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TITLE:
貧しいことは貧しいことか。
SUBTITLE:
〜 Isnt insufficient variety? 〜
Written by BlueCat
Written by BlueCat
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250222
先週だったか(先々週かもしれない)、とても暖かい日があった。
なのに翌日あたりからまた冷え込み、今日などは風も強かった。
最高気温は10℃を下回り、放射冷却時は氷点下になる。
昨晩は不意にTU(古い友人です)が遊びに来た。
彼はBP(古い友人です)と違い、酒を呑まない。なので酒に誘うことができない。
まぁ、したいと思わなければ問題ないので、そうやって半世紀近くが過ぎた。
しかしそれは、本当に僕が求める人間関係のある種の具現だ。
あるいは日記に書いたこともなかっただろう。ここ数年に、ようやく見えたカタチだからだ。
おそらく、今のようにぼんやりのんびり過ごせるようになったからだと考えている。
ひと月近く誰とも話をしないこともあるが、今はそれも慣れた。孤独は心地よい。
社会をぼんやり眺めていると、人間達は他者を自分の欲の消費材にすること(されること)もある。
人間は人間に対して欲を持つようだ。もはや人間のみなさまには当たり前かもしれないが。
(私は猫です人間社会の観察者です)
>>>
たとえば本当の友達となら、一緒に公園にでも出掛けて、ベンチなりブランコなり思い思いの場所に腰を掛けたり歩き回ったりして、煙草や飲み物を喫んだりしながら、当て処もない話をどちらからともなく話していて、気がついたら驚くほど時間が過ぎている。そういうものではないだろうか。
TUの場合は、それができる。
飲み物と煙草は飾りでしかない。
(彼は私と違いさほど煙草が好きではない ── 美味しく感じないらしい ── のだが、常習化していて、それはある種の依存症であるらしい)
お金の掛かる遊びしか知らない大人たちは多い。現代にあって、おそらく子供たちもそうだろう。
それが悪いとは思わない。
しかし、それしか知らないのだとしたら、お金の掛かる遊びしか知らないという無知(および不自由さ)はそのまま貧しさである。
それは感性の貧しさであり、欲の貧しさであり、理想の貧しさであり、経験の貧しさだ。
「水は味がしないから好きじゃない(飲みたくない)」という人が僕の周囲にもいたことがあるが、それと同じである。
いやなに僕は「料理はすべからく薄味であるべしだよねー」などという薄味サイコー至上信仰派ではない。
(重複の単語はわざとです)
しかし水の美味しさを知らない(感じたことがない)というのは、つまり本当の渇きを知らないのだ。
仮に忘れているのだとしても、忘れたことは知らないことと同義である。
鈍感なのか、それとも恵まれているのか、いずれにせよそれは貧しさであり、ある種の不幸でもある。
一般に、リソース(時間やお金や人間関係や知識や知能や道具や能力)が豊富であることは至上とされているが、真実そうだとは僕は思わない。
もちろんたまたま現在の僕は恵まれているので、のんびり日なたで煙草を喫んでいるうちに日が暮れてしまったりするが、その無駄に薄く引き延ばされた時間を味わうことができるのは、寝食に充てる時間もないほど忙殺されかけていた時期を記憶しているからだ。
喉の粘膜が張り付きそうなほど、皮膚が汗を流さなくなるほどの渇きを身体で、感覚で、知っていたなら、そのあとの水の甘露たる味わいを忘れることはないだろう。
もちろん毎回々々水を飲むたび「嗚呼、甘露なるや」などと独りごちるようにもなるとこれはこれで病的だが。
つまり己の身体の状態によって、水も甘く感じたり、苦く感じたりする。これは水に限ったものではないし、物質に限ったことでもない。
己の身体はもちろん、己が感覚することで初めて意味を与えられる(与えている)情報なのだ。
だから「○○に遊びに/ランチに/飲みに行こう」という遊びを否定するつもりはないが、それしか知らないというのは、誰か(家族でもいい)と少し顔を合わせて話すだけでも発見や驚きがあるという、そこまでの退屈や孤独を知らないのだろうと想像する。
物質的にも精神的にも肉体的にも、両極を体験し、経験し、仮に目を背けたくなるほどの絶望や痛みがあったとしても、あるいは恍惚とするほどの享楽に溺れるにせよ、それを漏らさず記憶することは、だから決して無駄ではない。
