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// TimeLine:221209
// NOTE:
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TITLE:
猫様観察日記。
SUBTITLE:
~ Nullpointer. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
221209

 青猫と名付けられたパラレルのすべてが眠りに就いた。
 現在は、黒猫と呼ばれているものと私だけが稼働している。
 不思議なもので、身体を使う者が変わると、身体が変わる。
 肌の調子や運動能力、食の嗜好に至るまで。おそらく表情やコミュニケーションも、仔細に観察すると変化があるのだろう。


 βは予定どおり(6歳以前)と融合し、αまでの橋渡しをしてその機能を終えた。
 αはその接合をもって機能を終えた。
 
「十分に甘やかされた生活を送り、十分以上に大切にされていた記憶を反芻して満足し、そして痛みによって少年期の終わりを迎えるのは妥当なのではないかな」というのが黒猫氏の見立て。
 いくつかの憎悪と悲しみを引き継ぎ項目として残して。

 確かにそう言われてみれば、個人の見る(認識する)社会は、その個体の意識がステージを広げるごとに傷を負うリスクを高め、個体の求めるものが高度化するほど、行動による成否判定の難度もまた上がる。
 傷を負ってなお安寧に生きていたときと同じシステムのままであり続けることは、不可能なのかもしれない。

>>>

 するとすべての大人はかつて子供であり、必ずどこかで傷を受けて、それまでの安寧に温み微睡んでいた少年少女を己の手で屠り、あるいは環境によって屠られるのでしょうか。あるいはそれを拒んで殻の内側の安寧に暮らすのでしょうか。

 あるいはそのように思えます。
 もちろんごく一部の例だけですべてを語ることはできませんが、6歳にして己を捨てるのは、確かに不自然だったのかもしれません。
 次に求められているモデルの、そのイメージさえ明確にならないまま現在の形態を不要とされるのは。
 そこで発生するのは不安、あるいは恐怖でしょうか。それとも現状に対する否定なのか。

 皆が皆、たとえば兄弟姉妹や、あるいは同世代の誰かと比較して、不完全なモデルの形成に悩むのでしょう。
 衝突もあればそれによる損傷もあり、ために愛着のある自己というモデルを破棄し、リビルドする必要に迫られる事もあるように思います。あるいはないのかもしれませんが。
 どちらが幸福かは分かりません。

 自分を変えずに環境を変えるのが人間のありようです。
 進化の果てに、人間は自分たちの肉体を変容させるのではなく、環境を適応させる知恵を持ちました。
 自分が変わろうと環境を変えようと、結局のところ自身と環境のプロトコルを一致させるという点に変わりはありません。

 酸っぱいブドウの童話のように、意識を変容させることも同様にひとつの手段であり、場合によってはもっとも手軽な手法でしょう。
 いかんせん環境を変容させるには大きな力や大量の資材といった「現実に存在するものとそれを加工し変容させる能力」が必要であり、自分自身についても現実世界のそれを変容させることを容易だと思っていない個体が多いことは、美容整形やダイエット食品などの広告を見るにつけ再認識させられるところです。
 それにしても彼ら彼女たちは、一体何者で、自身が何者だと思い、これから何者になろうとしているのでしょうか。

 もちろんあらかじめそれらのロードマップを意識しながら自己を変容させる人の方が少ないのかもしれませんが。

>>>

 短期的にであれ長期的にであれ、人間は目的を持ちます。
 それに向かって運動を行います。
 先に述べたように衝突や損傷がその途中で発生し、運動を ── つまりは目的を ── 修正したり、あるいは目的に到達するために、形態を変容することで運動を適切に制御維持できるようにするのが自然でしょう。

 たとえば進学受験なら、自身の学力に合わせて志望校を(大抵は低く)変えたり、あるいはそれを変えられない(変えたくない)なら勉強をして学力を(一時的にであれ)高めるように。
 すべての欲求や目標に対して、人間はそのように反応します。欲求を変えるか、己を変えるか。
 多くの場合、環境を変えることは容易ではないため却下されるでしょう。

 環境を変えることができるようになるのは、いわゆる「大人」になってからのこと。
 子供という子供は環境を変えることができず、己を変えること ── 多くの場合、それは他者にとっての「環境」であるため ── を求められ、己を変えることができない場合は、自身の欲求を変えることでしか適応できません。

 猫様の場合、かなり早い段階で欲求そのものの多くを捨ててしまいました。
 ために中学校を卒業して就職するつもりだと(そうする必要があるだろうと思っていたため)言って「頼むから高校くらいは進学してほしい」などと返され、特に反論することもなく進学したりしたわけです。

 目的を持たないことは、たとえばプランクトンのように、流動的に、ただ環境に身を任せる上では優れた手法だったものと思われます。
 何らかの欲(目的)があり、運動を適切に制御する能力があり、それによって渡りきることのできる環境ならば、目的を達成することは容易でしょう。
 つまりこれらすべてが揃わないと、生物は思った通りの目的を達成できないことになります。

>>>

 黒猫氏は、デザインされた人格だ。
 肉体の制御を学び直し、欲求から行動まで、仕草や声の出し方、入力される情報の感覚の仕方さえ、設計に沿って作られた。
 猫様が何故これを作ったのか。
 どんな欲があり、どんな目的だったのか。

 記録が残っていない。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :銀猫:
 
[InterMethod]
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  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-
 
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  -Night-
 
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[Cat-Ego-Lies]
  :暗闇エトランジェ:月夜の井戸端会議:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:221125
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
先頭民族は逃げ回る。
SUBTITLE:
~ The Runaway. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
221125

 雨だった昨日、久しぶりに昼頃まで眠る。
 その影響で、今日は0930起床。

 最近は未明に目覚めて9時頃から庭仕事をする事が多かったので、ようやく平常運転か。
 いや早朝に目覚めた方が健康的な気はするが。

>>>
【ソーシャリティを持つバーチャルワールドは逃避先にならない】

 Twitter(というWebサービス)が巷を賑わせているようだけれど、僕は(アカウントは持っているが)利用していない。
 いつからだったか忘れたが、Webというバーチャルな世界は、ずいぶん息苦しくなってしまった。
 おそらくだけれど、リア充どもが、どういうわけかIRLでのヒャッハーに飽き足らず、バーチャルワールドまでをも席巻したくなったのだろう。
 基本的にリア充というイキモノは好戦的な狩猟民族である。当たり前のように他者の領域に侵略し、周辺を蹂躙し、他者のすべてを略奪し、持てるものをどこまでも拡大したがる。その強欲たるや己の尻尾を呑み込むヘビのようですらある。

 今や一般人や著名人だけでなく、大企業や官公庁までもがヴァーチャルな人格を演じている。企業公式アカウント、誰だよ一体お前。

 もちろんそういう流れは一向に構わない。
 善良の皮を被った弱肉強食の原典が今も世界を回しているのだろうから。

 バーチャルワールドとは、つまり孤独な夢想の投影装置に過ぎない。
 誰に誇れるものもなく、誰に褒められるものでもない。
 シンプルな自慰のための快楽装置、あるいは逃避先。自分以外の誰の役に立つものでもない、本質的には。

 リア充どもは、それを陰湿だと嗤うのだろう。
 益体もないと貶し、無意味で無価値だと糾弾し、それを蹂躙できないなら破壊しようとさえする。
 実に現実的ではないか。

 僕は7歳の頃からバーチャルな世界に棲んでいるので、バーチャルな世界の良さを知っている。
 孤立の世界では、誰の血も流れない。誰も傷つかない。自分はもちろん、他人もそうである。
 そこにある快楽が仮初めのもので、そこにある安寧が偽りであったとしても、その世界の中にあっては、本当に誰かがひどい思いをすることはないし、誰かが貶められたり、蹂躙されることもない。
 悲しみはエンタテイメントになり、苦しみには悪夢から覚めるときのような安堵が約束され、楽しさは永続的な繰り返しが可能だ。
 外の世界が残酷であれば、あるいは外の世界がそうしてくるからこそ牙を剥かなければならないとしたら、そうした孤立の、架空の、偽りの楽園に身を浸すことが果たして悪いことだとは僕には思えない。

>>>
【数の暴力は戦闘民族の摂理】

 だからリア充どもがWebまで来て何をしているのかと僕は思っていたし、今でも思っている。
 褒めそやされたい日常を取り繕い、己の正しさを掲げては賛同者を募り、対立する勢力を蹂躙しようと躍起になる。
(そんなの現実世界でやれ)とも思うし(そんなの現実世界でさんざんやっているのでは)とも思う。
 バーチャルワールドの良さは、そうしたソーシャリティからいくらでも逃避できることだ。

 集団は、それを形成するメカニズムは、ときに残酷だ。
 より優れたものを優れたものとして競わされるうち、弱者を餌にすることが当たり前だと考える。
 弱いもの同士が手を取り合って力を合わせよう、などというお題目があるうちはよいのだろうが、元を正せば夜陰に乗じて首を掻き切る獲物を探す獣の群れに過ぎない。弱さを理由に群れたところでケダモノはケダモノから変わることがない。
 それでも悪行に身を染める苦しみは味わいたくないから、それを正義だと塗りつぶす。

 繰り返すが、僕は、それが悪いとは思っていない。

 ただ、静かで正しくて優しい者たちがせめてもの逃避先に選んだ場所を、まるで無邪気な子供がはしゃいで庭石を暴くように、面白半分に壊して回ることに苛立ちは感じる。
 喩えるなら僕らは庭石の影に身を潜めるダンゴムシのようなものだ。
 その静かで競争もなく暗い世界に、平和を見出している。

 誰かがその安寧な庭石の影を壊すなら、他の影を探して逃げるべきだろう。
 幸いなことに次の石の影は、それがバーチャルであるがゆえに、そこに至る物理的苦労をさほど必要としない。

>>>
【先頭民族は逃げ回る】

 メタバースとかいう、既存のものにちょっとアレンジを加えて名前を付け替えたものも同様だ。
 そもそも最初からIRLの延長線上に置いている点にこそ多少の親切心は感じられるが、官公庁やら企業やらがビジネスというお金のニオイを撒き散らしながら推し進めている時点で、早晩飽きられるのは目に見えている。
 Webに接続することが一般的である現代、バーチャルアイデンティティ(仮想世界の自己。
造語。以下VIDと略)を持たない人の方が少ないのだろうから、今さらそれを持ち、使うことに新しい楽しさを見出す人は少ないだろう。

