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TITLE:
視力と人生の視野。
SUBTITLE:
~ The cat in darkness. ~
Written by BlueCat
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221014
歯医者の日。
曇りのち晴れの予報だったのだが、朝から雨。
伊香保は坂ばかりのうえ、傾斜がかなりあるのでキャンピングキャビンを背負った軽トラでは上るのが大変である。
掛けてあるカバーを外してコペンに乗る。数日前に洗車したばかりであるが、仕方ない。
>>>
僕は元々、そんなにこまめに洗車する方ではない。
多くても3ヶ月に1回、以前は年に1度も洗車しないことだってあった。
ロードバイクに乗るようになってからは(屋内保管のため)乗り終えたら車体を清拭していたので、そこで少し意識が変わったように思う。
オープンカーであるコペンを比較的こまめに洗車するのは、天候が良くて「それではオープンにして走ろうか」と、不意に思ったとき、屋根に埃が積もっていると屋根を格納するトランクの中が埃だらけになる、という理由である。
僕は気分屋なので、思い付いたときに思い付きの行動をしてしまう。ならば普段からできるだけ、思いつきの行動ができるように準備するよりない。
オープンカーというのはロードバイクに似ていると思う。
ロードスポーツ用の器具、と考えれば必然だろう。荷物が積めないあたりは本当に似ている。
無駄を削がないとならないのだから仕方ないだろう。
それでもコペンはカジュアル寄りの自動車だとは思うが。
オープンにしているときも(濃いめの排気ガスを吸いたくないので)そうなるが、車間距離をかなり長く取る。
これは車高が低いため。
トラックの直後に付いてしまったりすると、速度対比の適正車間距離より150〜200%近い距離を空けないと前が見えない。
もともと車間距離はかなり広く取るので苦痛はないが、群馬県民たちは車間距離の狭い人が多いので、申し訳ないような気持ちになることもある。
>>>
人間の視力はその人の人生における視界に影響を与える、と言っていたのは森博嗣さんだったか。
近視の人は、直近のことばかりに気を取られて未来のことをろくに考えず、遠視の人は未来のことばかり憂慮していて、身近なことをないがしろにするとか、そんな内容だったように思う。
意外に的を射ているので、僕はその観察が気に入っている。
目先のことにしか考えられず、広い社会のことや自分以外の人をないがしろにしてしまう人は、だからきっと、目が悪いのだと思う。
近くのモノしか見えないということは、自分の生活が、身近なものや自分に直接関わるもので集約されることを意味している。遠くの場合は逆になる。
見えるものとその距離によって、自身と対象、あるいは自身と世界というものの認識範囲は変わる。
手に届かない範囲のものしか見えなければ、それを基準に自分の振る舞いを決めるしかないし、手の届かない範囲のものが見えないなら、そんなものを気にしても仕方ないと思うようになるだろう。
>>>
僕はというと、子供の頃から視力に優れていたので、遠近とも細かく見えた。
特に暗視能力が格別で、リング状の蛍光灯(昭和から平成によく見かけた家庭用電灯)に付属していた常夜灯(およそ5〜15w)で照らされる6畳間の隅で、岩波文庫(フォントが若干小さく、また細いのが特徴)のルビすら読むことができたので、7歳頃から眠れない夜はよく読書をして過ごした。
僕が外に出ない理由のひとつに外の眩しさに耐えられなかった、というのがあるのだろうと今は思う。
暗順応が早くて感応が高いぶん、明順応は遅く過剰な感応を抑えられなかった。
目を閉じていても、明るさが瞼を突き抜けて目が痛くなるのだ。
まぁ実際は痛いほど眩しかっただけだろうと思うが、それでも眩しさで涙が出てくることは多かったし、目を開けていられないことがよくあった。
ために屋内でも日中に本を開くと地の白がまぶしくて、困惑することがあった。
少々日に焼けたくらいの本を読むのが好きだったのはそのせいかもしれない。
夕方頃になって、ようやく見やすくなった頃になると「こんな暗いところで本を読んで」と大人に言われることもあり「このくらいの明るさがちょうどいい」という説明を理解してもらえず苦慮したものだ。
