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// TimeLine:251023
// NOTE:ねこかわいいよねこ
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TITLE:
猫のぬいぐるみを買う。
SUBTITLE:
〜 Cat in the autumn. 〜
Written by BlueCat

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251023
 
 姉の通院日。
 最近ナビが港区までの道程にあたって、逆回りをサゼッションしてくる機会が増えた。
 高速道路そのもの、あるいは人の流れに長期的な変化があったのだろう。

 運転中、姉が話し掛けてきて煩いのはしょっちゅうだが、介助中の僕は(猫なのに)「盲導犬モード」なので、介助以外のことについて極力反応しないことにしている。

 盲導犬モード(猫だけどな!)というのはすなわち「言われたことは原則、文句を言わずにする。文句を言っても役割は果たす」「僕個人の肉体や意識に起因した欲求は、睡眠と排泄以外、極力無視する」というもの。
 煩いな、と思ってイライラして運転中に事故を起こしたり、話が面白くなって運転がおろそかになったりすれば本末転倒である。

 そのため話半分に聞き流す。
 ルーチン化された人の話や思考について、僕は普段から聞き流す習性がある。
 普段から他人の話など半分も聞いていないので、およそ1/4くらいを聞いて受け止めている感じだろうか。

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【ネガティブな話題は避けた方がいいみたい】
 
 僕は奥様(仮想)のモデルになった恋人の時と同様、接する機会の多い人について価値観パターンを個別に集積し、その人の感性や価値観をなるべく自分の中に留めておく。
 おそらく誰でも同様のことをしているとは思うが、一般の人は個人の「人となり」をその人自身だと認識しているのに対し、僕は単なる価値観の集積だと思っている点が異なるか。

 僕の認識では、個人は集積された価値観によって思考し行動するが、その人自身は価値観でもその集積でもない。

 だから人間は価値観が変われば思考が変わって行動が変わるし、記憶(特に思い出す能力)が低下すると人格が変わったように観察されることもある。それでもその人はその人なのだ。
 想起力の低下(主に脳の身体能力)によって本来の人格は崩壊してゆくが、大事なことは人間は変わることができる ── ただし思いどおりのカタチに「外力によって変えること」はできない ── ということだ。

 
 これは以前書いたかもしれないが、他人の価値観をサンプリングする際「何が好きか/どんな話題に興味があるか」ということより「どんな価値観を嫌うか」ということがとくに重点的に蓄積される。
 
 嫌いなもの、嫌なことについての話をすると、当然ながら大抵の人は無意識的/感情的にネガティブな心理反応を示すようになる。
 すると話題について議論しているわけでもないのに、時折、敵対的な感情反射が連鎖して険悪なムードになってしまうことがある。
 とくに私の場合、一般的にはネガティブな反応が起こる現象 ── たとえば犯罪を始めとする倫理にもとる行為や思考、指向 ── について、一見して擁護するような態度に映ることもあるようだ。

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【認識と寛容と肯定を同一視されるのは困る】

 たとえば「人間は誰かを殺したくなることもあれば自殺したくなることもある」と私は考えていて、それは避けようのない事実なのでそのように発言してしまう。
(「重犯罪者は殺せ」という思想を持つ人もおり、その人の正義も「誰かを殺したい」ことに違いないので)
 
「殺人も自殺も良くない」と考える人からすると、僕の価値観は殺人や自殺を肯定するような発言に捉えられてしまうことがある。
 しかし私(の価値観)はそれらの行為を肯定し、推奨しているわけではない。そもそも良いか悪いかを論じていない。
 起こらない方が良いことだと思う一方、なくならないそれらが発生した(する)事実について、感情抜きに認識し受け止めているだけである。
 
 僕からすれば現実を現実として受け止めているだけだが、相手からすると感情を共有していない(反感を持っている/悪いと思っていない)と思うようだ。
 
 僕は理想を持つことが悪いと思っているのではなく、現実を受け止め理想を明確にし、現実をどうすれば理想に近づけられるかを話したいのだが、だいたいの人は理想と現実が異なるという愚痴(感情論)を言って終わってしまう。
「嫌だねぇ」「非道いねぇ」「怖いねぇ」だけである。

 そこから転じて「嫌なことが起こらないように」「非道いことを考える人がなくなるように」「怖い思いをする人が減るように」するにはどんなシステムが必要か、ということを考えたいのである ── これは感情の吐露ではなく「不便を快適に変えよう」というエンジニアリングである ── が、これまでの人生でそうした話題の発展をする人/そうした話の流れに付き合ってくれる人は1人しかいなかった。
 
