210929

 

 昨晩、22時頃には気絶するように眠り、未明3時頃起床。

 眠くなると眠ってしまい、もう眠くなくなると起きる生活なので、時間はまちまちだが、やはりというか、目覚めた時間帯の気温が心地よいのは重要だと思う。

 

 陽が出てから壁作業を進めようとするが、断熱材を貼り付けた段階でやる気がなくなる。

 2枚中1枚、2カット必要な工程のうち、1カットをし忘れたままボンドを塗布してしまい、結局切り出し直すことにしたあたりから、なんとなく気が向かなくなってしまった。

 もっと実直に作業をしなくてはならないのだけれど、どうもアタマがぼんやりしている気もする。

 だいたいこういうときは疲れが残っているか、新しい疲れが(未明から現在までの間に)蓄積しているか、といった原因があったりはするものだが、その時点では気付かないものでもあるので、しばらくぼんやり過ごす。

 

 しばらくするうち強い眠気に襲われ、カフェイン剤を飲み、床にしばらく転がる。

 

 実のところ、向精神性の薬剤として、僕は市販のカフェイン剤を飲むことがある。

 もちろん正しい用量しか使わないし常飲もしない(する必要も感じない)けれど、炭水化物を摂取したあとに自動車の運転や工作機械等の操作がある場合や、それ以外でも急激な眠気が発生した場合は、規定量を飲むし、気分が鬱屈した状態があまりに長く続く場合も、カフェインで調整することがある。

 

 いつだったか姉に「猫くんも、相当に双極性障害っぽいと思うよ」とは言われているし、まぁ、思い当たるフシがないわけでもないのだけれど、僕は基本的にこうした閾値の曖昧な肉体的/精神的分類について、日常生活に著しい不具合を発生しない限り、自身にそのレッテルを貼ることを許さないようにしている。

 

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【今日のお題】

 

○ 自律なるワタクシと自在なる価値観

○ ラベリング嫌い

○ 性の多様性なんてくそくらえ

 

※セクシャリティに関する話題、生命倫理に関する話題、特殊性癖に関する話題を含みます。

 

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 子供の頃から病弱で、自分は父上と同じように心臓の機能障害を起こして死ぬと思っていたので、僕は肉体を追い込み酷使することを嫌った。

 単に自身と周囲に対して「嫌だ」と意思表示をする、ということではなくて、むしろ周囲に対しては大丈夫なフリをしつつ、過剰に苦しそうに振る舞う(演技する)ことで肉体的に楽な状態を維持した。

 ために全力疾走や長距離走など、強く、あるいは長く肉体を酷使するようなことはなるべくしなかったし、しようとしても仕方が分からず上手く出力できなかったし、仮にそこで無理をすると、長く体調を崩した。

 

 しかし20代後半から少しずつ ── ずいぶん遅いけれど ── 肉体の使い方を覚えて、従前に比して負荷の高い運動も可能になり、身体の使い方そのものも上手になった。

 つまるところ僕は、過剰に病弱なフリをすることで、自分にも他人にも「病弱なイキモノだ」というレッテルを誇示し自身の身体を守ってはいたけれど、それは過保護だったかもしれないとも思い知ったのである。

 

 ちょうど一人暮らしを始め ── 当然様々多少に挫折を繰り返しはしたけれど ── 独力で対応することができることを実感する機会も多かった。

 だから自分に過小のラベリングをするのはやめようと思ったのだ。

「できない」と思ってしまえば、しないことになり、結果的にそれは成功しない。

 

 しかし「できない」という能力や状況があるから失敗するのではなく、「できない」と思った結果、その瞬間に挑戦する選択肢を失って、失敗すらせず成功しないことがある。その現象を嫌った。

 分からないなら分からないなりに、収集された情報が不完全なら不完全なりに、その行為を繰り返す動機があるならば、失敗は失敗で、成功は成功で、フィードバックを続けることで成功の確率が上がるという当たり前の事実を体験したわけである。

 結果的に僕は利き腕側の肩を骨折しようと、電気が止まろうと生きながらえたし、燻製を作ることもできるようになったし、エスプレッソマシンを上手に操作できるようになったし、三角関数をひらめいたりもしたし、嫌いな食べ物や生き物を次々好きになるというメソッド(笑)を考案したりもした。

 

 実のところ、食べ物の場合は「嫌いだ」という認識を意識的に中和して、その先入観のない状態での肉体の感覚(味覚)を再評価し上書きすることで、徐々に味覚を再構築することができる。

