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// TimeLine:20200308
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TITLE:
死は無慈悲な僕の恋人。
SUBTITLE:
~ The death is a harsh my lover. ~
Written by 銀猫

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 死が好きなのである。
 10歳の夏から、いやなんとなればそれ以前、初めて死に触れたそのときから、驚き、興味を持ち、ときに畏れ、ときに悲嘆し、ときに憎んだそれは。
 
 まるで恋のようだった。
 それは性別を持たず、それは実体を持たず、問うても返事はなく、概念的であり、にもかかわらず絶対的に現象するそれに。
 
 最初は陶酔した。
 それはしたたかだった。
 たとえようもなかった。
 比類なく、比肩するものもなかった。
 
 それは美しかった。
 絶対であることの美。
 他のいかなるものにも、真似さえできない無二。
 完璧であることの具現。
 究極であることの神々しさ。
 
 そして己という生命を体感し、少しずつの僥倖に歓び酔いはじめたとき、不意に恐怖した。
 絶望した。
 私は死をもたらす者でも、死を使役する者でもなく、死のよき理解者でもなかった。
 私は死をもたらされる側であり、支配される者であり、死は私を理解などするはずもなく。
 それは恋と呼ぶにはあまりに一方的で、あまりに幼稚だった。
(もちろん、恋のすべては一方的で幼稚なのかもしれないが、そうならば、とても原型的な恋だったといえる)
 
>>>
 
 10歳の夏の出来事だ。(忘れているとき以外は)忘れもしない。
 ある日突然、僕は死にフラれたのだ。
「え? 私たち、恋人じゃないよ?」
「そもそも、付き合ってもいないよね?」
 
 まったくもってそのとおり、僕の想いは一途だったかもしれないけれど独善的で、情の熱量は高かったかもしれないけれどそのぶん思いやりなんてなかった。
 恋というより憧れだったのだそれは。
 
 それから数年、僕は打ちひしがれていた。
 10歳にして打ちひしがれてしまった。
 打ちひしがれてしまっていたのだ。(強調三段跳び)
 自らの死の運命と、死に対する失恋に。
 
 しかし10代の絶望なんて、そうそう長くは続かない(2年くらいは続いたから、それまでの人生の20%に相当するが)。
 そもそも何を諦める必要があろうか、いや、ない。(反語)
 そうして僕は、彼女との恋を実らせるべく、血のにじむような努力をしたのである。
 たとえば(中略)そのようなわけで、僕は彼女との恋を成就させたのである。
 
 以来、僕は真面目に死に恋をしている。
 ちょう真面目なお付き合いである。
 みだりに人前で手を繋いだり(意味深)しないし、一度も身体を重ねたこと(危険)もない、清く正しいお付き合いである。
 
 将来のこと(切実)も考えて真剣にお付き合いしています!
 おとうさん(誰?)彼女をボクにください!
 第一印象(いつ?)から決めてました!
 絶対、幸せにします!(?)
 
 かくして(事実隠していたが)僕たちは将来を約束(意味深)し合った恋人同士であり、彼女(?)は僕の13番目の恋人なのである。
 
>>>
 
 まぁ、こんなことを書いたって、多くの人は(めでたい人がいるなぁ)くらいにしか思わないだろう。猫だけれど。
 そもそも想像もつかないだろう、非生命や自然現象に恋する気持ちなど。
 
 僕はこう見えて(どう見えて?)恋多きオトコだったのである(かつては)。
 
 月にも夜にも雪にも恋するのである。
 海と川なら川の方が好き! とか、
 イワシと花崗岩ならイワシの方が好き! とか、
 ホワイトチョコよりイチゴチョコが好き! とか。
 まぁ、最後はちょこっとニュアンスが違うけれど、くだらない駄洒落を挟むようになったあたり、猫氏も老化現象がはなはだしいな! と笑うがいいさ。
 
>>>
 
 そのようなわけで、僕は死が好きである。
 そして、周囲の人の一部もそれを知っている。
 ただ、今まで自殺をしたことはない。
 未遂もないから、しようとしたことがないのかもしれない。
 死にかねない怪我や病気は、あったかもしれないけれど、生憎生きている。
 
