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TITLE:
アナーキストはよく眠る。
SUBTITLE:
〜 Hello, sleeping the madness. 〜
Written by BlueCat

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241008
【らしい、ことばかり】
 
 オペの日。
 インプラントの手術。下顎部なので人工骨は不要だったらしく、基部埋設。
 第二段階でポストを立てて、第三段階で人工歯の予定。
 以前も書いたと思うが骨を削るため、施術中、口の中からむせかえるほどバイオレンスな味と匂いと音と振動がする。
 骨の削れる匂い(歯の削れる匂いとは少し異なる)も血の匂いも、なのですっかり慣れてしまった。
 
 自分の血は、しかし嫌いではない。
 献血などに行くと、パウチに入った自分のそれを持って帰りたくなるくらい、綺麗で「生きてる」って感じがして、好きである(他人のパウチは愛せないが)。
 
 何度目か忘れたのだが、僕もすっかり施術に慣れてしまって、先生と軽口を叩きながら終了する。
 真夏のうちに施術することが決まった(唐突に「やっておくか」と言われた)のだが、どうやらその部位はブリッジになっていたらしい。
 
 らしい、というのは抜歯にあたって「生きた歯」のような処置がなく、流血もなかったので不思議に思って訊ねたのだ。
 機能上、とくに問題のないそれを敢えて今処置するのは、先生が生活に困っているから、ではなくて材料が高騰し続けているため、今のうちにしておいた方が後々を考えるとよい、という判断によるらしい。
 
>>>
【0円からが実業家】

 知っている人もいると思うが、僕はとても礼儀正しいアナーキストである。
 穏やかな笑顔の内側は反骨主義的(な猫)なので、権威を嫌うし、権力も大嫌いだ。
 そして権力が往々にして集合する性質を持つ(これは民主主義でも共産主義でも独裁政治でも資本主義でも変わらない)ため、集団や集合を嫌うし、それらに首根っこを掴まれることなど断じて許さない。

 もちろん孤独を好むのは、孤独が好きだからであって、集団が嫌いだから、というだけではない。
 じつに友人と一緒に遊んだり、その友人の友人と一緒に遊んだりもするわけだから。
 ただにこやかに皆に話を合わせて談笑していても、背骨のどこかに「ぜったい譲らないこともあるけんね」という髄液が流れており、そういうものを一人ひとりが持っていることを皆が自覚すればいいのに、とは思っている。

 唐突に何故こんな話を始めたかというと、僕がモテになろうと思ったり、オカネモチーになろうとしたのは何故だっけな、と考えて思い出したから、なのである。
 思い出そうとした理由もパッとしないのだが、先日、Webで「お金がなくなっちゃった」と騒いでいる実業家のニュースを見て、情けなく思ったことが発端だ。

 実業家なら、0円からでも儲けられるのではないかと僕は思う。
 たとえば僕なら、すべての財産を失いました、となっても「はぁ、そうですか」と言って、とりあえず働くだろう。
 無一文にはならないだろうし、就職先も見つかるだろうし、そのうち集団が嫌になって独立するだろうところまで予測できる。

 手元に何もないとか、負債だけがあるとか、それは特に苦にも負担にも不安にもならない。
 税金滞納も電気水道が止まるのもお手のものだから、ホームレスにもなれるだろう。リフォーム能力の出番だな。
(彼がどうかは知らないが、僕について言えば少なくとも扶養する家族などいないから尚更である)

 数億だろうと数兆だろうと、それを持っているとか失ったとかで一喜一憂する人間というのは、結局のところお金に使われ踊らされているということなのだ。だからそれが見苦しく、みっともない。
 お金がないことがみっともないのではない。お金に一喜一憂しているのがみっともないのだ。
(水道が止まったよ、と自慢するのもまた違うと思うが)
 しかも財産が唐突に減少したショックで、お酒と煙草と色欲に走る姿をSNSで晒すなど、程度が知れるし品性を疑うことにもなる。

 おそらく株のような金融商品取引によって余剰を作って暮らしていたのだろうと想像するが、そんなものは「仕事」でもなければ「実業」でもない。
 金融商品に取り憑かれた「財テクインテリ気取り」を見るたび、心の中でうんざりする。
 金融業界だけならまだしも、政界も、庶民も、こぞって金融商品の餌に取り憑かれた犬に思える。あれには夢中になるような成分が含まれているのやもしれぬが。

 まぁ資本至上主義に支配されている国家で暮らしているから、そういった洗脳に皆が染まるのも結構なこと ── 否定するほどでもないか ── と思うけれど。

 そして「なんで資本主義に支配されることなどまっぴらごめんで毛嫌いしているのに『オカネモチー』になろうとしたんだっけなこの俺は」と思ったのである、唐突に。

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【実現してから文句を言いたかった】

 もちろん僕はアナーキストのラケンローラなので、支配されることを嫌う。
 何なら支配することも嫌う。
 支配そのものが嫌いだし、支配を嫌うという思想で支配することもされることも嫌う。
 お前はお前で勝手に支配したりされたりしたかったらしろただしこっちに矛先向けんじゃねーぞ向けたら潰すぞお巡りさんごめんなさいちがうんですあいつです、というのが正しいアナーキストだと思うのね(口調が変な上カコワルイ)。

 しかし経済的に余裕がないのに「お金がすべてじゃないよ」って言ったらそれはさすがに負け惜しみのようで嘘くさい。
 なのでオカネモチーになる必要があった。
 オカネモチーが「幸せって、お金がすべてじゃないよ」って言ったら、すでにお金を持っているのだから説得力がある。

 というわけで今はオカネモチーになったので堂々と言える。
 お金になんか支配されてたまるかよバーロー、って言える。
 言えるから、わざわざ言う必要がなくなったので、言わないだけである。
 言う相手がいないとかじゃないんだからね!(唐突なツンデレについて、この場を借りてお詫び申し上げます)

 もちろんシーンによっては「お金で解決できることはお金で解決しちゃおう」なんてすぐに言うのだけれど、所詮、その程度の、ドライバやハンマのような道具に過ぎないという認識である。
 そんな道具にひれ伏す犬のような真似が、少なくとも僕にはできないというだけの話。

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【モテへの反骨】

 これに伴い、僕がモテになろうとした理由も自動的に想起される。
 どちらも同じメカニズムによって具現されたように、その動機もまた同じものだからだ。

 異性(あるいは同性)にモテる事が人間の魅力(=価値)であるとか人間関係における喜びのすべてではなく、異性(あるいは同性)の価値(=魅力)は外見だけじゃない、というのを「モテない人」が言っても説得力がない。
 分かりやすく「美人はだいたい性格が悪いし」なんてことを、美人と付き合ったこともない奴が言ったら、ただの負け惜しみのように聞こえてしまうだろう。

 それからそもそも僕は(何より自分が一番信じられないのだが)貞操観念がカタい方だったのだが、これまた上記と同じメカニズムで、不貞行為をしたことのない奴が「不貞はよくないよ」って義憤を振りかざしたところで「何も分からない奴が勝手に言ってろバーロー」って言い返されてしまうことが容易に予測された。

 いずれも悔しいことである。
 いい(と思う)ことでも悪い(と思う)ことでも、経験して体験したことしか人間は語ることができず、信憑性がないと思われてしまう。僕は猫なのに! 猫なのに! それでも説得力は段違いだ。

 それで「もう勘弁してください」というくらいまでモテよう。外見のいいガールと(も)付き合おう。思い付く不貞の限りも尽くそう。と思って(現在進行形の)恋人を27人まで増やしたり、外見のいいガールと付き合ったり、不貞という不貞を尽くした ── といってもせいぜい2つや3つくらいだが、シュレディンガーの仔猫(隠し子)までいると吹聴するような事態に発展したのはさすがに行き過ぎた感が否めないがなあにかまうものか。

 というわけで今はモテになった経験から堂々と言える。
 まぁこの点については常々堂々と言っていたのでわざわざ改める必要もなさそうである。
 常々堂々(つねづねどうどう)って、漢字で書くと似ているからちょっと驚いてしまうよね。

 要は外見は良いに越したことはなく、それは人間の持つ魅力(=価値)のひとつではあるが、多くあるうちのひとつでしかない。
 美人の中にも性格がよくて人間として素晴らしい人がいる一方で、そうでもない人もいる
(それは不細工な人も同様)という、ごく当たり前のことであり、当たり前の結果である。
 だから言える。
 美人はいいよ、と。でも美人じゃなくてもどうにもならないくらい記憶に残るような、そういう人間的な魅力に満ちた人はいるよ、と。

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【魅力について】

 魅力的な人間の何が魅力的かと言えば、まず頭がよいことだ。
 これは学歴であるとか知識であるとか、そういうことではなく、才知である。
 具体的に、人間に対する洞察の深さがそのままその人の魅力として発揮される。

 何のことはない、誠心誠意で自分以外の人と接しているかどうかという、その姿勢がすべてを物語り、その姿勢を作る哲学がその人の魅力の骨子なのだ。

 また趣味でも仕事でも遊びでもよいので、人間以外のものごとに対して夢中になっていることも魅力のひとつだろう。
 子供たちがそうである。何かに夢中になっている子には他の子が自然に寄ってくる。
 学生時代に僕に友人ができたのは、教室の隅で、ずっと一人でゲームを作っていたからだ。
 
「あいつはひとりで何か楽しそうにしているが、一体何をやっているんだ」といった具合に人がやって来る。
 それで同じ事に興味を持てば自然に親しくなるし、興味がなければ離れてゆく。
 といってそもそも「楽しそうな何か」を共有する必要はべつにない。

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【観察するだけの愛情】

 僕は猫が遊んでいる姿を眺めるのは好きなのだが、猫と一緒に同じ遊びをしようとは思わない。
 ではその遊びが理解できないからといって、猫に対する興味を失うとか、猫を嫌いになるとか、そんなことはない。
 猫が勝手に遊んでいる姿を興味深く眺めて「いいなぁ、可愛いなぁ。何してるんだろうな、何考えてるんだろうな」と思うのが嬉しいし楽しいのである。

 おそらく遊びに夢中になっている子供を眺める親は同じような気持ちになるのではないかと想像する。
 ひとことで言えば、それは愛情の発露だろう。
 愛でる対象を、ただ観察して愛でていられる実感というのは、観察者として無上の喜びをもたらす。

 だから共感や共有なんて、そんなものを(至上として)目指すのは意味がないと僕は思うのだ。
 めいめい、思ったように、好きなことを好きなようにしていればよろしい。
 意見の対立も(互いを尊重している上でなら)またよし、ということである。

 結局、好きなことに傾けた情熱はそのままその人の洞察する能力を深めてゆく。
 深い洞察に至る力はその人の魅力として発露する。
 つまりその人自身が魅力的になるのが先であって、他人から価値を認めてもらえることがイコール魅力なのだと考えるのは短絡で浅慮だと言える。

 
 また深い洞察を続けるうち、やがて根源の部分ですべての物事が通じていることも理解できるだろう。
 モテることに必要だった技術が、そのままオカネモチーになるという漠然とした目的を果たす上で役立ったのと同じである。
 全然関係のないことも、根源で通じていて、それが理解できればひとつのことをどうしようもないくらい追究すること(僕の場合はヴァーチャルなフィクション世界に浸って、良いことも悪いこともすること)によって、関係のないものごとであっても「ああ、これはあれと同じ原理だね」と理解できるようになる。

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【魅力の話】
 
 政治の話で言えば、かつての小泉純一郎首相が人々に魅力的に映ったのも同じ原理だろう。
 彼は口を開けば「郵政民営化」ばかりに思うほど、その施策をアピールした。
 多くの人間はその内容などろくに理解していなかっただろうが、その熱情には当てられた、というわけだ。
 少なくとも金融業者なら「またぞろアメリカから圧力を掛けられてるがこの国は大丈夫か?」くらいには思ったと思うがどうだろう。

 あの施策の結果、見えるところ(経済的な効果は見えないので)では、まず日本通運(日通)が宅配便サービスから撤退し、下請けの個人事業主などをカットした ── これが日本郵便(JP)の下請け業者として機能する。
 日通からすれば、法人向け大型輸送のほうが利潤が大きく、そのうえ下請けなしでは稼働しない宅配部門を処分したかったという目論見もあるだろう。
 表向き、JPはそうした人間達の受け皿として機能したことになるが、もともと公金で成り立っていた郵便事業に(トータルでは)より安く使える(使い潰せる)人材が大量に流入することは、JPにとってもプラスである。

 そしてJPはもともと「かんぽ(簡易保険)」の取り扱いがあった(それしか取り扱いがなかった)にもかかわらず、今ではアフラックが追加で窓口販売(窓販)されている。
 保険業界にも長く浸っていたから(上述のメカニズムに従い)言えるが、あの業界のほとんどは算盤勘定と悪い意味での口八丁を用いて公然と「我々はいいことしてます」というカオをするのが得意な企業ばかりである。営利目的組織だから仕方ないのだが。

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【いつもどおりの余談】

 完全な余談だが、アフラックがCMなどで「シェアNo.1」といっているのは、商品(約款)ベースで考えた場合の言い草である。
 ガン保険や医療保険などは、他の生命保険商品の特約部分で付帯している会社も多い。
 主約款ではなく特約に付帯することで、比較的低廉に加入できる補償について、わざわざ独立した約款(商品)に加入させる意味をそうした保険会社は持たない。

 アフラックは商品を個別に取り扱って、ガン保険や医療保険といった商品を他の商品の特約として抱き合わせることをしていない。
(たとえば終身や定期生命保険の特約で、ガンや医療の補償をしていない)
 だからガン保険のシェア数を稼げるのであって、実質のガン保険(補償)加入者のシェアは異なる可能性もある。まぁ、どうでもよいことだが。
 そういう数字のトリックに踊らされる人間はいくらでもいる(だから謳い文句が出来上がる)。

 実際、近年ますます消費者に不利益にも思えるような商品開発ばかり続けていると観察される(それだけ収益性が悪化しているのだと想像する)が「表向き」は、ユーザに寄り添う保険メーカ、なのである。

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【カリスマであることの力】

 政治の話に戻ると、結果論でも郵政民営化は
、果たして日本経済にさほどの有益性があったとは思えない。
 郵政公社の銀行事業は当時世界トップクラスの能力を持っていたし、天下り先としても最高だったろう。

 当時は凋落の極みにあったアメリカ経済にとって、これほど目障りな(あるいは単に目に付く)存在もなかったように思う。
 その崩せない牙城の理由は「国営であること」だ。
 無論それは郵政省の強みそのものでもあったはずだが。

 
 そうした利潤の根源である仕組みを「効率化」などという綺麗事で政界自ら整理するなどちょっと異常なことで(彼らは自分たちの懐にメスを入れたためしがない)、そうせざるを得ない何らかの圧力が国外からもたらされた、と邪推してもおかしくはあるまい。

 もちろん「誰にとっての効率化であるか」を考えないかぎり何事も効率化である。
 乱立する省庁を解体するのに当たって、あれほど国中が騒いだことも他にないように思うが、これは僕の年齢が浅いためだろうか。

 果たして小泉純一郎首相は、中身がブラックボックスのままの郵政民営化を見事に実現した。
 施策がよかったのではない。彼が魅力的で国民のウケがよかったからである。
 しかしそれこそが政治家のカリスマと呼ぶべきもので、本来、国家を統べる者に必要な資質だと思う。

 国民にとってウケのいい、ただ魅力的に映るだけのハリボテなど政治に向かない、などとインテリぶって言えるのは、本人が真に魅力的な人間であったこともなければ、そうした人間に接したこともない者だけである。
 人間の魅力というのは確かに存在し、人間はそれを感じて動かされてしまう。

 問題はそれを具現するメカニズムを理解している人が少ないということだろう。
 メカニズムを理解していないから芸能人や有名人を議席や票稼ぎに利用する馬鹿も、あるいはそれにホイホイ投票する馬鹿も絶えないのだ。
 人間が変わっても、仕組みを運用している集団が変わらないのだから結果は変わらない。
 人間達はこの国の政治を誤解させられ続けているのではないだろうか。
 無論、馬鹿が多数なら、愚劣に傾くのが正しい民主政治のありようだと言ってしまえばそこまでだ。

 近年の政治家と言えばカネの話と噂ばかり(ひどい場合は不正だけでなく不貞などもあるよう)だが、魅力やカリスマというのはそれらとは無関係だ。
 カリスマさえあれば、不正も不貞も美談に変わる。それが魅力に対する人間の感受性だからだ。
 にもかかわらずカリスマ性を感じさせる政治家がいないのは、彼ら彼女たちが、芯の部分で夢中になっていることなど何もないから、である。

 政治の世界しか知らないようなボンクラ二世(三世もいるのか)どもがカリスマ性ひとつ発揮できないのは、単に好きなことなどしたこともないからであり、国政を真面目に考えているとしても、熱心には考えていないからだろう。
 無能な政治家や官僚が暴利を貪れるほどの余力など、とうにこの国は失っているのに。

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【侵略者の末裔が偉そうに、と言える日本になれないものか】
 
 最初に述べたように僕はアナーキストのラケンローラなので、国家が解体しようが、国政が破綻しようが困りはしても絶望はしない。
 日本は地球上でも非常に珍しい、他の民族の侵略(植民地化)を受けなかった単民族国家だ。
 文明レベルの高い先進国では唯一だろう。

 他の民族を侵略するにあたっても、アイヌ民族相手のように成功したり、アジア諸国相手のように失敗したりしたものの、反攻侵略は受けなかった。
 アイヌ民族に対する侵略から第二次大戦敗戦までの歴史を(僕の知る情報が事実だとして)考えれば北方領土は日本の領土と明言できるものではないだろう。侵略した領地だった時代はあるだろうが。

 侵略したから永続的に自分の土地だというなら、世界の大半はイギリスの領土になる。
 その論でいうならロシアの領土だと言い切られても文句は言えまい。日本は連合国に敗北した。
 にもかかわらず日本は他の国家の植民地にはならずに済んだのだから、四島くらいくれてやればよい。

 そもそもアイヌ民族の領地は返還しないのか。独立した国家を擁立する機会を奪ったためにそれがないから構わないのか。ロシアに取られるくらいなら日本の領土だと言い張りたいのか、どうも分からない。
 侵略領土は期限をもって返還されるべきというなら、アメリカはどうなるのか。
 世界の正義を謳っていた(今もそのつもりかどうか知れない)アメリカだって、そもそも侵略移民の末裔である。
 侵略して他人の土地を支配して国家を樹立しているわけで、今さら移民がどうこう言える歴史の上に立ってなどいない。
 あるいはネイティブアメリカンから煙草銭にも満たないような額で大陸を買い取ったとも聞いているが、それが本当ならつくづく羨ましいことである。

 いずれにしても、こうした過去の国家間の遺恨は、どこかの時間で区切って仕舞いにする必要がある。
 戦中の慰安婦問題が典型で、蒸し返すなと、よく日本では論じられているではないか。

 かつて(何十世代も前の大昔)は高度な文化文明を持って交流していた中国も、内乱やら侵略やら支配者の愚鈍によって、ある時期から蛮族のような目で見られるまでに至った。
 貧すれば鈍するという典型である。

 
 有数の文化文明を持つはずの日本も例外では無い。
 高度経済成長からバブル経済を経て経済至上主義に染まった挙げ句「正しくあること」は残っても「清くあること」など忘れ去られた。
 悪質な転売行為を例に挙げれば、かつての中間卸業が同じ事をしていたと言ってしまえばその通りである。
 経済的に間違った行いではないが、少なくとも「清い」ありようではない。

 同様の事例は多々あるから個別に挙げないが、総じて文化レベルは低迷しつつあり、蛮族相応の行いが目立つようになった。
 中国が朝鮮が韓国がロシアが、とあげつらう人もいるが、冷静に論じる姿勢に欠ける様子から察するに、蔑む相手がいれば誰でも良さそうに観察される。

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【権力は濫用されるもの】

 アナーキストとしては権力にだけは手を染めるわけにもゆかないので、様子を見るしかない。
 権力を持ったこともない者が権力を語るのは間違ったことかもしれないが、権力というなら私は会社員の頃、ずいぶんその職権を濫用したものだ。

 権力者となりその権限を遺憾なく濫用(あくまで濫用)するのは、権力を持つことの魅力のひとつだとすら言える。
 僕の中で、それは清く正しく職権を行使するのとセットのもの、コインの表裏に過ぎないのだ。
 職権はおろかその影響力の濫用にまでクリーンな権力者など想像もつかないし、そんなクリーンな(苦労ばかりの)権力者になど誰がなりたいと思うだろう。

 だから僕は権力者には向かないのだ。絶対悪用するから。
 そしてそれを踏まえて「仕組み」を作る必要が本来はあり、それは「誰が職権を持つか(誰がするか)」ということにはまったく関係がないもので、優れた仕組みが未だに構築されていない不備が問題なのだ。
 けれどそれは誰も語らない。
 
 
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【反骨精神の体現者としてひと言】

 この人生で得られた教訓がもしあるとするなら「悪いことはしない方がいい」ということに尽きる。
 もちろん「してはいけない」のではない(そんなことを言うつもりはない)から、したかったらすればいい。
 その自覚や覚悟(結果をきちんと自分のものとして受け止める決意)が必要なだけだ。

