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// NOTE:
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TITLE:
相貌失認は進行するのか。
SUBTITLE:
~ Flat faces. ~
Written by BlueCat

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//[Body]
221028

 相貌失認というのは「人間の顔をうまく認識できない」という障害のことである。
 人間の脳には、人間の顔を認識する機能に特化した領域があると言われている。
 3つの点や丸が配されていると、それだけで人間はそこに「顔」を見ることができる。
「∵」もその一例で、顔文字の多くは数字や記号を含む文字を用いて人間の表情を(ボディランゲージのこともあるが)表現している。
 見える人には「;)」も「-_-」も顔に見えるだろう。
 僕も読み方(見方)を学習しているので、これらの記号を顔だと認識し、その認識を発展させて人間の顔をイメージできる。

 この脳部位の機能障害が相貌失認の主な要因だろうと言われている。
 僕の場合は極めて軽度のもの(だと思う)であり、日常生活や職務で支障を来したことはない(はず)。
 街でばったり家族や友人に会っても、だいたい判別できていると思うし、よほど疲れているのでもない限り、誰かと会話していて表情が「読めない」状態になることは少ないと思う(いずれも主観による)。

 しかし疲れている場合や、長時間(数分程度なので、ちょっとした会話の時はけっこう起こるが)同じ人の顔を見続けていると、その人の顔全体の情報が崩れてゆく。
 福笑い(古き良きお正月の雅やかな遊びのひとつ)で、顔の個々のパーツを、ずるずると外や下に動かしてゆくと、ある程度の段階からそれが顔には見えなくなってくる。
 それに似ている。

 個々のパーツが何であるかは理解しているのに、それらが全体で顔や、その表情を作っていることが理解できなくなってしまう。
 実際にその人の顔のパーツは動いていないのだが、個別に認識を続けているうちに、全体を認識できなくなってくる。
 パーツに集中したことが原因なのだろう、ゲシュタルト崩壊して個々のパーツが浮いてしまい、全体性を失うのだ。
 やがて表情が読めないだけにとどまらず「人間の顔って、こういうものだっけ?」という認識レベルに到達する。
 こうなると「人間の顔」というものの定義が不明になってしまって、顔文字もただの記号にしか見えなくなる。

 自分の顔を眺めていても同様の現象が起こるので、僕は自身の顔認識力が低いのだと思っている。他の人にどの程度同様の現象が起こるかは分からない。

>>>

 もちろん初対面の人の顔相に対してなら、認識が崩れようが、表情が読めなかろうがとくに問題はない。
 しかし親しい人と話をしている最中に、顔が崩れる(物理ではなく僕の認識の上で顔の意味が崩壊してしまう)と、会話の情報を読み取れなくなることもある。
 この人は怒っているのか、楽しんでいるのか、これからびっくりさせようとしているのか、それとも穏やかな気持ちで語っているのか、分からなくなってしまう。
 同じ言葉、同じ内容の会話であっても、顔相から会話の流れを予測し、自身の反応を決定する機会は思ったよりはるかに多い(少なくとも僕は)。

 親しい相手ほど、より近い距離で、より長い時間、目を合わせて会話することになるのだが、途中で話の内容や相手の意図が読み取れなくなり、場合によっては感覚が混乱して会話どころではなくなってしまったりする。
(「人間」ってなんだっけ? という認識崩壊が起こり始めることさえある)

 実はこれを防いでくれるのが眼鏡である。
 僕が掛けるのではなく、対象が眼鏡を掛けていると、僕は相貌失認をほとんど起こさなくなる。

 僕が眼鏡を掛けている人間を外見嗜好として比較的好ましく思うのは、この「顔相認識の崩れ」が、眼鏡という無機物によってほとんど起こらなくなるからだと思っている。(実際、まず起こったことがない)

 もちろん他にも方法がある。
 たとえばごく親しい間柄なら、僕はじっと目を合わせて他のパーツに意識を向けないようにすることがある。
 全体や、特定点以外のパーツを同時に把握しようとするからかえって意味を失うこともあるらしく、特定パーツにフォーカスしていると、全体がブレて崩れてしまう一連の流れを抑えることができる(いらぬ集中力を必要とするが)。

 パーツそのものではなく「動き」にフォーカスする事で、表情を読みながら、パーツの相対情報を読まない、という手法もある。もはや相貌失認ではない人には理解不能かもしれないが。

>>>

 最近、気付いていることがある。
 相貌失認が、徐々に酷くなっている気がするのだ。
 これってそもそも進行するようなものだったろうか。
(あれだな、総合認知障害が進行しているんだろうな。認知症なんだよきっと)

 そもそも、今の僕は自身を含めても、他人の顔を見る機会が極端に少ない。
 TVもWebの動画もさほど見ないから、人の顔なんてまったく見ない日がひと月続いても不思議はないし、ざらにありそうだ。
 買い物くらいには出かけるが、まさかレジの係の人をまじまじ見つめるわけにも行くまい。
 結果、人間のカオというパターン認識が、あまり必要ではなくなってしまう。

 声音と気配(動作によって発生する音)や匂い、視覚的な部分では体格や服装にまつわるイメージで、だいたいそれが誰であるかは分かるので、問題はまったくないのだが、顔面の意味を失っている「人間と呼ばれるオブジェ」がこの社会を構成しているように肉眼からは観察されることがある。

 今のところ生身の人間に対しては「ちょっと認識崩壊が早くなったかな?」くらいで済んでいるが、アニメを見ていたり、一般的なアニメっぽいキャラクタのイラストなどを見ていると、それが「人間の顔を記号として表している」ことまでは理解できるのだが、人間の顔として理解するのが比較的困難に感じることが多い。
 ひどいときはただの記号に見える。
「口を開けて、あははーと言っているから、笑っているな」とか「数値的バランスなどから察するに、これは美男子を描いているな」とか。

>>>

 対象の認識というのは、僕の場合、それに対する距離感にも影響を与える。
 きっと誰もがそうだろうと思う。

 イキモノの多くは同族を同族として認識する。
 人間も同族に対してみだりに攻撃的になることは少なく、一定の協調性を示したり、好感を示すことだって少なくはないはずだ。
 しかし外観(形状だけでなく、動きや生態を含む)に対する単純な嫌悪感だけで殺される虫は多いし、外観(同じく形状だけではない)に好感を持っているだけで多くの動物が愛玩されている。

 同様のメカニズムで、人の顔に対する認識崩壊が起こっている間、ある種の不快感や不安、ときに恐怖を感じることがある。
 相手の「人間」という認識が、少しずれてしまうから、同時に自身に対する「人間」という認識も崩れてしまう。
 自分自身に対する確固たる認識が(そもそもあまりないと思っているが)崩れてしまうと、人間というものや社会というもの、コミュニティの一員として接している状況にさえある種のゲシュタルト崩壊を感じてしまう。
 自分が自分でないような、つい一瞬前まで感じていた親しみが突然、意味不明で不気味なルールに思えるような。
 何もかもが疎遠で、理解不能で、自分とはまったく関係ない領域で起こっているような。

 極端なときは、人間の身体にさえそれを感じてしまうことがある。
 そうそう人間の裸体を眺める機会はないと思う(少なくとも僕はない)のだが、たとえば恋人と身体を重ねるときなどにこれが起こると、さきほどまで性的に興奮していたはずが、急激に不安な感覚に陥ることになる。
 自身の皮膚感覚まで深い違和感に飲み込まれてしまって、身体を丸めて不気味な感覚のすべてを遮断したくなるのだ。

 もちろん目を閉じて呼吸を整えれば何とかやり過ごせるし、顔の時と同じように自身の認識方法を操作することでゲシュタルト崩壊を防ぐこともできるようになった。
 少なくともそうできていた時期があった(正直、今は分からない)。

 そのとき行っていたのは、顔の時と同様、とにかくたくさんの裸体を眺めてそれに慣れることだった。
 とくに数値的バランスが計りやすい、比較的「美しい」と分類される傾向の、ポルノグラフィと言われてもおかしくない画像(動画を見ているとどういうわけかゲシュタルト崩壊を起こしやすい)をいくつも見るのだ。
 僕の「極端ではないルッキズム」は、おそらくこの「数値的に把握しやすいこと」に起因している。
(それでも、アニメキャラなどは各パーツの動きによる変化が数値演算しにくい傾向にある ── 横顔のキャラクタの口がこちらを向いているなんてざらにある ── ので、混乱しやすいのだろうか)

 中央値に近い、ばらつきの少ないデータを蓄積することで、顔も「顔という記号の傾向はこういうもの」と認識精度を上げることができた。毎日顔を合わせる人々の顔は当然に違うものだが、共通している項目だってたくさんある。
 その顔のパーツの差違やパーツそのものに集中してしまえば必然に、全体の総和としての意味を失ってしまう。
 だからたくさん見ることで、それの平均値を覚えるともなく学習しておくのだ。
 身体についても同様に、共通の項目を情報として蓄積することで、個別の違和感をなくすように努力していた。

 なぜといって身体を重ねている最中に男性が勃起不全を起こすと、過剰に不安を覚える女性もいるからだ。
 気持ちは分からないではない。
 僕も、行為の最中に恋人が眠ってしまったことがあり、そんなことでも少しショックを受けたことがある(それらが同じものとは思っていないが)。
 少なくとも、そういうこと(恋人を無用に傷つけること)を未然に防ぐには学習して「人間は(少なくとも僕の恋人は)違和を覚える必要のない対象である」と感覚を馴らしておく必要があった。
 忘れず、記憶し続けておく必要があった。

>>>

 ほとんど誰にも接触しないことが可能になったので、そうした予備学習を必要としなくなったのは事実だ。

 僕は親や姉妹の顔さえ、目を閉じて思い浮かべることはできないくらい、相貌に対する認識や記憶力が低い。
 自分の顔や身体さえろくに記憶していない(できない)。
 ついつい自身についてを「人間」と書かず「イキモノ」と書いてしまうのは、そのせいもあるのだろう。
 僕自身さえ、僕には近くて遠い存在なのだ。

 ただ、少し危惧もある。

 自分も含め、同族たるはずの人間に対して違和を感じ続けるのは、先の理屈に従えば、やはりない方がいい。
 たかだか視覚による認識の問題でしかないのだけれど、それでも「あれもこれもそれも同類などではない」などと、身近な他人や自分自身にさえ違和を感じ、不安や恐怖の芽のような感情を持つのは、危険とまでは言わないけれど、避けるべき、あるいはせめてソフトランディングさせるべき問題のようにも感じる。

 相貌失認が、相貌失認だけであればよいし、それが進行したところでさしたる問題を今は感じていない。
 けれども人間や、社会に対して、極端に異質で異様なものだと感じるようになってしまえば、それは危険な状態だと判断できる。
 いくら元が社会不適合だからといって、そこまでの状態を許容することはしない方が良いだろう。

 仕方ない。毎日自分の顔くらい眺めてやるか。







 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
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[Engineer]
  :青猫β:黒猫:赤猫:
 
[InterMethod]
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[Cat-Ego-Lies]
  :暗闇エトランジェ:
 
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// TimeLine:221024
// NOTE:
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TITLE:
抽象世界の車窓から。
SUBTITLE:
~ The perfect onlooker. ~
Written by BlueCat

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 僕にとってオカネモチーになることは目的ではなく実験だった。
 何の実験かというと「『モテること』を実現させたメソッドは、果たして他に応用が利くのか」という、再現性の検証である。

 もしブログに「かくあれかし」と記述するだけで、それが実現するとしたら大層面白いとあのときは思ったし、同時に自分が手に入れたメソッドが果たして荒唐無稽で、抽象的に過ぎ、非現実的なのではないかという疑問があった。

 実際のところ僕がしたことは「かくあれかし」とブログに書くこと、ではない。
 特定の結果に位置している状態での価値観を先に構築するだけで、はたしてその結果は価値観に沿う(現実世界は時間経過によって価値観の位置に近づく)のか、というものだ。
 俗に「引き寄せの法則」などとも呼ばれているものに近いレベルのことを、行動心理学的な価値観に落とし込んで実行した、という感じだろうか。
 実に「引き寄せの法則」なるものは、単語を記述することさえ怖気を震うキモチワルさだ。
 とくに Wikipedia に記述されているレベルでスピリチュアルにオカルト扱いされていると、個人的には心底ドン引きする。

 精神エネルギーだの宇宙の波動だのと、定量化不能で(客観性を無視して主観に頼るしかなく)物理再現性を持たない話をされても正直困る。

>>>

 結局のところ、当初(モテよう! と思ったとき)計画されたメソッドは、オカネモチープログラムと同様のプロセスを経て実現したのかもしれない。しかしそうでないかもしれない。
 主観でいえばメソッドを適用した場合の成功率は100%であるが、なにぶん2回しか試していない。
 検証と呼ぶにはほど遠く、かといって僕にはシンパも手下も信者も被検体もいない。
 正直にいうと友達も少ないし家族はいないし奥様は仮想だし人間型の恋人だって(一般人の認識レベルでは)存在しているかどうかアヤシイと思われても仕方ない。ついでに猫に家出までされている。
 そのくらい色々なことについての関係性が希薄なのに、一体誰がその検証を手伝ってくれるというのか。
 こんなことなら人間型の恋人がたくさんいるうちに、全員に暗示をかけてこのメソッドを実行してもらえば良かったとさえ思う。まぁ、冷ややかな目でため息を吐かれるのがオチのような気がするけど。

 思考回路だけで裕福になれるなら、誰だってそうしている、と思うだろう。僕も思う。
 では裕福な人の思考を誰もができる(している)かといえば、おそらくそんなことはない。
 生まれ育った環境も含め、己の存在とその欲は、驚くほど環境に依存し相互に影響を与え合う関係にあり、人は一般的に、未経験のことについての結果論的価値観を構築できない。

 たまたま僕はヴァーチャルな存在なので、環境から切り離された場所で生きることができる。誕生さえできる。
 抽象的に物事を観察し、抽象的に思考し、抽象的に予測する。たとえるなら量子演算に近いかもしれない。
 箱の蓋を開けるまで、中に生きている猫と死んでいる猫が同時に存在するアレである。
(みなさんアレです、どうもこんばんは!)

