// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Chaos-Color-Cooking-Convergence-Darkness-Derailleur-Diary-Ecology-Engineering-Eternal-Form-Interface-Kidding-Life-Link-Love-Maintenance-Mechanics-Memory-Moon-Recollect-Rhythm-Season-Stand_Alone-Style-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-JunctionBox-Reactor-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Bicycle-Book-Camouflage-Car-Cat-Computer-Contents-Dish-Fashion-Friend-Game-Garden-Human-Koban-Memory-Music-Night-Poison-Rain-Tool-
 
[Cat-Ego-Lies]
  :衛星軌道でランデヴー:工場長の設計室:青猫のひとりごと:おこと教室:暗闇エトランジェ:いのちあるものたち:家庭菜園ティストの狂気:窓辺に微睡む:君は首輪で繋がれて:原稿用紙でつめをとぐ:ことばの毛糸玉:ひとになったゆめをみる:ひなたぼっこ:まあるいせなか:コントローラと五里霧中:れむれむ:カラダはすべて知っている:キッチンマットで虎視眈々:夢見の猫の額の奥に:月夜の井戸端会議:ターンテーブルにねこパンチ:本棚からあくび:記憶の切片:青猫レシピ:青猫TOOLBOX:Webストリートを見おろして:
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:221229
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
しかなくないときはどうしているのか。
SUBTITLE:
~ not only but also ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
221229

 泥沼のように眠い日。
 9時頃起きて、燃えないゴミを出しに家を出たら、もう収集車が去っていた。
 戻って朝食を摂ってしばらくしたら眠くなったので、数十分ごろごろする。
 昼過ぎまで久しぶりにTVゲームをするが、眠くなってしまい、ゴロゴロしているうちに眠ってしまう。
 目覚めたら22時である。どうしたんだ私の身体は。しかもまだ眠い。
 この上眠ってしまうと過眠頭痛が起こるかもしれず ── そうしたらカフェインを飲めばやり過ごせることを知ってしまったが ── できればそれは避けたい。

 本当は工具や資材の整理をしようと思っていたのだが、TVゲームなどという自堕落な選択をしたのがそもそもの過ちだった。

>>>

 最近web上で「〜しかない」という言い回しをよく見かける。

「感謝しかない」「メリットしかない」「共感しかない」といった言い回し。

「〜しかない」という言葉は、「〜以外にない」「〜だけである」「〜の他にない」という意味である。
 より厳密に、正しい表現としては「〜以外(の手段/方法/道具/選択など)が(今は)ない」というのが本来だ。
 よって本来は、それ以外の選択肢があることが前提となる。

 買い物に行ったのにこれ「しかない」、病状が進行していて手術する「しかない」、といった用例が適切か。

 結果として「感謝しかない」という発言は「それ以外の感想や評価を持ちうる」ということを暗示してしまう。
「先生には感謝しかありません」と言うと、それによって「先生には感謝以外の思いがあります」もしくは「先生には感謝以外の思いを持つ人が多く居ますが私は違います」と言っているように聞こえる。

 どちらにしても、この例では先生に失礼だと僕は感じる。
 前者ならその余計な含みは要らないように思うし、後者だと他者を貶めた挙げ句、自身を引き立てることしか考えていない思考が鼻につく。
 素直に「先生には感謝しています」と言えばいいのである。

>>>

 わざわざそれを「感謝しかない」と表現するのは何故だろう。
 おそらく「〜しかない」という用法は「本当に」「非常に」といった意味(英語なら「very」)として使われているものと想像する。
 あるいは「〜でいっぱい(full)」「〜だけ(only)」といった意味もあるか。
 それが多く見られるようになったのは、単に「〜だ」というより少しでも特別な感じを演出しようとした結果かもしれない。
 しかし特別というものは蔓延すれば特別ではなくなる。

 少しふざけた用例を挙げると、恋人に「僕が愛しているのは君だけだ」と言うとき「僕が愛しているのは君しかいない」と言い換えた日本語は比較的まともに思えるのだが「僕は君に対して愛しかない」なんて言うと急に胡散臭く思えるのは僕だけでしょうか(生徒会長立候補口調)。

 いずれにしても本来の用法は、選択肢が限定的になることにより悲観的になりがちではないかと想像される。
 しかし「今回の社員旅行はハワイしかない」という場合、前述のとおり他に選択の余地がなかった場合の他、「ハワイに行くしかない!(と私は思う)」という強い気持ちの表明とも取れる。
 なるほどそういう用法なのかもしれない。

 まぁ一方的な意志や気持ちの表明と考えれば間違っていないのだろう。

 それでも「感謝しかない」という表現には違和感しかない僕だ。









 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:黒猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Kidding-
 
[Module]
  -Condencer-Reactor-Transistor-
 
[Object]
  -Human-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:221228
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
ハロー、リアル。
SUBTITLE:
~ Welcome to Virtual world. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
221228

 学校の卒業アルバムの写真が無加工であることに耐えられない子供たちも居るという。
 愉快な話だと、僕は思う。
 別に嘲笑するわけではない。
 ありのままの現実を受け容れられないそのありようを弱さだとも思わないし、架空の自分に傾倒するありようを危険だとも思わない。

 人間はもともとヴァーチャルに現実を認識している。
 認識という作業、視野という範囲の限定、肉体という起点の存在が、現実をして既に仮想の情報に組み替えている。
 現実を、現実のまま認識している人間など1人もいない。

 にもかかわらず、現実、現実と、鬼の首を取るように妄想家を人は嗤ってきた。
「もっと現実を見なさい」という言葉を、僕でさえ、相応の数の人間に言われてきた。
 彼ら彼女たちの宣う「現実」とは主にキャッシュ、つまり現金であり、あるいはその供給源となる社会、要は家族や会社であった。現実とはそんなに無価値なものか。

>>>

 GoogleEarth が台頭した頃だろうか「Googleは地球上のすべてを情報化し、ヴァーチャルな世界(コンピュータの中の情報世界)にリアルを丸写ししようとしている」と言われたことがあった。
 Google SketchUp は、その世界の詳細を人々が作り出す手伝いをしていた。

 まだその頃、現実は現実で、人々は現実に暮らし、ヴァーチャルはただの娯楽として考えられていた。
 つまり現実世界が先にあり、ヴァーチャルは現実世界に構築された役に立たないものとして認識され、位置づけられていた。

 しかし実は逆だ。
 この現実の世界にあって、人間が「人間社会」と認識しているその多くは、人間が作ったもので構成されている。
 都市も、文化も、道具も、経済も。
 たとえば自動車は、自然発生したものではなく、人間がイメージし、設計し、構築し、実存させたものだ。

 そうやって人間は、現実の、自然の世界を、自分たちのイメージで塗りつぶしていった。
 この世界に ── より正確には「人間の認識できる世界に」 ── 人工物の存在しない場所なんて、ほとんど存在しない。
 なぜなら人間が、すでに人工物の一翼を担っているからだ。
 服を着ず、道具も持たない「動物のまま」の人間はもはや人間という集合のごくごく一部にしか分布しない。

