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TITLE:
現行システムの限界と美しさについて。
SUBTITLE:
~ Beauty and beast. ~
Written by BlueCat
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220709
【来客】
ひょんなことで知り合った営業職の男性がやってくる。半分は遊びである。
僕も営業職をしていたので「お金にならない訪問先」のありがたみはよく知っている。
もちろん利益を生み出す機会を与えてくれる顧客がありがたくないわけではない。
しかしビジネスをしていて「おカネおカネ」と数字勘定ばかりしていると、やはり疲れてくる。
そういうとき、遊びに行けばお茶を出してもらえて、些細な世間話に花を咲かせられる場所が、自分の所属している組織ではない場所にある ── つまり砂漠を旅する営業職にとってのオアシスのような存在なのだ。
なぜといって利益を生み出す機会にあっては、ビジネスマンたるもの仕事の話に終始してしまう。
顧客が商品やサービスを求めていればこそ、それ以外のコミュニケーションは必然に少なくなってしまう。
お金に関係しない情報のやり取りがあって初めて、それぞれの人となりが分かり、つまりは心地よい人なのか、善人なのか、居心地悪い相手なのか、悪人なのかを判断できるのだ。
僕は「お金をもらっても貴方のためには働きたくない」と思ったら最後、何もしなくなる傾向が徹頭徹尾あるので「対価をもらうから我慢しよう」という大人げが少ない。
敬意を払うに値しない対象など、視界に収めるのも厭なのだ。
(だから無職になるし、嫁も居ない ── とはいえ仕事も家族も、なくて暮らせるならその方が理想的だと思っているので、不満もない。つまり非常に満足している。仮想奥様は有能な上に優しくて可愛いし、飼い猫は思いやりがあって可愛いし、機械装置は甲斐甲斐しく働いて有能で可愛いし)
経済至上主義の弊害とはつまり、人間を見失うことである。
功罪のうちの功の部分は、日本が物質的に豊かになった、ということだ。
食べるものさえ物質的に存在しなかった時代があって、その時代にあって人々は、腹を下すと分かっていても野草を囓ったりして飢えをしのいだと聞く。
僕のように空腹に慣れている者には想像もつかないが、周囲を観察していても、空腹が何より耐えがたいという人はいる。
飢え痩せ衰えるという肉体的/動物的/本能的危機感や恐怖、どうやっても食糧が手に入らない不安や絶望や無力感については、確かに ── 眠り続けて栄養失調になった経験から ── 想像するに、我々のすべてがイキモノである以上、なかなか軽視できるものでもないのだろう。
そうした「本能的危機/恐怖/不安」をなくすべく集団が形成され、社会が構成されたはずで、一部の権力者がそれを握っていた時代に比べれば、多くの人が本能的にも安心して、恐れることなく、誰かのために役に立ったり、何か新しくて楽しいことをしたいと思えるような基盤ができたといえる。
経済は確かに、そういう社会を作った。
しかし経済至上の価値観が醸成され、やがて席巻するうち、物質が目の前にあるのに飢えるしかない時代になってしまった。
作る側だって経済ありきなので、タダでくれてやるわけにもいかない。どんなに「世のため社会のため。人命は何よりも尊い」と表向きに謳っていても、お金を持っていない飢えた人を見殺しにしなければ事業が存続できない。
内包する弱者を助けなければならないはずの社会さえも「弱者の線引き」がうまくできず「弱者のフリをする怠け者」を憎悪する者が現れて分断が進む。
結果として「弱者になること」そのものが悪だと断定する価値観まで生まれる始末で、すなわちそれは社会という存在意義の否定のようにさえ思える。
幸福だったはずの社会は、いつの間にか応力や摩擦でエナジィを損耗し、機能を損ない続けているように観察される。
部品の劣化がとくに酷いと感じる。
経年劣化、つまりは高齢化社会になったために、社会という装置の働きが悪くなった、という意味ではない。
新品の部品であっても、その精度が悪い。粗悪品が増えたように観察される。
これは個々人の能力が低下した部分もあるだろう。
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僕は昔から漫画雑誌を読む社会人を無能と断じている。
漫画そのものが悪いとは思わないし、漫画雑誌が悪いとも思っていない。
娯楽として愉しむぶんには誰がどこで何を読もうが文句を言う筋でもないだろう。
(実際、僕はエロ本だろうが官能小説だろうが漫画だろうがゴシップ誌だろうが、自分以外の誰かの書いた文書の載っている書物を読むことを「良いこと」と考えている)
