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TITLE:
うつつの世界のSAN値チェック。
SUBTITLE:
〜 the Lunatic. 〜
Written by BlueCat
Written by BlueCat
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250513
夕刻から夜に掛けて、二度に渡って近所の老婦人の襲撃に遭う。久しいことである。
詳細を書くつもりはない。詮無いことである。
かの老婦人にせよ、介助している姉にせよ、観察している範囲において人間というのは孤独に弱い。
他者というのは、自意識を明確に持てば持つほどその輪郭を厳密に定義する上で必須のもののようだ。
観察する限り姉は年齢相応に偏屈な部分もあるが、そも生来のこだわりの強さが他者との摩擦を発生させやすく、そこで疲弊してしまうために比較的孤独を好む。
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ここでいう「こだわり」というのは、決して良い意味ではない。
僕は「こだわる」という言葉を良い意味では使わない。
たとえば「こだわりのラーメン屋」とか「蕎麦職人のこだわり」といった単語は「ああ、アタマが硬くてイカれた個人経営者が偉そうにしているのか」と思う程度である。
辞書を引くと分かるが、そもそも良い意味の言葉ではない。
「こだわる」というのを漢字で書くと「拘る」となる。
思考が余計なことにとらわれてしまい、その個人の思考がその人自身を拘束し、その不自由さが周囲にも悪影響を与える様のことだと認識している。
技術が優れている、とか、精細な作業を容易くこなす職人を表現するならば、そのまま言葉にすれば良い。
おそらく良い意味で使われ出したきっかけは、ある種の皮肉だったのではないかと想像する。
「あの店の主人はこだわっているから」というのを「頑固で偏屈」という意味で使ったが、受け取った側は「ひとつの道を突き詰めた」と思ったのではないだろうか。
意味が標準語から逆転することは古今にもいとまがない。
たとえば「ヤバい」という形容詞も、昭和の時代は「危険だ」「胡散臭い」といった感覚で用いられていたが、今は単なる感嘆詞として作用している。
意味合いとすれば「すごい」といったようなことか。
「超ヤバい」「激ヤバ」「めっちゃヤバい」「すごくヤバい」というのはいずれも「すごくすごい」という意味であり、その前後にある評価を強調する意味しか持たない。
「ヤバくてヤバい」ということだから「ヤバヤバ」という言い回しが生まれるかもしれない(たぶん生まれない)。
古くは「矢場(名詞)」から「矢場い(形容詞)」と転じたのではないかと思う。
(そもそも弓矢を日常に使わない現代日本において「矢場」は地名を残してほぼ死語である)
名詞から形容詞に転じていることから、そもそもスラング的な言い回しだったろうとも想像できる。
「こだわる」というのも同様、ある時点でそれまでの意味から反転して良い意味の、褒め言葉のように使われ始めたのではないか。
あるいは何らかの技術者が謙遜して「無用のこだわりを抱えておりまして」と表現したのかもしれない。
料理であろうと工学であろうと一切の技術者は、より広くより多くの人の幸福感に貢献するために技術を用いたいと思うものだ。
その中で生まれる哲学が、技術を研鑽する動力としても働くし、研鑽のうちに哲学が生まれ(あるいは変容)もする。
しかし初心にあるべきは「より広くより多くの人の幸福感を高める」という気持ちではないだろうか。
少なくとも僕は技術の根源をそのように認識している。
そのような心持ちを考えた場合、こだわりというのはあくまで自身の思うエゴに過ぎない。
「こうしたらもっと喜ばれるのではないか」という気持ちが徐々にねじれてしまい「こういうカタチが楽しいだろう」という思い込みや「この部分はすごいと賞賛されるはずだ」という虚栄心や承認欲求になってしまうことは往々にしてある ── 少なくとも僕はある。
要は策に溺れるということだ。
そのような自省の機会があれば、技術者(職人と言い換えてもいい)は必然に謙遜することになる。
自身が突き詰めようとする道について果てなどなく、己の内にある良い哲学や理想と同時に、それそのものがときに醜いエゴや驕(おご)りに傾く不安も抱える必要がある。
そしてそのいずれもが、己という存在の独善的なこだわりに過ぎない。
もしかしたらそうした意図が、外側から観察して美しく思えたのかもしれない。その結果「こだわる」という言葉が美化されたのではないかと。
いずれにしても現時点で僕の手にしている辞書による限り、こだわるというのは単に「独善による不自由」という意味に過ぎない。
自分で自分や周囲をがんじがらめにしているだけの、哀れに矛盾したありようを指している。
ために褒め言葉としては使わない。
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普遍的に偏屈者や頑固者というのは、この「こだわり」を強く他者に発露する者という意味が多いように思う。
自分自身の中であれこれとこだわるのは自由である(それでもこだわりなど持たない方がいいと思うが)。
しかしそれを他者にまで発露すれば「余計なお世話」となる。
これは支配傾向の強い性格の人にも強く現れる。
他者の考えや行いについて一事が万事、微に入り細に入り「すべからくかくあるべし」と強要するような姿勢のことだ。
(ちなみに「すべからく」の誤用も面白いので調べてみては?)
