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TITLE:
欲の容れ物。
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〜 Pat the pot. 〜
Written by BlueCat
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思うに自己同一性とは欲によって形成されるのだろう。
その欲の発生にはじまり、具現のために行動する過程を経て、それが満たされる(あるいは満たされず諦める)体感や実感までを自身の肉体や思考で感覚するそのすべて。
それが自己同一性を生み出す(あるいはそれそのものな)のではないかと思う。
たとえば動物的な欲(一般的な三大欲求)ももちろんだし、人間らしい欲求(リソースを集めたいとか、管理したいとか、他者からこのように思われたいとか)もそうだし、社会的な欲求(国家のような広い範囲にかぎらず、職場でもいいし、家族でもいいし、友人や恋人関係でも、その関係を持つ組織に「かくあれかし」と望んだりすること)もそうだろう。
僕は自己同一性が希薄なため、様々な欲求が希薄になりがちで、めぐりめぐって自分が誰なのか分からなくなったり、自分が自分であるという実感が湧かなかったりする。
たとえば空腹になってそれを実感するだけでも(ああ、自分はここにいるんだな)と体感できるし、その空腹を存分に味わったのちに食事をすれば格別に美味しく感じる。
社会や身近な人に「こうあれかし」などとおこがましい欲を持つことも ── それがたとえ独善やエゴや劣情だとしても ── それはそれで、その人がその人自身の輪郭を体感するに十分な情報であり、そういう意味ではどんな欲でも持っていないよりは持っている方が良いのかもしれない。
たとえば誰かに乱暴を働くとか、殺意を抱くのだとしても、それを実現しない限りにおいては犯罪にはならないのだから、好き勝手にそういう欲を自分の中で大切にするのは「自分が自分である」という実感には有用だろう。
しかし僕の(現在使用している人格の)場合、潔癖症が甚だしいので、それらの自己同一性の源泉たる欲を持つことが上手にできない。
たとえば「イキモノは殺しちゃいかん!」という人も食事はしているはずだけれど、まさか光合成をするはずもなく、鉱物を囓って空腹を満たせるはずもない。
植物だって生きている、と考えれば、立派な殺しを誰もがしているわけで、そういう意味で「世界よ人よ、かくあれかし」と声高に訴える正義の声の根底にある潔癖たる精神について疑問符が付くことになる。
少なくとも僕は僕自身に対してそのように思っている。
スポーツや勉学や事業で成功するのは結構なことだけれど、その人が成功したために、そのステージに上がろうとしていた他の誰かが蹴落とされていないと、一体誰に言い切れるだろう。
もちろん「そんなことを考えていたら何もできなくなってしまう」というのは一つの正解だ。
やれベジタリアンだヴィーガンだフルーティストだと「人間らしい」倫理(といって倫理は必ず人間らしいのだが)をその潔癖症のままに突き詰めてゆけば、その理想(ファンタジィ)は滅びることになる。
我々はどうしようもなく生命体であり、どうしようもなく動物なのであって、その高潔な思想も精神も、血や肉や排泄物なしには構築されることがない。
どんなに綺麗事を並べても、どんな理想を持っていても、どんな崇高なありように価値を見出していても。
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そのように考えると矛盾しない潔癖を貫くことなど不可能で、自身にであれ他者にであれ「かくあれかし」などともっともらしい正義や道徳を吹聴することさえ白々しく、さらにいえば邪悪なありようだとさえ感じてしまって、私は自身の抱える潔癖症を眠らせたのだったか。
世俗に溢れるエセ潔癖症とはつまるところ「他者の不正は許さないが、自分の不正は有耶無耶にする」という点で共通しており、そういう意味では政治家も、それを批判する人も、さして変わらないと思うこともある。
久しぶりにWebニュースなど見たら、選挙の際SNSなどによる情報操作によって人を煽動し、それについてお金を使っていたことが不法に当たるかもしれない政治家(あれはどこかの知事だったか)の情報があったが、宗教団体とお金を使って票を稼ぐことで政府の中核であり続けていた政党のありようが不問なままなのは不思議といえば不思議である。
もちろん「だから何をしたって無駄だ」などと不貞腐れることもない。
慎ましい欲しか持たず、聖人君子として誰もが生きられるはずはない。
だからこそ僕だって禽獣(「男は殺せ! 女は犯せ!」でおなじみの丘海賊、あるいは猫)として生きることに決しているわけだから。
汚れや不正や不倫(男女間のことではなく、広く道徳において道ならぬこと)をあげつらう潔癖な思想に対して、不全で愚鈍で悪いものだと指摘するつもりはないが、所詮大腸菌と共生している我々哺乳類がどれほどの潔白を語ったところで、その潔白を実践したら死んでしまう個体の方が多いという事実を無視して騒ぐ様は、子供が駄々をこねているのと変わらないように思う。
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欲があればこそ人は集団を作り、社会や文化は発展してきた。
文明も技術も、エロと戦争が先導するとか何とか聞いたこともある。
たしかに他者に対して無邪気な信頼を寄せるにはむつかしい時代になったのかもしれない、と時々思う。
あるいはこれは私が百年も生きているからそうなのだろうか。
それともこれは私の潔癖がそのまま自身のありように影響しているのか。
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17歳のとき、初めてできた恋人と(まだ身体も重ねぬうちだったと思うが)「私はあなたとずっと一緒にいることはできない」と言い放ち、めちゃくちゃ怒られたか泣かれたかしたような記憶がある。
