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約束された発見などいらない。
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〜 No more premize. 〜
Written by BlueCat
Written by BlueCat
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自分の考えていることなど、世界にとって取るに足らない些細なことだ、と思うようになって久しい。
私の考えていることは、すでに他の誰かも考えていて、自分が発見したと思ったことはすでに誰かが発見したことであったり、あるいは誰か(メディアや世間という仕組み)によって発見させられたものなのではないかと。
たとえばパンチラという概念がある。
ガールのパンツがチラリと見えて、ボーイがドキリとするアレである。
偶然の積み重なりによって発現する本来のパンチラと異なり、アニメやイラストにおけるパンチラは「用意されたパンチラ」「必然のパンチラ」「設計されたパンチラ」であるため、本来的な意味においてパンチラと呼ぶには不自然でありおこがましい、というムーブメントが存在した(今もあるかは知らない)。
ちなみに僕は女ばかりの家に生まれたため、あらゆる女性の姿態や生態を日常的に観察しており、思春期を経ても(姉妹に限らず恋人のそれであろうと)それは日常の延長に過ぎない認識だったためドキリとしたことがない。
中学生の頃は水泳部だったから、ボーイズたちが水着女子に対して抱く感慨のようなものもない。
「セパレート? 泳ぎに向かないな」といった具合で、競泳水着を見てもせいぜい(素材の抵抗や伸縮が良さそうだな)くらいの感想である。ガールと海に行っても暑い場所で遊ぶのは面倒だから浜辺で読書するタイプである。これじゃモテるわけだなー(棒)。
ためにパンチラについて強いて語ろうにも「だらしない」「みっともない」といった感情を覚えて終わりである。
ただパンチラそのものの価値を(そこに情熱を注ぐ者と)同じように理解することはできないまでも、その「作られたパンチラ」という哲学的なアプローチには感心した。
なぜといってパンチラを正しくパンチラとして神聖視していなければ、そのような「理想的パンチラ」を規定することは適わず、そうした「古典パンチラ正教」とも呼ぶべき原理主義の存在によって初めて「本来的(理想的/原理的)パンチラとは何か」という問いがもたらされたといっても過言ではないからだ。
なるほどその視点に基づいて考えるとフィクション作品におけるおよそすべてのパンチラは「原理的パンチラ=パンチラ原理」を模した、意図的に、用意された、作為的なパンチラである。
仮にパンチラを晒してしまった登場人物(A)とパンチラを見てしまった登場人物(B)がいて、BがAのパンチラを見てしまったことについてAがそれを認識し、かつBに対して羞恥したり非難する場面があった場合を考えよう。
その「パンチラそのもの」を軸に考えた場合、あくまでそれ(パンチラ)はストーリーテリングの上で雑に配置されたガジェットとしての側面しかなく、ましてBが存在しない(フィクション世界上でそのパンチラに対する観察者が存在しない)場合に至ってはそのパンチラについて「パンチラである」と認識しているのはフィクションを鑑賞している我々しかおらず、よってそのパンチラはガジェットとしての役割さえ持たないため読者(あるいは視聴者)に対して(ほれ、こういうのが好きなんでしょう?)と、雑に投げかけられたサービス(いわゆる読者サービス)だと考えられるのだ。
パンチラ原理主義的に、これらはパンチラに対する冒涜であり決して許されるものではない、という哲学がいたく気に入った。
実のところ「作為的パンチラ」の原理応用は現代のフィクション界における「水着回」や「温泉回」という、キャラクタコンテンツと成り果てたフィクション作品に今なお残っており ── 当然ながら女性キャラクタを愛でる男性ファンだけでなく男性キャラを愛でる女性ファンもいるだろうから、様々なリアル×ヴァーチャルの観察模様が存在すると思われる ── それだけ根強くフィクションキャラクタを愛でる人々のリビドーを刺激するものと想像する。
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哲学というのはある種の発見であり発明だと僕は思っている。
世俗では、簡単に答えの出せる(出ている)ことについてあれこれウンウン唸って、何の役にも立たないどうでもいい蘊蓄を並べる学問だと思われているかもしれないが、そんなことはない。