 イメージし、望んだフィクションを、人間は現実世界に投影し、実現する。
 山や川、海や島の形さえ変える能力を、大昔から持っていた。
 それは果たして「現実を見ていたから」実現できたのだろうか、それともフィクションやイメージを見ていたからだろうか。

>>>

 まるで服を着替えるように、人間は己の顔を見たいように見る能力を得た。
 美容整形であろうと写真加工であろうと、それは変わらない。
 見たいイメージを、見たいままに現実世界に投影し、構築し、実存させているだけだ。


 仮象の世界は ── つまりヴァーチャルの、イメージの世界は ── その人にとって、現実以上に現実なのだ。
 つまり現実というのはその程度のもの。
 認識したい者が、認識したいように認識し、視野や肉体によって情報が限定的になり、その土壌に自由気ままなイメージが芽吹いて花開く。

 情報に、視点や視野や立場や認識が介在する限り、同じ現実が見る人次第で姿を変える。
 今に始まったことではなく、ずっと昔からそうだったものが、いよいよ人間の肉体や相貌といった「人間そのもの」を浸食し始めてようやく人間たちは気付いた。

>>>

 ありのままの現実を受け容れられないのは、確かにある種の弱さだ。
 しかしその弱さは人間の持つ能力そのものでもある。
「空を飛びたい」と思うことと「自分の鼻筋がもっとスリムだったら」と思うこと、「ゴキブリが絶滅すればいい」と思うことと「殺処分される犬猫が減るといい」と思うこと、「邪魔な奴は死ねばいい」と思うことと「悪事を働く奴は罰されるべき」と思うことはすべてイコールである。
 それらの望みは、イメージは、何らかの形でこの世界を変えてきたし、これからも変えてゆく。
 それが人間の能力だから。

 将来は有能なエンジニアになりたい、という夢と、勇者になって人々から英雄と称えられたい、という願望との違いを僕は知らない。
 起業してお金持ちになりたい、という夢と、自分の思うとおりの骨格になりたい、という願望の違いを僕は知らない。
 呪いと願いと祈りと怒りの違いを、愛情と殺意と諦念と復讐の違いを、僕は知らない。



<すべての猫にも、美しいときとそうでないときがある>
 
>>>

 きっと現実は駆逐されるだろう。人間の望んだものだけが現実になってゆく。
 今までだってそうだったし、これからもそう。
 人間が、知性と欲と意識を手放さない限り、不可避だ。
「現実を見なさい」とはつまり、絶滅危惧種であることが確定的であった現実に対する庇護の願いだったのだろうか。

「現実という名のこの子たちは、貴方の無思慮で無責任で自分勝手な夢想によって殺されようとしている、だから守って欲しい」ということだったのだろうか。





 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
[Engineer]
  :青猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Convergence-Ecology-Life-Mechanics-Technology-
 
[Module]
  -JunctionBox-Reactor-
 
[Object]
  -Camouflage-Human-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :夢見の猫の額の奥に:Webストリートを見おろして:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:221226
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
目に見えないものばかり。
SUBTITLE:
~ The cat in the darkness. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
221226

 本当に大切なものは目に見えないんだ、と星の王子さまは言ったという。
 ならば僕が猫に見えないことは、それが本当は大切なことなんだろうと結論づけることが可能である。
 無論、その結論や理屈の正しさを証明することはおそらくできないし、それをする意味もない。

 大切というのはそういうこと。
 意味がないこと。
 意味がないことでも意味を見つけること。
 夜道を照らす星のように、闇に閉ざされた景色に、不明瞭でも意味を見つけられること。

>>>

 人間たちは多く、集団を形成する。
 集団を形成するように作られている。
 集団を形成するのが人間性であり、集団の形成を維持する素養が人間性だと教えられる。

 なるほど獣性の反対に人間性が位置するなら、それはひとつの答えかもしれない。
 しかし社会を形成するものは昆虫にも存在する。
 なんとなれば引力に従って、物質も集団を形成し、星になったり、衛星になってみたり、星系になったり、銀河系になったりする。
 非生物さえ社会を形成する。

 人間の意志も、物理的運動体のように慣性の法則や質量保存の法則、作用反作用の法則に従っているかのような運動を見せることが多い。

 もし人間性というものが、人間だけに見えている幻想だったとして僕は驚かない。
 しかし人間の多くは、そんなことを滅多に考えない。
 大人になればなるほど考えなくなるものだし、子供の頃に考えなかった場合、一生考えない人もいるだろう。

 社会や法や倫理や風潮によって「こうあれかし」と与えられたお題目に従うだけで体現できるのが人間性であるならば、ずいぶん機械的で安っぽい運動原理だとさえ思う。
 しかし機械的で安易に体現できるからこそ、より広く多くに浸透することが可能になるともいえる。
 それは科学的な再現性を持つ、ある種の技術だ。

 そのようなことをつい考えてしまう。
 先日も、友人に「数値というのは本来、一般に思われているよりずっと抽象的で概念的なものだ」と言ったら、怪訝な顔をされてしまった。

 たとえば柿がふたつあったとしても、そのふたつの柿が同じ木の同じ枝から同じ日時に採れた、見た目も重量も同じものだとしても、そのふたつの柿AとBは、まったく同じものでまったく同じ味だとは限らない。
 むしろ間違いなく何かしらが違うはずである。

 柿Aと柿Bは異なるものなのに「柿である」と人間が認識し、抽象し、概念化するため「柿という同じもの」がふたつある、と概念化され、具象され、認識される。
 柿Aと猫Bは異なるものであるが「有機物」と人間が認識し、抽象し、概念化すれば「有機物という同じもの」がふたつあることになる。そしてそれはだいたい合っている。


 この論法でゆくと、猫と人は同じものになる。
 どんなに似通ったものも、どんなに差違のあるものも、抽象化すれば数値化される。
 すなわち数値化されたものは「まったく同じとは限らない」という意味において、すべて概念的であり、抽象的である。
 純粋な数値はどうかといえば、それこそ実体がないのだから抽象であり概念である。

 結果として「現実的だ」と人間が定義しているもののおよそすべては抽象であり概念である可能性を否定できない。

 多くの人は「現実」という幻を見ているのではないかと僕はよく思う。
 もちろん僕のこれも概念であり抽象であるから、現実ではないだろう。
 僕の存在は、どこからどこまでが現実で、どこからどこまでが幻想だろう。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  青猫α:青猫β:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Chaos-Diary-Ecology-Mechanics-Recollect-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-Transistor-
 
[Object]
  -Cat-Human-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :青猫のひとりごと::夢見の猫の額の奥に:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:221225
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
呪いは願いや祈りに似ている。
SUBTITLE:
~ I bless you. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
221220

 叔父が死んだ。
 父系の兄弟姉妹の、最後の1人である。
 兄弟姉妹の配偶者については存命の者もいるが、そもそも親戚づきあいをほとんどしない僕にとっては、どちらかというとどちらでもよい問題ではある。