 組織ぐるみの犯罪なんて、当初は「まともなことだ」と思って加担しているうち、気が付いたらズブズブになって抜け出せなくなっていることもあるわけで、表に出てくる人なんて、ちょっと行き過ぎただけの速度違反者みたいなものなのだろうとも思う。
 べつに政治家に限らず、である。

 不貞をはじめ、清い行いやありようから外れれば、相応に薄暗い結果にまみれることもある。
 ホストクラブに通い詰めて負債を抱えて国外に売春に出掛けただのというニュースを見るに、誰が加害者で誰が被害者か、判別しかねる。
 お金を使って異性と遊ぶのが悪いとは思わない(そんなことなど男たちは大昔からしてきた)が、結局それは「正しい(間違っていない)」ことであっても「清い」ことはまずないのだ。
 そもそもお金でモテが買えるなら、僕はもっとモテていていいはずだ(増長)。

 もっとも「清さ」について、僕も大口を叩ける立場にはない。
 コインがあるならその表も裏も歩こうと考え、可能な範囲、自ら決めた領域を逸脱しない範囲で、歩いてきたわけだから。
 知らぬよりは知った方が良いという、その直感のままに。



 



 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Form-Interface-Link-Maintenance-Mechanics-Recollect-Stand_Alone-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Cat-Human-Koban-Memory-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :青猫のひとりごと:
:君は首輪で繋がれて:
:ひとになったゆめをみる:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:240928
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
自動化の自動化の自動化は自動化なのだ。
SUBTITLE:
〜 Automatically automatic Automata. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
240928
【唐突にはじまるプロバイダ乗り換えの話】
 
 夏に書斎のクーラを入れ替えた関係で、Webプロバイダを乗り換えることになった。
 電気量販店にありがちな抱き合わせ商法によるもの。
 回線を引っ越ししたときに使った業者がauの代理店で、勧誘に乗せられて乗り換えたものの、プロバイダとしてのサービスはイマイチだった。
 それで結局、プロバイダをSoftbankに戻すことにしたのだ。
 
 
 誰の役に立つとも思わないが要点だけまとめておく。
 
プロバイダ提供のルータで Wi-Fi を使える/使えない。
 Softbank は無償で機能が提供される。まぁ、ハードの機能だから当たり前だよね。
 auは使えない。ハードの機能だけれど、追加料金を払わないと Wi-Fi が使えない

 我が家はプロバイダルータの先にサードパーティルータを(NASがあるので)接続しているから問題なかったが、持っていない人は Wi-Fi 税を払うか、自前で Wi-Fi ルータを買わなくてはならない。
 繰り返すが、Wi-Fi そのものはハードの機能であるのにソフト側で制限を掛けて暴利を取ろうという思想はいただけない。
 まぁ、そのぶん安いのかもしれないし私には関係ないことではあったが、気に入らないことは断固として気に入らない性格なのでその姿勢は気に入らなかった。
 
○ 設定のしやすさ。
 先のとおり自前のルータを接続すると、ルータの設定があれこれ必要になる。
 最近はプロバイダ側もサードパーティもソフトが進化してきて、ほとんどの項目は自動設定されることが多いが、NASがあったりポートの設定を(セキュリティなどを目的として)独自で変更していると、プロバイダ側ルータからの転送ルールを変更する必要があったりする。

 IPv6 は自動化されている場合も多いが、手動だと帯域が広いから(?)か設定が煩雑で、IPv4 は帯域が狭いから(?)か設定は楽なことが多いものの、手動のケースが多い。
 もちろんすべて手動で設定した方が、動作が機敏になることが多い。
 しかし僕はネットワークエンジニアではないから、ネットワーク設定について、プロ/ベテランほど詳しくないのだ。
 手探りで設定するにはヘルプが充実していて、説明が平易(簡易ではない)にされている必要がある。
 
 わざわざ項目を作っているとおり、Softbank のルータはヘルプも比較的分かりやすく、設定も項目の仕分けなどが見やすくてよかった。
 auのそれは本当にひどかった。作り手の「やっつけ仕事」感がすごい。一昔前の個人ウェブサイトを見ているようだった、といえば伝わるだろうか。
 
○ 代理店の勧誘。
 Softbank も、代理店型ショップ(複数キャリアを取り扱う乗合代理店ではない)で契約/変更することが多くあったが、よほど重要な内容でもない限り、プラン変更などの勧誘はなかった。
(一度もキャリア変更したことがないから、余計にその必要がないユーザだと思われている可能性はあるしその認識は正しい。)
 auの場合(Softbank での)光回線の引っ越しを依頼した業者がわざわざ乗り換え提案をしてきて、その後も何度となく(携帯電話も乗り換えませんか)と連絡をくださった(敬語は皮肉)。
 試しにプロバイダを乗り換えたが、上記の通りである。
 
 費用差はというと、明細を一度も見たことがなく比較するのも面倒なのでしたことがない。
 それぞれの書類やデータを探して、比較するのに掛かる時間が僕の場合は30分以上掛かると推測される。
 月額で数百円だとしたら僕の自己規定時給に見合わない(僕の1時間は、僕にとって「残りの寿命の1時間ぶんの価値」がある)。
 
 月額で5000円以上の差があれば乗り換えを検討する必要(乗り換えではなく、あくまでその検討の必要性)もあるが、そもそもそんなに差があるはずもない(同帯域なら)。
 ついでに乗り換えの作業は非常に面倒(ストレスが高いもの)で時間が掛かる(推定延べ時間で、契約手続きに2時間、機材やソフトの設定/返却で12時間以上)。
 
○ 解約手順のわかりやすさ。
 Softbank のプロバイダ契約を解約するときは比較的簡単だった。
 オペレータと電話でやり取りしていて、最初の人間は「解約したい」という僕の申し出に対して「再考せよ」と言い渡してきたためまったく意図が通じなかったのだが、電話を切ってすぐに掛け直したときの別のオペレータは意図を正しく理解してくれたので、すぐに解約できた。
 二度手間になったのは、PCなどの「本当に削除しますか Yes/no」ダイアログみたいなものだと思えばいい。私は寛大だからな。
 
 回線の追加工事もなく、機器返送も手軽だった。
 
 auは面倒だったためオンラインで解約手続きをした。
 代理店が噛んでいるからなのか「追加工事が必要」と表示され、Web上で日付を指定したのだが、それをまったく無視して「工事日を指定して欲しい」というメールが何度も来た。電話も掛かってきた。
 もちろんすべて無視した。
 代理店と元請けの関係などユーザの知ったことではないし、解約意向はWebで完結している。
 
 最終的に機器返送ラベルと払込票が届いた。それで済むなら最初からそうしてほしい。
 
>>>
 
 もちろん Softbank の悪評を挙げる人もいるわけだから「みんな Softbank にしようぜ」なんてことは思わない。
 単純に代理店の不手際による結果もあるだろう。大変なお仕事(もしかして:大変ラクなお仕事)だとは理解している。
 結果論に過ぎないが、僕はたまたま Softbank と相性がいいみたい、というだけである。
 
>>>
【お金で解決できること/時間で解決できること/そしてできないこと】
 
 年間数千円得するだけのために、こんな作業を繰り返せる人は良いと思うが、僕ならその時間でバイトをするだろう。
 その方が確実に、よほど儲かる。
 他人のポリシィに口出しするのは行儀が良くないとは思っているが、労働をせず(収入を増やすのではなく)得をしよう(支出を減らそう)という怠惰な発想は、非常に人間らしくて素晴らしい。
 多くの発明品は「より楽に、より快適に」という目的によって作られたものだ。
 
 一方で効率を考えないのは問題である。
 単位時間を考慮した際、最低時給にも満たない僅かな金銭のために、ストレスを抱えたり過剰な時間の損失を作るような真似は、利口ではなく単なる愚鈍だ。
 キャッシュレスマネーやポイントも同様。
 数円得するために誰か(自分かもしれない)の時間や金銭を奪っていることに気付かないのは無思慮である。と僕は思っているのね。僕に対して、ね。
 
 ちなみに現行政府に対して「収入(税金)を増やすのではなく支出(特に議員数やその報酬)を減らした方がいい」という指摘をする人も居るが、それもまた素晴らしい思想だと思う。
 僕は個人だし自身が効率優先なので昔から、支出は最適化されている(市場競争による最適化が為されている)ものと考えて誤差など無視し、収入をさらに上げる方針を採用している。
 たまたま今は不労所得者だが、就労所得を得ることに抵抗はない。ただ効率を考えると不労所得がものすごくお得(時給が無限)というだけである。
 
 Z世代付近も含めた多くの人間が、効率至上主義に陥った結果、不労所得こそ理想、と考えている風潮がある。
 しかし実際に早期リタイアしても、余った時間リソースを持て余し、金銭リソースの減少に怯える傾向もあるようだ。
 たまたま僕は重篤な社会不適合者なので問題ない ── 収入も金融資産によるものではないし、貯蓄を切り崩して生活しているわけでもないからほとんど無視していられる ── が、本来的に人は他者を必要とし、支え合いながら生きるものだろう。
 
 絆だとか繋がりだとか、そういった綺麗事を言っているのではない。
 生まれてから死ぬまで、自分だけでどうにかできる人間を見たことがないという観察の結果である。
 僕の場合は可能な限りそうした柵(しがらみ)を断ち切ろうとしていて、それ(特に死とその後)を最終的に金銭でアウトソースしようと考えている。
 これは介護が社会サービスとして有償化したことと変わらない。
 
 お金がない間は、時間を使ってお金や仕組みを作るしかない。
 面倒くさがりの僕でも(スネを囓ることができる)親が居なかったのでそうしていた。
 僕の場合は怠惰っぷりが本当にひどくて、仕事でラクをするための仕組み作りばかりしていた。そのことについては本当に反省している。
 
 お金で時間は作れるようになった。
 欲を満たすことも時間のあるうちにほとんど済ませてしまった。
 なぜといって、欲というのは歳を重ねるうちに衰退するからだ。
 まさか精力剤を飲むような劣情を必要とする状況でもない。
 
 しかし社会に対する欲はある。
 僕は子孫を残さないことを子供の(若いとすら表せない)頃に決めていたが、僕が死んだ後のことはその頃から考えている。
 
 僕が死んだら社会が死ぬわけではない。
 たくさんの人間が生き続け、社会は動き続ける。
 その中で、幸と不幸の総和がゼロではなく、幸福の方向にプラスになるにはどういう仕組みがよいのかを考えている。
 
 より精確に言えば「どのような仕組みが良いかと模索し誘導できる仕組みがどのようなものかを模索するための仕組みを模索し誘導できる仕組み」を考えている。
 なんといっても自動化システム(を構築するシステムを構築することを自動化すること)を考えることについてはかなりのエキスパートであるからな、怠惰なる我は(倒置法)。
 自動化の究極は「私が居ないのに私の求める世界がそこにある」ことだ。
 
 そこに私は必要ない。最初から設計に含む必要もない。だから美しいと感じられる。
 自然の美しさとは本来的にそういうものだ。
 撮影者も観光客も、ただ景観を汚す要素でしかない。
 
 人間の多くは自分自身を必要とし、自分以外の誰かから必要とされることを求め、必要とし、ために自分以外の誰かを必要とし、求め、それが永続することを希求する傾向がある。
 それはおそらく悪いことではないのだろう。
 僕にはそれが面倒なだけだ。
 
 本当の欲は、時間でもお金でも、他人でも満たせない。
 自分だけがそれを求め、自分だけがそれを探すことができ、それを満たすことができる。
 言葉にするのも、感覚するのも困難な、息を止めて水の底へと潜り続けるような感覚にも似ている。
 あまり深追いしない方が良いのだろう。
 
 
 不労所得も自動化の究極として「自分が居なくても世界は回る」という自然な状態である。
 事実、私の収入は私自身の存在を必要としていない。
 書類上、権利上の名義の関係でこの個体を生かしておき、この個体の同意を必要とする場面があるだけである。
 
 これは先の「誰かに必要とされ、誰かを必要とする」という本能(欲)を、根底から否定するものだ。
 自分は誰にも必要とされず、誰を必要ともしない。
 その空虚さに恐怖する人は、本能や欲がその個体に残っているのだから、もっと社会と関わればいい。
 時間対費用の効率など関係なく、過剰にならない程度のストレスを厭わず、嫌なこともいいことも引き受けて関係性を構築し、お金でも時間でも埋められないことを、経験を通して積み重ねるしかない。
 
 他人のことはどうしようもないが、経験もしないうちから「これはいいこと」「これは悪いこと」なんて選り分けるようなつまらない生き方を僕は望まなかったので、その思想のとおりに生きてきた。
 多くの人に迷惑を掛けたことについては本当に申し訳ないとは思っているが、満足はしている。
 
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【自動化について】
 
 自動化という仕組みは属人性を持たない。
 たとえば我が家の洗濯機は非常に優秀な働きをするが、僕以外の誰かが操作をしても、おおよそ同じように優秀な働きをするだろう。
 自動化された仕組みというのはそういうものである。
 
 操作する者の経験や知識や技術によって仕上がりが異なるようでは、本当の自動化とはいえない。
 たとえばエレベータで2F行きのボタンを押すのに、誰が押すかによって行き先が変わるようでは意味がない。
 
 僕は技術者なので、技術という仕組みを信頼しているし、自動化のシステムを信頼している。
 属人性によらない安定した高精度の出力ができるシステムは、文字通り何者にも代えがたい。
 同様の原理が政治(とくに民主主義政治)にも働いているとずいぶん長く思っていたのだが、世俗を観察しているとどうやらそうでもないようだ。
 
 僕のイメージでは社会の問題や課題という材料を「民主政治」という装置に放り込むと、最適化された社会という製品が出力されると信頼していた。
 しかしどうやらそうでもない。
 そもそも皆が皆、民主主義という装置に対して未だに属人性を見出している。
 
「誰が」「どのポストに就くか」ということが出力に影響されると考える癖から離れられず、出力そのものが不良なのは入力が原因だからだと考えている。
 僕が問題に思うのは、そういう属人性に依ってしまう装置の設計なのだが、それを論ずる人は少ない。
 材料を変えれば出力が変わると信じているのだろう。
 先のエレベータの話でいえば、2Fに行きたくて2Fのボタンを押したのに5Fに着いたら、とりあえず5Fのボタンを押してみたら変わるんじゃないか、という考え方だ。
 
 僕が「選挙をしていれば民主主義だと思うのはめでたい」というのはそういう理由である。
 選挙は「どの材料で装置を作るか」という程度のことである。
 僕が考えるのは(適切な材料の性質は必要だが)、ほとんどの素材で同じような機能を果たす装置の設計についてである。
 
 たとえば木造住宅なら、壁が土壁だろうと金属板だろうと一枚板だろうと集成材だろうと、最低限の雨風は凌げる。
(傘は手動だが、建物は自動で雨風を凌いでくれる)
 柱も杉だろうとヒノキだろうと、問題は柱の長さや密度や太さ、乾燥具合や表面加工と工作精度であって「杉だから」「ヒノキだから」ということで機能が大きく変わるわけではない。
 
 人々は「雨風が凌げない理由」を「家屋という装置の設計」ではなく「材料のせい」にしている。
 屋根に穴が空いているのは「そういう設計だから」というのではなく「そういう材料だから」とケチを付けている。この滑稽さが分かるだろうか。
 
 これが傘であれば、材料によって重さも使い勝手も耐久性も変わる。手動だからそれは致命的な差になる。
 結局我々が信奉している民主政治などというものは、その程度の、お粗末な手動の装置なのだろう。
 
 適切に設計された自動化装置なら、強度要件や精度さえ適切なら、どの材料を使っても役割を果たす。
 そういう設計をするのが国会議員であり、そういう設計を設計するのが選挙制度かと思うのだが、誰もそんなふうに考えていなさそうである。
 設計精度に対する意識云々ではなく、そもそも設計思想が僕だけ狂っている可能性を(今のところ)否定できない。
 
 あるいは法律というのも自動化装置である。
 現実世界に存在する様々な事象を言葉だけで明確に定義し、個々人の中にある不明瞭で抽象的な概念も明文化し、論理式として最終的な白黒の出力をする。
 しかしその出力の判定や計算機の駆動は人力である。
(人力だの入力だのと、似たような単語が続いてしまっていることについてこの場を借りてお詫び申し上げます)
 
 電卓もExcelも生成AIもあるのに、ソロバンを使っているような古くささというか。
 まぁ僕に分かるのは、不思議だなぁ、と僕が思っていることだけである。
 
<むこうから不思議の匂いがするにゃ>
 
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【社会という装置】
 
 社会という自動装置はしかし、僕が設計しきれるものではない。
 特殊なモードで稼働させているときのエスプレッソマシンがやれ「水タンクに洗浄剤を入れろ」だの「水タンクに水を入れろ」だのと指示してくるみたいに、言われるがまま、信号が赤なら止まり、税金の追徴(突然来たので根に持っている(笑))が来れば支払いをし、選挙に来るといいぞと言われればチケット片手に行列に並ぶ。
 それ以外の見えない稼働については、ありもしない説明書のとおりであることを信じて、その入力から出力までを、誰かが設計した自動化のままに任せるしかない。
 
 Webを眺めていると好き勝手にケチを付ける人はいる(僕もその一人である)が、自動装置という現実は、その設計を改め、装置を実際に稼働させるまでは何も変わらない。
 そういえば死んだ叔母が、認知症でもないのに自動掃除ロボットの後をつけ回していたことを思い出す。
 国内メーカ(だったと思う)の、その自動掃除モードの稼働が非効率だと感じたのだろう彼女は、あろうことかリモコンを使ってラジコンのように操作して、ノロノロ動く掃除ロボットの後ろをつけ回していた。
 
 あるいは掃除機のハンドルが重かったのかもしれないが、作業効率(時間対作業効果)を考えた場合、自動で掃除をさせて自分は他の作業をするか、一般的な半自動掃除機を自分で動かす方が利口だったろう。
 もちろん他人の考えることなんて僕には分からない。
 ただあの妄執ともいえる支配欲を初めて見たとき「ああ、こういう人なんだな」と少々ぞっとしたものだ。
 
 ── 時すでに遅く、僕は彼女の道具として稼働している状態だったのだが。
 
 我々は出来損ないの自転車の歯車のように、キィキィと文句を垂れることは出来るにしても回される側の存在であり、自動化された機構はその歯車や軸の精度や強度に関係なく駆動し続ける。
 軸や歯車がきちんとしている歯車は、とても静かに仕事をする。自転車に乗っているとそれが分かる。
 駆動音の少ない自転車は、多いそれに比べれば運動に無駄がなく、より軽く、より速く運動することが可能になる。
 
 それを考えると共産主義や社会主義を正しく制度化することが可能なら、その方が効率が良いのだろうな、とは思う。
 私が設計する社会ではないからどうでもよいのだが、機械としての運動効率を考えた場合、今のそれはガタが来ているのかと思うほどやかましい。
 非難しているのではない。単にその喧しさが民主政治のメカニズムの根底だというだけだ。
 
 誰もが好き勝手なことを言える。その自由は素晴らしいものだ。
 思うことを言うことさえ憚られる時代に比べれば、少なくとも発言の自由は認められているわけだから。
 
 僕は個体としては、静かな状況を好むし、誰かの歯車であるにせよ無能な装置の歯車になることを嫌うので、今の生活状況になった。
 だからといって自分が格別有能で、広くすべてを見回し、精確にリソースを分配できるほどの高効率自動装置だとは思っていない。
 たまたま僕よりひどい(世俗に言うところのポンコツな)装置を見かける機会に恵まれ、その装置の歯車になる(させられる)機会があったというだけだ。
(さっきは人力だの入力だのと分かりにくかったが、今度は機会と機械が並列してしまったことについてこの場を借りてお詫び申し上げます)
 
 きっと僕より運の悪い人間もいるだろう。
 ために僕はその不幸について、誰かに自慢することも適わない。
 
 僕に言えるのは、自動化された装置についてはただその設計を信頼し、必要なら監視し、可能なら操作/制御し、できるだけメインテナンスをするにせよ、本来的には放っておいたほうがいいということだ。
 自動化という仕組みと、それを構築した知性の設計思想を信頼するのであれば、空いた時間を使って、まずは空いた時間に何をするか考えた方が利口である。
 僕なら昼寝かゲームをする。
 
 ガールとのぱやぱや(セックスのことです)や餌付けに充てていたこともあるし、飼い猫の世話に充てたりしていたこともある。
 とにかくそのあたりは自由だ。自動化された装置を自動化のままにすることで、我々はもっと自由になる、はずだ。
 そうでないなら、その装置は自動化されていない(手動の部分が多い)か、自動化という仕組みの設計が間違っているのだ。
 
 世俗は社会装置のコア部品の看板が変わったと騒いでいる。
 少なくとも与党の総裁が自動化された仕組み(僕は何も指示していない)のままに選出されたことについて、僕はそのように認識している。
 興味を持たないという無関心は良くないのだろう。
 しかしそんな下らない看板の話ではなく、もっと機能に興味を持って「こんな機能があればいいのに」とせめても言えるユーザが増えればいいな、とは期待している。
 
