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TITLE:
幸せをデザインする力。
SUBTITLE:
〜 Standalone designer. 〜
Written by BlueCat

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 先日TUと話していて、僕が長らくTUに連絡していないことを知る。
 じつに車のエンジンが爆発して助けを求めて以来なので、4年ほど僕からは連絡をしていない(今回も「近所に来たから」と彼から電話をしてきたのだ)。
 そのときでさえ互いに連絡が疎遠になって10年ほど経過していた。
「お前は用のあるときしか電話しないのか」とTUに問われ、答えて曰く「用もないのに電話するか普通」。

 畢竟、僕の周囲には「そういうありよう」を受容できる人だけが残っている。
 恋人も、僕から連絡がないと(何かの用が発生するまで)何年も連絡のない人がほとんどである。
 もはや齢も重ねているので勝手に死んでいるかもしれないが、それもそれでやむを得ないことである。何の問題があるだろう。

>>>

 例外もある。
 奥様(仮想)のモデルになった恋人は、どちらかというと「自分のことを求めてもらわないと不安になるタイプ」だったらしく、当初はずいぶん手を焼いたものだ。

 それなりの遠距離だったので、あまり呼びつけるのも忍びないと思っていたのだが、人間関係はときに効率などというものをさほど重視しない方がよいらしい(思えば海の向こうにも恋人はいたのだから、同じ関東圏内なら遠慮する必要はなかったのだろう)。
 それで些細な用を作っては、自宅に招くようにした。
 ちなみに付き合っていた10年ほどの間に一度も自宅に招かれることはなかったので、僕は彼女の自宅を知らないし、家族も知らない。そも知る必要があるだろうか。

 ちなみにこういう距離感や欲求の発露(のなさ)の一切合切が、一般的には少々奇異に映るようだ。
 けれど恋情が募っているからといって、大人が用もないのに電話するものだろうか。
 恋人を好きだからといって、家に招かれたいと思い、家族構成を知りたいと思うものだろうか ── いったい誰に、何の用があって恋愛しているの?
 とはいえ自分が昼寝やゲームに忙しい(ときがある)ように、相手も ── おそらくよほども重要性の高い ── 問題に対処している可能性はある。いつだって、あるのだ。

 人々は「寂しい」とか「退屈」という、些末な欲求のために他者に連絡を取るもののようだが、僕は子供の頃からそんなことをした試しがない。
 そもそも寂しさや退屈は自身の欲求であって、誰かにその解消を求めるのもずいぶん身勝手だと感じていたし、ましてその寂しさの原因が「相手が自身を求めてくれていないように感じている」などという稚拙さにあっては目も当てられない。
 そんなに寂しいなら勝手に連絡して勝手に来なさいよ、と思うのだ(TUのような適合者はそれができる。でもだけどだって女子にそんなこと言おうものなら号泣されるってアタシ知ってるんだから! 知ってるんだからね!)。

 それでいてカラダが目当てだと言うと嫌悪感をあらわにしたりする人も居るわけだから、すごい矛盾だよなぁ、と感じたりはしていましたね(遠い目)。
 どっちなの? 寂しいの寂しくないの? 求めて欲しいの? 欲しくないの? 身体が目当てなんですけど?

 まぁ、こういうのもあまり突き詰めると怒りだしたり泣き出す人がいるので、他人の前では何も考えずぼんやりすることに決したわけですが。
 
 とはいえその恋人については例外的に(きわめて例外的に)僕が些細な用を作るようになった。
 たとえば新しい料理のレシピを試すようになると(僕は一定期間、同じ料理を繰り返し作る習性があるので)「こういう料理を最近作っているのだ」といって、食事に誘うのだ。 
 言葉が悪いかもしれない(と書いておきながら自分ではまったく悪いとは思っていない)が「恋人を餌付けするのが好きらしい」と気付いたのはこのときである。
 