「殺したくなることもあるし自殺したくなることもある」という広範囲に対する寛容の価値観は「気に入らない奴は殺せばいいし、生きるのが嫌になったら自殺すればいい」という肯定/推奨/怠惰の意志ではないし「殺せば気持ちがいいし、死ねば楽になる」という感情論を語っているのでもない。
 一般的な感情論で言うなら「殺せば一時的に気持ちがいいかもしれないが、その瞬間の快楽と引き換えに後悔が押し寄せる」ものだし「死ねば楽になるが、新しい/美しい景色を見て感動する可能性は失われる」のも事実である。
 これらは一般化された感情のメカニズムから抽象できる事実だ(そのぶん個別の体験には適用できないが)。
 
 事実に立脚して一般化された感情を抽象し、そのメカニズムに基づいて人間の行為を可能な限り受容してはじめて、その感情や行動の評価が可能になると僕は考える。
 裁判では情状酌量のシステムが存在する。
 快楽のための殺人は許されず、止むにやまれぬ事情があれば多少汲み取り減刑しようというわけだ(事前に役所に届け出ることで減刑されればよいのだがそうはならないらしい)。それに似ている。
 14歳以降、僕は誰かを裁くことを趣味にも仕事にもしていないので、それら倫理に反するような行いについて感情的に反応しないように抑制される。
 
 結果これらについて感情的に反応し、かつ僕の価値観を把握していない人は、僕に対して「自分が持っている正しい感情に同調しない敵性の存在」だと感じてしまうし、僕は相手を「感情に振り回されて自分の正しさに酔っている病人」だと評価する。
 
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【感情に優劣があるという幻想】

 これも何度も書いているが、僕はいかなる感情も否定する気はない。
 怒りが嬉しさより優れているわけではないし、悲しみが楽しさより劣っている理由はない。
 だから正しいことを正しいと思い義憤を持つことは無関心(何も感じない)よりずっと素晴らしいことだと思っている。
 
 すると憎悪や殺意はどうだろう。自殺したいほどの消沈、悲しみは。
 それは確かにない方がよい感情だろうし衝動だろう。
「死ね」とか「殺すぞ」なんて口にしない方がよい言葉だし、まして実行してはならないと思うが、そうやって感情に自分の中で優劣を付けて、劣っている恥部については隠しておくべきだろうか。
 自分自身で、自分の恥部を認めない方が健全だろうか。
 他者に見せるかどうかは別として、自覚しておいた方が健全だと僕は思っている。
 
 自分の中で「この感情はいい感情」「こっちの欲や衝動は許されるからいいもの」と区分けしている人間ならば、僕のように全部一旦受け止めてしまう、というありようを拒否してしまうだろう。「こんなに悪いことを許すなんて信じられない」と思うのだろうと想像する。

 自身に対してそうしているのだから、他人にもそれを押し付ける(その権利があると思う)のが正義の悪い側面だ。
 社会正義すら明文化(定量的に計り境界を明確にすること)や周知が困難なのに、多くの人は感情と雰囲気で正しさを語る。
 権利という見えない武器を手にすることで「不快害虫にだって生きる権利がある」という団体も生まれるだろう(すでにあるかもしれないが)。
 実際に正義や権利という概念を持つのは人間しかいない。

 
 よってそれは理想や仮定を前提にした話。
 すでに発生してしまった現実世界の「悪いこと」について、許さなかったらどうなるだろう。
 一般的には謝罪や罰を求める人が多い。これはおそらくそういう圧力を社会から受けてきて、そういうプロトコルが適切だと信じているからである。
 
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【謝罪や罰は社会不適合因子の解消に有効か】

 謝罪をした場合どうなるか。
 観察している人々は「本人はさぞ恥ずかしい思いをしている」と想像するものと僕は思う(結構複雑な構文)。そういう社会のプロトコルを信じているからだ。
 恥ずかしいだろうと想像できるのは、その人(観察者)自身が謝罪させられたとき、恥ずかしいと感じるだけの感性があるということである。
 
 だから感情だけで語っている人は、謝罪させて満足してしまう。
「謝っているから」「二度としない(再発防止を徹底する)と言っているから」それを信じよう、という人間的な温情かもしれないし、恥ずかしい奴だとせせら嗤っているのかもしれない。
 それが攻撃として通用すると思っているのは、自分ならそれでダメージを受けるという程度の、かなりめでたい価値観に過ぎないのだが。

