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TITLE:
「都市伝説解体センター」をクリアした。
Written by BlueCat

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 滅多なことで読んだ本やプレイしたゲームの感想を書かないことにしている。
 僕は体験したコンテンツを誰かに紹介したいと思わないし、その素晴らしさを報告したいとも共有したいとも思わない。追体験して欲しいとも思わない。
 そもそもそう思うような相手が(不特定多数にも特定少数にも)存在しない。
 読書が好きな人は好きな本を好きなように読めばいいと思う(感想を書きたければ書くといいと思う)し、ゲームも然り。

 自分のための備忘録というのも僕にはあまり必要ない。
 読むたび感想が変わる物語はあるし、プレイするたび異なる体験ができるゲームもあるが、前回の体験のおおよそを想起できるからだ。
(想起できないなら、また新鮮な気持ちで味わえばいいだけである)
 意図的に、記憶/記録/想起する必要や必然が、僕にはない(僕にはないだけなので、他の人が感想を書くことをとやかく言うつもりも筋合いも僕にはない)。
 
 むしろ僕が書いた感想を読むことで、無垢の状態からコンテンツを体験する喜びが失われてしまう可能性を考えると、やはりあまり書くことではないと思うし、誰かが作った作品をとやかく言うのも性分に合わない部分がある。
 それでも「いいコンテンツだな」と思ったので、感想を書いておくことにした。
 
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【都市伝説解体センターとは】

 公式サイト(リンク先は音が出る可能性があります)によると「怪異・呪物・異界などの調査・解体を行う」ことを目的とした組織。
 主人公はある依頼のためセンターに訪れるが、逆にセンターから依頼された都市伝説を巡る事件を調査することになる。
 
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【ゲームとしてどうだったのか】

 以前書いたことがあるが、もともと僕はアドベンチャーゲーム(以下AVG)があまり好きではない。
 主に会話をベースとした選択肢によって変化するストーリィが主軸になるゲーム(インタラクティブコンテンツ)だけれど、絵や文字を追うだけなら映画やアニメや小説(シーケンシャルコンテンツ)で良いと思ってしまう。
 ある時期から「読みものとしてのコンテンツ」に特化されたビジュアル/サウンドノベルゲーム(だいたい読むだけ)も派生しており、今はゲームらしくマルチエンディングのスタイルも一般化したように思う。
 
 昨今のオカルト/ホラーゲームをエンディングのありようから一般化すると「主人公が恐怖体験の末、怪異に取り込まれてしまう」バッドエンドと、「恐怖体験から日常に戻る」ノーマルエンド、「怪異の苦悩を取り除いて浄化する」グッドエンドが用意されるケースがよく見られるようになったか(ホラーゲームをプレイしないので、概観に過ぎないが)。
 
 僕はゲームに対して「ゲームだからできること/ゲームでしかできないこと」を重視している。
 プレイヤがプレイヤキャラクタを経由して物語という仮想世界で起こっている事象や他の登場人物に干渉し、フィードバックするようにプレイヤーキャラクタが成長していって、それをプレイヤが追体験できるような表現や手法がゲームの真骨頂だと思い、それを具現する能力を持っている人たちが好きで尊敬している。
 マルチエンディングというありようもシーケンシャルな物語(小説・漫画・ドラマや映画など)ではおよそ困難で、ゲームだからこそ豊かになる表現方法だと思うので、僕はそうした手法について気に入っている。
 
 しかしこの「都市伝説解体センター(以降「本作」と表記)」というゲームは(クリアしたから分かるが)マルチエンディングではないし、映像表現も3Dモデルやアニメ表現ではなく色数を抑えた粗めのドット絵を主体にしていて一見チープに感じる。
 ゲーム進行もストーリィもほぼ一直線でゲームオーバもないため、選択肢に対して総当たりでゴリ押しすることは容易だ。
 
 ところが、コンピュータゲームでないと表現できない部分がある。
 都市伝説を調査するときにSNSで噂を調べるセクションがあるのだが、この「SNS調査」を小説や映画、漫画(シーケンシャルコンテンツ)で表現することは、多分むつかしい。
 玉石混交というより有象無象の雑多な情報の流れから、事件に関係のある情報を集めて行く。
 そのとき主人公の特殊な能力が意味を持つ。
 
 このパートをシーケンシャルな物語で表現しようとすると、雑多なノイズ情報について登場人物がだらだらと感想を述べる一方、重要なヒントを物語(あるいは主人公)が自動的に語る事になってしまう。
 観る者が得る主要な情報はSNSの画面と文字、それについて感想を述べる登場人物の発言だけだ。
 映像で表現しようにも、文字だけで表現しようにも、それをただ眺めるしかできない観客のうち「退屈だ」と感じる人は少なからず居るだろう。

 どの情報にヒントを見出すか、無意味なノイズとしか思えない情報も精査するか/無視するか、それをプレイヤが選択してインタラクトできる。
 同じゲームでも、ゲームブックだった場合は情報量(選択肢)があまりにも多くなってしまうため、コンピュータゲームでしかできない表現だと感じた。
 
 また一見粗く見えるドット絵も実はかなり丁寧に書き込まれており、背景と前景でドットサイズを変えるといった技術も含め、主要な使用色数は少ないのに「ドットの境界線が解けて滲みを感じる現象」は一切なかった。
 拡大されたシーンのアニメーションも含め、非常に緻密で入念な作業があったものと想像できる。
 表現は粗いのに、緻密で繊細な美しさに感動する場面まであった。
 ちなみに色数の少なさが演出上、非常に重要な役割を果たしていると後に理解する。
 