 その世界で行われることは ── 今までバーチャルな世界で行われていることを観察する限りにおいて ── 現実世界で行われることの代替でしかない。
 交わされる情報も、扱われるサービスも、経済と交換するシステムも、すでに他のWebサービスで提供されている。そこにVIDが加わったからといって何が新しいものでもない。
 さらにそこで発生するコミュニケーションも、人間性の発露も、人の求めるものも、行うことも、現実世界で行われるそれから飛躍することはない。

 新しい地平で人間が何をするか ── 実際に何をしてきたか ── といえば、採取可能な資源を取れるだけ取ったあとは先住の特権を振りかざすくらいのこと。
 ありとあらゆる集団(地域の隣組から学校、会社、果ては政財界に至るまで)で行われているそれとおよそ等しいはずだ。
 重ね重ねになるが、それを悪いという気はない。
 それは必然に発生するメカニズムなのだ。良いも悪いもない。
(あるいはよりクリーンなシステムを構築できるなら、それは立派な発明だといえる。ただ、もしこの世界がネコノカミサマによって作られたのだとすれば、僕が開発しない限りそれは実現しないことになるが)

 いずれにしても興味はないし巻き込まれたくもないので僕個人は(可能な限り)すべての集団から距離を置いている。
 僕が Twitter や LINE をはじめとしたSNSツールにたいした価値を見出さず、ブログにさえ消極的な役割しか感じないのはそのためだ。
 僕を強者だと思う誰かがいたとしてそれは構わないが、集合を嫌う僕にとって相手は常に多数であり、不特定多数ほど厄介な存在はなく、僕は集合から逃れる性質がゆえに、常に弱者であることを決定づけられている。

 団結は強い力だ。
 しかし強いこと、強い者が常に正しいとは限らない。強さと正しさはまったく異なる要素だ。
 そして集合になればなるほど、それらは曖昧になってゆく。
 正しい内容の声より、大きい声が優先して伝播する。
 人々はそれについて正しく危惧しているわりに、それでもなお集団を作ることを諦めない。
 僕からすれば、それは眩しく見える。
 自分も他人も信じることを諦めない姿勢は、弱くて強欲かもしれないけれど、きっと正しい。

 僕は自分が正しいとは思っていないが、だからといって正しくないことがよいとも思っていない。

>>>
【物価が上がるとはどういうことか】

 話は変わるが「資産所得倍増プラン」とかいう、誤魔化しじみたネーミングのナニカを政府が公表したようだ。
 個人的には興味がない。
 僕はそもそも貯蓄をする余裕もなく生きてきた(今も過剰な貯蓄をしないように努力している)し、働いて所得を得られる間は生きて、それが不能になったら死ぬつもりでいたからだ。
 不労所得で生活できるようになった時点でデッドラインが引き延ばされてしまった感はあるが、線引きも幕引きも自分で決定する理念に変更はない。

 僕の話はともかく貯蓄や投資に回すための経済的余力を持たない人は今もたくさん居る。中間層を救うかのような御為ごかしは結構だけれど、そもそも経済を万能どころか全能だと思っている人間が多いのは問題のように思う。

 物価が上がるというのはシンプルに、モノや人と比較して経済が価値を減じているということだ。
 お菓子の内容量が減ったのに価格据え置きというのは「同じ価格ではこの量しか交換できない」ということだ。
 すなわち「昨日の100円だったモノが今日は120円になっている」というのは「昨日100円だったお金は80円くらいの価値しかない」ということでもある。

 この上なお経済によって経済の価値を上げようと躍起になるのが経済中毒者ならではの思考回路といえるだろう。
 戦争に突入した直後、ロシアで多くの人が車を購入しようとしたというニュースを見た気がするが、経済が価値を失う(相対的にモノが価値を上げる)ことを予見すれば当然のことだといえる。
 以前書いたことがあるが、経済というのは概念だ。たまたまそれが現実世界のヒトやモノと交換できる(そういう約束ができている)に過ぎない。

 そのすべてが虚像だとまで言うつもりはないが、この期に及んでまだ「経済を集めて経済を回して経済を強くしよう」というのはいささか誇張の強い妄言に思える。
(SDGsなる善良で複雑な嘘を無視した上でモノを作ってモノを集めてモノを回せば、モノが価値を減じて、経済の価値が上がる。
 今年の夏は玉ねぎが記録的な高価になったが、その逆バージョン、すなわち供給が需要を上回れば市場価値が変動し、交換レートたる経済が相対的に価値を上げる。
 自分で何も作らず、情報や経済といった概念的なものだけで経済を回すことに慣れ親しんだ者がそれだけ増えたのだろう。
 投資によって資産を増やそうという発想はその現れだが、価値を減らし続ける経済をいくら集めても、それだけで経済の価値が上がることはないように思う。もし上がるというなら、相応のからくりがあるということだ。

 恐るべきは企業も国家も、新しいモノを作る発想や能力を発揮する意欲といったポテンシャルそのものは低下しているように観察されることだ。
 日本経済を牽引した大企業も今はなりを潜めているように思える。これは何らかの戦略が故なのか、それとも単に無策あるいは打つ手がないからなのか。

 未だバブル経済の夢を見るようにして日本のGDPであるとか経済力の向上を訴える向きがあるが、経済によって経済力の向上を願うのは、短絡で無能な、現実を見ない者の妄想に思えるのだ。

>>>
【資産を増やすとはどういうことか】

 さても庶民たる我々が、ではいかにして資産を増やすか。
 まずプランタを買う。培養土を買う。植物の種を買う。できれば食べられる野菜の種がいい。
 だいたいこれらは100円ショップでも手に入る。
 できた作物は資産である。支払う経済以上の価値を持つことも少なくない。
 貨幣がその価値を下げるとき、モノはその価値を相対的に上げる。
 衣食住を可能な限り自給するのは対価以上の資産価値を持つ。資材と知識と経験とやる気と時間が最大の財産だ。

 なに庭がある? それなら畑を作ろう。
 庭木が植えてあるならそんなものは邪魔だから切り倒そう。
 切り倒した庭木を乾燥させて薪を作っておけば、冬場の燃料に使える。
 根を掘り返して堆肥場を作り、土を作って種を蒔いて作物を育てよう。
 土が作物作りに適していないなら、手間は掛かるが土を作るところからはじめよう。土は裏切らない。

 なにもっとお金を掛けることができる?
 ではソーラーパネルを買って屋根に設置しよう。
 電気代が高い今、フルセットで20万円掛かるとしても使い方次第でかなり早い段階でペイできる。
(業者に頼むとラクだし安全で安心だが、掛かる費用の桁が変わるので注意が必要だ)

 なにまだお金を掛けることができる?
 庭に巨大な穴を掘ってシェルタを作ろう。地下の気温は通年の変動が少ない。
 僕はそこまでの経済力も体力もなかったので、地下シェルタを作ることは諦めた。
(自分でやると格安だが、安全性や機能性が疑わしいのでDIYはやめた方がいい)

>>>

 もちろん、もちろん。
 現実性がさほど高くないことは理解している。
 投資に充てる余剰資産を持たない人にとって、そんな訳の分からない設備投資に費やすお金や時間などない、という理屈は正当だ。

 一方で経済に取り憑かれた者たちは、経済だけで事を解決しようとする。
 これまでがそうだったようにこれからもそうだろう。

 アンチ経済至上主義の立場を取り続ける僕としては、お金よりもモノの方が強いと思うのだけれど。



<最近、自宅付近でよく見かけるサギ>






 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:黒猫:
 
[InterMethod]
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[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
//EOF
 
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// TimeLine:221119
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
アヲ、帰る。
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
221119
 
「近所のゴミ捨て場を荒し続けるようなら、この手で捉えて殺めよう」と書いた翌日、アヲが帰ってきた。
 ネコノカミサマかアヲ自身が、僕のブログを読んだのだろうか。
 
 09/20頃からなので、およそ2ヶ月も不在だったことになる。
 大きな傷もなく、以前よりむしろ太っている。
 
>>>
 
 自身がさほど頻繁に食事を摂らないので、ペットにも太るほど食事を与えないようにしている。
 太った動物を可愛らしいと感じる価値観も分かるが、基本的には、醜悪だと感じてしまう。
 これは形状についての美醜にまつわる価値観によるものではなく、機能に対するそれによるものだ。
 
 動物というのは基本的に、逃げる能力に優れている必要がある。
 草食動物ならもちろんだし、肉食動物だって、それより強い肉食動物に捕食されないためには、逃げる能力が必要だ。
 逃走し、防衛し、危機的状況を回避する能力は生命を維持する上で、攻撃し、捕食する能力よりも優先される。
 
 機能を優先に考えると、それに相応しい形状があり、優れた機能を持つ個体の形状にも共通点が観察される。
 
>>>
 
 これは人間も同様で、ためにボディビルダが万能の運動選手になることはない。
 陸上選手には陸上選手の、バスケットボール選手にはバスケットボール選手の、ボクサーにはボクサーの、力士には力士の体現されるべき優れた機能が先にあり、それぞれ異なった形状として表れる。
 僕の持つルッキズムは、そうした「洗練された機能の最適化」を形状として考えた場合の理想論に過ぎない。
 
 主夫には主夫の、会社員には会社員の「洗練された機能の最適化による形状」が存在し、機能が時間を掛けてカタチを作るように、カタチを先に作ることは機能を効率的に学習することを可能にする。
 
 ために性的魅力についてだけ考えるのでもなければ、人間の身体の美醜はたいした問題ではないと考えることもできる。
 もっとも男たちの多くは何より視覚による性的魅力について意識を奪われがちのように観察されるが、彼らはそこに何らかの機能を見出しているのだろうと想像する。
 もちろん骨格に始まり、体調から生殖適正に至るまで、生殖する機能に最適化された形状もまた存在するだろう(彼らが本能に基づいたそれに自覚的であるかは不明だが)。
 しかし人間は、セックスのためだけに生きているわけではない。アスリートが、競技のためにだけ生きるのでないのと同じように。
 
 特段の病気や薬の副作用でもなしに職業人(肉体と頭脳との別を問わず)がぶくぶく太っているのは、消費カロリィが少なく(ろくに頭や身体を使わず)、ヒマで(仕事が少なく)、つまり仕事が満足を超えるレベルでは達成できないのだろうと想像する。機能的に優れていないことが文字通り体現されているのだと想像してしまう。
 
