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TITLE:
それは障害か特性か。
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〜 Realistic realign. 〜
Written by BlueCat

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241031
 
 子供の頃から、制御の困難(不可能とは言っていない)な自身の気分の浮き沈みと付き合っている。
 最初は外的な要因かと思っていたのだが、僕を含む周囲にいいことがあっても悪いことがあっても、それとは関係なく浮き沈みがある。
 内的な要因かと思い、たとえば精神状態の維持に影響する栄養素(ビタミンCやB、E、カルシウム。そしてカフェイン)に気を使うと、多少の改善はあった。
 
 以前、姉に「猫くんのことは、昔から双極性障害っぽく思っていたよ」と言われたのだが、しかし当然ながら僕はそれを頑として認めないのではある。
 理由は単純である。
 まず姉は精神科医ではない。次に、僕は自身やそれを含む環境に対して不適合性や抵抗(ストレス)を感じることはあっても、持続不可能な状況や認識には至っていないから、である。
 
 仮に僕が双極性障害であったとしても、躁状態で交差点の真ん中で踊り始めて交通を乱したり、周囲の人を困惑させて社会の規範を乱したりということはない。
 道行くロングヘア眼鏡ガールに声を掛けてそのついでに誘拐したり、道行くボーイを意味なく殺傷したりもしない。
 落ち込みついでにオーバードーズなんかしないし、それ以外の自傷行為も自殺もしたことはない。
 
 ちょっと買い物に出掛けて商品を相手に独りごちたり、ゲーム内で異常行動をとって高笑いすることはあるが所詮はその程度であり、これは僕の認識上「僕自身やそれを含む現実世界の環境に対して、持続不可能な状況を形成して」いない。
 自殺や無差別殺人を行ったり、一般道徳に反するようなことを(万一しようと思ったとしても)現実にしない限り、僕の社会適合性は最低限維持され、環境と自身の存在は持続しうると認識される。
 
 大事なことは「最低限の維持」であり「現実世界に具現するかどうか」である。
 今のところ僕は自殺も他殺も(それ以外の反社会的な行為も)していない。
「男は殺せ! 女は犯せ!」と書くことはあるが、そんなことはしたいとも思わないし、仮に思ってもしたことはないから、今後もしないだろう。
 
 そもそもそうした極端な発想をするのも、自身の「ブレ」が大きいからだろうとは想像する。
 しかしそれが悪いとも思ったことはない。
 意味もなく落ち込んだり、意味もなくハイになる人の気持ちが僕には分かる。
 
 同じように犯罪を犯したり自殺をする人の衝動が、自分なりにだが、多少は分かることもある。
 そしてそれが分かることは、分からないことよりよいことだと僕自身には評価されている。
 分かって、分析して、評価して、悪いことなら実行せず、よいことなら具現すればそれで評価される。
 
 そういう基準で生きてきた。たぶん誰もがそうだと思っている。
 つまり当たり前のことを当たり前にしているだけで、観察の範囲では僕の場合、いちいち意識のテーブルにきちんと載せて自覚的に処理することが他の人に比べて多くて細かい、というだけだ。
 
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【障害とは何か】
 
 僕の姉は諸般の事情で障害者である。
 精神(あるいは心身)的にもパニック障害やら双極性障害があり、身体的には循環器の指定難病による障害で呼吸(酸素の吸収)が困難だったり、外科的な後遺症で歩行が困難だったりする。
 ではそれらについて、僕が過剰に気遣いしているかというと、そんなことはない。まったく普通に接している。
 
 気を付けているのは一緒にいる期間(自宅を出るとき)から煙草を吸ったりしないこと、通院等の介助までのあいだに(僕が)風邪を引かないこと、くらいである。
 呼吸器や循環器の疾患なので、姉は風邪を引くと治りにくいし重篤化する。(当人は以前は喫煙者だったが)煙草の煙などもってのほかである。
 現在は非喫煙者なので匂いも好かないだろうと思い、ために家を出る前から喫煙しない。持ち歩きもしない。
 