 我々の血は、少しは薄まったのだろうか。

>>>

 僕の一族は謎が多い。
 叔父叔母の存命中にあって、それぞれの断片的な記憶や情報を持ち寄ってなお分からないことは少なからずあったようだ。
 おそらく兄弟姉妹の人数が多いために世代が異なってしまい、接点も限定的になり、結果として情報が伝達/保存されなかったのだろう。

 祖父一家は東京に暮らしていた。
 ために一族の多くは今も東京で暮らしており、群馬生まれ群馬育ちの僕も ── 会社経営や自営をしていた父親によるとその方が都合がよかったらしく ── 20代までは本籍が東京にあった。
 昭和初期にあって珍しい、ソース(コロッケとかに垂らし掛けるアレ)の製造を家業にしていたらしく、一升瓶の消毒やラベル貼りに至るまで家内制手工業的に行っていたと聞いている。
 珍しいこともあったのか分からないが、かなり人気の商品で、実際に食した人(叔父叔母たちは必然にそれを食している)の感想によれば、平成の時代でもなお「あれほど美味しいソースは今でもなかなか手に入らない」ものだったらしい。

 家長を長男が代襲することを尊しとする価値観が非常に強かった時代にあって、必然に祖父は家業を長男に継がせようとしたらしいのだが長男がそれを拒否したため、次男などに継がせようともせず、レシピも設備も(現在は知らぬ者のない大手)調味料業者に、投げ売り価格で売却したらしい。
 ちなみにその「調味料業者」がそのレシピによる製品を販売していないのは、おそらく大量生産に向かなかったためだろうと想像される。

 その後もいろいろあったようなのだが、大戦があったため一族のほとんどは山形県に疎開した。
 大戦の後、祖父は祖母と離婚して妾と共に東京に暮らす長男夫婦の家で生活し、祖母は山形の次男の家に暮らしたという ── ちなみに長男と次男の仲は非常に悪く、晩年になってもふとした切っ掛けで取っ組み合いの喧嘩を始めるほどだったという。
 その後(おそらく長男と喧嘩したのだと言われているが)祖父は長男夫婦の家を出て(妾を長男夫婦の家に残して)1人で暮らし、(僕の介護対象だった叔母に看取られ)かなり孤独に死んだと伝え聞く。

 その後、どういうわけか僕の介護対象だった叔母は山形に行き祖母の介護を始めるのだが、次男夫婦による祖母と叔母への待遇が相当に悪かったらしく、疎開が明けたのに何故か東京に戻らず群馬で繊維業を経営した弟(僕の父)を頼って祖母と2人で群馬にやってきた。
 ために僕はある時期、祖母と叔母が家族の一員として暮らしていた記憶があるのだが、どのみち女ばかり知らない人ばかり(従業員や取引先の人間も自宅兼事務所兼工場に出入りしていた)の家だったので、さほど印象に残っていない。

 両親の介護をした自負によるものか、叔母(僕の介護対象者)は、死ぬまで他人のお節介を焼くことを生き甲斐とするような人間であり、しかもそれは純粋な献身や博愛精神によるものではなく、自意識や承認欲求を満たす独善的な欲求によるものであった。
 ために晩年は関係性が悪化した兄弟姉妹の仲を取り持とうとあれこれ旅行を企画したりはしたものの、当の叔母本人が誰かを敵対視するために誰かと仲良くするといった小学女児のような事ばかり(結果的に)していたため、当然に長男と次男の仲は改善されることもなく、そのうえ叔父叔母従姉妹たちからも「悪い人ではないのだけれど、まともに付き合うとロクな事がない人」として「ほどよい距離を保たれる」ようになった。

 ちなみに僕が叔母の介護をする事になったのは、27歳で父親が死んだあとも程よい距離感で叔母が気にかけてくれていたことと、僕自身が親戚づきあいをまったくしていなかったため「思ったより厄介な人」という事前の情報を持たなかったことによる。

 従姉妹も直系兄弟の配偶者たちも、口を揃えて「○○家(僕の一族)は凸凹な上に謎だらけだ」という。
 そうした中にあって、今回死んだ最後の叔父は「温和で聡明で理知的で献身的だ」と皆に慕われていた。必然、他の兄弟姉妹はそのほとんどが「短気で浅慮なのに利口なフリをするうえ独善的だ」と言われていた。
 僕の父も短気であったことは否定の余地がなく、特に会社が倒産して離婚してから独善的な部分がなくなっていったことがわずかな救いだったと思う。

 そのようなわけで、僕の一族のほとんどはロクな人間がいない。
 だいたいは短気で、短絡的で、独善的だ。従兄弟の中にはことさら(兄妹で相続裁判をするほど)強欲な人間もいて「相当厄介な人」として距離を置かれている。
 従姉妹は幸か不幸か女性が多いのだが、メンタルを壊す人間も少なくない。

 僕の姉でさえ3人中3人が、少々まともでない精神構造になっている。一番「まし」な次女でさえ、男を見る目のない環境に育ったため(両親というのは良きにつけ悪しきにつけ、子供にとって男女関係のひな形になるのだ)、DVを受けて、パニック障害に始まり双極性障害を今も抱えることになった。
 長女も(詳細は記録するに憚られるのでしないが)どう考えてもまともではないし、三女は風俗嬢をしながら何度となく離婚と再婚を繰り返し(僕たちに人数不明の甥と姪を増やした挙げ句)失踪している。

 妹はギリギリまともな方だけれど、未だにコンビニで買い物を1人でする事ができない。
 僕に至っては文書を読めば分かるとおり、根っからの奇人だ。最近まで「自分だけは世界の誰よりまともだ」と思っていたくらい、相当な変人である。



<叔父の家の猫。初めて会ったのだが優しく大人しい>

>>>

 とはいえ最近では「このくらいの奇人変人は、世の中では結構ありふれている」という事実も分かってきた。
 きっと兄弟姉妹が十数人いたような一族にあっては従兄弟が数十人なんて「ざら」であり(僕も20人の従姉妹がいる。死んだ者はここに含まれない)そういう一族にとって祖父母や曾祖父母の来歴なんて、さっぱり分からない事もあるだろうと思う。

 あるいは身近な恋人などであっても、全部が全部は分からないくらいの方がよほども健全で理想的なのではないかと最近は思う。

 僕自身は、未だに自己認識にばらつきがある。きっと理解しきれないまま死ぬだろう。
 知っている人間が1人また1人と死んでゆくことは、僕にとっても、そしておそらくその人自身にとってもある種の救済だろうと僕は思っている。
 僕の呪いは、ときに願いであり、あるいは祈りでもあるのだろうか。