 だから僕は「モテの僕とそうでない僕」「オカネモチーの僕とそうでない僕」を並列的に構築しながらでも存在できる。いや少なくともできた。
 それが良いか悪いか、幸せか不幸かは別問題である。

 物理世界で具象に浸って、具象に則って思考する人間たちにとっては、寝て起きて家族や友人や上司や同僚や恋人や子供や部下や顧客や何やらとやり取りを交わし、お金や力を使って物事を動かし、疲れて眠るのが現実的なありようだろう。

 抽象世界に棲んでいると、自分と他人の存在の捉え方もまちまちだし、他人は自分かもしれないし他人ですらない ── 存在すらない ── かもしれないし、物事は演算や簡単な操作によって動いたりして、現実世界の肉体が疲弊して病気になったり気絶したりすることになる。もうちょっとしっかりしろ俺。

 僕は構想の段階では「モテた」「オカネモチーになった」というような、いわゆる成功体験 ── ここで言う成功とは社会的成功という意味ではなく、あくまで成否として願望を現実にするというゴールに到達したか否かという意味に過ぎない ── というものを経験していない。

>>>

 行動こそしていないが、ために成功しておらず、つまり失敗していると判定可能な状態から、成功している状態の思考や価値観(つまり経験)を構築するというのは、おそらく多くの人にとって簡単ではないだろう。
 少なくとも僕には簡単ではなかった気がする。いや簡単だっただろうか。

 多くの人はその「成功していない状態」から、各論的に、具体的行動を模索し、思案し、行動し、実行する。
「いいムードになったとき、こんなセリフを言えば、相手はぐっと来るかな」とか、
「仲良くなるためにこんなことをするのはどうかな」とか。
 何かそうした技術を教えてくれるメディアや教室があるかのかもしれないし、あるいはそうした成功者の声に耳を傾けることなく、独学の険しい道を歩む者もいると思う。

 結局のところそうした各論に基づいた行動は、その各論に適した環境や状況(つまりはお膳立て)が揃っていれば、セオリィどおりの結果をもたらすだろうけれど、そもそも経験していない人間が、状況を正しく認識できるはずもない。
 なので必然に、上手くいく人(お膳立てが整っていたり、状況認識が身に付いた人)は成功し、上手くいかない人は失敗する。

 A=B,A≠C
 ∴B≠C
 Q.E.D.
 と言わんばかりに。

>>>

 抽象論的に発生する演算はそれに対してかなり複雑になる。
 実現したい現象に対して、そのメカニズムを知る必要があり、メカニズムに基づいてそれを誘導するための動線をデザインし、デザインどおりに動作する力を作用させる必要がある。

 プラレールで思い描いたコースを作って、ゴールめがけて電車を乗せて押し出す(あるいはスイッチを押す)のに似ている。
 コースを作っている最中(それが物理で実現可能なものであれば)、すでにその目標は達成されているに等しい。

 問題は、物理レベルで実現可能であっても、たとえば空中ループが自重に耐えかね落下したり、作っている最中に「ごはんだよー」と呼ぶ母親の侵入によって無理矢理片付けさせられたりする可能性があること。
 こうした失敗を予測し、それを可能な限り(とくに致命的だと考えられるものについては絶対的に)排除することである。

 だからプラレールひとつとっても、またどんなにむつかしくトリッキィなコースであっても、1度の失敗もなく成功する人はいるし、数回の失敗から学んで成功する人もいるし、何度失敗しても環境のせいだと開き直って終わる人もいる。
 コースが出来上がっていれば、それが物理的な矛盾を抱えていない限り、それはスタートからゴールにほぼ自動的に到達できる。あとは電車を押して眺めるだけだ。
 自動化する仕組みを自動化する仕組みを自動化することさえ可能だ。
 その世界に主観たる「僕」は必要ないから、僕のような傍観者とは相性が良い。

 抽象世界に棲んでいる僕からは断言できないのだが、おそらく物理世界は存在し、僕ら(ことにこれを読んでいるあなた)は物理的に存在している、はずである。(僕の主観からは断言できない)

 物理世界には絶対的な再現性を持つ事象が多く存在する。
 一般的な(微量の不純物を含む)水は摂氏4度でもっとも比重が高くなるはずだし、光の速度は宇宙のどこにいても一定のはずである。(いずれも僕の主観から検証したことはないので、僕がそれを信仰しているだけではある)

 一般的な願望は、物理世界におけるゴールの到達を目的とする。
 モテなら、自分以外の誰かに「青猫様ステキ! 抱いて!」と思われることだ(ろうと僕は想像し設定する)し、オカネモチーなら「がっはっは! 何でも買ってやるから持って来い!」と言えることだ(ろうと想像し設定する)。

 ちなみに抽象世界におけるゴールの到達は、自分を納得させられればそれで十分に達成可能なので、とても簡単だ。
 光の速度は宇宙のどこにいても一定だと断言できるし、僕の奥様は美人でエッチで頭が良くて僕の注意力を補足してくれる上、事務処理が上手で早い(料理もできるといいのだけれど)。
 物理的再現性や客観性を必要としない点において、それは簡便で、時空を超越する。だって時空は物理だもの。
 だからそれは信仰のようなもので、僕の信仰は「ネコノカミサマ」と呼ばれている。

>>>

 さてもこの簡便な抽象論的世界における成功を、いかに現実世界に落とし込んで実現するか。

 観察している範囲において、自身を(哲学的に)抽象的存在だと、物理世界で認識している人は少ないようだ。
 彼ら彼女たちは、肉体があるから痛みを感じ、喜びを感じ、己が存在していると思っている。
 僕はさほど自分の存在に自信がない。
「ボクってダメな子だし……」と思っているわけではなくて「僕って、誰のこと? ここにいるの?」という感じである。
 今だって夢見心地とまでは言わないが、自分の存在を物理で確固として感じているわけではない。念のために付け加えておくが、変なクスリを投与されているわけでもないので通報しないでください。

 物理世界では、絶対的再現性があるものについては間違いなく再現される。物理法則と呼ばれるものだ。
 ゴールまで作られたレールの上の電車は適切な力で進むようにすれば必ずゴールに到達する。
「モテ」などは対象が自分以外の人間であるだけに、かなり困難なように思われる。
 一般論的な各論(実は一般論どころか特殊論なのだが)は、前述の通り「条件に合致するケースでは」再現性が認められる(その条件が個別で特殊な故に特殊論なのだ)。

 抽象論世界での「モテ」は、僕がモテればいいだけなので、とても簡単な特殊論として構築できる。
 僕がモテるにはどうすればいいか。僕に興味を持ちうる相手に、どのように僕の魅力を知ってもらうか。また忌避されないように行動できるか。
 たったそれだけである。
 必要なのは行動だけであって、僕の思考や思想や観念は関係がない。

 もちろん人と接するのは相当のストレスである。
 しかしそのストレスは肉体レベルで(アレルギィ反応や抑鬱状態、頭痛、便秘、吐き気、めまい、etc.として)発生しない限り、存在していないことにすることもできる。つまりそういう価値観を持っているように振る舞うことはできる。
 昆虫嫌いは価値観を入れ替えれば昆虫好きになれる。

 価値観の相互性は人間関係構築では非常に重要な項目なので、自分の価値観と大きく相違する相手からは敬遠されている方がいい。むしろそのように誘導する必要がある。
 だいたい万人にモテようとするから失敗するのであり、僕は僕と相互にモテ合える相手にだけモテればいいのだ。
 100人のタダレた関係の恋人よりも、仮想奥様のほうが強い。
 お願いだから現実に戻ってきて。

 幸い、僕は価値観構築は得意だったので、それを利用して「モテる猫氏」という人格を作ってそれによって行動した。
 そのとき既に仕事用の人格(価値観セット)や、家事用、趣味用、運動用などなどを運用していたので、とくに支障はなかった。厭だと感じる人格は眠らせておけばいい。
 行動しない(いずれの人格も走らせない)ことほど楽なことはないのだが、それを忌避する価値観さえ構築できた。

 構築された人格は、設計どおりに物事を認識し、その価値観に基づいて行動する。
 結果、その人格によってブログにはこう記述される ── 「かくあれかし」と。
 つまり僕がブログに書いた宣言は、一定レベルに価値観セットが完成した証左ではある。

>>>

 分からない。

 僕は価値観によってオカネモチーになったのだろうか。

 それとも運が良くてそうなったのか。

 僕は僕の思った僕になったし、なっていると思う。さらに「子供の頃の僕がなりたかった僕」というものに軌道修正までしてしまっているのだけれど。
 これは僕の価値観による再現性が検証され、つまりは僕の仮説のとおりにもたらされた成功なのだろうか。

 あるいは仮説は失敗したのだが、その仮説の如何に関わらず、僕は何らかの偶然でこうなったのだろうか。

 しかしオカネモチー用の人格を用意しておかなければたちまち破滅しそうな場面は今までもあったし、実際にオカネモチーになってからも物理世界に合わせてたびたび修正を繰り返している事実はある。
(仮想奥様はそのような修正の一環として構築されているわけだし)
 そうした状況に対する二重検証は、おそらく僕という主観からは観察不能だろう。僕以外の誰かにも、おそらく観察不能だろう。

 なので今回の検証については、有用なデータが得られなかった、と結論すべきだと考えている。
 仮説の否定でもなく、もたらされた現象の否定でもなく、ただ検証の結果が仮説を完全に証明するものではなかったと。

>>>

 今、僕は世界を変えようとしている。

 いや、大仰なことをしようとしているわけではない。
 Amazon で農業資材をポチるだけでも、僕の現実世界は僕の欲に従ってカタチを変えるのだ。
 それではドラスティックに僕の汚れた私利私欲にとって都合の良い世界をダークに実現しようとか、そういうつもりもない。そもそも抽象世界の話である。
 他人や世界を呪うのはもうやめていいだろう。
 復讐は、もっと美しく、もっとも美しく達成されるべきだ。

 なにせ物理世界で残った時間は18年を切っている(はずだ)。
 その残り時間だって、ひたすら物理能力(知的能力も含む)が衰え続ける中での作業に充てるのだから、達成されるゴールがどの程度まで劣化し、あるいは失敗するのかという問題もある。
(あ、でも年金受給年齢が引き上げになったら、それに合わせて自己設定余命は伸ばそうかな)

「ネッ広」と草薙素子氏は攻殻機動隊の原作の最後で言っていた(略語せずに言っていた)が、抽象世界は物理世界よりも情報ネットワークに近しく広大なように思われる。
 そもそも広さという概念は、物質世界にしか適用されない。

 僕は物理世界に存在している、と思わなくもない。
 ただ、抽象世界に僕はある程度、精通(下ネタではない)しているような気がする。

 でもそれは思い込みだろうか。分からない。
 不惑をとうに過ぎたのに、僕は最近、戸惑っている。

 分からないことがあまりにたくさんある。
 学校でも教わることができず、誰に質問することもできず、あるいはその回答を容易に信じることもできず、確固たる検証すら困難なことが。