誰もが当たり前に見過ごしていた日常の一コマが、それまで誰も考えつかなかった新しいものの見方(捉え方)によって、ドラスティックな変貌を遂げることもある。
少なくとも新鮮には思えるようになる程度の効果はある。何の役にも立たない点は変わらないにしても。
そういう気持ちで、新しいもの(の見方)を発見しようと思っても、しかしそんなものはそうそう簡単に見つかるものではないし、仮に見つかったところで大抵の人は相手にしてくれない。
人々は実利を求めており「ゲームなんかしていないで勉強しなさい」という社会のまま「哲学的なことなんか考えてないでお金儲けしなさい」といった具合に成長した。
嗚呼、ヴァーチャルよ。そして哲学よ ── 。
<朝はドリンクバーが半額です♪>
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僕はヴァーチャルと哲学を大切にしていたので、幸いにして現実に毒されることが少なく済み、平和に生きられたと思う(いまだに奥様(仮想)のような緩衝を必要とするが、ファンタジィと二重写しになっているくらいの方が現実は豊かだ)。
けれどこんな綱渡りのような経験から得られた哲学は、おそらく誰の役にも立たない。あるいはだからこそ素晴らしい、とも言えるかもしれないが。
誰かが意図した作為のとおりに発見し、経験し、醸成されるべくして醸成された哲学や文化を否定するつもりはないが、そんなものに染まるなど(猫社会においては)飼い犬風情の生き様であると失笑されるものだ。せめて野良犬になれよ。
誰かが用意した幸せや豊かさのイメージが自分にとっても幸せで豊かなものだと盲信することは、死んでいることに等しい。
約束されたパンチラ、お膳立てされたハプニング、繰り返されるラッキィスケベに本当の幸せなどないのだ。
だからといって僕の温めてきた哲学と経験などというものは(果たしてそれが実在するとして)、他者からすれば何の意味もない「観察しようのないパンチラ」なのでもある。
観察しようのないパンチラとはつまり「ただ普通にパンツ穿いてるだけ」である。
なるほど誰かの耳目を集める効果はないし、自分にとって当たり前の「普通に穿いているパンツ」をわざわざ眺める意味もない。
やがて沈黙するのが必定か、とも思う。
世俗は約束されたパンチラを求めており、そこに幸せを見出している。
自身は用意されたパンチラなど価値がないと思い、自身に含まれた「観察されるまでそこに実在するかどうか確定しないパンツ」いわば「シュレディンガーのパンツ」問題に突入しているのだ。
いやまてそれは「ぱんつはいてない問題」としてすでに世に提示されている。
もはや未踏の問題など、この世界には存在しないのではないだろうか ── 。
とまぁこのように考えていると、新しい問題も、またそれに対する新しい答えも、この世界には存在しないのではないかと、一抹の寂しさに駆られる。
もちろん数学における未解決の命題などはあるだろうが、人間社会はもっとずっとシンプルで、雑に作られている。
そこに発露した一見複雑な経緯を経たような現象を、人々はもっともらしく観察し、説明しているのだ。
しかしそれは本当に、予測不能で、しかも新しい問題で、そして得意げに語るそれは新しい解釈で、適切な解答としての優位性を持つのだろうか。
そんなことを考えるにつれ語ろうとする言葉、そのことごとくが無価値に思えてくる。
こんなにアンニュイにパンチラについて語った(あるいは語っている文書を見る)のは初めてだが、そもそも僕の人生でこんなに「パンチラ」と連呼したのも今日が初めてである。
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[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
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[Engineer]
:青猫β:
[InterMethod]
-Algorithm-Blood-Ecology-Engineering-Mechanics-Memory-Stand_Alone-Technology-
[Module]
-Condencer-Connector-Convertor-Generator-Resistor-Transistor-
[Object]
-Camouflage-Contents-Tool-
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[Cat-Ego-Lies]
君は首輪で繋がれて:
:ひとになったゆめをみる:
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