 けれどもこれは姉が障害者だからしているのか、と考えるとそんなことはない。姉が僕の姉だから、というだけである。
 姉が障害者であるために僕がしているのは、通院や諸用の際に出向いて送迎したり、安全確保をしたりといった、その程度である。
 
 しかしこれって障害者だからしているのかというと、これまた厳密には違う。
 困っている人がいて、その人の求めていることを提供できるから、それを提供しているだけである。
 道に迷っている人に道順を教えたり、お腹が空いている人にごはんをご馳走するのとさほど変わらない。
 
 相手ができないことを、自分が提供できる範囲で提供する、それだけである。
 人間の持つ単純な社会性をできるだけ善良に発露するという、それだけのことでしかない。
 
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【車椅子を使うのは障害か】
 
 たとえば脚の機能に障害を抱えていて、車椅子を使用している人がいるとする。
 一般に、彼ら彼女たちを人は障害者と呼ぶ(この定義は厳密には違うものの重要ではないので読み飛ばしてほしい)が、僕はそのように認識していない。
 彼ら彼女たち車椅子利用者にとって「階段やエスカレータが障害になるな」という認識をする。
 
 人間社会ではごくありふれた装置だが、階段というのはそもそもが人工物である。
 自然界にはゴツゴツした岩場などもあるが、段差は基本的にスロープ(傾斜)になる。
 傾斜の形状(傾斜の軸)が複雑だったり、地盤が安定しなかったりするため、それらを二足歩行で歩きやすくするために作られた土木的装置が階段だという認識だ。
 そして二足歩行者というマジョリティ(多数派)にとって都合よく作られた人工物はしかし、装輪歩行者にとっての障害になる。
 
 二足歩行者にとってその段差を「通過できないこと」は、果たして障害だろうか。それとも単なる不便だろうか。
 通過できないこと(行為の不全)が異常な障害だとすれば、その不全を抱える人は障害者と認識されるかもしれない。
 けれどもその段差が自身の身長ほどにもなれば、脚だけでは越えられなくなる。もっと高くなれば跳んでも跳ねても届かなくなる(同じ漢字で面倒だね)。
 
 それを通過できないことは不便だろうか、障害だろうか。
 どの程度の高さから、その「障害」は起こるだろう。
 そして障害者というのはどこに、いつから、どの高さから存在するのだろう。
 
 だから僕はそれ(階段を通過できないこと)を単なる「不便」と認識する。
 自動車走行中に工事現場があって、重機がいたり、路面に大穴が空いていたりすると、自動車は走行不能になる。
 ではそうした路面の存在や走行の不全性における障害によって、自動車が「障害車」になるのか、ということ。
 
 重機などの作業車からすれば一般車両は「障害(と呼ぶべき不全をもつ)車」かもしれないが、一般車両に乗っている我々は多数派であるため、相手を邪魔な障害だと思うことはあっても自身の車両の能力が至っていないとは思いもしないだろう。
 
 僕はそのように考えて、車椅子に乗っている人を障害者として認識し、腫れ物に触るような気遣いはしない。
 車椅子に乗っている人にとっての障害は何かな、と観察して、気付いたことや可能な手伝いがあればするだけである。
 公共施設なら、必要なスタッフを探して声を掛けるだけでも簡単な手伝いになる。
 
 隻腕ならどうかな、とか、隻眼だとどうかな、とか、知能レベルが環境に合わない人なら(その人にとって)何が障害かな、と考える。
 するとハードルは低くなる。少なくとも僕はそう感じる。
 その人の目線での不便を一緒に感じて感覚して、予測して自分に可能な対応があればそれをしよう、というだけである。
 
 スーパーの駐車場で、自動車から店舗内にショッピングカートを戻す人にとっては、そのカートがある種の負担であり障害である。
 だから車から降りて店舗に向かう私は声を掛けてカートをもらう。
 私も幸せ。あなたも幸せ。みんな幸せ。その程度のことでしかない。
 
