僕は知っていて、それはひとつの理想であり、収益とサービスはつねに正比例的に同期しているわけではない。
 しかし最終的に、収益を上回るサービスは損失ではなく収益を生む。
 現状のシステムで充分だとしても、余計なこと、無駄なこと、ふと気になったことをカタチにしてゆくことが、未来を作る。
 仕事というのは本来そういうものだとさえ思っているし、そうでないビジネスや組織を嫌っている。
 
 ために僕は機械入力でオーダするタイプの店を未だに好まないのだ(キャッシュレス決済などもってのほかだ)。
 いやもちろんそのうちシステムが改良されて、メニューの品目についてのヘルプ(材料、産地、アレルギィ食材表記、調理法、歴史、文化的背景などの)項目が表示されるようになるかもしれない。それはそれで楽しそうだ。
 
 一方で条件付けされた家畜のように、ボタンを押したら食べ物が出てきてそれをただ食べることにお金を払うというのは、システマティックで効率的で無駄のない均質なサービスだと思うがいささか味気ない。
 だからなるべくそういう未来にお金を払いたくない。結果、人間がきちんとサービスしてくれる店に行くことになる。
 
 素寒貧の時は家で雑炊でも食べるしかないのでそうしていたが。
 
>>>
 
 貧しさというのは慣れる。僕などすっかり慣れきってしまって、恥ずかしいとも思わなくなった。
 それに電気がガスや水道が止まったからといって、必ずしもその人間が愚図だとは限らない。
 まぁ僕は愚図なので、今でも支払いを忘れた電気や電話回線が止まりますが。
 
 生活に困窮しているからといって、その人を無知だ無能だと、自己責任論的に誹(そし)るきらいのある社会を、僕は嘆かわしく思っている。
 自由競争資本主義の社会の原則は「能力がある人はそのぶん豊かに暮らせますよ、その自由を保障する社会ですよ」ということであって、だからもちろん保障されているのは自由であって豊かさではないのだけれど、だからといってその自由の中で(少なくとも経済的に)豊かでない人を「だからお前は無能だ」と嗤うのは自由だけれど、生きることもままならない人について「無能で無価値なら当然だ」と断ずるのは冷酷で非道なありようだ。
 仮に「有能な」人間がそのように振る舞うのだとして、それならそうした有能で非道なありようを人間の生きる姿だなどと僕は思わない。僕だけは思わない。
 
 能力がなくても、知恵が回らなくても、知識がなくても、苦労はするかもしれないけれど楽しかったり嬉しかったりすることが、毎日少しくらいはあるというのが幸せなことであるから、そういうものが実現するような未来を描くのが良いのではないかと思うのだ。
 
 この社会はいつの間にか、お金ですべてを解決しようとしている。
 能力も、知恵も知識も労働力も、楽しさも嬉しさも、苦労を減らすこともお金だけで解決できるし、お金がなければ解決できないと思っている。
 しかし能力や知恵は経験や環境によって、知識は行動によって、労働力は人柄によって、楽しさや嬉しさは価値観の持ち方で、苦労を減らすことや利便を増やすことは小さな工夫や発明によって、解決できることも多い。
 
 それにお金があっても幸せだとは限らないし、お金がないからといって(ときどき電気が止まるとして)それが必ず不幸だとも限らない。
 大人になると「お金を使うこと」でしか遊ぶことができない者も多く見かけるが、遊びというのは本来タダでもできることだ。
 
 歩いたり走ったり、近所の道の角をひとつ曲がるだけで知らぬ草花があり(個人的かつ本来的には)見たくもないし近づきたくない虫に出くわすこともある。
 手を動かし、脚を動かし、思いを巡らせるたび、大人になっても発見や驚きがある。
 それを感じられなくなるというのは、それだけ鈍感になったということだ。
 足の裏のかすかな感触の違いや、道具を振るう僅かな加減の陰に、自分が知ったつもりで理解していないことが隠れている。
 
 もちろん楽しいことばかりではない。
 たとえば草取りをしていると虫も草花も殺すことになる。もともと虫が(一部を除いて)好きではないため嫌な気分になることもある。
 
 忌避する対象を視界に入れたくないという人は多いが、非常に動物的だと思う。
 人間らしさとは、忌避する気持ちも楽しむような、メタ心理を持っているのではないか。
 たとえばホラー要素のあるフィクション作品を「いやぁあの血みどろの表現とか、垂涎ものですよ」と語る人がいたらそれは異常だろうが、「怖いな、ちょっとイヤだな」と思いつつ、そのスリルを味わいたい(楽しみたい)と思う気持ちがメタなのだ。
 
 イヤなもの、嫌いなものはすべて殺すか逃げるかする、というのは非常に効果的だが、短絡的で、多様性だとかを謳う社会にはそぐわないだろう。
 今の社会は口先ばかりの倫理や正義で塗り固められつつあるが、仮に多様性が正義なら、必然正義もまた多様化する。
 その多様化した正義は必ず新たな対立も生む。熊は殺すのが正義派閥と、熊は殺さないのが正義派閥はいつも対立しているし、きのこの山派閥とたけのこの里派閥の争いも決着を見ない。
 それでは結局、今までと何も変わらないではないか。
 
 マスメディアであれSNSであれ、人の正義をくすぐる話題に多くの人が熱を上げる。
 おそらく自身の自尊心であるとか自己同一性であるとかが、義憤によって満たされるのだろう。
 自身の信じる正義が絶対だと思うのは、原理主義的な宗教にも見受けられるもので、まぁだいたい殺し合っている。
 カミサマを奉じた果てが殺し合いとは、じつに動物的ではないか。
 
>>>
 
 きっと正義は、人間の手に入れた便利な道具の一つだろう。
 いかなる蛮行もそれによって正当化されてきた。
 あるいは今もされているし、今後カタチを変えるとしてもその概念は残るだろう。
 
 なぜならそれは美しいからだ。人工的でありヴァーチャルであるが故の、曇りひとつない、歪みもない、非現実的な美しさをたたえている。
 だから多くの人がそれを希求し、それを自らの内にあたため、それを振るうことに喜びを感じる。
 
 僕の知っている丘海賊はよく「男は殺せ! 女は犯せ!」と叫んでいるが、あれもあれで海賊なりの正義なのだ。
 文明国家のそれと相容れないというだけで、現代社会のひとつの正義を正しく語っている。
 己の集団に下って労働力(戦闘力)として使えない男など殺せばいいし、セックスの役に立たない女も殺せということだ。
 
 先に述べた「無能が苦しむのは自己責任」というのと何が違うだろう。
 金のない者や、外見の美しくない個体は無価値だから死ねとこの社会は(明に暗に)いつも言っていて、その道義(皮肉です)を賞賛する人間も少なからずいる。
 議員ですら多数決原理を正しく働かせるための労働力をいつも必要としている。
 徒党を組むことは多数決原理の社会では正義だから当然だ。
 
 私はケダモノなのでいずれの価値観を否定する立場にもないが、同時に理解もできない。
 正しさは正しさであって、数の多少によって変わるような「正しさ」など、その場しのぎの策や言い訳に過ぎない。
 
<さみいんですよね>
 
>>>
 
 社会はまだ戦争をしているし、この国家はお金で解決することしか考えなくなってしまったから、国民もそういう政策批判しかしない人間ばかりになった。
 皆それで、利口そうな貌をして満足している。のどかであり、牧歌的でさえある。
 
 国策というのはお金のことをどうするか、お金のことをお金でどうするか、というのを決めることだったろうか。
 ずいぶん単純な作業であるが、それが正しいというなら正しいのだろうし、つまり人間らしいのだろう。
 
 この国は未来を買わなくなった。企業も人間を買い叩くようになって久しい。
 人間たちが、安く商品を買い叩き続けた結果だ。
 口を開けば金のことばかり。ニュースなど見るのも馬鹿馬鹿しい。
 
 我々はどんな未来を買うべきだろう。
 そして売りつけるべき、どんな未来を作るとよいのだろう。
 
 財布の中にお金がないとして、果たして未来は手に入らないだろうか。
 人間どもは、何も作れなくなったのか。
 
 
 
 
 
 
 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
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[Engineer]
  :工場長:青猫α:赤猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Engineering-Link-Mechanics-Stand_Alone-Style-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Resistor-
 
[Object]
  -Human-Koban-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :君は首輪で繋がれて:
:ひとになったゆめをみる:
 
 
 
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// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:241101
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
それは障害か特性か。
SUBTITLE:
〜 Realistic realign. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
241031
 