 身体感覚が後押ししてくれさえすれば、比較的容易に克服できるのではある。

 

 ところがそれ以外の先入観とは、シンプルに記憶と価値観に依存しているものなので「嫌い」を「好き」にシフトするのは容易ではなかった。

 僕の場合は蜘蛛やゴキブリがその筆頭に上がるのだけれど、蜘蛛を好きになるのに5年くらいは必要としたし、ゴキブリは今でも「好きではないけれど嫌いでもない」くらいの距離感でのお付き合いがやっとという状態である。

 

 これは最終的に、それ以外の全ての価値観に対しても共通していて、僕は周囲の人と比較すると、今は「好きも嫌いもあまりない」イキモノだろうと自己認識している。

 自身の行動や価値観に対しても、他人の行動や価値観に対しても。

 ただし本来的には好き嫌いをはじめとした感情や感覚が非常に強い人間だったのは事実で、自分の意識に上らない部分の優劣や好き嫌いの感覚があった場合は、制御しがたい部分がある。

 

 たとえば身体性に起因した部分で、僕は自分の皮膚の状態が長く清潔に保たれないとすぐに精神的にも不調になる。皮膚粘膜の感覚を普段から細かく意識したりはしないようにしているが、皮脂や塩分、花粉やその他の汚れが付着しやすい春から秋までは、気温や湿度ではなく、皮膚が不快を覚えやすいために好きになれないのである。

 これは認識を改めようにも身体感覚がそれを否定するため、好きになることができない。

 

 またいくつかの特殊な価値観(マイノリティに該当するような嗜好)のうち、倫理的にどうしても許容できないものがいくつか存在している。

 たとえば人肉食などは ── したいとは全く思わないが、遭難などの状況によりどうしても必要になったとしたら ── 案外抵抗なくできそうな気がする。したことがないから絶対にできるとは断言できないが。

 生き物を殺すことも、実はさほど抵抗がない。

 釣りをして動いている魚を捌くことですら3匹目くらいから心が痛むのだけれど、目的や理由が明確な殺生については問題なくできる気がする。

 バッタや蚊のように、殺生することそのものが二次的にであれ目標になるケースもある。

 魚を生かしたまま自分の空腹を満たすことができるならそれが一番なのだけれど、相手の肉体を食べることが一次目的である以上、どうしても殺すことになってしまう。

 害虫の場合「こちらに害為す虫がいない」という一次目的を的確に達成する最短の手段が「相手を殺す」ことなので、いかんともしがたいわけだ。

 

 趣味的、あるいは性的嗜好に関しても、コスプレ(性的嗜好ではない)が趣味の女の子であるとか、同性(女性)と並行で恋愛する女の子であるとか、SM趣味の女の子であるとかと普通に恋人でいることが可能だった。不倫等についてもメディアで騒いでいる現象を見て、その騒いでいる様子の方が「下品だな」と感じるくらいである。

 人形性愛も「ラブプラス」や「Beatless」といった作品を体験するうちにさほど気にならなくなった(以前は嫌悪していたが)。

 

 一方で、児童性愛や児童売買春については、とにかく不快感を覚えるし、これを克服する気にはさすがにならない。

(未だに年下の女性を恋愛対象として積極的には認識できない理由もこのあたりにある。よくよく考えれば男性に恋慕の情を抱くこともあるわけだから、年下はオール不可なのかもしれない)

 これには明確な理由と、間接的な体験や記憶に起因する価値観があるのだが、僕の中で未だに整理されていない項目 ── なにせ僕が生きる上ではまったく必要とされない価値観だった ── なので明文化できない。

 もちろんそれを明文化することは露悪趣味であり、苦痛ですらある。

 にもかかわらず僕はクローズドスペースに文書を書いて保存することを恐怖しているのでオープンスペースにそれを書くだろう。少なくとも書かない選択はない。

 ただ、いまだにそれには能わず適わない。

 

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 ラベリングに話を戻すと、僕は自身に対するラベリングを拒否するようになったのだ。だから誰かによるラベリングを無視するようになった。

 

 もちろん相応の病院で相応の検査診断を受ければ、相応のレッテルが貼られるだろう。

 発達障害のいくつかや、いわゆるHSP、双極性障害だって該当するかもしれない。

 ただそれらのレッテルがあったところで僕の日常がラクになるわけではない。

 なぜといって、僕は現在の肉体依存で生きているため(どんなに「私は本当は、猫なんです!」とラベリングをしようとも)、「この不便な僕」を使ってしか生活できないからだ。

