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TITLE:
クラゲじゃなくてマンモスかな?
SUBTITLE:
〜 Glacial plan. 〜
Written by BlueCat

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250425
 
 昨日は姉上の通院介助。
 今日は久しぶりの献血。
 
 たびたび書いている(かもしれないしそうでないかもしれない)が、僕はときどき退屈で憂鬱になったついでに死にたくなる。
 百年のうち半分くらいは人間としての人生経験を積んだと思うが、そういう子供の頃からの特性はなくならないようだ。
 7歳の頃にはすでに人生(特に通学とか、学校生活)に飽き飽きしていたので、一世紀とまで言わないが、数十年は倦みつ弛みつしながら生きている。
 
 自殺したい気分になる人に言っておきたいのだが、こういうものはなくならない。
 何歳になってもなくならないし、今抱えている痛みや苦しみがなくなったところで、死に対する羨望は消えない。
 仕事をする必要がなくなっても、オカネモチーになっても、嫌な奴がひとりとしてこの世に居なくなっても、周囲の人に愛され尊重され大切にされていても、死にたい気持ちを持つ性質はなくならないし、生きていることに対する倦怠感や飽き飽きした気持ちや、それらをひっくるめた絶望もなくならない。
 
 それならどうするかといえば、そんな憂鬱は最初から存在しないかのように振る舞うか、毎回そんなものに振り回されてジタバタするか、というのが一般的なところか。
 あるいはこういう性質がまるっと自分自身なのだと思って、ぼうっと眺めておく手法もある。
 
 憂鬱になる。退屈になる。鬱屈する。
 それを眺めて「ああ、またわたくしは退屈しているのだなぁ」と思って、極力普段どおりの日常を送るのだ。
 憂鬱だろうと爽快だろうと、時間はきちんと過ぎる。
 
 仕事があれば出掛ける時間になり、仕事をしていれば帰宅する時間を迎える。
 今日が終われば明日が来て、去年が終わって今年になる。
 止まない雨がないように、去らない憂鬱もない。
 
 我々は傘も持たず土砂降りに打たれながら口を半開きにして空を眺め、途方に暮れる白痴のようなものだ。
 空は暗く、雨は冷たく、湿った空気は沈鬱だろうけれど、そんなものは誰もが見ている風景に対する勝手な意味づけに過ぎない。
 本物の闇はもっと暗いものだし、一層の冷たい風を知る者なら雨を温かく感じるし、乾いた空気に粘膜を痛めたことのある人にすれば湿った空気は恵みだろう。
 
 傘がないというが、傘などなくても生きていけるのだ。
 詰め込まれ、打ち捨てられた段ボール箱がひしゃげたとて死にはしない。
 もちろん、なぜ生きるのか、という疑問が我々を苦しめるのもまた事実だ。
 この性質もまたずっと失われることがない。
 
 我々はその疑問の答えを見つけることができない。
 そして同時に、その疑問を手放すことができない。
 生きることの意味や価値を見つけたつもりになることはあるだろうし、見つけたと思う人もいるだろう。
 
 それはその人の自由であり、その人なりの答えである。間違いではない。
 そして同時に、誰にでも当てはまる答えなどというものはない。
 意味も、価値も、共通のものなどではない。
 
 だからある者はもっともらしく語ることができるかもしれないが、届かない人には何も伝わらない。
 語られる答えは、それを語る人にとっての価値であって、見つかっていない人にとっての意味ではない。
 
 そういったどうしようもなさを、そのまま抱えて、自分の性質として生きるしかない。
 退屈や憂鬱や無意味さに絶望することを楽しめばいいのだ。
 楽しめもしないならやめればいい。
 
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 Webニュースを眺めていたら「氷河期世代への支援」を標榜する政治家やら政党が現れているとか。
 正直我々は(あるいは少なくとも私という氷河期世代に属する者は)死に体である。
 語源のとおりバランスを崩しているし、何となれば転倒することによってすでに安定した可能性すらある。
 
 選挙に当選することが職務たる政治家の人々は手を替え品を替え、何とか自身の職位を保たなくてはならないのだろう。
 ただ、そもそも我々は社会によって口を塞がれたサイレントアナーキストである。
 今さら社会が手を差し伸べたからといって「そうですかありがとうございます」と言えるほど恵まれた環境で素直に優しく育った者ばかりではないだろう。
 
 社会や組織や情勢や時代に対する不信感は ── そんなもの持たない方が幸せなのだろうけれど ── それを持つべくして持った世代にとって、仮においそれとぶら下げられた肉塊に飛びつくほど飢えていたとして、そんなものに飛びついた者から酷い目に遭わされてきた事実を目の当たりにすることで醸成されたものだ。
 
 バブル期が終わって間もなく年功序列システムが批判され、実力/成果主義による人事考査を導入した/すると企業は次々公表したが、我々がそのシステムに載せられ突きつけられ痛感したのは「自分が思っているほど自分は有能ではない」というシンプルな事実だ。
 あるいは有能だった人も居るのかもしれないが、企業にとっては、経費は掛かるが生産性の低下した中堅以上のベテランを放逐することが優先であり、そのためにうってつけのお題目だったと後に知る。
 
 我々はその肉を信じたが、その肉は虚像だった。
 あるいは本物の肉に喰らい付いた者もいるだろうが、私の囓った肉は少なくとも幻影で、私はそのまま谷底に落ちた。
 同じ谷底への転落者に、これまた(いろいろな意味で)食えない古強者もいた、それだけである。
 
