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TITLE:
設計に必要な哲学の設計。
SUBTITLE:
〜 I designed, therefore I am. 〜
Written by BlueCat
Written by BlueCat
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本来なら私の大好きな大晦日。
でもどうだろう。
毎日が夏休みで、毎日が冬休みで、人類の大半が滅んだあとのような静かな日々を過ごして久しいから、そうなると晦日も正月もクリスマスもお盆もバレンタインデーもない。
季節の移り変わりはあるが無理に自宅から出る必要もない。
特別深い関わりのある他人がいるわけでもないので、自分から誰かに会う必要も、会いたいと思うこともない。
言うなれば毎日が大晦日のように静かなのだ。
時々、道に迷った旅人のようにして友人や妹が(たいていはメールで予約をして)遊びにくる。
その程度である。
冷蔵庫の中の豆腐(どころかほとんどの食材)が終わってしまったので、最近お気に入りの豆腐を買いに、少し離れたスーパーに買い物に出かけたのだが、異様に混んでいた。
自動車で片道30分ほどは掛かるのだが、その店にしか置いていない。
そこで今日が大晦日であることを知った。思い出したと言ってもいい。
実際のところ昨日、時計の日付を見て驚いたのだ。もう12月30日ではないかと。
とはいえ一年という単位も、もはや僕にはどうでもいいものになっている。
対外的に、確定申告などの処理があるので少々タスクが増える程度のこと。
一般的な人間は、混んでいる店に、それでも何とか入ろうとするもののようだ。
僕の場合、混んでいる店からはすみやかに立ち去る。これは近所だろうと多少離れた場所であろうと変わりない。
今回は少々離れた場所にある店だったし自宅の冷蔵庫に豆腐がないのだから数日食事に困る可能性もある。
それでも嫌なものは嫌なのでそのまま帰宅した。
僕はそういう性格で、そういう行動を躊躇なくできるようになった。
サラリーマンの頃だったら我慢して駐車場の空きを待って買い物したかというとそんなことはなく、御用納めがあるあたりの会社帰りに、まとめて食材を買い込んでいた。
これはゴールデンウィークのような大型連休の時も同様で、連休前の会社帰り、空いている時間にマーケットにふらりと立ち寄って1週間分くらいの買い物をしてしまう。
だいたい14〜15時には会社を出るような牧歌的な勤務をしていたので道路も店も空いていて助かった。
今の暮らしは気に入っているが、いかんせん世俗に疎くなってしまった。
年末が近いことに気づいていても日付を確認したのは12月30日であり、GWやお盆も同様、真っ只中に気づいて出先から直帰するということを何度か経験している。
不満があるかというとそうでもない。
買い物ができない不便さはあるが、どうしても買い物がしたいなら駐車場が空くまで待つか、他の店を転々と当たればいい。
しかしそれをしない自由を僕は手に入れたのだし、その自由をたいそう気に入っている。
差し迫る予定もないし、飢えるのは僕だけだ。
駐車場が混んでいて気に入らないから帰るという選択をするたび奥様(仮想)は呆れたように笑うのだが、気に入らないものを断じて受け入れないという姿勢を、非難するのではなく尊重してくれるので助かる。
かつて望んだとおり時間富豪になって、他人との関わりも極限まで減らすことができたので、とんでもなく自由だ。
スーパーで買い物はできないのだが、その選択と実行によって本当に爽快な気分になれる。
こんなに気分の良いことはないのだが、誰かに共感できる類のものでもない気がするので、ひとり幸せを噛みしめている。
そもそもドライブに出掛けただけ、と言い換えてもいいが、ドライブは世俗のイベント期間ではない時期の、平日の深夜にしかしない。
それに自動車の運転が格別好きなわけではない(むしろ嫌いな)ので、今回のこれは単なる骨折り損である。その点は言い訳ができない。
一般的な人間は、混んでいる店に、それでも何とか入ろうとするもののようだ。
僕の場合、混んでいる店からはすみやかに立ち去る。これは近所だろうと多少離れた場所であろうと変わりない。
今回は少々離れた場所にある店だったし自宅の冷蔵庫に豆腐がないのだから数日食事に困る可能性もある。
それでも嫌なものは嫌なのでそのまま帰宅した。
僕はそういう性格で、そういう行動を躊躇なくできるようになった。