 こうしたインタラクティブならではの選択的要素とシーケンシャルならではの非選択的必然性が高次元に融合されており、本質は直線的にもかかわらずゲーム体験として素晴らしいものだった。
 
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【ストーリィはどうだったのか】

 先に書いたとおり、総当たりで進むことができるシーケンシャルなストーリィである。
 しかし総当たりをして、ゲームの進行に直接関係ない情報を読み込むことで、物語や登場人物に奥行きが生まれる。
 先を知りたい人は、進行に必要な情報を見極めて選択すればよいし、じっくり物語世界(世界観というやつですな)を味わいたい人は丁寧にそのノイズを拾うことで路地裏のような(一見不要な)情報をゲームシステムが開示してくれる。

 
 ストーリィの高い完成度と、あえて「ゲームとして」複雑に作らないシステムの最適化、プレイヤが物語とキャラクタを深く味わえるよう最大化する演出など、選択的なのに練り込まれた小説を読むような重厚な体験だった

>>> 以降はネタバレを含むため、今後プレイしようと思っている人は読まないことを強く推奨します。






 

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【天才の描写について】

 このゲームには終盤、一人の天才が登場する。
 その天才の復讐譚が、本来のゲーム体験である「怪異を解明してゆく物語」の裏側に並行しているとプレイヤは気付かされる。

 フィクションで天才が描かれるとき、周囲の凡人をバカにしたり、やたら高飛車だったり、俗人離れが激しいため一般人とまったく話が通じなかったり、生活力が致命的だったりと、いわゆる「ポンコツ」な部分がお茶目に描かれていたりする。
 しかし本当の天才が果たしてそんなに不完全なものだろうかと、常々思っている。
 おそらくそれは凡人の思い描く「こうであって欲しいな」「こうだったら面白いな」という「天才像」なのだ。もちろんエンタテイメントなのだから、それが悪いわけではない。

 ただ本当の天才が「人間らしくあろう」とするとは僕には思えない。
 人間らしさの定義にもよるが、それは社会性に等しい。
 理解してくれる者など居ない社会から拒絶され、そんな社会に迎合することを拒否した天才がいるなら、知能の下位互換的副産物に過ぎない人間性に意味など見出すだろうか、と思うのだ。

 本作における天才の描写は「凡人には想像も及ばない」ということを徹底的かつ的確に表現していると感じた。
 まず「天才」が、ほとんど何も語らない。
 周囲の人間(とくにプレイヤ)と隔絶しているため「実際に何を感じたか」「何を考えているか」「どのような行動をしたか」がまったく語られない。

 それでいて、およそ完璧に目的が果たされる。
 不必要な行為は一切せず、必要なことはもれなく遂行した結果として「天才」は復讐という目的を具現化する。

 常人離れした能力や知性を持つ人間が目的を果たすとき、余計な説明を必要もない誰かにすることはないだろう。無意味だからだ。
 誰かに気持ちを吐露する必要があるなら独白もあるだろうが、物語の観察者であるプレイヤに対してさえ、何も言わない。
 どういう人間で、何を感じて、どんな気持ちで、何をしたのか、具体的なことは何も明かされず、プレイヤはプレイヤーキャラクタが体験したものとして描かれる物語からその裏側を想像するしかない。

 この「有象無象の凡人たちから隔絶しているのに、それ(凡人)を利用する際は完璧に状況を制御している」という点が、本当に天才を描いていると感じた。
 これはゲームオーバが存在せず、シングルエンディングであることと相互補完で説得力を与える。

 天才の制御によって物語世界が完全に誘導されていると考えれば、その誘導に失敗などなく、結果に揺らぎは発生しない。
 それが天才の証ではないか。
 
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【エピローグの表現について】

 プレイヤにとってはある意味悲劇的な終幕を迎えるが「天才」は淡々と復讐を果たし、歓喜も悲嘆も嘲笑も後悔もなく、それまでの物語世界から姿を消す。
 復讐を果たしてなお、何の感情も見せない。
 おそらく見せる意味も必要もないという表現だと思うし、それはそのとおりに感じる。

 エピローグで再びその実在を仄めかすものの、しかしやはり何も語らず、何も見せない。表情すら覗わせない。
 明らかにそこにいるのに、姿を見せているようには思えない。得体が知れないのだ。

 プレイヤは主人公たちの再会に安堵すると同時に、その物語世界から引き剥がされる痛みを味わうことになる。
 私はいったい、誰の、何を、体験させられていたのかと。
 寄り添おうにもそのよりどころたる「気持ち」さえ見せない「天才」に、拒絶されるような悲しみを覚えて終わる。

 実際に拒絶されているのだ。
「天才」にとって我々「観察者」など、何の意味もない、役にも立たない存在なのだから。
 その怜悧さ、冷酷さが、物語の中で本当に哀しくて、本当に美しい。







 
 

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[NEXUS]
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[Engineer]
  :工場長:青猫α:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Love-Stand_Alone-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Reactor-
 
[Object]
  -Camouflage-Computer-Contents-Game-Poison-
 
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[Cat-Ego-Lies]
  :コントローラと五里霧中:
 
 
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