201111
寒い。
晩秋なのであろうけれど、もう冬を迎えたような気持ちになっていて、湯豆腐を毎晩のように食べている。
大豆製品はだいたい好きだけれど、特に豆腐は好きである。子供の頃から好きだったし、大人になった今でも、数日豆腐を食べないと、飢えてしまう。
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昨日軽トラに乗って、アパートまで行き、今日帰ってきた。
猫と乗るにも狭いコックピットであるが、車を含めた操縦席は狭い方が好きである。
広々、のびのび、なんていうものは客室スペースにこそ必要ではあるだろうけれど、操縦者というのはそもそも搭乗客ではない。
そのあたりを混同したような自動車が当たり前に普及したのが総中流階級社会だったのだろう。
しかしお客様気分で操縦されてしまっては、本当は困る。
わがままなど許されず、細心の注意を払い、規則やルールを守って、他の人を気遣い、目的地まで移動(移送)するのが、運転士の責務である。
お客様気分で我が物顔にしたい人は、運転手を雇うか、せめてタクシーに乗るのが良いだろう。
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床の間の改修作業を最初にすることにした。
そもそも床の間に客を招く設えとはいえない気がするし、床の間に招く客もおらず、床の間のしゃちほこばった作法なんて、誰も知らないように思うのだ。
だから仮眠室兼クローゼットとして使うことにした。
その北は収納の多い部屋で、叔母が寝室にしていたのだが、書斎的なものにしてしまおうと思う。
室内のタンスやクローゼットを解体したので、土壁に凝固剤を塗って、塗装可能な硬度を持たせた。
事務用の書類キャビネットを置こうと思っていたのだが、クローゼットスペースの上にある戸袋が邪魔をして、壁面に付けられない。
仕方ないので、テレビと冷蔵庫を置いて、ベッドとファンヒータを配置した。
ベッドは叔母の使っていたシングルサイズなのだが、天蓋付ベッドを自作する予定なので、それまではテキトーな半キャンプ生活(なにせ外気と屋内温度の差が少ないのである)を続けるつもりだ。
床の間は土壁を硬化させ、畳を剥がして断熱材を挟み、板張りにする予定。
最近の賃貸住宅によく見る、クッション材とコンプレックスになっているフローリング材が欲しいが、ホームセンタに売っているだろうか。
壁面はモルタルが割れていたり、材木が汚れていたりする部分もあるので、適宜、シールしておこうと思う。また楽器を鳴らすのに気を遣わず済むよう、防音材を使って壁面を加工するつもりである。
押し入れの中には作り付けの棚が(安い木材や合板を、よりにもよって無垢のまま釘付けにして)あるので、これらの棚板も原則として解体する予定。
棚の下部には同様に、無垢材のタンス様の引き出しがあるのだが、奥とサイドにデッドスペースがあり、掃除もできない。床や壁材が痛んで虫でも繁殖していたら(してしまったら、ではなく、現在進行形である。過去形になっている可能性さえある)困るので、これも解体予定。
掛け軸の前に壺やら人形やらがごろごろと置かれていて、目障りなので処分した。
壺や人形や掛け軸が悪いというわけではない。
あまり興味のない分野だが、和の設えに、重複する装飾品があるのはどうも落ち着かない。
たとえば掛け軸の脇に壺があるのはいい。
最悪、床間の隅に控えめな「こけし」くらいはあっても許せなくはない。
── 茶道の文化では確か、人と顔を合わせる場所に、顔を持つもの(絵画でも彫刻でも)を置くことは、やはり重複による不気味さを生むので、よくないこととされている気がする。
とにかく考えなしに作られ、使われた建物と装飾品は、ひどく僕を落ち着かない気持ちにさせる。
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設計(英訳ではデザイン)という行為は、ゴールから現在点までを繋ぐものである。
だから設計図とは、どのような材質の、どの様な寸法のものを、どのように配置/接続するかを無から完成に向けて示す図面であり、主として、他者との情報共有のために引かれる。
複数の人間が関わる大きな構造物などには欠かせないものだろうし、個人工作でも、あらかじめ設計検討しておけば、オブジェクト同士の干渉や可動部に掛かる力などを想定することができるから、特に可動型のモノを作る際には必須であるといっていいだろう。
作る人間からすると、それでも図面というのは ── 文字の書き方まで厳密に決まっているのに ── 往々にして不親切である。
それはそのまま、人間どうしのコミュニケーションにも当てはまるだろう。
自分のアタマの中の理想なんて、カタチを持つモノであってさえバカには伝わらない。
バカに合わせて、図面(あるいはコミュニケーション)の質を落としてもいいだろうけれど、当初作りたかったモノはできないし、伝えたいことも伝わらない。
別に僕が孤独なのは天才であるせいだ、とは思わない。
孤独がイヤなら馬鹿のフリをすれば友達はいくらでもできるし、天才ならば馬鹿のフリくらい苦もなくするものだと思うからである。
僕がいいたいのは、図面を読む人たちは、図面が描く完成形をイメージできない人も多いということである。
