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// NOTE:半年以上、書き直しては放置している話題。
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TITLE:
自殺を考えることについて考えることについて。
SUBTITLE:
Think around self death.
Written by BlueCat

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 ここ数ヶ月、自殺について考えている。
 心配する人もいるので先に断っておくが、喫緊に僕が自殺する必要があるとか、自殺する意志があるとか、そういうことではない。ただ単に、自殺について考えているのだ。
「Think around self death.」であって「Think I'll self death.」ではない。
 もちろん「around」の内には自分自身も含まれているし、自分自身がそういう意志を持つこと、行動することも含まれているのだが、それがすべてではない。
 
 不謹慎だろうか。
 そうかもしれないが、僕はそうは思わない。
 自殺は真面目な行為だと思うし、不真面目に自殺をしたり、自殺について考えることはないだろうと思う。
 不真面目に生きることは比較的容易だが、不真面目に自殺することはむつかしい。
 
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 もとより僕は、幼児期からずっと死について考えている。
 それを分析しようとか、理解しようとか、そういうことではない。
 強いて言うなら、自分が自身の死について、あるいはあらゆる人間が、自身や他の人間や人間以外の死についてどのように受け止め、意識上の処理をどのようにするとどのような影響があるか、について考えている。「around death」というのはそういうことである。
 
 しかし死について考え慣れていない人は存外多く、あるいは(負荷を軽減するためか)短絡に処理してしまう人も多い。
 それが悪いとは思わないのだが、そういう人たちからすると僕が死について真剣に考えることは「不謹慎」であったり「不道徳」であったりするようだ。
 僕にとって死について考えることは、取りも直さず生きることそのものである。
 
 たとえば幼児期に、何度も「父親が死ぬ」と聞かされた。
「医師から余命半年と言われた」と家族が話しているのを初めて耳にしたのが3歳である。
 実際のところ父はそのあと24年も生きた。
 
 医療の進歩に歩調を合わせて実験的な医療も受けた。
 古めかしいが、たとえば開胸して心臓を停止し、大腿部からの血管を大動脈にバイパス移植するような手術も受けた。
 多分、今はこんな手術はしないだろうが、当時はそれでも最先端の医療だった。
 抜本的な治療にはならないが、延命は可能かもしれない。しかし受けることで術死することもあり得た。
 
 死と生を秤にかけて、より生きるための選択を父はしていたのだと思う。
 理由は分からないが、当時の僕と妹はまだ未成年だった。
 美化するつもりはないが、それについて考えなかったわけではないだろう。
 
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 そのようなわけで、誰かの死によって自身が受ける影響を、未就学児の頃からよく考えていた。
 心理的、精神的影響ではない。
 誰かが死んで悲しいとか、そういうことではなく、自分はどのように生活すればいいのか、どのような人生を送ることになるのか、それを考える必要があった。
 
 よって僕にとっての死は、美化するものでもなければ心理的に感情を揺さぶるものでもなく、日常生活と共にあり、日常生活を大きく左右する現象だった。
 それについてとくと考えない訳にはいかなかった。
 
 死ななければ昨日と同じ日々が続くのだが、それを信じ、それを祈り、願ったとしても、死ぬときはあっさりと人は死ぬからだ。
 だから目の前の誰かが死んだときのことを考えることは僕には至極自然なことで、たとえそれが誰であろうと、その人の不在によって、その後の自分の生活や人生が大きく変動しないような価値観を持つに至った。
 
 ために僕は自身を含めた存在の死について、あまり感傷的にならないし、感情的にもならない。
 周囲に人をあまり寄せ付けない点について少々行き過ぎている部分もあると自覚しているが、それでも寄り付く人はいるのだから放っておくしかない。
 ただ自分からは、あまり関わりを持たないように心掛けるようになって久しい。
 
 残念ながら、僕の死後に僕の不在によって発生する心理的/物質的負担の責任を(仮に負いたくても)僕は負うことができない。
 死というのは案外無責任に「担当者不在」という状況を作るので、人間社会のような個々人の権利や責任が絡み付いている環境下では、少々厄介である。
 しかし死は自然なことだから、個々人の権利や責任や感情を過剰に意識しすぎる社会の方が、少し狂っているのだろうと僕などは考えている。
 つまり不自然なのは人間社会(に属する者の意識)の方であって、それらが自然を逸脱しているのだろうと思うのだ。
 