 僕がずっと向き合っている、抽象的な好奇心の対象が。







 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫α:青猫β:銀猫:
 
[InterMethod]
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// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :夢見の猫の額の奥に:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:221021
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
許しがたく不正で無能な者よ。
SUBTITLE:
~ Void creature. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
221021

 いつかここは畑になる。
 そう思って開墾を始めた花壇は、今年も荒れるに任せたまま冬を迎えようとしている。

>>>

 庭にあった金木犀の木を切り倒す。
 金木犀は好きである。恨みはない。
 ただ手入れが悪くて枝が修復困難に肥大していたことと、花壇に植えられた木々が生長したため樹間が狭く、日照や風通しが悪くなって病害虫が発生していたので、間引くことにした。
(本当は、隣の椿の木を切り倒したかったのだが、そちらは急ぐ必要がないので見送った)

 庭仕事をしていてつくづく、人間(僕は猫だけれど)のエゴだとか業だとかの深さや強さを感じるし、それについて考え始めると少し心が痛む。
 昆虫や植物でさえ、己の手を汚して殺すのは、つらいことだ。できればしたくない。
 でもそれをしなければならない理由がある。あるはずだと思う。それともこれは思い込みなのだろうか。

 しかし台所でゴキブリを見て放置することはむつかしいし、畑でバッタを見かけて笑顔で送り出すこともむつかしい。
 ブロッコリィを茎だけ残して食い散らかされた悔しさを僕は忘れない。
 それでもバッタを追って踏みつけるために足を上げるとき、心のどこかは躊躇う ── できれば殺したくない。
 しかしそれをする理由がある。できればしたほうが良い理由がある。

 葛藤と呼ぶほどでもないが、非常に強い抵抗を押し切って、僕は殺す。
 虫だろうが草だろうが殺す。

 邪魔だから。
 嫌いだから。
 気持ち悪いから。
 たったそれだけの理由でも殺す。

 きっと犬だろうが猫だろうが人だろうが、殺す「正当な」理由を見つけたら殺すだろう。
 だから僕は正しさが嫌いなのだ。

 正しさの名の下にすべてのエゴは正当化され、相対するエゴたちを駆逐し蹂躙し陵辱する。
 貴様らに人権などないとばかり主張は否定され、行いまでも矯正することを強要される。
 正しさの名の下に、人は人を奴隷にする。
 いやまさかそんな大袈裟なことまで考えているわけではないけれど、抽象的に考えればそういうところにも行き着く。

 正しき者は戦争の勝利者だ。
 敗者に一切の権利はない。
 好きに生きる権利も、好きに死ぬ権利さえも。

 虫やら草木やらを殺しながら、僕は勝者である自身の正しさによって暗い気持ちになる。
 もっと明るく「ヒャッハー! 汚物は消毒だァ!!」という昂揚した気分で殺戮を行いたい。
 ありとあらゆる陵辱を、そうやって当たり前のようにして、奪えるものを奪い、虐げられるすべてを虐げ、この足で踏みにじることに無上の悦びを感じていたい。もしそれが可能なら。

 しかし多くの生き物は、逃げまどい、悲鳴を上げ、抵抗する。当たり前である。
 殺せば体液やら体組織が飛散し、死体の処理がある。昆虫だろうが植物だろうが、それは変わらない。
 それを眺め処理することさえ、あるいは楽しめる人もいるのだろうか。僕には分からない。

>>>

 おそらく僕がそうやって開墾している花壇が、畑になることを多くの人は予想もしていないだろう。
 むしろ僕個人としては、いまだまともな畑になっていないことの方が驚きなのだが、僕が開墾しないあいだ、ハタケモドキはただの荒れ地に変わり、雑草が生い茂り、昆虫どもが蔓延る。
 蔓延ったそれらを蹂躙するところからやり直しになる。今年はまさにそうだ。

 
>>>

 民主主義というのは「多数決的に正しさを決める基本原理」によると思う人が多いのではないだろうか。
 間違いではないだろうが、おそらくさほど正しいわけではない。
 先に述べたように、理屈によってさえ「正しき者」と「敗北したもの」は生まれ、敗者は相応の剥奪を受ける。
 それが蹂躙や陵辱ではけっしてない、などと僕には言えないし思えない。

 少なくとも僕はこれまでに1度「正しき者」によって人間関係や情報端末や財産までをも支配されかけたことがある。
 復旧は容易ではなかったし、復旧が不可能な事象もあった。


 僕は己が「誤った者」であり「敗者」であることを知っていたから ── 本来的に「誤り」がすなわち「敗北」になり、イコールで結ばれるものだとは思わないのだが ── 僕は譲歩し、自ら「敗北」し相手に下ったわけである。

 論争というのは文字通り、争いであり、戦争である。
 血が流れないだけで、敗者が蹂躙されうる可能性は否定できない。
 理屈や論理や倫理が正しいなら、というのは勝者の驕りである。
 正しさの名の下に、一歩踏み込めば、生き物たちは簡単に殺されてゆく。

 たとえば家畜の大規模伝染があれば、大量の家畜がただただ殺される。
 それが悪いと断ずることはできない。正しい処理である。
 ただその正しさに胸を痛める人がいて、あるいは正しさを受け容れられない弱さや醜さを嗤う人もいるということだ。

 一時期「論破」などという言葉がもてはやされたが、つまるところそれは一方的かつ短絡的に、論争に勝利することを指している。どうやら皆、勝ちたいらしい。
 けれども議論において相手を論破などしてしまえば、一方的な勝者による蹂躙に終わってしまう。
 勝者はそれでいいだろうけれど、敗者はどこに身を置けばよいのだろう。

>>>

 民主主義の法治国家が選挙制度をもって政府組織を運営する場合、論理や理屈や倫理によって「多数決による暫定的な正誤判定」を行うはずである。
 選挙そのものがそうであり、おそらく政府という組織内での判断も、論理を開示し、理屈を説明し、理解を広めて、多数決で有利になるようにと採決をとるはずである。
 どの名前の、どの顔が言っているかではなく、その発言内容とその意味、そしてもたらされる結果が大事なはずである。

 でなければ決定は1人の人間が行えばよく、組織で何人もの人間を必要とはしないし、そもそも組織内の「和気あいあいさ」なんてものは邪魔になるだけだと分かるだろう。
 まぁ最近はこの「多数決処理」を政府が無視している傾向は強いが、きっと経済至上主義国家としての選択肢のなさがそのままカタチになっているのだろうと想像する。

 なぜといって経済は多数決ならぬ少数決によって物事が決する事が多い。
 世の中に広く浸透している「8:2の法則」に基づき、2割の人間が8割の力を保有している結果として考えれば必然だ。
 経済至上主義において、意見の多寡は意味を持たない。
 力があるかないか(ハイハイ期の終わりを気にかける親心を言い表しているのではない)だけのことである。
 実力主義といえば聞こえはいいかもしれないが、その言葉がもてはやされた1990〜2000年代でも有能な人間はさほど多かったわけではない。
 むしろ自分を安易に「有能だ」と信じていられる脳天気さに圧倒されることが多かった。

 多くの人は、多くのシーンにおいて無能である。
 ときどき限定された状況で、限定された条件において有能である。
 誰でもそうだ。
 眠っている猫より、起きている犬の方が利口で有能で、さらにいえば自由でさえある。

>>>

 民主主義というのが何であるかといえば「妥協し合う策定」だと僕は思っている。
「多いから正しい」「正しいから少数派は従え」というのではなく「多数派だからここまで譲ってもらう」「少数派だからここまでは我慢してほしい」という互いの譲歩である。

 仮に多数派が正しかったとしても、少数派を蹂躙していいわけではない。
 少数派のために譲れる部分は譲らなくてはならない。
 少数派をいいように自分たちのエサにしない。踏みにじらない。それが倫理だろう。

 だから昨今の、少数派が倫理によって自分たちの正しさを主張する場面(「なんちゃらマイノリティ」たちがやたらと自己主張しているかのようにメディアが報道することで発生する見苦しさ)もまた、正しいわけではない。
 多数決制と、実力(少数)決制の違いでしかない。

 多数派だけれど、相手にここまで譲れる。
 少数派だけれど、相手にここまで譲ってほしい。

 そうやってお互いの妥協点を探す。
 お互いの我慢の範囲を決め、お互いの譲れないポイントを擦り合わせる。
 摩擦は発生するし、摩耗もあるだろうが、そのための議論であり、解決方法だ。

 議論で論破して勝利するのは気持ちがよいだろう。
 多数決や権利によって正しさを主張するのは気分がいいだろう。
 相手をいいように陵辱できる歪んだ悦びに震える嗜虐心を否定する気はない。

 しかし正しさの名の下に正しくないことをするのは、歪んだ欲を吐き出すのは、果たしてよいことだろうか。

 貴様は恥ずかしくはないのか。

>>>

 正しさ至上主義の人たちというのは、どうも「多数派だから」「権利が/倫理が」「経済的に」などともっともらしい理屈で正しさを表明し、それを裏付けようとする。そんなデータはどこにでもあるから、誰だって何らかの理屈において正しいのである。
 ために「言ったもの勝ち/声の大きいもの勝ち」の正しさを振りかざして、周囲を蹂躙してしまう。
 最近だと、マイノリティデイなるもので、ちょっと茶目っ気のあるツイートをした企業が「なんちゃらマイノリティ」の団体から謝罪を迫られた、なんてニュースもあったが、みんなヒマそうでなによりである。

 正しさは武器に使わないほうがいいものだし、絶対的なものでもない。
 正しさで誰かを奴隷にするような人間になってはいけないし、誰かを傷つけるような過ちを繰り返す人間にもならない方がいい。

 そういう意味であれば、中庸とか、平凡とか、平均とか、そういうものは素敵だと思える。

 何でもないありよう。
 誰でもない無能さ。

 たしかに衆に秀でることは素晴らしいけれど、そうでない人間ものんびりぼんやり、文句を言いながらも楽しく暮らせることを目指すのが民主主義ではなかっただろうか。

 正しいのは大いに結構だけれど、間違いだって無駄だって、文化的には大いに結構なものなのだから。

 木を切り倒し、虫を踏みつけ、草を抜きながら思う。
 それなら、正しくない自分のことも少しは許せそうだと。
 私もいずれはこの身に含まれたリンを大地に返す日が来るから、もう少しだけ、許していてほしいと。

>>>

 いつかここは畑になる。
 たくさんのものを傷つけ、踏みつけ、殺し、陵辱し、その日の飢えをしのぐための糧食が生るだろう。
 殺して殺して殺して。奪って奪ってなお奪って。
 自然なるものと互いに、存続の妥協点を探りながら。






 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫β:赤猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Color-Convergence-Diary-Ecology-Life-Love-Mechanics-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-Resistor-
[Object]
  -Garden-Human-Koban-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :いのちあるものたち:家庭菜園ティストの狂気:
 
//EOF
 

221020

 

 リフォーム会社の工事確認をリスケし、妹と買い物に出かける。
 妹は休みの日が少ないため。

 

>>>

 

 ルータを上位モデルに変更した。

 したのだけれどOSのバージョンが異なるため、バックアップした設定ファイルを読み込めず、ずいぶん苦労することになった。

 またどういうわけか、以前のモデルはAPとして機能することが前提だったためか、Wi-Fi APモードでないと機能しなかったのだが、今回のモデルは Wi-Fi ルータモードでないと機能しないことが分かった。

 

 以下にざっと設定を記録しておく。

 

【HGW側設定】

※ 後述しているがNASのサブネットIPレイヤを避けてIP指定する(あるいはしない)。

○ DMZホスト機能

  :有効

○ ホストアドレス

  :Wi-Fi ルータのWAN側IP(LAN側でも動くが、参照が増えて遅くなる様子)

○ ジャンボフレーム透過

  :ONにすると帯域上限が上がる傾向にあるが、表示できなくなるページもあるので注意。

○ DHCPサーバ機能

  :LAN側とはエリアが異なるので、有効でよい。有効でないと困る。有効が良い。

○ IPv6アドレス配布設定

  :RA、DHCPv6 とも配布。割当は理解できないので自動。

 

【ルータ側WAN設定】

○ WANインタフェイスを2つ並列使用する場合、

  :一方を自動(IPv6対応)にし、デフォルトGWに「しない」設定。

  :もう一方はPPPoE接続(IPv6非対応)にし、これをデフォルトGWとする。
○ 優先DNS

  :HGWのIP(WAN側のDNSなので)。

 