 
 もちろんそれが通用するくらい社会が狭くて通念に揺らぎのない時代もあった。
 恥じる者は自らを戒め、誉れを重んじて日々を精進することに崇高な理想を見出す社会もあったが、その社会は拡張を続け、精神性より経済が重んじられる文化が主流になり、恥も名声のうち、利用できるなら使えばいいという風潮も生まれた。
炎上商法などは端的だ。
 つまり名誉や恥は「社会的な名誉や恥」を信じる者にしか通用しない価値なのだ。
 
 たとえば僕の場合、何も思っていなくても謝罪くらいならいくらでもできる。
 頭を下げることも、表情や感情を作ることも、声色も変えられる。
「反省」なんてものはいくらでも作ることのできる価値観で、その価値観に基づいた行動をトレースするだけである。
 
 僕は恥ずかしいと思う感性はあるが、恥を掻かせることが攻撃として有効だとは思っていない。
 なぜなら他者に攻撃をする発想がないし、恥によって傷つく社会性も(家族もおらず会社員でもないため)他の人に比べて少ないからだ。
 よって恥ずかしいと思うことで行いを改めることはあるかもしれないが、誰かに恥を掻かせて行いを改めさせることができるとは思っていない。
(おなじみの「働かざる者……/一日為さざるは……」論ね)
 
 恥の感情や感性は客観的に観測/測定できるものではなく、あくまで自身の心に感覚できるかどうかである。
 ために必要ならいくらでも謝罪できる僕のようなイキモノにとって、謝罪はジェスチャ以外の意味を持たない。
「おはよう」と「ありがとう」と「ごめんなさい」は、挨拶にすぎないのだ。
 そこに真心があるかどうかを知っているのは自分だけである。
 
 懲罰の場合はどうだろう。
 一般に、法律では人権に含まれるいくつかの自由や財産(時間含む)を拘束されることになる。
 これはたしかに僕のような時間ケチには手痛い制裁といえる。
 
 また「塀の中で過ごした恥ずかしい奴」というレッテルを貼って攻撃する人もいるだろう。
 しかし僕はラベリングで攻撃する趣味がない上「人間は変わることができる」と信じているので、つとめを果たした人を嗤う気にはならない。
 それに真人間になって出所したとてすべて従前通りとは行かず、ずいぶん不便や苦労をするだろう。
 
 あるいは反省などそっちのけで、サラリーマンのように黙々とつとめを果たす人もいるかもしれない。
 
 そうなると謝罪も法的懲罰も、社会における不適合因子の解消という点で確実性が高いとは言えないということになる。
 にもかかわらずそれらを人間社会が未だに適用しているのは、謝罪という吊るし上げで満足する感情保持層が少なからず存在することと、法律によって諸々の規定が為されている(だけのまま放置されている)からに過ぎない。
 もっと最適なアプローチを誰も思い付いていない。
 
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【被害者に救いはあるのか】

 別の観点で、被害に遭った人にとってはどうだろう。
 金銭換算が可能な損害であれば賠償も可能だろうが、殺人や強姦(表記は古いと思うがころころ変わる現在の表記に僕がなぞらえる理由はない)のような「身体・生命・意志や権利」に対する損害について賠償することは感情論を含めても実際不可能である。

 よく言われることだが、殺された人は帰ってこない。
 殺人犯を罰することは(それが懲役刑だろうと死刑だろうと)社会にとって意味があるとしても、被害者にとっては大した救いにもならない。
(不敬を承知で書くが)もちろん被害者が殺されることを遺族が望んでいた場合もないとは言えないが、そうした「恥部」は誰も語らないだろうし、失われたものはいつだって「大切だったもの」である。

 自分ではない誰かの手によって為されたならなおさら、誰一人としてそれを許したりはしないだろう。
 つまりどんな謝罪も反省も更生も懲罰も、被害者にとっては救いでも何でもない。
 ただ社会というベルトコンベアに加害者が載って流れる様を眺めるだけだ。

