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//TimeLine:20160221

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自然なままでは死んでしまうが、不自然ならば生きていない。
Artificial human nature.

Written by BlueCat

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::「ツキコさん、ワタクシはいったいあと、どのくらい生きられるでしょう」
 突然、センセイが聞いた。センセイと、目が合った。静かな色の目。
「ずっと、ずっとです」わたしは反射的に叫んだ。隣のベンチに座っている若い男女が驚いてふり向いた。鳩が何羽か、空中に舞い上がる。
「そうもいきませんでしょう」
「でも、ずっと、です」





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//[Body]

 一緒に長生きをしてくれなくては嫌だ、と言った恋人が以前、いた。
 たいそうアタマのデキのワルい人だ、と私は思ったのだったか。
 おそらく。いや間違いなくそう思ったろう。私は呆れたことだろう。
 私のことをきちんと観察もしていなければ、ろくに知ろうともしていない、なんとも短絡的で直情的な人もいたものだと内心、嘆いたかもしれない。
 それでもまぁ、恋人というのはかわいらしいイキモノではあるし、だいたいはいいイキモノでもある。
 だから私は「わかりました、ではできる限りには」と答えただろう。

 もとより自分が短命であることを、僕は周囲の人間にきちんと伝えるようにしている。

 通常であれば、今の僕の年齢までに一度は遺伝性の体質を原因とした大病に臥し、たいていは60代のうちに鬼籍に入ること。
 遅くとも80代にはこの世を去ること。
(そうなのだ、我々の家系は医学の進歩と共に、長命になる傾向が出てきている)
 ひらがなも書けないうちから、それを目にし続けてきた僕にとって、死は、あまりにも身近な存在だった。

 ジェダイの騎士がフォースと共にあるように、死は常に私のそばにある。
 何のことはない、私に限らず、実のところすべての人がそうなのである。
 ただ、たまたまそれを自分の運命として知らないだけで、通学途中で車にはねられて死ぬ子どももいれば、庭木の剪定の最中に脚立が倒れて死ぬ大人もいる。
 友人知人恋人に殺される人もいれば、見ず知らずの人に殺される人もいる。
 病院で処置を間違えられて死ぬ人もいれば、病院で処置を受けられず死ぬ人もいる。
 食中毒や食物アレルギーのショックで死ぬ人もいれば、餓死する人もいる。
 まだ生きたいと悔やみながら死ぬ人もいれば、何も考えられぬまま死ぬ人もいる。

 科学技術を利用したり、個人的な努力によって、それは少しずつ遠ざけることはできる。
 でも、避けることはできない。遠ざけられるかもしれないけれど、ないことにはできない。

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 猫を飼うこと、猫を育てることについての僕の考えを、以前ブログに書いたことがある。
(その文書はすでに存在しない)
 ペットというのは、たいていは、主人より先に死ぬ。ほとんどの場合はそうだ。
 その意味において、飼い主は幸せだと僕は思う。
 なぜなら飼い主を失い、引き取り手もない動物たちは、果たしてどうなるだろう。
 あるいは僕のように一人暮らしの人間の場合、そもそも僕の死の発覚が致命的に遅くなることだってあり得る。
 できることならば、僕の死体を平気で食い散らかすようなペットであればと思うけれど、必ずしもそうなるとは限らない。

 そういったことを踏まえて、僕は自分の猫を育てた。
 僕がいつ死んでもいいように。
 僕以外の人に、きちんと、かつ、とても愛されるように。
 死に限らず、何らかの事情で僕と離ればなれになっても(仮に捨てられて野良になっても)可能な限り自力で生存し続けられるように。

 前者は厳しく躾けることで成し遂げられる。
 後者も日々の暮らしの中で学習させることができる。

 たいていの猫は僕より先に死ぬのだけれど。
 でも僕は彼ら(あるいは彼女たち)の死を看取ることに、過剰な思い入れをしない。
 動物にとっての死の意味というのは、人間の持っているそれよりも、ずっと軽い。
 なぜなら彼らにとって(僕にとってそうであると同じように)死はいつもそこにあるにもかかわらず、彼らの知らないものだから。

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 人間だけが、死を忌み嫌い、精神的に遠ざけ、隠そうとしてきた。
 生に執着するのは生命の基本ではあるけれど、反対の概念である死を、人間は弄ぶことができるから。
 ために「生に執着」するだけではなく「死を意識して」それを遠ざけようと考えてきた。

 生命活動は現象であるけれど、死は生命活動の停止、生命を確認できない状態を示しているだけであって、死という形を持った存在や何らかの作用によって新しい現象が発生するわけでは、本当は、ない。
 だから逆に、死という概念を弄ぶことができない動物は、自殺をしない。

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 ペットは多くの場合、飼い主よりも先に死ぬ。
「人間性」の豊かな人たちは、その死に過剰に思い入れをし、つまりは失われた生を過剰に悔やむだろう。
 それはそれで、確かな痛みだろうとは思う。

 では、逆の場合はどうなのか。
 飼い主を失ったペットは、どうなるのか。
「人間性」を持たない彼ら(彼女たち)は、主人の死を前に、たいして心を痛めることはないだろう。
(駅で主人を待ち続けていた犬などは、習慣が抜けないだけのただのドジっ子と考えられなくもない)

 ただ、彼らペットの生命が危ぶまれることは避けなくてはならない。
 彼らが必要のない苦痛を受けることがないようにしなくてはならない。
 それがペットを愛するということではないのだろうか。

 だから、他の人に懐かないような躾をして(自分が愛されていると勘違いして)得意になって自慢するものではないのだ。
「私のいうことしか聞かない」ような愚かなペットにするべきではないのだ。
 飼い主の命令を無視して他者に危害を加えるような獣に育てるべきではないのだ。