図面の通りにゼロから作れば、モノは完成するかもしれない(そう簡単なものではないが)。
しかし設計者はアプローチが違う。
完成形をイメージして ── 本来抽象的なはずの機能を満たす「カタチ」を嫌になってなお詳細に、具体的にイメージして ── それを現実世界の実存に置き換える道を敷くのだ。
だから設計者にとっていちばん大事なのは、抽象的なイメージをより具体的にカタチにする能力だろう。
一方で発明家というのは、抽象的なイメージをどこまでも膨らませる能力が重要だと思う。
これらに明確な境界はない。
職業設計士でも、ただのパタンナの人もいればデザイナの人もいるだろう。
むしろ職業にしていると余計に、抽象的なイメージを膨らませることがむつかしくなる。
コストや人間関係が、営利組織にはあるからだ。
この場合、お客様のクレームというのがもっとも優れた「抽象的なイメージ」となる。
理想とするものが掴みやすいだろう。
個人の場合は、利益も人間関係もさほど影響を与えない。
だから僕のように、わがままな理想を大事に育てることもできる。
「これは不便だ」という不満を大事に抱えて「こうなら便利なのに」という理想をイメージする。
設計の最たる仕事はこの、本来のゴールであるはずの「理想をイメージすること」だと思うし、すなわちそれは設計というよりは発明に寄ったもののようにも思える。
僕がモテようとしてしていたことは、つまりそういうことなのである。
ゴールのイメージがあって、それに合わせてデザインをして、若干の試行錯誤をしつつ、現実を具体的に操作/調節する。
その中には僕自身の思考や習慣も含まれるから、必然に、僕はモテという理想をカタチにすることになる。
オカネモチーも同様で、小賢しい財テク(この言葉の昭和感よ)的な情報を勉強するなんてことはしないで、ざっくり漠然としたイメージであった「自分のなりたいオカネモチー」のイメージを膨らませて、考えと行動を変えた。
言葉遣いを変え、姿勢や表情を変え、オカネモチーの思考を想像し、その習慣に思いを巡らせた。
オカネモチーになった僕は、どう考えて、どう行動するかと考えて、そのように変容した。
そんなことで理想が現実になるとは僕もあまり信じていない。
しかしなぜ僕がモテたり、オカネモチーになったのかを考えると、やはりその「ゴールとしての理想から現実に落とし込んでゆく設計プロセス」そのものにあるような気がするのである。
もちろんがむしゃらに働いて賃金を貯めてもいいとは思う。
しかしオカネモチーになることを(しかも、なんとなく思いつきで)決めた当時の僕は、ほぼ40代だったし、10年以上勤めた会社を辞めた直後だったから、そこから労働者として大成するのは、やはり現実的とはいえないだろう。
これはたとえば、平面の迷路のようなものだ。
スタートからゴールに向かうと迷いやすいが、ゴールからスタートを目指したら、簡単にクリアできた経験はないだろうか。
スタートから「ゴールを目指そう」とすればするほど、迷路を作る人が仕掛けた危うげな罠に掛かってしまう。
ゴールからスタートまでの筋道を知ってしまえば、おぼつかないながらもより早くスタートからたどり着けるようになるし、なにより、ゴールからスタートに目指すための罠は、驚くほど少ない。
設計図なしで現物合わせの工作だって楽しいが、設計図を引く楽しさもあるということだ。
(ときどき設計図を描いたことで満足してしまうことがあるが)
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誰か(たとえばネコノカミサマ)に何か願った覚えはないが、Apple 社が、新しいPCを発表した。
いずれマルチプロセッサの Mac Pro を発表するのかもしれないが、もう僕の Mac Pro は息も絶え絶えで、それでも尽くしてくれようと頑張っている姿を見ていると忍びなくて、とりあえず MacBook Pro を注文した。
冗談ではなく本気で、僕は僕のために尽くす道具については絶対的な信頼と愛情を寄せる。
だから同じ型の Mac Pro(当時はそれなりに高かったものだ)が2台に増えている。
人間を、いいように道具使いして用が済むと捨てる人間もいる。僕が誰かをとやかく言う資格はないのかもしれないが、そういうことは、やはり、しないほうがいい。
何がといって、捨ててしまうのは良くない。
道具然とした人間がたくさんいても、それが当人の誇りであることだってある。
誰かのために能力を発揮できることのヨロコビを、有能な人間なら無能な者に数倍して体感しているものではないだろうか。
いえ、べつに、その、恋人をまた27人くらい(あるいは256人くらいまで)増やそうとか、そういう話のイメージをして言い訳をしているわけではないのですよ、本当に、本当ですってば!
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ノートPCは好きではない。
しかし仮眠室のあとは、書斎の改修作業があるのだ。
それまでこの家には机もない(床より先に机を作るわけにもいかない)から、デスクトップPCを使える環境が整うのはまだ先になりそうなのだ。
しかし納屋には作業台と道具用テーブルができたので、作業環境はますます良くなっている。
断熱材や内壁を設えれば、中で暮らすことだってできるだろう。
まぁ、僕が死ぬまでに完成するといいなぁ。