 子供の頃から、制御の困難(不可能とは言っていない)な自身の気分の浮き沈みと付き合っている。
 最初は外的な要因かと思っていたのだが、僕を含む周囲にいいことがあっても悪いことがあっても、それとは関係なく浮き沈みがある。
 内的な要因かと思い、たとえば精神状態の維持に影響する栄養素(ビタミンCやB、E、カルシウム。そしてカフェイン)に気を使うと、多少の改善はあった。
 
 以前、姉に「猫くんのことは、昔から双極性障害っぽく思っていたよ」と言われたのだが、しかし当然ながら僕はそれを頑として認めないのではある。
 理由は単純である。
 まず姉は精神科医ではない。次に、僕は自身やそれを含む環境に対して不適合性や抵抗(ストレス)を感じることはあっても、持続不可能な状況や認識には至っていないから、である。
 
 仮に僕が双極性障害であったとしても、躁状態で交差点の真ん中で踊り始めて交通を乱したり、周囲の人を困惑させて社会の規範を乱したりということはない。
 道行くロングヘア眼鏡ガールに声を掛けてそのついでに誘拐したり、道行くボーイを意味なく殺傷したりもしない。
 落ち込みついでにオーバードーズなんかしないし、それ以外の自傷行為も自殺もしたことはない。
 
 ちょっと買い物に出掛けて商品を相手に独りごちたり、ゲーム内で異常行動をとって高笑いすることはあるが所詮はその程度であり、これは僕の認識上「僕自身やそれを含む現実世界の環境に対して、持続不可能な状況を形成して」いない。
 自殺や無差別殺人を行ったり、一般道徳に反するようなことを(万一しようと思ったとしても)現実にしない限り、僕の社会適合性は最低限維持され、環境と自身の存在は持続しうると認識される。
 
 大事なことは「最低限の維持」であり「現実世界に具現するかどうか」である。
 今のところ僕は自殺も他殺も(それ以外の反社会的な行為も)していない。
「男は殺せ! 女は犯せ!」と書くことはあるが、そんなことはしたいとも思わないし、仮に思ってもしたことはないから、今後もしないだろう。
 
 そもそもそうした極端な発想をするのも、自身の「ブレ」が大きいからだろうとは想像する。
 しかしそれが悪いとも思ったことはない。
 意味もなく落ち込んだり、意味もなくハイになる人の気持ちが僕には分かる。
 
 同じように犯罪を犯したり自殺をする人の衝動が、自分なりにだが、多少は分かることもある。
 そしてそれが分かることは、分からないことよりよいことだと僕自身には評価されている。
 分かって、分析して、評価して、悪いことなら実行せず、よいことなら具現すればそれで評価される。
 
 そういう基準で生きてきた。たぶん誰もがそうだと思っている。
 つまり当たり前のことを当たり前にしているだけで、観察の範囲では僕の場合、いちいち意識のテーブルにきちんと載せて自覚的に処理することが他の人に比べて多くて細かい、というだけだ。
 
>>>
【障害とは何か】
 
 僕の姉は諸般の事情で障害者である。
 精神(あるいは心身)的にもパニック障害やら双極性障害があり、身体的には循環器の指定難病による障害で呼吸(酸素の吸収)が困難だったり、外科的な後遺症で歩行が困難だったりする。
 ではそれらについて、僕が過剰に気遣いしているかというと、そんなことはない。まったく普通に接している。
 
 気を付けているのは一緒にいる期間(自宅を出るとき)から煙草を吸ったりしないこと、通院等の介助までのあいだに(僕が)風邪を引かないこと、くらいである。
 呼吸器や循環器の疾患なので、姉は風邪を引くと治りにくいし重篤化する。(当人は以前は喫煙者だったが)煙草の煙などもってのほかである。
 現在は非喫煙者なので匂いも好かないだろうと思い、ために家を出る前から喫煙しない。持ち歩きもしない。
 
 けれどもこれは姉が障害者だからしているのか、と考えるとそんなことはない。姉が僕の姉だから、というだけである。
 姉が障害者であるために僕がしているのは、通院や諸用の際に出向いて送迎したり、安全確保をしたりといった、その程度である。
 
 しかしこれって障害者だからしているのかというと、これまた厳密には違う。
 困っている人がいて、その人の求めていることを提供できるから、それを提供しているだけである。
 道に迷っている人に道順を教えたり、お腹が空いている人にごはんをご馳走するのとさほど変わらない。
 
 相手ができないことを、自分が提供できる範囲で提供する、それだけである。
 人間の持つ単純な社会性をできるだけ善良に発露するという、それだけのことでしかない。
 
>>>
【車椅子を使うのは障害か】
 
 たとえば脚の機能に障害を抱えていて、車椅子を使用している人がいるとする。
 一般に、彼ら彼女たちを人は障害者と呼ぶ(この定義は厳密には違うものの重要ではないので読み飛ばしてほしい)が、僕はそのように認識していない。
 彼ら彼女たち車椅子利用者にとって「階段やエスカレータが障害になるな」という認識をする。
 
 人間社会ではごくありふれた装置だが、階段というのはそもそもが人工物である。
 自然界にはゴツゴツした岩場などもあるが、段差は基本的にスロープ(傾斜)になる。
 傾斜の形状(傾斜の軸)が複雑だったり、地盤が安定しなかったりするため、それらを二足歩行で歩きやすくするために作られた土木的装置が階段だという認識だ。
 そして二足歩行者というマジョリティ(多数派)にとって都合よく作られた人工物はしかし、装輪歩行者にとっての障害になる。
 
 二足歩行者にとってその段差を「通過できないこと」は、果たして障害だろうか。それとも単なる不便だろうか。
 通過できないこと(行為の不全)が異常な障害だとすれば、その不全を抱える人は障害者と認識されるかもしれない。
 けれどもその段差が自身の身長ほどにもなれば、脚だけでは越えられなくなる。もっと高くなれば跳んでも跳ねても届かなくなる(同じ漢字で面倒だね)。
 
 それを通過できないことは不便だろうか、障害だろうか。
 どの程度の高さから、その「障害」は起こるだろう。
 そして障害者というのはどこに、いつから、どの高さから存在するのだろう。
 
 だから僕はそれ(階段を通過できないこと)を単なる「不便」と認識する。
 自動車走行中に工事現場があって、重機がいたり、路面に大穴が空いていたりすると、自動車は走行不能になる。
 ではそうした路面の存在や走行の不全性における障害によって、自動車が「障害車」になるのか、ということ。
 
 重機などの作業車からすれば一般車両は「障害(と呼ぶべき不全をもつ)車」かもしれないが、一般車両に乗っている我々は多数派であるため、相手を邪魔な障害だと思うことはあっても自身の車両の能力が至っていないとは思いもしないだろう。
 
 僕はそのように考えて、車椅子に乗っている人を障害者として認識し、腫れ物に触るような気遣いはしない。
 車椅子に乗っている人にとっての障害は何かな、と観察して、気付いたことや可能な手伝いがあればするだけである。
 公共施設なら、必要なスタッフを探して声を掛けるだけでも簡単な手伝いになる。
 
 隻腕ならどうかな、とか、隻眼だとどうかな、とか、知能レベルが環境に合わない人なら(その人にとって)何が障害かな、と考える。
 するとハードルは低くなる。少なくとも僕はそう感じる。
 その人の目線での不便を一緒に感じて感覚して、予測して自分に可能な対応があればそれをしよう、というだけである。
 
 スーパーの駐車場で、自動車から店舗内にショッピングカートを戻す人にとっては、そのカートがある種の負担であり障害である。
 だから車から降りて店舗に向かう私は声を掛けてカートをもらう。
 私も幸せ。あなたも幸せ。みんな幸せ。その程度のことでしかない。
 
 五体不満足でも不倫をした有名人がいたように思うが、つまり障害者と人々が呼んでいる人も普通の人であり、要は普通の人でしかない。
 ところで眼鏡というのは視力不全という機能障害を補う人工装具であり、車椅子や松葉杖と変わらない。多数派であるため機能障害を持っている(つまり障害者である)自覚を持つ人は少ないだろう。
 さて車椅子を使う人は障害者だろうか。それとも機能補助装具を使っているただの人だろうか
 
>>>
【持続の困難な状況】
 
 各種障害のうち、重篤なものも存在する。
 たとえば僕の姉は酸素吸入器がないと呼吸困難で死ぬ。
 具体的には長時間、酸素吸入器による酸素の(我々からすれば過剰な)供給がない場合、呼吸ができる(している)のに血中酸素が低下して気絶し、それを放置すると死ぬ。
 