 それでも死と生を並列して取り扱ってしまうので、人によっては僕に対して不謹慎だと感じたり、あるいは僕が突然自殺するのではないかと心配しているようだ。
 
 まあ、気持ちは分かる。
 僕は他の人に比べると、生命を軽んじているように観察されることもあるだろうとは予測している。
 たとえば飼っていたペットが死んで、庭にも裏庭にも穴を掘る場所がないと、燃えるゴミに出してしまう。
 でもそれは「食べよう!」と思ってかたまり肉を買ったにもかかわらず、仕事やデートが忙しくて、腐敗させてしまってゴミに出すのと、僕の中では大差がない。
(否、デートで忙しくて食材をダメにしたことだけはないと断言できる。なぜなら僕は食事を作って食べてもらうのが好きだからだ。しかし話が逸れてしまったから元に戻そう)
 ペットを愛していないのではない。
 ただ、ペットの死体まで愛することはできないのだ。
 その亡骸は、たとえるなら大好きだったおもちゃの入っていた箱のようなものだ。
 だから箱まで愛している、という人の気持ちも、僕は十分わかる。
 たとえば大好きな本を「普段用/保存用/布教用」と買ったり、あるいは大事にコレクションしているおもちゃは、開封しないで保存したりするようなものだろう。
 
 もっとも僕は、本に線を引いたり、折ったり、メモ書きしたり、ページを破いてまでコンテンツを吸収しようとするタイプなので、帯も(ひどい場合は表紙も)すぐに捨ててしまう。もちろんブックカバーなんてかけないし、しおりも持たない。
 おそらく僕がペットと接するときも、同じようなのかもしれない。
 飼っている間は家族なのだから、世話を(できる限り)きちんとするのは当たり前だろうし、躾もする。
 けれども、死んでしまえばそれはただの屍なのだ。
 
 ペットを愛していればこそ、その亡骸にはなんの意味もないと僕は感じてしまう。
「そこに私はいません、眠ってなんかいません」なのである。
 思い出も、思い入れも、肉体というカタチがあればこそのものなのかもしれない。
 でもその、思い出とか愛情とかは、カタチに依存していたわけではなくて、関係性に由来していたのではないだろうか。
 
 家に帰ると座って(あるいはどこかで寝そべって)待っている。あるいはこちらに駆けてくる。
 食事の支度をしていると(ごはんくれ〜)と鳴いて頭をこすりつけてくる。
 人がゲームに熱中していると足元で人の顔色を窺っていて、ひと息入れるタイミングで(膝に乗せろ〜、ナデナデしろ〜)と訴える。
 トイレの砂を綺麗にしていないと(なんとかしろ〜)と訴えにくる。
 ベッドの中でねんごろなガールと身体を重ねようとしていたりすると(寒いからオイラも仲間に入れろ〜)と間に割って入ってくる。
 
 これは僕と僕の飼っていた猫との記憶の一部だけれど、僕には彼の亡骸との思い出はない。
 亡骸をも大切にする人と比較して、僕には何かが欠如しているのだろうとは思う。
 ただ、その「欠けているもの」はどれくらい大切な、重要な、あるいは必須のものだろうか。
 
 もちろん僕だって埋葬できるときはする。
 剥製にできるなら、するかもしれないし、しないかもしれない。
 捌いて食べることが可能なら、食べるかもしれない(僕にとって、それはひとつの、自然な供養のカタチだ)。
 ただ遺影を飾るとか、墓を用意するとか、人に可愛さアピールして回るとか、そういうことで愛情を表現することに価値を見出さないのだ。
 
 そういうところで僕はときどき誤解を受けるし、その自覚もある。
 彼ら彼女たちのいう「ペットを大事にすること」の概念には、死体とその取り扱いが含まれていることも分かる。アタマで分かるだけではなくキモチも理解できる。
 
 ただそれでも、死体はもう鳴かない。
 玄関にお迎えになんか来てくれない。
 オヤブン、エサくれよぉ〜! オヤブンいっしょに遊ぼうぜ〜! なんてわがままも言わないし、部屋の隅で僕がうなだれている時に(どしたの? ねぇねぇ、どしたの? オヤブンおなか痛いの?)なんて具合に様子を見に来てくれたりしない。
 寒い夜に(オレだ入れろ〜! オレを布団の中に入れろ〜! オヤブン、オレだよオレオレ!)と騒いだり、夜中に不意に野生の呼び声に目覚めて狩りごっこを始めたりもしない。
 椅子の足元にちょこんと座って(ご主人、遊ぼうよぅ)とこちらの顔を窺ったりはしないのだ、死体は。
 
 ペットがいなくなれば、それは悲しいし寂しい。でもそれは僕の勝手な感覚で感情だ。
 そして当のペットはといえば、もはや何も感覚しない。
 だからそこから先は、飼い主のエゴでしかないと僕には思えてしまう。
 動物霊園に弔って、当のペットが(ご主人、嬉しいぜ)とかなんとか言うならともかく、言わない。少なくとも僕は聞いたことがない。
 それなら新しいペットと一緒に暮らして、餌をあげたり叱ったり噛まれたりする関係をまた作ればいいじゃないか。
 