 五体不満足でも不倫をした有名人がいたように思うが、つまり障害者と人々が呼んでいる人も普通の人であり、要は普通の人でしかない。
 ところで眼鏡というのは視力不全という機能障害を補う人工装具であり、車椅子や松葉杖と変わらない。多数派であるため機能障害を持っている(つまり障害者である)自覚を持つ人は少ないだろう。
 さて車椅子を使う人は障害者だろうか。それとも機能補助装具を使っているただの人だろうか
 
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【持続の困難な状況】
 
 各種障害のうち、重篤なものも存在する。
 たとえば僕の姉は酸素吸入器がないと呼吸困難で死ぬ。
 具体的には長時間、酸素吸入器による酸素の(我々からすれば過剰な)供給がない場合、呼吸ができる(している)のに血中酸素が低下して気絶し、それを放置すると死ぬ。
 
 知的障害だろうと何だろうと、本人の持つ性質や機能によって自身の存続を困難な状況にしたり、環境に不可逆な(あるいは回復に過度のリソースを要する)損害を与える場合、その存在そのものが自身や社会にとっての「障害」になる。
 たとえば通り魔殺人犯や強盗犯は、社会にとっての障害である。
 
 双極性障害を抱えていて、抑鬱状態になると身体が動かなくなる、という人を知っているが、その人にとってその「身体麻痺」という症状は、自身の平常どおりの活動を妨げ、自身の予測可能な定常的活動を困難にするものと想像する。
 抑鬱で自殺をする人や自殺未遂を繰り返す人、躁状態で過度の逸脱行為(買い物や飲酒や食事やセックスなど)をする場合も同様に、自身の定常的活動の持続を困難にする。
 知的障害者も自身や(他者を含む)環境に過剰な損害を与える場合、自身やそれを含む環境の持続を不可能(あるいは高度に困難)にする。
 
 社会的な「障害」となれば最悪の場合、そのコミューンから排除することが適当になる。
 ちょっとむつかしく言い回しているが、とても怖いことを言っている。
 人権とか関係なく「環境に害を与える障害者は社会にとって無益なばかりか損害しかないので、排除(つまり殺)した方が社会の維持の上では適切だ」と書いた。
 
 もちろん僕がそう思っているわけではないし、そうあるべきとも思わない。
 しかし環境の持続性を考える場合、あるいは社会の公益を考える場合、有益でない個体は不要だと考えるのが自然だ。
 もちろん人権のような(これまた人工的な)概念があり、その概念と環境最適化論との衝突は不可避になるが。
 
 繰り返すが、どうあるべきだ、という話ではない。
 持続が困難な状況は、何を論じていても現実世界に存在しうるし、実際すでに存在しているだろう。
 その「持続困難な状況が発生した、あるいは発生しうる場合、一体誰が、どのように対処するのが最適か」について責任を持つ人間は誰か、ということであり現行の社会はその責任問題を有耶無耶にしている。
 
 これはシンプルに人権という理想と、持続困難な状況という現実の齟齬によるものだ。
 何度も書くが、かくあれかしという解決策は僕にも分からないし、提示のしようがない。
 各人、とくに直接そういった状況に直面する(している/しうる)人たちが、そのつど考えるしかない。
 あるいは人類が、社会が、存続する限り考え続ける必要のあることだろう。
 
 また自分自身の定常的な活動の持続が困難な場合も、その扱いはむつかしい。
 
 先の身体麻痺まで起こしてしまう双極性障害を抱える人は、自身の先行きについて自暴自棄ともいえるような認識をしている。
 実際には最終的に、生活保護や障害者年金などの制度による救済措置もあるとは思う(僕もさほど詳しくはない)が、そもそも健常者の介助なしにそれを行うことが容易かどうかについては分からない。
 
 あるいは抑鬱で自殺する人や自殺未遂をする人も、本人にとってはそれでよいかもしれないが周囲に相当な(心理的/経済的/時間的)損害を与える。
(僕が自殺を(仮にしたくても)未だにしていないのは、そういう演算処理をする価値観が抜けないため)
 
