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TITLE:
喧噪の夏は終わる。
SUBTITLE:
~ to be Quiet. ~
Written by BlueCat
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文書を書くことは僕にとって、死に対する抵抗だった。
今でこそ死そのものを慕わしいものと認識しているが、かつては違った。
子供の頃 ── それこそ生まれた頃 ── からペット(犬だけでなく猫や鳥もいた)に囲まれていたため、生きるすべての者に誕生と死があることはかなり早い段階で理解していた。
「父上が死ぬぞ死ぬぞ」と家中が大騒ぎしていた当時、僕は2歳だったので「何か大騒ぎするもの」程度の認識だったとは思うが。
死を認識することと、それが自らの定めであることを理解するのとは別問題である。
僕は自分が死ぬということにショックを受け、10歳の頃は半年ほどふさぎ込んだ(表向きは普段から大人しいので分からなかったと思う)。
半年間考えた挙げ句、粗雑なミームを世に残すことは可能であっても、精緻なコピーを生み出すことは、自身という意識を残すことが不可能である時点で不可能であると結論した。あとはオカルトを頼るくらいしかない。
そもそも7歳の頃には「眠くならずにずっと起きていられたらいいのに」と思うほど、時間には貪欲だった。
ものすごく眠ってしまう自分の身体が呪わしかった。
大人になってその態度は軟化していたが、それは自分の時間を主観的に増やす術について対策できていたからだろう。
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人間は肉体に与えられた時間により、ひとり分しか生きられない。
長い短いはあるにせよ、肉体に縛られている限り「自分以外」を生きる術はない、というのが一般的な認識である。
上記の通り、死は(遠ざけられても)避けられず、肉体の死を超越して、自我意識を保存する手段はない。
仮にあったとして、再生手段がないだろう。まさか天国で官公庁の抽選があって、当たれば再生できるものだろうか、そんなはずはあるまい。もしあれば今生に生きる誰かが「いやぁ、8回くらい抽選してやっと当たったんですよぉ」なんて言い出すだろうが、今のところ見かけない。
死ぬと情報は失われ、早ければ数年、遅くとも数十年で風化し、個人という情報の多くは失われる。
── 戸籍だとかをして「個人」と思える人にしてみれば、まぁ当面は残りそうだけれど、戸籍謄本を相手に会話することはかなりの高度なテクニックを要するだろう。
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たくさんの自分を並列させることで僕はそれに対応した。
自我も薄かったのがちょうどよかっただろう。
「いつも他人事のようだ」と僕のことを叱責したり、嘲笑する人も居たが、実際僕は、自身のことをけっこう他人事のように思っている。
ひとつの事象に対して、善人にもなれれば悪人にもなれる。あるいはその思考を並行して行う。
もちろん肉体による行動はひとつしか選択できない。ゲームのようにセーブ&ロードすることやリセットすることは不可能だ。
それでもその時々で、様々な先入観に従って知見を分析することが、僕には大きな意味を持った。
それによる弊害ももちろんあった。
特に初期は処理速度が遅く、単純な事象や人間関係に対して理解し解析するのに相当の時間を必要とした。
実際に、自分と相手が考えていることがAとnotAの2パターンしかなかった場合でも、相手が考えていることを想定した場合事象がもたらす結果は4通りになる。
事象を分析し、状況を整理し、結果を待って検証するのは大きく手間だった。
(相手に考えていることを直接尋ねないのは、人間が「嘘をつくことにメリットを見出している場合がある」ためである)
とくに一般的な人間関係というものに疎いまま育ったので、これは苦労した。
けれども僕はその思考を、ひたすら書き続けた。
それそのものは矛盾していて話が飛び飛びの文章だったが、ランダムに跳躍し、方向性が定まらず、にもかかわらず先入観を手放そうとしない雑多な価値観のままにシーケンシャルな情報を羅列するのだから必然だろう。
先入観を捨てるのは簡単だった。
そうすれば多少は冷静で、客観的な判断ができる。
しかしそれは僕の求める土台であって本体ではない。
僕は当時流行っていた多重人格者(そういえば最近はあまり見かけませんね)のように、個々の人格のうちのほとんどが共用している記憶を持たない有り様を不便だと感じた。
ただでさえ物覚えが悪い(正確には思い出す能力が低い)のに、この上個別の記憶を管理し、部分的な記憶だけで各個の人格を形成するのは、相当アンバランスな価値観の集積が出来上がるだけだと予測した。
ために記憶を共用しつつ、様々な先入観のもと、たとえばカレーパンが好き派閥とカレーパン嫌い派閥が論争を繰り返した。とくにショートヘアガール好き派閥とロングヘアガール好き派閥の論争は(僕の中で)有名なところである。