サラリーマンの頃だったら我慢して駐車場の空きを待って買い物したかというとそんなことはなく、御用納めがあるあたりの会社帰りに、まとめて食材を買い込んでいた。
これはゴールデンウィークのような大型連休の時も同様で、連休前の会社帰り、空いている時間にマーケットにふらりと立ち寄って1週間分くらいの買い物をしてしまう。
だいたい14〜15時には会社を出るような牧歌的な勤務をしていたので道路も店も空いていて助かった。
今の暮らしは気に入っているが、いかんせん世俗に疎くなってしまった。
年末が近いことに気づいていても日付を確認したのは12月30日であり、GWやお盆も同様、真っ只中に気づいて出先から直帰するということを何度か経験している。
不満があるかというとそうでもない。
買い物ができない不便さはあるが、どうしても買い物がしたいなら駐車場が空くまで待つか、他の店を転々と当たればいい。
しかしそれをしない自由を僕は手に入れたのだし、その自由をたいそう気に入っている。
差し迫る予定もないし、飢えるのは僕だけだ。
駐車場が混んでいて気に入らないから帰るという選択をするたび奥様(仮想)は呆れたように笑うのだが、気に入らないものを断じて受け入れないという姿勢を、非難するのではなく尊重してくれるので助かる。
かつて望んだとおり時間富豪になって、他人との関わりも極限まで減らすことができたので、とんでもなく自由だ。
スーパーで買い物はできないのだが、その選択と実行によって本当に爽快な気分になれる。
こんなに気分の良いことはないのだが、誰かに共感できる類のものでもない気がするので、ひとり幸せを噛みしめている。
そもそもドライブに出掛けただけ、と言い換えてもいいが、ドライブは世俗のイベント期間ではない時期の、平日の深夜にしかしない。
それに自動車の運転が格別好きなわけではない(むしろ嫌いな)ので、今回のこれは単なる骨折り損である。その点は言い訳ができない。
とはいえ年末の慌ただしい空気感を5分程度、胸焼けする程度には満喫できた。
贅沢を言うとこんな空気は満喫したくない。
>>>
たまには日記を書こう。
僕の思う日記というのは、今日あった出来事に新しい解釈を加えること、明日がどんな日であるといいかについて願い、祈り、全体をイメージし、イメージからデザインを起こし、タスクを細分化し、実行のプロセスを想定し、そのあたりで面倒くさくなって眠ることである。
眠って日記が完結する。だから多くの人とは「日記」に対する概念が異なる。
大抵の人は僕の説明を聞いて、曖昧な笑いやあからさまな疑問符を浮かべる。それはその人たちの自由である。僕は僕の自由によって僕の日記を定義する。
未来は明日に限らない。
10年後をイメージしてもいいし、10年前の過去に新しい解釈を加えてもいい。
過去の解釈を変えられれば必ず未来が変わる。これはいつか書いたことのように思う。
よりよい未来を思い描くことが無意味だとは思わないが、思い描いているだけでは何も形にならない。
イメージだけでは精密な形は作ることができないし、設計(デザイン)だけでステキを作れるほど器用な人は少ない。
設計にいちばん大切なのは技術や経験、スキルやセンスではなく、哲学だと僕は思っている。
これは機械設計だけでなく、すべてのデザインに対して、である。
人生設計(ライフデザイン)もそうだし、居住空間設計(インテリアデザイン)もそうだし、製品設計(プロダクトデザイン)などもそう。
人間関係(ヒューマンリレーション)もデザインして形作ることは可能で、多くの人は無意識にそれをしている割に、意図的/作為的にそれを形作ることに一定の忌避感を持っている。
たとえば友人や恋人、伴侶や家族について、自身の中で明文化して意識しているかどうかに関わらず「こういうものがいいな」と思っている。
これを僕が言語化すると「都合がいい他人を求めている」ということになる。
それを顕在的に意識していない場合、不快な現象が他人との摩擦によってもたらされたとき「この人のせいで不快/不幸になった」と人間は感じるようだ。
たとえば僕は水回りは比較的綺麗にするのだが、靴下をそのへんに脱ぎ捨てたりする。
衛生について意識している部分はあるのだが、整理整頓という点では大きく劣る。コンビニのトイレを掃除することに躊躇はないのだが、玄関に靴を何足も脱ぎ散らかすことが多い。一人で暮らしているのに「今日はパーティでもあるんですか?」という具合になる。
仮にこういうズボラさを許せない人が僕の家族や恋人だった場合、僕のありようをして不快だと感じ、僕が家族(あるいは恋人)であることは不幸だと思うだろう。