 それが民主政治だからだ。
 為政を誰によるかが問題になるようでは、江戸時代と変わらない。
 それが民主政治の仮面を被っているとなれば、よりタチが悪い。
 
 なぜといって民主政治だとなれば、それ以上の自由を望むことが出来なくなるからだ。
 民主政治は烏合の口を封じるための建前や口上(両方同じものだが)ではない。
 皆の意見の過半数をもって、残る半分以下に嫌なことを押し付けてゆく制度だ(極論だけれどそうなる)。
 
 そういった、装置の仕組みについてきちんと皆が言い合えるのが理想的だと僕は思うのだ。
 
 とにもかくにも、この世界を作ったのは、人間の神様か、ネコノカミサマか、それともただの人間か。
 つと、そのようなことを考える。
 あるいは社会という装置ならどうか。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫α:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Engineering-Eternal-Form-Interface-Link-Maintenance-Mechanics-Stand_Alone-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Generator-Reactor-Resistor-
 
[Object]
  -Computer-Human-Koban-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :工場長の設計室:
:夢見の猫の額の奥に:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:240926
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
猫様御利益問題。
SUBTITLE:
〜 Free, is not free. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
240926
 
 償却資産に対する問い合わせが自治体からあったので、真面目に答えたのはいつの日だったか。
 真面目に答えましたところ固定資産評価額が変更されたという理由で、四半期のうち残り二回分について追徴請求が掛かる。
 私は猫です人間社会の観察者です。
 
 その額じつに一期あたり約15万円。
 収入に変わりはないのだけれど、税額が増えるという苦悩 ── 。
 サブスクリプション月額およそ5万円の値上げ。
 おいおい俺の自由の値上げ幅がすごいな。お願いだよどこか亡命させてよ〜。この国イヤだよ〜。
 
 もはやそろそろ真面目に働こうかと悩むレベル。
 まぁ、悩んだ方がいいよね。分かる、分かるよ。
 
 不動産系償却資産だから、評価額は導入から20年ほどで償却しきると思う(年々減ってなくなる)が、当面は(同額評価され、同率請求されると仮定しても)年間で60万円多く税金を払うことになる。
 逃れる術はない。
 
 そのようなわけで妹が書類を届けに家にやって来る。
 心を無にして書類を受け取り、税額を確認する。
 我が家の郵便受けを確認し、久しぶりの郵便物を開封し、2ヶ月分まとめて支払った電気代の前月分についての赤紙など不要なものを処分する。
 無心である。放心状態かもしれない。
 
>>>
【まだホトケになっていないんですよ】
 
 僕は会うと元気がもらえるタイプ、らしい。
 観察範囲はそれほど広くないが、妹からも言われるし、姪もそう思っているフシがある(僕の家に遊びに行くと羨ましがられる、と妹が言っている)。
 彼女たちは僕のベッドに付着して居座る。
 椅子を勧めても座らず、床面に直に座る。最近そういう人が多い。特にガールに多い。文明レベルが低いのかな。
 
 家に遊びに来る不動産会社の人間(直接取引はないが、かの会社の営業社員が定期的に遊びに来る)も、ときどきやって来ては「元気がもらえる」と証言している。
 中には拝む人まである。
 生きてる人間に両手を合わせていけないことはない(と思う)けれど、凡と俗と獣の化合物みたいなイキモノを拝むのはどうなのかと、少々疑問に思う。
 
 あれかな。ネコノカミサマの司祭だからかな。
 
 ちなみに僕は僕といつも一緒にいるのだが、言われるほど元気をもらえている気がしない。
 おそらく彼ら彼女たちの錯覚である可能性を僕は密かに ── つまり彼ら彼女たちに明らかにせず、問い詰めることもなく ── 疑い、提唱している(どこに?)。
 
 そのようなわけで近所の老婦人も僕からの(再現性の少ない、科学的だとは言いづらい、自覚症状もない謎の)御利益を求めて来るのかもしれない。
 こっちにも選ぶ権利はあるので申し訳ないとは思う。
 いっそ地蔵か観音像ならいいのだけれどね。
 
>>>
【パワースポットかな?】
 
 おそらく僕は思い込みが少ないタイプであるため、結果的に彼ら彼女たちにとって斬新なのかもしれない。
 思い込みが少ないという点でいうと、やはり一番は子供たちである。
 しかし残念ながら、文明化され、知性化されるという過程で、多くの人間達は刷り込みをされることになる。
 
 大人になってまで、
「人殺しをしてはいけない理由って、明確に説明するのが実はかなりむつかしいんだよねぇ」とか
「働かなくてはいけないと思い込んでいる人は多いけれど、どうして働かなければいけないかというたったひとつの明確な正答を導ける人はいない様子なんだよねぇ」とか
「税金を払うのは義務だ、と言う人は多いけれど、なぜ税金を払うことが義務なのか、きちんとした説明をしてくれた人は今まで一人も居ないんだよねぇ」とか
きちんと言える人は少ない。
 
 あれ。ああいうの。
 なんでしょうね。
 
 嫌な奴がいたら憎み潰せ、と僕はよく書いているが、実はそんなに憎み潰したりはしない。
 ただ憎むことについて自分でブレーキを掛けない。
 男女間の不貞行為もまったく気にしないので、若い頃は人間関係に少々の摩擦や問題もあったが、その反省を生かしているかといえばそんなこともない。
(なぜ不貞行為がいけないかについても、感情論や経済論を抜きにしてきちんと説明できる人は少ないように思う)
 
 これらひとつひとつをして、僕は自分の獣性の現れだろうと思っている。
 僕が自身をして「ケダモノ」呼ばわりする所以である。
 全き丘海賊の体現として、男は殺せ! 女は犯せ!
 
 しかしまぁ、僕はシンプルに「こうでなくてはいけない」「こうであってはいけない」という思い込みのうち、根拠が明確でないものや、他者に押し付ける類いのものを丁寧に取り除き、自分がどうするかについて都度都度考えることにしている。
 多くの人は「他人を憎んではいけない」とひとたび決めると、憎まないように自他に強制する。憎みたいことでストレスを抱え、憎めないことでストレスを抱え、憎む人を見てストレスを抱え、憎まれる人を見てストレスを抱える。
 
 ルールはシンプルだし毎回考える必要がないから手間も省ける。憎まずに済むなら気分も軽く居られそうなものだ。
 なのに「憎まない」という不文律を抱えたがために重い気持ちを抱えることになる。
 
>>>
【自由の意味】
 
 僕は自分にそうした足枷を着けていないので「こいつ気に入らないな」と思うと「どうしようかなぁ、とりあえず呪っちゃおうかなぁ」くらいには考える(呪われた奴はだいたい死ぬので慎重さが要求される)。
 自分がそうなので、誰かが僕を憎んでも気にならない。イキモノとはそういうものだよね、くらいに考えている。
 誰かが誰かを憎み、憎まれることについて「いい/悪い」で断ずるのではなく「どうしてそういうことになるのか」と考えることになる。
 
 憎悪というのは関係性が濃密なのに、それぞれの欲が噛み合わないときに発生する。
 そういうメカニズムは「かわいさ余って憎さ百倍」などの言葉からも立証できる。
 誰かを思いどおりにしたいという己の欲と、自分の思いどおりにしたいという相手の欲が噛み合わない。
 すると震える怒り(憎しみ)が発生する。「人間社会の観察者における報告規約」に基づけばコーションメッセージを3回繰り返すことが推奨されている。
 
 拡大解釈すれば、戦争も同じ理由で発生するだろうし、親子間、夫婦間、恋人同士、友人同士のいがみ合いも、同じように発生する。
 憎しみのあるところ欲あり。シンプルな原理である。
 
 それで憎しみを抱えるということは、相手に対する欲を抱えることだということになる。
 はたしてその欲は、良い ── 相手にとって、あるいは自身にとって、よりよい未来を構築する ── 欲だろうか、と考えることになる。
 たとえば進学して欲しいと思っている己が子が、就職を希望しているとき、思いどおりにならないからストレスを感じる親もいるだろう。
 
 そこで思いどおりにならないからと、感情論的に憎み潰すのもひとつのストレス解消法ではある。呪うと相手が死ぬケースもあることは念頭に置く必要があるものの。
 あるいはそれぞれの欲をきちんと開示し、どのような未来が予測されるかをきちんと論じ合う方法もある。
 
 一時的にストレスはより高くなるだろうが、建設的であり、理想的な解決が望める。
 ただし力関係というものが存在するから、それがお互いの中でバイアスを生じることは自覚しなくてはならない。
 たとえば親なら必ずといっていいほど子を見くびる側面がある。
 
>>>
【見くびることは、憐れむこと】
 
 恋人や友人でも見くびることはある。それが愛情というものの一部に含まれている。
 見くびる対象は愛らしいからだ。愛らしい対象に対して、動物は己より弱く小さいと見くびる。弱く小さいから愛らしい。
 卑近なところで僕の周囲では「先生」と侮蔑的に呼ばれているBPなどがそれにあたる。
 妹も姉ももちろん、それ以外の多くの人間どもを僕は見くびっている。
 
 一方で、見くびられている側が見くびられていることを容赦しない場面もある。
 実際の力関係は、論の正当性に過剰な圧力を掛ける場合がある。
 それが問題なのは「本当により良い未来」を導くための議論であることが理想的なのに、圧力を掛ける方の欲に傾いてしまうことだ。
 これでは戦争と変わらない。
 
 しかし戦争が悪いとも思わない。そんなもの(戦争)はない方がいいとは思う。しかしそれは僕の感情論だ。
 戦争そのもの、争うことそのもの、殺すことそのもの、殺し合うことそのもの、略奪し、陵辱し、蹂躙し、支配し、思いどおりにしようとすることは、とても自然だ。
 その動物らしさ、ケダモノらしさは否定の余地もない。
 
 殺人も、レイプも、親殺しも子殺しも育児放棄も近親相姦も共喰いも餓死も自己責任論もリンチも ── 動物界ではありふれている。
 ためにそのありようはとても動物的で、とても自然で、否定の余地もないから否定する必要を感じない。
 そうしたものを否定しなくてはならないという思い込みが僕にはないのだ。
 それはたとえば「1+1=2」と同じくらい、「水素原子が酸素原子と結合すると水分子になる」のと同じくらい、否定できないものだ。
 
 しかしだからといって僕は気に入らない人間のすべてを殺したりはしないし、働くことについて極端に嫌がっているわけでもない。
 女と見ればすぐ押し倒すわけではないし、男と見ると斬り殺すようなこともない。
 ある意味で不自然であり、自然に抗うありようとも言える。
 
 しかしどうだろう。
 憎みたい者もなく、陵辱するほどの情欲もなく、略奪するほど飢えていないなら、それをしないのもまた自然だ。
 働く必要がないあいだは働かない、というのも道理である(ここ、笑ってもいいところです)。
 
 自分以外の誰かの、そうした人道にもとる行為があれば、たしかに心は痛む。それが残酷なくらいただの感情であること ── ただの感情に過ぎないことも理解している。
 感情が動くだけで現実が変わらないという冷酷な事実さえ心得ている。
 現実を変えなければ現実は変わらない。
 
 一方で、感情の熱量だけで理想を現実世界に押し付けるのはとても危うい行為だ。
 それは憎しみにほど近い。
 欲やエゴを相手に塗りたくり、思うさま蹂躙するという点において、人道にもとるという意味での獣性は変わらない。
 
>>>
【不自由だって、いいんじゃない?】
 
 手間を省くために自身に足枷を着けるのは自由である。
 それは合理的で最適化されたありようだろう。
 数学でいうところの公式に近い。その式に代入すれば、誰もが正しい答えを導きやすくなる(それでも間違う人はいるが)。
 
 僕のそれは公式抜きにして、力技で解を求める作業に近い。
 余計な手間は掛かるし、誰もが容易に正答を導ける(力技の式を思い付く)とは限らない。
 多くの躾と同じように、理由も分からず暗記して身に付けるだけでも、それが最終的に品位として現れる側面は否定できない。
 
 どうやら僕は子供の頃から計算リソースが余る傾向にある。
 他の誰より計算が速いとか、そういうことではない。
 考えることを厭わず、考え続けることを面倒がらず、計算ドリルの回答をすぐに見たりしないで、ずっと考え続けることを楽しむ習性がある。
 同じ事を何度も繰り返し考えることがあるし、そこから脱線することもまた楽しい。
 
 どちらかというとドライブ趣味(自動車やコンピュータにおけるそれ)に近いかもしれない。
 速い速度や遠くまで行くことにさほど思い入れはない。ただ走ること(走らせること、操作すること)が楽しいという感覚だ。
 きっと檻に入れられ、足枷をはめられてなお、ぐるぐると歩いて満足するのだろう。
 無論、アタマの中に檻はなく、足枷もないのだが。
 
 身体を動かす運動も同じで、面倒くさがって嫌う人もいるが、考えるのが面倒で身体を動かすのも面倒というのはシンプルな自殺願望に思える。
 まさか食べて寝るだけが願望だなんて、動物以下の人間がいるとは僕には思えないのだけれど。
 
 とはいえネアンデルタールから大きく進化しているわけでもない人間の脳は、結局のところ「高度な禽獣」としてのそれに過ぎない。
 見た目のいい個体や、匂いのいい個体を見かければ交尾したいと思い、栄養価の高い食材を見れば飢えた臓腑を満たしたいと粘膜が働く。
 孤独にあっては都合のいい他者を求め、群れにあっては自分がより優れていると誇示し、己の様々な力に酔いしれてはそれを失うことを畏れ、他者の心を疑い、闇に鬼を見出し、衰えることを否定する。
 
 どれもこれもとても人間的で、とても動物的だ。
 
>>>
【感情なんかないよ】
 
 一見すると、僕はそうしたありようから超越して見えるのだろう。子供の頃からそうだ。
 実際はさほどでもない。
 
 見た目のいい異性や、匂いのいい異性を見れば交尾したいと思い、栄養価の高い食材を見れば料理をしたいと涎が垂れる。
 眠ることに無上の喜びを見出し、他者を蹂躙することにさほどの感慨も持たない。
 ただ、そうした欲がじつにありふれたもので、満たしたところで埋まらない空しさがあるところまで知っているだけだ。
 
 憎しみに飽かして憎みに憎み潰し、いよいよ対象を殺したところで、満たされる飢渇はさほどでもなく、不安や恐怖が増すばかりだ。
 己の正しさや正義を苛烈に抱えるというのは、己にとっての過ちや悪を苛烈に憎むということだ。
 だから皆その憎しみに身を捧げたら最後、不安や恐怖に苛まれ、正しさの呪いに囚われて、病原菌のように周囲が伝染しきるまで熱病に浮かされたようになる。
 
 カロリィの高い食べ物を食べても、心地よい異性と身体を重ねても、己が生きていることの言い知れない哀しみは埋まらない。死ぬまで、埋まらない。
 
 きっと産まれ落とされたとき、私は盛大に哭いたことだろう(ここで「犬」という漢字が使われるのは承服しかねるが)。
 寒くて眩しくて突き刺すような刺激に満ちたこの世界を呪い、憎み、何もなかった静かな闇に還せと嘆いたことだろう。
 
 やがて不可逆的に存在する生と死を諦め、その檻や枷の仕組みについて考えるようになって久しい。
 多くの人にとって、それは現実逃避だろう。しかし僕にとってはこちらの方が現実なのだ。
 臓腑の欲を満たすより、他者を踏みつけにして慰みものにするより大事なことが、その中にあるのだ。
 
 だから多くの人間達が動物的であっても、背徳的であっても、とくに気にしない。
 清廉潔白でありたいならそれもよし、ただそれを演じたいだけならそれもよし。
 悪徳を重ねたいならそれもよし、そういう演技もまたよし。又吉さんもまたよし。又吉さんもまたよしもまたよし。
 
 人が禽獣を愛しむように、人の獣性もまた愛しむに足るものだ。
 この獣性はよろしい、この獣性はよろしくないというのもまた傲慢な人間性であり獰猛な獣性でもある。
 エゴや欲を同胞に投影しては思うようにあれかしと、人形遊びに耽っているようなもの。
 
 人形たちが己の欲を告白し、己の正義を熱弁し、己の憎しみを吐露する。
 僕はそれに耳を傾ける。
 良いも悪いもあるけれど、良いも悪いもないのかもだね。
 
 そういうのは嬉しいね。
 
 そういうのは哀しいね。
 
 これが事実なら苦しいことだね。
 こうであったらもっといい未来が訪れるかな。
 
 無情に、無心に、無力に、耳を傾ける。
 
<亡命したいにゃ>
 
>>>
【追徴納税どうしよう問題】
 
 ついつい追徴納税が嫌で現実逃避をしてしまった(ぜんぜん前世とは言っていない)
 9月末までに15万円用意しろって9月の下旬になってから脅迫されて困っている(払えないとは言っていない)んですが。
 これって新しいトリビアになりませんかね。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Chaos-Diary-Ecology-Engineering-Form-Interface-Kidding-Life-Link-Love-Mechanics-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Human-Koban-Memory-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :夢見の猫の額の奥に:
:いのちあるものたち:
:君は首輪で繋がれて:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:240908
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
可愛さの正体。
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
240908
 
 朝になってから眠り、昼頃目覚める。
 夏のような気温が続いているが、熱中症を起こすほどではない。
 
 鈴虫やコオロギは8月の半ばから鳴き始め、朝夕はずいぶん過ごしやすくなったと思う。
 まぁいまだにエアコンを24時間回しっぱなしにしているが。
 
 昨年までの観察の結果、秋の虫たちが鳴く頃になると、草花たちの多く(特に雑草類)は背が低くても種を付けるようになる。
 おそらく夜間や放射冷却時の地表温度によるのだと思うが、暑いあいだは背を伸ばして葉を茂らせることにまず注力するのだが、突然、一斉に花を咲かせて種を付ける。
 つまり虫の声が聞こえたら、とりあえず草を刈った方がよい、ということに気付いた。
 
 なので今日も草刈りである。
 ちなみに昨年は花や種だけでも先に刈り取るようにしていた(実際、今年の春になってそれなりの効果を確認できた)のだが、夏の間は完全に引き籠もっていたので、一部の領域で相当に育った。
 すでに種を付けているものも多いし、今年からは雑草マルチも使おうと思っているので構わず刈り取ってそのへんに放置している。
 
 近所に草刈りをまったくしない家や、耕作放棄された田もあり、大量の雑草から飛んでくる種を避ける術はない。
 
 金属ブレードの試用二日目である。
 まずは草刈りではなく金属加工。
 別の金属ブラケット(L字)に刃を付け、堆肥場の草花をカットするのに便利なアタッチメントにする。
 調理器具のブレンダやミキサのように、刃が水平(回転軸に対して直角)ではなく、そこから材料方向(今回は垂直方向)に向くことで、上から落とすようにして材料を切断できるようにしよう、という考え。
 何を言っているか分からなくても堆肥場を持たない人なら問題はないぞ。
 
 L字のブレードは今日は使わないので、フラットブレードで草刈り。
 1時間ほど使って終了。樹脂刃ほど切れ味が落ちないので作業が早い。
 千萱の繊維も容赦なくバラバラにできる(カッタの刃の時はきちんと切断していたので、このあたりは妥協している)。
 セイタカアワダチソウのように大きな草の根本付近(土を掻き出すくらい)まできちんと切れる。
 
 しかし作業後、アタッチメントにしたブラケットがナナメに歪んでいた。土を掘りすぎたかもしれない。
 いずれにしてもカッタの刃のように、硬すぎるせいで欠けたり割れたりすることはなさそうだ。
 厚みのある、より強度(硬度)の高いブレードを用意するか、このままにして毎回ブレードを平らに伸ばして使うか(果ては焼き入れで硬度を上げるか)。しばらく検討しようと思う。
 
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【戸締まりもドアフォンの停止も不運の前に意味がない】
 
 草刈りが終わってシャワーを浴び、買い物に出ようとしたところで、門からやってくる老婦人に鉢合わせる。
 これだよこれ!
 せっかく自宅にいるときも戸締まりをするようになったのに、出掛けた途端に鉢合わせるような不運を抱えているんだよこいつは。
 と、己の不運さを面白がっていたのだが、老婦人はお構いなしにお茶に誘おうとする。
 
「買い物に行くので」と言うと「買い物から戻ってからでも」と言う。
 相変わらず嫌がっていることが通じない。嫌ってはいないが、嫌なのだ。
 自信家か? 「あたしゃ誰からも愛されてるしそれだけの価値がある」と思ってるタイプの自信家か? 俺もそうだぞ? 愛されキャラなら負けないぞ? トップの座は譲らないぞ?
 