 知的障害だろうと何だろうと、本人の持つ性質や機能によって自身の存続を困難な状況にしたり、環境に不可逆な(あるいは回復に過度のリソースを要する)損害を与える場合、その存在そのものが自身や社会にとっての「障害」になる。
 たとえば通り魔殺人犯や強盗犯は、社会にとっての障害である。
 
 双極性障害を抱えていて、抑鬱状態になると身体が動かなくなる、という人を知っているが、その人にとってその「身体麻痺」という症状は、自身の平常どおりの活動を妨げ、自身の予測可能な定常的活動を困難にするものと想像する。
 抑鬱で自殺をする人や自殺未遂を繰り返す人、躁状態で過度の逸脱行為(買い物や飲酒や食事やセックスなど)をする場合も同様に、自身の定常的活動の持続を困難にする。
 知的障害者も自身や(他者を含む)環境に過剰な損害を与える場合、自身やそれを含む環境の持続を不可能(あるいは高度に困難)にする。
 
 社会的な「障害」となれば最悪の場合、そのコミューンから排除することが適当になる。
 ちょっとむつかしく言い回しているが、とても怖いことを言っている。
 人権とか関係なく「環境に害を与える障害者は社会にとって無益なばかりか損害しかないので、排除(つまり殺)した方が社会の維持の上では適切だ」と書いた。
 
 もちろん僕がそう思っているわけではないし、そうあるべきとも思わない。
 しかし環境の持続性を考える場合、あるいは社会の公益を考える場合、有益でない個体は不要だと考えるのが自然だ。
 もちろん人権のような(これまた人工的な)概念があり、その概念と環境最適化論との衝突は不可避になるが。
 
 繰り返すが、どうあるべきだ、という話ではない。
 持続が困難な状況は、何を論じていても現実世界に存在しうるし、実際すでに存在しているだろう。
 その「持続困難な状況が発生した、あるいは発生しうる場合、一体誰が、どのように対処するのが最適か」について責任を持つ人間は誰か、ということであり現行の社会はその責任問題を有耶無耶にしている。
 
 これはシンプルに人権という理想と、持続困難な状況という現実の齟齬によるものだ。
 何度も書くが、かくあれかしという解決策は僕にも分からないし、提示のしようがない。
 各人、とくに直接そういった状況に直面する(している/しうる)人たちが、そのつど考えるしかない。
 あるいは人類が、社会が、存続する限り考え続ける必要のあることだろう。
 
 また自分自身の定常的な活動の持続が困難な場合も、その扱いはむつかしい。
 
 先の身体麻痺まで起こしてしまう双極性障害を抱える人は、自身の先行きについて自暴自棄ともいえるような認識をしている。
 実際には最終的に、生活保護や障害者年金などの制度による救済措置もあるとは思う(僕もさほど詳しくはない)が、そもそも健常者の介助なしにそれを行うことが容易かどうかについては分からない。
 
 あるいは抑鬱で自殺する人や自殺未遂をする人も、本人にとってはそれでよいかもしれないが周囲に相当な(心理的/経済的/時間的)損害を与える。
(僕が自殺を(仮にしたくても)未だにしていないのは、そういう演算処理をする価値観が抜けないため)
 
 自身や環境の持続を困難にするレベルの性質を抱えている場合、それは社会の問題になる。
 社会のリソースを最優先に考えれば、優生思想的に社会から抹消することも考えるだろうが、人権という概念が邪魔をする。
 現状は「自己責任」という逃げ口上を使って放置しているようにも見える。
 理屈の衝突に触れていないから矛盾はしないが、問題そのものを直視していないようにさえ思える。
 
 完全福祉社会というのは理想ではあるが、そもそも「今後は社会貢献をすることもない人」を社会が(つまりはそこに属する私やあなたが)どのように取り扱うかは、理想とリソースとのせめぎ合いによって決定される。
 
 誰もが最後は自身の存在の持続性を維持できなくなる。
 肉体的なそれが先の人もいるし、知的レベルのそれが先の人もいる。
 一般的な障害者という認識をするなら、老人は等しくある種の障害者だといえるだろう。
 
 それは不便だろうか、それとも障害だろうか。
 そしてそもそも誰にとっての?
 
<猫です。猫です私は猫です。人間社会の観察者です>
 
>>>
【私は障害者か】
 
 仮に僕が双極性障害という「特性」を肉体組成的にであれ知性回路的にであれ形成していたとしても、それが僕自身やその環境の持続性を阻害しない範囲において、医者に掛かる必要もなければ投薬なども必要としないと僕が考えるのはそういう理由である。
 
 HSPなどもそうだが「名前がついて安心した」とか「社会的に認知されてホッとした」という人の見解も個人的には理解不能である。
 名前があるより以前から、特性は特性で存在し、認知されようとされなかろうとその特性はある人にはあるもので、ない人にはなく、(自身がその特性を持っているかに関係なく)理解できる人にはできて、できない人にはできない。
 性的マイノリティも同様、肉体組成的あるいは知的回路的に形成された特性であり一種の病気(マジョリティではないし本質的な生物学的特性にも反する異常な状態)だと思っている。
 
 異常だから、病気だから、だから障害なのだとか、だから悪い、排除しよう、ということを言っているのではない。
(僕だって自身の性自認や種族自認については思うところがある)
 そういう特性(個性)、症状をどのように自身が取り扱い、社会が取り扱うかを、一意的に、短絡に決めるものではない、ということが言いたいのだ。
 
 名前がついても、社会的に認知されても、周囲の人が理解しても、症状は症状で、特性は特性で、正常な状態から離れた極端な少数派であれば、それは病気である。
 身体的あるいは知的免疫反応で予後が改善するならよいし、あるいは改善しないとしても、それを自身の特性として大切にして生きていっても(自身と環境の持続性を阻害しない範囲なら)問題はない。
 
 僕自身は双極性障害かもしれないしそうでないかもしれないが、正直僕自身にとってもどうでもいい問題だし、社会や周囲の人間にとってもどうだっていいことだろう。
 なにより僕自身この特性とずっと付き合ってきて、モニタもきちんとできるし対処も心得ている。
 
 最近の社会は、金と権利の話ばかりしている(人権とやらも権利である)。
 社会がそうだから個々人が、つまり私やあなたがそれに振り回されて、同じように考えてしまいそうになる。
 けれど思い出して欲しい。どちらも人間の生み出したヴァーチャルなのだ。
(もちろんそれがヴァーチャルでないと信じる人が多数派だからそれは現実なのだが ── それを言ったら宗教も同じである)
 
 ただもう少し地に足の着いた、より人間らしい文化の方向に向かえばいいな、と思ったりする百歳(四捨五入)の秋である。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Interface-Life-Link-Stand_Alone-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Human-Koban-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :暗闇エトランジェ:
:いのちあるものたち:
:夢見の猫の額の奥に:
 
 
 
//EOF
 

 

// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:241031
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
むつかしいことはよぐわがんにゃいッすよ。
SUBTITLE:
〜 The fool.〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
241031
 
「オレ馬鹿だからむつかしいことよくわかんねえけどよぉ」という生き方や考え方に、少し憧れる。
 
 僕はどちらかというと、周囲からインテリっぽい、というのか、偏屈っぽい、というのか、何事にも一家言あるかのように思われがちである。
 そしてじつに、何事にも自分なりに考えた判断基準があり、それに基づいてさらに考察し、行動を決定していることもある。
 
 世俗ではことさら、そうしたありようについて褒めそやす傾向が強い。
 物事の本質を突くような芸能人の発言などを取り上げる仕組みも増えたし、SNSなどを利用している人の発言や着眼点が、不特定多数の人から評価されることもあるようだ。
 しかしなぜそれがわざわざ取り上げられるかといえば、結局その「当たり前のこと」が曲解されてしまったりした結果、ちょっとおかしなことが「普通」や「常識」になっている側面があるからだろう。
 
 いちいち人々が言っていることややっていることを、自分なりに再考したり、検証したりしようというのは、度を超せば異様に思えるだろう。
 政治を知るために大統領になる必要はない、という言葉もあったと思うが、恋愛感情を含めた人間の機微についてより深く知るために、風紀に欠けた異性関係を構築しようと目論んでモテになろうとしたりするのは、いささかやり過ぎである。
 実際にしてしまった今だから言えるが、してみないと分からないことは確かにあった一方、人を傷付けるような部分もあった。
 価値観の相違は言動の食い違いに発展するため、一般の風紀の範囲に、自身のモラルを置いておけば良かったかもしれないと、後悔でもなく反省する部分はある。
 