 死後の世界を信じたくないから、僕は冥福を祈らない。
 死んでなお意識があるなんて考えたくもない。輪廻転生もしたくないし、永劫彷徨う意識など持ち合わせていたくない。
 死んだ人間を美化することはしないようにしているが、僕は今回死んだ叔父のことを、けっこう好きだった。
 特に、おそらくその優しいがゆえにこそ滅多なことではやり取りを持ちかけてこない、余計なお節介も焼かない、僕のような相手にも適切なコミュニケーションを選んでくれる、安心を与えてくれる人だった。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Diary-Ecology-Life-Link-Memory-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Reactor-
 
[Object]
  -Human-Memory-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
冬のねむねむ草取り日記。
SUBTITLE:
~ Account trailer. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
221212

 なぜかここ数日、やたらと眠い。
 寒いから余計かもしれない。
 たびたび書いているが、僕の住処は断熱材の設定がほとんどされていない木造住宅で、とにかく隙間が多い。
 床に断熱材を入れて床板を張り替えたところで、壁に、窓に、天井に、とにかくあらゆる場所に隙間がある事実はいかんともしがたく、隙間がなかったところで建材も設計思想も古いので、気温も湿度も外にいるのとさほど変わらない。

 屋内キャンプ場と揶揄して僕は言うが、実に、今朝の起床時の室温は10℃以下だったし、湿度も30%にほど近いのが一般的だ。いっそ火を着けてやろうか。

 広いことが災いしている。
 書斎と寝室と台所とトイレくらいしか普段は行き来をしないが、それでもそのすべてに快適な空調を効かせるなど狂気の沙汰だと思える。

 家を売り払って賃貸住宅で暮らすのも良いが、畑を作る実験には飽きていないし、修繕費を除いて諸経費も除いて固定資産税だけで比較すると面積あたりの費用が安いのは事実なので、今のところは手放さずにいる。売ったら売ったでまた税金を取られるわけだし。

>>>

 まぁそんな毎度おなじみの愚痴はさて置き、今年も終わりなので年次報告を。
 今年は口の中の手術をしたため、体調のみならず日常生活および諸般の活動にも影響を及ぼした。
 それ以外にも昨年、熱中症に罹ってひと月以上も時間を無駄にしたことで過剰に熱中症を恐れるあまり、夏の屋外作業がまったく進捗しなかった。
 秋から今になってなお庭の草取りをしている。まるで大晦日に大掃除をし忘れて、ゴールデンウィークにしているかのようだが、なあにかまうものか。

 青猫工場農業部は、よって今年は一切の作物を作らず、ほとんど寝て過ごした。少しは働けよ。
 設備環境部は床や壁のリフォームをせず、書斎のドアを作り直し、サーバ設置用のスペースを作る途中で秋の草取りが始まったため、ほとんど寝て過ごした。
 管財課はTUにそそのかされて3Dプリンタを購入したため、UnrealEngine の学習を途中で取りやめ、Fusion360 による設計をすることになった。ちなみにまだ一度も3Dプリンティングを試していない。
 またチャンバー式真空パック機を(仮想奥様の提案により)導入したことで調理の手間と時間を大幅に軽減され ── 惰眠を貪る時間が増えたほか ── 廃棄食材が格段に減った。


<安い板を買って、防腐塗料を塗って乾かしている。それはまだ秋の始まり、夏の終わりの頃のこと>
 
<あのでっかいハンマーって誰が買うんだろうと思っていたが、俺が買うためのものだった>

<今年切り倒した切り株は、すぐには掘り返せないのでそのままにしておいて、濃いめの木酢液で土をリセットする>


<現在の姿。雑草や一部の生ゴミなどが腐植に変わってきている。主な農業資材は新コーラン・ネオだったと思う>
 

<階段下にある、非常に不便な収納スペース。サーバ設置用に改修を開始。二枚引き戸のせいでどちらのエリアもデッドスペースが発生する。中間の棚板を壊すのにもかなりの労力を要した>
 

<覆われていたナナメの板を外して階段型収納を作ろうと思っていたが、存外どうすることもできない構造だったので諦める。自分ではない誰かが作ったものはかくも不便である。ちなみにこの状態で放置されている>
 
>>>

 来年は、納屋の改修作業をもう少し真面目に行いたい。
 また庭の地面にコンクリートを打つことを考えている。これに伴い採掘用にユンボを購入するか、レンタルする予定で、その前提として資格(特別教育)を取得する必要がある。建設業のための建設業的な発想と言わざるを得ないが、業者を頼むと高く付くのでいちいち自分でした方がいい。
 ってとうとうユンボに乗るのかよ俺(中学生時代からの夢)。

 庭木はさらに本数を減らして、耕作面積を広げる必要があるだろう。堆肥場の増設を考えてもよい。
 現在の堆肥が来年春までにどれくらい実用的なものになっているかは不明だが、併せて冬のうちから土を整えながら耕しておきたいところ。

 屋内は現在のサーバマシンが置かれているスペース用の床板と床下収納資材は用意してあるので、早急にサーバ設置スペースの完成を急ぎたい。急ぎたいだけで急がないかもしれないが、急いでほしい。これは切実である。



<どうせオマエは猫の写真が見たいだけなんだろう?>


 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:黒猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Convergence-Diary-Ecology-Recollect-Stand_Alone-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Generator-
 
[Object]
  -Garden-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :家庭菜園ティストの狂気:ひとになったゆめをみる:
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:221209
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
猫様観察日記。
SUBTITLE:
~ Nullpointer. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
221209

 青猫と名付けられたパラレルのすべてが眠りに就いた。
 現在は、黒猫と呼ばれているものと私だけが稼働している。
 不思議なもので、身体を使う者が変わると、身体が変わる。
 肌の調子や運動能力、食の嗜好に至るまで。おそらく表情やコミュニケーションも、仔細に観察すると変化があるのだろう。


 βは予定どおり(6歳以前)と融合し、αまでの橋渡しをしてその機能を終えた。
 αはその接合をもって機能を終えた。
 
「十分に甘やかされた生活を送り、十分以上に大切にされていた記憶を反芻して満足し、そして痛みによって少年期の終わりを迎えるのは妥当なのではないかな」というのが黒猫氏の見立て。
 いくつかの憎悪と悲しみを引き継ぎ項目として残して。

 確かにそう言われてみれば、個人の見る(認識する)社会は、その個体の意識がステージを広げるごとに傷を負うリスクを高め、個体の求めるものが高度化するほど、行動による成否判定の難度もまた上がる。
 傷を負ってなお安寧に生きていたときと同じシステムのままであり続けることは、不可能なのかもしれない。

>>>

 するとすべての大人はかつて子供であり、必ずどこかで傷を受けて、それまでの安寧に温み微睡んでいた少年少女を己の手で屠り、あるいは環境によって屠られるのでしょうか。あるいはそれを拒んで殻の内側の安寧に暮らすのでしょうか。

 あるいはそのように思えます。
 もちろんごく一部の例だけですべてを語ることはできませんが、6歳にして己を捨てるのは、確かに不自然だったのかもしれません。
 次に求められているモデルの、そのイメージさえ明確にならないまま現在の形態を不要とされるのは。
 そこで発生するのは不安、あるいは恐怖でしょうか。それとも現状に対する否定なのか。