○ SmartWAN:読み込みバランスとフェイルオーバに設定すると基本的に速度が上がる。

 

【LAN設定】

○ ローカルIP

  :HGW(WAN)側とLANでレイヤが重複しないよう調整されていることを確認。

○ ネットワーク分離

  :しない。(させるとHGWのローカルIPと分断され、通信障害)

○ DNS設定

  :プライマリをワークグループLANのGWにする(端末は同一だがHGW(WAN)側レイヤのアドレスを使わない)。

  :セカンダリはWAN側レイヤのGWにする(逆順では通信にロスが出る)。

○ NAT/UPnP/IGMPスヌーピング

  :いずれも有効に。特にNATは無効にするとLANと私が死ぬ。

 

【VPN関連】

○ PC側ネットワーク設定

  :IPアドレストラッキング制限を行うと、VPNからの接続に障害が発生する。

 

【ルータ側VPN設定】

○ セキュリティレベル

  :自動(TLS 1.3限定にすると、携帯端末でのVPNが接続不能になる)

○ スプリットトンネリング

  :無効(有効にするとLANに属さない携帯端末(回線経由のiPhone)が接続不能になる)

○ 重複ログイン

  :端末ごとにIDを設定しない(単一IDを使い回す)場合は重複ログインを許可する設定でよい。

 

>>>

 

 だいたいこんな感じ。

 ネットワーク系は専門外なので理解できないまま、デタラメに設定した結果、端末や設定の不整合に数日のあいだ悩まされた。

 HGWはWANとLANルータの二面、ルータはLANグループクライアントとHGWの境界面を制御しているので、それらの不整合をできる限り消化しないと満足に動作しない。

 

 ついでにデスクトップPCもリストアしたので、すべての設定をやり直すことになってたいそう苦労した。

 

 ときどき僕はIRLのメディアデータを復元不能に破壊してしまうことがあるので、Webに記録しておく。

 今回は自分用のメモなので、Glossary を付加しない。

// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:221014
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
視力と人生の視野。
SUBTITLE:
~ The cat in darkness. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
221014

 歯医者の日。
 曇りのち晴れの予報だったのだが、朝から雨。
 伊香保は坂ばかりのうえ、傾斜がかなりあるのでキャンピングキャビンを背負った軽トラでは上るのが大変である。
 掛けてあるカバーを外してコペンに乗る。数日前に洗車したばかりであるが、仕方ない。

>>>

 僕は元々、そんなにこまめに洗車する方ではない。
 多くても3ヶ月に1回、以前は年に1度も洗車しないことだってあった。
 ロードバイクに乗るようになってからは(屋内保管のため)乗り終えたら車体を清拭していたので、そこで少し意識が変わったように思う。

 オープンカーであるコペンを比較的こまめに洗車するのは、天候が良くて「それではオープンにして走ろうか」と、不意に思ったとき、屋根に埃が積もっていると屋根を格納するトランクの中が埃だらけになる、という理由である。
 僕は気分屋なので、思い付いたときに思い付きの行動をしてしまう。ならば普段からできるだけ、思いつきの行動ができるように準備するよりない。

 オープンカーというのはロードバイクに似ていると思う。
 ロードスポーツ用の器具、と考えれば必然だろう。荷物が積めないあたりは本当に似ている。
 無駄を削がないとならないのだから仕方ないだろう。
 それでもコペンはカジュアル寄りの自動車だとは思うが。

 オープンにしているときも(濃いめの排気ガスを吸いたくないので)そうなるが、車間距離をかなり長く取る。
 これは車高が低いため。
 トラックの直後に付いてしまったりすると、速度対比の適正車間距離より150〜200%近い距離を空けないと前が見えない。
 もともと車間距離はかなり広く取るので苦痛はないが、群馬県民たちは車間距離の狭い人が多いので、申し訳ないような気持ちになることもある。

>>>

 人間の視力はその人の人生における視界に影響を与える、と言っていたのは森博嗣さんだったか。

 近視の人は、直近のことばかりに気を取られて未来のことをろくに考えず、遠視の人は未来のことばかり憂慮していて、身近なことをないがしろにするとか、そんな内容だったように思う。
 意外に的を射ているので、僕はその観察が気に入っている。

 目先のことにしか考えられず、広い社会のことや自分以外の人をないがしろにしてしまう人は、だからきっと、目が悪いのだと思う。
 近くのモノしか見えないということは、自分の生活が、身近なものや自分に直接関わるもので集約されることを意味している。遠くの場合は逆になる。
 見えるものとその距離によって、自身と対象、あるいは自身と世界というものの認識範囲は変わる。

 手に届かない範囲のものしか見えなければ、それを基準に自分の振る舞いを決めるしかないし、手の届かない範囲のものが見えないなら、そんなものを気にしても仕方ないと思うようになるだろう。

>>>

 僕はというと、子供の頃から視力に優れていたので、遠近とも細かく見えた。
 特に暗視能力が格別で、リング状の蛍光灯(昭和から平成によく見かけた家庭用電灯)に付属していた常夜灯(およそ5〜15w)で照らされる6畳間の隅で、岩波文庫(フォントが若干小さく、また細いのが特徴)のルビすら読むことができたので、7歳頃から眠れない夜はよく読書をして過ごした。

 僕が外に出ない理由のひとつに外の眩しさに耐えられなかった、というのがあるのだろうと今は思う。
 暗順応が早くて感応が高いぶん、明順応は遅く過剰な感応を抑えられなかった。

 目を閉じていても、明るさが瞼を突き抜けて目が痛くなるのだ。
 まぁ実際は痛いほど眩しかっただけだろうと思うが、それでも眩しさで涙が出てくることは多かったし、目を開けていられないことがよくあった。
 ために屋内でも日中に本を開くと地の白がまぶしくて、困惑することがあった。

 少々日に焼けたくらいの本を読むのが好きだったのはそのせいかもしれない。
 夕方頃になって、ようやく見やすくなった頃になると「こんな暗いところで本を読んで」と大人に言われることもあり「このくらいの明るさがちょうどいい」という説明を理解してもらえず苦慮したものだ。
(父上はあまり家にいなかったが、あまりに暗い場所を僕が好むので、やがて何も言わないでいてくれるようになった)
 正常な蛍光灯でもちらつきが目に焼き付くので、僕は蛍光灯を嫌うし、現行のLED照明も(安物は特に)ちらつきがあるのか目が疲れる。

 では人生のあれやこれやをよく観察し、現在から未来にわたって適切に気に掛け対応していたのかと問われると、どうもそういうようには思えない。
 僕はかなり早い段階で、僕自身とそれにまつわる人生について、その多くの部分を諦めた。

 思い通りにならず、制御できず、願いは叶わず、想いは伝わらず、自身のありようについてさえ誰かに理解できるものではないと断定し、環境と自身にある壁を無理して乗り越えることに意味を見出さなくなった。
 あるいはそれはよく見えていたからこそ、なのだろうか。
 子供の頃からよく、他者の視界や認識と自身のそれとが異なることについて考えていたのは、それがそもそも違うということを経験から知ったためだろう。

 暗闇に強いのは事実だ。
 人生に暗闇はつきもので、きっと孤独は、暗闇に似ている。
 足下を注意してくれる誰かはいないし、転びそうになったときにもたれ掛かったり、手を引いてくれる誰かはいない。
 当たり前に明るい場所で生きていると気付かない
障害物に思い切りぶつかることもあるだろう。

 しかし猫のように夜目が利き、明るさによって視力を奪われる場合はどうだろう。
 確かに暗闇にあって多くの人は活動をしない。
 必然に周囲に人はいないのだが「見えないこと」による事故や失敗は少ない。
 むしろ明るく人の多い場所にいるときほど、誰か(あるいは良くない何か)にぶつかったり、足下がおぼつかず転んだりするのだ。

 こうなると誰かと協力する、という考え方にも認識の偏向が現れるだろう。
 僕は誰かと同時に/一緒に同じ作業をするのではなく、同時であっても分業し、自分にできないことを誰かにして貰い、誰かにできないことをするのを好む。
 自分でできることは自分の方がだいたいうまくできるし、僕にできないことをできる人に惹かれ、ときに畏敬の念を抱く。
 僕は夜目が利くけれど日中はさほど視力が働かないから、夜目が利かなくても日中はよく見える人がすごいと思えるのである。

>>>

 自分にできることを自分より上手にできる人に憧れることはほとんどない。
 それは自身の道の延長線上にあるからだ。
 仮にプロの陸上選手と同じ速度で走ることはできなくても、少し走ることができて、また歩いたり這ったりして移動できる以上、移動するという目的は達成できる。

 世界一速く走れることについて、僕は僕に対しては意味も目的も見出さない。
 アスリートやスポーツを否定するわけではないが、人よりも速い動物はたくさんいるし、道具や乗り物もある。
 速度や移動そのものを目的にして手段を限定しなければ、選択肢はたくさんあるというだけのことであり、道具が自身の肉体に限定される場合、目的を明確にすれば世界一の速度は僕には必要ないというだけである。
 近所のコンビニまで世界一速く走っても、歩いて行っても、買い物ができれば問題はないのだ。

 計算も同様で、時間内に計算できる必要を僕は感じない。
 仕組みも理解できない公式をただ暗記して記号のような解を記述するより、理解できる単純な仕組みに分解し(そのぶん羅列が複雑になったそれを)時間をかけてでも自分に分かりやすく解いてゆくことを好む。
 文章も同様、人一倍時間が掛かるのだけれど、それでも僕は時間を掛けて、僕の納得のゆく情報を書き連ねてゆく。(もちろん、それが誰かの役に立っているのかと問われると、どうしようもなくなってしまうのだが)

 学校などでは、他の生徒という他者がいる以上、またカリキュラムがある以上、どうしても時間で区切る必要が出てくる。効率を優先する手前、公式によって駆け足で進める必要もあるだろう。
 しかし同じ問題を何時間も、何日も考えてよかったらどうだろう。
 たとえば僕は、大人になってから三角関数や微分積分を身に付けた。
 本を読んで学んだというよりは、毎日少しずつそれについて考え続けた結果、ある日突然、全体像が把握できた、というのがより正確な印象だ。
 時間は掛かったし効率も悪かっただろう。しかし学校で学んだときは何も身に付かなかったのだ。

 生きる上での様々な問題についても同様だ。
 他者がいれば必ずと言っていいほど時間の制約が発生する。時間内に正解を出さなければ落第になることもあるだろう。
 しかし時間制限のない問題や、そもそも未来についての問題もある。
 これから発生しうる問題を予測したり、それについて対策することは、たとえばご近所や親戚付き合いや食品スーパの特売などに比べれば些末な問題に見えるかもしれない。不要にして無用に思えるかもしれない。
 問題解決は空腹を満たさないかもしれないが、より深刻な空腹をもたらす原因を解消する可能性は否定できない。

 毎日、ほんの少し何かを考える。
 身近な何かを考えて、自分とは遠い何かを考える。
 やがてそれはひとつの線上に繋がる。
 関係がないと思っていたもののひとつひとつは、そうやって繋がってゆくのだ。
 ただ時間を掛けて見ているだけでも。

>>>

 視力に話を戻す。
 極論を言えば、盲目の人は盲目なりに、その人の観る「世界」がある。
 これは視力の問題ではなくて、環境に対する感覚/認識能力の広さや深さ、きめの細かさだと言える。
 無論、視力がないぶん、接する社会や人間は限定的になるだろうけれど、そこに感じている世界は、僕のそれよりずっと豊かかもしれない。
 
>>>

 数年前から視力が低下し、明るさに強くなった。
 もはや暗闇を見通す力は僕にはない。

 実は子供の頃から目を閉じて歩く練習はしていた(長時間、目を開けていると眩しいから)ので、音や振動だけで周囲の障害物を確認することは比較的得意ではある。
 それでもやはり30代あたりから、この世界は精細を失っていった。
 今の僕は細かいものを認識する能力をおよそ失っている。

>>>

 幸か不幸か、僕は近視眼的な人間も、即物的な人間も、また盲目的な人間も相応に見てきた。
 あくまでも僕の生きた視界の範囲内に過ぎない。

 それでも近視眼的な人や即物的な人は、一見すると現実的なことをもっともらしく語る(ときにはこちらに説教までしてくる)ものの、本人の目先のことばかりしか考えていなかった。
 将来的に発生しうるより大きな問題や、自身の抱える価値観の問題点については棚に上げていた。