偏屈者のこだわりによって「余計なお世話」を押し付けられた人は、当然にその偏屈者を煙たがり、結果として偏屈者は狭いコミュニティで暮らす必然を迎える。
お互いの摩擦を減らすためにはその方が良いのだ。
いかに精巧な歯車も、その歯車同士に「遊び」が必要で、近すぎれば摩擦が強すぎて動かなくなってしまう。
しかし齢を重ねる中でこだわりを手放すこともまた容易なことではない。
生きる中で積み重ねる記憶は、己の哲学であり道具であり、宝でありそして枷である。
枷なら手放したいと誰もが思うが、それが道具であるためになかなか手放せない。
有用な道具だと感じていれば尚更だ。
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僕は子育てをしたことがないが、己のこだわりの発露をどれほど抑えようとしても、人を育てるのは(そもそも「育てる」という概念がまた高慢だと思うが)こだわりという性格の遺伝をもたらす。たとえば仕事で部下や後輩を教育するのも同様である(「教育」も傲慢な言葉だと感じる)。
伝播であれ反発であれ、何らかの強いこだわりは、次のこだわりを生んでしまう。
しかし大人と子供では体格が違う。男と女では身体が違う。
太っている人と痩せている人/背の高い人と低い人は身体感覚が異なるし、ネコと人は異なる生き物である。
同じようにあって欲しいと願い、あるいは同じようにありたいと望むのは結構なことだが、そもそも物理的に異なるものに同じ働きをさせるのは無理というものだ。
私が自身を猫だと思っていても、その肉体が人間のそれである以上、猫ほど速く走ることもできないし、猫のように跳ぶことも叶わない。
人類はその齢を重ねる中で「ジェンダーバイアス」というこだわりに気付いたが、その反発として過度の男女同化を計り、同じように大人と子供の同化も計ってきた。
(バブル期世代の大人たちは、第二次大戦で過酷な子供時代を強いられた親の反動により、甘やかされた子供時代を生きただろうと想像する)
何が正しいかは僕の決めることではないが、そうやってこだわりは反発を生みながら続いてゆく。
その振幅が強くなるか鎮静するかは、社会、つまり個々人の集積が決めることだ。
<クッションかな?>
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姉の場合、自身のこだわりによって他者を遠ざけて、しかし僕ほど孤独に適性がないらしく、結局誰かと適度に接する必要があると自覚するに至ったらしい。
僕の場合、自分のこだわりそのものはよく分からないのだが「いらぬことにこだわっているのではないか」と心配するこだわりがある。
自分の中でこだわりがある場合、それを他者に強要したくないのだが、もし生理的に他者のありようを受け付けなかったら、これはこれでお互いに困る。
同様に他者のこだわりを押し付けられるなんてまっぴら御免なので、それらを予測してマージンを設定し、様々なありようを調整した結果、仕事も私生活も孤独になってしまった。
「しまった」などと言っているが、これがたいそう気に入っている。
仕事らしい仕事もせずに一人で暮らし、他者との接触を(自発的にしないので)絶っている(ように観察される)状態が月に25日以上もあるとしかし「自分は現在正気なのだろうか」と不安になる。
他者が存在しないことで、自分の輪郭が曖昧になるのだ。
(今日も突然「日本語が使えなくなっていたらどうしよう」と心配になり、慌てて日記を書き始めた)
おそらく多くの人が孤独の中で抱える不安の正体はこの「己の輪郭の曖昧さ」だろう。
だからといって自分の輪郭を撫でてもらうためだけに他人を使うこともよいことと思えない(僕は恋人に限らず、友人であろうと姉妹であろうと、そういう「使い方」をしない)。
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件の老婦人について言えば、こだわりが強いために孤独を誘発し、にもかかわらず孤独がゆえに発生する己の輪郭の不確定さに不安を覚えるのだろう。
支配的な人間というのはこういう気質を繰り返す。
こだわって、周囲にそれを強いて、孤立して、不安になって誰かを使いたがるのだ。
しかし残念ながらそのループを断ち切るのは自分自身によってしかできない。
そして大抵の場合、そうした支配的な人間は、そのまま死ぬ。
支配的な人間の抱えるこだわりもまた「正しさ」という病気だからだ。
自分は間違っているのではないか、自分は傲慢になっていないかという疑念を、その不確定さを抱え続ける強さを、彼ら彼女たちは持たない。
自分が正しいと思えるエサを骸に求める哀れなハイエナのようだ。
おそらく齢を重ねるほど「自分は間違っているのではないか」ということを疑問に持たなくなる。