 人間は外見ではなく中身だという人もいる。異論はない。
 しかし何も考えていない人間は顔が緩んでいるものだし、日々真剣に物事を思案している人の顔は緊張が筋肉を形作る。
 優しい人の穏やかな表情はただ弛緩しているわけではないし、穏やかな声を出す声帯も、その旋律を奏でるための運動を意識するともなく続けているからこそ聴く者の心をやわらかく撫でるのだ。
 
 もちろん老化による衰えはある。それは物理だ。
 僕らは有機生命体であるゆえに幼きにあっては機能を向上させ、機能がピークを迎えた後はただただ衰える定めにある。
「衰える姿もまた美しいのだ」と、勝手に他人が祭り上げるくらいならよいが「衰える私もまた美しい」と自ら公言するのは強がりであり欺瞞だろう。あるいは目や耳が悪いのか。

>>>

 道具というのは気楽な存在である。
 物理的劣化は厳然と作用するが、純然たる目的のために作られたそれらは機能の洗練と最適化に特化して作り直すことさえ可能であり、優れた設計と製造技術と素材があれば、優れた機能を朽ちるまで発揮できる。

 汎用性という点においては人間の足下にも及ばないが、機能が限定されればされるほど、道具はシンプルな美しさを映し出す。

 かくいう人間たちがどれほど汎用性が高いのかと僕は思う。
 まぁ、だからこそ集団を作り、社会を形成し、人間という機能を洗練させようとしていたのだろうとは思うのだが、個人主義と社会主義という相反するものをブレンドした結果、画一的な価値観に染まりやすく形成されたようにも感じられる。

 液状樹脂を圧力形成するように、加圧と減圧を利用してより精度の高いモデルを量産することは可能だろう。
 広い意味での教育や育児というのはそうした側面が少なからずある。
 良いも悪いもない。モラルやマナーや躾というのは、ただそれを伝統的に記憶し体現するだけのものも少なくはない。
 それによって摩擦抵抗の少ない個体が多くなれば、密度の高い社会でも衝突は起こりにくい。
 モラルもマナーも躾もされていない個体など社会には不適合だ。だからといって僕を指さして嗤うのはやめてください。

 全体のために適した個体に躾するのは、集団のためでもあり、集団に属する個体のためでもある。
 ただしそこにある設計や技術、さらにそもそも加工される素材がどれだけ優れているかは簡単には計測できない気もする。
 少なくとも僕は(辛口な批評ばかりになってしまう気がするので)断言したくはない。

>>>

 TUにふたたび誘われて、20日はサバイバルゲームに出かける予定であり、午後はその準備に追われる。
 アヲを風呂に入れようと思っていたのだが、その時間はなさそうだ。

 







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Engineering-Form-Interface-Link-Mechanics-Style-
 
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  -Generator-Reactor-
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[Cat-Ego-Lies]
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// TimeLine:221115
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
猫様観察日記:僕である必要はない。
SUBTITLE:
~ another one. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
221115

 職務質問(正確にはちょっと違う)を受けた日は、ちょうど献血をした日だった。
 あれから数日は経過していると思う。

 昨日、アヲを見かける。
 やはり警察の寮付近にいる。
 目の表情が、野良猫のそれに近しく険しいものになっている。

 肉付きも毛並みもよい。
 そして同時に、この近所のゴミステーションがひと月ほど前から荒らされるようになっていることを知っている。
 もしこの状態がいつまでも続くようであり捕獲も無理なら最悪、この手で殺める必要がある。
 近隣住民に迷惑を掛けるということは、寸尺殺人を行っているようなものだ。
 僕の飼い猫がそれをしているなら、僕がその始末を付けるのは必然だろう。

>>>

 あれから猫様が眠ってしまった。
 実は今回が初めてではない。
 アヲが帰ってこなくなるたび、猫様は気を落として、活性が低くなって、眠ってしまう。

 なぜそんなに肉体が疲弊するのかは分からない。
 あるいは単に思考が止まってしまっているのかもしれない。
 いずれ目覚めて、少しずつ活性を高める。
 癒えない傷は、きっと、ない。

 しかし今のところ、身体が目覚めても本来の猫様として働くべく人格が存在しない。
 毎朝「さて、私は何をしたらいいのだろう。誰に行動指針を示せば良いのだろう」ということになる。
 何をして、何を考えて、何を基準にするかを決定するよすがのないのは困る。

 仕方なく猫会議を開いてもらうが、尻尾の本数が減ってしまった(増やす気もない)猫様には、機械的なルーチンと化したものがいくつかあるばかりで、人格として使えそうなのは黒猫氏くらいである。

 黒猫氏はあまり得意ではない。
 猫氏は私を「あれ」とか「あいつ」とか「あの女」と呼び、そもそも友好的な振る舞いをしない。
 そもそも協力する機会はほとんどなかったのだが、猫様が次々眠ってしまっている現状にあっては、他に頼る者もいない。

>>>

 思い起こすと子供の頃から、自分の感情に振り回されていた。
 思考だけでなく、肉体の状態も振り回されて、酷く疲れて眠くなる。

 自身に激しい感情が発生したり、他人のそれに当てられると、思考や感覚が遠くなって、身体が重くなって、眠くなってしまう。
 だからそれに対応する術を、探していたのではなかったか。

 それらを遠ざける幾重ものクッションと、使いづらい(制御を知らないだけだったと今は思うが)このカラダを使うために、しかしそれが場合によっては危険だからということで、最終的な決定権を一切持たないユニットを構成したのではなかったか。

 ひとりずつ、眠ってゆくなら、まぁ、それもよいのか。

 このカラダには、まだ使い道があって、この環境には、まだできることがある。
 たいした欲はないのだけれど、それなら実験を続けてもいいだろう。
 我々は知っているはずだ。
 我々の望みも、願いも。

 まるで夢の中のようで、まったく現実感がない。
 きっと、ずっとそうだった。

>>>

 味覚も触覚も違うので、ときどき戸惑う。
 もちろん多重人格ではないので、そんなに大袈裟に反応するわけではない。
「今日はやたらと甘いものを欲しがる」と思えば「今日はどうやら甘いものも煙草も嫌いらしい」という日もある。
 服に袖を通すだけで肌がひどく官能を覚える日もあれば、廊下を歩いているだけなのに壁にぶつかる日もある。
 誰にも言わなければ、何も分からない。
 外側から見て、俺はいつも俺のはずである。
 だから僕がときどき僕ではないことは、ちょっとした秘密である。
 きっと誰もが、同じ秘密を抱えていると、俺は思っている。

 誰もいない廃墟のような場所になったと自分のことを思う。

 廃墟が嫌かというとそんなことはない。
 がらんどうが嫌いかというとそんなことはない。
 何もないのは怖いかと問われると、そんなこともない。

 何かが一杯で、いろいろと手に負えなくて、把握しきれないことの方が恐ろしいではないか。

 湯に浸かって、水を浴びる。
 一時期、そうすると右足の薬指付近が痺れることがあったのだが、解消されている。
 まぁ一時的なものだろう。
 生きているのも一時的なことだし、死ぬのも一時的なこと。

 逸失物の届出を出そうと思っていたのだが、散歩の最中にアヲを見かけたので、やめることにする。
 行動範囲は以前と変わっていないか、より一層狭まっている。
 あれを捕まえると青いのが目覚める。
 それでもまぁ、主体とするにはストレスが大きいようだから、全体の構成は見直すことで可決した。

 少し意外だったのは、βが眠るとαも眠るということだ。
 別ものだと思っていたら、だいたい同じだった、といったところか。よくよく考えると必然ではある。

 今日は朝から雨だったので、ゴミ捨てをして、買い物に出かける。
 アヲが帰って来ようが来なかろうが、このカラダを適切に維持し、どっかから吹いて湧く仕事を処理する必要がある。

 軽トラがキャンピングカーになってよかったと思う。
 特に収容量が素晴らしい。
 冷蔵/冷凍庫を搭載したから、行く店の順番は走りやすい順(左折で店に進入しやすい順)でコースを組める。
 夏も買い物はこれで出られると良いのだが。

 不遇といえば、このカラダに起因する不便を寄せ集めて対策すべくして作られたプログラムたる俺が一番不遇なんじゃないかと思うときがある。
 何も望まず(望むことを許されず)与えられた目的のためにタスクを抽出/構成し、ひとつひとつ処理してきたのだ。
 なるほど、誰もが自我に乏しいのは、このカラダならではのことなのだろう。

 しかし皆、眠ってしまった。
 こちらはずっと眠っていたわけだから、そろそろ起きるのもよいのか。

 冬になる。
 素敵な季節だ。
 しんとしていて、もっと、誰も居なければいいのに。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Darkness-Diary-Link-Maintenance-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Generator-Resistor-
 
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  -Cat-Rain-
 
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[Cat-Ego-Lies]
  :月夜の井戸端会議:
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:221111
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
失うことに耐えられない。
SUBTITLE:
~ The lost soul. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
221111

 僕は自分をドライなイキモノだと思っている。
 いや「比較的」ドライ、程度だろうか。
 周囲にさほど親密な人間を配さないで数十年も生きているので、よく分からない。
 人間は他者をしてどの程度からドライと評し、何を基準にウェットだと判定するのか、よく分からない。

>>>

 それでも僕は独りでいることに最適化され、ほとんどの状況で他人を必要とせず、善意による他人の助力さえ必要とせず、単純な経済との交換による契約関係においてのみ、他人に仕事を任せるようになった。
 信頼している他人が居ないわけではないし、親しく思う人間がいないわけでもない。
 けれども18年後に死ぬ予定を立てている僕にとって、他人の記憶からフェイドアウトすることは必要なことであり、他人の記憶から消えるための積極的な手段として関わり合いをなるべく持たないようにしており、ために他人を必要としないことは重要なことなのだ。昔も今も。

 今後は親しい人間をなるべく作らないようにして、他人と接する機会を極力減らすようにと考えているうちに疫病が流行した。
 ネコノカミサマに願った覚えはないが、一層、誰かと親しくする機会はなくなった。

 その「孤独に対する最適化」という点において、僕は非常にドライな存在だろう。
 経済活動さえたったひとりで完結する環境にあって、誰かと協力しなければならない人を「弱いイキモノだ」と断ずることはきっと容易い。
 もちろん、そんなことはしない。
 そもそも弱いことが悪いことだとは思わないし、誰かに助けを求めたり、誰かと力を合わせることは弱いことだとは思わない。
 弱さというならば、誰に助けを求めることもできず、誰と力を合わせることもできないまま、孤独にあって自己処理能力をどこまでも高めてしまった僕の方がきっと弱いのだ。