 もちろん僕はただラッキィだったから、こうしてそれを傍観できる立場にあるわけだけれど、そうでなかったらシンプルに65歳を待たず自死していただろう。それだけのことである。
 あるいはもっと近視眼的だったり即物的だったりすれば、もっとひどい状況になっていたと想像できる。

 たとえば卑近な例で、僕は20代の頃に栄養失調で歯をダメにしてしまった。
 健康保険に加入してさえいなかったので治療もできなかったし、そもそも失調したのは肉体だけではなかったので、どうにもしようがなかった。誰かを頼る気にもならなかったし、頼る人はいなかった。
 だから当時はそうするしかなかったし、同時に「遠い将来、もしかしたらきちんと治療できるだろう」とも考えていた。
 たしかにもっともらしくお節介を焼こうとする人もいたが、それはその人たちの価値観に基づいた行動の押し付けでしかなくて、それに則って行動してもたいした成果はなかった。

 あのとき無理に治療していたら。
 あのとき無理に頑張っていたら。
 あのとき無理に物事を正常にしようとしていたら。

 あるいはもっとよくなったかもしれない。
 しかしもっとひどいことになったかもしれない。
 今いる場所にあって僕に言えることは「まぁこれでよかったか」という程度である。
 少なくとも僕は自身に対する信頼を、多少なり取り戻すことには成功しているのだからそれだけで御の字と考えた方がいいだろう。
 自分に絶望して自殺するパターンはいくつもあり得たし、それについても未だ特に悪いこととは思えないのだから。

>>>

 そろそろ抜糸して貰えるかと思ったら、インプラント基部付近は継続経過観察。
 抗生物質生活もそろそろひと月になる。薬物耐性は大丈夫だろうか。
 他に治療すべき部分があり、差し歯にするらしく上顎右の犬歯を削られる。
 そういえば上顎左の犬歯も数ヶ月前に削られて差し歯にされた。

 口の両側で咀嚼に気を遣う状態になってしまった。
 その上、最近再開したリフォーム作業が悪いのか花粉の時期だからなのか、粘膜系に軽微な異常がある。

 帰路を走りながら明日はすこし身体を休めようかと考えていると、やがて晴れてくる。
 仕方ないので帰ってから軽く洗車をする。

 夜はカボチャとトマトとレバーのシチュー。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Convergence-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Interface-Life-Link-Maintenance-Memory-Stand_Alone-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Resistor-
 
[Object]
  -Human-Memory-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
//EOF
 


トマトとジャガイモのスープ。初期モデル。
ソーセージを使っている。

 


トマトとジャガイモのスープ。第4回くらい。
フレッシュトマトとニンニクが入っている。肉はたぶん豚バラ軟骨。
この頃から、玉ねぎは業務スーパーのオニオンソテー(みじんの玉ねぎを茶色に炒めたもの。使われている油脂がちょっとアレだが、カレーやシチューに合う)を使っている。

 

 

 

トマトとジャガイモのスープ。第7回目くらい。
第6回のとき、BPが遊びに来ていたので作って出したら美味しそうに食べていた。
そこでキタアカリが終わってしまったので、半年ほど寝ている業務スーパーの冷凍カボチャを入れた。メークインは入っている。

ニンニクは入っていないが、牛肉ブロックとほうれん草が入っている。

 

トマトとカボチャのスープである。これは酸味と甘みが非常によろしい。

 

 

 

三五八床に漬けて冷凍した鶏胸肉が4ヶ月ほど寝ていたので起こして焼いた。
ブロッコリィも付け合わせようと思っていたのにあっさり忘れてフレッシュトマトのみである。

 

>>>

 

 僕は料理の写真を撮るとき、台所をわざわざ片付けたりしない。

 皿も格別よいものを持っているわけではないし、テーブルや背景に気を遣わない。

 

 かつて人間型の恋人が月に1、2回程度来ていた頃は毎週掃除をしていた(恋人の来る週は掃除ができない)のだが、それに似ている。

 あまり過剰に見栄えを気にすると、そのわざとらしさが自分の鼻につくのだ。

 

 もっときれいなテーブルで、もっと綺麗なお皿で、ライティングも工夫してほしい、という人もいるかもしれない。確かにちょっと青みがかっているもんね。

 でもそれをすると料理が冷めるので、あまりしたくないのだ。写真はおまけである。
 トマトとジャガイモのスープがだいたい1週間を超えたので、そろそろちょっと飽きてきた気がしている。何か次のメニューを考えようかな。

 

 

 

 

<歌詞:Uta-Net

最近になって(Amazon がやたら推してくるので)「SPY×FAMILY」を見はじめたのだけれど、EDテーマがとても好きだ。

しんみりするような、あたたかい気持ちになるような、なんともいえない情感が喚起される。
OPテーマでも思ったのだけれど、コード進行がなんだかとんでもない事になっている気がする。最近の流行りなのかな、こういうトリッキィなの。

 

 

 

アヲが帰ってこないので寂しい(夜は特に)。

台風の時もうまくやり過ごしているようなのだけれど、今夜のような雨の日は、やはり心配になる。

 

 

 

// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:221006
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
寒いからトマトとジャガイモのシチューを作ろうぜ。
 
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
221006

 2週間ほど前、3回目のインプラント施術を受けた。
 左上顎部に前回人工骨補強をした部分への基部埋設である。
 手法は様々あるようだけれど、僕の場合は二回法と呼ばれる、文字通り2度に分けての施術となった。
 人工骨によって空洞の多い気泡状の骨格を補強し、安定したところで基部を埋設。もちろん今回も人工骨を足している。

 
 3度目ともなると多少は慣れるのだけれど、慣れた分だけ、自分の口の中で何が起こっているのか想像できてしまうというデメリットもある。
 抜歯痕の歯茎を切り開いて、骨を露出させ、そこに穴を開け、穴を広げ、タップで骨に雌ねじを切り、人工骨と人工膜で補強し、基部をねじ込む。
 なんだよ何の工作をしてるんだよ人の口の中で、という気分に少しばかり、なる。
 上顎骨をハンマーで頭頂方向に叩かれる(骨の加工のため)という経験も今回が初めて。
 まぁ、しない方がいい経験、ではある。

 無論、自分で選択したことではあり、その顛末ではある。
 それでも最初からこんなことになると知っていたら、僕がインプラント施術を果たして受けたかどうかはアヤシイ。
 まぁ、文句があるかといえばそんなことはないが、他人様にお勧めするかと言ったら正直しない。

 一箇所の施術で2〜4ヶ月掛かること。
 施術による身体的負担や行動制限は骨折に近いものであること。
 身体が安定するまで(寝たきりの期間)がだいたいひと月であること。
 施術医によっては薬をケチるらしいこと ── 自身の持つ痛みは誰も理解しない。それは医師でもそうだ。まして資材を浮かせたぶんが儲けになると考える医師が他人の痛みを理解するだろうか。
 1本当たりの金額は、基部と人工歯で合計50万円ほどになること。
 施術医が「まとも」かどうかは、簡単には分からないこと。
(資格認定する組織が多数あり、中にはメーカが発行している認定もあるらしい。メーカは機材や消費財を使って貰う医師が多い方がいい。もはやザルである)

 いずれにしても、ハンマーで叩かれたあたりから身体の負担がかなり大きかったようで、下半身から徐々にぐったりと重くなっていった。おそらく(麻酔で痛みは全くないのだが)免疫反応によって体内が大忙しだったのだろうと想像する。
 いつもどおり施術が終わる頃には空腹を感じる。普段なかなか空腹を感覚しないので、明らかに身体の異常が原因だと分かる。まぁ、人為的に起こしている異常だけれど。

>>>
 
 術後、帰宅してからたびたび食べていたのがトマトとジャガイモのスープである。
 夏の気配が去り、急に気温と気圧が落ち込んでいたので思い付いた。
「SKYRIM」の中の豊富な料理(料理も作れる)を眺めていた奥様(仮想)が、思い付いた。

 作り方は比較的簡単だ。

【材料(必須のもの)】
○ トマト缶(ホール)400g 1缶
○ ジャガイモ 鍋の底に軽く敷き詰められる量
 溶けにくいもの(メークインのような)と、溶けやすいもの(キタアカリなど)を併せて使うとよい。
○ 赤ワイン(紙パックのとか、安物でいい) 水に対し1:3になる程度。


【材料:(任意のもの)】
○ 塩、胡椒、砂糖、その他のスパイス
 好きに入れろ。
 俺は2L鍋に対し、塩小さじ1/2、砂糖小さじ1、ベイリーフ、シナモンパウダー、ローズマリー、天然粉末だしパック(化学系でも問題はないと思うがいずれにしても出汁の味は目立たない程度にしておけ)。

○ その他の野菜
 好きに入れろ。
 定番の人参や玉ねぎのほか、ブロッコリィ、グリーンアスパラ、キャベツ、セロリ、キノコを使ったり、仕上げに水菜やフレッシュトマトを使ってもいい。
 緑色の方が色合いがよくなるが、退色するのも事実なので好きにしろ。

○ 肉類
 好きに入れろ。
 ソーセージ類を使ってもいいし、塊肉を煮込んでもいいし、細切れ肉を軽く包丁で叩いて固めて放り込んでもいい。
 俺のおすすめは豚バラ軟骨だ。軟骨がなきゃだめだ。手羽元とかでもいい。


【作り方】
1.トマト缶の下ごしらえ。

 ボウルにトマト缶をあけ、中身を両手でよく潰す。
 潰していると、へたの部分から繊維が繋がって大きく残ってしまう個体があるから、それは取り出して捨てる。
 繊維質が苦手な人は裏ごししてもよいが、そういう人はもっと上品な料理を作って食べた方がいいと思う。
 ほどよくペースト状になったら、缶の中のトマトペーストをゴムベラか何かであまさずボウルに移しておけ。
 ゴムベラはボウルの中身を鍋に入れるまで使うから、缶を空にしたからといってすぐ洗うなよ。
 
 それとこの工程が面倒な人は、カットトマト缶を使ってもいいが、ホールトマトの方が断然美味しいことだけは言っておく。

2.材料を適当に切る。
 幼児がいる家庭ならひと口サイズに切った方がいいだろうし、俺のようなゲーマーが1人で食べるなら、ポトフのごとく、まるっと鍋に放り込んでもいい。
 とくにジャガイモは皮が付いている方が溶けにくいので、苦手でなければ芽の部分のうち目立つところだけを除去して、皮ごと使った方が個人的には美味しいと思う。小さいジャガイモもたまに売っているしな。

 子供の頃は身が大きく削がれるほど皮を剥いていた(そして父上によく苦情を言われた)のだが、大人になった今は、無農薬であろうとなかろうと気にせず皮ごと食べることが増えた。人参もジャガイモも大根もゴボウも、皮があった方が味わい深い。まぁ好みだ。

3.炒めるものを炒める。
 肉類はとりあえず炒めた方がいい。ただ煮込むだけでは臭みが出る場合もあるからだ。
 個人的にはセロリやキノコ、人参なども炒めた方がいい。俺ならジャガイモは炒めないがお前が作るぶんには関係ない。炒めようが揚げようがそのまま煮ようが勝手にしろ。

4.煮込む。
 鍋に根菜を並べてひたひたくらいに水を入れる。
 上からその他の材料も入れる。
 スパイス類も調味料もぜんぶ放り込んでいい。
 最初に書いてあるが、ワインと水が1:3くらいになるようにする。好みで調整しろ。1:1だと、ジャガイモがアルコールを吸収して酔っ払うから気をつけろ。
 あとは落とし蓋でもして、トロ火か弱火で3時間くらい煮ておけ。ゲームとかぱやぱやしていれば時間は過ぎる。
 なにぱやぱやする相手がいない? マッチングアプリでもインストールしろ。

 どうしてもという場合は強火で煮立ったところで弱めの中火にして火入れして、1度火を止め2〜30分冷まし、中火で再加熱して弱火でジャガイモが溶け出すのを待てばいい。時間は短縮できるが、手間は掛かる。
 テキトーなタイミングでホールスパイスは取り出した方がいいが、最後の仕上げでも構わない。

5.仕上げ。
 仕上げに入れたいものを入れろ。
 フレッシュトマトは少し煮てもいいし、水菜などは直前に掛けるといいだろう。
 味見をして、薄い場合は塩かめんつゆを足せ。トマトの酸味が強いから、塩なんかなくてもまぁ旨いと思うが。