 実行に移さないで済むなら、そういう状況や原理について、あれこれ考えることは少なくとも役に立つ場面もある。
 もちろん他人のことについてあれこれ詮索したり、邪推したりするようでは本末転倒になってしまう。
 疑心暗鬼という言葉にもあるように、その恐れや怯えは弱さであり、その弱さはたとえ自身を守ることがあるにしても、他の誰かを守ることはできない。
 
 堂々として、しかし他者を萎縮させたりしないように気遣う優しさが、つまりは人の芯の強さの発露だろうと思える。
 
 そう考えると、みだりに自身の見識を振りかざす ── 言い換えると見せびらかすような真似は、あまり褒められるものではないように思えるのだ。
 もちろん自身に見せびらかそうという気がなくても、芸能人のようにそうした言動を求められて抜擢される場面もあるだろうし、SNSのように他の誰かの目に留まってしまうことはある。
 幸い僕は芸能人でも政治家でもないので注目を浴びないし、SNSも使わないのでほとんど誰の目に留まることもない。
 
 それでも自身の納得した価値観に基づいて行動していて、それがときどき一般常識に対する不協和音のようにズレを生み出すこともあるように思う。
 
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 たとえば僕は買い物に出掛けると、慇懃無礼と言われるくらい、店のスタッフの人との対応や挨拶を丁寧にしてしまう。
 まぁせいぜいが、お願いするときに「恐れ入ります」と声を掛けたり、会計を済ませて「ありがとうございます」と言ったり、という程度のことなのだが。
 
 スタッフだけでなく他の客に対しても同様で、スーパーに出掛けて店内に入ろうとするとき、買い物を終えて駐車場からショッピングカートを店内に戻そうとしている他の客を見かけると「それ、ください」と声を掛ける。
 店内で商品を見ている他の客と自分の動線が重なる可能性を感じると「後ろ(前)を失礼します」と声を掛ける。
 個人のお店や開業医の建物に入るときも、黙って入るのは(たとえパブリックスペースだとしても、オーナーの占有エリアなので)気が引けてしまって「お邪魔します」とか「失礼します」と誰にともなく挨拶してしまう。
 
 無言でいることに抵抗のない人は非常に多いようで、皆カートの利用は自己責任で(安い店の客層の場合、適当に放置する人もいる)、しかし黙って他人の領域に踏み込んで、黙って買い物をして、自分の買い物カゴやカートが誰かにぶつかっても気付かない(あるいはシンプルに無視する)人までいる。
 
 彼ら彼女たちからすれば僕の方が非効率で非常識だろうし、僕からすれば彼らは古い農家集落よろしく「玄関が空いていたから入ってきたよ」と隣家の寝室にも乱入するような、無礼で粗野な田舎者に思える。
 何が正しいという話ではない。それぞれが、それぞれの正しさを持って、それに従い生きている、というだけである。
 
 そうしたありようについてあれこれ考えてしまう僕の性質は、ある意味では思慮深いのかもしれないが、見ようによっては鼻につくほど気取っていて、小賢しいだろう。
 実際問題、気取っているという自覚はある。
 自宅の玄関を出たらその先は、自分のルールが通用しない場所であるから、誰かに失礼のないようにと気遣いをしないわけにはいかないのだ。
 
 僕の場合はことさら、親からたいした躾をされたわけでもないし、学業を修めるために高名な学校を卒業したわけでもないし、会社員のような集団生活にも適合しなかったし、ともに暮らす家族がいるわけでもない。
 ついでに飼い猫に逃げられたりしているし、恋人にフラれたり、年単位で音信不通だったりする ── それで忘れた頃になって唐突に「一緒にお風呂に入ろうよ〜」と誘われたりもするのだが。
 
 だから社会の常識や通念というものがいまいち分からず、無礼なことのないように、誰かを萎縮させたりしないように、できるなら誰かの役に立てるようにと心掛けているのではある。
 
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 村上春樹さんの著作「ノルウェーの森」だったと思うが、登場人物の女の子(ミドリという名の大学生)が「好きな人と暮らして、その人に抱かれて、子供を作って、そうして幸せに暮らすの」と語っていたシーンがあったと思う(なかったかもしれない)。
 それでよかった当時のことについて思いを馳せたりする。
 
「それでよかった当時」というのが、しかしいつのことなのか僕は知らないのだが、いつの間にか男も女も小賢しくなった。大人も子供も小賢しくなった。
 小賢しいと自覚している僕が言うのも変な話だが、みんな利口そうなカオをして、風紀正しいような面構えで「ウンチもセックスもしません」みたいな微笑みを浮かべて、カフェのランチについて語っていたりする。
 個人的な考え(そもそも誰であろうと考えることそのものが個人的)だが、食べることは排泄やセックスと同じように、非常に動物的なことである。
 心地よく幸せなセックスと、快適で爽快な排泄と、見た目にも美しくて味わい深い食事というのを、いちいち区別して「これはいい」「これはよくない」と分ける価値観が僕には不気味に映る。
 
 つまり己を含めた人間の持つ獣性について、見栄えの良し悪しや、建前の良し悪しだけで語っていて、その本質をろくに考えもしないためだ。
 世俗の性教育問題(子供が異性側の公衆浴場に何歳まで入れるか問題など)も同様で、大人が(しっかり子供を作っているのに)建前でしかものを考えず語れないから、子供も本質について分からず歪められた現実に引きずられるのではないかと思ってしまうことがある。
 あるいは母親が男児の性的な言動に戸惑うとき、父親は一体何をしているのかとも思う。
 
 僕個人についていえば人間(ことに大人)の生理現象について、自身を含む男たちのそれより先に女たちのそれをよく見聞きする機会が多かったため、生理用品や月経などについても8歳の頃にはある程度理解していたし、飼い猫が目の前で出産した9歳の頃には破水や胎盤といった言葉や現象もすでに理解していた。
 ために(我が子はシュレディンガーの仔猫(存在不定な隠し子)以外にいないため)たとえば姪にセックスの良さや、その良さにともなって発生しうる諸々の良くない問題について説明する必要があったとしても(矛盾を好む性質の)僕は困らない(説明する機会はないが)。
 もしかしたら僕の方が特殊なのだろうということは理解できるが、大人になっても一意的で視野が狭いのはどうなのか……と、こんなふうに余計なことまで考えてしまうのが小賢しいのだとつくづく思ってしまうが。
 
 もちろん時代は変わり、バブル期前後からは無能な男に使われることに耐えかねた有能な女たちが(いわゆるフェミニズム的な運動も後押しして)経済活動にも進出し、男たちと肩を並べて小賢しいことを論ぜられるようにもなった。
 さらに時代も技術も進んだが、じつのところ、人間は進化したわけではない。
 結局、同族殺しや近親相姦や隣人への陵辱/略奪も気にしなかったであろう原始人と同じようなハードウェアを使って、ソフトウェアだけ更新して「人間ですものオホホホホ」としているのである。
 
 もちろん猫も杓子も知性化することが悪いわけではない。
 しかし有象無象の小賢しさをかき集めたところで、それだけで集合知として新しい常識を作るには至らない。
 結局、力が強ければそれに逆らえないという点でいえば、それが腕力から経済力や集団圧力に変わっただけで、暴虐に振るわれればシンプルな暴力になるのは変わらない。
 暴虐さを自制する能力は、禽獣の頃とさほど変わっていない部分もあるように思えるのだ。
 
 そうなるとヒッピーよろしく人間的な幸福の原点回帰をして「ノルウェーの森」よろしく「ただ好きな人と一緒にいて、美味しいと思えるごはんを食べて、気持ち良くセックスをして、子供と笑って過ごせれば良い、むつかしいことは分からないし分かりたくもない」という幸せを単純に求められる方が、たとえ小賢しさなど持つことさえ避けてしまってもそれはそれで幸せなことだし、そういう(ある種の白痴じみた)幸福も、あるいは無駄に小賢しく飾り立てた幸福も選択できる社会であってよいように思う。
 
 個々人がそれぞれに考えを深め、譲れない(ときに相容れない)価値観を持って生きることは悪いことではないが、一家言持っていればそれが幸せかというとそうでもないように思えるのだ。
 そんなものは持っていませんイヌネコよろしく喰って寝て交尾してるだけだけど、なるべく余計なことに悩まないようにして、誰かを傷付けたり蔑んだり奪ったりしないように気を付けてるので幸せです、というのでもよいのではないかと思うのだ、男も女も(「というのでも」であって「というのだけが」ではない)。
 
 
>>>
 
 これまでの観察の範囲では、そうした愚かな層 ── あえて「愚かな」と書くが、思慮を過剰に深めず、小賢しいありようを小賢しいと言える素直さは大事だと思うし、そうして思慮の深さを適度に制御しようとすることが本当に「愚か」かどうかは僕のような小賢しい人間には断言できない気がしている ── が、文字通り愚かなままに小賢しい真似をしようとするとロクな事がない。
 
