::我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしかできないし、そしてその学びとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ。





20140726

天気などどうでもよい気分。

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人は誰でも、幸せ探す旅人のようなものであり、そのときの最善に沿って思考し、行動する。
逆を言えば、そのときの最善性によって、事後もその行為を正当化することがある。

仮に最善でなかったとしても、最善と思わないと救いがない。
そんなときは、やはり、最善だと思いたくて、最善であったと理屈付けしてしまう。

自らの行いは常に正当で、理由があり、不可避であると。

しかし、僕はこれを、ただの「正しさの病」だと思っている。

正しくなくてはいけない、正々堂々とあらねばならない。

そのためには、ときに自らの認識さえも歪めて「自分は正しい」ことを理屈づけする。

個人的には、人間は矛盾している方が健全だと思っているので、矛盾していない人間や、一貫した理屈付けをする人間に対して「退屈だ」「うわべだけの嫌な奴」と評価してしまう。
科学法則は、いついかなるときも、宇宙のどこにいっても普遍のものだけれど、たかだか人間の、ましてや一個人の認識や判断、価値観が、そうそう、科学法則のような一貫性をもっているわけがないし、持っている方がおかしい。

だから、それを躍起になって実現しようとしたり、あるいは他者に強要するタイプの人を見ると「なんだかつらい環境に育ったのかな」と、同情さえ覚える。

もちろん、僕自身も、ときおりこの病にかかる。
そう。正しさの病は一度かかると治らないものではなく、軽い炎症のようなものなのだ。

僕はかならず相反する価値観をもてあそぶ習慣があり「正しくなければならない」と思う一方「間違いからしか正しさは見つからない」とも思っている。

たとえばゲームでも同様で、洞窟を歩いていて、そこに本当に壁があるのかどうかということは、壁にぶつかるまでは本当は分からない。

本当は壁にぶつかって初めてそれが壁だとわかるのであって、壁に見せかけたカモフラージュや、透明な壁なども存在する現実の世界において、それが「正しい道筋」だなんて本気でいっている人は「ちゃんと壁ばかり伝ってきた人」か「歩いてきた道筋にたまたま壁がなかった人」のいずれかでしかなく、たいていは後者しかいない。

なぜならば、いずれも経験に基づいて話をすると考えるならば(その程度の誠実さは持っていてもらいたいものだ)、壁ばかり伝って歩いてきた人は、壁にぶつかる方法でしか、通路を知らない。
「この道が通路だ」というのではなく「この先にこういう壁があって、その壁をこう伝うとこんな壁がある」ということを伝えることしかできない。

壁を伝って歩いていたら、たまたまこの場所なのであって、意識的に通路を歩いているわけではないし、ここまでが絶対の道筋というわけでもない。
そういう認識になるのが必然だと思うのね(口調が変)。

「この道筋を歩いてきた、だからこの道が正しい。この道だけが正しい」
というのは、そのひと個人には真理かもしれないけれど、それだけを信じさせられる人にとってはちょっと困ったことにもなりかねない。
現実はコンピュータゲームと違い、いつも変化しているし、自分はその人と同一人物ではないのだから。

つまりルートを強要するというのは、とても独善的で、ときに危険なことなのだ。

ただ、たとえば僕の場合は壁伝いに歩くような人間なので、まぁ、ときどき、何かのはずみ程度に、そういう「この道が正しい」というタイプの人のいう通りにするのも、それはそれでとても勉強にはなる。
もうじき齢40の人間が、こんなに柔軟(もしくは軟弱)で良いのかと心配にはなるものの。

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急速に空腹を感じるようになってきたので、2度ほど食事をするが、体重は58.5kg。

日中は、水を浴びたりして過ごす。

もしかしたら、と思って入れたMacの電源は、瞬時に落ちる。

汗に塩気が感じられない。

一人のとき、休日をどのように過ごしていたのかまったく覚えていなくて、洗濯などするものの、時間の使い道をもてあます。

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仮に事象そのものの原因が僕自身にあったとしても、今の僕は、アタマに来たら、なるべく正直にそれを表現するようにしている。
たとえば冷蔵庫の上の電子レンジの扉を開けっ放しにしておいて、気づかずそこを通りかかったときに頭をぶつけた時のように、アタマをぶつけた事実に対しては遠慮なく、怒っていいと僕は思う。
たとえ、ドアを開け放ったのが僕自身であったとしても、遠慮して誤魔化したりしてはいけないと思う。

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食欲が出てきたということは、僕はこれから、またたくさんの思考や感情に翻弄されるということでもある。
僕が食事をしたがらない理由のひとつはそこにある。

僕は食べることの素晴らしさや満腹のヨロコビを知る一方で、食べないことがときに適切であることや空腹の有用性を知ってもいる。

死んだこともない人間が「生きている方が素晴らしい」というのは、ちょっと、どうなんだろう、と疑問に思うのと、それはよく似ている。

え。
疑問に思わない?









::たしかにそれは真実だった。我々は生きることによって同時に死を育んでいるのだ。





引用は「ノルウェイの森(下)」(p.227)
(著作:村上 春樹 / 発行:講談社文庫)
によりました。