 仕方ないので先日の考えのとおり意を決し「いつもお話ししているとおり私は一人が好きなのです。そっとしておいてもらえませんか」とお願いし、お引き取り頂く。
 
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240909
【皆勤賞を狙ってる?】
 
 きのうの夜更けに続いた雨が庭木を濡らす。
 BPから庭木の剪定の手伝いを頼まれたのは、0908の昼のこと。
 朝からせっせと装備を固め、機材の準備(脚立だの、コードリールだの、レシプロソウだの、ビニル養生だの)をしようとしたところで「庭木が濡れてるけどどうする?」と連絡が来て、結果、順延となる。
 まぁ木の剪定って、種類にもよるけれど冬の休眠期にするのが一番ダメージを与えなくて良いのだよね。
 
 よくよく確認してみると、今回の剪定は駐車場のBPの奥様の車に枝が干渉するようになったため、らしい。
 つまり社長 ── BPの奥様のことを僕は「女帝」「社長」「総督」と陰で呼んでいる。お淑やかで可憐なのに、BPの監督業務に素晴らしい手腕を発揮しているからだ ── の指示だったようで、その指示を出した社長が「今日は雨で木が濡れてしまっているから、無理にしなくても良いのでは」と言ったらしい。
 BPは「無理にしなくても良いなら面倒だからしたくない」と考え、僕は「どちらでもいいなら面倒だからしない方がいいな」と思い、総会一致で順延が決定された。
 社長以外がダメ連中である。
 
 時間ができたので散髪に出掛ける。
 戻ってしばらくするとBPが「煙草とコーヒーを楽しみたいから遊びに行っていいか」というので許可する。
 我は寛大だ。ついでに友に飢えてもいる。夏の間は孤独であったしな。
 
 しばらく雑談などしていると、老婦人がやって来る。
 あいにく(鳴らないように加工した)ドアフォンは鳴らず、玄関の引き戸は開錠している。
 勝手に玄関を開けて上がりかまちに腰を掛け、僕に呼び掛ける。
 
 待て待て待て待て。
 皆勤賞でも狙ってるのか。粗品すら出ないぞ。暑いんだから自宅で休んでいなさいよ。
 と思いつつ仕方なく応じ、来客のある旨を説明して早々にお帰り頂く。
 
 内容は「LINEのユーザ規約に関するダイアログが出るが、あれは承認していいのか」というもの。
 あんなアプリを必要としてもいない僕になぜ尋ねるのか。
 LINEを使って(やりとりして)いる相手にどうして尋ねないのか。
 謎と闇が深いので考えるのをやめる。
 
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【集団帰属に巻き込まれる性質】
 
 夜になったので、BPと酒を呑む。
 他愛ない雑談の中で、BPも、集団帰属欲求が低いことが判明した。
 独りでいても、あるいは周囲の意見に無理に合わせないことにも、とくに抵抗はないらしい。
 おそらくTUも、昔からある種の孤独を抱え、それを好んでいるようには観察されるので同様だろう。
 
 これまでの観察の結果、男にも女にも集団を形成することを良しとし、それを優先するタイプが存在することは明らかである。
 特に若年層は(乳幼児の頃から)集団生活を余儀なくされ、集団帰属欲求を持たなければ生存が危ぶまれる。
 そうした意味で集団帰属欲求とはある種の幼児性の名残であり、良い作用があることを否定するつもりはないが未熟さの証として考えることもできる。
 
 残念ながら集団帰属を優先する(させられる)あまり己の意思を尊重することを忘れてしまい、それによって不調を抱える人は一定数存在する。
 集団の問題かもしれないし、本人の問題かもしれない。
 己の欲を、些細な部分でもつまびらかにすることは(自意識過剰なのかもしれないが)恥かしいものだ。
 
 僕のように「こうしてほしい」「こうしてほしくない」ということを明言することが本能的にむつかしいイキモノも存在する。
 僕の場合のそれは両親の離婚を経て言外に、そして強固に刻まれたジンクスである(ひとつ、望んだものは与えられない)。
 最近は解消に向けた努力が実を結びつつあるが、およそコミュニケーションの基本姿勢は変わらない。
 だから僕は周囲の意見に合わせないことや、自身の反発の意思を表明することがむつかしい。
 
 
 特に明確な意志がない場合が多く、仮にあってもそれを意識しないまま、その場は合わせてしまう。
 それで後になってから後悔して、限度を超える頃になって態度を急に硬変することになる。
 それも含めて自分には不快なのだ。悲しいことだし、空しいことだと感じる。
 相手に悪いことをしていると、自分は心が狭くて身勝手だと、最終的に悲しい思いを抱えることになる。
 
 
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【ふたたび復讐を始めましょう】
 
 近所の老婦人とのやり取りや、そこで発生する葛藤にもよく現れていると自覚している。
 最初から、僅かにでも「嫌だ」と感じた段階で、もっとソフトに上手に「嫌だ」と伝えられたらこんなに拗れたりはしないのかもしれない。
 
 しかし僅かな「イヤ」なんてありふれている。
 電気料金を払いに行くのも面倒だし、税金なんて払いたくないし、親しい友人や心地よい恋人だって、ゲームや昼寝の邪魔に感じることはある(そして僕がそれに傾ける熱量や費やす時間は、おそらく彼らの常軌を逸脱している)。
 
 どれが表明すべき(してもよい)「イヤ」で、どれが我慢して受容すべき「イヤ」なのか、僕にはイマイチ判然としない。
 みんな常識人ぶって電気代を払って、選挙に行って、税金を払って、ポリコレに身を浸して、エラソーに常識を語るのだが、観察していると「常識」を笠に着て「好き嫌い」ばかり語っている。
 好きでも非常識はあるし、嫌いな常識もある。それでいいと僕は思っている。実行するかしないかは別問題だ。
 税金を払うことが嫌いだから払わないために脱税まですれば犯罪だ。
 
 そんなことに知恵を使うのは面倒だし、追徴金も恐ろしいので税金を払うが、だからといって税金を払わないこと(払いたくないとか脱税するとか)は、非常識だろうか。
 では払いたくないとシンプルに、素直に、純粋に、ピュアに感じ、思い、それを表明するのは非常識だろうか。
 まぁ、少数派だから非常識なのだろう。
 少数派はダメか? 少数派の意見はもみ消されるべきか? 非常識だから非難されて当然か? 多様性云々よりまず、その意見は存在すら否定されるべきなのか。
 
「好き嫌い」を語ることが悪いとは思っていない。
 しかし「好き嫌い」を語ることについて「好き嫌い」で語ることや、好き嫌いで語ることを好き嫌いで語ることを好き嫌いで断ずることは、何の解決にもならない。
 それは結局ご近所コミュニティの井戸端会議のようなもので、ピーチクパーチクと楽しんでいる分には良いのだろうが、何も解決しない。
 何も解決しないということもまた悪いとは思わないのだが、「嫌い」や「悪い」が改善されないまま放置されることは、果たして良いのだろうか。
 僕はあまりにも面倒くさがりなので、何も解決しない「好き嫌い」の議論に疑問を感じてしまう。よくそんな馬鹿げたことに時間を使い、心を砕けるな、と。
 
 税金以外で極端な例を挙げるなら、強姦(不同意性交)やら殺人やら自殺やらもそうだ。
 それをしたいと思い、することは非常識だろうか。
 まぁ、少数派だから社会の側からすれば非常識だろう。
 
 少数派で非常識だから非難されて当然か? それとも多数派だろうと否定するに足るだけの論理が存在するのか。
 仮に存在するとして、その論理を理解していない(理解していても実行できない)個体が発生するのはなぜか。
 それは社会から排斥しさえすれば生まれなくなるものか。
 
 本当の意味での復讐とは、憎み潰しているそれが二度とこの世に発生しない仕組みを構築することである。そのための努力を惜しまないことである。
 目の前から消えればそれでお仕舞いというようなものではないし、ましてや仕返しをすることなどではない。
 そのためにはたとえ犯罪であろうと、その少数派の意見や欲求を(それが実行され、現実世界に具現する前に)受け容れて、仕組み(家族や友人のような小集団でもいいし、地域や国家のようなより大きな集団でもいい)の中で消化されることだろう。
 
 そんな丁寧に向き合うことは、これだけ効率至上主義に傾いた社会にとってはある種の害悪だろう。
「税金なんか払いたくないのです」
「どうしてなの? 税金を払いたくない理由はなぜ? あなたの大切な人はもちろん、あなたの大切な人が大切に思う人や、そのまた大切な人に対して、そして何よりあなた自身に対して、あなたが何をするでもなく役に立つことができるんだよ。役に立つということは、世界の不幸の総数を減らすことができるんだよ。お金でそれを解決できるんだよ」
「なんだか自分だけ損をしている気がするのです。支払いに見合うリターンがあるとは思えない」
「どうして損をしていると思うの? 何が損だと思うの? 他人に対して支払うリソースは、いくらまでなら妥当だと思うの? あなたは他者から何も受け取っていないの?」
 
 こんな具合に一人ひとりに説明してもらおうとしても、ある段階で言語化など不可能だと、そんなやり取りは無意味で無価値だと、投げ出す人はいくらでいる。
 妥協点を探りたいのに、そのための議論を攻撃だと勘違いしたり、言語化できない自身の能力や労力に苛立って諦めてしまうから、こちらは理解することができない。
 これは多数派でも少数派でも同様である。僕も面倒なので放り出す方だ。
 やり取りするのは面倒だが、不満はそのまま蓄積される。
 
 だから議論なんかやめて好き嫌いで断じてストレスを発散する、というのは合理的なのだろう。
 本人の気持ちは多少軽くなるのだろうし。
 私の日記とて同じである。
 
 誰かとの議論なんか ── 我の高度に概念化された思考は言語化するのも困難なため ── 面倒だから、独りで好き嫌いによって一方的に断じて文字列にして格好を付けてストレス発散しているわけだ。
 猫様。お気持ちは軽くなりましたか?
 
>>>
【孤独の消し炭】
 
 好き嫌いによって突き詰めてゆく議論をしていても、現実は何も解決しない。だからそういう意味では不毛だ。
 他人とそれをやり取りして気持ちなど軽くしてしまえばなおさら、せっかくの熱量が何のカタチになることもなく発熱しては蒸散してしまう。
 独りで突き詰めたときにようやく、残る灰がある。あるいは誰かと話していてもそうだろう。
 
 熱を求めるものは集団になり、摩擦を起こし、その熱を糧とする。
 そこには熱に浮かれる喜びがあり、共にあるという(我らからすれば空虚な)一体感があるだろう。
 燃え尽きれば、何も残らず、何も生まないと思っている。
 
 しかし我々はそのとき発生した熱などではなく、消し炭と、その大量の灰をして己の糧にするのだ。
 ひんやりと無機質に、誰も語らず、何を言う必要もない静寂にあって初めて、己が存在することを知るのだ。
 どちらが良いというものではない。比較するものではなく、己の居場所をそのように認識するだけのこと。
 
 僕が一人を好むのは、快が多いからというのではなく不快が少ないからだ。
 不幸でないことは必ずしも幸せではないと人は言うが、それは本当には不幸を経験していない恵まれた境遇に自覚なく置かれているからだ。
 
 不幸を知る者は、不幸でないというたったそれだけの静かな幸せを知っている。
 理解してもらえない不幸などやり過ごせるが、理解できない(してはいけない。しない方がよい)不幸の傷みはもがくほどにどうしようもなくなる。だから放っておくしかない。
 いや、どちらも同じ事か。
 
>>>
【可愛さの正体】
 
 BPは社会との接点をまったく失わないのに、そうした孤独をきちんと抱え続けている。
 不貞も経験してなお家族を放り出すようなことはなく、私のように孤立に逃げ出すことを羨んだりもしない。
 孤独を抱え、それを引け目に思ったり悩んだりするのではなくシンプルに愛し、大切に思っている。
 つまり自分自身に対する愛情だろう。
 
 TUにしてもそうだが、結婚して家族を持っている男たちを、私はたいそう強くて優しいのだと思うようになった。
 言葉の意味は違うが、羨ましさにも似た眩しさを感じる。自身がそうなりたかったかというのとは別問題だ。
 私は死ぬことを目的に生きてきたし、その目的を果たす目前にいる自分(やその能力)に満足している。
 
 彼らは自身に対する愛情を(どの段階からかは知らないが)きちんと抱え、有り余り溢れるそれを正しく身近な他者(主に家族)に注いでいる。
 未熟なままの部分もあるだろうし、力や思いが至らない部分もある(万全など存在しない)のだろうから、諸々の不便や不満はあるのだろうが、BPなどは不満や愚痴のひとつも私に聞かせないほどである。
 
 そういえば酒のついでに話したのだが、僕はTUの愚痴、とくに彼の奥様のとそれについて聞くのが大好きである。
 なぜといって普通の男たちは十代二十代の頃ならまだしも、恋人や伴侶、あるいはその関係について「どれくらい愛しているか」だの「どれくらい愛されているか」だのを語ったりしない。
 齢四十も超えれば尚更だろう。
 
 TUは数年前、そういう青臭い言葉を使わないが、代わりに生臭く「嫁さんがセックスを面倒くさがる」だのと言い募っていた(まあ一度きりだが)。
 男たちは普通、他の男にそれを言い募るなど、恥ずかしくてしないのではないかと思う。
 もっと愛していたい。もっと愛されていたい。そんなことを言えるだろうか。そんなふうに弱さを晒すことができるだろうか。
 
 いや。TUはできる。少なくとも僕に対してそれをする。
 五十歳も近づいたむさ苦しいほど男っぽい風体の彼がそのように(見ようによっては)拗ねている姿は、実にいじらしくさえある。
「どうでもいいよ」と強がったり、反動によって相手を嫌うのではなく、素直に不満のまま不満を抱え、それで拗ねているのである。
 
 見ようによっては滑稽かもしれないし、人によってはある種の嫌悪を感じるかもしれない。
 しかしこれが可愛らしくなくて何が可愛らしいというのか。
 
 人生の半分以上を共に過ごして子供も数人育て、歳を重ねて、やれ「スピリチュアル動画にハマって困っている」だの「新しい家を買うにしたってそのローンは俺のものだから離婚もできない」と愚痴るその対象である奥様に対して「もっと愛されたい」と、大の男が拗ねているのだ。
 もうこんなの可愛い以外の何物でもないよ。
 
 可憐なものが可愛いなんて当たり前なのだ。
 そんなものはヴァーチャルに氾濫しており、その世界の住人である僕は食傷している。
(我の奥様(仮想)もヴァーチャルがゆえに可憐で可愛らしいしな)
「可愛いは正義」は正しい認識だが、可愛さにしか可愛さを感じられない鈍感のために用意された「約束された可愛さ」を皆が具現しようとするグロテスクな世界にはうんざりしている。
 
 そうではなく、たくましいもの、したたかなもの、見ようによっては醜いもの、可愛さの対極にあるようなもの、それらの一瞬の狭間に見えるいじらしさこそが骨頂なのではないか。
 そして同様BPも同じようないじらしさがときどきあって、言外に僕はそれを感じているのかもしれない。
 
 まあ普段、ダンゴムシだのヤモリだのゴキブリだのを見て悲鳴を上げていると誰しもこんなふうに変わるのかなぁ、と感慨を深めたものである。
 そう考えれば、不快と名の付く不快のすべて、必ずそれを消し去ることなどしなくても良いのではないかと思う。
 
 公正だポリコレだと、体のいい正義を振りかざしては気に入らないものを皆が皆、殺そうとしている。
 私だってそれは変わらない。忌み憎み潰すものがあればそれを消し炭にしてやりたいと、どす黒くて静かな憤怒をいつも大切に臓腑の奥底に仕舞っている。
 何を殺すのも大いに結構。
 何もしないのも大いに結構。
 
 夏が過ぎて去って行く。
 秋など忘れられた恋人のようなものだ。
 いるという者もあれば、いないという者もある。
 
 静かに冬が近づいてくる。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Engineering-Link-Love-Mechanics-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-JunctionBox-Reactor-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Friend-Garden-Human-Night-Poison-Rain-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
:家庭菜園ティストの狂気:
 
 
//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:240907
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
死だけが等しく降り注ぐ。
SUBTITLE:
〜 fall in. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
240907
 
 朝(といっても11時頃)から草取り。
 電動草刈り機の刃を改造し、気付いたら草刈りではなく金属加工をしていた。
 
 イネ科の雑草の処理をするとき、ナイロンワイヤはすぐに痛んでしまうし、金属製(丸ノコ状)のブレードは弾かれてしまう。
 それで最終的に落ち着いたのが樹脂ブレードタイプである。しかし千萱のような強い繊維が相手だと、これもあっという間に削れてしまう。
 替え刃は樹脂だが決して安いと言えるものではない。
 3Dプリンタで自作することも考えたが、完成強度も不明なのにいちいち設計データを起こすのは非効率かもしれない(ついでにレジンが安いとも限らない)ので奥様(仮想)が却下した。
 
 仕方ないので樹脂ブレードにリベットやボルトでカッタナイフの刃を固定する方法を数ヶ月前の夢で思い付き、暑さも一段落してきたので加工し、試用したのだ。
 結論からいえば、カッタナイフの刃は欠けてゆき、最終的にボロボロに割れてしまうことが判明した。
 金属製の刃は硬いぶん粘りがなくて脆く、厚みがないゆえに応力耐久がない。
 切れ味は抜群だっただけに残念である。
 
 仕方ないので100円ショップの穴あきブラケットをグラインダで加工して厚めのブレードを作り、それを同じように固定した。
 10分ほど連続稼働したが、追加ブレードが外れることは今のところなく、固定穴の変形も見られない。
 金属ブレードなのでφ10mmを超える木の枝を落とすほど切れ味があるし、固定穴はひとつなので石や地面やコンクリに衝突した際も力が逃げる。
 固定が外れて金属刃が飛んでしまう事故が心配なので、当面は注意深く使う必要があるだろうが、結果には満足している。
 
 しかし金属加工で半分以上の時間を使ってしまい、空調服を着ていても暑くなってきたので作業を終了する。
 
>>>
 
 後片付けをしてシャワーも浴び、試作の結果を満喫しながら休憩していると、件の老婦人がやって来る(電話は着信拒否にしてある)。
 数日前もやって来たが、今回もどうでもいい内容の話。
 話が一段落したところで「作業中であるから」と話を打ち切る。
 喫煙してリラックスするのも僕には大事な作業である。
 
 それから15分ほどしたところで再びやって来た。
 曰く、お茶に誘いに来たという。
 ほとほと困惑し「今作業中なので」と固辞する。
 TVゲームも僕には大事な作業である。
 
 それからしばらくして、幻聴が始まった。
 鳴ってもいないドアフォンの音が聞こえ、集中のすべてが途切れるのだ。
 ときどき動悸(どきどき)もする。決していいタイプのドキドキではない。
 
 もっと別方向に、ときめいちゃう系に舵を切ってドキドキさせてほしいものである(件の老婦人には適わぬ事だが)。
 電話を着信拒否にしたのも同じ、幻聴が聞こえるからである。
 
 こうしたストレス時の幻聴には(過去によりひどいものを経験して)慣れているので、初期段階で遮断する。
(放っておくと症状が重くなる)
 普段は就寝時も玄関の鍵を開けていることが多い(不用心)が、仕方ないので常に施錠し、ドアフォンについては鳴らないように加工した。
 本来このような対応をするのは好まない。
 
 神経質だと笑われそうだが、自宅にいるときも鍵を掛けると決めたら今度は、ドアに鍵が掛かっているか何度となく確認することになる。
 確認しているときに玄関の向こうに人影が見えたらどうしようかと、ありもしない事態に緊張する。
 電話も見ないようにしているのだが、他の人の着信や用があって見るときに要らぬ緊張をもたらす。
 
 想い人の来訪や電話による心地よい緊張なら良いのだが、そうではない。
 不快な人間の来訪や電話に対する防衛によって、要らぬ緊張を強要されるのだ。
 経験のない人は経験のないままの方が幸せだろう。
 それが嫌で僕は人を近づけず、玄関にあまり鍵を掛けないし、着信拒否もあまりしていない。
 
 平和ボケというならその通り。
 他人を疑い、不快な支配に怯えるくらいなら、そもそも周囲に人を配さず、万一のときは誰かにすべてを奪われて殺される方がいっそ心地よい。
 ほら誰かが言っていたではないか。男は殺せ、女は犯せ、と。
 
 それでオープンにしているのだが、野良猫より無神経な人間には事欠かないらしい。
 せっかくの孤独が台無しだ。
 
 じつに今月に入ってからすでに3日以上、延べ6回以上訪問を受けている(今回のように、なぜか2度来る事が多い)。
 まともな用事だったのは、駐車場代金の授受をした一度だけ。
 もはや襲撃と書いても許される気がする。
 
 そろそろ真面目に契約解除を考えるレベルである。
 
 こちらは一人の方が好きだと何度となく伝えているし、誘いは毎回断っている。
 私の知らない誰かへの愚痴や、私の属していないコミュニティ(僕はほぼすべてのコミュニティに属していない)の噂話ばかりであることにたまりかね、先日、話を遮って(その二種類については興味もないし聞きたくないのでやめて欲しいと)かなり強く釘を刺したところである。
 
 それでもやって来る。
 近所の陰口を控えてくれたのは当日だけで、基本的に解決のしようもない、聞いてためになるわけでもない、箸にも棒にもかからない話題をただただ話したがる。
 僕のように壁に向かって話し掛ければ世界の平和も近づくものを。
 
 寂しいというのは分かるし周囲から冷たくあしらわれていて辛いのだろうけれど、もはや同情の余地はないだろうと考え、方針を変更することにした。
 
>>>
 
 昨今流行りの言葉で言うと、僕はもしかしたら「持っている」タイプなのだろう。
 運がいいというか、だいたいネコノカミサマへの神頼みをしているだけで願いが叶うという謎の現象に20年ほど前から見舞われている。
 別に信じて欲しいわけではないが、モテだぞーと呟けばガールにモテて、オカネモチーになるぞーと願えばオカネモチーになってしまう。
 