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結果的に、複数の先入観がひとつの記憶を共用すると、ある程度の客観性が生まれることが分かった。
もちろん複数の先入観を持つこと自体、たいていの人がしないことは後々気付いたのだが。
だから僕は一部の人が言うように ── 念のために書いておくが、自分で思ったことはないからな! ── 高貴であり、孤高であり、達観しており、上品であり、そして同時に下賤であり、猥雑であり、愚劣であり、下品である。
思考の中においては銀行強盗を3回くらいして、婦女暴行を23回くらいして、国際紛争が7回くらい起こり、国家議事堂爆破が3回ほど起こっている。
現実になっていたら少なくとも僕の肉体は滅び、場合によっては世界規模の危機的状況が発生するレベルである。
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多くの人は、あまりに主観的で、あまりに独善的で、他者についてを考えないように観察された。
(他者について考えること自体が独善的で主観に頼りすぎるのだから仕方ない)
おそらくそれが自我という影の濃淡のもたらす影響なのだろうと今は思う。
自我の最大の欠点は、他者の自我の取り扱いについてをデフォルトでは無視するように機能すること、だろう。
子供の頃はもちろんのこと、大人になっても他人を道具使いする人間は少なからず居る。
自我というのは自身(の中心)を中心にする感覚のことだから仕方ない。
たくさんの道具に囲まれて、道具の方が優秀だったりもするのに、どういうわけか人間は人間に執着しているようにさえ観察される。まぁ、それが当然なのか。
それにしても自分の身体が正しく「自分のもの」と感じられ、肉体に起因し、あるいはそれの所有するものを正しく「自分の延長線上」に感じられることは、ある種の快楽だろうとは思う。そして同時に苦痛だろうとも。
なぜといって肉体とともに自我は死ぬからだ。
彼らは死ぬ練習をしていない。自らが無になる練習をしていない。
己が無になったあとの世界を想像する余地を持たない。
我思う故に世界があるとでも思っているのだろう。もちろん、主観的にはその方が正しいのだけれど。
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文書を書き続けることによってさえ死に対する抵抗としてはおよそ役立たないことを僕は知った。
メディアは物理的破壊を免れず、情報を長期に保存するにはメディアをまたいで(いわゆるマルチ/クロスメディアによって)行う必要がある。カドカワかよ。
そこにもいくつもの弊害がある。
とくにwebはある種汎用的な保存性を持つが、一方で余計な関係性に巻き込まれることもある。
かといって今の僕のようにNASによる自宅サーバを持っていても、それにアクセスできるのが自分だけだとすれば、そのミームはミームとしての役割を果たさず、単に保存された情報でしかない。
もっとも死に対しては、かなり早い段階で諦めをつけた。
それに僕は十分なだけの僕を生きた。むしろこのような感想を持つにはちょっと早すぎたと思う。
だからといって子供の頃の貪欲さを否定するわけにもいかない。
僕は複数で生きていたかったし、実際にそうしたのだろう。
危惧されうる価値観の破壊 ── 強烈な自我の持ち主は、他者の持つ薄弱な自我を蹂躙し、いわゆる「正しさ」によって抹殺する ── を避けるため、社会との関わりを相当に限定するに至った。
幸運だろうとは思う。ネコノカミサマ様々である。
おかげでこのひと月の間、スーパーに買い物に行ったときのやりとりと、歯医者に行ったときの会話と、弟子との電話数件と妹とのメール以外、言葉を交わしていないので日本語を忘れそうになっている。
── やっぱり日記はこまめに書いたほうが健全な気がしてきたので書いておく。
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[NEXUS]
~ Junction Box ~
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[Engineer]
:青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
[InterMethod]
-Algorithm-Blood-Diary-Ecology-Interface-Life-Link-Mechanics-Recollect-Stand_Alone-Style-Technology-
[Module]
-Condencer-Generator-Resistor-Transistor-
[Object]
-Camouflage-Memory-
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[Cat-Ego-Lies]
:夢見の猫の額の奥に:
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