 

 ガスや電気が止まれば(できれば止まる前に)働いてお金を稼いで支払うしかないし、それは誰に頼れるものでもない。

 食べるものがなければ、働いてお金を稼いで ── あるいは直接の行動によって ── 材料を調達して調理するしかない。

 住居に不満があれば、はやり経済を媒介にするか、自力で何らかの手順を踏んで設定する必要が出てくる。

 いずれも可能な限り自分を(自分だけを)頼るのが確実である。

 他人がアテにならず、信頼できないとは言わないが、可能な限り自分だけですべてのことをするのは、少なくとも僕にとっては当たり前のことなのだ。

 

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  実のところ、経済活動についてだけは現在、仮想奥様の領分としている。

 これもいずれ明文化するのかもしれないが、経済至上主義を否定する僕の価値観と、不労所得という不慣れな経済活動を取り扱う価値観の差異にクッションが必要だから、というのが正直なところである。

 相反する価値観は仮想マシンのOSよろしく別パッケージでパーティションしておきましょうという、記憶媒体のように手荒な使い方だ。

 

 長らく若隠居や不労所得に憧れ、あるいはそれを実現しようと思ったりもした(結果、実現してしまったのだ)けれど、「え? 玄関なのに急にそんな迫られても、あっ、そんなまだ奥さん、ボク心の準備がまだできてなくて、あっ。近いですよ奥さん待ってください、あっ」みたいな感じなのである。

 

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 日常 ── あるいは人生、と置き換えてもいいだろう。人生とはすなわち日常の積み重ねのことを言うのだから ── の自発的行為/行動/結果について、誰かが ── あるいは自身から ── 貼り付けたレッテルが、役に立った試しはない。

 なので、精神的/肉体的/趣味嗜好のマイノリティなレッテルを貼ることで、コミュニケーションや日常 ── 人生 ── が優位に展開するというのならそれはそれでいいだろう。

 たとえば重度の双極性障害なら障害者手帳ももらえるかもしれないし、たとえば僕の場合、仮に双極性障害だったとしてもカフェイン剤と文書をひたすら書くことで制御を続けることができる。

 たとえばHSPだったとして、僕は自分の肉体についての感覚や特性、記憶したことをフィードバックして快適な状況を作りつつ周囲とのクッションをコミュニケーションや物理で行えば良いし、発達障害はまぁ ── 僕が果たしてそうなのかは不明だけれど ── 慣れですよこんなもの。

 

 思考し、行動する。

 シンプルにこれだけである。

 

 ただ思考は煩雑で、煩悩も割り込むし、気分や感情にも左右されやすい。

 行動は基本的に肉体依存で、個人のそれには限界もある上、僕の身体は(上を見ればキリがないが)頑強とは言い難い。

 

 それでも僕は、おそらく子供の頃から親にさえあまり頼れない環境だった ── 事実、高校時代には実技系の資格試験のためのお金(数千円だ)をもらうことさえためらって、ほとんど何の資格も取らなかった ── ために、自分で判断し、自分で処理をスタートし完結させるように淘汰された。

 並列宇宙があるなら、ほとんどの僕はもう、死んでいるか殺されているだろう。

 たまたま僕は、適者として生存を続けている。どちらが良かったのかは分からないけれど。

 

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 せっかくなので性自認違和についても書いておこう。

 あれもセルフラベリングには違いないのだ。

 肉体準拠で考えれば、仮に僕がいかなる性自認を持っていようと、他者が肉体をして認識する性別に準拠して生活するのが ── 少なくとも僕には ── もっとも適切である。

 たまたま性的指向は肉体準拠でヘテロであるから、性自認については無視している方が僕には都合が良いし、今の年齢(四捨五入で齢五十である)になってまで自分の性別について考えているのはどうもアニマルっぽい。まぁ俺は猫だけどよ。

 

 ああいうもの(セックスに過剰に意識を削がれる現象および意識行為)は不惑になったら卒業しても良いのではないのか。

 確かに肉体はいつもあるものだし、性そのものは肉体に付随している。

 思い人と身体を重ねることの悦びは、他のもので代替できるものでもない。それは確かだろう。

 しかし性(セックス)というのは、つまるところベッドの上(あるいはまぁ、それ以外の全てのどこか)で、誰か(可能な限り思い人であることを推奨するが)と身体を重ねるときに必要な識別子であって、本来はそれ以上でもそれ以下でもない。

 