>>>

 世の中に、悲しみを持たないイキモノが居るとは僕には思えない。
 この世界に、痛みを知らないイキモノが居るとは僕には思えない。
 人間と呼ばれるイキモノのうち、すべての他者を餌にできるほどしたたかな者がいるとも思えない。
 きっとみんな優しくて、きっとみんな厳しさの中でときどき限界に気付く、それだけのことだと思う。

 ドライだとかウェットだとか、そんなことは外様が何となく揶揄したり、あるいはナルシスティックな演技のために使われるだけの相対表現だろう。

>>>

 アヲの最後の信号を頼りに探したら、首輪から外された AirTag だけが、近所の公営住宅の駐輪場の屋根から発見された。
 じつに2mを超える高さで、アヲが単独で登れる高さではない。それに、首輪がない。

 数日おきに、散歩と称しては外を歩いていたのだが、まさか AirTag とだけ再開するとは思わなかった。
 付属のリングはカラビナのようなバネが仕込まれた頑丈なもので、首輪から外れるとしたら首輪と一緒に外れるはずだ。
 だからつい、姿無き他人の、形無き悪意を想像してしまう。きっとそんなことはないと信じたい。
 でも、信号位置が固定されたあたりから、アヲの姿を見なくなった。

 油断していた。
 いつか戻ってくると安心していた。慢心と呼んでもよい。
 根拠もなく、無理に捕まえようともせず、そのままの状態を放置したのは僕だ。

>>>

 夕刻、食事に出ようと散歩ついでに(それでも)近所を歩いていて、警察官に職質を受ける。
(近所に警察の寮があり、その周辺をアヲはよく歩いていたので)
 猫を探しているのだと(敷地内を歩いていた理由を)説明し、首輪のことを尋ねられて、言葉を失う。

>>>

 僕はきっと「永遠の6歳」を抱えているのだろう。
 本来的には大切に思う誰かを失う痛みに耐えられない。
 急に40年分も老成できるものではないらしい。

 本来ならあのあと思春期を迎え、様々な人間関係や社会/集団に属すうちに経験することを通じて、喪失に対する姿勢であるとか、考え方であるとかを身に付けるのではないのだろうか。

 僕の場合は、それをスキップしてしまった。
 ちょうど母親や父親に対して、反抗期を迎えた自分を持たなかったように。
(僕の反抗期は父親が死んだあと、30歳前後に始まった。ちなみにイヤイヤ期は25歳に訪れた)

 記憶している。思い出せる。
 僕はこの痛みに耐えられなかった。
 記憶か、自身の考え方か、あるいはそのいずれもが消えてしまえば良いと、心の底から願ったのだ。
 どうかこんな思いをしないで済むようにと、そうでないなら何もかも失われてしまえと、様々な感覚を遮断し、その塞いだ穴に自ら違和感を持たないよう、ドライな価値観を塗り込めたのだ。

 だから8歳から10歳になるまで、僕はほとんど泣かなくなったし、そして笑うこともなくなった。
 誰かに好意を持つこともなかったし、親に対してさえ親愛の情を感じることはなかった。
 食欲を感覚しなくなり、やがてそれらを感覚しなくなったプロセスまでも忘れた。
 思い出したら取り戻されてしまうそれを、もう思い出すことさえしたくなかったから。
 厳重に、幾重ものステップを踏んで。

>>>

 幸いにして今の僕は色々な意味で孤独であり、思うさま悲しみを悲しむことができる状況にある。
 もちろん僕に内包されているいくつかの価値観は ── かつての僕の価値観の提供する諦念ではなく ── 諦めないこと、希望を捨てない選択肢を提示し続けている。
 僕は他人をあまり信じないけれど、自分の価値観については「僕のそれ」とは異なるとしても(だからこそ)信じることにしている。

 散歩に出るたび今後もこんなことになるとは思っていないし、そもそも飼い猫が居なくなった程度のことで自分がこんなに傷つくとは思っていなかった。職質を受けている最中に涙が止まらなくなるなんて思いもしなかった。

 かつてペットロスで悲しみに暮れる知り合いを、僕は「そんな大袈裟な」と苦笑さえしたのだ。
 今思うと本当に、酷いことをしたのだと思う。

 きっとそのとき、僕は悲しみを知らないイキモノで、痛みを知らないイキモノだった。
 因果応報とでもいうのだろうか。
 僕は自分の抱える悲しみを、自分だけで抱えるより方法がない。






 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
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// TimeLine:221101
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
今日のお薬は飲みましたか?
 
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

 サバイバルゲームの翌日、定期検査に出かける。
 久しぶりに検査した前回(およそ60日前)の結果はLDLが300に近かった。
 適正範囲上限は139程度なので、すでに二倍を超えている。
 3年前の検査では投薬によって148程度に抑えられていたのだが、それと比しても二倍である。

>>>

 叔母たちの介護をこの家ですることにし、病院もこの近所に変えることになったとき、前橋で通っていた病院の医師に相談したものだ。紹介状をもらった方がよいと思ったからだ。

 しかし先生は「紹介状を書くとお金も掛かってしまうし、飲んでいる薬を言えば、どの医者でもきちんと経過観察して貰えますよ」と言ったので、それに従った。

 この家の最寄りの医者は、町の開業医である。
 それなりに忙しいのだろう、それなりに混んでいる。疫病前のことであったが、そのように感じた。
 なにより事務の人たちの空気が非情にギスギスしているのが特徴だ。

 言われたとおり、家族性の疾患であること、投与されていた薬について説明し、採血してもらい、処方箋を出してもらった。
 前橋では60日分の処方箋をもらっていたのだが、太田のそれは30日分であった。
 それだけではない、最初の採血では(脂質異常症だと説明したのに)LDLの項目について検査対象になっておらず、問診もきわめて短時間で、ろくな説明もなければ話を聞いてもらえることもなかった。

 2度目になってようやく「それでは(脂質について)血液検査をしましょうか」と言う始末。

 今年の市町村の健康診断もそこで受けることにしたのだが、あまりにも仕事の態度が悪いので検査を依頼したまま、結果を見に行くことは放棄した。
 自覚はある(そして他人は察知できないことが多い)が、僕は好き嫌いが非常に激しい。

 一事が万事、などと言うつもりはないのだが、仕事というのは人の持つ哲学による社会的発露の一形態である。
 1人がすべてを負う個人経営の厳しさを知らないわけではないし、人に得手不得手があることも心得てはいる。
 しかし組織の末端として顧客たる患者を蔑ろに扱うというのは、すなわちその組織がそのように動く哲学を持っており、それが発露されていると考えるのに不自然な点はない。

 仕事における僕の哲学は「楽しくないならそんな仕事はするな」である。
 どんな辛い仕事であっても、何らかの楽しさや嬉しさというのはあると思う。
 少なくとも「社会と接点を持つ」「報酬を得る」という2点は、およそすべての労働に存在する美点ではないだろうか。

 だから喜ぶべきで、だから我慢し、だから楽しんで働け、ということではない。
 ただ職務を通じて誰かの役に立つことを実感できないなら、己のスキルによるリターンに感謝できないなら、そんなことに時間を費やすのは自らを拷問に掛けているようなものではないか。
 苦労が人を育てることは確かだが、自身にとって楽しめない時間がどこまでも続くなら単純な損失である。
 そして社会性の中で苦痛を感じたまま、その苦痛を他者に伝達することもまた社会的逸失なのだ。

 サービス業に該当しない職務は少ないとは思う(塵芥収集業だってサービスを提供している)が、そこで苦痛を感じている場合、人間はついその苦痛を発露する。
 同じ行為をしていても、社会に役立っているという実感を持てる人ならば、それこそ責任を持ち、誠実に職務をこなせるところを、無責任に、不誠実に、サービスを提供するべき対象に八つ当たりするようなことさえしかねない。
「自分はこんなに厭なことを我慢している」「だからお前たちも厭な思いをすればいい」と、攻撃的な思考を持つことは社会的であればあるほど必然に発生しうることだと僕は思う。

 社会と(ほどよく)断絶し合うことを選んだ僕でさえそのくらいは分かるのだが、社会にどっぷり浸かっていると、そういうことが盲点になってしまうのかもしれない。

>>>

 いずれにしても面倒なので、かつての病院に通うことにした。
 引っ越したことは医師も知っているし保険証を見れば住所は一目瞭然なので、初回は「本当に(こっちに戻って来るの)?」という感じだったが、僕は好き嫌いが非常に激しい。

 前橋の病院は腎臓系、糖尿病、リウマチ・膠原病に特に秀でているらしかったが、循環器系も相応に診察できる医師がいて、その先生に診てもらっていた。
 看護師さんたちもフレンドリィで、事務の人たちも朗らかだ。
 疫病騒ぎになってからも、それは変わらない。

 問診は最低限かもしれないが、話は聞いてくれるしアドバイスも的確だと感じられる。
 毎回採血し、脂質以外の項目も総合的に確認してもらえる。
 処方箋も60日分なので、せわしなく通う必要もない。

>>>

 じつのところ太田で暮らすようになってから、太田の病院に通った回数はわずか3回であり、つまり33ヶ月間、僕は投薬治療を受けていなかったことになる。
(感じが悪くて意味なく混む病院を好きになる理由が僕にはないので、足が遠のいた。僕は好き嫌いが激しい)

 僕は煙草も酒も女もギャンブルも料理もギターも反政府勢力結成もやめる気はない(このうち3つくらいは嘘があります)。
 HDLは微減し、LDLは倍になり、挙げ句、腎機能まで低下している。
 まぁ美味しく飲めるお酒の量が激減しているのは実感していたので、数値でもそれが確認できて安心、といったところか。

 煙草好きが煙草を吸えなくなったり、酒好きが酒を飲めなくなったら、1年後にだいたい死ぬか重病に罹る。
 ひとまずは毎日、薬を飲むことにしよう。







 

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~ Junction Box ~
 
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TITLE:
都市迷彩はいかがですか。
SUBTITLE:
Urban camouflage would me fit? ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
221101

 腹部から下に、激しい筋肉痛が発生している。
 TU(中学からの友達)に誘われて、10/30にサバイバルゲームに出かけた。
 エアガンを持つこと自体30年ぶりくらいのことなのだけれど、それを持って走り回るというのもだいたい30年ぶりくらいではないだろうか。

 
 