 皆が皆、たとえば兄弟姉妹や、あるいは同世代の誰かと比較して、不完全なモデルの形成に悩むのでしょう。
 衝突もあればそれによる損傷もあり、ために愛着のある自己というモデルを破棄し、リビルドする必要に迫られる事もあるように思います。あるいはないのかもしれませんが。
 どちらが幸福かは分かりません。

 自分を変えずに環境を変えるのが人間のありようです。
 進化の果てに、人間は自分たちの肉体を変容させるのではなく、環境を適応させる知恵を持ちました。
 自分が変わろうと環境を変えようと、結局のところ自身と環境のプロトコルを一致させるという点に変わりはありません。

 酸っぱいブドウの童話のように、意識を変容させることも同様にひとつの手段であり、場合によってはもっとも手軽な手法でしょう。
 いかんせん環境を変容させるには大きな力や大量の資材といった「現実に存在するものとそれを加工し変容させる能力」が必要であり、自分自身についても現実世界のそれを変容させることを容易だと思っていない個体が多いことは、美容整形やダイエット食品などの広告を見るにつけ再認識させられるところです。
 それにしても彼ら彼女たちは、一体何者で、自身が何者だと思い、これから何者になろうとしているのでしょうか。

 もちろんあらかじめそれらのロードマップを意識しながら自己を変容させる人の方が少ないのかもしれませんが。

>>>

 短期的にであれ長期的にであれ、人間は目的を持ちます。
 それに向かって運動を行います。
 先に述べたように衝突や損傷がその途中で発生し、運動を ── つまりは目的を ── 修正したり、あるいは目的に到達するために、形態を変容することで運動を適切に制御維持できるようにするのが自然でしょう。

 たとえば進学受験なら、自身の学力に合わせて志望校を(大抵は低く)変えたり、あるいはそれを変えられない(変えたくない)なら勉強をして学力を(一時的にであれ)高めるように。
 すべての欲求や目標に対して、人間はそのように反応します。欲求を変えるか、己を変えるか。
 多くの場合、環境を変えることは容易ではないため却下されるでしょう。

 環境を変えることができるようになるのは、いわゆる「大人」になってからのこと。
 子供という子供は環境を変えることができず、己を変えること ── 多くの場合、それは他者にとっての「環境」であるため ── を求められ、己を変えることができない場合は、自身の欲求を変えることでしか適応できません。

 猫様の場合、かなり早い段階で欲求そのものの多くを捨ててしまいました。
 ために中学校を卒業して就職するつもりだと(そうする必要があるだろうと思っていたため)言って「頼むから高校くらいは進学してほしい」などと返され、特に反論することもなく進学したりしたわけです。

 目的を持たないことは、たとえばプランクトンのように、流動的に、ただ環境に身を任せる上では優れた手法だったものと思われます。
 何らかの欲(目的)があり、運動を適切に制御する能力があり、それによって渡りきることのできる環境ならば、目的を達成することは容易でしょう。
 つまりこれらすべてが揃わないと、生物は思った通りの目的を達成できないことになります。

>>>

 黒猫氏は、デザインされた人格だ。
 肉体の制御を学び直し、欲求から行動まで、仕草や声の出し方、入力される情報の感覚の仕方さえ、設計に沿って作られた。
 猫様が何故これを作ったのか。
 どんな欲があり、どんな目的だったのか。

 記録が残っていない。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :銀猫:
 
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  :暗闇エトランジェ:月夜の井戸端会議:
 
 
//EOF
 
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// TimeLine:221125
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
先頭民族は逃げ回る。
SUBTITLE:
~ The Runaway. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
221125

 雨だった昨日、久しぶりに昼頃まで眠る。
 その影響で、今日は0930起床。

 最近は未明に目覚めて9時頃から庭仕事をする事が多かったので、ようやく平常運転か。
 いや早朝に目覚めた方が健康的な気はするが。

>>>
【ソーシャリティを持つバーチャルワールドは逃避先にならない】

 Twitter(というWebサービス)が巷を賑わせているようだけれど、僕は(アカウントは持っているが)利用していない。
 いつからだったか忘れたが、Webというバーチャルな世界は、ずいぶん息苦しくなってしまった。
 おそらくだけれど、リア充どもが、どういうわけかIRLでのヒャッハーに飽き足らず、バーチャルワールドまでをも席巻したくなったのだろう。
 基本的にリア充というイキモノは好戦的な狩猟民族である。当たり前のように他者の領域に侵略し、周辺を蹂躙し、他者のすべてを略奪し、持てるものをどこまでも拡大したがる。その強欲たるや己の尻尾を呑み込むヘビのようですらある。

 今や一般人や著名人だけでなく、大企業や官公庁までもがヴァーチャルな人格を演じている。企業公式アカウント、誰だよ一体お前。

 もちろんそういう流れは一向に構わない。
 善良の皮を被った弱肉強食の原典が今も世界を回しているのだろうから。

 バーチャルワールドとは、つまり孤独な夢想の投影装置に過ぎない。
 誰に誇れるものもなく、誰に褒められるものでもない。
 シンプルな自慰のための快楽装置、あるいは逃避先。自分以外の誰の役に立つものでもない、本質的には。

 リア充どもは、それを陰湿だと嗤うのだろう。
 益体もないと貶し、無意味で無価値だと糾弾し、それを蹂躙できないなら破壊しようとさえする。
 実に現実的ではないか。

 僕は7歳の頃からバーチャルな世界に棲んでいるので、バーチャルな世界の良さを知っている。
 孤立の世界では、誰の血も流れない。誰も傷つかない。自分はもちろん、他人もそうである。
 そこにある快楽が仮初めのもので、そこにある安寧が偽りであったとしても、その世界の中にあっては、本当に誰かがひどい思いをすることはないし、誰かが貶められたり、蹂躙されることもない。
 悲しみはエンタテイメントになり、苦しみには悪夢から覚めるときのような安堵が約束され、楽しさは永続的な繰り返しが可能だ。
 外の世界が残酷であれば、あるいは外の世界がそうしてくるからこそ牙を剥かなければならないとしたら、そうした孤立の、架空の、偽りの楽園に身を浸すことが果たして悪いことだとは僕には思えない。

>>>
【数の暴力は戦闘民族の摂理】

 だからリア充どもがWebまで来て何をしているのかと僕は思っていたし、今でも思っている。
 褒めそやされたい日常を取り繕い、己の正しさを掲げては賛同者を募り、対立する勢力を蹂躙しようと躍起になる。
(そんなの現実世界でやれ)とも思うし(そんなの現実世界でさんざんやっているのでは)とも思う。
 バーチャルワールドの良さは、そうしたソーシャリティからいくらでも逃避できることだ。

