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TITLE:
むつかしいことはよぐわがんにゃいッすよ。
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〜 The fool.〜
Written by BlueCat

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「オレ馬鹿だからむつかしいことよくわかんねえけどよぉ」という生き方や考え方に、少し憧れる。
 
 僕はどちらかというと、周囲からインテリっぽい、というのか、偏屈っぽい、というのか、何事にも一家言あるかのように思われがちである。
 そしてじつに、何事にも自分なりに考えた判断基準があり、それに基づいてさらに考察し、行動を決定していることもある。
 
 世俗ではことさら、そうしたありようについて褒めそやす傾向が強い。
 物事の本質を突くような芸能人の発言などを取り上げる仕組みも増えたし、SNSなどを利用している人の発言や着眼点が、不特定多数の人から評価されることもあるようだ。
 しかしなぜそれがわざわざ取り上げられるかといえば、結局その「当たり前のこと」が曲解されてしまったりした結果、ちょっとおかしなことが「普通」や「常識」になっている側面があるからだろう。
 
 いちいち人々が言っていることややっていることを、自分なりに再考したり、検証したりしようというのは、度を超せば異様に思えるだろう。
 政治を知るために大統領になる必要はない、という言葉もあったと思うが、恋愛感情を含めた人間の機微についてより深く知るために、風紀に欠けた異性関係を構築しようと目論んでモテになろうとしたりするのは、いささかやり過ぎである。
 実際にしてしまった今だから言えるが、してみないと分からないことは確かにあった一方、人を傷付けるような部分もあった。
 価値観の相違は言動の食い違いに発展するため、一般の風紀の範囲に、自身のモラルを置いておけば良かったかもしれないと、後悔でもなく反省する部分はある。
 
 実行に移さないで済むなら、そういう状況や原理について、あれこれ考えることは少なくとも役に立つ場面もある。
 もちろん他人のことについてあれこれ詮索したり、邪推したりするようでは本末転倒になってしまう。
 疑心暗鬼という言葉にもあるように、その恐れや怯えは弱さであり、その弱さはたとえ自身を守ることがあるにしても、他の誰かを守ることはできない。
 
 堂々として、しかし他者を萎縮させたりしないように気遣う優しさが、つまりは人の芯の強さの発露だろうと思える。
 
 そう考えると、みだりに自身の見識を振りかざす ── 言い換えると見せびらかすような真似は、あまり褒められるものではないように思えるのだ。
 もちろん自身に見せびらかそうという気がなくても、芸能人のようにそうした言動を求められて抜擢される場面もあるだろうし、SNSのように他の誰かの目に留まってしまうことはある。
 幸い僕は芸能人でも政治家でもないので注目を浴びないし、SNSも使わないのでほとんど誰の目に留まることもない。
 
 それでも自身の納得した価値観に基づいて行動していて、それがときどき一般常識に対する不協和音のようにズレを生み出すこともあるように思う。
 
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 たとえば僕は買い物に出掛けると、慇懃無礼と言われるくらい、店のスタッフの人との対応や挨拶を丁寧にしてしまう。
 まぁせいぜいが、お願いするときに「恐れ入ります」と声を掛けたり、会計を済ませて「ありがとうございます」と言ったり、という程度のことなのだが。
 
 スタッフだけでなく他の客に対しても同様で、スーパーに出掛けて店内に入ろうとするとき、買い物を終えて駐車場からショッピングカートを店内に戻そうとしている他の客を見かけると「それ、ください」と声を掛ける。
 店内で商品を見ている他の客と自分の動線が重なる可能性を感じると「後ろ(前)を失礼します」と声を掛ける。
 個人のお店や開業医の建物に入るときも、黙って入るのは(たとえパブリックスペースだとしても、オーナーの占有エリアなので)気が引けてしまって「お邪魔します」とか「失礼します」と誰にともなく挨拶してしまう。
 
 無言でいることに抵抗のない人は非常に多いようで、皆カートの利用は自己責任で(安い店の客層の場合、適当に放置する人もいる)、しかし黙って他人の領域に踏み込んで、黙って買い物をして、自分の買い物カゴやカートが誰かにぶつかっても気付かない(あるいはシンプルに無視する)人までいる。
 
 彼ら彼女たちからすれば僕の方が非効率で非常識だろうし、僕からすれば彼らは古い農家集落よろしく「玄関が空いていたから入ってきたよ」と隣家の寝室にも乱入するような、無礼で粗野な田舎者に思える。
 何が正しいという話ではない。それぞれが、それぞれの正しさを持って、それに従い生きている、というだけである。
 