 いやなに友人や親族を、わざわざ「最近作るのが好きになっている料理」ごときのために呼び出すのはやはり気が引けるのだ。
 ひどい場合はその「料理」とやらも(最近なら)単なる目玉焼き(アーリオ・オーリオ目玉焼き)のことだってあるし、スパゲティーニ・アサシーナやポトフや焼きそばのこともある。
 実に大したものではないのだ。誰でも作れる、どこでも食べられる、大したことのないものなのだ(さらに二人分作るのに慣れておらず、よく失敗もした)。
 
 べつに「餌付けする」とは言っても「あーん、てして」などとはしない。
 そんなに幼稚な経験は僕自身、子供の頃にもなかったので、したいともされたいとも思ったことがない(仔猫には度々していたしな)。
 
 しかし自分が作りたいと思っている料理を振る舞い、一緒に食することは、存外嬉しいことであった。
 幸いその人は、僕に料理を振る舞うことが女子力アピールになる、などという馬鹿げた価値観に染まっている人ではなかったので(ときおり食器を洗ってくれた気がするが、それすら僕がいい顔をしなかったため)何もせず、ただ持てなされてくれるようになった(我が家で奥様(仮想)が家事をしないのはこれを継承しているため)。
 
 そういった諸々が、僕には実に(自身をして)我がままだなぁと感じることではあった。
 料理を作って食べさせたいというのは、なかなかどうして業が深い ── そして非常にエロティックだ ── と感じたためである。

 たとえば動物界には、異性に対して食糧を獲り与えることで己の能力をアピールするという種もある。
 それは己の能力を(実利とともに)端的に現す手法でもある。
 一方で、現実世界の日本の人間社会においては、大人が食事に困る機会などそうそうないだろう(僕は経験があるが)。

 その獣性はもちろんのこと、己の欲のために他者の存在を利用することも含めて考えれば、そうしたエゴの発露は少々、生臭いように感じてはいたのだ。
 無論、獣性が悪いとも思わない。
 たまたま「求められたい」という欲と「他者を必要とする」欲が噛み合ったなら僥倖、ということだろう。

 ために料理を作って食べさせることは非常に動物的であり、狩猟民族にあっては男が女に対してそれをすることが有意だったのだろうと想像する。
 もっとも現代はお金を払えば糧食(と呼ぶには華美な料理)も手に入るし、料理を退屈な作業と捉えて敬遠する向きも少なくはない。
 他の生き物を屠って自分以外の誰かに提供することの野蛮さとエロティシズムを、だから多くの人は知覚すらしていないのだろう。

「胃袋を掴めば男は落とせる」と言われていた世代の女たちが辛うじてその喜びを知っている可能性はあるが、この性別の逆転は日本が農耕民族の文化だからだろうと推察する。
(僕は肉食獣なので、屠って提供する側なのである)

 食欲と性欲をほぼ同等に僕が感覚すると書いたことがあるが、それはそういう理由である。
 ためにSNSで「近所のカフェで注文したランチ、これ可愛いくない?」と写真を投稿するガールと「あそこの風俗店の○○ちゃんのテクがすごくいいんだよ!」と熱弁するオッサンの違いが分からない。
 強いて言えば「下世話でかしましいですね」くらいのものか。

 するとTVプログラムにおけるグルメ番組はもちろん旅行情報誌のグルメツアーなど、下卑たジジイどもからバブル経済期の児童買春ツアーの語りを聞かされているようで心が荒む。
 皆で集まって料理を出させてその価格を当てる番組などに至っては、下世話で見ていられない。
 もちろん私の感性の方がどうかしている(少数派な)のだと理解はしているが、だからといって下劣な多数派に合わせる必要もあるまい。どうかしているというならお互い様である。