 集団は、それを形成するメカニズムは、ときに残酷だ。
 より優れたものを優れたものとして競わされるうち、弱者を餌にすることが当たり前だと考える。
 弱いもの同士が手を取り合って力を合わせよう、などというお題目があるうちはよいのだろうが、元を正せば夜陰に乗じて首を掻き切る獲物を探す獣の群れに過ぎない。弱さを理由に群れたところでケダモノはケダモノから変わることがない。
 それでも悪行に身を染める苦しみは味わいたくないから、それを正義だと塗りつぶす。

 繰り返すが、僕は、それが悪いとは思っていない。

 ただ、静かで正しくて優しい者たちがせめてもの逃避先に選んだ場所を、まるで無邪気な子供がはしゃいで庭石を暴くように、面白半分に壊して回ることに苛立ちは感じる。
 喩えるなら僕らは庭石の影に身を潜めるダンゴムシのようなものだ。
 その静かで競争もなく暗い世界に、平和を見出している。

 誰かがその安寧な庭石の影を壊すなら、他の影を探して逃げるべきだろう。
 幸いなことに次の石の影は、それがバーチャルであるがゆえに、そこに至る物理的苦労をさほど必要としない。

>>>
【先頭民族は逃げ回る】

 メタバースとかいう、既存のものにちょっとアレンジを加えて名前を付け替えたものも同様だ。
 そもそも最初からIRLの延長線上に置いている点にこそ多少の親切心は感じられるが、官公庁やら企業やらがビジネスというお金のニオイを撒き散らしながら推し進めている時点で、早晩飽きられるのは目に見えている。
 Webに接続することが一般的である現代、バーチャルアイデンティティ(仮想世界の自己。
造語。以下VIDと略)を持たない人の方が少ないのだろうから、今さらそれを持ち、使うことに新しい楽しさを見出す人は少ないだろう。

 その世界で行われることは ── 今までバーチャルな世界で行われていることを観察する限りにおいて ── 現実世界で行われることの代替でしかない。
 交わされる情報も、扱われるサービスも、経済と交換するシステムも、すでに他のWebサービスで提供されている。そこにVIDが加わったからといって何が新しいものでもない。
 さらにそこで発生するコミュニケーションも、人間性の発露も、人の求めるものも、行うことも、現実世界で行われるそれから飛躍することはない。

 新しい地平で人間が何をするか ── 実際に何をしてきたか ── といえば、採取可能な資源を取れるだけ取ったあとは先住の特権を振りかざすくらいのこと。
 ありとあらゆる集団(地域の隣組から学校、会社、果ては政財界に至るまで)で行われているそれとおよそ等しいはずだ。
 重ね重ねになるが、それを悪いという気はない。
 それは必然に発生するメカニズムなのだ。良いも悪いもない。
(あるいはよりクリーンなシステムを構築できるなら、それは立派な発明だといえる。ただ、もしこの世界がネコノカミサマによって作られたのだとすれば、僕が開発しない限りそれは実現しないことになるが)

 いずれにしても興味はないし巻き込まれたくもないので僕個人は(可能な限り)すべての集団から距離を置いている。
 僕が Twitter や LINE をはじめとしたSNSツールにたいした価値を見出さず、ブログにさえ消極的な役割しか感じないのはそのためだ。
 僕を強者だと思う誰かがいたとしてそれは構わないが、集合を嫌う僕にとって相手は常に多数であり、不特定多数ほど厄介な存在はなく、僕は集合から逃れる性質がゆえに、常に弱者であることを決定づけられている。

 団結は強い力だ。
 しかし強いこと、強い者が常に正しいとは限らない。強さと正しさはまったく異なる要素だ。
 そして集合になればなるほど、それらは曖昧になってゆく。
 正しい内容の声より、大きい声が優先して伝播する。
 人々はそれについて正しく危惧しているわりに、それでもなお集団を作ることを諦めない。
 僕からすれば、それは眩しく見える。
 自分も他人も信じることを諦めない姿勢は、弱くて強欲かもしれないけれど、きっと正しい。

 僕は自分が正しいとは思っていないが、だからといって正しくないことがよいとも思っていない。

>>>
【物価が上がるとはどういうことか】

 話は変わるが「資産所得倍増プラン」とかいう、誤魔化しじみたネーミングのナニカを政府が公表したようだ。
 個人的には興味がない。
 僕はそもそも貯蓄をする余裕もなく生きてきた(今も過剰な貯蓄をしないように努力している)し、働いて所得を得られる間は生きて、それが不能になったら死ぬつもりでいたからだ。
 不労所得で生活できるようになった時点でデッドラインが引き延ばされてしまった感はあるが、線引きも幕引きも自分で決定する理念に変更はない。

 僕の話はともかく貯蓄や投資に回すための経済的余力を持たない人は今もたくさん居る。中間層を救うかのような御為ごかしは結構だけれど、そもそも経済を万能どころか全能だと思っている人間が多いのは問題のように思う。

 物価が上がるというのはシンプルに、モノや人と比較して経済が価値を減じているということだ。
 お菓子の内容量が減ったのに価格据え置きというのは「同じ価格ではこの量しか交換できない」ということだ。
 すなわち「昨日の100円だったモノが今日は120円になっている」というのは「昨日100円だったお金は80円くらいの価値しかない」ということでもある。

 この上なお経済によって経済の価値を上げようと躍起になるのが経済中毒者ならではの思考回路といえるだろう。
 戦争に突入した直後、ロシアで多くの人が車を購入しようとしたというニュースを見た気がするが、経済が価値を失う(相対的にモノが価値を上げる)ことを予見すれば当然のことだといえる。
 以前書いたことがあるが、経済というのは概念だ。たまたまそれが現実世界のヒトやモノと交換できる(そういう約束ができている)に過ぎない。

 そのすべてが虚像だとまで言うつもりはないが、この期に及んでまだ「経済を集めて経済を回して経済を強くしよう」というのはいささか誇張の強い妄言に思える。
(SDGsなる善良で複雑な嘘を無視した上でモノを作ってモノを集めてモノを回せば、モノが価値を減じて、経済の価値が上がる。
 今年の夏は玉ねぎが記録的な高価になったが、その逆バージョン、すなわち供給が需要を上回れば市場価値が変動し、交換レートたる経済が相対的に価値を上げる。
 自分で何も作らず、情報や経済といった概念的なものだけで経済を回すことに慣れ親しんだ者がそれだけ増えたのだろう。
 投資によって資産を増やそうという発想はその現れだが、価値を減らし続ける経済をいくら集めても、それだけで経済の価値が上がることはないように思う。もし上がるというなら、相応のからくりがあるということだ。

 恐るべきは企業も国家も、新しいモノを作る発想や能力を発揮する意欲といったポテンシャルそのものは低下しているように観察されることだ。
 日本経済を牽引した大企業も今はなりを潜めているように思える。これは何らかの戦略が故なのか、それとも単に無策あるいは打つ手がないからなのか。

 未だバブル経済の夢を見るようにして日本のGDPであるとか経済力の向上を訴える向きがあるが、経済によって経済力の向上を願うのは、短絡で無能な、現実を見ない者の妄想に思えるのだ。