 たとえば死んだ叔母(といってほぼ全員死んだが)や、かつていたタチの悪い恋人のように、思慮が浅い人間はどこまでいっても自身の感覚や常識から抜けることがない。
 そういう連中は知ったようなふうに常識を語るのだが、それは「その人自身が常識だと思い込んでいるもの」に過ぎない。それを常識と他人に押し付けることの暴力を理解しない。
 
 だからそういう浅慮の人間は、浅慮のままに他者を支配しようとしてしまう。
「だってこれが常識なんだから常識なんだもん」という馬鹿の理論に立ち向かうのは容易なことではない。
 だから税金を払えないときはとりあえず相談に行くしかないのだ(唐突な私情を挟んだことについてこの場を借りてお詫び申し上げます)。
 
 DVもレイプも同様である。
 人の皮をかぶった畜生ふぜいが人がましいカオをして、どす黒い欲を捏ねた上ありがたい理屈やきらびやかな装飾でコーティングして作った「常識」で他人を蹂躙するのは、シンプルで強力な暴力だ。
 ために愚かなありようを愚かでもよいと認めて、そういう幸せもあるとあらかじめ社会が提示するのは決して悪いことではないように思うのだ。
 
 今の社会は「小賢しい」ことを褒めそやしすぎてはいないだろうか。
 だから暴力も高度化し、知性化し、潜在的になってゆく。
 対抗するために、より小賢しくあるべきだろうか。原点回帰を考えるのは無意味だろうか。
 
 オレ馬鹿だからむつかしいことよくわかんねえけどよぉ、かあちゃんとシッポリやって家族が飢えなくて、他の誰かから何か盗んだり、意味なく殴ったりしなければそれでいいんじゃねえの。
 って、そういうふうに言えるような幸せもあっていいのにな。
 って、家族もいない(そしてそのことの幸せを存分に味わっている)ワタクシは、政治についてあれこれ知ったように小賢しく語る政治家やコメンテータ(プロアマ問わず)を眺めながら思ったりしました。
 
 あと税金の仕組みはホントむつかしいので勘弁してほしい。
 
>>>
 
 姉の事務的諸用に出掛けた一日。
 どうやら最近、姉上は自己管理能力が低下しており、多少スケジュール管理の助力が必要かもしれない。面倒だ。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
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[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Engineering-Interface-Life-Mechanics-Recollect-Stand_Alone-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Camouflage-Human-Koban-Memory-
 
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[Cat-Ego-Lies]
  :いのちあるものたち:
:ひとになったゆめをみる:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:241025
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
白紙票の効率問題。
SUBTITLE:
〜 White boat. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
241025
 
 猫です。私は猫です。
 
 私は猫です人間社会の観察者です。
 猫の再来に震えろ。
 
>>>
【ムーブメントとブームの問題】
 
 Webでは唐突に「白紙投票をするのは馬鹿だ」ムーブが流行っているらしい。これをブームという。
 ムーブが流行でブームになるのだけれどブームが流行でムーブを起こすのかムーブとブームに直接の関係性はないはずなのに語感が似ているのでブームなのかムーブなのかブームなのか混乱してしまいそうでありでもムーブでもブームでもどっちでもいいかと思ったりします私は猫です人間社会の観察者です。
 
 またぞろどこかのインテリ風情が識者ヅラをして「かくあれかし」などと言い放ち、それに乗って「そうだそうだ」組と「そうじゃないだろ」組の対立が形成され、ヴァーチャル抗争を楽しめるという状況になっているものと想像する。
 いつもの流れといえば流れであり、いい加減、よくもみんな飽きないものだと思う。
 
 そういえばサッカー(ワールドカップとか、そういのかな?)が流行った頃、それまでまったくサッカーなど興味を持っていなかった人間がにわかにファンづらをし始めて、頼まれもしないのにゲームやチームや選手の解説やらを始めて顰蹙(ひんしゅく)を買っていたように思う。毎回思うのだが、ひんしゅくって、すごい漢字だな。
 もちろんサッカーファンとしての情熱に「にわか」も「ベテラン」も「にかわ」もない。「はにわ」も「もなか」も「かしわ」もない。
 熱量こそがすべてであり、そして同時にそもそも傍観者なのだから、そういう自覚は持っていてほしいと思う。
 
 お前がフィールドに立って走るわけでもないのに、知ったふうに「あそこは右に持っていかないと」などと語るな。
 
 何のことかというと、投票の話である。
 目先の餌には食いつかずにいられず3日前のことなど記憶にもなく10年先などもちろん、1年先のことさえ考えても仕方ないと思っているめでたい国民性(これが国民性でない場合は、端的に個々人の知性の低さ)を如実に表している。
 
>>>
【選挙制度というカミサマ】
 
 僕は元々、投票という行為も、選挙という多数決制度も信用していないし、それが民主政治の具現としては非常に弱いと思っている。
 ただ民主政治を具現しようとしていた当初の技術レベルでは選挙制度がもっとも妥当だった、というだけである。
 
 散々叩かれたデジタル庁のエライ人の提唱や、死ぬまで取得しない方針でいるマイナンバーカードも、オンライン投票(現行の選挙制度をオンライン化する)やオンライン政策投票(複数の政策を政府が提示し、個々人がその政策に対して都度投票するような制度)の布石と考えれば、決して悪いものではないだろう。
(非難が殺到した国民全員確定申告制度だって、個人事業主目線でいえば、そうした方が国家全体の無駄が減って生産性が向上する余力を作りやすくなる)
 もちろん技術の具現があり物性を持つ以上、企業との癒着が臭い立つのがこの国家の特徴なのでそこは我慢するしかないが。
 
 そのようなわけで紙切れに(毎度おなじみ、消しゴムさえあればいつでもすぐに消せる)鉛筆で書いて箱に入れる程度のことで政治制度が良くなると思っているのだとしたらその考え自体が相当にめでたいし、その時間や交通費がもったいないから投票なんかしないよ、というスタンスだったのだ。
 そもそも投票や選挙は義務ではない。権利である。
 選挙も被選挙も、権利であるから、してもいいし、しなくてもいい。その自由が前提だし、その自由さを僕は好ましく思っている。今でもそれは変わらない。
 
 だから僕は正しく選挙に行かなかった。選挙や政治に興味も持たなかった。それで僕は幸せだったのだ。
 あんな烏合に興味関心を持ち、それに巻き込まれて、時間や労力を奪われるなどまっぴらごめんである。今でもそれは変わらない。
 
 いずれにしても選挙制度がそもそも絶対だと崇拝するのはちょっと狂ってるな、とは思う。
 不完全だけれど、今はこれしか実用化されていないから仕方なく我慢して新しい制度の具現を待っている、というだけである。
 早く誰か新しい制度を設計して実装しろ。
 
>>>
【アンチ白紙投票におけるファシズム】
 
 白紙票の効率を語るのは自由だが、白紙票の民意反映効率を論じたついでに、白紙票の人の意志や意識に介入しようという強制力はファシスティックで気に入らない。
 何を考えて、どのように行動するかについて「こちらの方がお得ですよ」「このままでは損をしてしまいますよ」と誘導してゆく手口は、昨今では単なる商法の枠を超えて詐欺化している。
「私はこう思います」「私はこうします」という表明なら、ただその人がその人の自由を享受しているだけだからよいのである。
 
 他人に対しても、何かを思うのは自由である。勝手に思って、勝手に批判すればいい。馬鹿にしたってそれはそれで構わない。
 しかし「こうしたら損をします」「こうしないとダメです」「そんなことは馬鹿のすることです」などと他人のありようを教唆し誘導するに至っては、他人の自由の侵害である。
 そして同様、教唆され、誘導されるのもまた馬鹿のすることではないかと私は思うわけです。
 
 投票も同様で「行かないとダメだよ」「投票権を使わないのは非国民だよ」などと訳知り顔でエラソーに言うのは、お金も思想もヒマもあるインテリ風情のロクデナシなわけです。
 自身の価値観の表明だけならまだしも、あろうことか他人にその価値観を押し付け、植え付け、特定の思想を強制し、行動に制限を与えて誘導するのは、民主主義的なありように反するわけです。
 
 あまつさえ私も、先日弟子から「猫さん、どうせヒマなんだから投票に行きましょうね」と言われたので、いつもどおり「俺は絶対に行かない。行こうと思ってたけれどお前が今俺に言ったがために投票には行かない。投票にだけは絶対に行ってやらないからな覚悟しろよ」と宣言してしまいました。一体私の自由って……。
 
