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TITLE:
正しさは殺しましま。(あえて誤字)
SUBTITLE:
~ Get my stripes. ~
Written by BlueCat

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210831
 
 数年前から思っていたことがある。
 僕以外の人のブログを見ていて思っていることである。
 みんな、徹頭徹尾、テーマが一貫しているのである。
 そしてそれを見るたび、ちょっとだけ、自分がダメ人間のような気がしてしまう。
(無論、僕は「ダメ人間」と「ダメじゃない人間」のどちらかを選択する場合、ダメ人間になろうとするが)
 
 たとえばフィクションを書いている人は、一貫してフィクションを書き続けている。
 たまにちょっとした日常のことを書いたり、ペットや作業環境の写真が載ることもあるかもしれない。
 しかしフィクションを書き続けている。
 
 たとえばミニマリストをテーマにしている人は、一貫して(宣伝の多さやメッセージの頑なさ、ポエムな表現さえ含めて)ミニマルライフを綴っている。
 たまにちょっと宣伝が過剰だったり、ポエムが過剰で意味を読み取れなかったりするけれど、それは読み手である僕の感性がそう捉えているだけで、実際はリアルライフがシンプルなぶんだけ、メッセージは大阪人のギャグのようにコテコテなのだろう(一方的な決めつけであることについて、この場を借りて大阪の皆さんにお詫び申し上げます)。
 
 たとえば料理のレシピを書いている人、外食風景をまとめている人、婚活をテーマに書き始めた人、家族との関係を書いている人、ひたすら猫との日常を書き重ねる人、本やTV、映画の感想をまとめる人、etc,etc...
 
 ほとんどの人は、テーマがかなり限定されていて、それ以外のことはほとんど何もブログに書かない。
「今日あったことをなんとなく日記に書いている系」の僕のような人であっても、なんとなく、雰囲気というか、テーマというかが見える。
 まぁ確かに、Webに向かって文書や写真を使って自分の感性を打ち明けるというのは、明に暗に情報を発信しているという事実を自覚するものであり、ために情報はその方向性や分布に偏りが生まれるのは必然なのだろう。
 
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 青猫工場というのは僕の日常とアタマの中を書いてゆくものなので、可能な限りのデタラメさと、読む人をして顔をしかめさせるくらいの節操のなさ、それと同時に堅苦しいほどの気難しさを演出しようとはしている。
 僕は日常生活でも「真面目で几帳面で優しくて誠実」なんていう勘違いをされやすい。
(そう。それはとんだ勘違いだ!)
 10代の頃からその誤解に苦しんできたと言ったら単純に過言になるが、少なからず被害には遭っていると思う。
 
 僕はいろいろなことに対して非常にデタラメである。節操もない。倫理観も比較的テキトーである。
 不真面目で乱雑で自分勝手で傲慢で気分屋で他人から言われたことには素直に従わず男は殺して女は犯すようなイキモノである。将来は海賊になりたいです。
 
 よく今までこの社会で生きられたと自分でも驚くが、僕が犯罪を犯さないのは単純に犯す必要がないからであって、経済や文化の貧しい国で生まれ育っていたら、10代のうちに路地裏で撃ち殺されるような人生だったと想像する。
 
 それがそのまま、日々の記録に顕れる。
 昨日(210830)など、日記ついでにチャイのレシピを書き始めたと思ったらインドで蛇使いをしていたという法螺話になり、書きながら面白くなってきたものの、スペースの関係で話を急にたたみ始めるという始末だ。
 レシピならレシピ、日記なら日記と、せめて分けて書けばいい。
 それなのに(ああそれなのに)まとめて書いてしまうんだなぁ。
 
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 そもそも僕のアタマの中が(書いている通り)一貫性も節操もない。
 ガールとぱやぱやしている最中に「微分積分の概念が問題解決全般にもたらす汎用的な有用性とそのメカニズムについて」なんて概念的なことを考えていたりする。ブラのホックを外しつつ一般的なタンパク質の凝固変性する温度についておさらいをしていたりもすれば、コンドームを探しながら複数元の連立方程式において式を一次元化しショートにすることで問題を単純化し解を求めることができるならば、それは現実世界の問題解決のモデルに使えるのではないかとか考えていたりする。逆も然り。
 結果、チャイのレシピを思い出している最中に、インドで暮らしていた頃の相棒のありもしない記憶が甦るのである。またテキトーなことを書いている。
 
 弟子にも言われるのである。
「猫氏は、一見すごく真面目で見識高そうなフリをして、平気で荒唐無稽な事を言いますよね」と。
 
 しかしここは反論せねばなるまい。あるいはその理由について述べねばなるまい。
 その歴史を紐解かねばなるまい。
(と、書いているものの、そんなにいうほど必要性や必然性があるわけではない。にもかかわらずそこに必然があるかのように書いてしまうのは僕の悪い ── しかし面白い ── 癖である)
 
 元はといえば神経質で完璧主義者の潔癖症なのである。
 ここでいう潔癖症とは生活環境やその用品に限らず、人間の性質や性格、しまいに社会や集団のありようそのものについてさえもである。
 しかしそういうイキモノの常として、理想と現実のギャップや矛盾にメンタルが傷つくのである。
 
 それはそうだろう。
「こうあるべき」「こうでなくてはだめだ」というものが自分の中のこだわりとして、強く多くあればあるほど現実に対して許容する能力は低くなる。
 つまり日々の些細なことにも、息苦しくてイヤな思いをするのである。
 