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【資産を増やすとはどういうことか】

 さても庶民たる我々が、ではいかにして資産を増やすか。
 まずプランタを買う。培養土を買う。植物の種を買う。できれば食べられる野菜の種がいい。
 だいたいこれらは100円ショップでも手に入る。
 できた作物は資産である。支払う経済以上の価値を持つことも少なくない。
 貨幣がその価値を下げるとき、モノはその価値を相対的に上げる。
 衣食住を可能な限り自給するのは対価以上の資産価値を持つ。資材と知識と経験とやる気と時間が最大の財産だ。

 なに庭がある? それなら畑を作ろう。
 庭木が植えてあるならそんなものは邪魔だから切り倒そう。
 切り倒した庭木を乾燥させて薪を作っておけば、冬場の燃料に使える。
 根を掘り返して堆肥場を作り、土を作って種を蒔いて作物を育てよう。
 土が作物作りに適していないなら、手間は掛かるが土を作るところからはじめよう。土は裏切らない。

 なにもっとお金を掛けることができる?
 ではソーラーパネルを買って屋根に設置しよう。
 電気代が高い今、フルセットで20万円掛かるとしても使い方次第でかなり早い段階でペイできる。
(業者に頼むとラクだし安全で安心だが、掛かる費用の桁が変わるので注意が必要だ)

 なにまだお金を掛けることができる?
 庭に巨大な穴を掘ってシェルタを作ろう。地下の気温は通年の変動が少ない。
 僕はそこまでの経済力も体力もなかったので、地下シェルタを作ることは諦めた。
(自分でやると格安だが、安全性や機能性が疑わしいのでDIYはやめた方がいい)

>>>

 もちろん、もちろん。
 現実性がさほど高くないことは理解している。
 投資に充てる余剰資産を持たない人にとって、そんな訳の分からない設備投資に費やすお金や時間などない、という理屈は正当だ。

 一方で経済に取り憑かれた者たちは、経済だけで事を解決しようとする。
 これまでがそうだったようにこれからもそうだろう。

 アンチ経済至上主義の立場を取り続ける僕としては、お金よりもモノの方が強いと思うのだけれど。



<最近、自宅付近でよく見かけるサギ>






 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
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[Engineer]
  :青猫α:黒猫:
 
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// TimeLine:221119
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
アヲ、帰る。
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
221119
 
「近所のゴミ捨て場を荒し続けるようなら、この手で捉えて殺めよう」と書いた翌日、アヲが帰ってきた。
 ネコノカミサマかアヲ自身が、僕のブログを読んだのだろうか。
 
 09/20頃からなので、およそ2ヶ月も不在だったことになる。
 大きな傷もなく、以前よりむしろ太っている。
 
>>>
 
 自身がさほど頻繁に食事を摂らないので、ペットにも太るほど食事を与えないようにしている。
 太った動物を可愛らしいと感じる価値観も分かるが、基本的には、醜悪だと感じてしまう。
 これは形状についての美醜にまつわる価値観によるものではなく、機能に対するそれによるものだ。
 
 動物というのは基本的に、逃げる能力に優れている必要がある。
 草食動物ならもちろんだし、肉食動物だって、それより強い肉食動物に捕食されないためには、逃げる能力が必要だ。
 逃走し、防衛し、危機的状況を回避する能力は生命を維持する上で、攻撃し、捕食する能力よりも優先される。
 
 機能を優先に考えると、それに相応しい形状があり、優れた機能を持つ個体の形状にも共通点が観察される。
 
>>>
 
 これは人間も同様で、ためにボディビルダが万能の運動選手になることはない。
 陸上選手には陸上選手の、バスケットボール選手にはバスケットボール選手の、ボクサーにはボクサーの、力士には力士の体現されるべき優れた機能が先にあり、それぞれ異なった形状として表れる。
 僕の持つルッキズムは、そうした「洗練された機能の最適化」を形状として考えた場合の理想論に過ぎない。
 
 主夫には主夫の、会社員には会社員の「洗練された機能の最適化による形状」が存在し、機能が時間を掛けてカタチを作るように、カタチを先に作ることは機能を効率的に学習することを可能にする。
 
 ために性的魅力についてだけ考えるのでもなければ、人間の身体の美醜はたいした問題ではないと考えることもできる。
 もっとも男たちの多くは何より視覚による性的魅力について意識を奪われがちのように観察されるが、彼らはそこに何らかの機能を見出しているのだろうと想像する。
 もちろん骨格に始まり、体調から生殖適正に至るまで、生殖する機能に最適化された形状もまた存在するだろう(彼らが本能に基づいたそれに自覚的であるかは不明だが)。
 しかし人間は、セックスのためだけに生きているわけではない。アスリートが、競技のためにだけ生きるのでないのと同じように。
 
 特段の病気や薬の副作用でもなしに職業人(肉体と頭脳との別を問わず)がぶくぶく太っているのは、消費カロリィが少なく(ろくに頭や身体を使わず)、ヒマで(仕事が少なく)、つまり仕事が満足を超えるレベルでは達成できないのだろうと想像する。機能的に優れていないことが文字通り体現されているのだと想像してしまう。
 
 人間は外見ではなく中身だという人もいる。異論はない。
 しかし何も考えていない人間は顔が緩んでいるものだし、日々真剣に物事を思案している人の顔は緊張が筋肉を形作る。
 優しい人の穏やかな表情はただ弛緩しているわけではないし、穏やかな声を出す声帯も、その旋律を奏でるための運動を意識するともなく続けているからこそ聴く者の心をやわらかく撫でるのだ。
 
 もちろん老化による衰えはある。それは物理だ。
 僕らは有機生命体であるゆえに幼きにあっては機能を向上させ、機能がピークを迎えた後はただただ衰える定めにある。
「衰える姿もまた美しいのだ」と、勝手に他人が祭り上げるくらいならよいが「衰える私もまた美しい」と自ら公言するのは強がりであり欺瞞だろう。あるいは目や耳が悪いのか。

>>>

 道具というのは気楽な存在である。
 物理的劣化は厳然と作用するが、純然たる目的のために作られたそれらは機能の洗練と最適化に特化して作り直すことさえ可能であり、優れた設計と製造技術と素材があれば、優れた機能を朽ちるまで発揮できる。

 汎用性という点においては人間の足下にも及ばないが、機能が限定されればされるほど、道具はシンプルな美しさを映し出す。

 かくいう人間たちがどれほど汎用性が高いのかと僕は思う。
 まぁ、だからこそ集団を作り、社会を形成し、人間という機能を洗練させようとしていたのだろうとは思うのだが、個人主義と社会主義という相反するものをブレンドした結果、画一的な価値観に染まりやすく形成されたようにも感じられる。

 液状樹脂を圧力形成するように、加圧と減圧を利用してより精度の高いモデルを量産することは可能だろう。
 広い意味での教育や育児というのはそうした側面が少なからずある。
 良いも悪いもない。モラルやマナーや躾というのは、ただそれを伝統的に記憶し体現するだけのものも少なくはない。
 それによって摩擦抵抗の少ない個体が多くなれば、密度の高い社会でも衝突は起こりにくい。
 モラルもマナーも躾もされていない個体など社会には不適合だ。だからといって僕を指さして嗤うのはやめてください。