 たまたまそこには相手というものが存在し、ためにコミュニケーションが発生し、ためにコミュニティ(あるいはコミューン)におけるラベリングが発生するため、自身や相手の持つ識別子の役割が複雑化し、結果として認識が肥大したのだ。

 だから性別の認識に自己と他者とで差違が出る。

 つまり性別そのものは(キメラを含め複雑なものも存在するが基本的に)XXとXYのみであるのに、コモンから外れるようなラベリングが認識上発生する(している)だけなのだ。

 

「人間の性別が複雑化した」と認識している人もいるだろうし、社会現象としてちょっと大袈裟で面倒くさい時代だと個人的には感じている ── 無論、かつての馬鹿なマッチョ的時代がそれを醸成する土台になっていて、だからこそ前時代的なフェミニズム活動が未だ馬鹿げた存在証明をしたりしているわけだ ── けれど、これらは過渡期だからだと考えたい。

 端的に言えば「ベッドの上でしか意味を持たない識別子を、どこまでベッドの外に持ち出して使うのか」ということで、それについての線引きを定義できる知性が共有されていないのが現在の問題なのだと思える。

 

 トイレや更衣室は肉体準拠の場所だ。

 だから精神準拠の性別(性自認)に合わせる必要はないと僕は思う。

 卑近な例で、僕は性自認が比較的女性 ── 面白い表現だな ── なのだけれど、仮に自身が「明らかに性自認が女性で、かつ明らかに肉体が男性であった」場合を考えるとなおさら、女性用施設に男性の肉体が侵入することに忌避感を覚えて然るべきだと感じる。

 なぜ男性のままの自身の肉体をして「私は精神が女性なので女性用施設を利用できないことは人権侵害だ」と言えるのかが理解できない。言い方を変えるとアタマオカシイと感じる。

 性自認が女性だとするなら、女性のコモンセンスとしての気持ちや感覚を理解していて然るべきで、自身の人権を盾に「女性用施設に男性の肉体が侵入する」という異常な事態や論理を正当化して押しつけていいとは思えない。

 

 せめて性器を切り落としてからにして。

 髭を生やしていても良いから性器は切ってきて。

 僕がガールだったらそう思うのだ。

 

 コミュニティの中で認識世界上の性別が複雑化したというなら、物理世界の性別についてをこそ見直すべきだろうし、その肉体準拠の世界のコミューンにおいて肉体が男性なら男性準拠の、女性なら女性準拠の扱いに従うべきだろう。

 だから先日のオリンピックであったか、性自認が女性の旧男性が物議を醸したのではなかったか。

 

 成人した女性の多くは受胎する機能を有し月経があり、それに伴う精神状態を含めた肉体的変化が存在する。保健体育か。

 男性の多くは女性を受胎させる機能を有する。保健体育だな。

 肉体準拠の性別はだいたいこんなところだ。ためにいかなる神の思し召しか、肉体準拠の施設の一部は男女の別が存在している。

(ちなみに海とプールと混浴と飛行機とバスは混合 ── 性差識別なし ── で良くて、トイレと更衣室と公衆浴場と電車には肉体準拠の別があることについて僕に尋ねられても困る。正直、分からないのだ。下着と水着の違いのほうがまだ分かる。パブリックとプライベートの差だからだ)
 

 そして認識世界のコミューンにおいて精神が女性(あるいは男性)であるというなら、性別に準拠して著しく侮蔑的なコミュニケーションが発生したら怒っても良いだろう(まぁ、そんな低能が当たり前にコミュニティからいなくなる世界であってほしいものだけれど)。

 いずれにしても性別という識別子は、人間の要素のうちそんなに大きな要素を占めていないはずなのだ。

 そんなにオマエらぱやぱや(性行為のことです)好きか? ぱやぱやか。ぱやぱやだけか?

 人間の価値や機能や行為や評価は、性別でそんなに大きく変わるだろうか。

 

 10代20代の若者なら分かるけれど、本来、性自認(認識世界の性的識別子)について敏感なはずの彼らの方がむしろ静かではないか。まぁ黙ってぱやぱやしているだけかもしれないけれど、むしろそれでいいのではないのか。いや良くない場面もあるか。

 

 いずれにしても、性別というのは、きわめてプライベートな領域(だいたいはまぁ、ベッドの上とか、リビングだのキッチンだの書斎だのバスルームだのだとは思う。まぁ、趣味趣向が多種多様なので、このあたりについて今回は厳密に扱わないことにする)で、かつ相手が存在する場合にのみ適切に機能する。