(父上はあまり家にいなかったが、あまりに暗い場所を僕が好むので、やがて何も言わないでいてくれるようになった)
正常な蛍光灯でもちらつきが目に焼き付くので、僕は蛍光灯を嫌うし、現行のLED照明も(安物は特に)ちらつきがあるのか目が疲れる。
では人生のあれやこれやをよく観察し、現在から未来にわたって適切に気に掛け対応していたのかと問われると、どうもそういうようには思えない。
僕はかなり早い段階で、僕自身とそれにまつわる人生について、その多くの部分を諦めた。
思い通りにならず、制御できず、願いは叶わず、想いは伝わらず、自身のありようについてさえ誰かに理解できるものではないと断定し、環境と自身にある壁を無理して乗り越えることに意味を見出さなくなった。
あるいはそれはよく見えていたからこそ、なのだろうか。
子供の頃からよく、他者の視界や認識と自身のそれとが異なることについて考えていたのは、それがそもそも違うということを経験から知ったためだろう。
暗闇に強いのは事実だ。
人生に暗闇はつきもので、きっと孤独は、暗闇に似ている。
足下を注意してくれる誰かはいないし、転びそうになったときにもたれ掛かったり、手を引いてくれる誰かはいない。
当たり前に明るい場所で生きていると気付かない障害物に思い切りぶつかることもあるだろう。
しかし猫のように夜目が利き、明るさによって視力を奪われる場合はどうだろう。
確かに暗闇にあって多くの人は活動をしない。
必然に周囲に人はいないのだが「見えないこと」による事故や失敗は少ない。
むしろ明るく人の多い場所にいるときほど、誰か(あるいは良くない何か)にぶつかったり、足下がおぼつかず転んだりするのだ。
こうなると誰かと協力する、という考え方にも認識の偏向が現れるだろう。
僕は誰かと同時に/一緒に同じ作業をするのではなく、同時であっても分業し、自分にできないことを誰かにして貰い、誰かにできないことをするのを好む。
自分でできることは自分の方がだいたいうまくできるし、僕にできないことをできる人に惹かれ、ときに畏敬の念を抱く。
僕は夜目が利くけれど日中はさほど視力が働かないから、夜目が利かなくても日中はよく見える人がすごいと思えるのである。
>>>
自分にできることを自分より上手にできる人に憧れることはほとんどない。
それは自身の道の延長線上にあるからだ。
仮にプロの陸上選手と同じ速度で走ることはできなくても、少し走ることができて、また歩いたり這ったりして移動できる以上、移動するという目的は達成できる。
世界一速く走れることについて、僕は僕に対しては意味も目的も見出さない。
アスリートやスポーツを否定するわけではないが、人よりも速い動物はたくさんいるし、道具や乗り物もある。
速度や移動そのものを目的にして手段を限定しなければ、選択肢はたくさんあるというだけのことであり、道具が自身の肉体に限定される場合、目的を明確にすれば世界一の速度は僕には必要ないというだけである。
近所のコンビニまで世界一速く走っても、歩いて行っても、買い物ができれば問題はないのだ。
計算も同様で、時間内に計算できる必要を僕は感じない。
仕組みも理解できない公式をただ暗記して記号のような解を記述するより、理解できる単純な仕組みに分解し(そのぶん羅列が複雑になったそれを)時間をかけてでも自分に分かりやすく解いてゆくことを好む。
文章も同様、人一倍時間が掛かるのだけれど、それでも僕は時間を掛けて、僕の納得のゆく情報を書き連ねてゆく。(もちろん、それが誰かの役に立っているのかと問われると、どうしようもなくなってしまうのだが)
学校などでは、他の生徒という他者がいる以上、またカリキュラムがある以上、どうしても時間で区切る必要が出てくる。効率を優先する手前、公式によって駆け足で進める必要もあるだろう。
しかし同じ問題を何時間も、何日も考えてよかったらどうだろう。
たとえば僕は、大人になってから三角関数や微分積分を身に付けた。
本を読んで学んだというよりは、毎日少しずつそれについて考え続けた結果、ある日突然、全体像が把握できた、というのがより正確な印象だ。
時間は掛かったし効率も悪かっただろう。しかし学校で学んだときは何も身に付かなかったのだ。
生きる上での様々な問題についても同様だ。
他者がいれば必ずと言っていいほど時間の制約が発生する。時間内に正解を出さなければ落第になることもあるだろう。
しかし時間制限のない問題や、そもそも未来についての問題もある。