 しかし当人は、それは環境や他人が原因だと思ってしまう。
 なにせ完璧主義の目指すところは完全完璧であり、すなわちそれは悪いものであるはずがない。
 その価値観も、それを持つ自分も、悪いものであるはずがないのだ。
 
 たとえるならそれは、設計と製作、設計図と製品の違いである。
 設計者という設計者は(おそらく)すべて、自分の中に理想や理念を持っている。
 その理想を解析して構造化し、物性をして達成するために図面を引くのだ。
 しかし現実は非情にして現実的だ。
 
 直線は常に歪み ── 定規が完璧な直線であることは、それさえも実はむつかしいのである ── 、線は常に幅を持ち ── ペーパークラフトなどをしていると、この「線の幅」に悩まされる ── 、立体世界での厳密な像を二次元世界に投影すること ── 設計製図の求めるところはそれであり、感動さえ喚起できるらどんなごまかしも技術として許されるお絵かきと根本的に袂を分かつ部分でもある ── の困難に愕然とする。
 ようやく書き上げた図面はしかし、それによって完璧な原型を世に生み出すことにはならない。
 
 どれほど微細に調整をして加工しようとも誤差は生まれ、直線も角度も曲線も平面も、すべて歪に変形する。
 ために設計者という設計者はすべて、現実というものに絶望している。
 どれほどの精度指定をしたところで、理想はカタチにならないからだ。
 
 設計者はその苦痛を吐露する。
「作業者が悪い。道具が悪い。設備が悪い。材料が悪い」と。
 なぜといって理想は完璧であり、図面は完全であるからだ。(もちろんそれら全ての要因を含めて、図面を作ることが大事だけれど)
 
 これら完璧主義を設計という仕事やその成果物ではなく、生きるという現象やその行為に当てはめるのが、いわゆる潔癖症だろう。それは理想という実現不可能な「正しさ」に冒されたビョーキである。正しいから、なお悪い。
 正しさの名の下においては、誇張も、懐疑も、略奪も、陵辱も、殺戮さえも、正当化される。
 それらは「正しい」からしていいことであり、それどころかむしろ率先してすべきことなのだ。 ── すべきことなの?!
 
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 そのようなわけで、僕は正しくあることをやめることにした。
 それは「正しくないことの方が正しいから」という決然とした論理があったのではない。
 単に、正しさを行使する能力がない自分を見限ったのである。
 
 自分の大事に抱える正しさが、他者を焼き尽くそうとするとき(そしてそれは絶対に達成されないものである)、その業火は自らの首を絞めるから。
 その苦痛から逃れるには、つまり正しさから離れ、逃げれば良いのである。
 
 最初は大変だったが、何事も慣れと経験と勘と勢いと思いつきと当てずっぽうである。
 若い完璧主義者の唯一にして絶対的な瑕疵があるとするならば、現実世界の物性に無知なことだ。
 
 僕は正しさを捨て、デタラメな、つまりは混沌としたありようを尊しとし、その具現に努めた。
 というと聞こえはいいが、ようはテキトーであることを身上とした。
 いかにいい加減になるかとは、すなわち、完璧を目指しても完璧は具現できない自分を許容することそのものだった。
 
 不純であること。理想は抱えた方がいいが、それにとらわれ追いかけたりしないこと。
 計画的ではないこと。思いつきやその場しのぎの有用性に目を向けること。
 感情や感覚を大事にすること。あきらめたり、変更したり、放棄することを悪いことと考えないこと。
 それが僕を文字通りに生かす、もっとも手軽な方法だった。
 
 正当化に聞こえるだろうか。
 そのとおり、正当化している。
 理想を手放すというのは、正しくないことの正しさを受け入れるということだ。
 正しさに殉ずるのであれば、よってそのとき僕はすでに死んだのだ。
 肉体だけがずるずると生き残り、そして生きるという正しさを押しつけられて抵抗をしつつ、正しさに殉じないふてぶてしさを身に付けたわけである。
 
 もっと世の中が不純で、デタラメで、混沌として、破廉恥で、荒唐無稽だったらいいのにな、と僕は思う。
 そうすれば、毎日とても楽しいではないか。
 正しくないこととは ── 自分を含めた何者をも傷つけたり、貶めない限りにおいて ── 、それほど世のためになるのである。
 
 ちなみに僕が心の師匠にしているのは、高田純次さんである。
 どちらかというと ── それが「芸」でしかないのは理解した上で ── パンツ一丁でガールに卑猥なことを言って詰め寄ったりしている高田純次さんである。そっちのほうがカッコいいとさえ思っている。
「太田市の高田純次」を目指して日々精進しているのだが、電話越しの弟子にはいつも叱られている。
 僕は高田さんを叱ったりしないのに、これはどういうことだろう。
 
 分からない。
 修行が足りないのだろうか。
 
 
 
 
 
 
 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
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[Engineer]
  -工場長-/-青猫α-/-青猫β-/-赤猫-/-黒猫-/-銀猫-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Chaos-Convergence-Darkness-Diary-Engineering-Form-Interface-Kidding-Life-Link-Mechanics-Recollect-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Human-Memory-Poison-
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[Cat-Ego-Lies]
-暗闇エトランジェ-夢見の猫の額の奥に-
 
 
//[EOF]