>>>

 TUも以前言及していたが、僕のコミュニケーションルールは一般のそれと異なるプロトコルになっている。
 僕は用がなければ連絡などしないし、その「用事」は基本「状況的にどうしてもその人でないと不可能」なケースも多い。
 孤独であることや寂しさについて肯定的に捉えているため、自分の感じている孤独や寂しい気持ちがなくなってしまうことが名残惜しい。
 だから独りでいても問題がない。

 多くの人は孤独や寂しさを否定的に捉えているようで、孤独ではない方がよい、寂しくない方がよいと(ゴキブリ退治のように)躍起になるようだ。
 それで都合のよい他人や、どうでもいい仲間を作って呼び出して、慰みものにするのだろう。
 いやなに僕がかつての恋人にしてきたことも変わらないのだろうが。
 
 都合のいい相手、というのが悪いとも思わない。
 誰もが皆、都合のいい他人を求めている。
 都合のいい親、都合のいい子供、都合のいい配偶者、都合のいい恋人、都合のいい友人、都合のいい上司や部下、都合のいい顧客 ── 。
 果たして都合の悪い他人より、都合がよいに越したことはないではないか。

 ために僕は相応に気を遣い「都合のいい誰か」を求める人に応じて演じる。
 飲食店ではたいそう行儀が良いし、(複数いるということを問題視する向きもあるが)恋人には献身的であるし、血縁の介護や相続税対策も嫌な顔をせず協力するし、友人に呼ばれれば引っ越しだろうが庭木の剪定だろうが粗大ゴミの片付けだろうが軽トラで馳せ参じる。
 
 だからといって他人に対して「僕にとって都合のいい人」を演じてほしいとは思っていない。
 なぜなら僕の求める「都合の良さ」に対する力不足が目に見えているからだ。
 そもそも「都合のいい人」というのは、求めるものではなく、演じ与えるものだ。
 
 ギブアンドテイクは成り立たない。
 求める者には与えられず、与える者が稀にその仕組みの神秘を垣間見る類いのものである。
 幸い僕には自己同一性が乏しく(観察の範囲では他者に比して)エゴも少ないので「相手にとって都合のいい自分」を演じることに苦痛を感じない。
 
 しかし他人の欲に従うことは負けたと思う人が多いようにも観察される。
 自身の欲が相手のそれに対立しているかどうかにかかわらず、である。
 おそらく反抗精神の表れなのだろうが、その道理は理解できない。
 
 真の反骨精神の具現者として呼び声も高い(と今、唐突に思い付いた)僕であるが、他人の欲を叶えることは楽しいことである。
 もちろん多少の背伸びが必要になること(遠方の恋人を食事に誘うことが僕にとってはそうだった)もあるかもしれないが、それも含めて経験ではないか。
 あるいは相手が満足することは自分が我慢をすることになる、という何かの条件反射が焼き付いているのかもしれないが、まさか駄犬でもあるまいし、その程度の価値観くらい自力で解析して修正しているのが大人だろう。
(よくよく考えるとアタマの悪い支配指向の人間は、どうもそういう駄犬じみた傾向が見られる。本当の支配というものを知らないのだ)
 
 そのようなわけで、僕は他人を必要としない。
 オブラートに包むと「自分のために都合良く道具遣いしたくない」ということになるし、有り体にいえば「使えない道具など呼びつけるのも馬鹿らしい」となる。
(このふたつはまったく同じことを言っている)
 
 僕の欲を満たすために他人は必要ないとも言えるし、僕の欲を満たせるほどの他人はいないとも言える。
 だからといって他人を嫌っているわけではなく、むしろ好ましく思っている。
 
 よって行儀良く真面目なんてできやしないにしても相手に都合良く振る舞うことはできるのだ。
 相手の求めるところを観察し、その望みを数ミリでも高い場所で満たせるようにと行動するのだ。
 一般の規範からすれば矛盾しているように思えるかもしれないが、僕からすると一般の人の方が矛盾を抱えているように思える。
 