 そうしたありようについてあれこれ考えてしまう僕の性質は、ある意味では思慮深いのかもしれないが、見ようによっては鼻につくほど気取っていて、小賢しいだろう。
 実際問題、気取っているという自覚はある。
 自宅の玄関を出たらその先は、自分のルールが通用しない場所であるから、誰かに失礼のないようにと気遣いをしないわけにはいかないのだ。
 
 僕の場合はことさら、親からたいした躾をされたわけでもないし、学業を修めるために高名な学校を卒業したわけでもないし、会社員のような集団生活にも適合しなかったし、ともに暮らす家族がいるわけでもない。
 ついでに飼い猫に逃げられたりしているし、恋人にフラれたり、年単位で音信不通だったりする ── それで忘れた頃になって唐突に「一緒にお風呂に入ろうよ〜」と誘われたりもするのだが。
 
 だから社会の常識や通念というものがいまいち分からず、無礼なことのないように、誰かを萎縮させたりしないように、できるなら誰かの役に立てるようにと心掛けているのではある。
 
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 村上春樹さんの著作「ノルウェーの森」だったと思うが、登場人物の女の子(ミドリという名の大学生)が「好きな人と暮らして、その人に抱かれて、子供を作って、そうして幸せに暮らすの」と語っていたシーンがあったと思う(なかったかもしれない)。
 それでよかった当時のことについて思いを馳せたりする。
 
「それでよかった当時」というのが、しかしいつのことなのか僕は知らないのだが、いつの間にか男も女も小賢しくなった。大人も子供も小賢しくなった。
 小賢しいと自覚している僕が言うのも変な話だが、みんな利口そうなカオをして、風紀正しいような面構えで「ウンチもセックスもしません」みたいな微笑みを浮かべて、カフェのランチについて語っていたりする。
 個人的な考え(そもそも誰であろうと考えることそのものが個人的)だが、食べることは排泄やセックスと同じように、非常に動物的なことである。
 心地よく幸せなセックスと、快適で爽快な排泄と、見た目にも美しくて味わい深い食事というのを、いちいち区別して「これはいい」「これはよくない」と分ける価値観が僕には不気味に映る。
 
 つまり己を含めた人間の持つ獣性について、見栄えの良し悪しや、建前の良し悪しだけで語っていて、その本質をろくに考えもしないためだ。
 世俗の性教育問題(子供が異性側の公衆浴場に何歳まで入れるか問題など)も同様で、大人が(しっかり子供を作っているのに)建前でしかものを考えず語れないから、子供も本質について分からず歪められた現実に引きずられるのではないかと思ってしまうことがある。
 あるいは母親が男児の性的な言動に戸惑うとき、父親は一体何をしているのかとも思う。
 
 僕個人についていえば人間(ことに大人)の生理現象について、自身を含む男たちのそれより先に女たちのそれをよく見聞きする機会が多かったため、生理用品や月経などについても8歳の頃にはある程度理解していたし、飼い猫が目の前で出産した9歳の頃には破水や胎盤といった言葉や現象もすでに理解していた。
 ために(我が子はシュレディンガーの仔猫(存在不定な隠し子)以外にいないため)たとえば姪にセックスの良さや、その良さにともなって発生しうる諸々の良くない問題について説明する必要があったとしても(矛盾を好む性質の)僕は困らない(説明する機会はないが)。
 もしかしたら僕の方が特殊なのだろうということは理解できるが、大人になっても一意的で視野が狭いのはどうなのか……と、こんなふうに余計なことまで考えてしまうのが小賢しいのだとつくづく思ってしまうが。
 
 もちろん時代は変わり、バブル期前後からは無能な男に使われることに耐えかねた有能な女たちが(いわゆるフェミニズム的な運動も後押しして)経済活動にも進出し、男たちと肩を並べて小賢しいことを論ぜられるようにもなった。
 さらに時代も技術も進んだが、じつのところ、人間は進化したわけではない。
 結局、同族殺しや近親相姦や隣人への陵辱/略奪も気にしなかったであろう原始人と同じようなハードウェアを使って、ソフトウェアだけ更新して「人間ですものオホホホホ」としているのである。
 