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 それでも人間社会は、死者やそれにまつわる人の権利や責任(義務)を規定する。
 社会だから仕方ないのだが、結果として感情だけでなく、財産や事後処理といった面倒ごとが発生する。
 死んだ当人にでないことは先に書いたし、きっと誰でも分かるだろう。
 
 その意味で言えば滑稽であったり、不謹慎に思えるのは社会の方である、ということ。
 だからといって「そういうのは改めなさい」と言う気もない。滑稽だったり不謹慎になる(なっている)のは、真面目すぎるからである。
 では不真面目に、テキトーでいいかげんにしてしまえばいいかといえばそんなことはない。
 
 権利や義務や責任が社会で発生する(望んでいなくても押し付けられるものが多い)以上、いいかげんにしてしまえばそれこそ公序良俗に反する現象も発生する。
 それを避けようと真面目に作った結果、滑稽で不謹慎になっているのだ。
 人々は私と違って禽獣ではない。ルールが必要で、それに従うのが社会に属する者の必定だろう。
 
 ただ、死はそのルールに従わないし、演繹すると生もまたルールで縛ることができない。
 ルールが縛るのは、権利と責任と義務についてである。
 たとえば納税放棄したり脱税する権利は皆あるのだが、それをすると別のルールによって処罰が課せられる。
 
 そういえば日本では、ルールを作る人たちがずいぶん手前勝手にルールを作り、運用していると漏れ聞くが、果たして本当なのだろうか。
 
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 とにかくそのようなわけで数ヶ月、何となれば数十年、死について、あるいは自殺について考えている。
 そして同時に、死についてきちんと考えない人が多いことについても考えている。
 皆、(自他問わず)死について口にしないばかりか、考えてさえいない事が多いように観察される。
 
 おそらく多くの人々は、死について考えることを禁止されているのだろうと想像する。
 自分によってか、他の誰かに強制されているかは知らない。僕の場合は、誰にも禁止されなかった。
 あるいは自身が勝手に遠慮していた時期はあるからそういう意味なら分かる。
 しかし13歳から、そういった忖度や気遣いもやめた。
 
「いい人ぶる」ことが悪いとは思わない。しかしステレオタイプな「いい人」というのは往々にして退屈なものである。
 人の死について、目の前の人の死についてなんて考えません、なんて言う人を僕なら信用しない。
 それは偽善者か、ただのバカのいずれかである。
 
 もちろん前述のとおり僕にも偽善者であった時期はあり、死や自殺については考えることさえ「良くない」と思っていた。
 しかし何が「良くない」のだろう。
 べつに(自身を含む)誰かの死を願ったり、あるいは仮に願ったとしても、その誰かを殺めるための行動をするわけではないのだ。
 
 行動しない限り、考えたり、願ったり、呪ったりするくらいでは、誰も死なない。自分自身でさえ死なない。
 殺人に限らず、あらゆる公序良俗に反する犯罪行為は、考えたり、願ったりするだけでは実現しない。計画し、判断し、実行する必要がある。
 ためにアタマの中で考えているだけであれば、現実は何も変わらないし、考える分には良いも悪いもないのである。
 むしろ考えが足りず至らなかったために、自分や周囲の人間が不利益を被ったり、生活やその後の人生が(悪い方向に)大きく変わってしまう方が問題だろう。
 
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 これは死に限らず、すべての危機管理の上で必要なフレームワークである。
 たとえば原子力発電所を新設し、稼働させる場合、どこに建て、どのように運用すると、災害時にもっとも損害が少ないか、ということを考えることが必要になる。
 つまりどうすれば損害(死者や汚染や物損)が最小限になるか、ということを考えることになるのだが、これをいちいち「不謹慎」などと茶々を言われていたら進む事業も停滞する。
 