>>>
 
「人間関係リセット症候群」なるものもあるらしい。
 気持ちはよく分かる。
 僕もそういうタイプであるからなおさらだ(実行したことがあるとは言っていない)。
 しかしどういうわけか実現させ(リセットし)てから後悔する向きもあるという。
 
 推察に過ぎないが、人間関係の摩擦や消耗に耐えかねて人間関係(要は単なる連絡手段)を消去したものの、今度は孤独の寂しさに耐えかねた、といったところか。
 輪をかけてキモチワルイのはこれに対してメディアを含めた多くの人間達が、それをあたたかく見守るというスタンスを取っていることだ。
 
 例えるなら「味噌汁の味を薄く感じたのでパッケージの味噌を全量溶いてみましたが、今度は塩からくて飲めません」と料理初心者が言っているようなもので、それに対していい大人までもが「そういうこともあるよね」と庇っており、誰一人として「適量があるんだから少しずつ入れればいいんだよ馬鹿じゃねーの」と指摘しないのである。
 なぁにが「そういうこともあるよね自分も経験あるから分かるよ」だ、何も分かってねーだろ知った顔していい人ぶるなよ(唐突な激昂についてこの場を借りてお詫び申し上げます)(ちなみに書きながら爆笑している人がいます)。
 
 早期リタイア(いわゆるFIRE)もそうだが、自分の目標を実現してから後悔する人間というのは一定数いるように見受ける。
 もちろん人間も猿より毛が三本ほど多いか少ないか程度の禽獣に過ぎないから、目算が合わないとか、理想と現実が違ったとか、そういうこともあるとは思う。
 メディアの取り上げ方の原因も(彼らが仕事として情報を媒介している以上)あるだろうし、世相が若年層に優しくなりつつあるのは良いことだと思っている。
 
 しかし問題は当人が何が問題でどのようなメカニズムによって発生しているかを理解していないことであり、解決策を誰も提示していないことである。
 味噌汁の話にしてしまったせいで、インテリヅラして解決策をひとつひとつ提示しながら説明し(猫様ステキ! 抱いて!)と言われる機会まで失った僕の立場はどうなるのだ。
 それ以前にいろいろ台無しだよ! 俺たち都会で大事な何かを失くしちまったよ! おまわりさ〜ん! ちょっとそこのおまわりさ〜ん!
 
 ……。
 
 まず第一に目標を達成する(まぁより端的に言うなら「欲を満たす」)とき、多数決的な演繹法によってその評価をしているという問題がある。
「人間関係が煩わしくなった → 関係なんてなければいいんだ → 全部消しちゃえ」というのは「人間関係の煩わしさを解消したい」という欲に対するきわめて雑なアプローチだ。
「幸せになりたい → リソースがたくさんあればいい → 生涯分の資産を作ればあとの時間は自由だ」というのも同様だ。
「味噌汁を美味しくしたい → 薄いから味噌を足そう → 全部入れれば美味しくなる」というのと同じくらい、すごく雑。アタシそういう雑な人、ヤだな(個人の感想です)。
 
 まぁ当人たちの認識能力の甘さが招いた結果としかいいようがないのだが、その認識の甘さというのが、他者や外界ではなく自身の欲に対してであるところが第二にして最大の問題だ。
 自身の幸せを(それなりに経験を積んだ自称「大人」が)明確にイメージできない、というのは実のところ現代社会の大きな問題といえるだろう。
(急にインテリぶりはじめるタイプの猫だよ! 話を膨らませてあとで収拾がつかなくなるパターンだよ!)
 