あまり貧乏くさい話を何度もするのはいかにも年寄りっぽいので避けたいのだが、まぁ年寄りだから気に留めず繰り返すなら、僕は20代の頃からときどきガスや電気や水道が止まるような生活をしていた。
20代で両親もなく一人暮らしをしていたので仕方ないのだが、当然に僕は格別自分が不幸だと思わなかった。
不自由かといえば、確かに金銭的に不自由だったからインフラの支払いができずに止められるわけだが、その不自由は自分で選んで自活しているという自由の上に成立した不自由だ。
だから不満がないどころか、たいそう満足していた。その不自由さは、自身の自由の証だったのだ。
むしろ当時、父上(敬称は諸事情による)と暮らしていた2歳下の妹の方が辛かっただろうと思っている。
妹はファザコンであり、父たちが(つまり一人暮らしを始める前の僕も)暮らした公営住宅は「夫婦もしくは親子」のみが入居資格を持つため、父が死んだ途端に資格を失効し、役所から退去の勧告を受けるに至った。
社会の決まり事の多くを父上に処理してもらっていた僕らは、社会のことをさほど知らずにいた。
ためにそうした役所仕事も、最初は僕が付き添って対応していた。
父の遺品が残る家で(僕が家を出るきっかけとなった出戻りの姉はまたどこかに男でも作ったのか放浪の旅に出たため)独り暮らす妹が不憫で仕方なかったが、僕には僕の ── ただただ僕を生かすという、それだけの目的しか持たない ── 生活があり、何をすることもできなかった。
たまに仕事の帰りに、遠回りして顔を合わせ、くだらない話に興じたり、遺品の整理を進めたりしたものだ。
幸いにして、僕も妹も、貧しさには慣れていた。
「今日の晩ごはんは、茹でた鱈」と妹。
「え? ……ん? 鱈って、あの鱈?」
「そうそう、白身魚の。安く売ってたから。茹でてポン酢しょうゆで食べるの」
「せめて豆腐とか入れなよ〜」
「やだよ豆腐好きじゃないもん。茹でた鱈、けっこういけるよ!」
「他に何かないの?」
「欲しがりません勝つまでは!」
「なにそれ」
などといって呵々大笑いしていたものだ。
<寒いでやんす>
>>>
貧しさが美徳であり、それを誰かと共有して乗り越える程度のことが美談などとは思っていない。
そもそもリソースが豊かであるに越したことはないのだ。
しかし経験の豊かさというのは、リソースの潤沢さがそうであるように枯渇もまたひとつの経験であり、ために枯渇を経験していることやその者は否定したり蔑むようなものではないのだ。
僕が経済至上主義を嗤うのは、そのためでもある。
物質的な豊かさが悪いわけではない。むしろ歓迎すべきだろう。
しかしそれしか知らず、それしか求められないというのは、そのまま貧しいのだ。
それは感性の貧しさであり、欲の貧しさであり、理想の貧しさであり、経験の貧しさだ。
残念なことに、恵まれた環境に生まれた者の多くはそうした本当の飢渇を知らない。
ネコ科の動物で百獣の王と呼ばれていた者がいるが、あれは子を谷に落とすと言われている。
まぁ単なる寓話だろうが、王家に産まれた者には、不遇も体験させることがすなわち「豊かな経験(学習)」の一端にはなるということを語っているのだろう。
徒競走を中止にしたり、最後はみんなで横並びになることを強要した親たちというのがかつて居たらしいが、またずいぶんと貧しい感性の持ち主だったのだろうと振り返る。
さても豊かさを語る連中は多いが、彼らの描くステレオタイプな幸福像には辟易する。
もちろん私は自身がひねくれ者であることを自覚しているし、その上での難癖である。
繰り返すが豊かであるに越したことはない。
しかし貧しい豊かさもあるのだ。逆がそうであるように。
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[NEXUS]
~ Junction Box ~
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[Engineer]
:青猫α:青猫β:黒猫:銀猫:
[InterMethod]
-Algorithm-Blood-Diary-Ecology-Link-Love-Mechanics-Memory-Stand_Alone-
[Module]
-Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-
[Object]
-Friend-Human-Koban-Poison-
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[Cat-Ego-Lies]
:夢見の猫の額の奥に:
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