 皿に盛ったら粉チーズを掛けても旨い。
 ただし最低でもスプーンがチーズでベタベタになるから気をつけろ。食洗機でだいたい落ちるが、気をつけろ。


【ワンポイントアドバイス】

○ トマト缶はホールの方が美味しいと思う。クエン酸添加の有無については個人の好みで。
○ だしパックと砂糖は隠し味なので、敏感な人は減らせ。
○ ジャガイモは完全に煮崩れても美味しい(それでもメークインは残る)のでそれを目指してもいい。俺はゲームに夢中になっていたせいで、メークインまで溶けかけた。
○ 圧力鍋を使う場合は調理手順が変わる。
(肉を炒めてトマトとワインと調味料で加圧して、自然減圧させてから野菜を入れて加圧せず煮込む感じ)
○ 粉チーズをわざわざ買うなよ? 旨いけど。いろんな意味で後悔するからな? 業務スーパーにでっかいのが売っているけれど。わざわざ買うなよ?
○ 全国の女子高生の皆さんは、そろそろベイリーフを業務スーパーでひと袋買っておくといいだろう。「料理ができるワタシ」を演出できる。それに業務スーパーのベイリーフは1袋数百円で20年分くらいの量が買える。
 年配になってから買うと相続問題が発生すること間違いなしだから気をつけろ。
※あとあと、ベイリーフを入れすぎないように気をつけろ!
落とし蓋は木製よりもクッキングペーパやアルミホイルを使った方がよいだろう。



>>>

 数日前から筋トレを再開した。
 患部と心臓が水平に近くなる腕立て伏せなどは、患部と頭に弱い脈動痛が発生するためできないが、立位であれば多少の負荷を掛けても問題はなさそうだ。

 と思って夜、アヲを探す ── 自力で玄関の引き戸を開け、かれこれ3週間ほども家出をしている ── ついで少し散歩に出かけたら、300mほどで患部がどくどくと脈打つ。歩行ってハードだよね。

>>>

 アヲがいないと僕はけっこう精神的に落ち込む。
 猫でも人間相手でも、好きとか嫌いというのは今まで散々経験してきたが「特別」と思うことは全くなかった。
 アヲは好きなときも嫌いなときもあるが「特別」だと感じられる。
 コミュニケーション能力もそうだし、一緒に過ごした時間の長さ(たった2年ですけどww)もそうだし、なにより「一緒に暮らす最後の猫」という覚悟で飼い始めたからことさらだろう。

 匂いも色も姿形も好きだし、賢さについては今までの(今暮らしているほかの猫のも含め)どの猫も遠く及ばない。
 賢い生き物が身近にいると安心できる。

 AirTag を確認すると、近所をうろうろうしている。
 ときどき探しに出かけて顔を合わせるのだが、声を掛けると逃げてゆく。

 僕が何か悪いことをしたのだろうか。
 身に覚えがないのだが。







 
// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:
 
[InterMethod]
  -Diary-Maintenance-Kidding-Season-
 
[Module]
  -Generator-Resistor-
 
[Object]
  -Cat-Dish-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :暗闇エトランジェ:ひとになったゆめをみる:キッチンマットで虎視眈々:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:221003
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
今日のゲームの話。
 
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
221003
 
 十年前に発売されたゲームのDLCが公開された。
 オンラインゲームだとしてもそのタイトルとコミュニティが10年も維持されているとすればかなり長寿の作品であり、またそのコンテンツは初心者にも分かりやすく面白いものに始まり、旧来のベテランユーザの探究心をたゆまず刺激するものであろうこと、そして何より新規ユーザと古参ユーザのバランス調整が秀逸なのだろうと窺える。

 僕がプレイしていたオンラインゲームでいえば「EVEOnline(※)」がそれに当たるが、基本無料化に伴いPvP(※)要素が色濃くなり、PvE(※)における治安が悪化した。

 何より気分を害されるのは、ログインボーナスである。

 ログインするたび、何もしていないのに運営から何かをもらえる。これが没入感を酷く削ぐ。ゲームを「するもの」から「させられているもの」に感じさせる要因のひとつである。なので(課金期間はまだ続いているが)ログインするのをやめた。

 Corp(※)の代表だったので本来なら引き継ぎなどをしなくてはならないのだろうけれど、それをする気が持てなくなるほど、ログインするのが苦痛である。

 >>>

EVEOnline:
 Wikipedia の情報が総括的だろうか。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/EVE_ONLINE

 プレイヤは数多の星系群を渡り様々な活動を行うことができる。

 基本的にはシステム側が強制するストーリィモードのようなものは皆無に等しい。
 数万人が同時接続し、自由に解放されている市場で物価が流動的に変わる(生産者が自由に値をつけられるほか、売り注文や買い注文を出せる)ため、金策に奔走するうちゲームコンテンツに理解が広がってゆく。
 戦闘/交易/生産とも、導入は比較的容易に理解できるが、いずれも複雑な奥行きを持っている。


Corp:
 プレイヤキャラクタ(PC)によって起業された組織。
 資本金の設定と運営や組織内の役職マネジメントなどこれまた複雑。
 NPC Corp も存在するが、プレイヤ活動(戦闘や交易の報酬)にかかる税率がそれなりに高いので、ソロでも起業する価値はある。


PvP:( Player vs Player )
 いわゆる対人プレイ。
 警察機構の有効圏外星系においては、戦争や強奪などが頻繁に行われている。
 また警察機構が有効な圏内でも、合法範囲内での決闘、先制攻撃を誘発する物品奪取からの合法的な反撃、巨大輸送艦の積み荷を狙った KamikazeAttack など、無法者が活動する機会は多い。
 またプレイヤの格言に「マーケットこそ最大のPvP」というものがある。


PvE:( Player vs Environment )
 対プログラムのプレイ。
 戦闘が好きでもPvPが苦手な僕のような人間は、4大国家に属する各企業のエージェントから依頼をもらって戦闘任務に出掛ける。
 他にも惑星資源開発やワームホールの探検など、戦闘モジュールを使えないプレイヤキャラクタは早晩のうちに死ぬ。

>>>

 そんなEVEOnlineの話は捨て置いて、今回の話は「SKYRIM」である。
 実に10年ぶりのDLCなのだが、そもそもこのゲームはオフライン1人プレイ専用である。
 僕が初めてプレイしたのはおよそ5年前、熱もすっかり醒めた頃、と思いきや有志による攻略Wiki の更新などは盛んでたいそう驚いたものだ。

 以降現在まで、ときどきプレイしている。
 価格を数倍したようなコンテンツの豊富さは、数回のプレイですべて回収することが不可能だと思える。
 完全日本語化に対応し、ゲームシステムのプログラムは非常に複雑で洗練されていると感じられる。

 街に暮らすNPCは、夜になると自宅に帰って食事をして眠り、朝は職場(商店や農場、馬屋や神殿)に出掛け、ときに雑談を交わしている。
 街の衛兵も二勤交代をしているところが多い。
 洞窟を探検していると、根城にしている盗賊同士の言い争いが壁の向こうから聞こえたりする。

 メインのストーリィはあるものの、それぞれのNPCがそれぞれの思惑で活動しているので、独立して関わることができる上、ひとつのストーリィが他の誰かのストーリィに関わってくる場合もある。その尋常ではないボリュームは圧倒的である。
 結婚もできるし養子を取ることもできる。家を買うこともできる。オーロラや月をただぼんやりと眺めたり、農場で作物を育てたり、川で魚を捕ったり、街道沿いの草花を集めたり、トンボや蝶々を捕まえたり、それらを使って薬品を調合したり、ペットと一緒に行動したり、泥棒やスリをしようとした挙げ句バレて投獄されたり、捕縛に逆らって衛兵と乱闘になったり、脱獄したりできる。

 街の住人を(ほとんど)皆殺しにすることも可能である。
 むしろ「SKYRIMでは何ができないか」を考えた方がいいかもしれない。

 発売当初は「なんかパッケージもシンプルで洋物のテキトーなゲームだったら厭だな」と思って購入しなかったのだが、今は「なぜもっと早く買わなかったのか」と思う。そのくらい面白い。
 XBox360版を最初に買ったが、ハードが動かなくなってしまったので、PS4でも買った。
 5年も経っているからDLC同梱版(しかも Fallout4 もセット)が廉価でオンライン販売されていたので買った。

 そこで販売から10年経った今、DLCである。
 見つけて即買ったのだが、本当に素晴らしいプレイ体験をさせてくれる。

 他でたとえば数年前には「Cyberpunk 2077」というオフライン専用オープンワールドRPGがリリースされたりしたが、ゲーム性およびリアリティによる没入感の演出や阻害という点においては「SKYRIM」には敵わなかった。
 NPCたちは目的もなくそこに置かれたオブジェクトでしかなく、建物の多くはアクセス不可能で、警察はいくらでもテレポートするように湧き上がり、プレイヤレベルに応じた難易度の上昇バランスが悪く、スキルを覚えた後半になると極度にユルいゲームになってしまう。

 SKYRIMにも「目的もなく置かれるNPC」はいるが、それでも目的 ── 「戦火で家を焼かれて逃亡中の夫婦(5ゴールド渡せる)」とか、「戦争中の両軍いずれかが捕虜を護送している(捕虜に武器を渡せる)」などなど ── がある。
 商店のカウンターに載っている商品を間違えて(操作上、最初はよく間違える)盗んでしまったときにやって来る衛兵は人数に限りがあり、犯罪が発生すると街角のパトロールから兵舎の連中までやってくるが、皆殺しにすることはできる(衛兵だけなら数日後には補充される)。

 非常に優れた根幹のシステムを持っているからこその秀逸なゲームである。
 これが10年前に販売されたことが驚きである。
「究極のRPG」と銘打たれた宣伝文句を当時の僕は信用しなかった。
 そりゃそうだろう。
 メーカであれパブリッシャであれ、今までどれほど「究極」という謳い文句が安っぽく使い捨てられてきたか。

 未だにゲームをプレイするとき、どんなジャンルの、どのメーカのものであっても、SKYRIMと比較してしまう。
 プレイ体験の比較対象として非常に高いハードルではあるのだけれど(価格に見合うかどうかはプレイ前には分からないことなので仕方ないにしても)ゲーム体験が比較して不快であれば、SKYRIMをプレイすればよいのだ。
 僕はSKYRIMを信じる。あれは「名作」と冠されるべき以上のゲームである。

 そんなわけで「ウマ娘」を半年以上前からプレイしなくなってしまった、という話はまたいずれ。







 
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[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫α:黒猫:
 
[InterMethod]
  -Diary-Love-
 
[Module]
  -Condencer-Reactor-
 
[Object]
  -Game-
 
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[Cat-Ego-Lies]
  :コントローラと五里霧中:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:221001
// NOTE:221001
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
喧噪の夏は終わる。
SUBTITLE:
~ to be Quiet. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
221001
 
 文書を書くことは僕にとって、死に対する抵抗だった。
 
 今でこそ死そのものを慕わしいものと認識しているが、かつては違った。
 子供の頃 ── それこそ生まれた頃 ── からペット(犬だけでなく猫や鳥もいた)に囲まれていたため、生きるすべての者に誕生と死があることはかなり早い段階で理解していた。
「父上が死ぬぞ死ぬぞ」と家中が大騒ぎしていた当時、僕は2歳だったので「何か大騒ぎするもの」程度の認識だったとは思うが。
 
 死を認識することと、それが自らの定めであることを理解するのとは別問題である。
 僕は自分が死ぬということにショックを受け、10歳の頃は半年ほどふさぎ込んだ(表向きは普段から大人しいので分からなかったと思う)。
 半年間考えた挙げ句、粗雑なミームを世に残すことは可能であっても、精緻なコピーを生み出すことは、自身という意識を残すことが不可能である時点で不可能であると結論した。あとはオカルトを頼るくらいしかない。
 
 そもそも7歳の頃には「眠くならずにずっと起きていられたらいいのに」と思うほど、時間には貪欲だった。
 ものすごく眠ってしまう自分の身体が呪わしかった。
 
 大人になってその態度は軟化していたが、それは自分の時間を主観的に増やす術について対策できていたからだろう。
 
>>>
 
 人間は肉体に与えられた時間により、ひとり分しか生きられない。
 長い短いはあるにせよ、肉体に縛られている限り「自分以外」を生きる術はない、というのが一般的な認識である。
 