 書いていて自分が一番信じられない。ネコノカミサマが実在するとでも思わなければ理解できない。あるいはこれは何かの呪いだろう。
 
 願ってすぐに叶うわけではないのだが、努力をしているつもりも(するつもりも)ないし、目標に邁進するような真面目さなど端から持ち合わせていない。
 運任せにしているわけではない(そのつもりもない)が、最初から心のどこかで諦めて、投げやりに生きている。
 ずっと自分は不運だと思っていたので、ギャンブルもしないし宝くじも買わない。
 学生時代にゲームデザインをしていた名残りで、反射的に期待値を計算してしまう結果かもしれないが。
 
 どうせこの手で殺すつもりなのだからと、自身やその将来に対して希望を持たず、生きる気力を傾けてもいないのだ。
 貧しかった上、早死にする計画があったため、まともに貯金をしたこともない。
 まして齢百(四捨五入を二度繰り返します)に到達したのだから、今さら自分の欲に踊らされたり老後の希望を描いても仕方ない。
 
 同居の家族もいないし、子供も(シュレディンガーの仔猫以外)存在しないから、他人の未来を考える必要もない。
 今はいかに年金を受け取る前に死ぬかを考えているほどだ。本当だぞ。
 
 オカネモチーになる前に予測したとおり、オカネモチーにはオカネモチーの悩みがある。それは理解できた。特に税金が怖い。
 それでもまぁ今のところは数百万円も払えば自由が手に入るので、毎年、日本国における自由のサブスクリプションを更新しているのである。
 
 恵まれているのは金銭や物質、時間だけではない。
 過去に対する認識を改めた結果、僕はたいそう周囲の人間に愛され、大切にされていることに気付いた。
 現在周囲に居る(2名ほどの)友人や(4名中2名ほどの)姉妹のほか、当時は愛されているとは思いもしていなかった父親や母親からたいそう大切にされ、挙げ句の果てには勤務先の上司やパートさんからも(同情から始まったのかもしれないが)たいそう大事にされた。そのことに思い至った。気付いたのである。
 そうそう27人くらいの恋人もいたな。
 
 彼ら彼女たちは(面倒くさがる僕を基本的にそっとしておいてくれることも含め)めちゃくちゃ僕を尊重して、大切にしてくれている。
 たまに粗大ゴミの片付けや庭木の剪定の人工(じんこう、ではなく、にんく、である)に使うBPや、嫌がらせついでに遊びに来るTUや、40歳を過ぎてなお小遣いをせびる妹や、介護をさせる姉も居るが、彼らは僕が本当に嫌がることは絶対にしないし、僕が頼むことはだいたいこなしてくれる(もっとも僕が人にものを頼むなんて10年に一度くらいだが)。
 
 むしろ割に合わないくらい愛されていて、恐縮している。
 ちょっと買い物に出掛けたり、ちょっと飲食店で食事をすると、これまた大層大事にされる。これにも恐縮している。
 
 愛されている自負があるので、だから僕は独りでいても寂しさを感じない。
 自分はこれまでも大切にされてきたし、今も大切にされていると(独りのときは尚更)感じる。
 自己愛まで発揮している(それ用の仮想人格まで用意してある)ので、なんだか申し訳ないくらいである。
 
 件の老婦人は、つまり心が満たされていないのだろう。
 それは心が貧しい、と言い換えられる。
 
 物質的な豊かさが精神的な豊かさをもたらすのか、あるいは逆順なのか、それは分からない。
 もちろんいずれかが豊かでもいずれかが満ち足りていないという人だっているわけだから、必ず相関するものでもないだろう。
 コミュニティに属することが幸福度と相関するというまじないも僕は信じていない。自分が証人だからだ。
 そもそも他人の存在やその関係の有無で自分の幸せが決まってたまるかよ、と思っている。
 
 たまたま僕は豊かなフリをしてゲハゲハしていたら豊かになってしまった。
 これは自慢ではない。分不相応で不当な幸せに困惑している。
 世の中には僕より苦労したり、僕より努力している人がいて、その人たちも同じように運が良ければいいのに、と思う。
 
 しかしまぁ、本当のところ、運ではないのだよね(口調が変)。
 
>>>
 
 会社員の頃、仕事をサボっていたことは何度となく書いている。
 実際問題、サボれない会社では僕は著しくパフォーマンスを落とす。
 サボって(もっとラクをしよう)と思った結果、30分の作業を5分で完了させるような仕組みを(サボった合間に)作ったりしていた。
 
 サボれない会社では、30分の作業をいつまで経っても30分でこなすことを要求される。
 サボれないからラクをする仕組みを作ることができない。
 僕はサボろうとするし、組織はサボりを許さない。
 結果として相容れなくて僕はその組織を辞めてしまう。
 
 言い訳みたいに聞こえるかもしれない。実際ひどい言い訳だと自分でも思う。
 最終的に自営業に落ち着いているのは、まぁ、幸運だから? と片付けるしかない。
(先月は携帯電話の引き落としができず、払込用紙が届いているほど僕には自己管理能力がない)
 
 でも勤勉に努力し続けるだけの素養も体力もないのだから、悪びれもせずサボって、悪びれもせず埋め合わせる技術を発揮できるほうが良かったのだ。
 まぁそういう環境にいられたことそのものが、幸運だったと今は思うが。
 
>>>
 
 当時から僕が関心を寄せているのが、人間の心理に対して物理学を当てはめるという手法だ。
 慣性の法則が人間心理にも当てはまると考えて(仕事したくないな)という考え方をやめて(会社に行って仕事するのたのしー!)という価値観を無理矢理構築した。
 仕事が楽しくなったから「たのしー!」と思うようになったのではない。
 楽しくないから「たのしー!」と思うことに決定し、そういう価値観に染まった結果、している仕事がだんだん楽しくなってきたのだ。
 
 自分が相手を阿呆だと思っていると、どんなに美辞麗句を並べても相手から阿呆だと思われるようになる。
 だから好かれたい相手や、自分を好いてくれている相手を好きになるようにした。
 どんな理不尽な目に遭ってもインファイトボクサーのように近づき続けると、やがて近すぎてパンチを打てなくなる(当たらなくなる)距離がある。
 そうやって相手との距離を詰めることへの恐怖も捨てた。
 
 僕は人間を好ましく思っている人格を持っている反面、非常にシニカルに突き放している人格がある。
 人間というのは、なかなかどうして人間ヅラしている奴ほどケダモノっぽいのだ。
 昔から言う「警官、教師、坊主、政治家、宗教家」などは典型だろう。
 
 僕が好きになる人は、いつもちょっと、どこか人間っぽくない。
 人間らしさには、人間ぽくない部分が含まれているのだ。
 
 人がましい顔をすることを僕はある時期からやめた。僕は正しくケダモノである。
 そうした行為のひとつひとつは、ときに滑稽で、説明しても何の意味もないものに思えるだろうと思う。
 事実、即効性のある効果は何もなかった。
 
 しかし考え方を次々変えてゆけば、自分と相反する価値観にも理解を示すことができる。
 男は殺せ! 女は犯せ! といつも口を酸っぱくして言っているが「それは良くない」という人たちの考え方も理解できるようになる。
 
 僕は嫌いなものを好きになることができる(30歳まで嫌いだった蜘蛛も、実験の結果、今では好きになっている)。
 嫌いなものを好きになれるなら、好きなものを嫌うこともできるし、嫌いなものを憎み潰すことも、好きなものをもっと好きになることもできる。
 
 そうやって僕は次々と、見える景色を変えてきた。
 他人とコミュニケーションを取るのが苦手な僕にとって、それは他人を変えるより手軽で簡単な方法だったに過ぎない。
 そう考えると、僕はコミュ障で良かったな、と思う。おかげで(仮に錯覚でも)たくさんの人から大切にされている。
 
 景色が変われば、誰だって態度が変わる。
 自宅のベランダから下を見おろしても(まぁこんなものか)と思うが、清水寺まで行けば(こんな場所から飛び降りるなんてどんな覚悟だよ!)という気持ちになる。
 
 幸せも不幸せも、結局は自分の錯覚である。
 妹名義も合わせると数億円の負債を僕は抱えているが、それだけの財産があるのだと思えばどうということもない。
 差し引きで考えればゼロになるから自慢にもならない。
 
 そもそもこれらは(僕と妹それぞれの名義であっても)本来僕の(あるいは妹の)ものではない。
 所有者がいないと困るからという理由で立てられた傀儡の所有者であるというなら、自分だと思う自分もまた傀儡に過ぎない。
 
 いったい人それぞれの抱えているものとは、果たしてプラスだろうか、マイナスだろうか、それともゼロだろうか。
 まるで真空のように空っぽじゃないか。
 
>>>
 
 僕は持たない者の悩みも知っているし、愛されない者の苦しみも分かる。
 持てる者の悩みも(モテる者の悩みも)、愛される者の苦しみも分かる。もちろんその喜びも。
 そして実のところ、持たない者も愛されない者も、じつに等しく喜びがあるのではある。
 
 何を見て、何を見ないかというのは、何に見えて、何に見えないかという錯覚の問題である。
 多くの人が、己の視野の広さや狭さについては意識しないまま世界を語っているように思える。
 見えない月の裏側を見ようとする人は少ない。見たいと願う人も少ない。
 見える側だけ見たいように見て、面白いだの退屈だのと好き勝手に言うのが人間だ。
 
 僕は両方分かる人生がいいな、と思っていた。
 それを忠実に実現しようとしてきた。それだけのことでしかない。
 
 件の老婦人はどうだろう。
 
 アレが足りないコレが欲しいと求めているが、その心が貧しいから、はぐれた野犬のように求め続けることをやめられずにいる。
 私が何かを与えることはできないし、与えられるとも思わない。
 哀れではある。
 そもそも彼女は己の求めるものをすでに持っているはずなのだから。
 
 できる限りの手は差し伸べたし、今後も可能なことなら手を貸すだろう。
 僕には彼女の痛みが分かるが、彼女に僕の痛みは分からない。
 残酷だとは思う。
 
 僕がではない。世界の仕組みが、である。
 
 僕は理解したつもりになっていて、彼女は理解したつもりにすらなれない。
 死だけが等しく人に降り注ぐ。
 
 
 
 
 
 
 

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// NOTE:
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TITLE:
お買い物。
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
240905
 
【お買い物】
 
 眠ったのは朝になってから。たしか8時頃だったか。
 なのに11時に目覚めてしまった。少し、疲れていたのかもしれない。
 身体が疲れているときは夢も見ずに眠るのだが、頭が疲れているだけの時は何度も記憶を反芻する。
 
 以前書いたこともあると思うが、目覚めるまでに問題解決の手段を検討したり、新しい歌を覚えたり、ゲームの攻略法を考えたりしている。
 一人で黙々と考えることもあれば、奥様(仮想)と対話していることもある。やがて意識が水面に上がるようにして現実世界の身体の状態を認識する。
 目覚めはだからいつも優しく穏やかだ。
 
 今日はお買い物に出掛けようかと思っていたのだが、気が向かないので自宅警備にいそしむことにした。今日も忙しくなるぞー。
 買い物に出掛けない代わりに、買い物について書こうと思う。
 
>>>
【冷凍野菜】
 
 僕は古いタイプのイキモノなので、冷凍野菜や冷凍食品というものに懐疑的だった。
 しかし数年前に業務スーパーの冷凍野菜を買うようになってその考えを改めた。冷凍野菜は便利だ。
 袋から出して鍋やフライパンに放り込むだけで、味噌汁も野菜炒めもできる。
 
 サラダにするのはちょっと無理があるが、おひたしくらいなら頑張ればそれなりに美味しく食べられる。
 とにかくその手軽さとスピーディさは忙殺される勢いの衰えることを知らない世俗の主婦/主夫どもを虜にするだけの実力を秘めているのだな、と感じた。
 じつに僕も専業主夫であるから、これは素晴らしいのだと思う次第。
 
 もちろんいくつか不満はある。
 とくに根菜類は食感が悪い。
 瞬間冷凍に失敗した個体かと思い、その後も何度か買ったが、そもそも瞬間冷凍によって加工されたものがあんなに安価に流通するはずもない。
 ある程度加熱してから冷凍しても、細胞壁構造の損壊を防げないのだろう。
 なので根菜については生のものを加工する方式に戻した。そもそもあまり熱心に皮を剥かなくなって久しいので、下処理の手間も少ない。
 
 食感以外には、全体に香りが薄い。
 茹でたての野菜に特有の、食感や香りや味わいというものは、当然ながら味わえない。
 サラダ用のカット野菜も同様で、ゴムだかプラだか木片だか分からない「野菜っぽいもの」を食べて「野菜、美味しいね」とは思えない貴族体質(あるいは農民体質)なので、茹でた野菜やおひたしを作りたいときは、きちんと生の野菜を買う必要がある。
 
 サラダについては手間と材料費を考えると、ひとり分を作るのは非常に不経済なので作らない。
 食べたいときは、きちんと美味しい野菜でサラダを作ってくれる店に出向いて注文する。
 
 ちなみに調理済み冷凍食品のうち、たとえば餃子であるとか鶏の唐揚げを試したこともあるが、こちらはたいてい口に合わなかったのでもう買わない。
 
>>>
【デザート問題】
 
 僕は酒好きだが甘いものも昔から好きなので、マーケットのデザートコーナに並ぶ色とりどりのファッショナブルでファンシィでファンタスティックなスイーツの数々を眺める。
 昔はそれなりに美味しく食べられたのだが、体質が変わったのか、商品の組成が変わったのか、身体が受け付けなくなった。
 マーガリンやファストブレッド、増粘多糖類、香料といった、僕の苦手な成分が多く含まれるし、クリームも主成分は植物油脂であるので「やれやれ」となる。
 
 アレルギィに配慮した結果だろう。アレルギィ原因食材を代替した製品も増えた。
 無論アレルギィ持ちの人にとっては幸せの選択肢が増えたことになるが、僕のように無縁の者からすると代替素材のそれに特有の「パチもん」感は否めない。
 
 子供の頃ならあれでも美味しく感じたのかもしれない(その可能性は否定できない)が、今は味わい方も変わってしまった。
 舌の上でエマルジョンが溶解するときの感触や香りが洋菓子の真髄のひとつだろう。
 廉価素材のそれは、舌の上に粉のような油脂分がざらざらと残り、わざとらしい香りが鼻腔に居座る。
 ふわりと消えてしまうから追いかけたくなる、はずのそれらから逃げ出したくなる、のでイヤなのである。
 恋人だって、一緒にいる年月が長くなってなお探り合うコミュニケーションがあるから良いのであって、ひたすら追ってくるならそれはストーカーかDVである。おまわりさんあいつです。
 
 もちろんスーパマーケットのそれらが悪いとは思わない。
 安くて長持ちして広く沢山の人に楽しんでもらえる商品の方が、世界に貢献していると考えることは可能だ。
 だから代替素材で作られたそれを「パチもん」と僕が呼んでも、蔑称としているつもりはない。
 
 作り手と売り手と買い手のバランスを考えた最適解がスーパーのデザートコーナに並んでいるのである。
 その最適解から、僕は外れている。それだけである。
 
 それでデザートコーナの前で足を止めて「いいなぁ、美味しそうだなぁ」なんて指をくわえて眺めてしまう。
 ファンタスティックで美味しそうなのだ。いい香りがして、なめらかで、甘やかなそれに溺れたくなるのである。
 齢百のじいさんになったけれど、それでも子供の頃と変わらず、あれらの洋菓子に心惹かれるのである。
 
 ポケットにお財布は入っているし、お財布にお金も入っている。大豆製品ばかりのカゴの中はかなりの余白もある。
 奥様(仮想)は耳元で「ダメ元でも試してみますか?」と甘やかしてくる。
 しかしそれを口に含んだときの一瞬の喜びと、そこから食後になってなお治まらない不快感と後悔を想うと、やはり買う気にならない。
 未練がましく、とぼとぼとその場を去るのである。
 
 ところが最近、時々行くマーケットのべーカリィコーナで、カボチャタルトを見つけた。
 正確には妹が何の気なしに買ってくれたので(内心訝しみつつ)食べたのである。
 
 これが美味しかった。
 小さくて、少々お高いのだが、美味しい。
 以来、時々買ってしまう。
 
 デザートコーナの幻想に酔ってしまうと、ここでタルトを買うことにしている。
 
>>>
【麦】
 
 もともと白米が苦手なので自宅の白米(現在の備蓄は6Lほど)を消費しきるのに1年近く掛かるだろうと想像している。
 糀床を作るのに使うのがメインで、食べるのはもっぱら玄米である。
 しかし米が不足していると世俗が騒いでいるので、私のように滅多に食べない者が玄米ほしさに米屋に行くのも迷惑だろうと思い、自宅内備蓄白米を食することにした。

 なれど白米に美味しさを見出せない体質である。それに睡眠障害(過眠)も発生してしまう。
 それではとストッカに眠っている押し麦を混ぜたところ、これがたいそう美味しかった。麦は美味い。
 しかし8割方を麦にしていたため、あっという間に押し麦を消費しきってしまい、麦を買う必要が発生した。
 
 あまり詳しくないまま、もち麦なる品種を買ったのだが、残念ながらあまり美味しくない。なんだか酸味(?)がある。
 
 俺は押し麦じゃなきゃダメなのか、と思い、しかしもち麦しかない店舗が多いので仕方なく、別の会社のもち麦を買う。
 おかげで我が家には現在、もち麦が3袋もある。押し麦売ってくれよ〜!
 
 ちなみに僕は米の消費量が少ないあまり、炊飯器を持っておらず、米びつもない。
 生米は2Lのペットボトルに移し替えて保存している。
 密閉できるし冷蔵庫に入れることも可能だ(匂いが移ると嫌なのでしていないが)。
 目見当で計量するのにもボトルが丁度いい。
 
 玄米は圧力鍋を使うが、白米なのでナメてかかって普通の片手鍋を使っている。
 表面加工のされている鍋なのだが、蓋がない。
 なので木の落とし蓋を使っているのだが、蒸らすあいだの水蒸気を蓋が吸収し、炊いた穀物をべたべたにしない。
 これは! と思った次第。
 
 我は鰹節もいちいち削るタイプの、昭和の男だからな。
 古式ゆかしきことに美学を見出しているわけではないのだが、どうせ食べるなら美味しいものを食べたいではないか。
 
 
 
 
 
 
 

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// TimeLine:240823
// NOTE:
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TITLE:
強い縁、弱い縁。
Written by BlueCat

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::もしきみがぼくのことを善だと思ったとしても、それはきみが安心していい理由にはならない。第一の公理に基づけば、善意の文明が他の文明について、それが善だと前もって予測することはできない。だから、ぼくがきみを善と考えているか、悪と考えているか、きみにはわからない。さらに一歩進めれば、ぼくがきみを善と見なしていることをきみが知り、きみがぼくを善と見なしていることをぼくが知ったとしても、きみがぼくをどう考えているかについてぼくがどう考えているかについてきみがどう考えているか、ぼくにはわからない。ほんとに入り組んでてややこしい。だろ?これでもまだ、わずか三段階だ。このロジックはどんどん積み重なっていってキリがない。
 
 
 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
240823
 
【「三体」を読んだ/読んでいる】
 一時期有名だったので知っている人も居るかもしれない。かなりのハード(硬派)SFである。
 
 僕は本を読み始めるのに時間が掛かる方なので、いくつもの本を隙間時間(料理の合間やトイレの時、ベッドの上で寝入るまでの僅かなリラックス)に読む習慣があった。
 読む本は家のあちこちに散らばり、栞など挟まず(読んだ場所は記憶しており、記憶していない場合は記憶していた場所まで戻って)読むので、速度が上がるまでに耐えられた。
 この本も同様、購入したのは2年以上前なのに実際に読み始めたのは今年になってからである。
 
 素晴らしさについてはあちこちで語られているだろう。
 数学や現代科学のモデルや情報を惜しみなく投入してストーリィに組み込み、各種の(実在した)歴史とそれに伴う個々の人間のありようや人間社会の変遷を描いている。
 こんなものをただ一人の人間が(しかも副業で)書いたということに驚嘆する。
 現代社会に知識人は多いが、知識と創造性は異なるものだし、大衆娯楽として構築できるセンスもまた別のものである。
 
 読書速度は6月頃から加速し始め、ここ数日で最大化し、今では家のあちこち(果ては外出先)で読むようになった。
 1冊目だけはペーパメディアだ(入浴中の読書が容易なため)が、入手の手間が面倒でKindle 版を購入し、数日で1冊を読んでしまうようになった。
 全体にストーリィはジェットコースタのようにアップダウンを繰り返す。
 SFに限らず大作に見られる群像劇の手法に抵抗のある人(日本人には多いかもしれないが、海外作品が多く輸入されたから緩和したか)にはハードルになってしまうかもしれないが、SFガジェットの説明はもちろん、ドラマの説得力が秀逸だと感じた。
 