これから発生しうる問題を予測したり、それについて対策することは、たとえばご近所や親戚付き合いや食品スーパの特売などに比べれば些末な問題に見えるかもしれない。不要にして無用に思えるかもしれない。
問題解決は空腹を満たさないかもしれないが、より深刻な空腹をもたらす原因を解消する可能性は否定できない。
毎日、ほんの少し何かを考える。
身近な何かを考えて、自分とは遠い何かを考える。
やがてそれはひとつの線上に繋がる。
関係がないと思っていたもののひとつひとつは、そうやって繋がってゆくのだ。
ただ時間を掛けて見ているだけでも。
>>>
視力に話を戻す。
極論を言えば、盲目の人は盲目なりに、その人の観る「世界」がある。
これは視力の問題ではなくて、環境に対する感覚/認識能力の広さや深さ、きめの細かさだと言える。
無論、視力がないぶん、接する社会や人間は限定的になるだろうけれど、そこに感じている世界は、僕のそれよりずっと豊かかもしれない。
歯医者の日。
曇りのち晴れの予報だったのだが、朝から雨。
伊香保は坂ばかりのうえ、傾斜がかなりあるのでキャンピングキャビンを背負った軽トラでは上るのが大変である。
掛けてあるカバーを外してコペンに乗る。数日前に洗車したばかりであるが、仕方ない。
>>>
僕は元々、そんなにこまめに洗車する方ではない。
多くても3ヶ月に1回、以前は年に1度も洗車しないことだってあった。
ロードバイクに乗るようになってからは(屋内保管のため)乗り終えたら車体を清拭していたので、そこで少し意識が変わったように思う。
オープンカーであるコペンを比較的こまめに洗車するのは、天候が良くて「それではオープンにして走ろうか」と、不意に思ったとき、屋根に埃が積もっていると屋根を格納するトランクの中が埃だらけになる、という理由である。
僕は気分屋なので、思い付いたときに思い付きの行動をしてしまう。ならば普段からできるだけ、思いつきの行動ができるように準備するよりない。
オープンカーというのはロードバイクに似ていると思う。
ロードスポーツ用の器具、と考えれば必然だろう。荷物が積めないあたりは本当に似ている。
無駄を削がないとならないのだから仕方ないだろう。
それでもコペンはカジュアル寄りの自動車だとは思うが。
オープンにしているときも(濃いめの排気ガスを吸いたくないので)そうなるが、車間距離をかなり長く取る。
これは車高が低いため。
トラックの直後に付いてしまったりすると、速度対比の適正車間距離より150〜200%近い距離を空けないと前が見えない。
もともと車間距離はかなり広く取るので苦痛はないが、群馬県民たちは車間距離の狭い人が多いので、申し訳ないような気持ちになることもある。
>>>
人間の視力はその人の人生における視界に影響を与える、と言っていたのは森博嗣さんだったか。
近視の人は、直近のことばかりに気を取られて未来のことをろくに考えず、遠視の人は未来のことばかり憂慮していて、身近なことをないがしろにするとか、そんな内容だったように思う。
意外に的を射ているので、僕はその観察が気に入っている。
目先のことにしか考えられず、広い社会のことや自分以外の人をないがしろにしてしまう人は、だからきっと、目が悪いのだと思う。
近くのモノしか見えないということは、自分の生活が、身近なものや自分に直接関わるもので集約されることを意味している。遠くの場合は逆になる。
見えるものとその距離によって、自身と対象、あるいは自身と世界というものの認識範囲は変わる。
手に届かない範囲のものしか見えなければ、それを基準に自分の振る舞いを決めるしかないし、手の届かない範囲のものが見えないなら、そんなものを気にしても仕方ないと思うようになるだろう。
>>>
僕はというと、子供の頃から視力に優れていたので、遠近とも細かく見えた。
特に暗視能力が格別で、リング状の蛍光灯(昭和から平成によく見かけた家庭用電灯)に付属していた常夜灯(およそ5〜15w)で照らされる6畳間の隅で、岩波文庫(フォントが若干小さく、また細いのが特徴)のルビすら読むことができたので、7歳頃から眠れない夜はよく読書をして過ごした。
僕が外に出ない理由のひとつに外の眩しさに耐えられなかった、というのがあるのだろうと今は思う。
暗順応が早くて感応が高いぶん、明順応は遅く過剰な感応を抑えられなかった。
目を閉じていても、明るさが瞼を突き抜けて目が痛くなるのだ。