 上記の通り、死は(遠ざけられても)避けられず、肉体の死を超越して、自我意識を保存する手段はない。
 仮にあったとして、再生手段がないだろう。まさか天国で官公庁の抽選があって、当たれば再生できるものだろうか、そんなはずはあるまい。もしあれば今生に生きる誰かが「いやぁ、8回くらい抽選してやっと当たったんですよぉ」なんて言い出すだろうが、今のところ見かけない。
 死ぬと情報は失われ、早ければ数年、遅くとも数十年で風化し、個人という情報の多くは失われる。
 ── 戸籍だとかをして「個人」と思える人にしてみれば、まぁ当面は残りそうだけれど、戸籍謄本を相手に会話することはかなりの高度なテクニックを要するだろう。
 
>>>
 
 たくさんの自分を並列させることで僕はそれに対応した。
 自我も薄かったのがちょうどよかっただろう。
「いつも他人事のようだ」と僕のことを叱責したり、嘲笑する人も居たが、実際僕は、自身のことをけっこう他人事のように思っている。
 
 ひとつの事象に対して、善人にもなれれば悪人にもなれる。あるいはその思考を並行して行う。
 もちろん肉体による行動はひとつしか選択できない。ゲームのようにセーブ&ロードすることやリセットすることは不可能だ。
 それでもその時々で、様々な先入観に従って知見を分析することが、僕には大きな意味を持った。
 
 それによる弊害ももちろんあった。
 特に初期は処理速度が遅く、単純な事象や人間関係に対して理解し解析するのに相当の時間を必要とした。
 実際に、自分と相手が考えていることがAとnotAの2パターンしかなかった場合でも、相手が考えていることを想定した場合事象がもたらす結果は4通りになる。
 事象を分析し、状況を整理し、結果を待って検証するのは大きく手間だった。
(相手に考えていることを直接尋ねないのは、人間が「嘘をつくことにメリットを見出している場合がある」ためである)
 とくに一般的な人間関係というものに疎いまま育ったので、これは苦労した。
 
 けれども僕はその思考を、ひたすら書き続けた。
 それそのものは矛盾していて話が飛び飛びの文章だったが、ランダムに跳躍し、方向性が定まらず、にもかかわらず先入観を手放そうとしない雑多な価値観のままにシーケンシャルな情報を羅列するのだから必然だろう。
 
 先入観を捨てるのは簡単だった。
 そうすれば多少は冷静で、客観的な判断ができる。
 しかしそれは僕の求める土台であって本体ではない。
 
 僕は当時流行っていた多重人格者(そういえば最近はあまり見かけませんね)のように、個々の人格のうちのほとんどが共用している記憶を持たない有り様を不便だと感じた。
 ただでさえ物覚えが悪い(正確には思い出す能力が低い)のに、この上個別の記憶を管理し、部分的な記憶だけで各個の人格を形成するのは、相当アンバランスな価値観の集積が出来上がるだけだと予測した。
 ために記憶を共用しつつ、様々な先入観のもと、たとえばカレーパンが好き派閥とカレーパン嫌い派閥が論争を繰り返した。とくにショートヘアガール好き派閥とロングヘアガール好き派閥の論争は(僕の中で)有名なところである。
 
>>>
 
 結果的に、複数の先入観がひとつの記憶を共用すると、ある程度の客観性が生まれることが分かった。
 もちろん複数の先入観を持つこと自体、たいていの人がしないことは後々気付いたのだが。
 
 だから僕は一部の人が言うように ── 念のために書いておくが、自分で思ったことはないからな! ── 高貴であり、孤高であり、達観しており、上品であり、そして同時に下賤であり、猥雑であり、愚劣であり、下品である。
 思考の中においては銀行強盗を3回くらいして、婦女暴行を23回くらいして、国際紛争が7回くらい起こり、国家議事堂爆破が3回ほど起こっている。
 現実になっていたら少なくとも僕の肉体は滅び、場合によっては世界規模の危機的状況が発生するレベルである。
 
>>>
 
 多くの人は、あまりに主観的で、あまりに独善的で、他者についてを考えないように観察された。
(他者について考えること自体が独善的で主観に頼りすぎるのだから仕方ない)
 おそらくそれが自我という影の濃淡のもたらす影響なのだろうと今は思う。
 
 自我の最大の欠点は、他者の自我の取り扱いについてをデフォルトでは無視するように機能すること、だろう。
 子供の頃はもちろんのこと、大人になっても他人を道具使いする人間は少なからず居る。
 自我というのは自身(の中心)を中心にする感覚のことだから仕方ない。
 たくさんの道具に囲まれて、道具の方が優秀だったりもするのに、どういうわけか人間は人間に執着しているようにさえ観察される。まぁ、それが当然なのか。
 
 それにしても自分の身体が正しく「自分のもの」と感じられ、肉体に起因し、あるいはそれの所有するものを正しく「自分の延長線上」に感じられることは、ある種の快楽だろうとは思う。そして同時に苦痛だろうとも。
 なぜといって肉体とともに自我は死ぬからだ。
 
 彼らは死ぬ練習をしていない。自らが無になる練習をしていない。
 己が無になったあとの世界を想像する余地を持たない。
 我思う故に世界があるとでも思っているのだろう。もちろん、主観的にはその方が正しいのだけれど。
 
>>>
 
 文書を書き続けることによってさえ死に対する抵抗としてはおよそ役立たないことを僕は知った。
 メディアは物理的破壊を免れず、情報を長期に保存するにはメディアをまたいで(いわゆるマルチ/クロスメディアによって)行う必要がある。カドカワかよ。
 
 そこにもいくつもの弊害がある。
 とくにwebはある種汎用的な保存性を持つが、一方で余計な関係性に巻き込まれることもある。
 かといって今の僕のようにNASによる自宅サーバを持っていても、それにアクセスできるのが自分だけだとすれば、そのミームはミームとしての役割を果たさず、単に保存された情報でしかない。
 
 もっとも死に対しては、かなり早い段階で諦めをつけた。
 それに僕は十分なだけの僕を生きた。むしろこのような感想を持つにはちょっと早すぎたと思う。
 だからといって子供の頃の貪欲さを否定するわけにもいかない。
 僕は複数で生きていたかったし、実際にそうしたのだろう。
 
 危惧されうる価値観の破壊 ── 強烈な自我の持ち主は、他者の持つ薄弱な自我を蹂躙し、いわゆる「正しさ」によって抹殺する ── を避けるため、社会との関わりを相当に限定するに至った。
 幸運だろうとは思う。ネコノカミサマ様々である。
 
 おかげでこのひと月の間、スーパーに買い物に行ったときのやりとりと、歯医者に行ったときの会話と、弟子との電話数件と妹とのメール以外、言葉を交わしていないので日本語を忘れそうになっている。
 
  ── やっぱり日記はこまめに書いたほうが健全な気がしてきたので書いておく。
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Diary-Ecology-Interface-Life-Link-Mechanics-Recollect-Stand_Alone-Style-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Generator-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Memory-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :夢見の猫の額の奥に:
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:220915
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
空だ身体からだ殻だから。
SUBTITLE:
~ Nothing but Information.
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
220915
 
 過集中と憂鬱。
 とくに抑鬱が長期に渡っているが、子供の頃はずっとこうだったことを思い出した。
 数ヶ月もすれば気分が晴れるから、それが不思議で、嬉しかった。
 けれど、でもそれが長続きしないことも理解していて。
 なるほど姉上は僕のことを双極性障害だと言っていたが、子供の頃からそうだったのだろう。ただその名詞を知らなかった(当時は存在しなかった)だけで。
 
 価値観の制御は、かつての僕にはむつかしい。
 どうやって。でも。
 
>>>
 
 はじめて人間型の恋人と身体を重ねたのはまだ10代の頃だった。
 硬く、骨張った僕の身体を、彼女は好きだと言った。
 
>>>
 
 僕は嫌いだった。
 この身体が雄のそれであることも、正しく摂理に従って、オトコとして変容してゆくことも。
 恐ろしかった。憎かった。許しがたかった。
 
 もちろん自然界における有性生物には性別が存在する。
 その存在と分類のために名が冠せられたのだから不可分に。
 そして人間は、有性生物であり、その点について選択の余地はない。
 性別について、どちらでもないことは選べないし、生まれたあとからも選べない。
 肉体と異なる性を主張するのは自由だが、お前たちの身体にも、だいたい精巣か卵巣が備わっている。それに基づいてなされる区分を通常は性別という。
 
 それでは僕が女に生まれていたらどうかといえば、それはそれで己の性を憎んだだろうことも今なら理解できる。
 
 しかし自身(の肉体に含まれる性別)に対する恐怖や憎悪をどうにかしようにも、当時の僕のきわめて狭い範囲の知見や経験では圧倒的に足りないことは直感的に理解できたし、それを自分の求める程度まで広げるには、時間やコストといったリソースが圧倒的に足りないことも理解していた。
 時間資源なら確かに、子供である自分が持っていた。しかし僕はその資源を使ったあとの「未来」が欲しかった。
 
 そのためには大人になる必要があり、しかし大人になるということはオトコとして変容することを意味していて、それ(オトコであること)について今、自己処理したいのであるが、子供の自分では対処できないという矛盾がそこにあった。
 
 僕はオトコが嫌いなので、女でありたかった。
 女であると思っていたから、オトコを平気で嫌っていられた。
 己の肉体にまつわる性が、正しくその「オトコ」であると知らしめられるまでは ── 。
 
 ただし問題は僕が所有し使用している肉体の性器およびその発露にまつまる自然のありようについて、ではないのだ。
 
>>>
 
 現象であり、記憶であり、情報である。
 そしてそれを入力し、解析し、演算し、格納して構成される価値観である。
 
 僕がオトコを憎んだ理由は、僕の性自意識によるものでもなければ、僕の肉体によるものでもない。
 自然発生的に、僕は自分の性自認の意識を「女性として」持ったわけではなく、むしろ自然発生的に「男性として」持つことになった。僕はオトコである。
 
 オトコを心底嫌悪する類いのそれだ。
 その憎悪は、環境がもたらしたのではなかったか。
 僕は何も悪くなかったのではないのか。
 僕の持つ肉体や、それの持つ機能に罪はないのではないのか。
 
 しかし直近の卑近な例で、たとえばカルトな宗教に関係を持っている人間を、多くの人間は忌避する。
 たとえばかつてオウム真理教と呼ばれた集団の後身に属している人をして、属していない人と同じように接することのできる人がどれだけいるだろうかと思う。僕はできるだろうか。身構えたりしないだろうか。
 すなわちその人そのものの本質と、その人の選ぶ、あるいは不可避に与えられた環境についてを、完全に切り離して考えたり、接することは困難ではなかろうか。
 
 少なくとも当時の僕には不可能だった。
 
 僕は心の底から男性性を嫌悪した。
 自身の肉体がそれに属しているという環境は不可避であったが、それでもなおそれを憎悪する選択をやめなかった。
 自身に含まれるそれも、なべて等しく呪うことにした。
 自分だけを特別扱いにすることはおよそすべての不幸の始まりのように感覚していたし、それは今でも変わらない。
 
 それらの価値観によって、いくぶん肉体と思考が分離することは避けられなかったが、それでも「情報」としての自身に重きを置き「存在」としての自身を憎むことは可能だった。
 
 
 
>>>
 
 潔癖症が拍車を掛ける。
 漂白剤に浸したような、情報だけの、物理側面を持たないような世界は存在しない。
 
 だから消してしまえと声がする。
 
>>>
 
 そうだ、ちんちんを切ってしまおう。
 と10歳の頃には思った。
 正しく切除すれば、正しく「オトコ」ではなくなるだろう。
 いつか発生するだろう性欲というものさえ制御できるかもしれない。
 
 性別は肉体に宿るのだと、僕は ── オトナになった僕が理解するよりずっと以前から ── 既に理解していた。
 
 しかし果たせるかな、僕にはお金がなかった。
 幸い第二次性徴を迎えてはいなかったが、つまり成人さえしていなかった。
 小学生ではバイトもできない。
 まぁ思春期の男子がバイトをして貯めたお金でパイプカットするというのは、今思うとなかなかシュールだけれど、それくらい切実ではある。
 
 自身の持つ肉体や性自認がオンナである必要なんてなかった。
 オトコでなくなりさえすれば、それでよかったのだ。
 
 そのようなわけで、自ら剃刀を少し当てたことがあった。
 13歳になって肉体の変容が少しずつ始まり、性欲のなんたるかを正しく感覚(それは肉体的な感覚である)し始め、焦り、恐怖の末の行動だったが、ろくに切れてもいないのに出血が尋常ではなく、痛みも激しく、断念した。
 切除される前に本体が死ぬ可能性が考えられた。
 それはそれで構わないけれど、浴室で陰茎から出血した死体を発見する家族の気持ちを考えると(個人的には面白い画だと思うが)いたたまれないのでやめることにした。
 