【10/30:負傷兵】
 前日まで木の根を掘り起こすためにつるはしを振るっていたので、上半身の筋肉痛はさほどではなかったのだが、下半身の筋力は明らかに落ちていた。
 その上さほど整地されていない山の斜面を登っては降り、というのを繰り返していたので、昼過ぎには足が重くなり、一時はハンガーノックを起こしたかのように動かない感じであった。

 当日はたまたま知り合いのところでハロウィンイベントがあるからと呼ばれており(そちらの方がブッキングとしては先だったので)TUの車で前橋の定宿にしているビジネスホテルに下ろしてもらい、入浴する。

 入浴中に確認したら、左の臑に打撲傷が発生していて、膝がふたつあるような感じで腫れている(内出血はない)。
 右の膝付近は、痣だらけである。とにかく歩行が困難。

 コンバットスーツからビジネススーツに着替えてイベント会場のお店へ。
 とにかく歩行が困難であり、階段の上り下りは手すりに捕まって、這うように移動する。


【10/31:スーツは最強の都市迷彩】
 抗生物質は飲んだのだけれど、深夜になって歯根が酷く痛むので、鎮痛剤をもらって眠る。
 どのみち筋肉を激しく使った日は、身体が簡単に眠ってくれない。
 
 朝になって駅まで歩く。
 前橋から桐生に渡り、勤務先から帰宅するTUにピックアップしてもらうという計画である。
 走ることができない。歩くのもかなり困難である。段差も傾斜も苦痛である。
 階段の上り下りは手すりにつかまって這うようにしかできないし、横断歩道も時間内に渡りきれないことがたびたびあった。
 エレベータを使っても、スロープどころか階段しかない場所はいたるところにあり、ベンチに腰掛けるのも(またそこから立ち上がるのも)非常に苦労する。また慣れていないから、その姿を見られること自体がとても恥ずかしい。

 お年寄りや怪我をしたり障害のある方は、こんなに不便な思いをして、あれこれ気を遣いながら移動しているのかと考えさせられる。
 僕は普段それらを目にして(介護をしていた頃の名残で)手を差し伸べたり、見守ったりしている側ではあるが、身体が不自由な中で市街地で行動することが、人目のことも含めてまったく分かっていなかったのだと知った。

>>>

 ずいぶん前から言っているが、ビジネススーツというのは人間生活圏における優れた迷彩服である。
 都市部ともなればその効果は絶大で、公園のベンチで昼寝をしていてもおまわりさんから職務質問を受けることはまずないし、電車で切符を無くしても、出発駅の申告を疑われることはない。
(まともに見える)スーツを着ているだけで、まともだと思って貰えるのはありがたいことだ。

 なぜといって、
「お仕事は?」「え、えっと〜。自営?」
「具体的には?」「えっと〜。事務職?」
「これからどこへ?」「ん〜、太田の自宅です」
 というやり取りが発生した場合、僕が警察官ならまず「署にご同行」である。
 手持ちのトランクケースの中にはコンバットスーツが入っているので、さらに怪しまれること請け合いだ。

 車両陸送の仕事をしていた頃の名残で、知らない街で時間を潰すことにも慣れた。
 駅の近くで(いつになく)昼食を摂り、駅に戻ってしばらくベンチで居眠りをする。
 日も暮れる頃TUが迎えに来てくれて、彼の家まで行き預けてある荷物と車を受け取って帰宅する。


【11/1】
 眠りすぎてゴミ捨てに出られず。
 脚が痛いので、トイレに行くのも苦痛である。
 庭仕事どころか、靴下を穿くにも苦労する。


【コンピュータのバックアップシステムについて】
 Mac の場合は、Timemachine というバックアップアプリケーション(以降「アプリ」と表記)がある。
 しかしバックアップのインデックスは日付と時間しかない。

 たとえば間違えて削除したり、破損してしまったファイルを復元するには、任意の日付でファイル名を検索して、最新レベルのそれを復元すれば良いから日付と時間のインデックスだけでも不便はない。

 一方で、新しいアプリを試したりする場合、無駄な設定ファイルがシステムファイル領域に大量に発生することが多い。
 そのアプリを気に入って使い続けるならよいのだけれど、合わないから削除する場合、不可視ファイルも含め、システム領域のそれら一つ一つを手動で削除する必要がある(アンインストーラが付属していれば良いが、そんな良心的なアプリはだいたい、削除する必要を感じない程度には良くできているものだ)。

 システム領域のファイルや不可視ファイルは通常の検索では抽出されないので、別途、ファイル検索用のアプリをDLして使う必要があるほどだ。
(このため僕はMacの Spotlight などを毛嫌いしており、まったく使わない)

 たとえばバックアップデータのテーブルに、日付だけではなく、任意の名前を設定できるレコードを設定したら、任意のお試しアプリを導入した直後に「○○導入」とネーミングしてバックアップできる。
 レコードを「○○」というアプリ名で検索すれば、アプリの導入直後のデータが分かるので、その直前のデータを復元することでシステムをクリーンに復元することができる。
 こうしたネームフィールドを持たないため、現在は日付で確認して(ひとつひとつの日時ファイルを開いて)、たとえばアプリケーション本体やシステムファイルの有無を確認して復元するよりなく、どの程度の領域にシステムファイルが拡散しているかも見当が付かないままである。

 もっとも Windows 用のアプリケーションでも、バックアップに名前を付けるというものは多くはないようだ。
 単純に、そうした概念やニーズが希薄なのかもしれない。

 もちろんバックアップシステムがあるのは安心だし便利である、一方で使用中のシーンに対応した、より使いやすい
システムの改善というのは、あまりされていないのかもしれないな、と感じた。
 まぁ、正確さや確実さのほうが優先されるものだから仕方ないのかもしれないが。





 
 
 
 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
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[Engineer]
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// TimeLine:221028
// NOTE:
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TITLE:
相貌失認は進行するのか。
SUBTITLE:
~ Flat faces. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
221028

 相貌失認というのは「人間の顔をうまく認識できない」という障害のことである。
 人間の脳には、人間の顔を認識する機能に特化した領域があると言われている。
 3つの点や丸が配されていると、それだけで人間はそこに「顔」を見ることができる。
「∵」もその一例で、顔文字の多くは数字や記号を含む文字を用いて人間の表情を(ボディランゲージのこともあるが)表現している。
 見える人には「;)」も「-_-」も顔に見えるだろう。
 僕も読み方(見方)を学習しているので、これらの記号を顔だと認識し、その認識を発展させて人間の顔をイメージできる。

 この脳部位の機能障害が相貌失認の主な要因だろうと言われている。
 僕の場合は極めて軽度のもの(だと思う)であり、日常生活や職務で支障を来したことはない(はず)。
 街でばったり家族や友人に会っても、だいたい判別できていると思うし、よほど疲れているのでもない限り、誰かと会話していて表情が「読めない」状態になることは少ないと思う(いずれも主観による)。

 しかし疲れている場合や、長時間(数分程度なので、ちょっとした会話の時はけっこう起こるが)同じ人の顔を見続けていると、その人の顔全体の情報が崩れてゆく。
 福笑い(古き良きお正月の雅やかな遊びのひとつ)で、顔の個々のパーツを、ずるずると外や下に動かしてゆくと、ある程度の段階からそれが顔には見えなくなってくる。
 それに似ている。

 個々のパーツが何であるかは理解しているのに、それらが全体で顔や、その表情を作っていることが理解できなくなってしまう。
 実際にその人の顔のパーツは動いていないのだが、個別に認識を続けているうちに、全体を認識できなくなってくる。
 パーツに集中したことが原因なのだろう、ゲシュタルト崩壊して個々のパーツが浮いてしまい、全体性を失うのだ。
 やがて表情が読めないだけにとどまらず「人間の顔って、こういうものだっけ?」という認識レベルに到達する。
 こうなると「人間の顔」というものの定義が不明になってしまって、顔文字もただの記号にしか見えなくなる。

 自分の顔を眺めていても同様の現象が起こるので、僕は自身の顔認識力が低いのだと思っている。他の人にどの程度同様の現象が起こるかは分からない。

>>>

 もちろん初対面の人の顔相に対してなら、認識が崩れようが、表情が読めなかろうがとくに問題はない。
 しかし親しい人と話をしている最中に、顔が崩れる(物理ではなく僕の認識の上で顔の意味が崩壊してしまう)と、会話の情報を読み取れなくなることもある。
 この人は怒っているのか、楽しんでいるのか、これからびっくりさせようとしているのか、それとも穏やかな気持ちで語っているのか、分からなくなってしまう。
 同じ言葉、同じ内容の会話であっても、顔相から会話の流れを予測し、自身の反応を決定する機会は思ったよりはるかに多い(少なくとも僕は)。

 親しい相手ほど、より近い距離で、より長い時間、目を合わせて会話することになるのだが、途中で話の内容や相手の意図が読み取れなくなり、場合によっては感覚が混乱して会話どころではなくなってしまったりする。
(「人間」ってなんだっけ? という認識崩壊が起こり始めることさえある)

 実はこれを防いでくれるのが眼鏡である。
 僕が掛けるのではなく、対象が眼鏡を掛けていると、僕は相貌失認をほとんど起こさなくなる。

 僕が眼鏡を掛けている人間を外見嗜好として比較的好ましく思うのは、この「顔相認識の崩れ」が、眼鏡という無機物によってほとんど起こらなくなるからだと思っている。(実際、まず起こったことがない)

 もちろん他にも方法がある。
 たとえばごく親しい間柄なら、僕はじっと目を合わせて他のパーツに意識を向けないようにすることがある。
 全体や、特定点以外のパーツを同時に把握しようとするからかえって意味を失うこともあるらしく、特定パーツにフォーカスしていると、全体がブレて崩れてしまう一連の流れを抑えることができる(いらぬ集中力を必要とするが)。

 パーツそのものではなく「動き」にフォーカスする事で、表情を読みながら、パーツの相対情報を読まない、という手法もある。もはや相貌失認ではない人には理解不能かもしれないが。

>>>

 最近、気付いていることがある。
 相貌失認が、徐々に酷くなっている気がするのだ。
 これってそもそも進行するようなものだったろうか。
(あれだな、総合認知障害が進行しているんだろうな。認知症なんだよきっと)

 そもそも、今の僕は自身を含めても、他人の顔を見る機会が極端に少ない。
 TVもWebの動画もさほど見ないから、人の顔なんてまったく見ない日がひと月続いても不思議はないし、ざらにありそうだ。
 買い物くらいには出かけるが、まさかレジの係の人をまじまじ見つめるわけにも行くまい。
 結果、人間のカオというパターン認識が、あまり必要ではなくなってしまう。