しかしこれはそれぞれ(僕と、僕によって摩擦を感じている誰か)の持っている哲学(あるいは価値観)を明文化して照合していなかったことが原因だと考えることができる。
それぞれに明文化して照合していれば「これはいかんだろう」と、不快/不幸を感じる前に対処ができるからだ。
このとき大事なことは、自身の「快さ/幸せ」のイメージを明文化するのではなく「不快/不幸」を明文化して意識しておく必要性だ。
他人から与えてもらえる快さや幸せなんて、だいたい的外れになる。
自分の望んだストライクゾーンの快楽や幸福を他人に求める人もいる(それはそれでその人の自由だ)が、僕ならそんな現象が起こったらシンプルに「キモチワル」と思う。
何がと言って、そんなことを他人に求めることもキモチワルいし、実現する程度の雑な幸福がそもそもキモチワルい。
なによりそれが実現してしまうそれぞれの関係性が一番キモチワルい。
飼い主に媚を売る空きっ腹の犬を見るようなキモチワルさだ。
こうなってくると飼い主もキモチワルいが犬もキモチワルい。
キモチワルくなんてなくなくない? という人はまぁ、ご自由にどうぞ……。
贅沢を言うとこんな空気は満喫したくない。
>>>
たまには日記を書こう。
僕の思う日記というのは、今日あった出来事に新しい解釈を加えること、明日がどんな日であるといいかについて願い、祈り、全体をイメージし、イメージからデザインを起こし、タスクを細分化し、実行のプロセスを想定し、そのあたりで面倒くさくなって眠ることである。
眠って日記が完結する。だから多くの人とは「日記」に対する概念が異なる。
大抵の人は僕の説明を聞いて、曖昧な笑いやあからさまな疑問符を浮かべる。それはその人たちの自由である。僕は僕の自由によって僕の日記を定義する。
未来は明日に限らない。
10年後をイメージしてもいいし、10年前の過去に新しい解釈を加えてもいい。
過去の解釈を変えられれば必ず未来が変わる。これはいつか書いたことのように思う。
よりよい未来を思い描くことが無意味だとは思わないが、思い描いているだけでは何も形にならない。
イメージだけでは精密な形は作ることができないし、設計(デザイン)だけでステキを作れるほど器用な人は少ない。
設計にいちばん大切なのは技術や経験、スキルやセンスではなく、哲学だと僕は思っている。
これは機械設計だけでなく、すべてのデザインに対して、である。
人生設計(ライフデザイン)もそうだし、居住空間設計(インテリアデザイン)もそうだし、製品設計(プロダクトデザイン)などもそう。
人間関係(ヒューマンリレーション)もデザインして形作ることは可能で、多くの人は無意識にそれをしている割に、意図的/作為的にそれを形作ることに一定の忌避感を持っている。
たとえば友人や恋人、伴侶や家族について、自身の中で明文化して意識しているかどうかに関わらず「こういうものがいいな」と思っている。
これを僕が言語化すると「都合がいい他人を求めている」ということになる。
それを顕在的に意識していない場合、不快な現象が他人との摩擦によってもたらされたとき「この人のせいで不快/不幸になった」と人間は感じるようだ。
たとえば僕は水回りは比較的綺麗にするのだが、靴下をそのへんに脱ぎ捨てたりする。
衛生について意識している部分はあるのだが、整理整頓という点では大きく劣る。コンビニのトイレを掃除することに躊躇はないのだが、玄関に靴を何足も脱ぎ散らかすことが多い。一人で暮らしているのに「今日はパーティでもあるんですか?」という具合になる。
仮にこういうズボラさを許せない人が僕の家族や恋人だった場合、僕のありようをして不快だと感じ、僕が家族(あるいは恋人)であることは不幸だと思うだろう。
しかしこれはそれぞれ(僕と、僕によって摩擦を感じている誰か)の持っている哲学(あるいは価値観)を明文化して照合していなかったことが原因だと考えることができる。
それぞれに明文化して照合していれば「これはいかんだろう」と、不快/不幸を感じる前に対処ができるからだ。
このとき大事なことは、自身の「快さ/幸せ」のイメージを明文化するのではなく「不快/不幸」を明文化して意識しておく必要性だ。
他人から与えてもらえる快さや幸せなんて、だいたい的外れになる。
自分の望んだストライクゾーンの快楽や幸福を他人に求める人もいる(それはそれでその人の自由だ)が、僕ならそんな現象が起こったらシンプルに「キモチワル」と思う。
何がと言って、そんなことを他人に求めることもキモチワルいし、実現する程度の雑な幸福がそもそもキモチワルい。
なによりそれが実現してしまうそれぞれの関係性が一番キモチワルい。