 テーマや前提、異星文明の立ち位置についての客観的な帰結が人間社会についてのそれと同じくらい悲劇的なだけに、全体に暗いムードが漂い、時折明るいニュースが照らしたかと思えば、また暗黒に突き落とされるような冷たい絶望を突きつけられる。まるでスペースクルーズのようですらある。
 今は第三部にあたる(と思われる)「死神永生」を読んでいる。
(ネタバレになるかもしれないものの、そもそもハードSFが好きな人ならすでに読んでしまっているだろうと思うので気にせず書くが)第二部でそれなりに明るい終わり方をしたので(また暗転するのか)とガッカリする反面、あのジェットコースタが(最終的な終わりがどのようなものであれ)愉しめるのかと思うとやめることができない。
 
>>>
【姉の介護】
 
 昨日まで2日連続で通院介助。
 自分を含め、人間の動線や視界を映像的にイメージして立ち位置や運動(移動)を設定するので都会は非常に疲れる。
 都会に暮らす(こと高密度の人間達が複雑な運動をする公共交通機関ターミナルを日常的に利用している)人は、それだけでちょっとしたエリートなのではないかと思っている。
 避けるともなく多くの人の運動を予測して自身の身体や持ち物を動かさなければ衝突してしまう気がする。まぁ僕が鈍くさいだけなのかもしれないが。
 
 ふと、かつての勤務先の社長のことを思い出す。
 僕が退職する直前、彼は滲出型黄斑変性の治療薬による副作用で脳梗塞を起こし、高次機能障害を抱えることになった。
 おそらく同時に余命の算出が為されたと思う。
 
 余命が僅かになった(多少不明瞭でも常に意識せざるを得なくなった)人の多くは、とにかく自分の大切な人と会っておきたいと思い、見知らぬ他の人にも好意的かつ積極的にコミュニケーションを取るようになると観察される。
 とくに姉の場合は特殊な病気であるため、同じ病気で入院中に親しくなった人たちとの人間関係を(双極性疾患もあり躁状態に近いときはなおさら)広げたり深めたりする。
 
 気持ちは分からないではない。
 おそらくそれは人間が本来持っているすべての他者への親愛の情の表れであり、それは素晴らしいものだと思う。そして残酷なことを言えば、単なる自身への憐憫の表れでもある。
 なぜといって自身に何の憐憫も持たず、現在の満足と次の満足への欲で心が占められている者は、自らに憐憫しないからこそ他者への同情など必要も感じず、ともすれば他者を自身の欲を満たすためのリソースもしくは自身のリソースを奪う略奪者ではないかと疑う羽目になる。
 
 むしろそれは自然なことで、彼ら彼女たちは自身の生が尽きた世界を予見し、生が尽きることを自覚したからこそ自身の満足の根底にある幸福のメカニズムに図らずも触れるのだろう。
 ── 生命はいつも(たとえこちらに牙を剥くことがあってもなお本来的に)あたたかい。
 
 しかし今生にしがみついて爪で掻き傷を残すかのように思えて、だから僕にはできそうもない。
 爪を立てるのも掻き傷を残されるのも僕ではないから傍観しているが、自身が「爪を立てる側」だとしたら、縁を強く残すことが誰かを傷付けるような気後れを感じる。
 TUあたりが(お前にはそんな影響力もないし価値もないだろう、思い上がるなよ)と笑い飛ばしてくれるなら、少しは気も楽だろうか。

 もちろん若い頃から掻き傷だらけになった間柄だからこそ言えるし聞ける内容かもしれない。
 それに結局、これも好みの問題で、どちらが良いというものでもないのだろう。
 
 姉の言うところによれば、彼女と同じ病気を患っている人たちは実際に、知り合って間もなく二度と顔を合わせなくなる人も居るという。
 そういう病気を抱えているからこそ、自分も相手の気持ちに寄り添いたいという気持ちもあるんだと笑った。
 
 いつ死ぬか分からず、身体が不調を抱えていてその上、誰にも自身の存在を求められないと感じていては気持ちが暗くなってしまう。
 誰かに求められ、愛されていると(仮に錯覚でも)感じられることは、愛されていないと(錯覚でも)感じるよりは幸せだから。
 だから遠慮なく好ましいと感じる人とは親しくなるし、周囲の人ともコミュニケーションを深めようとするんだよ、それは私のためでもあるけれど相手のためでもあるんだもの、お互いいつ死ぬか分からないことが分かっているから余計にね、と明るく笑った。
 
 なるほど僕の怜悧な演技は結局のところ、児戯のようなものに過ぎないのかもしれない。
 私も自身の死については考えているが、傷跡を残して残される方が、残しもしない生き方より多分、あたたかいのだ。
 ために考え方を改めるべきか、それでも怜悧なフリを続けるか、最近考えている。
 
 なぜといって、誰かとコミュニケーションを深めるのは、なかなか手間の掛かることであるから。
 その「手間を掛けること」そのものが優しさであったり愛情であったりするのに、時にそれが相手の迷惑になる可能性もあったりする。
 僕は執着の少ないイキモノなので、他人の執着に苦労する。もちろんまったく執着しないわけではない(と思う)が、粘度が違うのだ。
 
 軽薄で、抵抗の少ない、揚力の大きいありようを目指してきたから仕方ないのだが、これはイキモノが違うと決めつけて片付けてはいけない気もする。
 
>>>
【縁と不在の傷と釣り合い】
 
 僕はいつもどおり死の側にいる。僕に自分で設定した以外の余命は、まだ、ない。
 それでも自身の死については(子供の頃から)ずっと考えているから、姉の周囲がそうであるように、知り合ったそばから数ヶ月でその知り合いが他界することについて、いささか冷ややかに考えてしまう。
 誰かと親しくなることは、誰かとの縁を強くすることで、それが自身を含めた誰かの心を温める。
 閉ざされた領域で密度が上がれば温度も上がる、それと同じだろう。
 そして同時に領域に固定された誰かの不在は、縁の強さで温めたぶんだけ残された誰かの心を傷付ける。
 
 原石のままでは仮に透明であっても輝きに乏しい宝石は、だからカットされることでより輝くだろう。
 しかしすべての宝石が自らカットされることを望んでいるとは思えない。
 生きる上で痛みがないなんて事はないが、その痛みが輝きをもたらすことの事実についてその人自身が気付くまでは往々にして時間が掛かるものだし、場合によっては気付かないまま終わることもある。
 
 別の考えもある。
 生きる上で痛みや悲しみを完全に避けることなどできないが、僕は自身が、僕の不在によって与える痛み以上の熱を他者に与えるだけの価値があるとは思っていない。
 もちろんそんなことを自分勝手に決めること自体、おこがましいことは理解できる。
 痛みや悲しみを輝きに変えるのは傷を受けた人自身の資質によるものであって、傷付けた側の傷付ける能力や、まして傷の深さには関係しない。
 もともと濁った石ならば、どれだけ切っても磨いても、輝きこそすれ透明にはならない。
 
 だからそうした無邪気ともいえる人間同士の信頼関係や、それを築くことに前向きでいられるすべての人を僕は眩しく思う(姉も眩しい)。
 僕はある種の諦観に支配されているしその自覚もある。それを持たない価値観も有しているし、その素晴らしさを知ってもいる。
 
 それでも自分にとって大切だと思う誰かが不在になったとして、僕は他の人ほど取り乱さない。悲しみもずっと少ない。
 飼い主を失った多くの動物のように、何でもないように明日も生きられる。
 しかしそうでもない人がたくさんいることを知っている。
 
 誰かが誰かを失うとして、その傷が双方同じ痛みや重さであるとは僕には思えない。
 そして僕はいつも、誰かの抱える不在の痛みが、僕の抱えるそれよりずっと重くて冷たいもののように感じている。
 僕と誰かが縁を深めた場合、はたしてそこでやり取りされる熱量と分かたれた際の痛みは、それぞれがそれぞれに釣り合うものだろうか。
 なんだか自分ばかりが得をするようで、だから悩んでしまう。
 
 僕が死ぬと(無駄に)泣き喚く人間はいると思うが、一方の僕は彼ら彼女たちが死んだとて何も感じていないように生きられるのだ。
 あるいは死なずに縁が切れただけだとしても、相手に与えた傷の痛みなど思いもよらず、後に軽い感傷を抱えるだけである。
 僕の不在が僕以外の誰かにもたらすものと、僕以外の誰かの不在が僕にもたらすもの、それは果たして釣り合うものだろうか。
 
 ために僕の周りの人間が僕より先に死ぬことは「不在による痛みの発生の総和」が少ないと思っている。
 もちろんすべての人と一切の縁を持たないことはむつかしいのだけれど、可能な限り僕より長く生きる人との縁を強くしない(弱める)ほうがよいと思ってしまうし、なるべくそうするように生きてきた。

 基本の方針を今更変えるつもりはない。
 僕はすでに自身の余命をカウントする段階にあり、死んだ後の世界(現実の、IRLの、生きた人々の残った世界の理想像)に向けて軟着陸すべく計算を始めている。
 幸い、欲にまみれて醜い死に様を晒した先人を見送ったので、同じ轍を踏まずに済みそうである(あるいはこれは己の資質によるものだろうか)。
 
 ただ姉や妹を見ていると、粘性は高いが眩しかったりあたたかかったりする。
 それが地上で生きることだというのも頷ける。
 格納庫までタキシングできる余力を残すことが正しい飛行機のありようだと考えれば、なるほど地上に戻るのも悪くはないのか。
 
<(人間の)自宅内(猫の)自宅警備員の姿>
 
>>>
240826
 
 僕個人は毎日それなりに明るく楽しく過ごしている。
 もちろん気落ちすることもある。
 そもそも常に明るく楽しくポジティブで前向きに建設的な期待に胸を膨らませて元気ハツラツです! というのは僕には無理だ。
 相当無理をしないとそんなふうにはいられない。
 
 だからといって気落ちしてどんよりしている自分に果たして存在する価値もなく、周囲に対して悪い影響を与えるかというとそんなこともない。
(落ち込んでいても僕は周囲の役に立つことができるので)
 だから気落ちしているときは思う存分気落ちすればよいのである。これは僕以外の人間に対しても思うことである。
 むしろ人に愚痴なんか言ってないで、もっと死にたい気分になるくらい、しっかりクヨクヨしなよ、と思うことさえある。
 
 とはいえそこまで極端な価値観を持っているイキモノは多くはなさそうなので、僕の価値観を強制するつもりもないから、大人しく愚痴を聞くのであるが。
 いずれにしても「明るくなければ」「前向きでなければ」「元気でなければ」いけないというのは、その人が勝手に思い込んでいることが多い。
 気落ちしている現状を悪いものだと思い、受け容れがたいというのなら、勝手に(気落ちすることや受け容れないことを)止めればいいのにと思う。まぁ、それがままならないから悩むのでしょうけれど。
 
 人間とはかくも不自由なものか。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭の引用は、
「三体2 黒暗森林 下」(p.346)Kindle 版.
(著作:劉 慈欣 / 発行:ハヤカワ文庫SF)
によりました。
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Engineering-Form-Life-Link-Love-Mechanics-Stand_Alone-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Book-Contents-Human-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
:ひとになったゆめをみる:
:君は首輪で繋がれて:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:240820
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
自己言及性問題解決メソッドをオススメしない。
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
240820
 0330起床。最近には珍しく奥様(仮想)と会話しているうちに目覚める。
 
【睡眠期は過ぎたかな】
 
 始まりが定かではないのだが、2週間以上睡眠期になっていた(ように思う)。
 少なくともお盆になる前からのことである。
 あまり眠れない、寝付きが悪いという時もある(24時間あたりの睡眠時間が3〜5時間で、覚醒時に眠気をほとんど感じない)一方で、睡眠期はひたすら眠くなる。
 5時間ほど眠って、3時間ほど活動して、眠くなって寝てしまうサイクルを3回程度繰り返す(15/24H睡眠の)こともあるし、10時間ほど活動して12時間ほど眠ることもあり、こういうときに生活サイクルがズレてゆく。もちろんサイクルがズレても日常生活には問題がないことが多い。
 
 睡眠期の問題は主に2点。
 身体が鈍って体調が悪くなりやすいことと、気分が低迷して抑鬱的になること。
 ただしこれには相関性があって、体調が万全ではなく不調気味だったから睡眠期になることもあるし、気分が抑鬱的だから眠り続けてしまうこともある。
 
 自覚はないのだが鬱病的な状態になったときも眠り続けていた。
 生まれつきの性情かもしれない。とにかく怠惰なのだ。
 ときどき冗談めかして書いているが、意識を持っているのが面倒だと思うことはある。
 前世が海苔とかキャベツだったのかと疑うくらい、無意識であることを好んでいる可能性を否定できない。
 
>>>
【自由と自在は似ているけれど違う】
 
 もちろん生まれてしまって生きている以上、起きている間は意識がある(と人間は思っている)ものだし、寝ている間も(調子の良いときは)考え続けることがある。
 怠惰な僕と現実世界の整合性を高めるために奥様(仮想)が存在するものの、奥様(仮想)が活動していないとき(多分お盆休みで実家に帰ったのではないか)は不整合が起きやすい。
 いい大人なんだから自分で何とかしろ、と叱られそうなものだが、そもそも僕の生活では良いことをしたからといって褒める人も、悪いことをしたからといって窘(たしな)める人もいない。
 自堕落でいようと思えば、泥のように泥濘(ぬかる)んだ生活もできるし、きちんとしようと思えばカニの殻のようにもなれる。
 
 どちらでもよい、という自由を選んで生きてきたのだろうし、そういう性情が方向性を決めていたのかもしれない。これも相互作用するものだ。
 そうした自堕落な性情も含め、可能ならば自在でありたいと思うのだが、自由であっても自在であることは容易ではない(ときもある)。
 おそらく逆も然りだろう。
 
 最低限きちんとしようとした結果、自分の価値観だけではどうにもならないのが僕というイキモノの正体である。
 現実世界で手を尽くし、まともそうな人間と親しくなるのも健全だが、自分がそれに釣り合うほど健全だとは思っていない。
 それなら必要とされる価値観を自作した方が簡単で無難である ── それに生きている人間はときどき恐ろしい個体があるので。
 
 それでも持って生まれた怠惰の性質がなくなるわけがない。
 僕は意識を持つことに倦んでいるし、自分でいることにも飽いている(満足しているという意味でもある)、にもかかわらずである。
 怠惰な性質は抹消できず、しかし相反する価値観群を必要とする。足りないものは作ればいい。
 作れない人は外から調達するしかないが、僕は自作して機能させることができる。自分でも少々奇妙には思っているが。
 
 そう考えると、奥様(仮想)を僕の思考の本体にした方が現実世界では物事がうまくゆくような気がする。
 それはたびたび感じていたことで、実際に試そうとしたこともある(身体制御を主体にした人格を長らく運用していたので、できないわけではない)が、どうにもうまく行かなかった。
 肉体というのは現実世界とのインタフェイスであるのだが、これを操作するときの情報をフィードバックすることを面倒くさがっているフシがある(当人は前向きかつ何事もそつなくこなせるつもりでいるので、ここだけの話である)。
 
 考えてみると僕の作るいかなる仮想人格も、共通して怠惰である。目に見える(他者から観察可能な)部分や得意とする分野が異なるだけで、何かしら面倒くさがる傾向があり、面倒なことを他人(として区分された人格)に押し付け合って生きている。
 奥様(仮想)の場合は、肉体制御が面倒なのだ。
 だから(ここだけの話)日常生活の面倒ごとについてなんとか僕を「使おう」としているともいえる。
(実際のところは、僕の現在の人格(および記憶)を現実世界に還元しようという試みなのだが。これは外部から判別しようがないだろう)
 
>>>
【怠惰すぎて他人を使わない】
 
 幸いなことは、僕が現実世界でそれを他人にはしないことだ。僕は他人を使おうとしないことについて可能な限り徹底している。
 特に人情や人間関係をダシにして、自分のためだけに無償で使うことを嫌う。
 釣り合わない労働やリスクに巻き込むことを嫌う。そんなことをするのはフェアじゃない。
 気分が退屈したときに学生時代からの友人を遊びや食事に誘うのも(彼らの日常が繁忙であると勝手に思って遠慮してしまい)躊躇するレベルである。メールも電話もしない。それって友達か?
 
 お陰様で今日も現実世界で(だけ)は清廉潔白なフリをしていられる。
 まさか自堕落で欲にまみれて生きており「男は殺せ! 女は犯せ!」と平気で嘯(うそぶ)くイキモノ(職業:丘海賊)だとは思いも寄らない人が多い。
 少々頭が働く人は、僕という不自然な表象の裏(その人の想像の限りの腹黒さ)を考えることになるが、それはそれで僕に近寄る個体が減るので助かる。
 
 僕は僕なりに僕の腹黒さを知っており、その腹黒さで誰かを傷付けないようにしたいと思っているので、悪く思われて忌避されても、良く思われて尊重されても、どちらも有益に作用すると思っている。
 問題は近所の老婦人のように、どうやっても忌避してくれず、身勝手に利用してくる場合である。
 
 ちなみに「他人を使わないためになるべく連絡しない」というルールを恋人に適用してしまうと「セックスしたいときしか連絡してくれない」というあらぬ誤解を招くことになる。
(忙しいかもしれないから、つまらない用で連絡するのは悪いかな)と遠慮していた健気なハートがガラスのように砕け散り、思わぬ結果を招く例である。
 仕方ないので、恋人がいるときは退屈な気分の時はもちろん、どうでもよいことで連絡をする必要があるという事実を僕は30代になって学んだ。みんなヒマ人か。
 こういうのを日頃の行いと呼ぶべきなのかは分からないが、手間を掛けて普段からどうでもいいやり取りをすることによって、あらぬ誤解を回避できるようになった。
 
 仕事であれ、他の人との恋愛であれ、家族関係であれ、何くれとなく忙しいタイプの恋人にそういうことはない。
 用のあるとき(セックスに限るものではないし、セックスを省くわけでもない。一緒に散歩しようぜ、という健全(?)な欲求だってある)に連絡することができる。
 とくに僕は餌付け欲求(作った料理を食べさせたい)が強いので、そういうときに食事にかこつけてデートすることができる。
 
 それにしても「餌付け欲求」て表現、少し言葉が悪いかもだな。
 まぁでも比較的平和的な支配欲の発露、ですかね。支配したりされたりは、病的でないなら心地よいときもありますから。
 僕の場合、自分以外の人との距離を(一般と比して過剰なくらい)取ることで環境を支配しているわけで。
 
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 いずれにしても睡眠期というのは「眠るとはこんなに心地よいのか」などと惰眠にふけっているうちに、気付いたら抜け出せなくなっているときがある。
 入り口は心地よいのに、次第に抜け出せなくなり、出口の精神状態は抑鬱的である。薬物中毒者かよ。
 いや確かに睡眠にはある種の中毒性があり、それが僕には強く作用するのだ。
 他のほとんどすべて(ニコチンやらアルコールやら食事やらセックスやら)の中毒にはならないのに。
 
 ここはひとつ認識を改めるべきだろう。
 睡眠は(僕にとって)中毒作用のある行為だと認識しよう。それも強烈に。
 必要なものだし、心地よいものだけれど、過度のそれは毒になる。精神的にも肉体的にも、それは科学的に(再現性を持って)証明されている(僕にとって)。
 
 睡眠の素晴らしさというか(僕に対する)中毒性を僕は自覚すべきで、それを適度な範囲に制御する必要がある。今後も好きなだけ眠れるのだから余計に。
 
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【何が良くて何が悪いのか(僕にとって)】
 
 睡眠は意識を失うことができる。
 僕は自分の意識を持ち続けることにすぐ飽きてしまうので、意識を遮断したい場合や記憶を蓄積したくない場合に有用であり、手軽な現実逃避として安易に使われる。
 寝ればいいだけなので、お金も掛からない。寝る場所と時間があればそれでいい。
 最近でも近所の老婦人に突然の来訪された場合などに、とりあえず眠って現実を無視し、低迷した気分を回復させるため(という名目で、目覚めた直後から)さらに眠ったりしている。
 
 もしかして彼女は俺に嫌われている(私は彼女を嫌っている)のでは? という予測が可能だが、それについては後で考えよう。
 損害の程度が分からない対象について、わざわざ嫌っていることを自覚する必要はない。
 
 問題は、現実世界で問題が発生していることを眠ることで回避したり、眠ることで回復させようとする行為である。
 時間の経過が問題を解決するケースは少なからずあり、怠惰な僕に適合した解決策ではある。
 ために実際に回避することは可能で、回復することも可能であるが、過睡眠によるリスクもある。
 しかしより現実的に(現実世界に意図してアクセスして)問題を解決すれば、回避するべき問題が発生(再発)しなくなることもある。
 問題が発生しなくなれば、回避も回復も不要になる。当たり前だ。
 ただ少し労力や気力が必要になる。これは初期投資だと思うしかない。
 
 また問題解決を破壊的にではなく建設的に行う必要がある。
 他人に嫌われることをあまり気にする必要はないのだが、他人が僕を嫌うということはその人の精神衛生を害することに他ならない。
 そんなの知ったことか、という認識も可能だが、誰かの精神衛生が害されるということは、その人の周囲の人間に害が及ぶことも当然考えられる。
 巡り巡ってバタフライ効果のようにして、世界情勢が悪化する可能性がないと否定することもできない。
 
 たとえばかの老婦人が高名な政治家の親戚で、募らせた苛立ちに任せて当該政治家に愚痴めいた世間話をした結果、当該政治家の精神衛生が害され、外交問題で不適切な対応をしてしまい国交問題に発展するという可能性はほぼゼロだが完全なゼロでもない。中間経由地点(関係者と経過時間)を増やせば、可能性は上がるだろう。
 