 社会は毎度のように綺麗な夢を見せてくれる。
 しかし誰かの与えてくれた幻影は、結局のところ幻影に過ぎない。
 もちろん恵まれた環境はそれでも存在し、皆に愛され、十分以上のリソースもあり、安全も確保され、将来を思うように描ける自由まで与えられている人間も存在した。身近にも居た。
 
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 たまたま僕はそういう環境になかった。
 べつに恨みごとを言っているのではない。
 
 事実として僕の育った環境は、リソースが不足し、安全は確保されず、愛されていると実感できるほどの他者すら存在せず、自分が30歳まで生きているか危ぶんでいた。
 たまたま僕は(肉体的に)男だったので過度の危険に飲み込まれることがなかったし、愛されない状況に適応した。
 そのうえ運良くリソースを自律させることに成功したし、30歳もとうに過ぎた。
 
 ただ将来の夢などというものは10代の頃に捨てた。高校進学前に捨てたのだ。
 悲観しているわけではない。
 多段式ロケットが使い終えた推進器を投棄するように、前に進む最適解が軽量化だったのだ。
 将来への希望など、重くて邪魔だった。
 それでも周囲をざっと観察する限り、僕は幸運に過ぎると今も思う。
 
 にもかかわらず、だ。
 社会に自分のための希望はないし、世間に自分の居場所などないと思っている。そう感じるのだ。
 ちょうど今の時代は醜くてお金も地位もない中年男性に世間が厳しい。まるで砂漠みたいじゃないか。
 
 たまたま運良く家族を作ることができたり、あるいは恋人が27人もいたり、どういうわけだかオカネモチーになれたり、高等教育を受けて大企業に勤めたり、会社を経営したり独立して上手に切り盛りできている人はいい。
 そうでない人はどうなるのだ。
 お金も地位も家族もなく、ルックスにも恵まれず、ろくな学歴も職歴もなく中年になり、社会から「オッサン」「オバサン」と呼ばれる者たちはどうなる。
 
 社会の情勢や世間の風説や企業の思惑や政治家の作った仕組みに翻弄されて、どれだけの人間が溺れたのだ。窒息死したのだ。
 この上、いまさら社会を信じろと言われて「そうですかありがとうございます」と言えるほど、私は大人しい犬などではない。
 それに残念ながら、もはや人間に対してさえ、かつてのように無条件の信頼を寄せることができなくなっている。
 
 およそ10年ほど前までは、少なくとも目の前の人間くらいは、無条件に信じていた/信じようとしていたのにもかかわらず。
 
>>>
 
 これが大人になることなのだとすれば、さすがに大人になりたいなどと思った(今も思っている)自身の気持ちを自ら否定しなくてはならないだろう。
 僕にとって大人というのは、自由の象徴だ。
 
 難題に対する解決の切り札そのものであり、苦難の闇に対する希望の光そのものだ。
 寒い冬の毛布であり、乾いた砂漠のオアシスであり、雨上がりの虹であり、深夜の駅前のベンチであなたの脚に擦り寄ってスカートの中に入り込もうとするエロい猫である。
 
 ……。
 最後の不適切な喩えは忘れてもらうことにして、大人であるということはそういうことだ。
 
>>>
 
 世俗は我々を氷河期世代と呼ぶが、私は何が氷河期だったのかを知らない。
 寒かったかというならずっとそうだし、乾燥していたかと問われればずっとそうだ。
 もはや飢渇が何かさえ分からないほど、枯渇した極限環境で生きてきたのではないのか。
 
 今となってはあたたかいベッドより静かな棺桶を望むとして、何の不思議があるだろう。
 なのに政府は「まだ働ける。もっと働け」とでも言いたいのだろうか。まっぴらごめんのすけである。
 我々の多くは信じるものを持たない。
 あるいは少なくとも私は、信じるものを多く持たない。
 
 しかし冷静に考えよう。
 不貞腐れるのは簡単なことだ。
 特に持たざる者ならなおのこと。
 
 持てる者が不貞腐れるのは流石にみっともない。
 幸運なるわたくしは、ために自由の象徴である。
 望むと望まざるとにかかわらず、難題に対する解決の切り札としてささやかに、日常のきわめて狭い範囲で、身近な誰かのために、持てる力を使うしかない。
 それが責務と諦めるしかない。
 意味と価値を決めるのは誰かに委ねることにしよう。
 
 退屈だなぁ。
 飽きたなぁ。
 全部終わるといいのにな。
 と嘆きながら日々を過ごすのだ。
 
 13番目の恋人との逢瀬を夢見ながら ── 。
 
<思わず手が出ちゃう>
 
>>>
 
 ちなみに献血をしているのは、誠に勝手ながら僕が輸血のシステムに恩義を感じているからである。
 日本赤十字社や全国宝くじ協会に対して思うところ(会長になりたいとか)はあるが、それとこれとは別である。
 過去に僕の父上や一部の周囲の人たちが輸血で世話になった経緯がある。
 
 僕自身は幸か不幸か、そのような大手術を経験することなく今生を終えるだろうけれど。
 己が血で満たされた、あのぬるいパウチを撫でさせてもらうことがある。
 この身体は子供を産むことができないのだが、あれはなんというか、我が子のように愛らしいのだ。
 
 無論そんな感情を抱く方がどうかしていることは理解している。
 しかし私の家族は今後も減り続ける。それは私自身が望んだことでもある。
 自分の血で満たされたパウチくらい、愛らしく思っても良いではないか。
 
 
 
 
 
 
 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
 
 
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[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Convergence-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Form-Interface-Life-Link-Maintenance-Memory-Moon-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Generator-Reactor-Resistor-
 
[Object]
  -Human-Memory-
 
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[Cat-Ego-Lies]
 :君は首輪で繋がれて:
:夢見の猫の額の奥に:
 
 
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