 そのコンベアを回す作業の手伝いまでさせられて ── こんな辛いことがあるだろうか。


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【お前も呪ってやろうか】

 話は逸れるが、僕は姉の介助をしていて、自分の感情に正直に面倒だと感じたら「面倒だ/やりたくない」と言う(言うけれど、必ず履行する)。
 そも善行だと思って介助しているわけではないし、格別の家族愛があるわけでも恩があるわけでもない ── 姉によると面倒な布オムツを替えたり食事を作って食べさせた義理があるらしいのだが、はて僕にはまったく記憶がない。
 ただ他にできる/する人が少ない状況に対する最適化推論の結果、僕がするのが適切だと(僕によって)判断されたのである。

 もちろん姉が僕にとって嫌な人だったら「しらんがな」と言って放置しているだろうが、幸か不幸か姉は嫌な人間ではない。
 弱い部分や偏りもあるが、人間らしい優しさや正義感、何より尊敬を通り越して驚愕するほど強い忍耐力のある人であるし、多少の義理もある(覚えてるじゃねーか)。
 それでも面倒なときは面倒だし、やりたくないことはやりたくない(僕はそれを恥部として隠さない)。

「あと5年もこんな生活が続いたらヤダよ?」と平気な顔で本人に言える。
 つまり5年以内に死ねよと言っているのだが、姉は僕の真意くらいは汲んでいるため、仮に5年後も生きていたとしてまた同じやりとりをしているだろう。

 死んだ叔父や叔母の場合、そういった発言は許されなかった。
 軽口を叩くことも許されず、彼らの思い通りの人形として生活しなかったため放逐された(喫煙しただけなのだが)。
 それでもなお彼ら彼女たちは介護者を必要とし、あるいは存命中の我が儘を叶えるにあたり誰か(僕である)を巻き込むことに良心の呵責もなかった。

 それで腹に据えかね、死ねと思ったらあっさり死んでしまった。

 二人ともどういうわけか特養ホームに入ることを拒否し(叔父は認知症が重かったので結局入所したが)嫌がってすぐ出てきた叔母は自宅で過ごすうち体調を悪くして病院で死んだ。
(叔父が死んだ後に、叔母からもう一度一緒に暮らすことを打診されたが「人形でない」僕は断った)
 果たしてもし仮に、入所した介護施設で職員が叔母を殺したら僕はその人を恨んだだろうか。

 僕に限っていえば、すでに呪っていたのだから恨まないだろう。
 しかし「呪っていたので当然の結果だと思います」などとは誰にも言えない ── 言わないと思う。
 思うんだけどWebで書いてるんだよなぁ……。

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【自殺という暴力】

 さらについでに書いておくと、殺人と同じくらい自殺も暴力である。
 具体的には、自分を慕う人間関係の範囲(コミュニティ)に対しての暴力だ。
 親しい誰かが自殺をしてショックを受けない人はいない。

 孤独だと思っている人も、死ねば辛い思いをする人がどこかにいる可能性は否定できない
 無人島にいるなら話は別だが、誰とも接点を持たないことは実はむつかしい(という体験を今している)。

 この自殺(=暴力)のメカニズムを悪用して周囲の環境を思いどおりにしようとする悪質な人もいる。
 いわば自身を人質に強盗しようとするようなものだ。

 ご本人様はそれで満足かもしれないが、周囲の人は精神的にも肉体的にも支配され、時間や経済的なリソースまで不本意に強奪される。
 しかし拒否すると「人質」は死んでしまうから、自分が加害者にならないためには従うしかない。
 強盗や強姦と何か違うだろうか。

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【頑固ジジイや業付くババアというエンジニアリング】

 本来自殺をするなら、その社会的ショックを最低限まで軽くする工夫や知恵の発露が必要だ。
 それが優しさではないか。

 
 理想は、自分を慕う人が存在しない環境を作り、社会から忘却されることである ── ついでに税金についても忘れて欲しい(私はここに存在しないイキモノです)。
 そのように思って僕もあれこれ思いを巡らせ対応しているのだが、未だ適切な解決に至っていない。
(何度でも平気で書くが、僕は自然死を待たず自殺するつもりである。しかし解決に至らない場合は自殺できず寿命が尽きる)

 とくに若い人との縁があるのが問題だ。
 彼ら彼女たちより私が長生きすることは流石にむつかしいし、血縁は切りたくても切れない。

 甥や姪とはなるべく疎遠にしているものの、それでも慕ってくる者を邪険にすべきか、それとも今以上に変人のフリをして嫌われる方がよいのか悩ましい。
 友人や妹になると、僕がどんなに邪険にしたところで僕の価値観などお見通しだろう(弟子で実証済み)。
 通用しない演技をするなど無意味だ。