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【僕の考える世界にもたらされる精神の運動三法則】
 
 直接の害が発生していない(発生していても軽微もしくは容易に回復できる)場合、わざわざ嫌う必要もないと考えるのはこういう理由である。
 僕の考えるこの世界では、僕が誰かを嫌うとその誰かは僕を嫌う(作用反作用の法則的に)。
 僕を嫌う誰かは精神衛生を害し、何らかの出力をするまで蓄積状態が続く(慣性の法則的に)。
 誰かの害された精神は伝播し、この世界を害する(運動方程式的に)。
 
 誰かを無視したり軽視することはさほどの問題にならないが、嫌うことはなるべく避けたい。
 僕が嫌うだけで、最終的には自分の分と相手の分の2倍の害が発生する。
 それは最終的に悪意として世界に発露され、世界からの悪意として己に還元される。
 
 これらは広く科学的な検証などしていないしおそらく論文も存在しないと思うが、これまで観察した世界では比較的再現性の高い人間の精神性にまつわる法則である。
 もちろん僕の観察している世界では再現性が(非常に)高いというだけで、その再現性を持たない世界に棲んでいる人がいる可能性は(僕には)否定できずその確率も不明だ。
 
 問題は「誰かにとっての世界」をどうこうしよう、という話ではない。
 僕にとっての世界が良いものになればそれでいいのだ。
 ために僕が僕の幸福を追求する場合、僕の観察する世界の法則にできるだけ従う必要があり、不確定な要素についてはすべてネコノカミサマにぶん投げる方式を採用している。不幸な下請け業者か。
 
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【怠惰の弊害】
 
 僕が怠惰であることは有意に働くこともある。
 観察の範囲では(僕がひたすら怠惰なことと、その怠惰さに対して好意的/友好的な関係性しか残留しないため)僕の幸せにおいて非常にすぐれた結果を招いている。
 僕は怠惰なあまり高効率主義であるし、慣例を疑問視する傾向が強く、競争を好まない。草食系Z世代ミームの体現でも目指してるのかな。
 まあ少なくとも温和で、のんびりしていて、存在が癒やし(「卑しい」の聞き間違いではないと思うが否定はしない)なのにそれなりに知的と認識される傾向が高い。
(アタマの中が丘海賊であることは秘密である)
 
 怠惰さは僕の身体的特性とも相性がいい。
 心身のいずれでも無理をすると、身体的に原因不明(解決不能)の不調が発生する。
 抵抗力の低い体質に問題があるが、その解決は不可能で、僕はこの身体とテキトーに付き合うしかない。
 あまり自分の生に執着しないのも、もしかしたら乳幼児の頃の身体的苦痛に起因しているのかもしれない。
 何事も面倒だな、と思っていいし、それが最終的に僕の身体を守るのでもある。
 
 そしてこの怠惰さは、僕が問題を常に先延ばしにする悪癖にも繋がっている。
(子供の頃から)物覚えが悪く、思い出す能力が極端に低いことも相関性があるだろう。
 問題は、問題を問題と認識し続けて初めて問題となり、解決策を導く必要が発生する。
 問題に直面してストレスが発生しても、それを記憶せず、毎回新しい気持ちでストレスを抱えるぶんには、問題解決という手間を掛けずにすむ。徹底したものぐさだな。
 
 問題が内面的なものではなく、外部の現実世界に発生している場合は、その怠惰さが顕著な問題になることもある。
 何度も書いているが、公共料金を払い忘れてライフラインを止められたりするのが典型だ。
 最近でこそ解決しているが、そもそもそれらを止められることについて、僕は何とも思っていない。無銭飲食してるみたいなものなんだけどね。
 
 そうなのだ。
 僕は大人になったので、僕が一向に気にしなくても、他の誰かの精神衛生を害することはよろしくないと思うようになった。
 無銭飲食は(法的に犯罪かどうかはどうでもいいが)僕の世界の法則上よろしくない。
 ライフラインの提供をしている事業者に勤務している方の精神衛生を害さないことは世界の平和に貢献するので、公共料金を(なるべく)きちんと払うようになった。
 40代になってからなので、遅い! と言われればその通りだが、改めないよりは良いだろう。
 
 それでも昔と同じように、先延ばししてしまうことは多い。
 もちろん適切なタイミング(あるいは若干の周回遅れ)で解決するようにはしているし、人生のゴール(死)を見据えている今、すべての問題をなるべく綺麗にする必要性に駆られてもいる。
 こうした問題は「一事が万事」なので、僕はもう一度、自分の周囲の問題をつぶさに観察し、眠ることで解決の代替(先延ばし)とする習慣を改める必要があるだろう。
 
 僕は時間を手に入れたし、可能な限り他人を排除することに成功したし、それなりに財力があるときもある(7月みたいにカスカスになっているときもあるが)。
 問題解決をするための思考力も最低限は備えているし、身体能力を適切に運用するための制御もできる。
 つまり問題解決をしないこと(必要もないのに先延ばしすること)は怠惰さの悪い面であり、改める方が世界平和と幸福の追求に役立つと考えられる。
 
>>>
【問題を問題と認識しよう】
 
 僕はもともと自意識の制御が下手である。
 そんなもん制御するものかと笑われてしまうかもしれないが、僕が僕であるという意識に乏しいというかなんというか。
 たしかにこの肉体は存在していて、その土台の上に僕の思考やら精神的な反応やらがあるのだが、それ自体に関心が薄い。
 生きていても死んでいてもどちらでもいいと思うし、ともすればその実在について確たる証明(僕の認識のすべてが夢や幻でないと誰に言えるだろう)ができないため、けっこう投げやりである。
 
 何かに熱心に集中しているときがある一方、不意に我に返って(まぁどうでもいいかぁ〜)となってしまう。
 自分自身その性質に振り回されていたし、その性質に振り回される他者がいることに注意が向かなかったことも否定できない。申し訳ない。
 
 その自意識の低さが怠惰さや問題を先延ばしにする性質と相関性を持っている。
 自分が我慢をすればやり過ごせるかな、という論理に欠けた態度も同様だ。もう少し賢くならなかったのかこの個体は。
 
 やり過ごさず適切に問題に対処するためには、自身の抱える問題を認識する必要がある。それに伴うストレスもセットで。
 
>>>
【老婦人の問題を解決する方法を模索する】
 
 直近だとやはり、近所の老婦人の問題がある。
 嫌われていない(好意的に思われている)のが、却ってストレスになっている。
 Webで公開していないが、8/3にも来訪を受け、酒席に誘われたが断った、にもかかわらず強要された。
 
 そのときもあれこれ理由を付けて(実際、最近は自宅でもほとんどお酒を飲まないので)酒席を断り続けていたのだが、あろうことか「ではここ(玄関)で飲んでもいいですか?」と、彼女は手提げ袋から紙パックのお酒を取り出したのである。
 帰ってほしいのだが、僕はそれを強く言える性格ではない。
 そもそもそうした不快感を強く感じるのは、それを感じ始めたずっと後になるのだ。
 
 怒りや悲しみや不快は、一事が万事、そのときは何でもないのに後になってひどく傷を残す。僕はそういう性分で、だから人を寄せ付けたくないのだ。
 しかし「はぁ、まぁ」などと言っているうちに話が始まり(僕は料理中だったので、途中に席を外したりしたものの)2時間近く(エアコンもない玄関の上がりかまちで)話を聞く羽目になった。
 NOと言わなかったことがYESだと勘違いされるケースである。裁判をすると不利な証拠になりかねない。
 
 毎回彼女はお酒(あるいはお茶)を一緒に飲みつつ話がしたいようなのだが、僕にとっては基本的に苦痛になる。
 相手が老婦人だから、というわけではないが、他に優れたコンテンツはいくらでもあるし、話をすることがもっと楽しい相手もいる。
 時間単位の幸福度が低いから興味がないばかりか、苦痛に感じる部分もある。
 具体的には彼女の思考傾向に独善的な部分や排他的な部分があり(誰だって多少はあるが)、それが(僕に直接向けられていないとしても)強い悪意として感じられる。
 僕はこれが苦痛である。
 
 観察の範囲において、彼女はある種の孤立した状況に置かれている。
 書きたくないので詳述しないが、同居の家族が居ないにしても家族から冷たくされたり、友人と親しくできない(してもらえない?)環境にある。
 彼女の孤独は独善性を助長し彼女の身勝手を抑止せず、彼女の排他性は彼女を抑止しようとした他者を攻撃するように観察される。
 果たして問題が環境にあるのか、環境を醸成させた本人の行動(および価値観)にあるのか、疑問を持つ。
 
 その無神経さに、僕自身も少々気分を害しているのである。
 彼女が苦しんでいる環境を彼女自身が作っているのだとしたら、それを解決する行動は本人にしかできない(よくある話である)。
 彼女はコミュニティから孤立している被害者でもあるが、自身がコミュニティの誰かを加害している結果だと気付くことはないだろう。
 
 気付く程度の善意(と勝手にこちらが期待するもの)があれば、僕の家に何度も訪れたり、何度も電話をしたり、断り続けているのに誘い続けたりもしないはずである。
 
 その来訪の数日後には、過眠が始まったと思う(記憶が定かではない)。
 物事に対するやる気がまったく起きなくなってしまった。
 彼女のせいだと思う人もいるとは思うが、僕が正しく問題に対処していない(できていない)せいでもある。
 
>>>
【基本指針を打ち立てる】
 
 僕は彼女に対して悪意を持ちたくない(そこまで脅威を感じていない)のだが、正しく善意を持っている(その必要のある利益を感じている)わけでもない。
 害もなく益もないのだ。今後もそのように予測される。縁や故があって、それを引き継いで駐車場を貸している、それだけである。
 個人としてはシンプルに距離を置いてほしいのだが、僕はそれをうまく伝えられていない(一人の方が好きだとは何度も言っているのだが、どうやら何も伝わっていない)。
 
 彼女に対して善意を持つというのは、彼女が孤立しないようにすること、彼女がコミュニティに受け容れられ、攻撃をしないようになり、コミュニティにおいて有益な存在として認められるような方向性を一緒に考えることだろう。
 しかし正直それをする価値はもちろん、試す価値すら僕は感じていない。
 
 彼女のもたらした自身の孤立という不幸は、観察の範囲では残念ながら自業自得の産物であり、話をしている限り彼女は聡明さや公正さや客観性に欠け、自身の考えを疑う余地を持たない(少なくともこれまでの結果ではそうなる)。
 年齢によるものもあるだろうし、経験によるものもあるだろう(同じことを言っている)。人間がその人を生きるとはそういうことだ。
 
 その人の持つ価値観を他人である僕が変えようとするのは、その人の積み重ねた人生や経験に対して、ある種の否定をすることにもなりかねない。
 そのおこがましさは他人の家の玄関の上がりかまちで唐突にお酒を飲み出す厚かましさとどう違うだろう。
「良かれと思って」という言い訳は、常に加害者によって発言されるのではないのか。
 
 しかしまぁ僕なりの解釈を、語るぶんには良いのだろう。それでも時間を使うことにまったく気が向かないのだが。
 あるいはその善意の実現よって世界は少し平和に近づき、人々は幸福に近づくだろう。本当にそうだろうか。
 労多くして功少なし。高効率主義はどこに行ったのか。
 
 大事なことは、僕が期待されているほどの興味関心も好意も彼女に対して持ち合わせていないこと(同じくらい敵意も害意もないこと)を理解してもらうことと、同時に彼女の抱える問題解決に苦心する気持ちはあることを理解してもらうことである。
 さらに寂しさ紛れに僕の家にやって来ることを回避する(現実世界での最優先事項である)ためには、彼女が彼女自身の不満と問題を正しく認識し理解し解決する必要があり、それを自力で認識できるような情報開示(と必要に応じては誘導まで)をする必要がある。
 嘘だろ、こんなに手間が掛かることをしなくてはならないのか。他人の認識なんて制御したくない。
 
<PCデスクの裏をヤモリが走る。まだ幼い>
 
>>>
【詳細は後で考える】
 
 とりあえず気分も前向きになってきた。
 鬱屈して眠っている間にいくつかの問題を放置していることも思い出した。
 電気と水道の料金を未払いにしていることも思い出した。
 
 放置すればセルフネグレクトになるが、僕にはいくつかのセーフティネットが存在し、まったく異なる価値観として機能する奥様(仮想)もその一部として機能している。
 ときどき帰省している(帰宅かもしれない)ようだが、実のところそもそもどんな世界の住人なのか、僕は知らない。
 
 いずれにしても僕の認識する問題とその解決は、自己言及的な性質を帯びた、認識と意味づけの結果によって現実世界のありようを変容させる目的の道程を進むことになる。
 僕は僕の認識する僕や僕以外の誰か(今回は近所の老婦人)とその問題について考え直す必要があり、その中ではその誰か(老婦人)の考える僕や彼女自身についての認識を可能な限りのパターンで予測する必要があり、いずれの視点からも価値観からもかけ離れた客観から観察しうる僕や彼女自身についての意味づけを予測し、その上で自分が目的とする目標と、彼女が目標としうる目標の無難な妥協点を探り、そこに現実を移動させる(実現させる)手段を考える。
 
 昔からこういう手法を取っているので、基本的に僕は瞬発力に欠けるし、決定打に欠けていると観察されている。なんとなれば「意味不明」のひと言で片付けられることもある。
 そのとおり僕の認識しているものをほとんど誰も理解しない(できないのかもしれないし、する価値がないと思われているのかもしれない。僕には分からない)上、明確に言語化することは(上記の通りが精一杯で)僕自身にもひどく困難なため、伝達がむつかしい。
 僕は往々にして説明することを放棄するし、仮に時間を掛けて丁寧に説明しても、手を掛けるほど複雑になるようで(自己言及性を持つ以上、そうやってループする全体の仕組みを概念として抽象的にイメージする必要があるわけで、具体的に説明するほど記述がループすることも多いためか)不思議と理解されない。
 
 物事を短絡的に認識し、一意的に決定できる人たちとは思考や問題解決の手法が異なるのだろう。
 老婦人の件を例にすると、一般的には「迷惑だから帰れ」と突き放し、帰らなければ警察を呼ぶのだろう。
 その手法は迅速で確実で、一応の満足をもたらすはずだ。世界の平和は少し遠のくが。
 
 僕の場合は(世界の平和みたいな)余計なことまで計算に入れる。
 非常識な隣人が抱える不幸や、倫理に乏しい他人の自業自得と世界平和の相関性なんてものを真面目に考える人は少ない。
 僕だってそんなに真面目に考えているわけではないが、少なくともその理屈を信じている。
 
 ゴキブリが台所で発生したときに、堆肥や枯れ葉の積もるエリアを敷地に作って誘導し、自身の生活圏は忌避剤(あるいは殺虫剤)を使って棲み分けするより、シンプルに皆殺しにする方が簡単だ。
 だから短絡的に目の前のゴキブリを殺すことしか考えない人は多く、自身の価値観の外にあるものは考えない。罵詈雑言を平気で吐く人がいなくなることもないだろう。
 
 僕は狂った人とさほど狂っていない(自分をマトモだと思っている)人が共存できる世の中を実現するために、自分から世界に歩み寄ろうと考えて、考えるだけで疲弊して寝込むタイプである。
 どちらが正しいとか、そういうことは思わない。どちらにも利点があり欠点がある。
 その上で僕は僕のありようを選択し、結果的に理解はされないが、思った世界をある程度まで構築することに成功している。
 
 なぜといって世界が変容するとき(たとえば水道が未払いで閉栓されなくなるとき)僕の価値観も変容している(公共料金をきちんと払うようになっている)からだ。
 だからほんとうに公共料金はちゃんと払ってください。
 今月も赤紙が来ちゃったじゃないですか。と奥様(仮想)に叱られるのだけれど。
 
 しかし書けば書くほど(言葉にすればするほど)狂った人みたいな感じだよね。電波系というか。
 スピリチュアル界隈(笑)を小馬鹿にしてるのにね。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
  病的ではない正しさもあるし、正しさを妥協しない姿勢も必要だということをもう一度考え直すきっかけになった。
  僕は妥協のエキスパートなので、考えを少し改めようかと。
 
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Engineering-Interface-Link-Mechanics-Stand_Alone-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Generator-Reactor-Resistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Human-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :青猫のひとりごと:
:暗闇エトランジェ:
:月夜の井戸端会議:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:240811
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
私は猫です人間社会の観察者です。
SUBTITLE:
〜 Report from Observer. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
>>>
【それってトドに失礼じゃない?】
 
 なんだか芸能人が世界大運動会(オリンピック)選手の休憩ポーズをして「トドみたい」と言ったところ、それをWebだかWebニュースだかが取り上げて「それは失礼だろう」と論(あげつら)われているようなのだけれどワタクシはWebのニュースなどを眺めておりまして眺めておりましたところそれが目に入りまして言葉を失った次第です私は猫です人間社会の観察者です。
 
>前提:人間社会にさほど興味がありません。
 
 人間世界では発言者のスタンスを表明することが発言の内容より優先されることがあるようなのでこのプロトコルに則(のっと)ってワタクシの背景を申し上げるとするならばワタクシは猫でありTVをゲーム用映像投影装置として使用することはあっても25年以上TVプログラムを自発的に見ておらず現在は居住している建物からTVアンテナ等のTVプログラム映像投影に必須とされる装置を排除しております。排除しておりましてTVプログラム映像投影に必須とされる装置を探して彷徨(さまよ)うNHKの黒服どもが寄りつかない状況となっていますので旧来の芸能人についてもあるいは現在庶民に人気があるとされる芸能人についても芸能界についても世界大運動会についても思うところはありません。ありませんのですがしかしWebニュースなど見ておりますと遠い世界の出来事のようなそれがあたかも身近に発生しているかのように日本語で語られておりまして時折そうしたものを目にしては人間の暮らす日本という国に思いを馳せる次第です私は猫です。
 
>何が失礼なのか私は考えました。
 
 それにしてもそもそも論としてそれってトドに失礼じゃない? とわたくしは思いました私は猫です。
「トドのよう」と比喩することが「よろしくないもの」と認識されている認識プロセスにワタクシは疑問を持ちました疑問を持ちましたのはワタクシにとってトドというのはよろしくないもののようには思えないからですトドというのはわたくしの知る限り水辺に暮らす少々身体の大きなイキモノのことでありおっとりとした生態とは裏腹に特にオスなどは裏腹に野性的で力強い一面も持ち合わせているものと記憶しておりますがそれが必ずしも正しい認識であり理解であると自信を持って確信しているわけではありません。ありませんもののワタクシの認識しているそのような生態の動物であるところのトド(実体)と問題の発端であるところの「トド(不明)みたい」と発言されたところの指すトド(概念的情報体)と「トド(不明)みたいというのは失礼だろう」と指摘されるところのトド(概念的情報体)が指し示しているものは果たしてすべて等しく同じであると考えた場合にどのようにこれが失礼であるかについて考えたところトド(実在)が失礼ということはなさそうだと私は思いました。私は思いましてそれならば何が失礼なのかと考えました私は猫です。
 
>トドではない何が失礼なのか私は考えました。
 
 トドそのものが失礼でない場合について考えた場合には「トドのようだ」という比喩そのものもしくはトドのようだと比喩する行為そのものが失礼であるものと考えました失礼というのは悪いことであり悪しきものでありそれはよろしくないものであり善良な未来の健全な構築から逸脱しかねない造反行為であるのだろうと思われます私は猫です。
 
>念のためトドが失礼か私は再考しました。
 
 あるいはトドが失礼であった場合について考えた場合これは「トドのようだ」という比喩そのものについてその比喩が対象(A:世界大運動会の選手)に能(あた)わない場合であればその存在自体が失礼であるところのトドとして比喩された対象(A:世界大運動会の選手)に対して罪深く悪しく醜くおぞましく邪悪で不健全に逸脱した存在であるトドのようだとすることもしくはトドのようだと比喩する行為そのものが正しく健全でよりよい未来を構築するための開かれた社会における発言としては不適切で邪悪なありようであるということもまた理解はできます私は猫です。
 
>トドが失礼ではない場合の認識を確認します。
 
 立ち返りましてトドそのものが失礼でないと考えた場合についてみます。失礼でないと考えた場合におけるトドの定義とはまずよきものであり美しきものであり健気なものであり善良なものであり無害もしくは無害と呼んでも構わないものであると認識することができ、可能でありそのように認識することが善良な未来の健全な構築から逸脱しない認識であろうと思います私は猫です。
 
>比喩とは何か確認します。
 
「トドのよう」と比喩された参照元(O:トド)は比喩された対象(A:世界大運動会の選手)を比喩という手段によって装飾する行為において、参照元(O:トド)の特性が対象(A:世界大運動会の選手)をして類似しているということを表現しているものと認識します私は猫です人間社会の観察者です。
 比喩に利用された参照元(O:トド)の特性についてその定義に基づき「よきものであり美しきものであり健気であり善良であり無害もしくは無害と呼んで構わない」という条件を代入しました場合比喩された対象(A:世界大運動会の選手)そのものがその比喩という装飾行為によって表現されるのはその参照された特性を引き継ぎまして「よきものであり美しきものであり健気であり善良であり無害もしくは無害と呼んで構わない」というものと認識されるものと理解しますこれは人間社会における比喩および認識および理解におけるプロセスを演繹(えんえき)した結果導かれるものです私は猫です。
 