飼い主に媚を売る空きっ腹の犬を見るようなキモチワルさだ。
こうなってくると飼い主もキモチワルいが犬もキモチワルい。
キモチワルくなんてなくなくない? という人はまぁ、ご自由にどうぞ……。
そうではなくて「これは流石に無理という『ストライクゾーン』を外してくれさえすれば大丈夫」というのを明文化しておくほうがいい。
これは恥ずかしいのであまり書きたくないのだが、僕が恋人(女性)に求めていたのは年齢やファッションではなく「おへそが綺麗であること」「かかとをきちんと手入れしていること」である。20代の頃にはすでに明文化してブログに書いていた記憶がある。ほらみろすごく恥ずかしいじゃないか。
そしてこれも100%ではなく、だいたい60%くらい達成できていればまあいいか、という受け止め方だった。
これは哲学として、男も女も見えるところは綺麗にする奴が多いのだが、そういう奴ほど見えない部分が醜かったり汚かったりする。
醜い自覚があるから取り繕おうとするのだ。
もちろん服や髪やメイクを整えるのは結構なのだが、身だしなみの基本の部分は「自分をどう見せるか」「自分にどう見えるか」ではなく「他人にどう見えるか」「他人を不快にさせていないか」である(社会から距離を取って引きこもり5年を超えるイキモノがこれを書いています)。
顔が美形だろうがプロポーションが良かろうが「おへそ」や「かかと」「背中」「肘」という「自分にとって見えづらい/他人が見ていると思っていない部分」を手入れしない人間というのは、つまり自分のことしか考えていないわりに自分の手入れすら満足にできないのだ。
そしてこれはフィジカルだけの問題ではない。
肉体だけでなく自身の精神も、経済も、能力も、周囲の人間関係も、環境も、表面だけカッコつけて取り繕うわりに、中身がないどころか見えない部分が汚いのだ。
また自分のことしか考えない人間は、意図せず他人に与えている不快感には無頓着で、そのうえ自分を不快にする人間には容赦がない。
顔が美形だろうがプロポーションが良かろうが「おへそ」や「かかと」「背中」「肘」という「自分にとって見えづらい/他人が見ていると思っていない部分」を手入れしない人間というのは、つまり自分のことしか考えていないわりに自分の手入れすら満足にできないのだ。
そしてこれはフィジカルだけの問題ではない。
肉体だけでなく自身の精神も、経済も、能力も、周囲の人間関係も、環境も、表面だけカッコつけて取り繕うわりに、中身がないどころか見えない部分が汚いのだ。
また自分のことしか考えない人間は、意図せず他人に与えている不快感には無頓着で、そのうえ自分を不快にする人間には容赦がない。
なぜなら「自分はちゃんとしている」と思っているからだ。
これも「自分はちゃんとしていない」と薄々分かっているからこその指向性だろう。
「醜い部分を自分なりにでもきちんと取り繕って(誤魔化して)いる自分は強く美しく素晴らしい」と明言しないまでも潜在的には思っている節がある。
僕のように「明らかに自分はダメダメだな」と思っていると「ちゃんとしよう」などとは思わない。
公共料金なんて止められてから払っても問題ない。
家事だって思いついた時に、したいことだけすればいい。それで問題はないのだ。
食器洗いも洗濯も風呂焚きも、大抵は機械がしてくれるし、機械ができないことを自分がすることで生活は成り立つ。
そのくらいダメな自覚があるので、まともな人はたいてい僕の元を去ってゆく。
今も残っている人たちは仏のように優しい心の持ち主か、頭がイカれているかのどちらかだと推察している。
いずれにしても、たとえ見てくれが悪かろうとも自分の身体の見えない部分をきちんと手入れしている人は、それだけで誠実だと評価できるし、見てくれがいいのに見えない部分をおろそかにしている人は「まともじゃないな」と評価できる。
自身の身体に対するアプローチだけで、その人の自己満足の傾向や、他者に対する思いやりまで予測が可能だ。
20代の俺はすでにして天才か。
かくいう僕が果たして他人を不快にしたり傷つけたりしなかったのかというと、疑問や議論の余地ばかりが残るのだが ── 。

<冬の微睡み。君ではないぬくもり>
>>>
とにかくそのようにイメージの具現には設計が、設計技術の向上には哲学が必要だと僕は思っている(話題を戻すことで話題を逸らした)。
そして設計だけで終わったら何も実現しないので、あとは良い材料と適切な処理が必要になる。料理と同じだ。
久しぶりに真面目なことを書いたので背中が痒くなってしまった。もうカチンときたので今年はチョキしか出さねーからな!