 私の反骨精神の発露、パンキズム、ラケンローな精神についてはご理解いただけましたね? しなくていいよそんなもの。
 ラケンローが反体制を謳っているのに体制化してしまったことを経てパンクが反体制を構築したように、権利が権利の行使を強制するようになると、権利ではなく義務になってしまう。
 投票は権利であって、しようがしまいがそんなのは勝手である。でもした方がいいよ、という物腰でいられないのは何故かな、という疑問を持つわけです。
 
 そりゃ自民党の尖兵なら話は別ですよ。
 白紙投票なんて馬鹿な真似をするな、と言えば、そういう「ふわっと白紙投票層」はネームバリュー(知名度)の高い党に入れちゃいますから。
「他の党はよく分からんから自民党かな」みたいな。今までずっとそうやってのさばってきたんだから。アタシ知ってるんだから。
 
 ……いや自民党に投票したいならいいですけれど、どの党にも興味ないなら白紙にしとけよお前。
 無論、現行の政権政党にとって「無関心者層」が多ければ多いほど好き勝手にしてしまえるわけだから、無投票層と、白紙投票層は同じだ、という意見にも一理あるとは思うけれどね。
 
 ほんと? ほんとなの? アタシのこと愛してるって言ってたのに、「今日はカレーの気分なんだ」ってホントなの? アタシこともう愛してないの? カレーとアタシとどっちが大事なの?
 
>>>
【政治なんて機械を愛さなきゃダメか】
 
 確かに政治に興味関心を持つことは大事なことだろうとは思うけれど、興味関心を持って理解を深めるのって、とても大変なことです。
 好きでもないことに興味関心なんてそもそも持てないし。
 だから「嫌い」というアンチ精神から始まる興味関心でも、大切に育てるのが民主主義かな、と思うのです。
 
 選挙が嫌い、投票制度が嫌い、というのだっていいと思う。
 では、どんな制度がいいと思う? と訊ねたり、あるいは「どんな制度ならより高効率な意志決定が可能で、適切なリソース配分ができるかな」と一緒に考えるのもいいと思う。
 そういうところに本来の民主政治の理想が見えてくるのではないかな、と思うのね(口調が変)。
 
 現行制度がまずあって、その上で居丈高に「選挙に行かない奴に政治を語る資格はない」とか、お前が決めることかよ! って言い返していいと思うの。
 もちろん現行制度というレールの上に乗って、その進路を誘導して、緩やかに「より理想的な社会」に進行してゆくのが順当な手順である。
 まさか武力に訴えようにも、相手は国家だから結構強力なのでね、だから弟子に反政府組織を作らせようとしてもしてくれないわけよ。
 そういうドラスティックな手段で新しい土台を作ろうにも、今度は土台を作ることに大きなリソースを消費してしまって、結局それは新しい組織の中での新しい(しかし馴染み深い)腐敗を生むだけで、リソースを過剰に浪費する以外何も変わらない。
 
 政治ってつまりは制度(あるいは制度を作る制度)で、制度ってつまりはメカニズムで、メカニズムってつまり自動化された仕組みなわけで。
 そこに個々人の意志や価値観が反映される必要があるから人間が必要だと思わされているけれど、そもそもそこまで手動で運行しなくてもいいだけの技術が今はありますよね、って言っている人もいるわけです。
 
 もうね歯車にクランクハンドルを付けてクルクル回しているようなことを未だにしていて、それで「これも立派な仕事だ」って勘違いしている人がいるわけです。
 もちろんモータで回してそれを眺めているだけで「これも立派な仕事だ」って、観察している自身について言い訳するよりはマシだけれど、勘違いはどちらも同じ。
 ハンドルで回すよりはモータで回す方がいいし、モータで回したら、代わりに人間でないとできない仕事をすべきなのです。
 
 これは政治家だろうと経営者だろうと投資家だろうと同じで、ちゃんと手を動かして、手を汚さないとダメだと思います。僕は猫なので手を汚しませんが。これは愛されキャラの宿命です。ネコノカミサマを始め、世界が私を愛している。なので仕方ないのだと最近は諦めの境地に至っております。
 
>>>
【制度の強制はある段階でファシズムに変わる】
 
 選挙制度はその政治制度という機械の部品を品定めするだけの品評会みたいなものであって、投票自体はじつのところそんなにエラソーに言うほど何にもしていない。
 でも材料や材質、部品が変われば機械の性能が変わるから、悪かったら悪かったで再評価して、良かったら良かったでそれを評価して、再設計に生かしましょう、という制度でしょう?
 実際に政策を考えてリソース配分から影響力から実効性まで予測して検証して馬鹿どもに説明して理解を得て……なんて面倒ですよ、イヤになっちゃいますよ。特に馬鹿どもに説明するあたりからのくだりが。
 
 だからといって現行制度に縛られきった発想でたかだか投票に行った程度で「投票に行かない奴は政治を語るな」というのは、ただのファシズムだからね。
「俺は投票に行っているからその権利を有している」っていう特権意識を持つのは勝手だけれど、その身勝手に自身に与えた特権意識で他を差別するのは、すでに民主的ではないのね。
 で、それを説明しなくてはならない(あるいは説明しても分からない)人がいるっていうのは、それだけ馬鹿が多いんだなぁ、という率直な印象を持つわけ。
 
 投票に行かないことについて哲学があるなら、それはその人の権利だからね。
 社会に関心を持たないことも権利だからね。
 持った方がいいけれど、義務ではない。
 
 では馬鹿ではダメかというと、そんなことはないでしょう。
 馬鹿でも無能でも乱暴者でも、みんなで最悪の事態を避けて、災難があったらオロオロ困って助け合って、いいことがあったら「よかったね」って喜び合えるのが幸せでしょう、っていうシンプルな話でしょう。
 
 原作版の「ドラえもん」みたいなもので、クセがあったり、自堕落だったり、自己中心的な人たちがそれぞれに集まっていて、ときどき泣いたりイジメられたり失敗したりして、それでも誰も死なずに生きていて、喧嘩したり仲直りしたりするのが生きているということでしょう。
 劇場版みたいに、最初から最後まで「いい奴ばかり」っていうのは、まぁ理想的だけれど無理だからね。
 クズでも言いたいことを言っていいし、やりたいことをやっていい。ただ度を超えたらしっぺ返しがあるよ、というのを、神様ではなく人間が作った制度できちんとしましょう、というのが法制度であってね。
 
 同じように、政治に興味関心もない馬鹿じゃあるまいし白紙で投票するのは愚鈍だよねって嗤うのはちょっとどうかな、と思うわけね。
 
 そういう、社会に関心を持っていない人でもきちんと幸せになれて、現行の政治制度がそういう白痴の民衆を悪用しない(悪用するような制度を作らない)ような制度を作ることができればよいわけで。
 自浄作用的な制度によって社会が高効率にリソース配分する政治制度が完成すれば、政治に興味関心を持たない人は、その人の持つリソースを政治以外のことにきちんと配分して社会が豊かになるわけで。
 みんなが同じことを考えて、同じことをしなきゃいけないとか、した方がいいとか、そういうのはちょっと狂ってるよ、とは思うのね。
 
 もちろん現行の政治制度は仕組みが手回し式機械計算機みたいに古いから、その設計を見直す必要があって、そのためにはまだ人間が新しい設計思想を持って手を加えなくてはいけないという前時代的な段階にあるので、興味関心を持ちましょう、というのは間違ってはいないけれど。
 最終的には「衣類を入れてボタンを押すと、綺麗になった衣類が乾いています」という状態が理想的でしょう。
「問題を入れてボタンを押すと、解決策が提示されて、電子化された情報やリソースは適切なタイミングで(必要に応じてただちに)配分されます」という演算処理の理想に、人間はほとんど必要ない。それを目指すべきであって、人間ありきの仕組みを考え続けるのはどうかな、と。
 
>>>
【白紙票の効率問題】
 
 ぼくのかんがえたさいきょうのせいじせいど、についてはともかくとして、白紙票の効率問題を考えた場合、これは少数だから意味がない、という考え方はある意味で理性的である。
 ただし問題は、白紙票を否定することがそもそも民主的ではないという、自由民主制度の原理に反するありようを体現していることですね。
「政治家や政党にとって、何の圧力にもならない」という人は、果たして政党であり、あるいは政治家かというと、そんなこともない。
 政治家の秘書官やデータ整理をする官僚ですらない。
 