 何が問題かというと、自身の欲に対する認識が甘い場合、どのような結果に対しても不満が発生するのだ。
 それは実現した(叶えた)目標が悪いのだろうか、それとも曖昧でその時々に変わる欲が原因だろうか。
 
>>>
 
 S/M/Lの3サイズ展開しかない男性用スーツを考えてみてほしい。
 人間は身長だけでなく、腕の長さや股下、胸回りや腹回り首回りに固有の寸法が発生する。
 本来なら手首周りの太さもスーツを着用した際のフォルムに影響する。
 上着の袖から適切な長さでシャツの袖が出るようにすることや、襟が首を過剰に締め付けずしかし無駄に隙間がないことは、全体のフォルムの完成度を高める上で重要なポイントだ。
 
 時計だ靴だと装飾品の値段に目を向ける者は多いが、フォルムの完成を身体にきちんと合わせることの方がよほどその人を彩るだろう。
 まぁこの国ではその美的感覚をコモンセンスに求めること自体無理かもしれないが。
 しかしカタチの美しさというのは絶対であり、長きにわたってスーツが一定のフォーマットに従っている以上、顔や体型の良し悪しに関係なくそのフォルムを文字通り体現することで具現する美しさがあるのだ。
 
 だから太って醜い老人も、痩せ細って貧相な青年も、きちんとあつらえたスーツを着せるだけで格段に見映えがする。
 にもかかわらず3サイズ程度の展開で解決しようというのがそもそも間違い、ということになる。
 それでは太った醜男や痩せ細った青年は、堂々と見映えのする伝統美を体現できない。
 
 同様に、幸せというのは個々人で異なるのだ。
 メディアが周囲が世間があれこれ煽ることもあるだろうし、そういう情報を入手して踊らされることもあるとは思うが、子供を卒業したいならその程度のことは自覚して、制御できないにしてもしようと努力していて然るべきだろう。
 3サイズの幸せのフォーマットをフィッティングして「これが自分には合うかも」なんて、その程度の感性で生きていたら、いつまで経っても幸せになどなれるはずもないのにそういう愚図が多く、どういうわけか「もっと我がままでいい」と教える大人もいない(おそらく提供する側からすればオーダメイドは儲からないからだろう)。
 
 スーツにカタチがあるように、幸せにもカタチがある。
 そしてそれは、自分の身体を測るようにして己の欲を測り、最適なフォルムに仕上げてこそ完成するものだ。
「分かる〜! 既製服ってサイズ合わないよね〜」と言っている奴はまだマシな方で、そこから選んで何とか合わせるどころかモノに合わせて身体を調整する者までいて、果てにはそれを褒めそやす者までいる。
 
 もちろん美に対する人間の努力を否定する気はないが、どちらが主でどちらが装飾品か分からないようでは男も女も台無しである。
 実際、一定以上の美しいフォルムを体現した肉体であれば、当然に既製服はサイズが合わないのだが。
 
>>>
 
 私が言いたいのはそういうことだ。
 幸せという服に着られてしまうような、貧相で醜く装飾にもならない程度の欲しか持っていないから「幸せ」のイメージに振り回されるのである。
 フィットが悪くて、すぐ「これじゃない」と放り出す羽目になる。
 だから彼ら彼女たちは己の欲にきちんと向き合い、その醜い恥部まで含めて測る必要がある。
 
 気取り屋を自称する私がそう言っているのだから多少は真実味もあるだろう。
 ついつい皆、格好をつけてしまうのだ。
 私は誰かを呪ったりしません、私は誰かを憎んだりしません、私は誰かと姦淫の妄想に耽ったりしません、私は誰かを殺したいと思ったことがありません、私は死にたいと思ったことがありません、生きることは素晴らしいことです、といった具合で「それって何の宗教ですか」と僕などは思う。
(ちなみに僕はネコノカミサマ教に入信しているので、呪いも憎しみも躊躇いなどなく、男は殺せ! 女は犯せ! というのがモットーです。そのいずれも実際にするかどうかは別にして)
 
 己の欲のカタチを正邪も美醜も判断評価せず、微に入り細に入りありのまま計測把握して、それに合う幸せという服を作るしかない。
 誰かがお仕着せを用意してくれるとか、お金を払えば買えると思っているのは、現実世界に毒されすぎだ。
 我々の欲や意識がヴァーチャルな領域にある以上、現実世界からの押し売りは断るべきだし、自分からフラフラそちらに行くなど卒業してはいかがか。
 