まぁ実際は痛いほど眩しかっただけだろうと思うが、それでも眩しさで涙が出てくることは多かったし、目を開けていられないことがよくあった。
ために屋内でも日中に本を開くと地の白がまぶしくて、困惑することがあった。
少々日に焼けたくらいの本を読むのが好きだったのはそのせいかもしれない。
夕方頃になって、ようやく見やすくなった頃になると「こんな暗いところで本を読んで」と大人に言われることもあり「このくらいの明るさがちょうどいい」という説明を理解してもらえず苦慮したものだ。
(父上はあまり家にいなかったが、あまりに暗い場所を僕が好むので、やがて何も言わないでいてくれるようになった)
正常な蛍光灯でもちらつきが目に焼き付くので、僕は蛍光灯を嫌うし、現行のLED照明も(安物は特に)ちらつきがあるのか目が疲れる。
では人生のあれやこれやをよく観察し、現在から未来にわたって適切に気に掛け対応していたのかと問われると、どうもそういうようには思えない。
僕はかなり早い段階で、僕自身とそれにまつわる人生について、その多くの部分を諦めた。
思い通りにならず、制御できず、願いは叶わず、想いは伝わらず、自身のありようについてさえ誰かに理解できるものではないと断定し、環境と自身にある壁を無理して乗り越えることに意味を見出さなくなった。
あるいはそれはよく見えていたからこそ、なのだろうか。
子供の頃からよく、他者の視界や認識と自身のそれとが異なることについて考えていたのは、それがそもそも違うということを経験から知ったためだろう。
暗闇に強いのは事実だ。
人生に暗闇はつきもので、きっと孤独は、暗闇に似ている。
足下を注意してくれる誰かはいないし、転びそうになったときにもたれ掛かったり、手を引いてくれる誰かはいない。
当たり前に明るい場所で生きていると気付かない障害物に思い切りぶつかることもあるだろう。
しかし猫のように夜目が利き、明るさによって視力を奪われる場合はどうだろう。
確かに暗闇にあって多くの人は活動をしない。
必然に周囲に人はいないのだが「見えないこと」による事故や失敗は少ない。
むしろ明るく人の多い場所にいるときほど、誰か(あるいは良くない何か)にぶつかったり、足下がおぼつかず転んだりするのだ。
こうなると誰かと協力する、という考え方にも認識の偏向が現れるだろう。
僕は誰かと同時に/一緒に同じ作業をするのではなく、同時であっても分業し、自分にできないことを誰かにして貰い、誰かにできないことをするのを好む。
自分でできることは自分の方がだいたいうまくできるし、僕にできないことをできる人に惹かれ、ときに畏敬の念を抱く。
僕は夜目が利くけれど日中はさほど視力が働かないから、夜目が利かなくても日中はよく見える人がすごいと思えるのである。
>>>
自分にできることを自分より上手にできる人に憧れることはほとんどない。
それは自身の道の延長線上にあるからだ。
仮にプロの陸上選手と同じ速度で走ることはできなくても、少し走ることができて、また歩いたり這ったりして移動できる以上、移動するという目的は達成できる。
世界一速く走れることについて、僕は僕に対しては意味も目的も見出さない。
アスリートやスポーツを否定するわけではないが、人よりも速い動物はたくさんいるし、道具や乗り物もある。
速度や移動そのものを目的にして手段を限定しなければ、選択肢はたくさんあるというだけのことであり、道具が自身の肉体に限定される場合、目的を明確にすれば世界一の速度は僕には必要ないというだけである。
近所のコンビニまで世界一速く走っても、歩いて行っても、買い物ができれば問題はないのだ。
計算も同様で、時間内に計算できる必要を僕は感じない。
仕組みも理解できない公式をただ暗記して記号のような解を記述するより、理解できる単純な仕組みに分解し(そのぶん羅列が複雑になったそれを)時間をかけてでも自分に分かりやすく解いてゆくことを好む。
文章も同様、人一倍時間が掛かるのだけれど、それでも僕は時間を掛けて、僕の納得のゆく情報を書き連ねてゆく。(もちろん、それが誰かの役に立っているのかと問われると、どうしようもなくなってしまうのだが)
学校などでは、他の生徒という他者がいる以上、またカリキュラムがある以上、どうしても時間で区切る必要が出てくる。効率を優先する手前、公式によって駆け足で進める必要もあるだろう。
しかし同じ問題を何時間も、何日も考えてよかったらどうだろう。
たとえば僕は、大人になってから三角関数や微分積分を身に付けた。