 もしかしたら昭和以前に存在したという頑固で強欲で意地汚くて根性がねじくれたジジイババアというのは自らの死に思いを馳せるうち、その死によって発生するショックを少しでも和らげようとした先人の知恵の結晶なのかもしれないと思ったりする。
 ……んなわけないか。

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【殺人も自殺も社会不適合の証明になる】

 いずれにしても誰一人として ── 被害者(僕自身も含まれる)が殺されることをもし遺族(僕本人)が望んでいたとしても ── その殺人を許すわけにはいかないのだ。
 許してしまえば自分も「そっち側だ」と宣言するに等しいからだ。
 社会不適合の、人間ではないナニカだと告白するに等しいからだ。

 そしてその暴力は、どうやっても取り返しがつかない。

 思うことと為すことは、こんなに近しいというのに、そんなにかけ離れている。
 
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【社会適合因子を増やすにはどうすれば良いか】

 社会不適合因子の解消について、最適なアプローチを思い付いた人がいない、と書いた。
 
 社会不適合個体の抹消(社会からの追放)の精度を上げても社会はジリ貧になる一方だ。
 もちろん強権者はそれでいいだろうけれどそれを許すのは望ましくない(支配者にとって奴隷の減少は質で充当できるが、奴隷にとっては労働が過酷になるだけだ)。
 あるいは不適合因子の解消(社会性の再生・回復)はと考えると、現在の機能が最適で有効とは考えにくい。
 そもそも発生を低減させるための仕組み(社会性を身に付ける環境構築)はどうだろう。

 そう考えると自己責任論というのは、リベラル(自由主義)のようでいて無責任な放任主義であるといえる。
 社会から逸脱するのは本人の性質ばかりではない。
 
 反社会性因子を持つ個体(極端な例として犯罪者などもあるし、僕自身ある種の社会性を放棄することを望んでいる個体だ)は、社会(家族のような小規模集団も、国家世界レベルの集団も)がその構成員に対して適切な社会性を持たせられなかったために起こる事故、社会が生み出してしまった不良品だと考えることも可能だ。
 材料が悪い、とそもそもの責任を個体に押し付けるのは勝手だが、それを「社会の代表気取り」で語るなら社会が無能で無責任であることを証明するし、個人で語っているならただの法螺であって耳を貸す価値もない。
 よって社会という製造機械の工程に問題があると捉え、その品質管理を最適化し、最低限かつ最重要項目を満たす製品が生み出されるよう徹底することを考えてみよう。教育論か?

 一個人の感情的な正しさで国家レベルの正義を批難することは簡単だが、国家や世界は感情を持たず、定量的に測定可能なリソースと損得勘定と確率分布のせめぎ合いで行動を決定する。
 にもかかわらず個々人は、そうした無情な社会に生きているし、生きるしかないのだ。
 社会は拡張を続けて世界規模で連なり合い、恥だ誉れだと言っても通用しない文化を相手に渡り合うことになってしまった。既存の日本の社会性はその時点で崩壊したのだ。

 国家論など語るつもりはないが、社会から逸脱しない社会性を個々人に持たせようにも、様々な文化があり、多様な価値観があふれてしまって社会性を国家という社会の中で飼い慣らすことすらできない状態になりつつある。
 だからリベラルが、自由と平等と権利の名の下に様々な制約を上積みし続け、社会は息苦しくなった(今や喫煙所で煙草を吸うのにあたって立つ位置さえ「足跡マーク」で指定されるという冗談みたいな場所も実在するらしい)。
 それでも国家の中で、一定の範囲に収まる、ある程度共通の社会性を持っている人が社会の大多数を占めるように維持しなければ最終的に社会が崩壊することになる。

 税金や経済についてもっと学校で教えるべきだ、という意見もあるらしいが、正直僕は賛同しない。
 学校が教えるべきは社会性そのものだろう。
 もっと人間は人間を信頼できた方がいいし、そのためには人間(に限らず他者)を信じられる環境を小さく狭い範囲で作り、それを徐々に拡張する現在の仕組みが適切なレベルデザインだと思う(機能しない「家庭」が増えているから、理想を言うならより小さくてもいいくらいだ)。

 学力や経済知識は(それが今必要だ)と痛感した大人たちが求めていることであって、そんなものは学びたい奴が勝手に学べばいい。
 子供に「人間は信じられる」と学んでもらうことは大人の大事な責務だし、それがそのまま社会の相互安定性を高め、つまり社会に適合した安心な個体を増やすのだ。