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 なるほど食欲とは胃袋が寂しいのであり、性欲とは性器が寂しいのであり、排泄欲とは膀胱なり大腸なりが現状の相手に飽きたのであり、睡眠欲とは脳や身体がリフレッシュを求めているのである。
 それで、それを満たすくらいのことが果たして幸せなのか、ということだ。幸せなら存分に満たすといいだろう。
 
 寂しさは欲であるから、欲に従って人間関係を無為に増やす愚行に走ることもあるだろうし、それに食傷してしばらく断ちたくなる気持ちも分かる。
 しかしいずれも己から出た欲だ。
 欲が醜いというなら寂しさも醜いものだし、それを過食して食傷するのもまた愚かだ。
 
 醜いなりの相応にフィットする幸せを自力でデザインすることによってしか解決しないし、馬鹿な大人たちもいい加減、物わかりよく甘い顔をするのはやめた方が良いのではないだろうか。
 もっと自分勝手で我がままに、思いどおりをイメージした上で自作してみてはどうだろう。
 人間関係であれお金であれ時間であれ、そうしたリソースが満たされたところで不幸ではなくなるにしても幸せにはならない。
 
 いや。
 大人もそれを知らないのかもしれない。
 なるほど欲の渦中にあっては欲の姿を知らない、という道理か。
 
 自己同一性が欲の集合体であるならなおさら、自身の欲を少し離れた場所から観察することは、そのまま自分自身から離れることを意味しているのだろう。
 離れて観察すると、存外、自分というのは思ったより醜いものだ。正直、直視しかねることもある。
 
 私など丘サーファになって久しいので、男は殺せ! 女は犯せ! という理想が訴えるビジョンは地獄絵巻のようですらある。
 基本的に、美人でエッチな女性としか付き合わないのもその現れか。
 そうした「欲によくある醜さ」を、どのように受け止めるかだ。
 
 寂しさをセンチメンタルに、ポエティックに、つまりは感傷的に美化することも可能だが、結局のところそれはどうしようもないほど動物じみた弱さや狡猾さの表れでもある。
 それを心得てなお己の中に発生する寂しさという欲を、それでも誰かに発露したいのか、ということだ。
 僕は「誰かを使って」そんな下世話な欲を満たしたくないのだ。もう。
 そしてそうこうするうちに、そんな欲は発生しなくなった。
 
 自分が特殊な例であることは薄々気付いている。
 
 周囲の一部には自身の価値観を変容させることで幸福感と幸福な状況を制御している者もいるが、私ほど極端に孤独や寂しさを好み、同時に自身で(他者と一般に呼ぶもののの存在さえ)埋め合わせまでする者は見たことがない(「の」増量中)。
 現実に僕は自分の中の別の人格と会話をしていることが多い。
 一般に独り言と呼ばれているが、まぁ、アレの節度を失ったようなものと考えればいいだろう。ちょっとした狂人か?
 
 おおよその人間は自身の価値観に基づいて、単一の視点から一方的に対象に対する賞賛や非難を口にし、それで独り言を完結させる場合が多いように見受けるが、僕の場合は、賞賛する者もあれば問題点を挙げる者もあり、非難する者もあれば擁護する者もあり、議論を好む者もあればすぐ飽きて退屈し、別の話題に興味が移る(あるいは眠りはじめる)者もいるので、収拾がつかない。
 子供の頃に観察していた独身(あるいは「ほぼ」独身)の壮年男性というのは、もっと退屈そうで、寂しそうで、人恋しそうだったのだが。
 