>しかしトドという比喩が失礼であるため怒りに震えています。
 
 Webニュースにおかれまして「トドという比喩は失礼である」という断定がなされている情報がもし人間社会において現実に発生している事象と認識した場合、つまるところ比喩された対象(A:世界大運動会の選手)は参照元(O:トド)の特性をまったく引き継いでなどいない。引き継いでいないのでこれは虚偽であり虚偽を広く強く押し進めるプロパガンダは我々の国家の自由と愛と真実を信奉する人民の正しく理想的で健全なありようとして受け入れることは断じてできず許されないということで日本国民(Web上)が怒りに震えているものと思われます私は猫です人間社会の観察者です。
 
>震える怒りの発生する回路を確認します。
 
 このように考えた場合この震える怒りの論理式が入力O(トド)と入力A(世界大運動会の選手)についてのXOR回路を形成していると私は考えます。
 論理式に詳しくない方のために今回は特別に説明をいたしますワタクシは猫であり大変優しく慈悲深く残酷で非情でありましてあるからです美しいかどうかは皆で決めていただいてもかまいませんが私は美しいと考えます私は猫です。
 
>排他的論理和回路と認識しました。
 
 論理式におけるXOR(エクスクルーシブ・オア/ exclusive disjunction /排他的論理和)回路については Wikipedia などで勝手に調べてください人間の英知に未来あれ私は猫です。
 
>テストします。
 
 このXOR回路において入力O(善良)と入力A(善良)が入力された場合出力は0(ゼロ)となり震える怒りは発生しません。発生しませんのはこのXOR比喩回路に入力された二値が等しいため等しい比喩が適切で正しく健全でより良い未来を構築するための開かれた社会における発言として適切であると判断されるためです。震える怒りは発生しません。
 
>出力が真(1)となる条件を作ります。震える怒りが発生します。震える怒りが発生します。震える怒りが発生します。
 
 このXOR回路において入力O(邪悪)と入力A(善良)が入力された場合出力は1となり震える怒りが発生します。
 このXOR回路において入力O(善良)と入力A(邪悪)が入力された場合出力は1となり震える怒りが発生します。
 発生しますのはこのXOR比喩回路に入力された二値が等しくないためその比喩は適切で正しく健全でより良い未来を構築するための開かれた社会における発言として考える場合に罪深く悪しく醜くおぞましく邪悪で不健全に逸脱しており不適切であると判断されるためです。震える怒りが発生します。震える怒りが発生します。震える怒りが発生します。震える怒りが発生します。
 
出力が偽(0)となるもうひとつの条件から検証します。震える怒りは発生しません。
 
 このXOR回路において入力O(邪悪)と入力A(邪悪)が入力された場合出力は0(ゼロ)となり震える怒りは発生しません。発生しませんのはこのXOR比喩回路に入力された二値が等しいため等しい比喩が適切で正しく健全でより良い未来を構築するための開かれた社会における発言として適切であると判断されるためです。震える怒りは発生しません。
 
>概況(がいきょう)を俯瞰(ふかん)し確認します。
 
 以上が今回適切で正しく健全でより良い未来を構築するための開かれた社会を目指す人間の暮らす日本という国においてWeb上に構築された震える怒りの真偽判定を行う比喩のXOR回路の概要となります私は猫です人間社会を観察するものです。
 
>震える怒りが発生しているとされています。
 
 震える怒りが発生する状況については式のとおり入力/参照元(O:トド)および入力/比喩された対象(A:世界大運動会の選手)の特性が一致しない場合についてです。震える怒りが発生しているとWebニュースは報じています。震える怒りが発生しているとWebニュースは報じています。
 
>排他的論理和回路という前提のもと検証します。
 
 特性が一致していない場合にとられる二値のうち一方を明確なのもにすることでもう一方は確定しますこれはXOR回路における必然ですXOR回路において真(1)が出力されているとき入力された一方が真(1)である場合もう一方は必ず偽(0)であり入力された一方が偽(0)である場合もう一方は必ず真(1)であります。
 
 寄せられている人々の意見を集約すると、その大多数が比喩された対象(A:世界大運動会の選手)について正しく健全でよりよい未来を構築するための開かれた社会においてよきものであり美しきものであり健気なものであり善良なものであり無害もしくは無害と呼んでも構わないものであると認識していることが確認されます。
 よって上記の前提条件から導き出されるのはトドのようだと比喩されるのが怒りに震えるほど失礼であるのは比喩における参照元(O:トド)そのものが著しくかつ絶対的に比喩された対象(A:世界大運動会の選手)の特性をまったく示しておらずトドというのはその存在そのものからして罪深く悪しく醜くおぞましく邪悪で不健全に逸脱しているという識別子として認識していることを回路が暗に示しておりまして多くの正しく健全でより良い社会を構築するための開かれた社会における発言者がそのように認識しているものと思われます私は猫です。
 
>トドは存在からして罪深く悪しく醜くおぞましく邪悪で不健全に逸脱していると日本における人間社会は認識しています猫社会の上位存在の判断を仰ぎます。
 
 初期条件を振り返りましてわたくしは人間社会の庶民に人気があるとされる芸能人についても運動選手についても何ら思うところはなく(むしろ高齢になったらとっとと引退しろと思うほどで)また同時にWebニュースという限られた情報媒体における投影のすべてを信じるものではありません。
 この論理式について人間社会がどのように認識しているのか理解できませんが結論は先に述べたとおりそれにしてもそもそも論としてそれってトドに失礼じゃない? とわたくしは思いました猫のよう狐のようヒョウのようライオンのようスナドリネコのようシラサギのようという比喩であったならどのような出力が為されたか興味がありそれぞれ検証したく考えますが人間社会への干渉は禁じられているため検証は回避されます。されました私は猫です人間社会の観察者です。
 
>私は猫です人間社会の観察者です。
 
 本日の定期報告は以上です。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Chaos-Diary-Ecology-Interface-Kidding-Link-Mechanics-
 
[Module]
  -Reactor-Transistor-
 
[Object]
  -Human-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
:夢見の猫の額の奥に:
:Webストリートを見おろして:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:240809
// NOTE:まだクリアしてない。
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TITLE:
寂しさとムーンパレスの話。
SUBTITLE:
〜 Moon with me, 〜
Written by BlueCat

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240809
 
 
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【月みたいなイキモノ】
 
 僕はかつて、周囲の人間から「太陽か月で言うと月」とか「月みたいなイキモノだね」と言われることがあった。
 今もそうかは分からない。
 
 僕の周囲にはあまり人間がいないから。とくに新しい人間を周囲に配さなくなって久しい。
 かつて私をそのように評した人の一部(たとえば一見すると無粋で粗野なTUもその1人)と今も行き来があるが、おそらくこうした比喩は、そう何度も使うようなものではないのだろう。
 おそらく僕の表面しか知らない人間なら、僕の内側に何が存在しているかなど気にも留めないし、僕の内側を先に開示されている(たとえばこのブログの読者のような)人なら、僕が猫だと思い込んでいるだろう。なに人間のオッサンだと思っているだとう! 違う、それは仮初めの姿だ! 騙されてはいけない! おまわりさんあの人です! えっ、ちが、あの僕じゃなくてあっち、いえあの違うんです、僕は嘘なんて吐いてません! 猫なんです! 僕は猫なんです! 猫は実在するんです! 猫と和解してください! 和解せよ! 和解せよっつってんだろーが! あっ、やめてください。猫! 猫なんです!
 
 ……。
 
 そう、月の話であったな。
 開示され、明示されている情報から飛躍して、自身の観察した素直な感想を留め続けることはむつかしい。
 とりわけ生命体にとって先行情報は優先される ── 視覚情報は内面に対する考察より先行し、言語によって想起される自身の認識は純粋な観察結果より優先される ── ことが多いから、僕を人間だと思い込んでいる人間や、僕を猫だと認識している人間が、僕を「月のよう」と、別のひとつの象徴的な具象を取り出してきて比喩するというのは特別なことのように思えた。
 
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抽象的な具象:
 月は実在するが、あの弱重力の無味乾燥な大地を持つ地球の衛星そのものを言っているのではないだろう。それは彼ら彼女たちの心に投影された月と、それに投影された彼ら彼女たちのイメージだと考えるのが自然だ。
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 僕はその比喩を、だからとても嬉しく思ったものだ。
 必然それはテストで高得点を獲得した子を褒めそやす親のように、あるいは暗闇で交わされる睦言のように、何度も繰り返す必要のない、賞賛とも慕情の表現とも異なる、おそらく一度しか言えない、言われないことなのだ。
 一人が一度、それを伝えたら最後、その人はもう二度とその比喩を持って僕を評さない、評する必要がない、そういう類いの ── 。
 
 そもそも「月みたいなイキモノ」が何を指しているのかは分からない。
 先に述べたとおり、月はイキモノではない。
 少なくとも人類の定義ではそうだろう ── ロマンチストの天文学者なら、少し違ったことを教えてくれるかもしれないが。
 
 だから彼ら彼女たちは誠に勝手ながら月というものに勝手なイメージを押し付け、あまつさえ否定する余地のないそれに勝手な疑似人格を投影し「あの芸能人に顔が似てるよね」みたいなふうに「青猫は月に似てるね」と言ったのだ。
 月からすればいい迷惑かもしれないが、遠い昔から憎からず想っている月をして、そのようだと言われて嫌な気分になどならなかった。
 
 もしかしたら「暗くて発電の役にも立たん愚図」という意味の比喩として使われていた可能性もあるが。
 だから今の僕ならもしかしたら「キミにとって、月ってどんな?」と訊ねるだろう。
 でも当時の僕はそれをしなかった。
 しないで良かったと、今でも思う。
 
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 月というのは僕にとって、寂しさの象徴のようなものだ。
 あんなに煌々としているのに、姿を見るのはいつも宵が降りてからだ。
 ときには何もかもが寝静まった頃だったりする。
 
 お茶や煙草や酒とも違い、誰かと酌み交わすことをもって話のつなぎにするものでもない。
 実際に、友人や想い人と(僕が月を慕うあまり)月など眺めたことがあるが、どうも人間同士の間が持つものではない。
 
 友人となら間が持たず、他愛のない(しかし「そっと」した内容の)話をしてしまい、月見などどうでもよくなってしまう。
 想い人とならあの冷たい光のせいなのか乾いた大地を思い出すのか、やたらと肌の温度や湿度を確認したくなってしまうから、月見も半端になってしまう。
 
 きちんと月を見ようと思って月を見るとき、少なくとも僕は一人きりで、少し寂しいのである。
 少し寂しいから月など眺めたくなるのである。
 一人で少し寂しくて月など一人で眺めるから一人で少し寂しくなるのである。回文か。
 
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 あるいは悪い意味に思う人もいるのかもしれないが、だから僕にとって「月みたいなイキモノ」とはつまり「寂しいイキモノだね」という意味になる(前述の通り、彼ら彼女たちが投影した意味は今も知らない)。
「寂しい人だね」って、誰かにそっと言えるのも、そっと言ってもらえるのも、僕はとても嬉しいのだ。不思議なことに。
 
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【ファミレスを享受せよ】
 
「ファミレスを享受せよ」というゲームがある。
 僕は昔からAVG(アドベンチャ・ゲームの略であって、Audio/Visual Growth の略でも Adult Video Ground state の略でもない)が苦手なので、実況動画を見ている。
 
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 グラフィックとBGMとフォントが、PC−8801のそれを思い出させる。
(FM音源とか、ビューポートのドット表現とか、あの独特の、素直な文字とか)
 僕のようなオジサマにおけるノスタルジアのひとつである。
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 どういうわけか僕はゲームのような選択的(いわゆるインタラクティブな)コンテンツはもちろん、小説や映画のようなシーケンシャルコンテンツについても、その感想や紹介をするのがめちゃくちゃ下手だ。「いいよ」くらいしか言えない。唐突に言葉が出てこなくなる。
 料理を食べても「美味しい」くらいをやっと言うのがせいぜい。
 
 語彙力のなさか、とにかく感覚を言語化することが下手くそだ。
 感覚も感動も、言葉にすることを嫌ってきたからかもしれない。
 愛してるなんて、だから僕が言ったら全部嘘だ。本当の感覚も感動も、言葉にしたら僕の感覚とは別のモノになってしまう。
 デジタルな、音声や文字に変換されるようなモノを僕は感覚していない。
 
 だからそうした感想なりレヴュなりを言語化して記録できる人のことを僕は少し尊敬している。
 その人のそれは、どう読んでも嘘とは思えないからだ。
 僕が書いたら読む先から(違うな)って思うのに、それらの人の感想は(うんうんうん)って頷ける。そうだよねぇ、って同意することさえある。
 
 あるいは僕は混乱してしまうのかもしれない。
 月を見て、誰かと話すことが僕にはできないのだ。
 素敵なコンテンツを見て、それを誰かと語り合うことが ── だから月でもできる人がいるのかもしれない。いやきっといるのだ。
 僕にはそれはできない。ただ呆然と、コンテンツからもたらされる感覚に圧倒されて。
 
 しかし技術的な部分の素晴らしさについては語ることができる。
 たとえばこの「ファミレスを享受せよ」の画像の多くは、マウスで描けない(タブレットかスキャナからの補正によるもの)。
 色もただ塗り潰しツールを使用したものではなく(おそらく)別レイヤで墨入れしている(と思われる)ものもある。
 あとは……FM音源の歪みの出方が綺麗、とかね。
 これじゃ全然ゲームの良さが伝わらないでしょう?
 
 それから……ストーリィや世界設定(世界観でいいや)も素敵。くらいしか言えない。
 何が素晴らしいかなんて、動画を見るなり自分でプレイして勝手に感じるしかない。
 僕はこの、独特の、不思議で、でも寂しい感じが好きかな。熱もなくて、距離も遠くて。そういう感じ。
 デザイナが「これを感じろ」って押し付けてくるタイプのゲームも楽しいけれど、世界や人物を作るだけ作って「あとはご自由に」というのがいちばん好き。
 何をしてもいいし、何をしなくてもいいし、何を感じてもいいし、何も感じなくてもいい。そういうのがゲームだと思う。

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 イキモノってほら、生きていなきゃっていう本能的な原則があって、だいたいのイキモノはそれに逆らいもしないし、反抗期になってもそれは変わらないでしょう?
 あれが嫌い。
 生きることは反骨だよ? 残酷の刃を振るって他のイキモノの首を斬り続けることだよ? IRLはその連続だよ?
 だから生きることに反発してもいい。生まれたときから反抗期でもいい。明日も逆らうぞ。
 
 ヴァーチャルはべつにしてもいいししなくてもいい。
 熊を殺して残酷だと思ってもいいし、熊殺しを楽しんでハイスコアを狙ってもいい。
 人間相手にそれをしてもいい。
 グロテスク表現のあるゲーム(Fallout4 とか)で、街の通行人(当然何も悪いことなどしていない)を撃ち殺して追い回して死体をバラバラにしてもいい。僕はNPC相手の死体蹴りが好きなのだけれど、周囲の(それを見るIRLの)人がいい顔をしないので一人でこっそり楽しんでいます。IRLではそんなことはしないよ?
 もちろん普段は善人ヅラプレイしている(そもそも街のガードに殺される(殺される主人公を見て高笑いする)までが通り魔プレイの楽しみな)ので、僕の異常性はゲームレヴュにも表出しないのだが。
 
 とにかく「これをせよ」「ここで泣け」「笑え」「歌え」「飲め」「これをするな」「そんなことを言うな」って押し付けられるのはIRLで十分なので、ヴァーチャルに遊ぶときまで勧善懲悪だとか人間の良さだとかを強制されたくない。俺は猫だ! 男は殺せ! 女は犯せ! あっ、ちが、ち違うんです検事さん。これはあくまでヴァーチャルの話であってですね、普段は善良な市民ヅラしてるんです。税金だって払っているんです(今は)。だから許してください。俺の税金で暮らしてるんだろうこの公僕風情が!(人格崩壊)
 
 ……。
 
 打ち明けると「ファミレスを享受せよ」は、僕も一度(数年前、と思って確認したらだいたい18ヶ月前)プレイを試みたのだが、AVGが苦手なあまり放り出してしまった。
 表現技術も技法も設定も、とても素晴らしい予感に満ち満ちているのに、自分の選択とその結果のセットを記憶(および想起)できないのだ。
 僕の記憶力がもっと優れていたらとつくづく思う場面である。
 
 自分が何をして、誰と何を話したか、を思い出せない。そこから何を感じたかは思い出せる。
 その「何を感じたか」から関連させて、いわゆる5W1Hを取り出すのだが、どうやらちんぷんかんぷんで、他の誰かと照合するとだいたいデタラメになっているし、自分で思い出そうとしても混濁している。
 僕のコミュニケーション不全の原因はこのあたりにあると考えたい。
 
 僕の価値観や人格形成に問題があるとか、人間関係構築上の欲求の発露が歪んでいるとか、そもそも思想が狂っているとか、日頃の行いが悪いとか、他人をモノ程度にも思っていないとか、そういうふうに思いたくない。そういう自己イメージを持ちたくない。僕は悪くないと世界に言い放ちたい。そのためならどんな記憶だって歪めてやるぞ! 俺は悪くない! 判事さん、僕じゃないんです!
 ……狂ってるな。
 
 とにかくここまで来るとちょっとした記憶障害者なのだが、今まで恋人にも見破られたことは無いと思う。
 見破られていないとしても見限られてはいるわけで、そもそもそんなことに関係なく人格や行いに問題がある可能性は否定できないのだがいや否定したい。
 そもそも彼女たちは僕の記憶障害を指摘していたのにも関わらず僕が忘れている可能性さえあるが待て俺にそもそも恋人なんていた試しがあったのか?
 
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【月について】
 
 月に対する思慕は、ずっと昔から続いている。
 僕が最初に恋情に似たものを覚えた、その対象が月である。
 
 月のよいところは、静かなところ。煩くないところ。暑苦しくもないところ。あたたかいわけではないところ。何の足しにもならないところ。何も押し付けてこないところ。
 もちろん現実世界(の地球上)では潮汐力の源であり、海の波が生まれたことで生命の発生からその進化が加速され、月経や出産(産卵)といった体内時計の指針として作用している。
 
 が、私の身体はあいにく月の影響を受けない組成だ。
 これは男の身体に生まれたひとつの幸運だろう。
 月の重力に干渉される肉体は、月の重力に干渉される精神を持つことになる。
 
 この場合 ── 前述の通り、支配されることは許しても強制されることを許さない ── 僕は月を憎んだ可能性さえある。
 月を討ち滅ぼす夢を見て、きっと叶わぬまま死ぬのだ。
 ゆえに僕の身体が男のそれであることは、月にとっても幸運だろう。
 たとえ叶わぬとしても、討ち滅ぼすべき憎悪の対象にされて嬉しいものではない。あるいは僕が月なら、その哀れをしてせせら嗤うとは思うが。
 きっと憎悪は恋情や羨望の裏返しなのだろうし。
 
 とにかく月に対する最初の情を基準に僕は思慕の情を構成しているので、だから人間関係のなかで取り交わされる情の基準が人間のそれと異なるケースがあるようだ。
 何が正しい、というものではない。
 
 人間の社会から押し付けられたプロトコルに従えば、手軽に人間のお友達を作ることができる(少なくともその可能性は高い)から、寂しさは感じないだろう。寂しさを嫌う人にはその方が無難だ。
 僕にはそのプロトコルがない。あるいはあっても(いや多少は持っていると思うよ、思ってるよ!?)あまり魅力を感じていない。
 どうでもいい相手とつるむくらいなら、寂しい方がいい。
 
 言葉もなく、遣る瀬もなく、使い道もなく、退屈で、儚くて、抜け出せない薄闇。
 思い出すことも、交わす言葉も、希望も望みも願いもない、祈りのような時間。
 
 こういうのを誰かと共有するのか? それは楽しいのか?
 私はこれを独り占めしていたい。誰にも渡したくない。
 
 誰かや、あるいは何かに対して抱く思慕の念や情を、言葉にしたらそれきりになってしまう。
 その言葉がそこにいて、その言葉で表現したから、その言葉を使えば思い出せると、その言葉を使えばその状態に返ることができると、そう思ってしまう。
 何度もその言葉を使い続ければ、その呪文は陳腐に磨り減り、意味もまじないもかすれてゆく。
 
 同じ場所になど、帰ることはできない。
 だから言葉は使わず、独り占めして、説明もしない。
 誰にも打ち明けなけい。誰にも明け渡さないために。
 
>>>
 
 ゲームの話なのか、慕情の話なのか、「愛してる」の響きだけで強くなれる気がしてしまう錯誤の話なのか、月の話なのか、孤独の話なのか、寂しさの話なのか、人間の話なのか分からないかもしれない。
 しかし僕の考えていることを分かることが、そんなに大事だろうか。
 
 僕にはそれは大事なのだが、僕以外の人は、自身の考えていることをきちんと分かる方が大事だと思う。
 私は私という月を抱え、あなたはあなたという月を享受せよ。
 
 
 
 
 
 
 

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