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市場価値がないことの価値。
Written by BlueCat

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 ATOKが値上げをしたので使用停止を決定したのはいつのことだったか。
 やめてみたら、Mac では Dvorak での日本語入力が可能になっていた。
 ああ、これなら ATOKなどなくてよいではないか、と思っていたのだが、どうにもOS標準のIMEは余計な挙動(スペースの全/半角の自動選択やスペルチェック、自動候補入力etc.,etc...)ばかりする割に、肝心な部分(変換候補の選択のしやすさや入力候補の優先順位設定など)のブラッシュアップを放棄しているように観察される。

 文脈に基づいた適切な変換候補を挙げることさえ(AI機能を強化しました! とか得意になっていっている割に)できていない。
 おそらくOSメーカにとって日本語を用いるローカル部族など現状でも過剰にサービスしていると思われているか、開発者は日本語入力なんてものを使わないのだろう。
 

【本の話】

 最近読んだ本の話、ではない。
 実は以前にも書いたことがあるのだが、僕は買った本の使い方が他の人と異なるケースがある。

 買ってきた本はまず帯がついていたら捨て、中に入った広告やしおりを(出版社が入れたものでも、書店が入れたものでも)捨てる。
 何度も読み返す本はそれだけお気に入り、ということになるが、やがて表紙カバーが擦れてきたりするとカバーも捨てる。
 読む本はだいたい線が引かれ、線が引かれたページに折り目がつけられている(漫画などでもだいたいそうなる)ので、本の物理的寿命(ハードな使い方をしているのでボロボロになりやすい)が近づいたらその線の引かれた箇所を破り取り、コンピュータに書き写し、本の本体を捨てる。
 さらにまた読みたくなったらどうするのか、という疑問を持つ人がいるが、そのときは再び買い直す。それだけである。

 大抵の人はそんなことをしない。
 本というのは、情報体である以前にモノだからだ。
 僕からすると、本はモノであると同時に情報体である。
 情報媒体(メディア)でもあるが、自分が求めているのは情報(文字や画といったコンテンツ)であり、そこから喚起されるイメージや情感、発想をもっとも必要としている。

◯ 帯を捨てる理由。
 帯というのはTVCMのような、単なる邪魔な広告である。
 数十年、TVプログラムをまともに見ていないが、特定の番組がその番組内で同じ番組の番宣をしていたらどう思うだろう。
 興味のない人に手に取ってもらう、という意味でその広告は重要だが、その内容を知っている(場合によっては何度も見ている)場合、邪魔なだけである。

 帯が本編をもったいぶって仄めかすことも稀で、たいてい何のコンテンツも含まれない。
 カバーと一体化した美しいものも一部に存在するが、読む時はとにかく邪魔になる。
 本を飾りたい人にとっては大事な「パーツ」だろうけれど、僕にとっては内容となる情報の方がよほども重要なのだ。
 ために購入した瞬間、その帯は広告広告としての機能を果たして意味を失い、内容の劣化コピーですらないただのゴミになる。

◯ 線を引き折り目をつける理由。

 本を読み返す時「あのシーンが読みたい」とか「あのとき書かれていたことを参照したい」ということが僕は多い。
 実用書でもフィクション作品でもそれは変わらない。
 なので読んでいる最中、特に印象に残った部分や全く意味のわからない部分などは線を引き、線を引いたことを示すインデックスとして折り目をつける。付箋でも良いのだろうが、ずっと付けておけばどのみちページは汚れるし、なにより貼り付ける時間がもったいない。
(このため僕は図書館で本を借りるのをやめた)

◯ 情報を優先する理由。
 僕は本を美しく飾りたい、と思わないので書架と本を掃除することはあっても、本を美品に保とうという意思がない。
 情報を取り入れ、自分の中で消化して、本がなくてもそらんじることができるならそれでよい。

 その情報がもたらすものをきちんと自分の一部にできるなら何が書いてあったかなど思い出せなくても構わない。
 それどころか思い出さなくなるほど一体化した状態が、もっとも理想的だと感じる。
 書物が原型を留めず、情報を自分なりにまとめたにもかかわらずまた読みたいと感じる場合、その書物からの消化吸収が結局は足りないのだから、そのときはまた買えばいい。

 ろくに読まれず飾られるだけの本が不幸だとは思わないが、美品として飾られ続ける本をわざわざ再び買う人はいないだろうから、作者からすれば同じ本を何度も買われる方が幸せではあろう。
 

 ちなみに書架への戻し方、整理分類の仕方も他の人とは全く異なる(同じことをしている人を見たことがない)が、これも以前書いたことがあるので今回は割愛。
 

【市場価値がないことの価値】

 極端だろうと思う(そういう自覚はある)が、それが僕のモノとの接し方であり、人間に対してもだいたい似たような価値観で接している。
 たまたま人間の多くは僕に対してあまり有用なコンテンツを提供してくれない一方、僕が彼ら彼女たちにとって一定以上の有用性を持っているように錯覚されることもある。
(愛されキャラだと諦めるしかない)
 不満かといえばそんなことはない。不公平とも思わない。