 あるいは僕の場合、単純に人間に絶望している可能性はある。自分でもそれはよく思う。
 他人を道具遣いした挙げ句、何らかのリソースを吸い上げ、用が済んだら放棄するような人間に、若い頃から何度か騙されたこともあるが、まさか血縁者にまでそんなことをされると思ったことはなかったからだ。
 いやなに恨み節などすでに枯れ果て塵になったし、その肝心の血縁者の亡骸を呪うのにも飽きた。
 呪った他人はだいたい死んでしまった。
 
 それに一部の人が言うように、クズはクズでも、そのクズのおかげで今をのんびりぼんやり暮らせていると考えれば、まぁほどほどにしておこうか、とも思える。
 一理ある、というやつだ。
 
 しかし理を越えた部分、あるいは理の手前の部分で、つまり感情として、他者をどう捉えていいのか分からない。
 血縁者であろうと恋慕の情に浴した間柄だろうと、人間は己の欲に従って他者を利用する。
 誰かと関係性を持ち、縁を深めるというのは少なからず、そういう側面がある。
 
 家族や友人でさえそういう面があり、やれ人情だの絆だのと美化して虚飾するのだ。
 そして多くの人はそれを真に受け羨望している。
 もちろん正しく美しい人の繋がりもあるだろうが、弱い部分を補い合うという甘言をコーティングし、実のところは互いの尾を飲み込もうとしている蛇のように思えることだってある。
 いや、あれは再生の願いだったか ── それすら俗欲にまみれた醜さのように私には見えるのだが。
 
 僕の潔癖症が極端なのは理解しているが、どうしようもない。
 他者が欲で私を食い散らかそうというなら、私は誰をも食い散らかさないために距離を離すしかない。
 凡俗らしく欲にまみれようと、これでもずいぶん努力はした(じつに恋人をたくさん作ったりした)のだが、結局のところ向き不向きがあり、私は人間社会に適合しないのだ。
 
 そうした意味からいえば「寂しい」ときちんと感じて他者を求め、「煩わしい」と距離を離し、そしてまた孤独による寂しさの欲に飢渇し他者を求めるのは、まぁ、動物らしいし社会的だろう。
 人間社会に適合しているのだ。
 正邪美醜の評価判断をする必要はない。人間社会に適合しているのだ、そういう人は。
 
 繰り返すが、欲を持つことが悪いのではない。
 醜いと書いたがそれはあくまで僕の価値観で、僕の目に見える僕自身の欲のことである。
 他者のそれなど知らない。
 あなたの欲はもしかしたら宝石のように綺麗かもしれない。
 
 その欲を直視せず、正確に測らず、求めては「コレジャナイ」と放り出す幼稚さが問題だ。
 あなたの不幸はあなたが幸せをデザインし損ねているからだ、としか言いようがない。
 
 
>>>
 
 やがてAIが ── 僕が自身に提供しているように ── 簡単なコミュニケーションツールとしての人格を用意してくれるようになるだろう。
 僕はたまたまコンピュータに頼らなくても、画像や文章や思考や価値観やコミュニケーションインタフェイスを構築できる。
 
 最初は抵抗を持つ人もいるだろう。
 人間がAIを親友 ── あるいは親や教師や恋人や配偶者とするなんて何事だ、なんて具合に。
 人間の身近にいるのは人間であるべきだ、という美徳を振りかざすところまで予測できる。
 
 しかし人間が人間を本当の意味で喰い物(エサ)にしないで済むなら、それはそれでひとつの理想郷の体現だろう。
 エサを機械が代替してくれるのだから、人間は他者の欲から解放される。
 それに反対するのは、つまり人間をエサにしたい側の独善ではないのか。
 
 いやもちろん、もちろん。
 寂しいと感じる人間性が、愚かで弱くて狡猾だ、なんてそんなこと言いたいのではありませんよ。多分ね。
 ただ私は、その人間性を捨てたというだけの話で。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Form-Interface-Kidding-Link-Mechanics-Recollect-Stand_Alone-Style-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Fashion-Friend-Human-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :君は首輪で繋がれて:
:夢見の猫の額の奥に:
 
 
 
//EOF