 白紙票というのは、投票に行くくらい政治に興味関心を持っているのに、どこにも投票していない層の存在を示します。
 自民党一強の時代が長く続いた日本では、どうでもいい問題かもしれないが、与野党が均衡し政権を担当する政党が頻繁に入れ替わる社会だとしたら、このあからさまな浮動票である白紙票層を獲得することにどの党も躍起になるように思う。
 
 現状の日本社会が、そのような政治システムになっていない(自民党でいいだろう派閥が多すぎた)ため、白紙票の効率を考えれば「アンチならアンチらしく、反対意見の党や、あるいはとにかく与党以外の党に投票しなよ」いうのはおそらく正解だといえる。
 
 ただしその投票用紙はお前のじゃない。
 だから効率ごときの理屈を使って私が白紙票を投じる権利を侵害するな。
 お前にそんな権利はない。
 
 お前がお前の持っている投票用紙をどう使うかは自由だが、他人の投票用紙の使い道についてとやかく言う権利はない。
 いやとやかく言うのは自由だけれど、それを強制する権利はお前にないし、私がその強制に従う義務も、そうする道理もない。
 
 白紙票が全体の1/4とか(かなりの割合)になったりしても同じことを言えるんですか、ということですね。
 数百票を争う場面も政治家にはあるわけで、そう考えたら、白紙層は政治家にとって恐ろしい存在になるわけです。
「推しなんかねーけどちゃんと見てるし考えてるから今回は保留ってことにしとくけんね」っていう存在がいる、ということになるわけで。
 政治家からすれば「推しがない層を獲得したい」と思うし、推しがない層は言ったこととやっていることが違ってしまえば離れてゆくのは明白ですし。
 
 
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【まとめ】
 
「白紙の効率はたしかに悪いかもしれないけれどそんなこと言っていられるのも今のうちなんだからね! ……って。べっ、べつにアンタに投票に行けとかそういうんじゃないんだから……」
 というのが今回の結論です。唐突なツンデレ語調は仕様ですのでご堪能ください。私が詫びる必要などない!
 
 にわかサッカーファンよろしく普段は政治制度に興味関心の全くない私、人間社会の観察者であるところの猫がお伝えいたしました。
 今日もいい天気でしたね。
 
 ところで(多分気まぐれなあまり)ときどきツンデレに思われたりしがちなワタクシですが、ツンデレって実在したらすごく面倒くさいと思いませんか? 私は思います。まぁ美少女だったら許されのでしょうか、私はそんな面倒でアタマの悪い女はイヤですね。ということはワタクシはアタマが悪くて面倒だと思われているのでしょうか……。困りましたね。
 
 ちなみに私は弟子に「行け」と言われたので今回は絶対投票に行かない予定でしたが(急に追徴を課された税金の督促が来て世界の何もかもがイヤになったのでその納税相談ついでに)期日前投票に行ってきました。とりあえずれいわにいれておいた。
 みんなも(行くなら)ボールペンを持って行けよな!(強制) 与えられた鉛筆に満足するな(教唆)。
 
 行かない人はまぁご自由に……。
 
 
 
 
 
 
 
 

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~ Junction Box ~
 
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// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
その憎しみを、大切に、ね。
SUBTITLE:
〜 Light of hatred. 〜
Written by BlueCat

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//[Body]
241022
 
 僕はあまり思い悩まない性格であると思われがちである。と想像する。
 少なくとも誰かが今の僕を観察した場合、眠くなったら眠ってお腹が空いたら食事をするという、動物のような生活を淡々と続ける様子にさしたる悩みなどなさそうだと思っても仕方ない。
 
 実のところ周囲に僕を観察する人間は(仮想奥様を除いて)ほぼ存在しないため、僕が思い悩む性格かどうかを知る者は誰もいないことになる。
 僕も比較のしようがないので知らない。
 
 一般に、思い詰めるというのはあまり良い意味では使われないだろう。
 会社のお金を使い込んだとか、学校の宿題を忘れたとか、修学旅行の朝に目覚めると出発の時間だったとか、恋人から「実は妊娠しているの」と言われたとか、そういうときに思い詰める、という表現を使うのかもしれない。
 実のところ僕はプログラミングやゲームデザインの時に思い詰めていたことがあるので、失敗による嫌な汗で肌が冷え、緊張のため体中の血管が収縮するときの体感があっても、単に「頭が働かなくなっているな」と思うだけである。
 
 プログラミングやゲームデザインは、個人ですべて行っても、年単位の時間が掛かることもある。
 僕は学生時代に、2〜3のゲームを並行してデザインしてノートにまとめていたので、ひっきりなしにゲームを作っていた。
 誰に頼まれたわけでもお金になるわけでもない。ただただ自分の思い描く世界をゲームにしたかったのだ。
 
 しかし作業を続けていれば疲れるし飽きる。
 いっそ真面目に授業を受けていた方が楽しいかもしれない、と思い(実際、授業を受け)ながらデザインを続けた。そう、寝ていない授業中もね(口調が変)。
 Aのゲームデザインに行き詰まったらBのゲームに使う設定画を描き、それに飽きるとCのゲームの内部処理に使われる計算式を見直してステータスとの整合を確認し、それにも飽きるとDのゲームはどんなものにしようかと夢想し(寝ている)、帰宅したら自宅のPCで計算処理をプログラムにして出力を確認する、といった具合である。
 
 高校時代にもなると弁当を作るのは面倒だし、毎日買うほどの財力もなかったので昼食を抜き、ゲームを作るか読書をするか昼寝をしていた。
 正直、今思い返せば正気の沙汰ではない。
 が、授業を受けるより楽しかったし、食事よりも、恋人とイチャイチャするよりも、楽しかった。
 
 なんといっても自分の思い描く世界に浸って、あるいはその一側面の、あるいはワンシーンを描いて、それを可変的な結末(ゲームのほとんどは、何らかの成功と失敗)をもたらす系として具現させることができるのだ。
 神が七日で世界を作ったとして、ゲームデザイナは死ぬまでゲームを作り続けても足りない。
 だから僕は寝食を削って(といってもその頃になると食事は父が作ることのほうが増えていたが)ゲームを作り続けていた。
 思い起こすと本当に思い詰めていたのだと思う。思ってばかりだが、今はそういう作業だから仕方ない。
 
 なので一般に「思い悩んで思い詰めている」とされているのは、それが悪い状態であればあるほど、結論も出ない不快感に浸って「どうしよう、どうしよう」と解決の糸口も見つからないまま物事の表面や感情の表象をオロオロとしているだけで、じつのところ何も思い詰めてなどいない ── 少なくとも何も考えておらず、何も情報を処理していないのだと思うようになった。
 もちろん傷を負っていることに気付くと、その傷の痛みが気になって仕方なくなるというのは動物的な反応なので、不快感(あるいは不幸感)をちくちく気にしてしまうことがおかしい、というつもりはない。
 とても自然だけれど、生産性の観点からいえばその時間は無意味だ、というだけのことである。
 
 不遇な時期に、あれこれ堂々巡りの不幸感を思い詰めていたことは僕にもあるが、いよいよそれでは死んでしまおうかと考えた場合に、その後のことをあれこれと考えてしまうのもまた事実で、現在も生きているのはそういう側面がある。
 会社のことであるとか、姉妹のことであるとか、飼い猫や恋人のこともある。
 そうしたしがらみが何もなければ思い残すことも無く死ねるから、そういうものがなくなればいいのに、と思ったのが多分25〜8歳頃だったのではないだろうか。
 
 思い詰めた結果、現状を解決する方法は見つからないし、自殺をすれば問題から自分の思考や肉体は解放されるものの、問題そのものは(多少カタチが変わっても)残って誰かに引き継がれるし、より大きく、深い別の不幸をもたらすこともあるのだろうな、と結論したのだったか。
 どうしようもないので、その不幸を、ただただ眠ってやり過ごしたことは何度も書いている。
 僕はひたすら、栄養失調になるくらいまで眠り続けた。
 
 そう考えると徹底している。そういう性格のようだ。
 徹底の仕方が自堕落で欲望に満ちているだけだ。
 ついでに倫理観にも欠ける。
 
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 ときに不幸というのは人を呪縛する。
 たとえば僕の姉は、かつて結婚していた配偶者がかなり狂った人間で、暴力は振るうわ姉を働きに出して自分は仕事もしないでギャンブルに行くわで、クズを絵に描いたような人間だったらしい。
 そのせいで肉体的にも精神的にも傷を負い、歪んでしまった部分があるようだ。
 双極性障害も負い、肉体的な障害も持っている現在、その介護の一翼を僕が担っている。
 