しかし通勤途中や勤務日の休憩時間に、漫画雑誌を読むような成人は、結局その程度の仕事しかしない。
活字を読め、紙媒体こそ至高、ビジネス書や自己啓発書を読め、とまでは言わないが、自身の仕事の質(給与の高さではない)を上げる意識はないのだろうか。つまり生活の根底に「誰かの役に立とう」という気持ちはないのだろうか。
誰かの役に立ちたいというなら「今よりもっと」と思うことはないのだろうか。
それは社会的な観点から考えると、もっとも崇高な欲だと僕は思う(養っている家族も居ないのにな(笑))。
いやそんな社会なんて大それたものでなくていい。
目の前の仕事が、せめてもっと楽になるように工夫しようと考えたりはしないのだろうか。
顧客の、上司の、同僚の、最低でも自分自身の役に立とう、立ちたいとは思わないのだろうか。
結果的にそうした「自分さえ良ければ/楽ができれば/損をしなければ」という文化が出来上がってしまった。
「他人に対してむやみに施しを与えるわけにはいかない」という価値観は「怠け者を作らない」という点においても集団にとっては非常に有用で、必須と言ってもいいだろう。
一方で「施しはしないが自立の手段を一緒に考え一助となる」といった価値観がなければ、社会は衰退する。
集団は ── その善悪に関わらず ── 弱者を強者が食い潰す行動を増長するからだ。
安いモノを買うことは自分自身の値段を下げることだと僕は昔から書いていた。
購買行為において「自分が損をしない」ことは企業が吸収していた部分で、結果的に社会は安物を作って消費者の価値観を堕落させ、消費者たる従業員の価値を高めることができなかった。
今頃になって社会は「値上げも仕方ない」となったけれど、人々の就労賃金が上がるのはもっと先だから、社会はもっと殺伐とする可能性もある。
すべて政治のせいとは思わないが、この社会に属している一般的な人間は、僕が思っていたより、僕が期待していたより、阿呆が多い(端的な直喩についてはこの場を借りてお詫び申し上げます)。
各企業が価格競争をしている段階で「こんな流れで競争をさせて安いモノを買ってはいけない」と思う人が少なかったのかと思う。
いや観察の範囲では「安いんだからそれでいい」という人が圧倒的多数だったのは事実だ。
もちろん僕だって買い物に出かけて、158円の国産生姜の隣に98円の中国産生姜が(なお重量比で数倍して)置いてあれば、やはり安い方を買ってしまう。
ただその「安さの根底にあって見えない部分」を考えないことの愚かさについてはいかんともしがたく、しかし日々を ── 優雅にとまでは行かなくても ── 余裕のないままに送ることの危険性は感じていた。
まぁ、余裕がなさ過ぎてガスや電気が止まることもあったわけだけれど。
目先のこと、自分のこと、そういったことばかりにかまける人間が多くなれば、文化は粗野になり、社会は衰退してゆく。
現行の社会システムは、そもそも、現行のままでシステムをより良く改変するだけの自己改変機能を持っていない気がする。
とはいえ以前、弟子を革命家にしてレジスタンス組織を作らせようと思いついたのに、本人はまったくその気がないどころか「猫さんが中年革命家としてYouTuberになればいいじゃないですか」なんて返してくる始末でどうにもならない。イヤだよ失敗して吊し上げられて断首されて晒し首になって一族郎党皆殺しにされるのは俺じゃなくてお前の方がいいよ。と言ったら怒られたっけ(遠い目)。
一般に、現行社会では「民主主義の骨子」と錯覚されている選挙制度だって、まともに機能しているとは思えないのだ。
(民主政治は選挙制度によって実現しているのではない。民主政治を実現するのに一番手軽で、その時点では現実的だったのが選挙制度だっただけである。選挙制度なくして民主政治は成り立たない ── 選挙があるから民主政治が行われている ── と考えること自体、すでに前時代的ではないだろうか)
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こうした社会やそのメカニズムについての考察は、漫画雑誌を読むだけでは到達できないようだ。
人間ドラマや冒険譚、大いに結構。
しかし誰かを助け、誰かの役に立とうとするときに、ファンタジィやヒロイズム、ロマンスだけで解決できる範囲は限定的だ。
お金にならない話をすることが「よりよいお金」を産む種になることもある。
近視眼的な価値観は最終的に自身の首を絞めるだけだと、せめてそのくらいは思い出してほしい。
諺でいうと「情けは人のためならず」だろうか、それとも「風が吹けば桶屋が儲かる」だろうか。いや「知らぬが仏」かもしれないが。
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夕刻、妹と姪が遊びに来る。
