::Hey、チャンピオン。
 周到にトラップを仕掛けて手出しが出来ないように用意したコーナーポストに獲物を追い込む気分はどうだい?
 Hey、チャンピオン。
 かりそめのリングで借り物のグラブを使って、手枷足枷を付けた手負いを追い込む気分はどうだい?
 Hey、チャンピオン。
 イカレたフットワークで相手を追い込み、イカしたペースを自称するそのパンチを繰り出す気分はどうだい?

 痛くないと思ってるのかい?
 俺が不死身だと思ってるのかい?
 俺を獣だと思ってるのかい?
 俺をカモだと思ってるのかい?




 どういうわけか、今日も昨日と同じ道を走る。
 立ち寄るガソリンスタンドまで一緒である。
 紅葉の気配が、そこかしこの植物から感じられる。
 それは死の気配でもあり、すなわち紅葉とは最期の彩りなのだろう。

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 子供の頃、僕に子守歌を聴かせてくれたり、あるいは絵本を読んでくれた女がいた。
 僕はそれを記憶していて、比較的鮮明にそれを思い出せる。
 ただそれが、母だったのか、姉だったのかがうまく思い出せない。

 僕の視覚記憶の異常は先天的なものらしく、やはり顔を思い出すことはできない。
 ただ、覚えている。
 眠る時間だというのに、歌を歌ったり話しをするのはやめてほしい、と思ったことを。
 そしてそれをうまく言葉にすることができなかったことを。

 思い起こすと年齢の概念がなかったし、僕は上手に話すことも出来なかった。
 たぶん2歳くらいだったのだろうか。

 隣で妹が眠り(僕は眠ったふりをして)ようやく静かになった部屋を、その人物(姉なのか、母なのか)が、電気を消して去っていって、そうして僕はようやくと眠りに就くことができた。

 子供の頃から、音と光に過敏だったのかもしれない。

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 僕が母親に抱かれて、初めて授乳されているのが、僕の思い出せるもっとも古い記憶だ。
 もちろん当時の母親の顔など覚えていないが、初めてだと断言できるのは理由がある。
 僕は赤ん坊の頃、母乳アレルギーで(今がどうかは知らない)、粉ミルクさえ飲めなかった。
 仕方なく、きなこを溶いたようなものを飲んでいたらしい。

 まさか赤子の頃から大豆製品で育っていたとは!
 と、驚いたりはしないものの、母乳アレルギーによって僕がお腹を壊したものやら、それとも皮膚炎ができたものやら、その顛末を僕は知らない。

 不思議と、母(とおぼしき女)に抱かれていた(あるいはおんぶされていた)記憶は、他にもいくつか覚えている。
 その大半において、その時点での僕は言葉を話せなかったし、複雑な概念はもとより、現在持っている基本的な知識なども持っていなかった。

 そしていつも、僕の身近には、猫がいた。
 三角の耳で、にぃにぃと鳴く、例のあれである。

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 夕暮れの雲は詩的な色を反射して漂っているが、僕はそのスケールを知っている。
 あれらは、人間の作り出した建造物よりもはるかに大きく、雪を生成して含有するほど冷たく、ちょっとした飛行機よりも速く、希薄な空気という苛烈な環境そのものとして存在している。
 儚くもなければ、幻想的でもない。
 目の前にあったら卒倒するほどの存在なのだ、あれは。

 それでも僕は、それを美しいと思う。

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 ただ、あの当時から思っていたのは「この人たちは、なぜこうした様式を大事にしているのだろう」という漠然とした疑問だった。

 夜に眠り、朝に目覚め、仕事をし、休み、食事をし、死を悲しみ、生を喜ぶ。
 様々な欲と、様々な正義。様々な疑問と、様々な恐れ。
 それらをないまぜに複雑に絡み合う様相をして、あの当時の僕は、今の僕であればため息に該当するであろう自己表現をすら知らぬまま淡々と眺めていた。

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 こうした乳幼児の記憶を持っていることに対して、特殊なことだと思う人もいるようだ。
 恋人の中には僕を「天才だ」と称した人もいるほどである。

 ただ僕の場合、たまたまある時期からぷつりと両親の記憶が途切れる。
 通常はその後も記憶が上書きされるのに対して、僕の記憶は上書きされようがなかった。それだけなのだ。

 知っていること。記憶していること。
 それが素晴らしいことだと勝手に思い込んでいる人はいるだろう。
 そうした人たちは、知らないことや忘れていること、分からないことのアドバンテージを理解していないことがほとんどだ。

 何かを知ることによって、知らなかったときのことを忘れてしまう。
 何かを思い出すことによって、忘れていたときのことが分からなくなってしまう。
 何かを理解することによって、理解できなかった頃のことをが理解できなくなってしまう。

 逆もまた然りで、
 何かを知らないことによって、知ることや知っている人を拒否してしまう。
 何かを忘れることによって、知っていた頃のことを否定してしまう。
 何かを理解しないことによって、理解することを否定してしまう。

 こうなってしまえば、これらはただ立場を交換されただけであって、双方の位置を理解することのできる立場(互換性)を持っているわけではないことになる。
 つまり、知っていることも知らないことも、たいした違いなどないことになる。

 優れた師というものは、無知から知への道を小さな声で隣を歩きながら案内できる者のことであって、知という地点から大声で指図して招集命令する者のことではないのだ。

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 帰宅して、バップアップ用HDDを解体処分。
 バックアップ用は残りひとつ。
 メインシステムのストレージをすべて分解すれば、これで跡形もなくなる。






::Hey、チャンピオン。
 視界が赤いぜ。
 Hey、チャンピオン。
 真っ直ぐに立っていられないぜ。
 Hey、チャンピオン。
 格好がついて嬉しいかい?

 Hey、チャンピオン。
 アンタの勝ちだぜ。
 Hey、チャンピオン。
 俺がここに来たわけを知っているかい?
 Hey、チャンピオン。
 アンタと戦いに来たわけじゃないのさ。

 血も涙もないと思っていたかい?
 血も涙も涸れちまったと思っていたかい?

 Hey、チャンピオン。
 アンタの勝ちだぜ。
 だけどHey、チャンピオン。
 俺がここに来たわけを知っているかい?

 Hey、チャンピオン。
 アンタと戦いに来たわけじゃないのさ。

 Hey、チャンピオン。
 アンタと戦いに来たわけじゃないのさ。