本を読んで学んだというよりは、毎日少しずつそれについて考え続けた結果、ある日突然、全体像が把握できた、というのがより正確な印象だ。
時間は掛かったし効率も悪かっただろう。しかし学校で学んだときは何も身に付かなかったのだ。
生きる上での様々な問題についても同様だ。
他者がいれば必ずと言っていいほど時間の制約が発生する。時間内に正解を出さなければ落第になることもあるだろう。
しかし時間制限のない問題や、そもそも未来についての問題もある。
これから発生しうる問題を予測したり、それについて対策することは、たとえばご近所や親戚付き合いや食品スーパの特売などに比べれば些末な問題に見えるかもしれない。不要にして無用に思えるかもしれない。
問題解決は空腹を満たさないかもしれないが、より深刻な空腹をもたらす原因を解消する可能性は否定できない。
毎日、ほんの少し何かを考える。
身近な何かを考えて、自分とは遠い何かを考える。
やがてそれはひとつの線上に繋がる。
関係がないと思っていたもののひとつひとつは、そうやって繋がってゆくのだ。
ただ時間を掛けて見ているだけでも。
>>>
視力に話を戻す。
極論を言えば、盲目の人は盲目なりに、その人の観る「世界」がある。
これは視力の問題ではなくて、環境に対する感覚/認識能力の広さや深さ、きめの細かさだと言える。
無論、視力がないぶん、接する社会や人間は限定的になるだろうけれど、そこに感じている世界は、僕のそれよりずっと豊かかもしれない。
>>>
数年前から視力が低下し、明るさに強くなった。
もはや暗闇を見通す力は僕にはない。
実は子供の頃から目を閉じて歩く練習はしていた(長時間、目を開けていると眩しいから)ので、音や振動だけで周囲の障害物を確認することは比較的得意ではある。
それでもやはり30代あたりから、この世界は精細を失っていった。
今の僕は細かいものを認識する能力をおよそ失っている。
>>>
幸か不幸か、僕は近視眼的な人間も、即物的な人間も、また盲目的な人間も相応に見てきた。
あくまでも僕の生きた視界の範囲内に過ぎない。
それでも近視眼的な人や即物的な人は、一見すると現実的なことをもっともらしく語る(ときにはこちらに説教までしてくる)ものの、本人の目先のことばかりしか考えていなかった。
将来的に発生しうるより大きな問題や、自身の抱える価値観の問題点については棚に上げていた。
もちろん僕はただラッキィだったから、こうしてそれを傍観できる立場にあるわけだけれど、そうでなかったらシンプルに65歳を待たず自死していただろう。それだけのことである。
あるいはもっと近視眼的だったり即物的だったりすれば、もっとひどい状況になっていたと想像できる。
たとえば卑近な例で、僕は20代の頃に栄養失調で歯をダメにしてしまった。
健康保険に加入してさえいなかったので治療もできなかったし、そもそも失調したのは肉体だけではなかったので、どうにもしようがなかった。誰かを頼る気にもならなかったし、頼る人はいなかった。
だから当時はそうするしかなかったし、同時に「遠い将来、もしかしたらきちんと治療できるだろう」とも考えていた。
たしかにもっともらしくお節介を焼こうとする人もいたが、それはその人たちの価値観に基づいた行動の押し付けでしかなくて、それに則って行動してもたいした成果はなかった。
あのとき無理に治療していたら。
あのとき無理に頑張っていたら。
あのとき無理に物事を正常にしようとしていたら。
あるいはもっとよくなったかもしれない。
しかしもっとひどいことになったかもしれない。
今いる場所にあって僕に言えることは「まぁこれでよかったか」という程度である。
少なくとも僕は自身に対する信頼を、多少なり取り戻すことには成功しているのだからそれだけで御の字と考えた方がいいだろう。
自分に絶望して自殺するパターンはいくつもあり得たし、それについても未だ特に悪いこととは思えないのだから。
>>>
そろそろ抜糸して貰えるかと思ったら、インプラント基部付近は継続経過観察。
抗生物質生活もそろそろひと月になる。薬物耐性は大丈夫だろうか。
他に治療すべき部分があり、差し歯にするらしく上顎右の犬歯を削られる。
そういえば上顎左の犬歯も数ヶ月前に削られて差し歯にされた。
口の両側で咀嚼に気を遣う状態になってしまった。
その上、最近再開したリフォーム作業が悪いのか花粉の時期だからなのか、粘膜系に軽微な異常がある。