 あれは自分ではできないと思った。
 武士か。
 もののふならできるのか。
 だが俺には無理だ。
 
 風呂場で、心底そう思った。
 
>>>
 
 玉石は常に混交である。
 
 なぜならそこにあるものを宝石と思うか、石ころと思うかは、それを観察する意識により決定され、その判断の基準となる価値による以上、我々の判断と意志と言動のすべてを統括しているのは価値観そのものである。
 意識や思考など、価値観というフィルタに癒着した、ただの処理装置に過ぎない。
 
 だから意識は肉体に起因し、帰属し、永続しない。
 では価値観はどうだろう。
 それは純粋な情報である。
 だから言語化することも演算することも、媒体に記録することさえ可能である。
 
 その意味において人格は保存が可能であり、コピーが可能であり、抹消が可能であり、改変が ── 改善も改悪も含んで ── 可能であり、履歴を残すことが可能であり、復元もまた可能である。
 装置たる肉体の複雑な物性および設計や機能による不完全性を考えなければそういうことになる。
 
 その意味において、人間という個は全体的であり、永続的である。
 多数決は ── その決定の意味するところの善し悪しを問わず ── それを補完しさえするだろう。
 
「分離された個」という概念を、その装置が持たないならばより完璧に。
 もちろん肉体あっての意識であり、思考であり、価値観ではあるのだが。
 
>>>
 
 憎しみも悲しみも怒りも絶望も。
 だからこの身体に起因しているのだけれど、僕という価値観に癒着したそれを消すことは、だから、できない。
 
 ── 本来に、本質に、憎むべき装置たるそれを。
 
 ために我々(いつかある恋人に指摘されたことがあるが、僕は一人称/二人称代名詞を複数形でデフォルトとして使う)は、装置を否定した情報である。少なくとも主観的にはそうだった。
 なぜならこの身体は不安定で、生存不適合で、その上(他の誰かが祝福し、あるいはその時点では誰一人として呪ったことのない事実があるにも関わらず)存在を自身によって否定されていた。
 
「僕」は僕という複数の価値観の集合によって形成されている。
 生存そのものが情報の上でも不適合に構成されてしまった ── 僕の思考という情報処理は、僕の肉体という装置を、その存在を、許さない ── けれど、それは、僕の中に自然発生的に生まれた価値観によるものではない。
 
 空腹を感じ、眠気に支配されるように、自身を女性と定義し、認識し、男性を嫌悪したわけではない。
 ただ与えられた環境が、記憶が、情報が、それを醸成した。
 もちろん、僕自身がそれを選択し、焼き付けたわけだ。
 
 だから他の誰かのせいだ、などと無責任をアピールすることはできない。
 それは必要な価値観だった。優先すべき判断基準だった。守るべきものだった。大切なものだった。
 
 大切であってほしかった。
 守られていてほしかった。
 優先されてほしかった。
 必要とされている世界であってほしかった。
 不要とされない世界であってほしかった。
 これらを集約すると「正しさ」という概念になる。
 僕にとっては、本来、そう。
 大切とか、守りたいとか、優先したいとか、必要とするとか、信頼できる、とか。
 
 正しいというのはそういうことだ。
 
 僕の責任で、その情報選択はフィルタされ、残された。
 
 それは僕以外の誰かによってもたらされた悲しみでも怒りでも喪失でもなく、僕の手によって形作られ、残された悲しみであり怒りであり喪失だった。
 僕に責任がないなどと、僕は考えなかったし、今もそうは思えない。
 だから僕は責任がないとはいえない。
 
 大切にしなかったのは僕であり、守らなかったのは僕であり、優先しなかったのは僕であり、必要とせず不要としたのは僕である。
 だから僕は僕自身を裏切ったことになる。
 
 僕の肉体という装置の完全/不完全性や能力基準の適合/不適合を問わず、事象が過去であるが故に物質としてアクセスすることが不可能であるにせよ。
 僕は傍観し、にもかかわらずそれを知り、そして過去の現象を未然に防ぐ処理をできなかったという事実によってなおさら、僕自身の価値観を傷つけたことになる。
 
 無責任に「それは僕のしたことではない」などと言えるだろうか。
 無責任に「僕のしようとしたことではない」と言えるのだろうか。
 無責任に「過去だから変えられない」と言えるのだろうか。
 無責任に「自分はまだ子供だったから仕方ない」と言えるだろうか。
 無責任に「肉体や思考機能が発達していないから」と言えるだろうか。
 無責任に「僕以外の誰かが悪い」と言えるのだろうか。
 無責任に「僕以外の誰かに起こったことだ」と言えるのだろうか。
 無責任に「僕がそう思うのはしかたない」と言えるのだろうか。
 無責任に、僕は僕を憎悪しない理由があるだろうか。
 
 僕が僕を憎悪しない理由があるだろうか。
 
 回避する手段が、あるだろうか。
 
>>>
 
 性別という認識の存在しなかった頃の価値観は当然に根幹として存続し、いまも処理を続けている。
 
 身体が弱かったからだろうか。
 僕は身体の状態や機能をうまく把握することができず、上手に走ることも、手指を器用に動かすこともできなかった。
 よく転び、穴に落ち、つまづき、目の前のものにぶつかった。
 力余って怪我をし、力が足りずに怪我をし、不注意で怪我をし、注意しすぎて怪我をし、意味もなく病気に罹った。
 
 不便な肉体から乖離した場所で、意識という情報があるのは救いだった。
 僕は情報そのものとして自分を認識することが可能だった。
 
 多くの人間は、肉体という装置によって自他を認識し、判断する。
 僕は異なる判断基準を、我知らず持っていたことになる。
 
 好きな肉体だったら何が良いかと問わずも思いつき「猫だったらよかったのに」と、そう思った。
 オトコでもオンナでもよいし、オスでもメスでもよかった。
 弱肉強食でよかったし、男は殺して女は犯す文化でよかった。
 そんなものは些細なことだ。
 ニンゲンたちだって、そうやって生きているのではないのか。
 
 現実に、あまりに多くのものが大切にされず、守られず、優先されず、必要とされず、不要とされ、いいように慰みものにされ使い捨てられるのだ。
 
 人間という装置に押し込められた不幸を、僕は呪ったのだったか。
 
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 身体を呪っていたので、だから、指先に至るまでを仔細に感覚することが、あまりなかった。
 ために僕は不器用で、肉体的な力をうまく発揮できず、制御も認識もいい加減になってしまった。
 
 歩けば転び、些細な内臓の変化に気付かず病気になり、ホチキスを手に刺してしまったり、カッターで力余って皮膚を裂いたり、眠気も空腹も認識できずに過集中を起こし、しかし肉体装置によって限界を迎えて不調を来す。
 
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 あの頃の僕にとって、未来は永劫だった。
 なにせ一度も死んだことがなかったし、10年生きるのがこれまでのおよそ倍だとして、成人を迎えるまでにさらにその倍も掛かるのだとしたら、いったい僕はどうやってこの不完全な装置を使ってまっとうに「清浄なる世界」を実現しうるのだろうかと絶望した。
 それは果てもない未来で、そのうえ叶いそうにない未来だった。
 
 憎悪するものの何一つない、清浄なる世界は、実現しなかった。
 
 よかったのかどうか、今も分からない。
 僕は未だに、自分に絶望する。し続けている。
 
 この肉体装置にももちろんだが、しかし救いもある。
 この装置は、情報そのものではない。
 
 だから記録されず、保存されず、コピーされず、復元もまたされない。
 遠い先だったはずのかつての未来をたぐり寄せたようにして、僕は僕を殺さずしてその死を目の当たりにするだろう。
 
 僕は眠っていて、よかったんだ。
 ずっと、いい眠りだった。
 死んでいるように、静かで、あたたかくて、安らぐ場所だった。
 絶望もなく、希望する必要もなく、ただ存在しないでいられる、いい場所だった。
 
 かつて眠らされることになった、その不安定な、矛盾した価値観の集積を、僕はうまく処理できただろうか。
 たぶん、うまく処理したのだ。
 些細なことだけれど、僕には大切なことだった。
 
 どうか信じてほしい。
 僕だけは、君を ── 。
 
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 彼女たちは皮膚を撫ぜる。
 僕は、やがてそれをうまく感覚できるようになった。
 
 乱暴ではなかった。
 ときどき痛かったけれど、自分以外の他人の肉体の感覚は、だから、そもそも分からないものなのだ。
 勝手なこともされなかった。
 この身体はどうやら、僕のものであり、僕に所有権があり、僕しか使用できないようだった。
 
 僕が感覚しなければ、何も感覚せず、僕が使おうとしなければ、何もせず、だから、適切に使うべきだろうと思えた。
 
 撫ぜられることを、心地よいと思った。
 あたたかいと、思った。
 
 セックスが怖くて、性欲を持つことを恐れて、社会人になったらパイプカットしようと思っていると説明したのだったか。
「切ろうとなんてしちゃダメだよ」と彼女は言った。
「猫くんを撫でる私のこの腕を切ったら、猫くん、イヤでしょう?」と彼女は説明してくれた。
 それはもっともだった。
 
 撫ぜられるのは、シアワセなことだった。
 
 その10年ほどあとの恋人は別の人だったが、性転換手術を受けたいと思うことがあると話したことがあった。
「そうしたら私は、どうやって猫くんとセックスすればいいの? 私は猫くんのカラダとセックスしたいよ」と言われた。
 至極もっともだった。
 それなら身体はオトコでもいいか、と思った。
 なるほど身体は自分のためだけに使うものでもないなと、そう理解した。
 自分のためだけに使うより、誰かのためにも使える方がよいと思えた。
 
 無論、性別は肉体に宿るのだ。
 肉体のそれを許すことは、オトコという性別に存することを許すことであり、オトコという性別を赦すことにもなりかねない。他ならぬ僕が。
 あるいは自分だけを特別扱いにするのだろうか。
 
 でもまぁ、潔癖であることはやめようと少しずつ思う、それはきっかけだった。
 潔癖は、誰かを傷つけたり、心地よさを壊したり、そういう側面があるのだ、そのうえ単なる自己満足なのに。
 
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 恋人たちは多くを教えてくれた。
 徐々に恋人が(非人間型を含め)増えてしまったが、本棚の本のように「一冊買ったから一冊捨てる」というのもどうかと思った。
 もちろんそういう倫理もある。ではたくさん入る本棚ならどうか。
 
 問題もある。人間というのは基本的に肉体という装置によって人間たりうる。
「僕は猫だ」と主張しても、肉眼では人間に見えるその事実を否定する余地もない。
 
 問題ではないこともある。
 情報そのものとしては僕は猫であり、格別の性別を持たないし、恋人や倫理の定義の多くだって人間の持つそれは実のところけっこう曖昧だ。
 動物的な欲求を前にして、倫理を語る人間は少ない。
 ときどき矜恃を切り売りしてしまう人も居て、しかしそれを誰も責めることができない。
 人は物質の現実に生きるのであって理想という情報に暮らしているわけではないのだろうから。
 
 曖昧が曖昧なままなのは、突き詰めることが不要だったり、都合が悪かったり、ということなのだろう。
 
 それに身体を撫ぜるだけならば、自分でどうにでもできる。
 あたたかさや、やわらかさは少ないけれど、この身体はじゅうぶんに、僕ではないナニカなのだから。
 
 もっとも肉体がこれひとつであるせいで、不便もある。
 過集中が起きているときに、恋人は多く、僕の身体に触れることで、それを解いてくれた。
(おそらく僕の集中は彼女たちからすれば病的なのだろう)
 撫でると過集中が解け、ぐにゃりと脱力する。
 
 ときどき、そうして、外部から自分の肉体にアクセスする存在が必要なのではある。
 
 そうだ。猫と暮らそう。
 
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 そして現在に至る。
 
 僕は僕の肉体を殺すに至らなかった。もちろん他者のそれも。
 
 大切なものはまだあるし、大切にしたいものもある。
 それは「正しさ」と僕が呼んでいたもののことだ。親密で、精密で、整然としたものだ。
 
 憎しみはまだあるし、憎悪するものもある。
 僕は、情報ではなくなってしまった。
 
 かつての僕にとって、それは堕落だ。
 
 今の僕にとって、それは可能性だ。
 
 
 
 
 
 
 
 

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