 もちろん猫も杓子も知性化することが悪いわけではない。
 しかし有象無象の小賢しさをかき集めたところで、それだけで集合知として新しい常識を作るには至らない。
 結局、力が強ければそれに逆らえないという点でいえば、それが腕力から経済力や集団圧力に変わっただけで、暴虐に振るわれればシンプルな暴力になるのは変わらない。
 暴虐さを自制する能力は、禽獣の頃とさほど変わっていない部分もあるように思えるのだ。
 
 そうなるとヒッピーよろしく人間的な幸福の原点回帰をして「ノルウェーの森」よろしく「ただ好きな人と一緒にいて、美味しいと思えるごはんを食べて、気持ち良くセックスをして、子供と笑って過ごせれば良い、むつかしいことは分からないし分かりたくもない」という幸せを単純に求められる方が、たとえ小賢しさなど持つことさえ避けてしまってもそれはそれで幸せなことだし、そういう(ある種の白痴じみた)幸福も、あるいは無駄に小賢しく飾り立てた幸福も選択できる社会であってよいように思う。
 
 個々人がそれぞれに考えを深め、譲れない(ときに相容れない)価値観を持って生きることは悪いことではないが、一家言持っていればそれが幸せかというとそうでもないように思えるのだ。
 そんなものは持っていませんイヌネコよろしく喰って寝て交尾してるだけだけど、なるべく余計なことに悩まないようにして、誰かを傷付けたり蔑んだり奪ったりしないように気を付けてるので幸せです、というのでもよいのではないかと思うのだ、男も女も(「というのでも」であって「というのだけが」ではない)。
 
 
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 これまでの観察の範囲では、そうした愚かな層 ── あえて「愚かな」と書くが、思慮を過剰に深めず、小賢しいありようを小賢しいと言える素直さは大事だと思うし、そうして思慮の深さを適度に制御しようとすることが本当に「愚か」かどうかは僕のような小賢しい人間には断言できない気がしている ── が、文字通り愚かなままに小賢しい真似をしようとするとロクな事がない。
 
 たとえば死んだ叔母(といってほぼ全員死んだが)や、かつていたタチの悪い恋人のように、思慮が浅い人間はどこまでいっても自身の感覚や常識から抜けることがない。
 そういう連中は知ったようなふうに常識を語るのだが、それは「その人自身が常識だと思い込んでいるもの」に過ぎない。それを常識と他人に押し付けることの暴力を理解しない。
 
 だからそういう浅慮の人間は、浅慮のままに他者を支配しようとしてしまう。
「だってこれが常識なんだから常識なんだもん」という馬鹿の理論に立ち向かうのは容易なことではない。
 だから税金を払えないときはとりあえず相談に行くしかないのだ(唐突な私情を挟んだことについてこの場を借りてお詫び申し上げます)。
 
 DVもレイプも同様である。
 人の皮をかぶった畜生ふぜいが人がましいカオをして、どす黒い欲を捏ねた上ありがたい理屈やきらびやかな装飾でコーティングして作った「常識」で他人を蹂躙するのは、シンプルで強力な暴力だ。
 ために愚かなありようを愚かでもよいと認めて、そういう幸せもあるとあらかじめ社会が提示するのは決して悪いことではないように思うのだ。
 
 今の社会は「小賢しい」ことを褒めそやしすぎてはいないだろうか。
 だから暴力も高度化し、知性化し、潜在的になってゆく。
 対抗するために、より小賢しくあるべきだろうか。原点回帰を考えるのは無意味だろうか。
 
 オレ馬鹿だからむつかしいことよくわかんねえけどよぉ、かあちゃんとシッポリやって家族が飢えなくて、他の誰かから何か盗んだり、意味なく殴ったりしなければそれでいいんじゃねえの。
 って、そういうふうに言えるような幸せもあっていいのにな。
 って、家族もいない(そしてそのことの幸せを存分に味わっている)ワタクシは、政治についてあれこれ知ったように小賢しく語る政治家やコメンテータ(プロアマ問わず)を眺めながら思ったりしました。
 
 あと税金の仕組みはホントむつかしいので勘弁してほしい。
 
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 姉の事務的諸用に出掛けた一日。
 どうやら最近、姉上は自己管理能力が低下しており、多少スケジュール管理の助力が必要かもしれない。面倒だ。
 
 
 
 
 
 
 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Engineering-Interface-Life-Mechanics-Recollect-Stand_Alone-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Camouflage-Human-Koban-Memory-
 
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[Cat-Ego-Lies]
  :いのちあるものたち:
:ひとになったゆめをみる:
 
 
 
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