 ペットの死体を燃えるゴミに出すのは、生命を軽んじている訳ではない。
 むしろ死を軽んじているといっていいだろう。
 確かに僕は、死んだ人に対しても平気で悪口を言う。
「死のうがなんだろうがクズはクズだ」と言い放つ。
 生きている人の判断や考え方は常に尊重するが、たとえば死ぬことによって何かを他人に強要するようなことがあれば「クズだなぁ」と思うし、それは生きている人間が行っても同様だろう。
 むしろ生きている人間が相手であれば手も打てるし改善もできる。それができないぶん、死人はタチが悪いともいえる。
 
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 ゲームなどでも、死んだ(プレイを継続できない)キャラクタを執拗に攻撃し続けることを「死体蹴り」といって、基本的にはあまり良いこととはされていない。
 死人に口なし、ともいう。
 相手は反撃できないのに、一方的に攻撃できる状況が道義的によろしくない、というは確かにわかる。
 
 一方で、死んだというただそれだけで、生きている間はその人をないがしろにしていた人たちが「家族思いのいい人」を演じる場面もたびたび見てきた。
 介護サービスを受けていて、サービス中の不慮の事故で亡くなった方の遺族が、事業者を訴える、なんて今でもあることだろう。
 
 これらは人が死という境界にバイアスを掛けている可能性を十分に証明している。
 生きている人間と死んでいる人間を比べると、死んだ人間のほうがちょっと「いい奴で尊重されるべき」存在になっているのだ。
 それを逆手にとって自殺をすることで周囲との人間関係をコントロールしようとする人もいる。
 
 なんらかの痛みや苦しみから逃れるために自死を選択する人がいることは、たしかに悲しい、というより嫌なことだ。
 それでも自分の感覚や記憶を一切遮断できるという意味で、有効な手段であるとは思う。
 しかし自死を選択する人の多くは、自分以外の人のこと、特に自分の葬儀や埋葬をする人のことを考えているのだろうか。辛いのは分かるが、独善にすぎないだろうか。
 少なくとも僕は、希死念慮があるにもかかわらず、他の人のことを考えてしまってみだりに自死ができない。
 
 身勝手な自殺よりもやっかいなのが、必ず未遂に終わる自殺を演じるタイプの人だろう。
 オトナの仮病の重症版みたいなものだ。
 盛大に目立つ自殺未遂をして(方法について書くつもりはない)、怪我や体調不良を起こした人間に「なんでちゃんと死なないの?」と言う人はたぶんいない(僕なら言うかもしれないが)。
 その人は自殺未遂をしたことで周囲から大切にちやほやされて、場合によっては悩みなどの問題が改善されることもあるだろう。
 しかし問題解決の方法としては子どもの嘘泣きや仮病とおなじくらい、幼稚でみっともない行為だ。
 大人がするべきではない。
 自分の健康と引き換えに周囲をコントロールしようという浅ましさはある種のファシズムでもあるから、社会から排除されてもいいようにさえ思える。
 
 死を普段から意識しないゆえ、すぐそばにあると考えないから「その人が死んでしまう」ということを特殊だと思ってしまうのだろう。
 その特殊さがバイアスを生むのだろう。
 
 結果として、明日も明後日も永遠に生きているという前提で他人と接する。
 生きている人間をないがしろにする人を僕はたくさん知っている。
 そういう人たちが、死んだ人に対しても同じようにしていれば、僕は特に何も思わない。
 ただ、死んだ途端に「いい人だった」とか「仲良くしていたのに」とかいうのはどういうことなのだろう。
 
 生産終了するお菓子や、閉店するお店に対しても同じである。
 普段からその商品を買い、その店に通っていれば、その商品は、お店はなくならないのだ。
 終わると聞いた途端に「いい店なのに」「大好きなのに」と言い出す神経が偽善に感じられるる。
「ある時期から飽きていた」とか「昔は良かったけどそれほどでもないから役目は果たしたんじゃないか」という意見がもっとあってもいいと思う。正直に言ってもらいたいと思う。
 おそらく社会が醸成している「常識的な善人」の像を気づかず演じているのだろう。
 