 自身や環境の持続を困難にするレベルの性質を抱えている場合、それは社会の問題になる。
 社会のリソースを最優先に考えれば、優生思想的に社会から抹消することも考えるだろうが、人権という概念が邪魔をする。
 現状は「自己責任」という逃げ口上を使って放置しているようにも見える。
 理屈の衝突に触れていないから矛盾はしないが、問題そのものを直視していないようにさえ思える。
 
 完全福祉社会というのは理想ではあるが、そもそも「今後は社会貢献をすることもない人」を社会が(つまりはそこに属する私やあなたが)どのように取り扱うかは、理想とリソースとのせめぎ合いによって決定される。
 
 誰もが最後は自身の存在の持続性を維持できなくなる。
 肉体的なそれが先の人もいるし、知的レベルのそれが先の人もいる。
 一般的な障害者という認識をするなら、老人は等しくある種の障害者だといえるだろう。
 
 それは不便だろうか、それとも障害だろうか。
 そしてそもそも誰にとっての?
 
<猫です。猫です私は猫です。人間社会の観察者です>
 
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【私は障害者か】
 
 仮に僕が双極性障害という「特性」を肉体組成的にであれ知性回路的にであれ形成していたとしても、それが僕自身やその環境の持続性を阻害しない範囲において、医者に掛かる必要もなければ投薬なども必要としないと僕が考えるのはそういう理由である。
 
 HSPなどもそうだが「名前がついて安心した」とか「社会的に認知されてホッとした」という人の見解も個人的には理解不能である。
 名前があるより以前から、特性は特性で存在し、認知されようとされなかろうとその特性はある人にはあるもので、ない人にはなく、(自身がその特性を持っているかに関係なく)理解できる人にはできて、できない人にはできない。
 性的マイノリティも同様、肉体組成的あるいは知的回路的に形成された特性であり一種の病気(マジョリティではないし本質的な生物学的特性にも反する異常な状態)だと思っている。
 
 異常だから、病気だから、だから障害なのだとか、だから悪い、排除しよう、ということを言っているのではない。
(僕だって自身の性自認や種族自認については思うところがある)
 そういう特性(個性)、症状をどのように自身が取り扱い、社会が取り扱うかを、一意的に、短絡に決めるものではない、ということが言いたいのだ。
 
 名前がついても、社会的に認知されても、周囲の人が理解しても、症状は症状で、特性は特性で、正常な状態から離れた極端な少数派であれば、それは病気である。
 身体的あるいは知的免疫反応で予後が改善するならよいし、あるいは改善しないとしても、それを自身の特性として大切にして生きていっても(自身と環境の持続性を阻害しない範囲なら)問題はない。
 
 僕自身は双極性障害かもしれないしそうでないかもしれないが、正直僕自身にとってもどうでもいい問題だし、社会や周囲の人間にとってもどうだっていいことだろう。
 なにより僕自身この特性とずっと付き合ってきて、モニタもきちんとできるし対処も心得ている。
 
 最近の社会は、金と権利の話ばかりしている(人権とやらも権利である)。
 社会がそうだから個々人が、つまり私やあなたがそれに振り回されて、同じように考えてしまいそうになる。
 けれど思い出して欲しい。どちらも人間の生み出したヴァーチャルなのだ。
(もちろんそれがヴァーチャルでないと信じる人が多数派だからそれは現実なのだが ── それを言ったら宗教も同じである)
 
 ただもう少し地に足の着いた、より人間らしい文化の方向に向かえばいいな、と思ったりする百歳(四捨五入)の秋である。
 
 
 
 
 
 
 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
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[Engineer]
  :黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Interface-Life-Link-Stand_Alone-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Human-Koban-Tool-
 
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[Cat-Ego-Lies]
  :暗闇エトランジェ:
:いのちあるものたち:
:夢見の猫の額の奥に:
 
 
 
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