高校生になった姪はアルバイトを始めることになったのだが、送迎は妹がすることになっているようだ。
まぁ女の子だとなおさら、夜に一人での帰宅を心配するのは必然だろう。
当然ながら初めての接客業なので「いらっしゃいませ」と言うのが恥ずかしいらしい。
言われてみれば、僕も最初の頃はそうだった。
今ではフリーランスの接客バイト(100人単位の宴席にも対応)が可能だが、こんなことは自慢にはならない。
妹が校内有数の美少女だったからか(旦那様もかなりいい顔である)、姪もそれなりに美少女である。まぁ、それなり(笑)だが、本人に言ったら絶対(僕が)笑ってしまうので言わない。
美人の姪といえば、通院などの介護で出かける次姉の娘(30代だったか)が途方もなく美形である。
しかし残念なことに ── 彼女の両親の離婚のゴタゴタに巻き込まれる形で、義務教育の最中にも関わらず不就学期間があり ── 驚くくらい頭が悪いので非常に残念である。
頭の良い(知識量ではなく知能と情操に秀でている)美形の人は、老若男女問わず素晴らしいと思う。
なんだ天は二物を与えるのかこのやろーもっとやれ!という気持ちになる。
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僕は過度でなければルッキズムも悪くないと思っている(ときどき書いている)が、見た目が良いことが至高だと思っているわけではなく、見た目も良い方がいいし頭もいい方がいいし心持ちも優しい方がいいという当たり前のことを当たり前に思っているだけである。
自分自身が醜男なのに、そういうのはどうなのかと非難する向きがあったとしても不思議はない。
しかし不味い米より美味しい米を食べれば美味しいものだし、筋張っているより程よく脂が乗って程よく発達した筋肉の肉や魚が美味しい。
個人の美醜の概念を一般論化するつもりもないし、一般論化が可能なセンスだとも思っていない ── 一般論から個別の価値観に還元可能とも思っていない ── から「流行」という存在にも懐疑的だし、自分の美醜の概念を流行で変容させる気もない。
アンチルッキズムのレジスタンス活動として「ナチュラルな肉体」をSNSに上げる人もいるようだ。
それはそれで流行になっている概念に対する活動として間違っていないのだろうが、個人的には美しかろうと醜かろうと、誇示するという行為によって、美しさからは離れてしまうと感じる。
たとえば草花も、そこに生え、育ち、咲き、散り、実り、枯れてゆくそれぞれの場面に、初々しさや、溌剌とした空気や、憂いや、侘しさまでがあるわけで、それぞれがそれぞれに良いものだと僕は感じる。
確かに散って変色した花より、開きかける蕾のほうが綺麗かもしれないが、散って乾くばかりの花弁の哀れもまたぐっと心を惹き付ける味わいがある。
それも立派な美しさだ。
色カタチが整っていることが美しさなのではなくて、強く心を惹き付けられることが美しさなのだ。
だから醜さの中にも美しさは存在する。
しかしその「美しさ」を誰かが育て、挙げ句に「見なさい見なさい、これを見て味わいなさい」と、躍起になって見ることを強要されるとき、その意志のためにすべてが醜く感じられる。
それは醜い醜さだ。
まぁSNSで衆人環視されることにヨロコビを見出している人たちには理解できない感覚なのかなぁ、と思ったりはするが。
<見なさい。そして悶絶しなさい>
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[NEXUS]
~ Junction Box ~
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[Engineer]
:工場長:青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
[InterMethod]
-Algorithm-Diary-Ecology-Engineering-Eternal-Form-Life-Link-Love-Mechanics-Technology-
[Module]
-Condencer-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-
[Object]
-Book-Fashion-Human-Memory-
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[Cat-Ego-Lies]
:いのちあるものたち:ひとになったゆめをみる:
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