 想定以上の事象を考える必要があるのだが、だからといって過剰に堅牢なものを作るにはかなりの予算が必要になる。
 
 地震によって原子力発電所の損害を目にした我々だから、現状知りうる限りの災害やテロを見積もって安全率を掛けて欲しい、と願うだろうが、それでも想定以上という事態は発生しうる。
 堅牢にすればするほど、想定以上の事態が発生する確率は減ることになるが、結局は予算を含めた状況との兼ね合いで決まるだろう。
 
 原子力発電所の建設当初(つまり地震による損害が発生するより以前)そんな大掛かりな予算編成がされた場合、多くの人は「そんな過剰な予算は無駄だ」と騒いだのではないだろうか。
 考えない人には分からないし、考えた人は考えない人に説明がむつかしいこともある。
 なぜそれを考えるか、その理由の分からない人には、どのようにそれを考えるかはもちろん、その処理の良否の判断はつかない。
 
 人間は手近で掴みやすい材料から勝手に判断するようにできており、感情的に物事を断ずる傾向が強いから、予算が多ければ文句を言い、安全性が低ければ文句を言う。
 根拠はデータで示されているのに、数字や統計を見ることを面倒くさがって「具体的に、つまり結論は何なの?」と問い詰め、にもかかわらず結論が理解できずに不機嫌になる人も少なからず居る。
 機嫌の問題ではない(危機管理の問題な)のだが、そういう人は自身の機嫌を伺うことが何より大事だと思っているフシがあるから話にならない。
 
 あるいは自身の機嫌こそが危険の元凶だと理解しているのかもしれない。
 それはそれでひとつの真理だろうけれど、できれば自身のアタマの中で事前に予備演算しておいてほしい問題である。
 
<ホカロン靴下はあたたかいらしい>
 
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 死も同様の問題である。
 しかも避けられない危機であり、それを管理するのは生きる上で必要なことだ。
 皆、生を語るが死を語らない。それは同じものではないのか。
 
 美しい生を語り、楽しく情熱的で素晴らしい生を語るが、美しい死を、冷静で安寧で充実した死を語る人は少ない。
 それらは同じものではないのか。
 死をコントロール(制御)することは、つまり生をより安定したものに近づける。
 
 自身の生についてももちろんだが、自身の死によって発生しうる他者の生への悪影響を制御することこそ、生きているうちにしなければならないことではないだろうか。
 感傷を含めた感情によるものではなく、人間社会に特有のルールやメカニズムから演繹して、リスクを最小限に収める演算が生きる上での危機管理ではないのだろうか。
 つい最近「自殺も生きる手段として考えている」と書いたような気がする(気のせいかもしれない)が、それはそういう意味である。
 
 そのように理性的に考える部分もあるし、僕はもともと自身を殺したいという価値観を持ってもいる。
 少々公序良俗に反するかもしれないが、それは子供の頃に思い描いた「将来の夢」のようなものだ。
 他人に説明できるような明確な(明文化された)理由はないから説明しないのだが、それでも大切にしている。
 たまたま「今はまだ早いかな」という状態が継続しているに過ぎないのだが、そういうことを言うと過剰に心配したり、不謹慎だと怒る人がいるのだ。
 
 とはいえオンライン上に残す文書であるため、いきなり自殺について考えていることを書くこともよろしくないかな、と思ったので、自殺について考えることについて考えることについて、今回は書くことにした。
 要は、自殺について考えることについて考えることについて考えているわけで、自殺について(に限らず)考えることについて考えることについて考えることについて考えるくらい客観的な視点を失わずにいたいと常々思っているのだけれど、どうもそのくらい客観的になると、話が理解できないとか、抽象的すぎて意味が分からない、なんて言われることになる。
 
 いったい人々は何を考えているのだろう、と昔から不思議に思う。
 
 
 
 
 
 
 

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[Engineer]
  :工場長:青猫α:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Convergence-Darkness-Ecology-Engineering-Interface-Life-Link-Recollect-Stand_Alone-Style-
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Resistor-
 
[Object]
  -Human-Memory-
 
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[Cat-Ego-Lies]
  :いのちあるものたち:
:ひとになったゆめをみる:
 
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