「常識的な善人」は、普段は購入しなくなったものがなくなるときだけ過剰に惜しんで、親の介護を公共事業にまかせて、死んだらその事業者のせいにする。
 生きている人間はそれほど大事ではないが、死んだら大事だった人にすり替わる。
 その偽善が鼻持ちならない。
 仮にそういう偽善の人が周囲で死んだ場合「こいつは生きている時から本当にロクデナシだった」と僕なら言うだろう。もちろん生きているときにも言うだろう。
 死んだくらいで善人に昇華されてたまるものか。
 
 死体蹴りをしたところで痛い思いをするのは自分だけだが、生きている人間を蹴れば、まず相手が怪我をする。
 当たり前の事だ。
 
 だから死人を悪く言っても、生きている人には「何か事情や考えがあるのだ」と考えるようにする。
 たしかに僕の持っているバイアスは、他の善人どもとは逆方向に向かっているのだろう。
 どちらが正しいとは思わない。それぞれが好きにすればいいことだ。
 
>>>
 
 とにかく僕には死と生の境界が曖昧というか、そこに連続性の分断を感じないというか、その分断に高低差を感じないというか、そもそも生きていることを連続性のあるものと認識していない。
 
 生きていることは、連続していると錯覚できる程度には長いのかもしれないが、死ぬことは分かっている。その連続性が必ず失われることは明白である。
 自分でも他人でもそれは変わらないから、毎朝、僕はおはようのキスを恋人とするように「今日も生きているのか」と自分の意識を思う。
 
>>>
 
 生と死に境界はなく、虹のようにグラデーションして連続しているという概念がなかなか浸透しないのは、人間の意識や思考が、中途半端にデジタルになっているからなのかなぁ、と思ったりもする。
 
 以前、ある華道の先生に教えて頂いたのだ。
「花器に活け、萎(しお)れ散ってもその様の侘び寂びさえをも愛でてこそぞ」と。
 
 実際に、新芽を活けることも枯れ枝を活けることもあるわけで、そこには単なる花ではなく、誕生から死に至る生命のサイクルが表現されているのでもある。
 
 先生の言っていた「愛でる」は「かわいいかわいい」「綺麗きれい」と褒めそやすことではないのだろう。
 ただ見て、ただ感じる。
 綺麗と感じるかもしれないし、哀れを感じるかもしれない、醜いと思う人もあるかもしれない。
 
 少なくとも、ただただ綺麗に咲いている、咲こうとしている瞬間だけを見せる切り花よりも、感じることに奥行きが生まれる。
 萎れた茎も、散って変色した花びらも、その花の姿には変わらない。
 
 散ることを美しいとするのは、日本に固有の文化かもしれないが、現代社会に発展した綺麗なもの、いいことばかりをもてはやす風潮には、少々食傷気味で白けてしまう。
 
 無常であることの味わいは、だから、そこに断絶や無価値を見出さない。
 無から誕生したように、無に還ってゆく一連の流れは、断絶なく連続しているものだと感じられる。
 生きていることばかりにフォーカスするから、生は変化という不連続な断絶をもたらす。
 無にはじまり死に終わる課程を生と考えれば、生は連続性を持った変化であり、美しく成長するときと同じように、衰え散る姿もまたその成長の姿なのだ。
 
 散った花びらは、猫の死体と同じように僕は捨ててしまうだろう。
 それでも散る様や死そのものは、特別なものではなく単純に、いつもそこにあるものなのだ。
 死も生も特別ではないからこそ、そこにあるものをできるだけ先入観なく、ありのまま感じられればと思うようになった。
 
>>>
 
 死は、少なくとも僕にとってはいつもそばにいるものだ。
 
 そして無常のなかのうつろいすべてにある美しさであるとか、今というものの儚さを「愛でる」視点を知ったとき、僕は初めて死に愛されているのだと知った。
 思い知った。
 
 そうなのだ。
 最初から。僕が彼女を好きになるよりはるかに以前から、僕は死に愛されていて、静かに見守られているのである。
 
 最後、彼女にカラダを重ねてしまえば僕は死んでしまうだろう。
 それさえもいとおしく、僕は僕と僕の周囲の生と死を見つめる。
 
 死がそこにあるとき。それは彼女の優しい吐息のような気がして。
 
 
 
 
 
 
 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
[ Traffics ]
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[Engineer]
  -赤猫-/-黒猫-/-BlueCat-/-銀猫-
 
[InterMethod]
  -Blood-Darkness-Ecology-Eternal-Kidding-Life-Love-Memory-Rhythm-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-Transistor-
 
[Object]
  -Cat-Night-Poison-
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[Cat-Ego-Lies]
  -暗闇エトランジェ-:-いのちあるものたち-
 
 
 
 
 
//EOF