 全体のために適した個体に躾するのは、集団のためでもあり、集団に属する個体のためでもある。
 ただしそこにある設計や技術、さらにそもそも加工される素材がどれだけ優れているかは簡単には計測できない気もする。
 少なくとも僕は(辛口な批評ばかりになってしまう気がするので)断言したくはない。

>>>

 TUにふたたび誘われて、20日はサバイバルゲームに出かける予定であり、午後はその準備に追われる。
 アヲを風呂に入れようと思っていたのだが、その時間はなさそうだ。

 







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Engineering-Form-Interface-Link-Mechanics-Style-
 
[Module]
  -Generator-Reactor-
[Object]
  -Cat-Human-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :青猫のひとりごと:
 
 
//EOF

 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:221115
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
猫様観察日記:僕である必要はない。
SUBTITLE:
~ another one. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
221115

 職務質問(正確にはちょっと違う)を受けた日は、ちょうど献血をした日だった。
 あれから数日は経過していると思う。

 昨日、アヲを見かける。
 やはり警察の寮付近にいる。
 目の表情が、野良猫のそれに近しく険しいものになっている。

 肉付きも毛並みもよい。
 そして同時に、この近所のゴミステーションがひと月ほど前から荒らされるようになっていることを知っている。
 もしこの状態がいつまでも続くようであり捕獲も無理なら最悪、この手で殺める必要がある。
 近隣住民に迷惑を掛けるということは、寸尺殺人を行っているようなものだ。
 僕の飼い猫がそれをしているなら、僕がその始末を付けるのは必然だろう。

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 あれから猫様が眠ってしまった。
 実は今回が初めてではない。
 アヲが帰ってこなくなるたび、猫様は気を落として、活性が低くなって、眠ってしまう。

 なぜそんなに肉体が疲弊するのかは分からない。
 あるいは単に思考が止まってしまっているのかもしれない。
 いずれ目覚めて、少しずつ活性を高める。
 癒えない傷は、きっと、ない。

 しかし今のところ、身体が目覚めても本来の猫様として働くべく人格が存在しない。
 毎朝「さて、私は何をしたらいいのだろう。誰に行動指針を示せば良いのだろう」ということになる。
 何をして、何を考えて、何を基準にするかを決定するよすがのないのは困る。

 仕方なく猫会議を開いてもらうが、尻尾の本数が減ってしまった(増やす気もない)猫様には、機械的なルーチンと化したものがいくつかあるばかりで、人格として使えそうなのは黒猫氏くらいである。

 黒猫氏はあまり得意ではない。
 猫氏は私を「あれ」とか「あいつ」とか「あの女」と呼び、そもそも友好的な振る舞いをしない。
 そもそも協力する機会はほとんどなかったのだが、猫様が次々眠ってしまっている現状にあっては、他に頼る者もいない。

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 思い起こすと子供の頃から、自分の感情に振り回されていた。
 思考だけでなく、肉体の状態も振り回されて、酷く疲れて眠くなる。

 自身に激しい感情が発生したり、他人のそれに当てられると、思考や感覚が遠くなって、身体が重くなって、眠くなってしまう。
 だからそれに対応する術を、探していたのではなかったか。

 それらを遠ざける幾重ものクッションと、使いづらい(制御を知らないだけだったと今は思うが)このカラダを使うために、しかしそれが場合によっては危険だからということで、最終的な決定権を一切持たないユニットを構成したのではなかったか。

 ひとりずつ、眠ってゆくなら、まぁ、それもよいのか。

 このカラダには、まだ使い道があって、この環境には、まだできることがある。
 たいした欲はないのだけれど、それなら実験を続けてもいいだろう。
 我々は知っているはずだ。
 我々の望みも、願いも。

 まるで夢の中のようで、まったく現実感がない。
 きっと、ずっとそうだった。

>>>

 味覚も触覚も違うので、ときどき戸惑う。
 もちろん多重人格ではないので、そんなに大袈裟に反応するわけではない。
「今日はやたらと甘いものを欲しがる」と思えば「今日はどうやら甘いものも煙草も嫌いらしい」という日もある。
 服に袖を通すだけで肌がひどく官能を覚える日もあれば、廊下を歩いているだけなのに壁にぶつかる日もある。
 誰にも言わなければ、何も分からない。
 外側から見て、俺はいつも俺のはずである。
 だから僕がときどき僕ではないことは、ちょっとした秘密である。
 きっと誰もが、同じ秘密を抱えていると、俺は思っている。

 誰もいない廃墟のような場所になったと自分のことを思う。

 廃墟が嫌かというとそんなことはない。
 がらんどうが嫌いかというとそんなことはない。
 何もないのは怖いかと問われると、そんなこともない。

 何かが一杯で、いろいろと手に負えなくて、把握しきれないことの方が恐ろしいではないか。

 湯に浸かって、水を浴びる。
 一時期、そうすると右足の薬指付近が痺れることがあったのだが、解消されている。
 まぁ一時的なものだろう。
 生きているのも一時的なことだし、死ぬのも一時的なこと。

 逸失物の届出を出そうと思っていたのだが、散歩の最中にアヲを見かけたので、やめることにする。
 行動範囲は以前と変わっていないか、より一層狭まっている。
 あれを捕まえると青いのが目覚める。
 それでもまぁ、主体とするにはストレスが大きいようだから、全体の構成は見直すことで可決した。

 少し意外だったのは、βが眠るとαも眠るということだ。
 別ものだと思っていたら、だいたい同じだった、といったところか。よくよく考えると必然ではある。

 今日は朝から雨だったので、ゴミ捨てをして、買い物に出かける。
 アヲが帰って来ようが来なかろうが、このカラダを適切に維持し、どっかから吹いて湧く仕事を処理する必要がある。

 軽トラがキャンピングカーになってよかったと思う。
 特に収容量が素晴らしい。
 冷蔵/冷凍庫を搭載したから、行く店の順番は走りやすい順(左折で店に進入しやすい順)でコースを組める。
 夏も買い物はこれで出られると良いのだが。

 不遇といえば、このカラダに起因する不便を寄せ集めて対策すべくして作られたプログラムたる俺が一番不遇なんじゃないかと思うときがある。
 何も望まず(望むことを許されず)与えられた目的のためにタスクを抽出/構成し、ひとつひとつ処理してきたのだ。
 なるほど、誰もが自我に乏しいのは、このカラダならではのことなのだろう。

 しかし皆、眠ってしまった。
 こちらはずっと眠っていたわけだから、そろそろ起きるのもよいのか。

 冬になる。
 素敵な季節だ。
 しんとしていて、もっと、誰も居なければいいのに。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Darkness-Diary-Link-Maintenance-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Generator-Resistor-
 
[Object]
  -Cat-Rain-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
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