当時の僕はすでに自分がかなり早い段階で病死するか、貧乏で野垂れ死ぬか、自殺することを予測(あるいは計画)していたので「最低でも死別するから、ずっとは無理」と言い続けた。
恋に恋してもおかしくない十代が、よりにもよって最初の恋愛からそのような物言いをしていたのだからひどい話であるとは思う。
ことほど左様、頑固で嫌味な性格だったのだろう。
定見を持たないようにと心掛けるようになったのは、そうした思考の根底にも潔癖症が見え隠れしていたからだ。
その場かぎりの甘言で耳朶をくすぐったところで、恋愛感情を持つ程度にまともな大人なら、言質を取ってその真偽を突きつけるような真似はすまい。
そのような意味で僕はたいそう幼稚なイキモノであったし、その幼稚さを脱却するためにはとりあえず嘘を重ねようと思ったのだったか。
意外に思う人も居るかもしれないが、子供の方が本来的に潔癖症である。
意外に思う人も居るかもしれないが、子供の方が本来的に潔癖症である。
社会人にもなると、嫌なことをしてお金を稼ぐ(事が多い)以上、多少のことには目をつむることになる。
職場内のセクハラやパワハラに反旗を翻すだけの時間的/経済的/精神的/肉体的余裕を持たない職場や個々人の状況があった場合、それらの不道徳は「致し方なし」と黙認される。
たとえば納期が目前に迫っている状況で、上長や公的機関にそれらの不正を訴えるヒマなどないだろう。
大人ならばそうしていろいろなものを天秤に掛けて、ときに目をつむる。
何が正しいかなど分かっているだろうに、徒党を組んでいると見えなくなることがある。
子供はそうした柵(しがらみ)も少なく、自身の持つリソースを認識する余裕もない。ためにシンプルな正義や倫理に身を任せていられる。
その無邪気さは時に煩わしく映るかもしれないが、そうした理想をきちんと抱え続けられるなら、それはひとつの資質である。
たいていの場合、子供も家族や友人といった人間関係の中で秤に掛けることを覚え、つまりは徒党を組む中で、無邪気さを邪気に汚してしまうからだ。
しかし嘘というのは重ねれば重ねるほど、どれが真でどれが嘘だか分からなくなる。
誰だって、口先では良いことを並べることができるし「そのときはそう思った」という都合の良い言い訳も可能だ。
立候補したときは崇高な使命に燃えていた政治家だっていた(いる)だろうと思うし、入学初日から「カモを見つけてイジメてやるぜ」と息巻く子供はいなかろう。
良かれと思っていたはずなのに、気が付いたらおかしなことになってしまったり、あるいは変な欲やエゴが出てしまったり、一度言い出したことを変えられないこともある。
僕も大人になるにつれ、嘘を重ねたり、あるいは真を説明しようと努力するたび、何も伝わらないことに絶望さえした。
他人が求めているのは結局のところ、真摯に開示した私自身の葛藤などではなく、自身の思い描いた欲(理想)に少しでも沿うような甘言なのではないかと。
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結果的に、自分が何を感じて何を考え、何を欲して何を求めているのか、正直なところ、僕にはよく分からない。
自身の言動を観察して「どうやら自分はこう感じている(こう考えている)らしい」と思うしかない。
なんといっても男は殺すし女は犯すのである。
弱者をなぶって遊び、ついでに空腹なら喰いもする。それがネコ科のイキモノの正体である。
それを厭わしく思っていたら、遊ぶことも食べることもできなくなってしまう。
おそらく厭わしいのだろう。
だから食欲について、どこかの回路が焼き切れたかのように、何も感じないときがある。
時間を確認し、あるいは身体の状態を観察し「さてそろそろ食事をしなくては」だの「そろそろ運動をしなくては」だのと、イキモノとしてのガワを保つために、やれ排泄だ射精だ入浴だと世話することになる。
生きることがイヤだとか、死ぬことが望ましいといった、人間らしい思想の末ではなく、単に肉体感覚として、己の肉体やその維持が煩わしく厭わしいのである。
それでもまぁ、百歳まで生きたのだから十分なのだろうとは思うのだが。
これはこれでこの人格を運用するにあたって、やむを得ないこと。
みだりに否定することもよろしくないし、無理に押さえ付ければ暴れるので仕方ない。
これはこれ。私は私。身体は身体。
そのように分けて考えるうち、潔癖症の自分とも、嘘ばかりの自分とも、仲良くなれるようにはなったが。
観察しているその対象であるところの、この「私」とやらは、いったいいつも何を考えているのやら。
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空腹さえ満足に感じないことが続いたりするときは何かしら遠因があったりするものだろうとあれこれ思いを巡らせたものの、果たして秋らしい秋がないまま唐突に冬が訪れたことで気持ちの整理が付かないのかと悩んだりもしたが、そんなものは悩んだところで詮無いことである。
世は流れ、人は思い思いのカタチを己によって描く。
己の中のファンタジィを、自分というインタフェイスを通じて、この世界に、他人に、あるいはあなたに私に擦りつける。
正直に言ってしまえば、そんな不潔なものはすべて消えてしまえ、と思う。
しかしそれは私の中の理想論であり、ファンタジィであり、そしてまた、決して具現してはいけない類いの望みである。
私は多分、この世界が大嫌いだし、それは多分、この世界が大好きで、ために甘えているからだろう。
かくあれかしと望み、それが叶わないから、聞き分けない子供のように手足をバタつかせて駄々をこねているのである。
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[NEXUS]
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-Camouflage-Human-Memory-
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[Cat-Ego-Lies]
:夢見の猫の額の奥に:
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