 誰かから見て何の役にも立たない退屈な他人というのはごく一般的なありようだと思うし、他人に面白く思われるため、好かれるために媚びるようなありようを否定する気はないものの素直に低俗とは感じる(低俗であることを悪いこととも思っていない)。
 むしろ自分以外の誰かが自分にとって役に立つ、有用な機能を持った道具であり重要なコンテンツだと徴用したくなる方が危険な兆候だと僕は思うがどうだろう。

 たとえば年収や顔の美醜(あるいは若さや学歴や家柄など)で結婚相手を決めるとかも、他者を自分にとっての道具として値踏みする、一般的な(かつ危険な)傾向のように観察される。
 ホームセンタで電動工具を選ぶようにして友人や恋人や伴侶を選ぶ(選ばれる)のだとしたら、選ばれて嬉しいだろうか。選ぶことの優位性を感じるだろうか。
 無論、それらのカタログスペックに意味がない、というわけではない。
 カタログスペックが優れているに越したことがないのは人間も同様である。

 ただ他者から選ばれる道具として自分を磨くこと、他者を道具として値踏みすることがシンプルに危険な兆候だと僕は思うのだ。
 人間は人間を道具にすべきではない、という哲学があるから。
 それでも人間を道具使いしたい人はなくならないし、よりよい道具としての自分を演出し、周囲からの賞賛を勝ち取りたいという人もなくならないだろう。
 それはその人たちの人生であり自由である。好きにすればいい。

 少なくとも僕は、他者に「僕にとっての有用性」を必要としない。
 役に立たなくて全然構わないし、見惚れるような優美な機能(外観に限らず、働きや所作が美しい哲学を反映している人は少なからずいる)があれば素直に見惚れる。
 思いやりや優しさとしてなんとなく語られる人間の善性というのは、すなわち外観によらない、心理的にも美しい働きかけではないだろうか。(働きかけといっても「職安に行ってますよ」ということではない。むしろ早く働け)

 ために僕は周囲の人間に媚を売らないし、媚びるような人間を嫌う。
 彼ら彼女たちは、己の媚びることと交換する何かを求めているのだ。僕はいずれも必要としていないのに。

 話を戻すと、コンテンツにはそれを作る側と消化吸収する側があり、僕は他者の持つ情報の多くについて消化吸収する必要を感じていない。
 取るに足らない、ということが僕にとっては結構重要なのだ(「取るに足らない」と「重要」というのは、対義的ではあるものの)。
 これは先の「媚びへつらうこと」にも通じている。

 取るに足らないありように対して感じ入ることはある。
 たとえば飛ぶ鳥を観察していると、そのかすかな翼の使い方などに見惚れることが多くあるが、彼らはべつに僕のために翼を広げているわけではなく、己のしたいこと、しなくてはならないことをしているだけであって、取るに足るありようを体現することや他者の歓心を買おうとしているわけではない。同じことを他者にも思い、感じるのだ。

 一方市販されている情報体は、そもそもの成り立ちが異なる。
 すぐれた情報として凝縮されているから価値があり価格が付けられ、販売されている。
 料理に例えると、市販されている有料のコンテンツはその多く、非常に味が濃く作られている。滋味深く、栄養価も高い。

 一方、市販されていない天然の我々は無料だが、そのぶん味わいが薄く、栄養価もそれなり、ということになる。
 それが悪いのではない。それがいいのだ。
 フィクションやメディアを賑わすような人のありようは、エンタテインメントとしては愉快かもしれないが、そんなことを躍起になってするのは ── 趣味や仕事だというなら仕方ないと思うが、他人のウケを気にしてするのはキモチワルい。
 それ(媚びて受けを狙うこと)をすることそのものもそうだが、そうしなくてはならないという空気を醸成している環境やその哲学がキモチワルい。

 だから僕は周囲の人が僕にとって取るに足らず、好き勝手に振る舞っているありようを好ましく思うし、僕も同じように取るに足らない存在であることを望んでおり、それを実現している。
 市場価値がないことに価値がある、と思っているわけだ。つまり一般な多くの人やその人生は、市場価値がないことに価値がある。


<攻防の境界線>

 書物をはじめとする市場価値のある(価格のついている)商品は、市場価値のあることに価値がある。次元軸が違うのだ。
 鳥の飛ぶ姿は美しく、その造形も洗練されていて素晴らしいが、ありふれていて市場価値はない。
 その姿を観察することに価格もついていない。

 書物はどうか。
 一般的に、価格が設定されているものはフリーペーパーよりもよほど滋味深い。味わう価値がある。
 TVや Youtube などは有用性の高い情報もないわけではないが、どうも勿体を付ける風潮がある。
 CMに入る前に「この真相は!?」などと煽っておいて、大したことのない「ありふれた」結末を語って笑いに落とそうとする。
 くだらないと断ずるつもりはないが、浅くて滋味もない。栄養価が低いのだ。

 それでいて「我々は何の役にも立たないありふれた存在です」という謙虚さはない。
 TVを(アンテナも含め)持たなくなった理由はそこである。
 NHKも自身を「我々は何の役にも立たないありふれた存在です」とは言っていない。そうでしょう?







 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
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[Engineer]
  :青猫α:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Engineering-Form-Life-Link-Mechanics-Recollect-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Generator-
 
[Object]
  -Book-Computer-Contents-Human-Tool-
 
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[Cat-Ego-Lies]
  :夢見の猫の額の奥に:
:本棚からあくび:
 
 
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