僕は本当に欲しいものは絶対に言葉にしないように生きてきた(僕の中でもっとも重要なジンクスである)。
手に入れたので言葉にするが、僕は自由が欲しかった。
これも「自分はちゃんとしていない」と薄々分かっているからこその指向性だろう。
「醜い部分を自分なりにでもきちんと取り繕って(誤魔化して)いる自分は強く美しく素晴らしい」と明言しないまでも潜在的には思っている節がある。
僕のように「明らかに自分はダメダメだな」と思っていると「ちゃんとしよう」などとは思わない。
公共料金なんて止められてから払っても問題ない。
家事だって思いついた時に、したいことだけすればいい。それで問題はないのだ。
食器洗いも洗濯も風呂焚きも、大抵は機械がしてくれるし、機械ができないことを自分がすることで生活は成り立つ。
そのくらいダメな自覚があるので、まともな人はたいてい僕の元を去ってゆく。
今も残っている人たちは仏のように優しい心の持ち主か、頭がイカれているかのどちらかだと推察している。
いずれにしても、たとえ見てくれが悪かろうとも自分の身体の見えない部分をきちんと手入れしている人は、それだけで誠実だと評価できるし、見てくれがいいのに見えない部分をおろそかにしている人は「まともじゃないな」と評価できる。
自身の身体に対するアプローチだけで、その人の自己満足の傾向や、他者に対する思いやりまで予測が可能だ。
20代の俺はすでにして天才か。
かくいう僕が果たして他人を不快にしたり傷つけたりしなかったのかというと、疑問や議論の余地ばかりが残るのだが ── 。

<冬の微睡み。君ではないぬくもり>
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とにかくそのようにイメージの具現には設計が、設計技術の向上には哲学が必要だと僕は思っている(話題を戻すことで話題を逸らした)。
そして設計だけで終わったら何も実現しないので、あとは良い材料と適切な処理が必要になる。料理と同じだ。
久しぶりに真面目なことを書いたので背中が痒くなってしまった。もうカチンときたので今年はチョキしか出さねーからな!
僕は本当に欲しいものは絶対に言葉にしないように生きてきた(僕の中でもっとも重要なジンクスである)。
手に入れたので言葉にするが、僕は自由が欲しかった。
お金もモテも悪くはないが、意味のない我慢に無理矢理の価値を見出すほど愚かになりたくはなかった。
厭なものを厭だと言って蹴散らかし、したくないことをテコを当てても動かない程度に放棄し、憎いものを容赦無く憎み潰す時間と自由が欲しかった。
笑顔で近寄ってきて言葉巧みに丸め込み、自身の怠惰と欲を満たすために、こちらのリソースを値踏みして剥ぎ取るような奴を無視できるようになりたかった。
なってみて、どうかといえば満足である。
厭なものを厭だと言って蹴散らかし、したくないことをテコを当てても動かない程度に放棄し、憎いものを容赦無く憎み潰す時間と自由が欲しかった。
笑顔で近寄ってきて言葉巧みに丸め込み、自身の怠惰と欲を満たすために、こちらのリソースを値踏みして剥ぎ取るような奴を無視できるようになりたかった。
なってみて、どうかといえば満足である。
幸せかと問われるとなんとも言えないのだが、不幸ではない。全く不幸を感じないのだ。
満杯の駐車場や、渋滞の道路から外れて踵を返し、先のことなど無視して自宅に戻れる痛快さは、夜中のドライブに感じる寒さや孤独に裏打ちされている。
孤独であることは、最大の自由だ。
もちろん自由そのものが、ある種の檻として機能することもあるのだが、すなわちそうした「自由を設計すること」にも哲学が必要というわけで ── 。
孤独であることは、最大の自由だ。
もちろん自由そのものが、ある種の檻として機能することもあるのだが、すなわちそうした「自由を設計すること」にも哲学が必要というわけで ── 。
// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
:工場長:青猫α:黒猫:
[InterMethod]
-Algorithm-Diary-Ecology-Engineering-Form-Interface-Kidding-Link-Maintenance-Mechanics-Memory-Recollect-Season-Stand_Alone-Style-
[Module]
-Condencer-Generator-Reactor-Resistor-
[Object]
-Camouflage-Car-Fashion-Friend-Human-Night-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
:君は首輪で繋がれて:
:夢見の猫の額の奥に:
:夢見の猫の額の奥に:
//EOF