 声音と気配(動作によって発生する音)や匂い、視覚的な部分では体格や服装にまつわるイメージで、だいたいそれが誰であるかは分かるので、問題はまったくないのだが、顔面の意味を失っている「人間と呼ばれるオブジェ」がこの社会を構成しているように肉眼からは観察されることがある。

 今のところ生身の人間に対しては「ちょっと認識崩壊が早くなったかな?」くらいで済んでいるが、アニメを見ていたり、一般的なアニメっぽいキャラクタのイラストなどを見ていると、それが「人間の顔を記号として表している」ことまでは理解できるのだが、人間の顔として理解するのが比較的困難に感じることが多い。
 ひどいときはただの記号に見える。
「口を開けて、あははーと言っているから、笑っているな」とか「数値的バランスなどから察するに、これは美男子を描いているな」とか。

>>>

 対象の認識というのは、僕の場合、それに対する距離感にも影響を与える。
 きっと誰もがそうだろうと思う。

 イキモノの多くは同族を同族として認識する。
 人間も同族に対してみだりに攻撃的になることは少なく、一定の協調性を示したり、好感を示すことだって少なくはないはずだ。
 しかし外観(形状だけでなく、動きや生態を含む)に対する単純な嫌悪感だけで殺される虫は多いし、外観(同じく形状だけではない)に好感を持っているだけで多くの動物が愛玩されている。

 同様のメカニズムで、人の顔に対する認識崩壊が起こっている間、ある種の不快感や不安、ときに恐怖を感じることがある。
 相手の「人間」という認識が、少しずれてしまうから、同時に自身に対する「人間」という認識も崩れてしまう。
 自分自身に対する確固たる認識が(そもそもあまりないと思っているが)崩れてしまうと、人間というものや社会というもの、コミュニティの一員として接している状況にさえある種のゲシュタルト崩壊を感じてしまう。
 自分が自分でないような、つい一瞬前まで感じていた親しみが突然、意味不明で不気味なルールに思えるような。
 何もかもが疎遠で、理解不能で、自分とはまったく関係ない領域で起こっているような。

 極端なときは、人間の身体にさえそれを感じてしまうことがある。
 そうそう人間の裸体を眺める機会はないと思う(少なくとも僕はない)のだが、たとえば恋人と身体を重ねるときなどにこれが起こると、さきほどまで性的に興奮していたはずが、急激に不安な感覚に陥ることになる。
 自身の皮膚感覚まで深い違和感に飲み込まれてしまって、身体を丸めて不気味な感覚のすべてを遮断したくなるのだ。

 もちろん目を閉じて呼吸を整えれば何とかやり過ごせるし、顔の時と同じように自身の認識方法を操作することでゲシュタルト崩壊を防ぐこともできるようになった。
 少なくともそうできていた時期があった(正直、今は分からない)。

 そのとき行っていたのは、顔の時と同様、とにかくたくさんの裸体を眺めてそれに慣れることだった。
 とくに数値的バランスが計りやすい、比較的「美しい」と分類される傾向の、ポルノグラフィと言われてもおかしくない画像(動画を見ているとどういうわけかゲシュタルト崩壊を起こしやすい)をいくつも見るのだ。
 僕の「極端ではないルッキズム」は、おそらくこの「数値的に把握しやすいこと」に起因している。
(それでも、アニメキャラなどは各パーツの動きによる変化が数値演算しにくい傾向にある ── 横顔のキャラクタの口がこちらを向いているなんてざらにある ── ので、混乱しやすいのだろうか)

 中央値に近い、ばらつきの少ないデータを蓄積することで、顔も「顔という記号の傾向はこういうもの」と認識精度を上げることができた。毎日顔を合わせる人々の顔は当然に違うものだが、共通している項目だってたくさんある。
 その顔のパーツの差違やパーツそのものに集中してしまえば必然に、全体の総和としての意味を失ってしまう。
 だからたくさん見ることで、それの平均値を覚えるともなく学習しておくのだ。
 身体についても同様に、共通の項目を情報として蓄積することで、個別の違和感をなくすように努力していた。

 なぜといって身体を重ねている最中に男性が勃起不全を起こすと、過剰に不安を覚える女性もいるからだ。
 気持ちは分からないではない。
 僕も、行為の最中に恋人が眠ってしまったことがあり、そんなことでも少しショックを受けたことがある(それらが同じものとは思っていないが)。
 少なくとも、そういうこと(恋人を無用に傷つけること)を未然に防ぐには学習して「人間は(少なくとも僕の恋人は)違和を覚える必要のない対象である」と感覚を馴らしておく必要があった。
 忘れず、記憶し続けておく必要があった。

>>>

 ほとんど誰にも接触しないことが可能になったので、そうした予備学習を必要としなくなったのは事実だ。

 僕は親や姉妹の顔さえ、目を閉じて思い浮かべることはできないくらい、相貌に対する認識や記憶力が低い。
 自分の顔や身体さえろくに記憶していない(できない)。
 ついつい自身についてを「人間」と書かず「イキモノ」と書いてしまうのは、そのせいもあるのだろう。
 僕自身さえ、僕には近くて遠い存在なのだ。

 ただ、少し危惧もある。

 自分も含め、同族たるはずの人間に対して違和を感じ続けるのは、先の理屈に従えば、やはりない方がいい。
 たかだか視覚による認識の問題でしかないのだけれど、それでも「あれもこれもそれも同類などではない」などと、身近な他人や自分自身にさえ違和を感じ、不安や恐怖の芽のような感情を持つのは、危険とまでは言わないけれど、避けるべき、あるいはせめてソフトランディングさせるべき問題のようにも感じる。

 相貌失認が、相貌失認だけであればよいし、それが進行したところでさしたる問題を今は感じていない。
 けれども人間や、社会に対して、極端に異質で異様なものだと感じるようになってしまえば、それは危険な状態だと判断できる。
 いくら元が社会不適合だからといって、そこまでの状態を許容することはしない方が良いだろう。

 仕方ない。毎日自分の顔くらい眺めてやるか。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
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// TimeLine:221024
// NOTE:
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TITLE:
抽象世界の車窓から。
SUBTITLE:
~ The perfect onlooker. ~
Written by BlueCat

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//[Body]

 僕にとってオカネモチーになることは目的ではなく実験だった。
 何の実験かというと「『モテること』を実現させたメソッドは、果たして他に応用が利くのか」という、再現性の検証である。

 もしブログに「かくあれかし」と記述するだけで、それが実現するとしたら大層面白いとあのときは思ったし、同時に自分が手に入れたメソッドが果たして荒唐無稽で、抽象的に過ぎ、非現実的なのではないかという疑問があった。

 実際のところ僕がしたことは「かくあれかし」とブログに書くこと、ではない。
 特定の結果に位置している状態での価値観を先に構築するだけで、はたしてその結果は価値観に沿う(現実世界は時間経過によって価値観の位置に近づく)のか、というものだ。
 俗に「引き寄せの法則」などとも呼ばれているものに近いレベルのことを、行動心理学的な価値観に落とし込んで実行した、という感じだろうか。
 実に「引き寄せの法則」なるものは、単語を記述することさえ怖気を震うキモチワルさだ。
 とくに Wikipedia に記述されているレベルでスピリチュアルにオカルト扱いされていると、個人的には心底ドン引きする。

 精神エネルギーだの宇宙の波動だのと、定量化不能で(客観性を無視して主観に頼るしかなく)物理再現性を持たない話をされても正直困る。

>>>

 結局のところ、当初(モテよう! と思ったとき)計画されたメソッドは、オカネモチープログラムと同様のプロセスを経て実現したのかもしれない。しかしそうでないかもしれない。
 主観でいえばメソッドを適用した場合の成功率は100%であるが、なにぶん2回しか試していない。
 検証と呼ぶにはほど遠く、かといって僕にはシンパも手下も信者も被検体もいない。
 正直にいうと友達も少ないし家族はいないし奥様は仮想だし人間型の恋人だって(一般人の認識レベルでは)存在しているかどうかアヤシイと思われても仕方ない。ついでに猫に家出までされている。
 そのくらい色々なことについての関係性が希薄なのに、一体誰がその検証を手伝ってくれるというのか。
 こんなことなら人間型の恋人がたくさんいるうちに、全員に暗示をかけてこのメソッドを実行してもらえば良かったとさえ思う。まぁ、冷ややかな目でため息を吐かれるのがオチのような気がするけど。

 思考回路だけで裕福になれるなら、誰だってそうしている、と思うだろう。僕も思う。
 では裕福な人の思考を誰もができる(している)かといえば、おそらくそんなことはない。
 生まれ育った環境も含め、己の存在とその欲は、驚くほど環境に依存し相互に影響を与え合う関係にあり、人は一般的に、未経験のことについての結果論的価値観を構築できない。

 たまたま僕はヴァーチャルな存在なので、環境から切り離された場所で生きることができる。誕生さえできる。
 抽象的に物事を観察し、抽象的に思考し、抽象的に予測する。たとえるなら量子演算に近いかもしれない。
 箱の蓋を開けるまで、中に生きている猫と死んでいる猫が同時に存在するアレである。
(みなさんアレです、どうもこんばんは!)