帰路を走りながら明日はすこし身体を休めようかと考えていると、やがて晴れてくる。
仕方ないので帰ってから軽く洗車をする。
夜はカボチャとトマトとレバーのシチュー。
数年前から視力が低下し、明るさに強くなった。
もはや暗闇を見通す力は僕にはない。
実は子供の頃から目を閉じて歩く練習はしていた(長時間、目を開けていると眩しいから)ので、音や振動だけで周囲の障害物を確認することは比較的得意ではある。
それでもやはり30代あたりから、この世界は精細を失っていった。
今の僕は細かいものを認識する能力をおよそ失っている。
>>>
幸か不幸か、僕は近視眼的な人間も、即物的な人間も、また盲目的な人間も相応に見てきた。
あくまでも僕の生きた視界の範囲内に過ぎない。
それでも近視眼的な人や即物的な人は、一見すると現実的なことをもっともらしく語る(ときにはこちらに説教までしてくる)ものの、本人の目先のことばかりしか考えていなかった。
将来的に発生しうるより大きな問題や、自身の抱える価値観の問題点については棚に上げていた。
もちろん僕はただラッキィだったから、こうしてそれを傍観できる立場にあるわけだけれど、そうでなかったらシンプルに65歳を待たず自死していただろう。それだけのことである。
あるいはもっと近視眼的だったり即物的だったりすれば、もっとひどい状況になっていたと想像できる。
たとえば卑近な例で、僕は20代の頃に栄養失調で歯をダメにしてしまった。
健康保険に加入してさえいなかったので治療もできなかったし、そもそも失調したのは肉体だけではなかったので、どうにもしようがなかった。誰かを頼る気にもならなかったし、頼る人はいなかった。
だから当時はそうするしかなかったし、同時に「遠い将来、もしかしたらきちんと治療できるだろう」とも考えていた。
たしかにもっともらしくお節介を焼こうとする人もいたが、それはその人たちの価値観に基づいた行動の押し付けでしかなくて、それに則って行動してもたいした成果はなかった。
あのとき無理に治療していたら。
あのとき無理に頑張っていたら。
あのとき無理に物事を正常にしようとしていたら。
あるいはもっとよくなったかもしれない。
しかしもっとひどいことになったかもしれない。
今いる場所にあって僕に言えることは「まぁこれでよかったか」という程度である。
少なくとも僕は自身に対する信頼を、多少なり取り戻すことには成功しているのだからそれだけで御の字と考えた方がいいだろう。
自分に絶望して自殺するパターンはいくつもあり得たし、それについても未だ特に悪いこととは思えないのだから。
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そろそろ抜糸して貰えるかと思ったら、インプラント基部付近は継続経過観察。
抗生物質生活もそろそろひと月になる。薬物耐性は大丈夫だろうか。
他に治療すべき部分があり、差し歯にするらしく上顎右の犬歯を削られる。
そういえば上顎左の犬歯も数ヶ月前に削られて差し歯にされた。
口の両側で咀嚼に気を遣う状態になってしまった。
その上、最近再開したリフォーム作業が悪いのか花粉の時期だからなのか、粘膜系に軽微な異常がある。
帰路を走りながら明日はすこし身体を休めようかと考えていると、やがて晴れてくる。
仕方ないので帰ってから軽く洗車をする。
夜はカボチャとトマトとレバーのシチュー。
// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
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[Engineer]
:青猫α:青猫β:黒猫:銀猫:
[InterMethod]
-Algorithm-Convergence-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Interface-Life-Link-Maintenance-Memory-Stand_Alone-Style-
[Module]
-Condencer-Connector-Convertor-Generator-Resistor-
[Object]
-Human-Memory-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
:ひとになったゆめをみる:
//EOF