 そしてそうした姿勢は、何も、動物に対してのみ発揮されるものでもないように思うのだ、僕は。

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 たとえば僕が死ぬとそのくだらない死体を前に、恋人やら友人やら姉妹やらが馬鹿ヅラを提げてわあわあ泣くだろうとは思う。
 彼ら(彼女たち)は死の概念を過剰に弄ぶから。
 でも、彼女たち(彼ら)は僕が死んだからといって死なない。死ぬわけがない。死は概念だから。
 僕の生命活動の停止と、他者の生命活動には、たいした相関性はない。
 仮に「死ぬほど悲しい」と言ったとしても「悲しさで生命活動が停止する現象」なんてものは、そう簡単には起こらない。
 でももし仮に、残された配偶者や子どもがいたらどうだろう。
 悲しいかどうかは別にして、生命活動が低迷する危機が、困難になる危機が、現象として起こりうるのだ。
 それを避けるだけの技術や考え方というものを彼女たちが持っていないなら、世を去る僕がそれを残すべきだろう。

 恋人だって、死んだ人間にいつまでも心情的に囚われているよりは、さっと忘れる(少なくとも必要なときには忘れているフリをする)程度の賢さが必要だと 思うし、何より、他の人にもきちんと愛されるような人(忘れるフリというのはそういう意味だ)であり続けるべきだと思うし、独りでいることを恐れるあまり 悲嘆に暮れ続けるような愚かしい人間でいて欲しいとも思わない。
(死んだ者は、自らの死を悲しんだりはしないのだから)

 それに(少なくとも青猫工場を読む人には)自明のことと思うが、恋人や友人(あるいは親友)や家族が何人いようが、人間は孤独だ。
 むしろ人数が増えれば増えるほど、時に孤独は色濃くなる。
 自分の道を進むことが、彼らすべての意見に逆らうことに等しくなるとき、1000人いた味方は、1000人の敵になる。
 あるいは1000人の味方が、1000人の(親しかったはずの)無関心な他人に思えることもあるだろう。
 誰もいない孤独ほど、軽くて扱いやすいものはない。

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 他者に長生きをして欲しいと、平気で言える傲慢を僕は考える。
 他に恋人を作らないで欲しい、あなたが作るなら私も作るなどというようなことを平気で言葉にできる愚劣さを僕は考える。
 あるいは、自分が先に死んだらどうしよう、恋人が他の誰にも愛されなかったらどうしようと考える僕も、ある種の傲慢を抱えているのだろうけれど。
 それでも僕は、前者の傲慢を自分に許すことはなかったし、今後もないだろう。
 ために僕は、常に自分の恋人よりは長生きすることを考えつつ、同時に自分が明日死ぬことを考える。

 観察すれば分かるが、僕は過剰な暴飲暴食をしたりしないし、喫煙も致命的ではない。
 過不足のない運動を心がけ、自分の身体や精神の状態を適切な範囲内に制御する努力を惜しまない。
 それは、誰かに命令されたからではなくて自分の身体がそれを求めているからだ。
 人間に制御できるのは、自分だけでも手に余るだからだ。

 しかしどういうわけだろう。
 他者を制御しようなどという傲岸な概念を弄ぶ人間ほど、自身の心身さえまともに制御できていないように観察されるのは。

 むろん何が正しいカタチだと断言することはできない。
 ただ、姿勢から力学を学ぶことはできる。
 力学から運動を制御する術を学ぶこともできる。
 それらの技術知識を、現象の制御だけではなくて、概念や思考、精神や哲学に適用することもできる。
 確かに時間はかかるだろうけれど、運動を続ければ、おのずと姿勢もカタチも変わってゆく。
 それが有機体、生命の優位性だ。
 機械などの(傲岸な意識によって創造された)アーティフィシャルな存在にはできないこと。

 生まれながらにして生命を持たない彼らには、変化することも、死ぬこともできないのだ。






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::「ずっと、でなければ、ツキコさんは満足しませんでしょうか」
 え、とわたしは口を半びらきにした。センセイは自分のことをぐずだと言ったが、ぐずなのはわたしの方だ。こういう話をしているときなのに、しまりなく半びらきになるわたしの可哀相な口。
 いつの間にか母子は姿を消していた。日が暮れかかっている。闇の気配が薄く薄くしのびよろうとしていた。
「ツキコさん」と言いながら、センセイが左手のひとさし指の先っぽを、わたしのひらいた口の中にひゅっとさし入れた。仰天して、わたしは反射的に口を閉じた。センセイはわたしの歯の間にはさまれる前に、素早く指を引き抜いた。
「何するんですかっ」わたしはふたたび叫んだ。センセイはくすくす笑った。
「だって、ツキコさんがあんまりぼうっとしているから」
「センセイが言ったことを真面目に考えてたんじゃありませんか」
「ごめんなさいね」
 ごめんなさいね、と言いながら、センセイはわたしを抱き寄せた。
 抱き寄せられたとたんに、時間が止まってしまったような感じがした。
 センセイ、とわたしはささやいた。ツキコさん、とセンセイもささやいた。
「センセイ、センセイが今すぐ死んじゃっても、わたし、いいんです。我慢します」そう言いながら、わたしはセンセイの胸に顔を押しつけた。




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[出典]
~ List of Cite ~


 文頭文末の引用は、
「公園で」From「センセイの鞄」(p.248-249)
(著作:川上 弘美 / 発行:文春文庫)
 によりました。






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[NEXUS]
~ Junction Box ~

[Traffics]