 だから僕は「モテの僕とそうでない僕」「オカネモチーの僕とそうでない僕」を並列的に構築しながらでも存在できる。いや少なくともできた。
 それが良いか悪いか、幸せか不幸かは別問題である。

 物理世界で具象に浸って、具象に則って思考する人間たちにとっては、寝て起きて家族や友人や上司や同僚や恋人や子供や部下や顧客や何やらとやり取りを交わし、お金や力を使って物事を動かし、疲れて眠るのが現実的なありようだろう。

 抽象世界に棲んでいると、自分と他人の存在の捉え方もまちまちだし、他人は自分かもしれないし他人ですらない ── 存在すらない ── かもしれないし、物事は演算や簡単な操作によって動いたりして、現実世界の肉体が疲弊して病気になったり気絶したりすることになる。もうちょっとしっかりしろ俺。

 僕は構想の段階では「モテた」「オカネモチーになった」というような、いわゆる成功体験 ── ここで言う成功とは社会的成功という意味ではなく、あくまで成否として願望を現実にするというゴールに到達したか否かという意味に過ぎない ── というものを経験していない。

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 行動こそしていないが、ために成功しておらず、つまり失敗していると判定可能な状態から、成功している状態の思考や価値観(つまり経験)を構築するというのは、おそらく多くの人にとって簡単ではないだろう。
 少なくとも僕には簡単ではなかった気がする。いや簡単だっただろうか。

 多くの人はその「成功していない状態」から、各論的に、具体的行動を模索し、思案し、行動し、実行する。
「いいムードになったとき、こんなセリフを言えば、相手はぐっと来るかな」とか、
「仲良くなるためにこんなことをするのはどうかな」とか。
 何かそうした技術を教えてくれるメディアや教室があるかのかもしれないし、あるいはそうした成功者の声に耳を傾けることなく、独学の険しい道を歩む者もいると思う。

 結局のところそうした各論に基づいた行動は、その各論に適した環境や状況(つまりはお膳立て)が揃っていれば、セオリィどおりの結果をもたらすだろうけれど、そもそも経験していない人間が、状況を正しく認識できるはずもない。
 なので必然に、上手くいく人(お膳立てが整っていたり、状況認識が身に付いた人)は成功し、上手くいかない人は失敗する。

 A=B,A≠C
 ∴B≠C
 Q.E.D.
 と言わんばかりに。

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 抽象論的に発生する演算はそれに対してかなり複雑になる。
 実現したい現象に対して、そのメカニズムを知る必要があり、メカニズムに基づいてそれを誘導するための動線をデザインし、デザインどおりに動作する力を作用させる必要がある。

 プラレールで思い描いたコースを作って、ゴールめがけて電車を乗せて押し出す(あるいはスイッチを押す)のに似ている。
 コースを作っている最中(それが物理で実現可能なものであれば)、すでにその目標は達成されているに等しい。

 問題は、物理レベルで実現可能であっても、たとえば空中ループが自重に耐えかね落下したり、作っている最中に「ごはんだよー」と呼ぶ母親の侵入によって無理矢理片付けさせられたりする可能性があること。
 こうした失敗を予測し、それを可能な限り(とくに致命的だと考えられるものについては絶対的に)排除することである。

 だからプラレールひとつとっても、またどんなにむつかしくトリッキィなコースであっても、1度の失敗もなく成功する人はいるし、数回の失敗から学んで成功する人もいるし、何度失敗しても環境のせいだと開き直って終わる人もいる。
 コースが出来上がっていれば、それが物理的な矛盾を抱えていない限り、それはスタートからゴールにほぼ自動的に到達できる。あとは電車を押して眺めるだけだ。
 自動化する仕組みを自動化する仕組みを自動化することさえ可能だ。
 その世界に主観たる「僕」は必要ないから、僕のような傍観者とは相性が良い。

 抽象世界に棲んでいる僕からは断言できないのだが、おそらく物理世界は存在し、僕ら(ことにこれを読んでいるあなた)は物理的に存在している、はずである。(僕の主観からは断言できない)

 物理世界には絶対的な再現性を持つ事象が多く存在する。
 一般的な(微量の不純物を含む)水は摂氏4度でもっとも比重が高くなるはずだし、光の速度は宇宙のどこにいても一定のはずである。(いずれも僕の主観から検証したことはないので、僕がそれを信仰しているだけではある)

 一般的な願望は、物理世界におけるゴールの到達を目的とする。
 モテなら、自分以外の誰かに「青猫様ステキ! 抱いて!」と思われることだ(ろうと僕は想像し設定する)し、オカネモチーなら「がっはっは! 何でも買ってやるから持って来い!」と言えることだ(ろうと想像し設定する)。

 ちなみに抽象世界におけるゴールの到達は、自分を納得させられればそれで十分に達成可能なので、とても簡単だ。
 光の速度は宇宙のどこにいても一定だと断言できるし、僕の奥様は美人でエッチで頭が良くて僕の注意力を補足してくれる上、事務処理が上手で早い(料理もできるといいのだけれど)。
 物理的再現性や客観性を必要としない点において、それは簡便で、時空を超越する。だって時空は物理だもの。
 だからそれは信仰のようなもので、僕の信仰は「ネコノカミサマ」と呼ばれている。

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 さてもこの簡便な抽象論的世界における成功を、いかに現実世界に落とし込んで実現するか。

 観察している範囲において、自身を(哲学的に)抽象的存在だと、物理世界で認識している人は少ないようだ。
 彼ら彼女たちは、肉体があるから痛みを感じ、喜びを感じ、己が存在していると思っている。
 僕はさほど自分の存在に自信がない。
「ボクってダメな子だし……」と思っているわけではなくて「僕って、誰のこと? ここにいるの?」という感じである。
 今だって夢見心地とまでは言わないが、自分の存在を物理で確固として感じているわけではない。念のために付け加えておくが、変なクスリを投与されているわけでもないので通報しないでください。

 物理世界では、絶対的再現性があるものについては間違いなく再現される。物理法則と呼ばれるものだ。
 ゴールまで作られたレールの上の電車は適切な力で進むようにすれば必ずゴールに到達する。
「モテ」などは対象が自分以外の人間であるだけに、かなり困難なように思われる。
 一般論的な各論(実は一般論どころか特殊論なのだが)は、前述の通り「条件に合致するケースでは」再現性が認められる(その条件が個別で特殊な故に特殊論なのだ)。

 抽象論世界での「モテ」は、僕がモテればいいだけなので、とても簡単な特殊論として構築できる。
 僕がモテるにはどうすればいいか。僕に興味を持ちうる相手に、どのように僕の魅力を知ってもらうか。また忌避されないように行動できるか。
 たったそれだけである。
 必要なのは行動だけであって、僕の思考や思想や観念は関係がない。

 もちろん人と接するのは相当のストレスである。
 しかしそのストレスは肉体レベルで(アレルギィ反応や抑鬱状態、頭痛、便秘、吐き気、めまい、etc.として)発生しない限り、存在していないことにすることもできる。つまりそういう価値観を持っているように振る舞うことはできる。
 昆虫嫌いは価値観を入れ替えれば昆虫好きになれる。

 価値観の相互性は人間関係構築では非常に重要な項目なので、自分の価値観と大きく相違する相手からは敬遠されている方がいい。むしろそのように誘導する必要がある。
 だいたい万人にモテようとするから失敗するのであり、僕は僕と相互にモテ合える相手にだけモテればいいのだ。
 100人のタダレた関係の恋人よりも、仮想奥様のほうが強い。
 お願いだから現実に戻ってきて。

 幸い、僕は価値観構築は得意だったので、それを利用して「モテる猫氏」という人格を作ってそれによって行動した。
 そのとき既に仕事用の人格(価値観セット)や、家事用、趣味用、運動用などなどを運用していたので、とくに支障はなかった。厭だと感じる人格は眠らせておけばいい。
 行動しない(いずれの人格も走らせない)ことほど楽なことはないのだが、それを忌避する価値観さえ構築できた。

 構築された人格は、設計どおりに物事を認識し、その価値観に基づいて行動する。
 結果、その人格によってブログにはこう記述される ── 「かくあれかし」と。
 つまり僕がブログに書いた宣言は、一定レベルに価値観セットが完成した証左ではある。

>>>

 分からない。

 僕は価値観によってオカネモチーになったのだろうか。

 それとも運が良くてそうなったのか。

 僕は僕の思った僕になったし、なっていると思う。さらに「子供の頃の僕がなりたかった僕」というものに軌道修正までしてしまっているのだけれど。
 これは僕の価値観による再現性が検証され、つまりは僕の仮説のとおりにもたらされた成功なのだろうか。

 あるいは仮説は失敗したのだが、その仮説の如何に関わらず、僕は何らかの偶然でこうなったのだろうか。

 しかしオカネモチー用の人格を用意しておかなければたちまち破滅しそうな場面は今までもあったし、実際にオカネモチーになってからも物理世界に合わせてたびたび修正を繰り返している事実はある。
(仮想奥様はそのような修正の一環として構築されているわけだし)
 そうした状況に対する二重検証は、おそらく僕という主観からは観察不能だろう。僕以外の誰かにも、おそらく観察不能だろう。

 なので今回の検証については、有用なデータが得られなかった、と結論すべきだと考えている。
 仮説の否定でもなく、もたらされた現象の否定でもなく、ただ検証の結果が仮説を完全に証明するものではなかったと。

>>>

 今、僕は世界を変えようとしている。

 いや、大仰なことをしようとしているわけではない。
 Amazon で農業資材をポチるだけでも、僕の現実世界は僕の欲に従ってカタチを変えるのだ。
 それではドラスティックに僕の汚れた私利私欲にとって都合の良い世界をダークに実現しようとか、そういうつもりもない。そもそも抽象世界の話である。
 他人や世界を呪うのはもうやめていいだろう。
 復讐は、もっと美しく、もっとも美しく達成されるべきだ。

 なにせ物理世界で残った時間は18年を切っている(はずだ)。
 その残り時間だって、ひたすら物理能力(知的能力も含む)が衰え続ける中での作業に充てるのだから、達成されるゴールがどの程度まで劣化し、あるいは失敗するのかという問題もある。
(あ、でも年金受給年齢が引き上げになったら、それに合わせて自己設定余命は伸ばそうかな)

「ネッ広」と草薙素子氏は攻殻機動隊の原作の最後で言っていた(略語せずに言っていた)が、抽象世界は物理世界よりも情報ネットワークに近しく広大なように思われる。
 そもそも広さという概念は、物質世界にしか適用されない。

 僕は物理世界に存在している、と思わなくもない。
 ただ、抽象世界に僕はある程度、精通(下ネタではない)しているような気がする。

 でもそれは思い込みだろうか。分からない。
 不惑をとうに過ぎたのに、僕は最近、戸惑っている。

 分からないことがあまりにたくさんある。
 学校でも教わることができず、誰に質問することもできず、あるいはその回答を容易に信じることもできず、確固たる検証すら困難なことが。

 僕がずっと向き合っている、抽象的な好奇心の対象が。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫α:青猫β:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Convergence-Diary-Ecology-Engineering-Interface-Mechanics-Recollect-Stand_Alone-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Camouflage-Human-Koban-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :夢見の猫の額の奥に:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:221021
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
許しがたく不正で無能な者よ。
SUBTITLE:
~ Void creature. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
221021