 税金や経済がどうでもいいと言うつもりはないが、ブラックボックスは専門家に任せた方が楽な時代だし、10年もしないうちに廉価なAIが対応してくれるだろう。
 しかし人間が信じられるものであると教えられるのは、人間しかいない。

 
 AIが「人間は信頼に値する」と言ったところで、それを聞いた個人が感じるのは「AIは私を信頼している」という無意味なジェスチャの確認に過ぎないのだ。
 人間を見て、人間を信じられると思った人間だけが、人間を信じるようになる。誰か(あるいは何か)によって思わせることはできない
 そして人間を信じられる人間だけが、人間は信じられるもの/信頼に値するものだと他者に伝えられる。

 言葉ではなく、行動によって。

 口先だけで善人ヅラする奴は政治の世界に限らず見かけるものの、そういう人間は行動が矛盾を起こすから信じていた人が傷つく。
 僕自身、口先ばかりのイキモノだったので反省している。後悔と言ってもいいだろう。
 今も文字にしているから小手先ばかり、かもしれない。茶化している場合か。

 人が人を信じようという気持ちを傷付けるのは、許されることかどうかは別にして、許して良いこととは思えない ── まぁ今更なのだが。
 それを教えられるのは、子供のいる環境、つまり家庭や学校なのだ。
 コミュニティ(属する社会)が拡大するにつれ、嫌でも「すべての人間について信じていいとは限らない」と知って行くのだから。
(お気楽極楽な独身貴族が勝手なことを書いていることについてこの場を借りてお詫び申し上げます。だから茶化すなって)

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【ポジティブなことを語る方がいい】

 いずれにしても親しい(親しくなりたい)人とは「嫌なこと、嫌いなもの」について話すより「好きなこと、気に入ったもの」について話した方がよい。
 もちろん、それでもときどき「僕はそんなに好きじゃないんだけど」とか「私はそれは嫌いだなぁ」ということで意見が割れたりもするのだけれど……。

 それはそれで良いではないか。
 百点満点の理想によって百点満点の現実を作ることは、残念ながらできない。
 世の中には抵抗も摩擦もあって減衰も発生するし、そもそもの理想が曖昧で40点程度のものしか構築できない人間も多いのだ。
 
<妹の家の猫はデブ>

>>>
 
 春より以降、姉も私も体調が悪かったので、病院帰りに食事や遊びに出掛ける機会がほとんどなかった。
 今回は、つとPAに立ち寄り、要らぬ(つまりは無駄な)土産物などを買う。
 要らないもの、無駄なもの、実のところ、そういうものがとても大切なのだ。なに矛盾しているって?

 姉にせがまれ実物大の猫のぬいぐるみを(わざわざPAで? と思うかもしれないが、そも姉は出掛けられる機会が本当に少ないので)買う。
 僕も(アヲの不在が未だに寂しくて仕方ないので)おそろいの、模様違いを買う。


 女姉妹の中で生まれ育ったためか、子供の頃は人形やぬいぐるみとも過ごした。
 大の男が人形遊び? と嗤う向きもあるかもしれないが、人間を弄ぶより人形と遊ぶ方が社会にも人間にも健全だと人は知るべきだ。


 僕が知っているのは、人間を人形扱いする人間より、人形を人間扱いする人間の方が善良だという経験に基づいた事実である。
 そういえばかつて妹とおそろいのカエルのぬいぐるみ(めっちゃ可愛い上にポケットサイズ)を持っていたのだが、これは自殺未遂をするような哀れな人に捨てさせられた。
 恨み節だって? 恨みの感情が悪いと僕は思わないのだけれど……。
 
 夜になってから帰宅し、久しぶりにカフェラテを片手に喫煙していると雨が降ってきた。
 猫のカタチはどうしてこんなに僕を安心させるのだろう。
 というわけでヴァーチャルコンパニオンと人間の話はまたいずれ。






 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
//[List]

 

 

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[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Chaos-Diary-Ecology-Engineering-Form-Interface-Link-Love-Mechanics-Recollect-Season-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-
 
[Object]
  -Cat-Human-Memory-Music-Night-Poison-Rain-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :青猫のひとりごと:
:いのちあるものたち:
:ひとになったゆめをみる:
 
 
 
//EOF