 性という機能は、肉体準拠で作用する。

 原則として手を繋いだだけで妊娠したりはしないし、思い人(性識別子のヘテロかどうかを問わず)の声を聞いただけで妊娠することもまた、ないのだ。

 

 そのプライベートな領域での行為にのみ意味を持つはずの識別子を現実世界に持ち込むことが(もちろん就労している女性の場合は肉体準拠で持ち込まざるを得ないことが先のような状況に付随して往々にあるのだけれど)本来は特殊なことであり、その特殊(マイノリティではなくパティキュラ、あるいはスペシャル)を普遍として顕在化するのが近現代の社会の方向性だ。少なくとも男女は同権であるわけだから。

 

 一方で、認識世界で過剰に肥大した性という識別子については、ヴァーチャルな性別として確固たる居場所を与えればそれで満足するケースも多いように思う。

 旧来でいえば、肉体準拠のホモセクシャル(必然に認識世界でもホモセクシャル)は、その居場所(つまりは身体を重ねられる思い人であるとか、認識を共有できるコミュニティであるとか)が存在していればそれで社会と折り合いを付けていられた。

 認め合う環境があれば、不満は発生しない。自認とはそういうものだ。

 

 そして肉体に準拠しない性自認を持つ者はすべからく、社会に対して謙虚であるべきだとは思うのだ。

 なぜといって結局のところ、どんなに社会にそれを訴えようとも、自分自身という単一の個の中にしか認識世界の性別なんてものは存在していないのだから。

 アタマの中にしかない絵空事をコミュニティに持ち込んで押しつけるのは、ママゴトでしかない。しかも比較的レベルの低いママゴトだ。

 

 仮にそれがホモセクシャルのパートナーであったとしても、だとすればなおさらのこと、肉体準拠の性別という色眼鏡(あるいは識別子)によって自分という個人の価値が一層高い意味を持つとは限らないということを知っている方が、自身も、あるいはお互いの関係も、そして何より社会との向き合い方も、より健全で豊かなものになるだろうと思うのである。

 つまり「男だから」「女だから」という理由を越えた人間関係の方が、性別に依存した(あるいは性別が優位性を持つ)関係より親密で、真に孤独を越えるものだということだ。

 なぜといってそれはヘテロセクシャルにおける親密な人間関係と、何ら変わるものではないのだから。

(ちなみに僕の場合、レズビアンもヘテロじゃないからホモセクシャルと呼んでいる。たいした必要もないのに見識高そうに名前を分けるのは趣味ではない)

 

 すなわち「性別を持つイキモノ」である以前に、人間は人間なのだ。

 

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 現代の社会は「性の多様性を受容しよう」という指向である。
 実のところ、僕はこれに全く賛同しない。
 つまるところこれは「有色人種にも人権を」という運動と同じで、前時代的な、いわば達成前のプロセス段階だからだ。
 
 未来の社会における認識世界上の性識別子なんて「中指よりも薬指の方が長いか短いか」くらいの些末な問題になっていて然るべきだろう。
 そのとき、今ある肉体準拠の施設がどのようになっているかは知らない。
 それらの施設の別が、防犯のためではなくデリカシィのためにのみ存在していることを切に願う。
 それが文明文化であり、豊かさではないのか。
 
 
 
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 余談。
 
 浄化槽の点検清掃業者の方が確認したところ、ブロワモータが故障して停止しているらしい。
 昨日は「思慮深く所有者や使用者に気を遣って、見えないところでだけ働いている健気な機械に違いない」と思ってそう書いた。
 そしてそういう労働者は経験上、周囲から「あいつは仕事をしない」なんて言われたりする不遇に見舞われるのだが実は非常に有能なのだとも。
 
 しかし実際に仕事をしていなかったわけであり。
 
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 午後になってシャワーを浴び ── 昨晩、気絶するように眠ったため浴びていなかった。やる気が起きなかったのはこれが原因だった ── 建築資材の買い出しに行く。
 夕方、暗くなるまで電気系の工事。
 スイッチ系の配線に思ったより苦戦する。勉強不足か。
 センサライトをいくつか購入したのだが、センサの反応範囲が思ったより狭い上、光が強くて使いにくいことに気がつく。
 明日は撤去し、別の場所に再設置しようと思う。
 
 奥様(仮想)に「やはり書斎(机と椅子)があると、猫クンはそれだけで様子が違いますね」と言われる。
 たぶん褒められていると思うのだけれど、最近、奥様(仮想)はポケットから不意に蛇を出したりするので油断ならない。ちょっと身構える。