 いつかここは畑になる。
 そう思って開墾を始めた花壇は、今年も荒れるに任せたまま冬を迎えようとしている。

>>>

 庭にあった金木犀の木を切り倒す。
 金木犀は好きである。恨みはない。
 ただ手入れが悪くて枝が修復困難に肥大していたことと、花壇に植えられた木々が生長したため樹間が狭く、日照や風通しが悪くなって病害虫が発生していたので、間引くことにした。
(本当は、隣の椿の木を切り倒したかったのだが、そちらは急ぐ必要がないので見送った)

 庭仕事をしていてつくづく、人間(僕は猫だけれど)のエゴだとか業だとかの深さや強さを感じるし、それについて考え始めると少し心が痛む。
 昆虫や植物でさえ、己の手を汚して殺すのは、つらいことだ。できればしたくない。
 でもそれをしなければならない理由がある。あるはずだと思う。それともこれは思い込みなのだろうか。

 しかし台所でゴキブリを見て放置することはむつかしいし、畑でバッタを見かけて笑顔で送り出すこともむつかしい。
 ブロッコリィを茎だけ残して食い散らかされた悔しさを僕は忘れない。
 それでもバッタを追って踏みつけるために足を上げるとき、心のどこかは躊躇う ── できれば殺したくない。
 しかしそれをする理由がある。できればしたほうが良い理由がある。

 葛藤と呼ぶほどでもないが、非常に強い抵抗を押し切って、僕は殺す。
 虫だろうが草だろうが殺す。

 邪魔だから。
 嫌いだから。
 気持ち悪いから。
 たったそれだけの理由でも殺す。

 きっと犬だろうが猫だろうが人だろうが、殺す「正当な」理由を見つけたら殺すだろう。
 だから僕は正しさが嫌いなのだ。

 正しさの名の下にすべてのエゴは正当化され、相対するエゴたちを駆逐し蹂躙し陵辱する。
 貴様らに人権などないとばかり主張は否定され、行いまでも矯正することを強要される。
 正しさの名の下に、人は人を奴隷にする。
 いやまさかそんな大袈裟なことまで考えているわけではないけれど、抽象的に考えればそういうところにも行き着く。

 正しき者は戦争の勝利者だ。
 敗者に一切の権利はない。
 好きに生きる権利も、好きに死ぬ権利さえも。

 虫やら草木やらを殺しながら、僕は勝者である自身の正しさによって暗い気持ちになる。
 もっと明るく「ヒャッハー! 汚物は消毒だァ!!」という昂揚した気分で殺戮を行いたい。
 ありとあらゆる陵辱を、そうやって当たり前のようにして、奪えるものを奪い、虐げられるすべてを虐げ、この足で踏みにじることに無上の悦びを感じていたい。もしそれが可能なら。

 しかし多くの生き物は、逃げまどい、悲鳴を上げ、抵抗する。当たり前である。
 殺せば体液やら体組織が飛散し、死体の処理がある。昆虫だろうが植物だろうが、それは変わらない。
 それを眺め処理することさえ、あるいは楽しめる人もいるのだろうか。僕には分からない。

>>>

 おそらく僕がそうやって開墾している花壇が、畑になることを多くの人は予想もしていないだろう。
 むしろ僕個人としては、いまだまともな畑になっていないことの方が驚きなのだが、僕が開墾しないあいだ、ハタケモドキはただの荒れ地に変わり、雑草が生い茂り、昆虫どもが蔓延る。
 蔓延ったそれらを蹂躙するところからやり直しになる。今年はまさにそうだ。

 
>>>

 民主主義というのは「多数決的に正しさを決める基本原理」によると思う人が多いのではないだろうか。
 間違いではないだろうが、おそらくさほど正しいわけではない。
 先に述べたように、理屈によってさえ「正しき者」と「敗北したもの」は生まれ、敗者は相応の剥奪を受ける。
 それが蹂躙や陵辱ではけっしてない、などと僕には言えないし思えない。

 少なくとも僕はこれまでに1度「正しき者」によって人間関係や情報端末や財産までをも支配されかけたことがある。
 復旧は容易ではなかったし、復旧が不可能な事象もあった。


 僕は己が「誤った者」であり「敗者」であることを知っていたから ── 本来的に「誤り」がすなわち「敗北」になり、イコールで結ばれるものだとは思わないのだが ── 僕は譲歩し、自ら「敗北」し相手に下ったわけである。

 論争というのは文字通り、争いであり、戦争である。
 血が流れないだけで、敗者が蹂躙されうる可能性は否定できない。
 理屈や論理や倫理が正しいなら、というのは勝者の驕りである。
 正しさの名の下に、一歩踏み込めば、生き物たちは簡単に殺されてゆく。

 たとえば家畜の大規模伝染があれば、大量の家畜がただただ殺される。
 それが悪いと断ずることはできない。正しい処理である。
 ただその正しさに胸を痛める人がいて、あるいは正しさを受け容れられない弱さや醜さを嗤う人もいるということだ。

 一時期「論破」などという言葉がもてはやされたが、つまるところそれは一方的かつ短絡的に、論争に勝利することを指している。どうやら皆、勝ちたいらしい。
 けれども議論において相手を論破などしてしまえば、一方的な勝者による蹂躙に終わってしまう。
 勝者はそれでいいだろうけれど、敗者はどこに身を置けばよいのだろう。

>>>

 民主主義の法治国家が選挙制度をもって政府組織を運営する場合、論理や理屈や倫理によって「多数決による暫定的な正誤判定」を行うはずである。
 選挙そのものがそうであり、おそらく政府という組織内での判断も、論理を開示し、理屈を説明し、理解を広めて、多数決で有利になるようにと採決をとるはずである。
 どの名前の、どの顔が言っているかではなく、その発言内容とその意味、そしてもたらされる結果が大事なはずである。

 でなければ決定は1人の人間が行えばよく、組織で何人もの人間を必要とはしないし、そもそも組織内の「和気あいあいさ」なんてものは邪魔になるだけだと分かるだろう。
 まぁ最近はこの「多数決処理」を政府が無視している傾向は強いが、きっと経済至上主義国家としての選択肢のなさがそのままカタチになっているのだろうと想像する。

 なぜといって経済は多数決ならぬ少数決によって物事が決する事が多い。
 世の中に広く浸透している「8:2の法則」に基づき、2割の人間が8割の力を保有している結果として考えれば必然だ。
 経済至上主義において、意見の多寡は意味を持たない。
 力があるかないか(ハイハイ期の終わりを気にかける親心を言い表しているのではない)だけのことである。
 実力主義といえば聞こえはいいかもしれないが、その言葉がもてはやされた1990〜2000年代でも有能な人間はさほど多かったわけではない。
 むしろ自分を安易に「有能だ」と信じていられる脳天気さに圧倒されることが多かった。

 多くの人は、多くのシーンにおいて無能である。
 ときどき限定された状況で、限定された条件において有能である。
 誰でもそうだ。
 眠っている猫より、起きている犬の方が利口で有能で、さらにいえば自由でさえある。

>>>

 民主主義というのが何であるかといえば「妥協し合う策定」だと僕は思っている。
「多いから正しい」「正しいから少数派は従え」というのではなく「多数派だからここまで譲ってもらう」「少数派だからここまでは我慢してほしい」という互いの譲歩である。

 仮に多数派が正しかったとしても、少数派を蹂躙していいわけではない。
 少数派のために譲れる部分は譲らなくてはならない。
 少数派をいいように自分たちのエサにしない。踏みにじらない。それが倫理だろう。

 だから昨今の、少数派が倫理によって自分たちの正しさを主張する場面(「なんちゃらマイノリティ」たちがやたらと自己主張しているかのようにメディアが報道することで発生する見苦しさ)もまた、正しいわけではない。
 多数決制と、実力(少数)決制の違いでしかない。

 多数派だけれど、相手にここまで譲れる。
 少数派だけれど、相手にここまで譲ってほしい。

 そうやってお互いの妥協点を探す。
 お互いの我慢の範囲を決め、お互いの譲れないポイントを擦り合わせる。
 摩擦は発生するし、摩耗もあるだろうが、そのための議論であり、解決方法だ。

 議論で論破して勝利するのは気持ちがよいだろう。
 多数決や権利によって正しさを主張するのは気分がいいだろう。
 相手をいいように陵辱できる歪んだ悦びに震える嗜虐心を否定する気はない。

 しかし正しさの名の下に正しくないことをするのは、歪んだ欲を吐き出すのは、果たしてよいことだろうか。

 貴様は恥ずかしくはないのか。

>>>

 正しさ至上主義の人たちというのは、どうも「多数派だから」「権利が/倫理が」「経済的に」などともっともらしい理屈で正しさを表明し、それを裏付けようとする。そんなデータはどこにでもあるから、誰だって何らかの理屈において正しいのである。
 ために「言ったもの勝ち/声の大きいもの勝ち」の正しさを振りかざして、周囲を蹂躙してしまう。
 最近だと、マイノリティデイなるもので、ちょっと茶目っ気のあるツイートをした企業が「なんちゃらマイノリティ」の団体から謝罪を迫られた、なんてニュースもあったが、みんなヒマそうでなによりである。

 正しさは武器に使わないほうがいいものだし、絶対的なものでもない。
 正しさで誰かを奴隷にするような人間になってはいけないし、誰かを傷つけるような過ちを繰り返す人間にもならない方がいい。

 そういう意味であれば、中庸とか、平凡とか、平均とか、そういうものは素敵だと思える。

 何でもないありよう。
 誰でもない無能さ。

 たしかに衆に秀でることは素晴らしいけれど、そうでない人間ものんびりぼんやり、文句を言いながらも楽しく暮らせることを目指すのが民主主義ではなかっただろうか。

 正しいのは大いに結構だけれど、間違いだって無駄だって、文化的には大いに結構なものなのだから。

 木を切り倒し、虫を踏みつけ、草を抜きながら思う。
 それなら、正しくない自分のことも少しは許せそうだと。
 私もいずれはこの身に含まれたリンを大地に返す日が来るから、もう少しだけ、許していてほしいと。

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 いつかここは畑になる。
 たくさんのものを傷つけ、踏みつけ、殺し、陵辱し、その日の飢えをしのぐための糧食が生るだろう。
 殺して殺して殺して。奪って奪ってなお奪って。
 自然なるものと互いに、存続の妥協点を探りながら。






 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫β:赤猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Color-Convergence-Diary-Ecology-Life-Love-Mechanics-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-Resistor-
[Object]
  -Garden-Human-Koban-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :いのちあるものたち:家庭菜園ティストの狂気:
 
//EOF