 もともと僕の両親は子供の自己肯定感を高めてくれるような人たちではなかったため、そういうクズが配偶者でも仕方ないのかと自分自身やその人生に諦観しか持っていなかったらしい。
 姉妹が口々に「大切にされていた」という僕ですらそうである。
 だいたい中学生も半ばになる頃には「ろくな人生設計もできず、貧乏なまま(遺伝による)病気の治療もままならず、道端で文字通り野垂れ死ぬのだろう自分は」と思っていたので、進路(進学)に希望もなく、将来、家族を作るという理想さえ持たなかった。持てなかったのだ。
 そういう(絶望的な)未来像をふと口にしたことがあったらしく、当時(14歳)のTUは「こいつは本物の世捨て人だ」と絶句したらしい(僕は覚えていないが)。
 
 流されるように、なるようにしか生きられないとずっと思っていたので、だから姉の身に降りかかり、流されてしまった不幸についてもやむを得ないのだと思う。
 親も子を選べないが、子も親を選べない。
 流れや事情や状況で、選ぶことのできない配偶者もあるだろうし、回避できない小児性愛被害もあるのだろう。
 
 そうやって負ってしまう傷や不幸がある、ということを僕は姉たちを観察して知っていた。
 自己責任論は理想的だが、そもそも自身の肉体や意識の発生が自分の責任において為されていない時点で机上の空論に過ぎない(発生の自己責任性/自律性のなさが許せないから僕は自分を殺したかったのだ)。
 選択の余地もなく、為す術もなく、もがくことさえ許されず、しかし振り返ると不幸だとしか言いようのないこともあるのだ。
 
 だから僕は正しく世界を憎むことに情熱を注いだ。
 べつに何をするわけではない。
 ただただ飽くまで憎み潰したのだ。手の中で作り出される世界は何度となく業火に焼かれ、男も女も骸に変わり、人類は滅び、宇宙は消滅した。
 そうやって憎んで憎んで、支配や滅亡が具現することを夢想し、そしてとうとう飽きてしまった。
 
 姉は今、憎み潰している最中である。 
 その憎しみは、かつての配偶者にだけ向けられていて、ときどき過剰に思えることもある。
 哀れだが、それは執着に思える。
 
 離婚して十年以上経ったと思うが、その配偶者の名を挙げては「ああいう事をする奴は」とか「ああいう考えをする奴は」と、非難する。
 せっかく自由になったというのに、ことあるごとに思い出してはあげつらう。
 解放されているのに、自ら呪縛を望んでいるかのようで、だからそれが執着に思える。
 
 しかしだからといって、それを指摘して、やめさせる気もない。
 憎しみというのは、下手に隠したり、綺麗事で覆い隠しても、ろくな事にならない。
 正しく、憎んで憎んで己の熱がなくなるか、対象の息の根が止まるまで憎み潰すしかない。
 
 それに世俗にクズは事欠かないから仕方ない。
 涼しいカオをしていても「シュレディンガーの仔猫(存在が不定な隠し子のことです)」を持つ僕とてその「クズ」の一端には違いないので、何とも言えないことである。
 
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 僕が「忘れる」というテクノロジィを手に入れたのは、その憎しみの熱が醒めないからだった。
 世界に対する憎しみも、自身(とくにその存在とその基盤となる肉体)に対する憎しみも、どうしようもなかった。
 思い詰めれば詰めるほど、自身は無力であり、安易に自身や他者を殺すわけにもいかなかった。
 
 無選択的に強制され、為す術もなく、選ばないことさえ許されなかった自身の生を、僕だけは許さなかった。
 僕だけが許さなかった。
 
 憎しみを溜め込んでも良いことはないというが、そもそも許す対象すら持たない憎しみをどうすればいいのか。
(概念としての生を憎んだとて、現象としての生を止めたところで何も変わらないのだ。まして己一人の肉体などでは)
 それで大事な宝物を瓶に詰めるようにして、憎悪やそのときの自身の感情を形成する人格をあれこれ書き連ねて記録し、代わりに記憶を徐々に失った。
 その結果、僕は(20代前半で)従前に増して記憶力が悪くなり、そういう「あんまり思い詰めないし記憶もしない人格」になった。
 
 書き連ねた記録はしかし、当時の恋人がみだりに読んでしまったりしたので、最終的に捨てた。
 大切な宝物ではあったが、他人が眺めて美しく感じるようなものではない。
 もっとドロドロとしていて、どうにも救えないものだったからだ。
 何かを憎むということは、取りも直さず「愛されたい」と泣き喚くことに等しい。
 
 僕は世界に愛されたかったし、男にも女にも愛されたかった。
 つまり世界を愛したかったし、男も女も愛したかった。
 だからそうなっていない世界が憎かった。そうならない世界が哀しかった。
 
 自分も、世界も、なにもかも。生きることも死ぬことも、なにもかも。
 憎くて、哀しくて、あたたかくて、やわらかくて、優しくて、だから辛かった(辛(から)かったのではないし、揶揄(からか)ったのでもない)。
 
 そういう救えない、矛盾してどういう解決も出来ない気持ちを、改めて、とうとう手に入れることが叶ったので、案外良いものだな、と今は思っている。
 僕はすぐに忘れてしまう自分と、ずっと覚えている自分とを共存している。
 
 若い頃は「君の言い分は間違っている」と言い合うことで分裂し矛盾していたのだが、今や「君の言い分も分かるよ」「いやいや君の意見こそ利があり理があるよ」とお互いに譲歩している。
 なにそれめっちゃ可愛いじゃんか〜。ハートウォーミングじゃんか〜。
 ……大人になってよかったね。
 
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 DVというなら僕もかつてはそういう狂った人間が恋人になったことがあった。
 憎む価値すらないような出来事だったので、具象の出来事も相手の名前も顔も忘れてしまった。
 あるいはわざわざ思い出す価値も見出していないのだ。想起するのも煩わしい。
 
 当時、僕は憎しみのエナジィに関する法則や忘却のテクノロジィについて、すでに理解してしまっていたから。
 
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 姉はかつての配偶者の名前や、それによって振るわれたいくつもの不幸を自分から切り離すことが出来ずにいる。
 おそらく多くの人間がそうだろう。
 自身の負った傷も痛みも、不幸も不快も、不運や不遇でさえ自身から切り離すわけにはいかない宝物のような記憶なのだ。
 
 それを手放す幸せと手放す不幸があり、同じく抱え続ける幸せと抱え続ける不幸がある。
 呪縛か祝福か、それは誰にも分からない。自分で決めるしかない。
 ひとつの出来事は、刃物で切ったような始まりと終わりがあるわけではなく、たいていの場合、いつしか始まり、いつしか終わるからだ。
 
 そうした一連の流れには良いときがあり、悪いときがあり、それぞれに良い面があり、悪い面がある。
 どんな良いことも、悪いことも、そういうものなのだ。
 そんなふうにどれもこれもを同時に経験することは、一般的ではないかもしれないし、あるいは多くの人にとっては現実的ではないのかもしれない。
 
 失踪している別の姉の児童売春についてさえ、そのように認識することは可能だと、今の僕は知っている。
 もはや憎しみなどというものは、記憶と、それにまつわる執着の熱でしかないのだ。
 その熱を使って何をするわけでもないなら、それこそ無闇な発散など無駄なことである。
 
 詰められるなら瓶に詰めて、熱ごと大切にしておいた方がいい。 
 他の誰かが触れてしまいそうなら、海の底に捨ててしまえばいい。
 その熱が本物なら、いつか海の底から世界を焼くだろう。
 
 焼け残った世界を眺めて何を感じるかも、また自由なのだ。
 
 
>>>
 
 だから僕は、僕自身の憎悪をとても大切に思っている。
 きっと誰かの憎悪も、同じように、宝物なのだと思う。
 
 ために自分の憎悪と同じように、誰かのそれをみだりに否定したりはしない。
「いやな奴がいる? イヤなことがある? 憎くて仕方ない? いいねぇ、そういうの。誰にも言わず(Webにも書かず)に大事にしようよ」って思ってしまう。
 
 それが本物ならばこそ、大事にしているそれをポイッと捨てる日も来るし、それをもう一度取り上げる日もきっと来るはずだから。
 
 ……だから、世界を正しく灼き尽くして。
 
 
 
 
 
 
 
 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
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  :青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:
 
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  -Algorithm-Blood-Chaos-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Eternal-Life-Love-Memory-Recollect-Stand_Alone-
 
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  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Computer-Friend-Game-Garden-Human-Memory-Poison-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :いのちあるものたち:
:君は首輪で繋がれて:
:夢見の猫の額の奥に:
 
 
//EOF