あるいは僕などは子供の頃の方が「自分は正しい」と思っていたし、ために非常に支配的な性格だったと思う。
そこから考えればずいぶんとこだわりを捨てられたと思う。
精神的潔癖症や支配的な性格は、なにより自分の首を絞める。
己の輪郭の不確定なさまを自覚することは、つまりようやく客観的な自己評価ができるようになっている可能性もある。
異常ともいえる孤独の中にあってようやく客観性が際立つというのもまた不思議なことだと、今は感じる。
姉の場合、自身のこだわりによって他者を遠ざけて、しかし僕ほど孤独に適性がないらしく、結局誰かと適度に接する必要があると自覚するに至ったらしい。
僕の場合、自分のこだわりそのものはよく分からないのだが「いらぬことにこだわっているのではないか」と心配するこだわりがある。
自分の中でこだわりがある場合、それを他者に強要したくないのだが、もし生理的に他者のありようを受け付けなかったら、これはこれでお互いに困る。
同様に他者のこだわりを押し付けられるなんてまっぴら御免なので、それらを予測してマージンを設定し、様々なありようを調整した結果、仕事も私生活も孤独になってしまった。
「しまった」などと言っているが、これがたいそう気に入っている。
仕事らしい仕事もせずに一人で暮らし、他者との接触を(自発的にしないので)絶っている(ように観察される)状態が月に25日以上もあるとしかし「自分は現在正気なのだろうか」と不安になる。
他者が存在しないことで、自分の輪郭が曖昧になるのだ。
(今日も突然「日本語が使えなくなっていたらどうしよう」と心配になり、慌てて日記を書き始めた)
おそらく多くの人が孤独の中で抱える不安の正体はこの「己の輪郭の曖昧さ」だろう。
だからといって自分の輪郭を撫でてもらうためだけに他人を使うこともよいことと思えない(僕は恋人に限らず、友人であろうと姉妹であろうと、そういう「使い方」をしない)。
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件の老婦人について言えば、こだわりが強いために孤独を誘発し、にもかかわらず孤独がゆえに発生する己の輪郭の不確定さに不安を覚えるのだろう。
支配的な人間というのはこういう気質を繰り返す。
こだわって、周囲にそれを強いて、孤立して、不安になって誰かを使いたがるのだ。
しかし残念ながらそのループを断ち切るのは自分自身によってしかできない。
そして大抵の場合、そうした支配的な人間は、そのまま死ぬ。
支配的な人間の抱えるこだわりもまた「正しさ」という病気だからだ。
自分は間違っているのではないか、自分は傲慢になっていないかという疑念を、その不確定さを抱え続ける強さを、彼ら彼女たちは持たない。
自分が正しいと思えるエサを骸に求める哀れなハイエナのようだ。
おそらく齢を重ねるほど「自分は間違っているのではないか」ということを疑問に持たなくなる。
あるいは僕などは子供の頃の方が「自分は正しい」と思っていたし、ために非常に支配的な性格だったと思う。
そこから考えればずいぶんとこだわりを捨てられたと思う。
精神的潔癖症や支配的な性格は、なにより自分の首を絞める。
己の輪郭の不確定なさまを自覚することは、つまりようやく客観的な自己評価ができるようになっている可能性もある。
異常ともいえる孤独の中にあってようやく客観性が際立つというのもまた不思議なことだと、今は感じる。
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[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Cross Link ]
こだわりと向き合い。 - 青猫工場 〜 Bluecat Engineering :Bonus Track 〜
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[Engineer]
:青猫α:青猫β:黒猫:銀猫:
[InterMethod]
-Algorithm-Blood-Diary-Ecology-Engineering-Form-Interface-Link-Love-Mechanics-Moon-Stand_Alone-
[Module]
-Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-Transistor
[Object]
-Camouflage-Memory-Poison-Tool-
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[Cat-Ego-Lies]
:君は首輪で繋がれて:
:夢見の猫の額の奥に:
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